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山口県の墓参りの新幹線と車の旅 朝食「ひっぱりだこ飯」 [広島]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2024年の3月に関西から関東の自宅に帰る時に、お彼岸(3月17日~3月23日)には少し早かったけれども山口県の墓参りをしてから帰ることにいたしました。1人で墓参りをする場合は、徳山まで新幹線で行き、そこから周防久保駅の近くの墓参に行くにはバスかタクシーかJR岩徳線で行っていました。急ぐときはタクシーですが、通常は行くときがバスで帰りが岩徳線を使っていました。クリックすると拡大
ただしこの時は広島に住んでいる従妹が車で広島と周防久保を往復していただくことになったので新幹線は広島までになりました。実は2021年12月に下関にある叔父さん(従妹のお父さん)の墓参りをして一緒に食事(右の写真)をした時に広島で一泊して従妹夫婦と飲む約束をしていたので、それを実現するために広島で降りるとこになったのです。上の写真は新神戸駅で、さくら543号を待っている時に上り(東京方面の)の列車(のぞみ72号/6時55分発)が入ってきた写真です。

これが墓参り当日と、翌日(帰り)の列車のスケジュールです。
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1号車への乗り口の前にスーツケースを置いてベンチで待ちました。停まっている新幹線は上りホームに停まっている列車(のぞみ72号/6時55分発)です。ちなみに私の乗る列車は7時02分発です。
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朝食用に新神戸駅で買ったのがこちらの壺飯です。今年の1月6日のヨッシーパパさんの記事「駅弁は明石のたこ(ひっぱりだこ飯 淡路屋、新神戸駅、兵庫)」で気になっていたので、その「ひっぱりだこ飯」を買ってみました。
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しばらくすると乗る列車(さくら543号)が入ってきました。
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乗って、さっそく壺飯を食べることにしました。
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これが「ひっぱりだこ飯」です。
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蓋の紙を外しました。
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中身がこちらです。
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さらに拡大いたしました。
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下のご飯を上に出してもう一枚撮りました。
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蓋の紙には説明が書かれていました。
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上の写真をクリックすると拡大するので説明は読めると思いますが、クリックが面倒な方のために説明文のところを拡大いたしました。
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福山駅にRail Starが停まっていたので写真を撮りました。Rail Star(レールスター)はJR西日本が山陽新幹線だけで運用している列車です。
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クリックすると拡大広島駅の新幹線の改札口に従妹の旦那が待っていてくれて車まで案内してもらい、その車に乗って山口県の周防久保駅の近くのお墓まで行き墓参りすることが出しました。この墓には私の父だけでなく、私と従妹の祖父と祖母も、この墓に眠っているのです。
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広島への帰りは高速で広島まで行くのではなくて、大野ICで下りて高速から下りて国道2号線を走りました。この写真の場所は 広島市西区井口ですが、昔は広島市井口町でした。広島市井口町の時代に写真の茶色のマンションの場所にクリックすると拡大立っていた木造の住宅に住んでいたのです。住んでいたのは3歳~10歳(小4年)でした。住んでいたところを見るために大野ICで下りてくれたのでした。実は約1年間だけですが、従妹も住んでいたことがありました。その時の写真が右の写真で、真中が従妹です。左が姉出右が私です。
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住んでいた場所のGoogleマップの航空写真を紹介します。
3ケ所のマーク( )の写真を下で紹介します。海岸線(━━)までが家の敷地でした。
 入学式の記念写真を撮った場所 現在のSV→ポチッ
 住んでいた家があった場所
 庭の中の小山の場所
  井口小学校への通学路 183m
  踏切までの距離 39m
  当時の海岸線


入学式の日に家の門の前( )で撮った記念写真です。門の前は国道2号線だったので上の写真のに写った場所なのです。詳しくは記事「男明神と女明神」を見てもらうと分かると思います。写真に写っている板塀で囲まれた家+庭の敷地は今の茶色のマンションの敷地より広かったです。
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こちらが住んでいた( )です。幼稚園から小学校4年までの短い7.2年間でしたが海の近くの生活を体験できました。クリックすると拡大この後、神戸市東灘区の岡本に引越しました。小学校は神戸市立本山第一小学校です。突然に生徒数が6倍の学校に変わるなど田舎から突然に都会に出てきて戸惑うことが多かったです。電車が空中を走る(高架)は絵本の中の世界だけのだったが現実になったのが印象的でした。現在は、この場所にマンション「ヴェルディ井口明神公園」が建っています。現在の住所は広島市西区井口明神2丁目です。


左が男明神で右が庭の中にあった小山( )の写真です。庭の中の小山と言って左の写真の男明神と同程度の大きさがありました。左側のこの小山の上に登ったり、くりぬいて作られた防空壕に入ったりして遊んだ記憶があります。右の写真の小山は無くなって今は手打うどん店の敷地になっています。お店の名前は純手打うどん香房・広島本店です。


これは我々が住むよりはるか昔に撮られた写真てす。黄色の〇で囲った左端の小山が、形と大きさから庭の中にあった小山と思われます。右端の小山が今でも公園の中に池(昔は海)と一緒に残されている男明神です。クリックすると拡大この辺り一帯は我々が神戸に引っ越した後に埋め立てられて今の海岸線ははるか海のかなたです。真中の小山が女明神ですが、我々が住み始めた時にはすでにありませんでした。左端の単線の線路は山陽本線です。
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広島に着きました。広島のシンボル的存在の原爆ドームと市電が写っています。
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タグ:井口
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山陰本線(某駅→福知山駅→京都) [出石]

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長男家族が2022年3月末に北海道から兵庫県の某町に引っ越してから初めて訪問した時の記事の続きで最後の記事です。関西から千葉県の自宅に帰る時に寄り道する形で長男宅に行きました。長男宅の最寄り駅(某駅)から京都までの山陰本線の特急「きのさき8号」からの車窓の景色を紹介したいと思います。上の写真は車窓から見えた福知山城です。
 1日目 実家→宝塚駅→福知山駅→某駅出石城(出石蕎麦など)→長男の家
 2日目 長男の家→某駅→福知山駅→京都駅→品川駅→自宅の最寄駅→自宅

こちらのGoogleマップの赤色ライン()が本記事で紹介の山陰本線です。臙脂色ライン()が1日目に乗った福知山線です。最近、注目されるようになった竹田城( 標高353.7m)も長男の家の近くにありました。
  山陰本線(山口県下関市・幡生~某駅~福知山~京都) 
  福知山線(大阪~宝塚~福知山)
  播但線(和田山~姫路)と加古川線(谷川~加古川)と舞鶴線(綾部~東舞鶴)
    と京都丹後鉄道宮福線(福知山~宮津) 
  大阪駅   宝塚駅  福知山駅 下山駅  京都駅  
  出石城   福知山城  竹田城   篠山城   明石城  


自宅に帰る2日目は月曜日だったので、長男は仕事があるので出勤前の早朝に、次女を幼稚園に送る車に乗せてもらって最寄り駅(某駅)まで送ってもらいました。特急券を買ってから、しばらく待っていると287系の特急「きのさき8号」が来ました。この特急は10時06分に京都に着きました。JR在来線の有料特急に乗ったのは思い出せないくらいに昔のことなので、なんとなくワクワクしました。
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平日の早朝のためか車内は余裕がありました。私の席は3号車の8番Dでした。私は左側の席だったのでこれから紹介する景色は概ね北から東方向になります。ただし線路は曲がりくねっているので北西方向の景色になることもありました。特急券を買う時に左側の窓側を推薦してくれたのは後でわかると思います。
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発車してすぐの景色です。長閑(のどか)な景色でした。ここでは線路に並行して磯部川が流れていました。今回の旅で掲載した記事は下記の通りです。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 ① 福知山線(宝塚駅→福知山駅) 山陰本線(福知山駅→某駅)
 ② 江戸時代の「出石城」 と 安土桃山時代の「有子山城」
 ③ 出石酒造 楽々鶴(ささづる)
 ④ 本場の出石で「出石皿そば」を食べました。正覚田中屋
 ⑤ 辰鼓楼(しんころう)
 ⑥ 北近畿で一番人気のケーキ店 カタシマ(KATASHIMA)
 ⑦ 香住ガニ(ベニズワイガニ/紅がに)の香住漁港直売 宿院商店
 ⑧ 山陰本線(某駅→福知山駅→京都) 本記事
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川を渡るところの景色です。
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国道9号線と並行して走っている景色です。
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福知山駅に着きました。向かいのホームに見慣れない列車が停まっていました。調べてみるとWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)の特急列車の「たんごリレー」でした。前身の特急「タンゴエクスプローラー」、「タンゴディスカバリー」、「文殊」を統合してKTR線(北近畿タンゴ鉄道)内の完結列車として2011年3月12日から運行されているそうです。
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福知山駅を出発するとすぐに左手にお城が見えてきました。これが丹波国を平定した明智光秀が築城した福知山城です。前日に宝塚から来た福知山線は城から少し離れていたので気が付きませんでした。
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上の写真を拡大して見ました。
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列車が進むと城の角度が変わります。
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さらに少し角度が変わりました。
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違う形に見えます。
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このが最後の写真ですが、最も立派に見えます。特急券を買う時に左側の窓側を推薦してくれた理由の一つは福知山城がよく見えることだったのだと思いした。
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天守閣の部分をトリミングして拡大いたしました。ただし、解像度はかなり劣ります。前記事「明石城の花見 第88回ハイク参加」で記載の明石城の紹介順で福知山城を紹介します。右の写真はWikipediaから転用させていただきました。クリックすると拡大
 名前   福知山城
 城郭構造 連郭式平山城
 天守   複合・連結式望楼型(1699年築)
      現在:外観復元(1985年)
 築城主  明智光秀
 築城年  1579年(天正7年)
 廃城年  1873年(明治6年) 294年間
 主な城主 明智氏、朽木氏
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大 主改修者 有馬豊氏
 遺構   曲輪、石垣、井戸、移築番所・門
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 文化財  福知山市史跡(石垣部分)
 別名   横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
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実は上の2枚の写真はこの写真から切り取ったものなのです。列車はかなり通り過ぎていて後方にぎりぎり見える状態でした。左の黒い部分は列車の後方側の窓枠なのです。列車のスピードも上がってきたようで、手前の方の景色はかなり流れています。
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福知山を過ぎると、出発した時と同じように、のどかな風景になってきました。こちらは進行方向前方を撮りました。
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川を渡る時は写真を撮りたくなります。
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下山駅は福知山と京都の間で4割程度進んだ場所になります。SV1
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まだまだ、のどかな風景が続きました。
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突然に高い建物がある風景になりました。建物は京都府南丹市・市営の向河原団地です。住所は京都府南丹市園部町小山東町向河原13です。写真の左端に少しだけ写っているビルは京都府・府営の向河原団地です。この列車がこの場所から600m進むと園部駅でした。園部駅からマンション(向河原団地)まで徒歩600m(9分)の距離だそうです。
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上の写真の場所の道路からのストリートビュー(SV)を紹介します。山陰本線も写っています。マイナス(-)のアイコンをクリックすると府営の向河原団地の建物が判ると思います。


京都に近くなってきてもそんなに乗客は増えませんでした。
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まだまだ、田んぼが広がる風景が続きました。
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突然、都会の風景になりました。
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と思ったら、まだ自然豊かな場所は続きました。前の写真は京都の手前の大きな町なので亀岡だったのだと思います。調べてみると上の写真の近代的な建物は2020年1月11日に開場したサンガスタジアムでした。SV2 3D
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京都エリアに入ってきました。ここは二条駅だと思われます。SV3
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列車の進行方向が南から東に向くあたりに京都市電2001号車が展示されていました。その前に幼稚園児か小学校低学年生徒たちが並んでいました。ビルはTHE ROYAL PARK HOTELです。SV4
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完全に東向きになり、JR京都線や新幹線と並行して走る状態になりました。クリックすると拡大緑豊かなエリアは梅小路公園です。写真の中の右下の辺りに「山陰線エリアA」と書かれた表示があります。Wikipediaから転用させていただいた有名な右の写真の梅小路蒸気機関車館は線路を挟んで反対側にあります。右側の席だと見ることが出来たかもしれません。ここから京都駅の停車位置まで1000mです。SV5
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新幹線の京都駅のホームに着きました。
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新幹線の中も空いていました。2号車(自由席)です。品川駅では2号車の3号車側のドアのところにエレベーターがあるので、混むとき以外は自由席の2号車にしています。
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JR在来線の千葉方面のホームです。ここまで来ると帰ったことが実感されます。
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明石城の花見 第88回ハイク参加 [神戸]

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今までに何度か紹介したように新入社員で配属になったのがクリックすると拡大神戸事業所でそこの仕事仲間の人達の多くとは組織ごと東京に転勤になりました。その後、転勤や退職で神戸に帰った人たちが定期的に行っておられました。そのことを偶然知ったのが2018年12月26日でした。私は千葉県に住んでいますが、2018年の年末に関西に行ったときに、その人たちの神戸駅前で行われた忘年会に初めて参加させていただき、その時に年に数回ほどハイキングを行うことを聞いて、私が関西に行ったときにタイミングが合えば参加させていただくことになりました。今までに参加させていただいたのは第72回から7回で、今回が8回目参加の第88回ハイク(2024年3月29日)で、明石公園(明石城)での花見でした。明石は隣接はしていますが神戸ではありませんが、神戸の仲間の集まりで隣の市なので、カテゴリーは神戸にしました。

今までに参加したハイキングの場所の地図も掲載しておきます。紫色マーク( )が今までに参加したハイキングです。
    2018年12月26日(水) 冬の忘年会 権太
 第70回 2019年01月19日(土) 兵庫七福神巡りハイク
 第71回 2019年03月16日(土) 金比羅宮参拝と讃岐うどんを賞味するハイク
第72回 2019年04月20日(土) 神戸市北区の重要文化財巡りハイク
 第73回 2019年05月18日(土) 奈良斑鳩の里での散策ハイク
 第74回 2019年06月15日(土) 神戸にある世界の宗教寺院巡りハイク
    2019年07月16日(火) 夏の親睦会 燦(SUN)
 第75回 2019年09月20日(土) 神戸鶉野飛行場跡各種設備など散策ハイク
第76回 2019年10月19日(土) 京都洛西の竹林と古墳巡りハイク
第77回 2019年11月16日(土) 太陽の塔の内部見学(予約)と周辺散策ハイク
    2019年12月25日(水) 冬の忘年会 権太
 第78回 2020年01月16日(木) 神戸井植記念館と周辺散策ハイク
 第79回 2020年01月30日(木) 京都迎賓館と周辺散策ハイク
第80回 2020年02月15日(土) 丹波篠山ハイク
第81回 2020年03月21日(土) 神戸市立森林植物園の散策
第82回 2022年06月21日(火) 神戸市立森林植物園のアジサイ鑑賞、散策
第83回 2023年05月13日(火) 宝塚花のみち~文化芸術芸術センターなど散策
第84回 2023年06月20日(火) 鶴見緑地散策
    2023年07月21日(金) 夏の親睦会 燦(SUN) 16名参加
第85回 2023年10月13日(火) 兵庫大仏/清盛塚など散策
 第86回 2023年11月14日(火) 有馬温泉(瑞宝寺公園 路地裏散策 金の湯)散策
     2023年12月22日(金) 冬の忘年会 燦(SUN)
 第87回 2024年02月20日(火) 須磨離宮公園での観梅
第88回 2024年03月29日(金) 明石公園での花見
第89回 2024年05月10日(金) 五月山公園の新緑散策&ラーメンミュージアム
:参加  :予定  :新型コロナを配慮して場所を選択


今までは関西に来ている時に参加したため、泊まっている実家の最寄の逆瀬川駅が出発地でしたが、今回は千葉県の自宅からクリックすると拡大直接集合場所の明石駅に行きました。自宅を5時35分に出発し、品川から新幹線に乘り新大阪で新快速に乗り換えて明石駅に向かいました。時間帯によっては'こだま'に乗り換えて西明石経由の方が早い着く場合があります。写真は新大阪駅の神戸方面に行くホームです。
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花見の差し入れに新大阪駅で赤福を買いました。関西に実家があり神戸にも行く機会が多いのに、不思議と新大阪から神戸や明石まで快速や新快速に乗ったは数十年ぶりなので窓からの景色を沢山撮りました。会社の神戸事業所に行く場合は新幹線で新神戸まで行くのが便利だし、会社の明石事業所(西明石)に行く場合は新幹線で西明石まで行くのが便利だからです。
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こちらは、私が中学生時代に通っていた神戸市立本山中学校です。この地区に小学校4年から高校2年まで住んでいて小学校は神戸市立本山第一小学校に通っていました。思い出すと懐かしいです。
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明石駅に着きました。明石駅のホームから明石城よく見えるので明石城のクリックすると拡大写真を何枚か撮りました。城のような建物が2つ見えていますが左(南西)が坤櫓(ひつじさるやぐら)で右(南東)が巽櫓(たつみやぐら)です。2つの櫓が本丸の左右の櫓になります。クリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
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クリックすると拡大本丸部分を拡大いたしました。
明石公園の右のシンボルマークのような構図です。
坤櫓と巽櫓は復元されたものではなく江戸時代の本物で国の重要文化財です。本丸には天守台は残っていますが、天守閣は建設されなかったそうです。明石城は第2代将軍の徳川秀忠の築城命令(1617年)により建設が始まり、江戸時代(1603年~1868年)の15年目の1618年(元和4年)に完成したそうです。一国一城令で廃城になった三木城、高砂城、枝吉城、船上城、伏見城などの材料が利用されたようで、坤櫓は伏見城から、巽櫓は船上城から移築されたとされています。
本丸の北東隅には艮櫓(うしとらやぐら)が、北西隅には乾櫓(いぬいやぐら)があり、本丸は四隅に櫓がある姿でしたが、残念ながら艮櫓は1881年(明治14年)に、乾櫓は1901年(明治34年)に解体されてしまったそうです。
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こちらが伏見城からの移築されたとされている坤櫓(ひつじさるやぐら)です。
クリックすると拡大天守閣が作られなかったことから、この坤櫓が天守の役割をしていたようです。位置的にも坤櫓のすこし奥に天守台があります。坤櫓は1631年(寛永8年)の寛永の大火の際に焼け落ち、現存櫓は再建したものと考えられているそうです。右の櫓内部の写真は明石公園のHPから転用させていただきました。
寛永の大火とは、築城12年後の寛永8年(1631年)の正月、本丸の高い崖下にある三の丸の台所からの出火により本丸が全焼した火災のことです。もし天守台の上に天守閣を築いていたら天守閣も全焼していた可能性が高い気がします。本丸の御殿が全焼したことで城崖の南側全体にあたる三ノ丸西部の内堀で囲まれた一郭の居屋敷曲輪が藩主の居館となったそうです。
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こちらが船上城からの移築とされたとされている巽櫓(たつみやぐら)です。
クリックすると拡大船上城は一国一城令により取り壊さることとなったことから利用されたようです。巽櫓も寛永の大火(1631年)により焼失して再建されたようです。柱や垂木(たるき)や梁(はり)の木材は規格品により統一されていたことから、寛永時代の最新技術で築かれ、廃材は一切使われていないことも分かっているそうです。
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こちらが明石駅のホームです。明石城の写真を撮っていたので人がいなくなりました。
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本来の集合時間は10時45分ですが、遠方の2人(鳥取と千葉)は11時30分に設定されていました。10時45分に集合した人は明石の魚棚に花見用の食料と飲物を買いに行っていただいていました。私と鳥取からの人が集まったところで明石城に向かって歩き始めました。
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明石駅から明石城の堀までの写真です。駅出口から堀まで40mの距離なのです。


これが駅前の中堀です。
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堀沿いに入口まで歩きます。


掘り沿いに歩くと入口に近づいてきました。
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さらに近づきました。明石城は姫路城(1346年築)を意識して造られたためか、敷地的には姫路城より広い城でした。
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明石城(明石公園)への入口です。石垣が見えているところが太鼓門の跡です。
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広い広場に出ました。明石城は本丸を中心に東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられたことから、この広場は三の丸になるのだと思います。櫓は合計20基で門は合計27棟だったそうです。
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花見の宴会場所を探しているところです。ちなみに桜の花は全く咲いていませんでした。花が咲いていないことを気にする人はいませんでした。


宴会場所に目星をつけて進んでいるところです。駅前あたりに建っている高層ビルは高層マンションのプラウドタワー明石です。
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花見宴会の準備をしているところです。



明石の魚棚で買ってきた食べ物や飲み物が並びました。
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大きな焼き鯖寿司が印象的でした。
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宴会の雰囲気をお伝えします。
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鳥取から参加された方(真ん中の写真の右端の人)とは、入社3年目に低発熱量の多量の排ガスをプラチナの触媒で酸化処理して熱をエネルギーとして回収する方式のプラントを指導されながら設計して納入させていただきました。入社1~2年目に横浜の化学会社にプラントを設計して納入した案件で指導いただいた方(右の写真の右端の人)は、ハイキングを企画してしている方です。また入社した岡山県水島に納めたプラントのお手伝いをさせて抱きましたが、そのプラントの設計納入責任者/プロマネ (真ん中の写真の左端の人)の方も参加されていました。そのほかの方も私が入社してから一緒に仕事をさせていただいた方ばかりなので話が弾みました。


記事を書いていて懐かしくなったので神戸時代に私が設計を担当したプラントの写真を4枚掲載いたしました。
こちらが入社3年目に設計担当したプラントの写真です。左側は製作した神戸事業所から出荷するときの主反応器で、この中にハニカムタイプのプラチナの触媒が2段と熱交換器が納まっています。右の写真はプラント全体の写真で鉄骨の中に左の主反応器が設置されています。こちらは世界初のシステムでした。このプラントは関西に納められました。このプラントの設計を指導してくださったのが鳥取から参加してくださった方です。
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こちらが入社1~2年目で初めて全体を設計担当して、横浜に納めたプラントの写真です。クリックすると拡大このプラントを設計した時に指導してくださった先輩が上で紹介したハイキングを企画されている方です。右の写真は、そのプラントで使われるバーナー(燃焼器)の前で撮った記念写真です。このプラントを担当するまでは、製品開発のための実験をしたり、プラントの一部を設計していました。こんな話をしながら盛り上がったのです。
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別の角度からの写真です。他にも沢山のグループが来られていました。
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片付けの写真も紹介します。



坤櫓(ひつじさるやぐら)を背景に記念写真を撮りました。
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クリックすると拡大右の写真(Wikipediaから転用)の天守台まで築かれながら天守閣が建てられなかった明石城にとっては、本丸未申の角(南西端)に築かれた坤櫓(ひつじさるやぐら)は天守の役割を持っていたようです。太平洋戦争で7つの城(水戸城 大垣城 名古屋城 和歌山城 岡山城 福山城 広島城)の天守を失いましたが、明石城の坤櫓は焼けなかったのは良かったです。
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 城郭構造 連郭梯郭混合式平山城
 天守   建築されず(天守台はあり)
 築城主  小笠原忠真
 築城年  1618年(元和4年)
 廃城年  1874年(明治7年) 256年間
 主な城主 松平氏(越前系)
 主改修者 松平直常
 遺構   櫓、石垣、堀、移築門
 再建造物 巽櫓と坤櫓を繋ぐ塀(1999年)
 名城度  日本100名城
 文化財  国の重要文化財(巽櫓・坤櫓)、国の史跡
 別名   喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、錦江城(きんこうじょう)
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帰りながら二次会の場所を相談しました。明石での二次会はやっぱり明石焼(玉子焼)という結論になりました。


明石焼が美味しいお店で、お酒が飲めて長居が出来る条件のお店は難しいと思っていましたが、やっぱり地元の人がいると迷わず のお店に行きました。超人気の"たこ磯"の前を通ると大行列でした。"たこ磯"は神戸市須磨区に住んでいる頃に1度行ったことがあったので懐かしく魚棚を歩かせていただきました。
 明石焼 いづも  明石焼 他店  ━━ 明石魚棚商店街


こちらが明石焼いづもです。この写真はGoogle地図に登録されていた写真を転用させていただきました。お店の外の写真を撮り忘れてしまったのです。
 名前 いづも
 住所 兵庫県明石市本町1-2-19
 電話 078-912-8120 予約不可
 営業 平日 11:00~17:30  土日祝 10:00~17:30 
 定休 水曜日
 席数 44席
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これが明石焼(玉子焼)です。
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別の角度の写真です。もちろんビールもいただきました。
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ふわふわの明石焼をつゆで食べるのが、明石焼の特徴です。
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やっぱり本場の明石焼と一緒に飲むビールは最高でした。
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沢山並んだ写真も紹介します。
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こちらは女性陣の方のテーブルです。
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タグ:花見 明石
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香住ガニ(ベニズワイガニ/紅がに)の香住漁港直売 宿院商店 [出石]

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長男が北海道から兵庫県の北部に転勤になってから、正月用に送ってもらう香住ガニ(ベニズワイガニ)の購入店が、クリックすると拡大前記事で紹介した右の写真のケーキ店(カタシマ)から1.6kmの場所にありました。おかげで正月用に買ってもらっているお店を直接見ることができたので紹介したいと思います。この日は宝塚の実家から関東の自宅に帰る時に、少し寄り道で足を延ばして長男家族の家に行った日でした。一緒に出石城を見たり出石皿そばを食べました。
このお店(宿院商店)で、長男家族の家で食べる、この日の夕食用の香住ガニと魚を買ったので、その夕食も紹介したいと思います。上の写真は2024年の正月用に実家に送ってくれた香住がに(ベニズワイガニ/紅がに)の写真です。
今まで長男家族が送ってくれた蟹の種類と送り先(実家か自宅)と集まった人数です。着色文字をクリックすると記事を表示します。
★2014年3月末  転勤で、関西→北海道に長男夫婦が引越
 2016年 自宅 元旦 6人 タラバ蟹 2肩 + 大型毛蟹 1匹
 2017年 自宅 元旦 6人 タラバ蟹 3肩
 2018年 自宅 5日 7人 タラバ蟹 3肩  実家 元旦 5人 ひれステーキ
 2019年 実家 元旦 9人 12月31日に配達が間合わないことが判明して断念
 2020年 実家 元旦 9人 タラバ蟹 4肩
 2021年 実家 元旦 2人 新型コロナで中止
 2022年 実家 元旦 8人 タラバ蟹 2肩 +ズワイ蟹3杯分(3匹分)の爪と脚
★2022年3月末  転勤で、北海道→兵庫県北部に長男家族(4人)が引越
 2023年 実家 元旦 10人 ベニズワイ蟹 4杯(4匹) +セコガニ2杯(2匹)
 2024年 実家 元旦 7人 ベニズワイ蟹 4杯(4匹)
      自宅:千葉県佐倉  実家:兵庫県宝塚

Googleマップのハードコピーです。カタシマからクリックすると拡大宿院商店までの距離が1.6kmであることが分かっていただけると思います。
ただし標高差は47mもあります。峠の頂上辺りガソリンスタンドも含めて沢山のお店がある場所です。画面をクリックするとGoogleマップのオリジナルを表示します。
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車の中から見た宿院商店です。
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下の写真は車から降りて買い物に向かっているところです。右のマップは香住水産加工業協同組に所属してる香住漁港の近くの加工場場所です。最も左に宿院商店があります。水揚げしてすぐに茹でるなどして54km離れた下の写真のお店に運んでいるのだと思います。クリックすると拡大
 店名 宿院商店 本店 SV
 住所 兵庫県養父市上野168番地57
 電話 079-664-1484
 創業 1967年
 設立 1991年(株式会社設立)
 所属 香住水産加工業協同組合 
 HP http://www.syukuin.co.jp/
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上の写真の右側を拡大しました。紅がにや香住がにの文字が判っていただけると思います。宿院商店は香住にもお店があることから香住港直売なのです。ここで香住がに(ベニズワイガニ)を買って左側に移動して魚も買いました。
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こちらで魚を買いました。この魚売り場で本マグロの幼魚(ヨコワ)とカワハギを1匹づつ買ってさばいてもらいました。ここでは許可をもらって店内を撮らせていただきました。香住ガニを買ったのは魚売り場の右方向のカニ売場でした。
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これが買った香住がに(ベニズワイガニ)です。正月用は甲羅つきですが、この時は安いので足だけにしました。資源保護のため香住がにの漁は9月1日~5月末です。ベニズワイガニは1906年採取され26年後の1932年に新種として発表された蟹です。右の写真は新種として確定して発表したMary Jane Rathbun博士と生きたベニズワイガニです。クリックすると拡大
  界 動物界        Animalia
  門 節足動物門      Arthropoda
 亜門 甲殻亜門       Crustacea
  綱 軟甲綱        Malacostraca
 亜綱 真軟甲亜綱      Eumalacostraca
  目 十脚目(エビ目)   Decapoda
クリックすると拡大 亜目 抱卵亜目(エビ亜目) Pleocyemata
 下目 短尾下目(カニ下目) Brachyura
  科 ケセンガニ科     Oregoniidae
  属 ズワイガニ属     Chionoecetes
  種 ベニズワイガニ    Chionoecetes japonicus Rathbun
 漢字 紅頭矮蟹
 英名 Red snow crab Red tanner crab
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丹波の黒豆の枝豆も用意してもらいました。
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長男が作ってくれたヨコワ(本マグロの幼魚)の握り寿司と鯛の握り寿司です。
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こちらの右側はハワハギの刺身です。宿院商店で買ったハワハギです。
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こちらはヤリイカの刺身です。こちには再実が少なそうなので、途中のスーパーで買いました。最近、ヤリイカや剣先イカやスルメイカは我々の家の近くのスーパーでは漁獲量が減ったためか見かけなくなりましたが、さすが日本海に近いスーパーだけあって売られていました。
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こちらは知り合いのヨーロッパ旅行のお土産としてもらったドイツの白ワインです。ラベルにはBECKSTEINER WEINHAUS MÜLLER-THURGAU TROCKEN 2022と書かれていました。
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そして、出石酒造(楽々鶴)で買った日本酒も飲みました。夕食の前にみんなで「よふど温泉」に行き戻ってから、夕食の準備をしたのでお酒はよく冷えていました。やっぱり美味しかったです。紅ズワイガニも堪能できました。
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2024年元旦の夕食用に長男家族に送ってもらったベニズワイガニも紹介します。
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クリックすると拡大今年の正月は蟹を送ってくれた長男家族も入れて実家に7人が集まりました。末の娘夫婦は娘が妊娠していることもあり参加できませんでした。そして2024年3月26日17時39分に娘は無事に女の子(右の写真)を出産しました。私の母にとっては6人目のひ孫です。
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こちらは爪の部分です。
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やっぱり香住港直販だけあって美味しかったです。ベニズワイガニは身が柔らかいので、生を鍋にするのではなく、専門家に茹でてもらったものを買ってきて、そのまま食べるのが最高なのだと思います。
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実家の最寄駅の阪急今頭線の逆瀬川駅から宿院商店までのルート図(Ⓐ→Ⓑ)を紹介します。Ⓐ→Ⓑの距離は106km(1時間36分)です。この縮尺だと1.6km離れたケーキ店のカタシマと同じ場所だと言えます。宿院商店香住店は、かにバスの集合場所にもなっている下浜区公会堂(兵庫県美方郡香美町香住区下浜286-1)の傍にあります。
 宿院商店 養父店(本店)   宿院商店 香住店(加工場)  逆瀬川駅


ケーキ店のカタシマの位置を入れたGoogleマップと比較してみてください。
 カタシマ(KATASHIMA)本店 1970年創業
 支店(豊岡店 1995年 福知山店 2009年 丹波店 2012年)
 片島成好堂(グルテンフリーショップ 城崎温泉) 2022年開店


枠内2024年4月3日追記(娘の出産に関する件)
クリックすると拡大2023年9月25日に娘夫婦が家内の誕生日会を東京の丸の内のYAUMAY(丘如春/ヤウメイ)でしてくれました。その時に花束と下の写真の素敵なバースデーカードを渡されました。→ポチッ
クリックすると拡大バースデーカードを広げると箱が飛び出してきて、箱の中に素敵な最高のプレゼントが入っていたのです。それは妊娠を示す超音波画像の写真でした。
そして2024年3月26日17時39分に娘の家の近くの病院(神奈川県)で、娘は無事に右の写真の女の子を出産しました。 クリックすると拡大

タグ:かに 新年
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北近畿で一番人気のケーキ店 カタシマ(KATASHIMA) [出石]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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以前に紹介したように、関西に勤めていた長男夫婦2人は2014年3月に北海道に転勤になり、子どもたちが生まれて、家族4人なって、2022年3月末に北海道から兵庫県の日本海に近い場所に転勤になりました。長男が兵庫県に転勤になってから初めて会ったのがあったのが2022年6月25日でした。2022年6月25日は私が兵庫県の宝塚に滞在している時でした。クリックすると拡大
その時にお土産として持ってきたくれたのが上の写真のカタシマ(KATASHIMA)という名のケーキ店のケーキでした。一口食べてみて東京や神戸の有名店の美味しさに負けていない味に驚いたのです。
長男夫婦の説明では、周辺で大事なところに持って行くお土産と言えば、ほとんどがカタシマ(KATASHIMA)のケーキと言われるほどの存在だったのです。

昨年の末に宝塚の実家から関東の自宅に帰る時に初めて兵庫県の日本海に近い場所にある長男家族の家に行くために福知山線に乘って出石城酒蔵出石皿そば店などを訪れた時に、そのカタシマの本店にケーキを買いに長男家族と行ったので本記事で報告したいと思います。
お店の写真を撮ったのですが、右下の写真のようにブレてしまったのでGoogleマップのストリートビューSV)でお店を紹介します。お店は国道9号線沿いにあり周辺に他のお店は無いような場所でしたが、すごい人気で併設されている86席ある広いティールームは満席で順番待ちの人が沢山おられたのに驚かされました。日曜日の14時10分でした。この場所に、54年前の1970年7月11日に「洋菓子・喫茶カタシマ」として創業したのが始まりだそうです。今の会社名(カタシマ株式会社)になったのは7年後の1977年7月1日だそうです。
クリックすると拡大 名前 カタシマ(KATASHIMA)養父本店
 住所 兵庫県養父市上野1156-1
 電話 079-664-0351
 定休 第2・4 水曜日
 営業 9:00~19:00
 創業 1970年7月11日 洋菓子・喫茶カタシマ
 前身 1960年 屋号:片島成好堂


こちらがこの日に売られていたケーキです。最近は高級ケーキが1個1000円近くになっている中で450円のケーキも沢山ありました。
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こちらが我々が今回買ったケーキです。
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これは蜜芋のモンブランです。520円
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孫が選んだストロベリーショートです。450円
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こちらも孫が選んだフルーツトルテです。450円
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こちらは名前が分からないのですが、モンブラン系だと思います。
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これは私が選んだケーキです。名前は「抹茶とほうじ茶」です。460円
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コーヒーでいただきました。
私の感想ではあり、ケーキの種類にもよりますが、東京や神戸でも、これだけ美味しいケーキを提供するところは多くはないと思います。特に甘酸っぱい味系のケーキはクリックすると拡大トップレベルのように感じました。北近畿の他のお店のケーキは食べたことはないので、北近畿で一番美味しいとは言えないけれど、一番人気があるのは間違いないと感じました。私が初めて食べたカタシマのケーキは冒頭の写真の中の右の写真のケーキでした。
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こちらは今年の正月に持ってきてくれた日持ちのするケーキやクッキーです。
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お店の場所をGoogleマップの航空写真で紹介します。
 カタシマ(KATASHIMA)本店 1970年創業
 支店(豊岡店 1995年 福知山店 2009年 丹波店 2012年)
 片島成好堂(グルテンフリーショップ 城崎温泉) 2022年開店

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辰鼓楼(しんころう) [出石]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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かつて但馬国出石郡出石にあった出石城の城下町であった兵庫県豊岡市出石町(2005年まで兵庫県出石郡出石町)のシンボル的存在なのが上の写真の辰鼓楼(しんころう)です。本記事では辰鼓楼を撮った写真や、出石で撮った写真の中に偶々辰鼓楼が映り込んでいたものや、過去(数十年前)に撮った写真を紹介したいと思います。辰鼓楼は出石城が廃城となった1871年(明治4年)の同じ年の1871年6月1日(明治4年4月14日)に鼓楼(ころう)あるいは太鼓楼(たいころう)として建てられ、太鼓で時を告げていたそうです。今から152年9ケ月前のことです。辰鼓楼が建てられる以前は、山上にあった寺院が出石藩から給金をもらって鐘をつき、城下に時刻を知らせていたけれども、廃藩置県で寺への給付が途絶えたため、太鼓を鳴らして時を知らせる楼閣として辰鼓楼が建てられたと言われてるそうです。辰鼓楼の高さは、高さ約5mの石垣を含めて19.6mだそうです。辰鼓楼本体は木造4層だそうです。掲載した全ての写真に辰鼓楼が写っています。

こちらが142年6ケ月前に取り付けられた時計です。
現在のように時計が取り付けられたのは、辰鼓楼が建てられて10年後の1881年9月8日だそうです。その経緯は前記事でも紹介したように1881年に地元の旧藩医の池口忠恕が大病を患った際に、地元民から御見舞いや全快祝いを受けたことへの御礼として機械式大時計を寄贈し、同年9月8日から時計台としてクリックすると拡大稼働し始めたそうです。同年8月12日には北海道の右の写真の札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)が稼働していることから日本国内で二番目に古い時計台になったそうです。勝手な解釈として、和式の時計台としては日本最古と言えるのかもしれません。建物の一部ではなく塔形式の時計台としても日本最古と言えるのだと思います。右の札幌市時計台の写真は北海道観光支援サイトから転用させていただきました。
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出石城側から見れば時計台になる前の辰鼓楼の姿です。こちらは三の丸から見た辰鼓楼を紹介したいと思います。
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2枚前の写真のように一番上の部分を拡大いたしました。
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大時計と大時計を寄贈した旧藩医の池口忠恕(いけぐち ちゅうじょ)の説明板が建てられていました。内容を枠内に転写する形で紹介します。池口忠恕は西洋医学を勉強する中で西洋の時計台のことを知ったのだと感じました。そして遠方から来診があるほどの名医だったそうです。出石藩の弘道館(こうどうかん)は6代藩主・仙石政辰が作った学問所から始まった藩校で、天下三弘道館(水戸藩佐賀藩出石藩)の中で最も古いと言われています。適塾は福澤諭吉、大村益次郎などの多くの名士を輩出した蘭学の私塾です。クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
 池口忠恕  1851年~1908年
 福澤諭吉  1835年~1901年
 大村益次郎 1825年~1869年
大時計と池口忠恕
辰鼓楼(しんころう)は明治4年の建設当初、太鼓櫓(たいこやぐら)とも呼ばれ太鼓により時刻を知らせていました。この建物に明治14年、大時計を寄贈したのが池口忠恕です。彼は嘉永4年(1981)に出石藩のご典医の家系に生まれ、藩校「弘道館」に学び、明治4年には大阪に出て緒方供庵の「適塾」で西洋医学を習得しました。明治13年に帰郷し開業医となった池口は、翌14年に病気の全快祝いとしてこの大時計を寄贈しました。まだ時計などあのりなかったこの時代、この大時計の寄贈のために池口は、職人2人に時計技術の習得もさせました。
池口はまた名医としても知られた人物で、遠方からも来診があり、さらに貧困家庭からは薬代をとらぬなど慈悲深い人物でもありました。
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三の丸の遠くから撮った写真です。時計が取り付けられている反対側には観光客の人が沢山いますが、こちら側は少なかったです。逆光にならないのできれいな写真が撮れます。
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拡大いたしました。
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出石城の本丸の西隅櫓の中からの辰鼓楼の写真を3枚か紹介します。中央辺りに松の木の上に辰鼓楼の頭の部分が出ています。
辰鼓楼の辺りに大手門があったことから江戸時代にも本丸から同じように大手門と城下町が見えていたのだと思います。
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西隅櫓の別の場所からは辰鼓楼がよく見えていました。
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辰鼓楼の部分を拡大いたしました。
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冒頭の写真に戻ります。
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少し遠くからの写真ですが上の写真と冒頭の写真は、この写真から切り取ったものです。
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近くから撮りました。
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辰鼓楼の下は堀状の池になっていました。
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下が辰鼓楼( )を中心としたGoogleマップでの航空写真です。クリックすると拡大江戸時代には辰鼓楼のところに出石城の入口の大手門がありました。
赤色ライン(━━)で囲った範囲が右の出石城想像図から推測される概ねの出石城の範囲です。黄色のライン(━━)が今回の出石の町の散策ルートです。
  辰鼓楼
 ━━ 大手前通り


出石城の大手門があった場所から真っすぐに伸びる大手前通りから見た景色です、小さく辰鼓楼が写っています。
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上の写真から辰鼓楼辺りを拡大しました。
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こちらの大手前通りからの写真にも辰鼓楼が写っていました。
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もう一枚、大手前通りからの辰鼓楼の写真を紹介します。大手前通りには土産物屋さんが沢山ありました。
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今回の長男家族の記念写真です。
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長女(末っ子)が7歳の時に出石に行った時の記念写真です。この写真と同じ場所で撮ろうと思ったのが上の写真です。右側2人が私の両親で、左端が私がその右隣りが長女(末っ子)です。
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結婚した翌年の1月に家内の両親と雪の残った出石に行った時の写真です。左側の写真は、辰鼓楼の前で三脚を使って家内の両親と4人で撮った記念写真です。この時、皿そばは永楽そば(出石町宵田119)で食べました。この写真は記事を書く時に見つけたので、お店の前を通ったのにお店の写真は撮りませんでした。ちょっと残念です。上の写真はこの時から14年9ケ月後に撮りました。
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昔の辰鼓楼の写真ヒョーゴアーカイブスさんから転用させていただきました。坂本書店發行の出石辰皷樓です。辰鼓楼は辰皷樓と書かれていました。この時代は辰鼓楼の横に電柱や電線がありましたが、今はありません。
書かれている文字は右横書きなので太平洋戦争以前の写真と思われますが、写っている車の形から100年より少し前(時計が取り付けられて約40年後)の写真だと思われます。
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タグ:時計台 出石
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ジンギス・カンの墓 [内蒙古]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年03月09日再掲載 タイトル:ジンギス・カンの墓
内モンゴルの記事「内モンゴルの大草原」を再掲載して同じ内モンゴルの本記事も紹介したくなって再掲載することにいたしました。
元々の記事に掲載していた動画「ジンギス・カンの歌」が見れなくなったので、今回3つの動画を追加掲載いたしました。クリックすると拡大
前記時の「内モンゴルの大草原」の記事は呼和浩特(フフホト)に行った時に書いたものですが、今回の「ジンギス・カンの墓」は包頭(パオトウ)に行った時に書きました。
  2010年08月15日掲載
  2013年10月14日ブラシュアップ
  2024年03月09日再掲載 閲覧数 6,990 nice! 192 CMT 36
  2024年03月12日    閲覧数 7,296 nice! 267 CMT 48
  2024年03月14日    閲覧数 7,413 nice! 280 CMT 52
  2024年03月18日    閲覧数 7,522 nice! 288 CMT 52
  2024年03月31日    閲覧数 7,600 nice! 294 CMT 54

2010年08月15日掲載 タイトル:ジンギス・カンの墓
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今年の高校野球の吹奏楽部の演奏は宇宙戦艦ヤマトが多かったです。
以前の高校野球ですが不思議な軽快な音楽が流れていました。聞き覚えがあるのですが、なかなか思い出すことが出来ませんでした。フレーズから、やっと思い出せました。ジンギスカンの歌でした。そこで、ジンギスカンの墓の写真を紹介いたします。内モンゴルに行ったときに行く機会がありましたが、おそらく日本人でこの場所に行かれた方は少ないと思います。

ジンギスカンの墓(Genghis Khan's Mausoleum 成吉思汗陵)の建物の中央部分を拡大してみました。
チンギス・カン(1162年頃? ~1227年8月18日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)で在位は1206年~1227年です。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服して、人類史上最強と言われている世界帝国「モンゴル帝国」を築き上げた人で、いろいろと謎につつまれています。
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大きな建物なので、少し斜めから建物を撮りました。
紹介の墓は記念として1956年に作られました。チンギスカン陵(成吉思汗陵)と呼ばれており観光目的が大きいと思いますが、地元の人たちのよりどころになっているのも確かでした。地図で見ると場所はオルドスの高原の中南部で内モンゴル最大の町の包頭(パオトウ)から南に175kmの位置にありました。辺鄙な場所の上、新しい物なのに訪問者が多かったのが不思議でした。調べてみると中国の重要文化保護財に指定されていました。陵墓は敷地面積が5平方キロあるそうで、雄壮な感じがありました。
本当の成吉思汗(ジンギスカン)のお墓は見つかっていません。ジンギスカン(チンギス・カン)の死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰ったそうです。場所は分かっていませんが地名は起輦谷で、いくつかある説の中ではモンゴル高原の中にあるヘンティー山脈の丘陵地が有力なようです。「元史」などの記述からチンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたと見られていますが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺されたといわれています。また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされています。チンギスは死の間際、自分の死が世間に知られれば敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないように家臣達へ遺言したとされたそうです。右下のチンギスカン肖像画はWikimediaから拝借いたしました。
建物はパオ式建築物が三つ連なり、正殿、寝殿、東殿、西殿などに分かれています。モンゴル族にとっては聖地で年に4回祭りが行われるそうです。特に3月21日は、伝統の祭祀日とされ、クリックすると拡大盛大な弔いの儀式が行われるそうです。成吉思汗の呼び方も微妙に沢山あります。
下の縦書き文字はモンゴル文字のジンギス・カンです。モンゴル文字は行が左から右へ綴られる左縦書きです。昔の日本語や中国語は右縦書きでした。
クリックすると拡大 ジンギス・カン ジンギスカン 
 チンギス・カン
 チンギス・ハーン
 Cenghis Khan 
 Čingγis Qan
 Чингис Хаан
 成吉思汗  
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こちらの人にとっては聖地ですね。建物の中では伝統的な儀式が行われていました。聞いてみると観光のためではなくて親戚が集まった記念の式だそうです。真中に積み上げられているのは羊の肉です。
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座った角度からの写真です。これらの設備が建物の中にあるのがすごいです。


建物の中ですが大事なものは四角いパオのような建物に入っていました。博物館も兼ねているようです。


謎のものが一つ! 入口からこのお墓までの道の両側にどう見ても日本の形の真新しい灯篭が並べられているのです。
ガイドの人も使われた経緯やこれが日本の形の灯篭であるとは知りませんでした。
日本向けに作られているものを、ここの建設担当者が見てこれが良いと思ったのではないでしょうか。
明らかに階段は新しいです。
       
このような旗を見るとジンギスカンの聖地と感じられてきます。
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男性が帽子をかぶっているのが印象的でした。


ジンギスカンの墓の脇には、いわくありげな塚もありました。この塚はオボーと呼ばれるようです。オボー(овоо)はモンゴルで建てられる、一種のケルン(標柱)だそうです。モンゴルの平原や平原にある小高い丘、クリックすると拡大あるいは山頂や峠のような高所に建てられることが多いそうです。オボーは主にチベット仏教の祭礼が行われる場所であるとともに、山岳信仰、テングリといった宗教的意味を示す役割もを持つそうです。右の写真は撮っている方向の角度は違いますがWikipediaに掲載されていた同じものと思われる写真です。


航空写真をやっと見つけました。4kmの一直線の道が印象的です。地図内のアイコンを数回クリックすると、この位置が判ってくると思います。
地図には成吉思汗陵と書かれており住所は内蒙古自治区鄂尔多斯市伊金霍洛旗布拉格路とありました。近くに大伊金霍洛遺址と書かれた場所がありました。そこの住所は内蒙古自治区鄂尔多斯市伊金霍洛旗でした。
一直線に4km延びる道の左上が成吉思汗陵で左下が大伊金霍洛遺址です。遺跡に対して何らかの関係で作られたものと思われます。大伊金霍洛遺址の伊金霍洛(エジンホロ)はモンゴル語で「君主の聖地」を意味するそうです。

ジンギスカンの墓(成吉思汗陵)から大伊金霍洛遺址の方向を見た景色です。クリックすると道が真っ直ぐに4km伸びていることを感じてもらえると思います。
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真っ直ぐに延びた道から反対にジンギスカンの墓(成吉思汗陵)の方向の写真です。ただし500m離れた場所に建つ東門の内側なので墓までは300~400mの距離だと思います。
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それではネットから拝借したジンギス・カンの歌を紹介いたします。是非とも、プレーボタンを押して歌を聴いてみてください。
歌っているグループ名はジンギスカン(ドイツ語: Dschinghis Khan)で1979年から1985年にかけて世界的に活躍した西ドイツの音楽グループです。
 名前 Dschinghis Khan
 結成 1979年(6人)
 出身 西ドイツ ミュンヘン
 活動 1979年~1985年 2005年 2007年~ 4人~7人
右下の写真の6名が結成時のメンバーで、写真の左から
クリックすると拡大 Wolfgang Heichel
 Henriette Pauline Strobel-Heichel
 Louis Hendrik Potgieter ダンサー
 Leslie Mandoki
 Edina Pop
 Steve Bender      です。


上の動画が見れなくなったので、別のサイトの動画を掲載しました。
Der Auftritt von Dschinghis Khan zu „Dschinghis Khan“ bei der Starparade 14.06.1979


こちらの方が3ケ月ほど古い動画です。
Der Auftritt von Dschinghis Khan zu „Dschinghis Khan“ bei der ZDF-Disco 26.03.1979


原文はドイツ語ですが歌詞を日本語に訳したサイトがありました。 その中のジンギスカンの歌詞の日本語訳を紹介いたします。ただし日本で歌われている日本語の歌詞とは、まったく違います。SMAPの日本語の歌はこちらです。→
1000人もの男たちが草原の風をめぐって賭けをした。 そのとき、ある男が馬で前を走りぬけ、皆盲目のように それについていった。それがジンギスカンだった。 馬のひづめが砂を叩き付け、あらゆる国々に不安と恐れをもたらした。 稲妻も雷も彼らを引き止めることはできなかった。
ジン、ジン、ジンギスカン 騎手よ、皆の衆よ、騎手よ、どんどん行け ジン、ジン、ジンギスカン、さあ同士よ、さあ飲め、喧嘩せい、どんどん。
ヴォッカを取ってこい、ホホホホー だっておいらはモンゴル人だ ハハハハー 悪魔だってへっちゃらさ
ジン、ジン、ジンギスカン、男達よ、男達よ いつものように踊れよ、そして彼の笑い声が聞こえる。 ホホホホー ますます大きな声で笑う ハハハハー そして彼は壷を一気に飲み干す。
そしてなんでも気に入ったものは 自分のテントに持って入った。 世界で彼を愛さない女はいなかった。 一夜で7人の子供をもうけた。 そして彼の敵については笑うだけだった。 なぜなら彼の権力に立ち向かう人はいなかったから。
ジン、ジン、ジンギスカン 騎手よ、人々よ、騎手よ、どんどん行け ジン、ジン、ジンギスカン、さあ同士よ、さあ飲め、喧嘩せい、どんどん。 ヴォッカを取ってこい、ホホホホー だっておいらはモンゴル人だ ハハハハー 悪魔だってへっちゃらさ ジン、ジン、ジンギスカン、男達よ、男達よ いつものように踊れよ、そして彼の笑い声が聞こえる。 ホホホホー ますます大声で笑う ハハハハー そして彼は壷を一気に飲み干す。

クリックすると拡大もう一つジンギス・カンの歌(日本語)の動画を紹介します。歌っているグループは2004年1月14日~2015年3月3日に活動したBerryz工房です。
右の写真はフリー百科事典Wikipediaから転用させていただきました。
歌の歌詞はこちらです。→ポチッ


日本語のジンギスカンの歌の歌詞を紹介します。上で紹介した原文のドイツ語の歌詞を日本語に翻訳したのとは全く違います。上のBerryz工房の動画を見ながら、この歌詞を目で追ってみてください。SMAPもこちらの歌詞の歌です。
チャンスを待つよじゃ あいつに負ける ウッハ ウッハ 二度とは燃えない 嵐が吹くぜ ウッハ ウッハ
キラキラ輝く御殿 ひとめぼれしたあの女 黄金(こがね)をつかむのさ ウッハ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー 一緒に手をかざせ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー お前も手をかざせ
打ったら攻めろ むかえ撃ちつぶせ ウッハ ウッハ あとにはひかない 突撃ジンギスカン ウッハ ウッハ
骨までしゃぶる悪玉を 右や左で切りきざみ 勝利をつかむのさ ウッハ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー 一緒に手をかざせ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー お前も手をかざせ

クリックすると拡大内モンゴルの代表的な都市の一つである包頭市(包头市)からジンギス・カンの墓への道を青色ラインで紹介します。五當召(五当召)はすでに紹介したラマ教の聖地です。
 ジンギス・カンの墓
 包頭市
 五當召(五当召)

より大きな地図で ジンギス・カンの墓 を表示
冒頭の内モンゴルとモンゴル国の小さな地図のフルサイズを掲載します。
クリックすると拡大
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