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臼井城 千葉県佐倉市 [千葉]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大宿内砦の記事で、宿内砦と臼井城の見学会に参加させていただいたことを紹介させていただいて、その記事では京成臼井駅を出発して宿内砦を見学して、長源寺までを紹介させていただ来ました。本記事では長源寺を出発して臼井城を見て、京成臼井駅近くの御伊勢公園で解散するまでを紹介したいと思います。右の臼井城の概念図はネットから転用させていただきました。
上の写真は臼井城のⅡ郭(二の丸)です。右下の図でⅡ郭と書かれているところです。クリックすると拡大臼井城は12世紀(1101年~1200年)中頃に築城されたと伝えられている城で、江戸時代より前に存在した当時としては巨大なお城でした。住宅地や畑に囲まれていながら、廃城となって419年経った現在もⅡ郭(二の丸)跡とⅠ郭(本丸)跡は当時の地形のままに残されている貴重なお城です。Ⅱ郭(二の丸)は広角で撮っても入りきらない大きさです。Ⅱ郭(二の丸)の西にあった大きなⅢ郭(三の丸)はさらに広大でしたが、今は畑や住宅地になっています。右の臼井城の当時の配置図はネット(佐倉市教育委員会)から転用させていただきました。

右上の臼井城の配置図をクリックすると拡大いたしますが、クリックが面倒な方のためにⅡ郭(二の丸)とⅠ郭(本丸)の部分を拡大いたします。
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堀 斜面 土塁 曲輪 埋められた堀 消滅した土塁

下の臼井城復元図に臼井城の位置を赤色文字とで示し、臼井城を守る宿内砦、洲崎砦、仲台砦、田久里砦、稲荷台砦の5つの砦の位置を赤色の矩形で砦の名前を囲っています。上の当時の配置図の範囲を緑色ライン()と橙色ライン()で囲みました。
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クリックすると拡大臼井の町を歩いていても、家が沢山建っているために臼井城の場所が判らないので、Wikipedia臼井城遠景と名前の付いた写真から本丸(Ⅰ郭)あたりを切り取った写真です。写真のすぐ右側が印旛沼で景気の良い場所であることが判っていただけると思います。撮られたのは宿内砦の台地にある稲荷神社の北西側の崖上から撮られたものと思われます。
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黄色の枠の部分が切り取った上の写真です。この臼井台地(丘)全体が臼井城だったそうです。そして印旛沼に注ぐ手繰川・鹿島川に挟まれています。Wikipediaによると、臼井城の歴史で最初に出てくるのは、永久2年(1114年)に、平・常兼の子の常康が臼井に居館を築き臼井六郎を称したと伝えられることだそうですが、その居館がこの臼井城であったかどうかは定かではないそうです。もし臼井六郎(平・常康)が丘の上に居館を作りたいと思ったのであれば、景色のよい印旛沼に近い丘の上の場所に建てたと考えるのも不思議ではないと思います。
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それでは宿内砦の記事の最後の長源寺( )を出発するところから順に紹介していきたいと思います。空色ライン(━━)が長源寺( )から臼井城( )を見学して京成臼井駅近くの公園(御伊勢公園)まで歩いたルートです。見学会の前半の京成臼井駅から宿内砦を見学して長源寺まで歩いた橙色ライン(━━)と合わせると約4km+αになります。+αはルート外を写真を撮るために歩き回った分です。右下の図はネットから転用させていただいた立体的なイメージ図です。
  臼井城
 宿内砦、洲崎砦、仲台砦、田久里砦、稲荷台砦
クリックすると拡大 道誉上人の墓塔
 長源寺
 太田図書の墓
 雷電夫人の甘酒茶屋跡
 稲荷神社
  臼井駅(集合)→宿内砦→道誉上人の墓塔→長源寺
  長源寺→太田図書の墓→臼井城→稲荷神社→御伊勢公園(解散)


長源寺から進んでいく方を撮った写真です。この場所には明治6年1月16日に臼井小学校が置かれて、明治17年8月25日には臼井村役場が置かれたそうです。
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中宿交差点に出ました。臼井城下は城下町として栄えましたが、廃城になった後も宿場町として栄えたそうです。特に成田山詣でブームになってからは反映したそうです。宿場町としての名も地名として残っているようです。江戸方から片町・上宿・中宿・下宿・新町と続いたそうです。中宿あたりが宿場町の中心だったようです。
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中宿交差点には道路元標が置かれていました。文字がほとんど消えている古びた説明板の右側の小さな石柱が臼井町の道路元標です。
道路元標は元々は向かって7m右側に接地されていましたが、道路の新設工事のために、今の場所に移されたそうです。道路元標の説明板の左側の大きな石柱には「明治天皇臼井行在所 史跡名勝天然紀念物保存法史跡トシテ 昭和十二年十二月文部大臣指定」と書かれていました。
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臼井寺に向かって細い道を歩いていると常勝寺がありました。常勝寺の門の前を左に折れてしばらく行くと上り坂になりました。
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臼井城への上り坂です。今までにも臼井城に行こうとしたことがありましたが、なかなかこの道が見つかりませんでした。案内の方がおられると迷うことなく行くことが出来ました。城に石垣が使われていない時代は空堀や土塁が主な防御ですが城への道が簡単に見つからないのも、防御の一つなのかもしれません。
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臼井城の入口の前を通って先ずは太田道灌の弟の太田図書(太田資忠)の墓に行きました。太田図書はこの場所で討死したそうです。
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こちらが皆さんが集まる前に撮った太田図書(太田資忠/太田図書助)の墓です。
クリックすると拡大太田図書は文明11年(1479年)7月15日に臼井城攻めから一旦兵を退こうとした時に虚を衝かれて、激しい戦闘となり討ち死にしたけれども結果的に臼井城は陥落したそうです。落城したけれども臼井氏も臼井城も存続しつづけたようです。主導権はいろいろとかわったようです。
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興味のある方のために説明板を掲載させていただきました。
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階段を上って撮った写真です。
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太田図書の墓を見た後、臼井城のⅡ郭入口に戻りました。クリックすると拡大入口に立てられている臼井城の説明板です。クリックすると文字が読める大きさに拡大しますが、左下側のスペース描かれている地図は薄くなっていて確認は難しいと思います。同じ場所に臼井八景の第六景の城嶺夕照(じょうれいせきしょう)の説明板がありました。右の写真が城嶺夕照の説明板ですが、以前に自転車で見に来た時に撮ったものです。
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臼井城の説明板に描かれている地図をネットから転用させていただきました。本丸、二の丸、三の丸、城内、御屋敷の文字が確認できます。現在地と書かれているところに説明板が立っていました。二の丸(Ⅱ郭)と三の丸(Ⅲ郭)の間は今でも非常に深い空堀になっています。
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こちらがⅡ郭(二の丸)への入口です。臼井城の歴史を記載いたします。1114年(永久2年)に平常兼の子の常康が臼井に居館を築き臼井六郎(臼井常康)を称したと伝えられることから下記の沿革の12世紀中頃のところを1114年(永久2年)と表現されている場合もあります。ただし1500年より前は資料が少ないため、その時の居館がこの臼井城であったかどうかは定かではないそうです。
 12世紀中頃    臼井常康が築いたと伝わるが定かではない
 14世紀中頃    本格的城郭として整備される
 1479年(文明11年)太田道灌の率いる上杉方に攻められ篭城(7ケ月)の後落城
 1557年(弘治03年)臼井久胤の後見として原胤貞が入り原氏の支配下となる
          1551年(天文19年12月 旧暦)とする説もある
 1561年(永禄09年)上杉謙信に呼応した里見側の正木信茂に攻められ落城
 1564年(永禄07年)原胤貞が臼井城を奪還
 1566年(永禄09年)臼井城の戦いで上杉・里見勢に攻められるが、これを退ける
 1574年(天正02年)生実城が里見氏の手に落ち臼井城は原氏の本拠となる
 1590年(天正18年)小田原征伐により原氏が滅び臼井城は豊臣側に接収された
 1604年(慶長09年)酒井家次の高崎移封に伴い臼井城は廃城となった
 1610年(慶長15年)佐倉城が完成するに至って臼井城の役目を終えた
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こちらが冒頭の写真に使ったⅡ郭(二の丸)です。佐倉周辺には大きな城が3つありました。我々が城をイメージしている高い建物の天守閣があったのは佐倉城だけで、戦うための城である臼井城や本佐倉城には天守閣のような建物はなかったようです。平和な江戸時代(1603年~1868年)に城として機能したのは臼井城が1年で本佐倉城が12年でした。約1500年より以前に関しては正確には分かっていないので一つの説です。
 臼井城  1114年ごろ~1604年 490年間 平安時代~安土桃山時代+江戸1年 
 本佐倉城 1479年ごろ~1615年 136年間 戦国時代~安土桃山時代+江戸12年 
 佐倉城  1544年ごろ~1873年 329年間 戦国時代~江戸時代
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Ⅲ郭とⅡ郭の間の空堀は非常に深くなっていました。これが守りの要と思えるほどの深さでした。
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Ⅱ郭には空堀沿いにⅠ郭に向かう道が整備されていました。
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こちらはⅡ郭とⅠ郭の間の空堀です。
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空堀などの説明を受けているところです。
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その空堀を背にⅡ郭側で記念写真を見学会の講師の郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんに撮っていただきました。
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ここはⅡ郭とⅠ郭をつなぐ土橋です。
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土橋を渡ってⅠ郭(本丸)に上ったところの景色です。Ⅰ郭は概ね3つの広場に分かれています。写真に写っている右側の広い広場と、正面の道を進んだところにある広場と、写真の側に広がっている広場です。
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これが右側の広場です。
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まっすぐ道を進んできた広場です。印旛沼がきれいに見える場所で、昔もⅠ郭(本丸)の中でも特別の場所だったのだと想像されます。真ん中の石は昔からあったものと推察されています。
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奥に進むと印旛沼が見えてきました。
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今も昔も最も景色がいいと思われる特別の場所からの印旛沼の景色です。
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皆さん景色を堪能されていました。そして写真で見ても分かってもらえるように外側は急な崖になっていて、この場所を外から攻めるのは難しい場所でもあるのです。
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Ⅰ郭の印旛沼川の北斜面は急な崖になっているので限られた場所からしか攻めてこれない地形になっているようです。
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きれいな景色以外に、特別な場所と思われる理由がこちらの昔から置かれていたと思われる石です。さらに石の奥に飛び石が並んでいます。ここに人の生活があったのだと、実感させてくれる素敵な石たちでもあります。
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別の角度からみた石です。ここが庭になっていたのではないかと思われる場所なのです。もし事実ならば印旛沼が背景になった素敵な庭だったとことになります。今となっては想像するだけです。
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印旛沼を大きく撮りました。
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クリックすると拡大赤松宗旦原著の利根川図誌に書かれている臼井城のⅠ郭(本丸)を中心とした図を紹介します。下の図をクリックすると右の図のように広範囲を拡大して表示します。上杉謙信が築いた一夜城の場所も出てきます。長源寺は台地の上に書かれているのでその場所が宿内砦と思われます。
この図は今回の見学会および2022年11月23日に八千代栗谷遺跡研究会主催で行われた中世城郭遺構についての学習会のための資料に入っていました。
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上の地図のオリジナルには宿内砦のⅠ郭に長源寺あることが書かれた地図です。クリックすると確認できますがクリックが面倒な方のために宿内砦の部分を切り取って掲載いたしました。この中には後で紹介する稲荷神社や廃寺となった光明寺が書かれているので覚えておいてください。浄行寺も今はありませんが浄行寺跡として記録されていて雷電夫婦と娘の墓があります。
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こちらが臼井城本丸(Ⅰ郭)から見た宿内砦の台地(丘)です。単独の城と言えるほどの大きさであることがわかっていただけると思います。クリックすると拡大写真の右端の丘の麓に長源寺が写っています。右の写真は長源寺のところを切り取ったものですが、画面が暗いので露出調整をしています。長源寺は元々は1570年(元亀元年)に宿内砦の主郭に創建された寺ですが1772年(安永元年)に火災で全てを焼失したために宿内砦の麓に再建されました。
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下の写真の台地の左側が宿内砦で、右側が稲荷台砦です。
クリックすると拡大上の写真は宿内砦の部分を拡大して撮ったものだったのです。ただし、上の写真とは写している位置が違うので、少し角度が違います。したがって下からの木の枝のために長源寺を確認するのは難しいです。下の写真から上の写真と東遠部分が同じ範囲になるように切り取ったものです。
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さらに左方向にある台地です。写真の中央あたりに光勝寺があります。
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さらに左方向つまり東方向の景色です。写真の左端に印旛沼が写っています。印旛沼の畔には佐倉ふるさと広場があり、そこのシンボルであるオランダ風車リーフデがあります。オランダ人技師により建設された日本初の水くみタイプ風車で、日本唯一の風車守の仕事振りや内部を見ることが出来ます。写真を拡大すると、辛うじてさの風車を確認することが出来ます。ただし、遠くであるために小さくさらに沢山の送電線の鉄塔が沢山立っているところなのでなかなか見つからないと思います。
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Ⅰ郭内で位置をかえて貴重な説明を聞いているところです。
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展望場所から撮ったⅠ郭の南側の広場です。写真の中央の奥がⅡ郭からの入口です。そのⅠ郭の入口からの写真で右側に見えていた広場になります。
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Ⅰ郭の最も南側の展望場所で見学会の講師であり案内人の郷土史家・蕨由美(わらび ゆみ)さんから説明を受けているところです。
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登ってきた道を下りて帰路につきました。この後は通り道にある相撲取りの雷電ゆかりの場所を2ケ所を見ました。雷電爲右エ門(らいでん ためえもん)は現役生活21年の中で、江戸本場所在籍36場所(大関在位27場所)で、驚くことに通算黒星が10個、勝率96.2%の大相撲史上未曾有の最強力士とされています。21年間に10回の黒星ですから2年間に負けは1回だけの計算になります。
雷電に黒星をつけた力士を紹介しておきます。本場所以外の上覧相撲で1敗(陣幕嶋之助 1791年)があります。クリックすると拡大
 梶ヶ濱力右エ門 1791年 政3年 4月場所5日目
 市野上浅右エ門 1793年 寛政5年 3月場所8日目
 市野上浅右エ門 1797年 寛政9年 3月場所7日目
 鯱和三郎    1800年 寛政12年10月場所初日
 柏戸宗五郎   1804年 文化元年10月場所5日目
 春日山鹿右衛門 1805年 文化2年10月場所6日目
 音羽山峰右エ門 1806年 文化3年 2月場所4日目
 鏡岩濱之助   1808年 文化5年10月場所4日目
 立神盤右エ門  1809年 文化6年10月場所3日目
 江戸ヶ崎源弥  1810年 文化7年10月場所5日目
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最初の雷電ゆかりの場所が雷電が嫁に迎えた八重さんが看板娘をしていた甘酒茶屋の跡です。大きな説明板が取り付けられていました。甘酒茶屋の屋号は「天狗さま」でした。今は武藤自動車整備工場になっています。ここが江戸時代に繫栄していた臼井宿であったことがうかがえる場所でもあります。結婚した1792年(寛政4年)は名古屋、大坂、京都と連続興行を行うなど忙しい年でしたが臼井宿の甘酒茶屋の娘・はん(後の八重)と結婚して江戸の麹町十丁目の長屋に新居を構えたそうです。
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興味がある方のために説明板を掲載しました。雷電が関脇時代に甘酒茶屋に立ち寄り、甘酒茶屋(天狗茶屋)の娘で看板娘のおはんを見染て妻に迎えたそうです。おはんは結婚して八重に名前を変えたそうです。雷電は晩年を妻・八重の郷里である臼井宿で過ごしたそうです。そのことから八重の菩提寺だった浄行寺跡の杉山家墓地には雷電自身と妻子の名を刻んだ墓があります。雷電は各所に墓がありますが、娘がともに供養されているのはここだけだそうです。
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見えている坂を上って宿内砦のあった丘を越えて京成臼井駅の方に向かいました。
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クリックすると拡大クリックすると拡大上の写真の坂の途中に急な石段の稲荷神社がありました。ここの石段は寛政年間に雷電が寄進したものでした。長い年月の間に摩耗したりしたために石段は改修されましたが。雷電が寄進した貴重な石段は神社正面の敷石として保存されています。右の石柱に書かれているように、ここは雷電公園でもあります。左の石柱には稲荷神社と書かれています。
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さっそく石段を登ってみることにしました。
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稲荷神社の鳥居です。まっすぐに敷かれている敷石が雷電が寄進した石段です。
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雷電の敷石の先に3つの祠がありました。
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雷電の元石段の敷石のアップの写真です。しっかりとした立派な石段だったことが想像されます。
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3つの祠のは左から三峯・古峯神社、 稲荷神社、子安神社です。
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祠の位置から鳥居方向を撮りました。
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3つの祠以外に石の祠と2つの石碑もありました。石の祠は天神様です。
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こちらが石碑です。右の石碑には3つの祠の名前(三峯・古峯 稲荷 子安神社 神社)が枯れています。左下に「奉献社殿 臼井駅南土地区画整備組合 昭和五十八年十月吉日」と書かれていることから、後世に3つの祠のことを伝える石碑なのだと思われます。
左の石碑には「三峯神社 古峯神社 参拝記念」と書かれていることから本家の埼玉県の三峯神社と栃木県の古峯神社に参拝した人たちの記念碑ではないかと感じました。よく行われていた出羽三山詣のようなものなのかもしれません。
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1つの祠の中を格子の間から撮りました。赤ちゃんを抱いた子安菩薩像像のようでした。子
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大きなケヤキの保存樹が生えていました。1974年時点の推定樹齢は300年なので雷電(1767年生~1825年没)が生まれた時にはすでに樹齢約100年だったことなります。臼井宿の甘酒茶屋の「天狗さま」の看板娘と結婚した1792年(寛政4年)には樹齢は118年前後だったことになります。
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解散場所の公園をめざして歩き始めました。クリックすると拡大
保存樹としての説明を紹介します。
 区分    樹林
 名称    臼井稲荷境内木
 代表樹種  ケヤキ・スダシイ
 所在地   臼井126
 樹齢    推定300年(選定時)
 伝来等   神社創立以来境内木として、管理保存されているという。
 管理責任者 氏子総代
       佐倉市選定第38号 昭和48年3月1日(1974年)
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住宅地の中ですがいろんな石碑がありました。
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クリックすると拡大クリックすると拡大このような石像も住宅地の道端にありました。右の説明碑によれば、この菩薩坐像(寛文5年/1655年 左)と如来立像(寛文12年/1672年 右)は、廃寺となった近くの光明寺にあったものだそうです。光明寺は上の方の地図で紹介したように稲荷神社の北西にありました。2002年(平成14年)に整備されたようです。切り取った地図には、逆さまに光明寺と書かれていて、斜めに稲荷社と書かれています。
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京成電鉄本線まで出てきました。この踏切は臼井駅の東側にあり鉄道ファンにとって人気の場所だそうです。SV
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踏切のストリートビュー(SV)を紹介します。踏切の道路以外は立入禁止です。ほほえましい光景の親子は電車を見るために待っている感じです。


踏切から臼井駅側を撮りました。
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臼井駅と反対側も撮りました。臼井駅で折り返すための線路があるのが人気になっている一つの理由のようです。
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御伊勢公園のこの場所で解散となりました。今回の見学会は郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんの案内で行われました。参加者は「八千代栗谷遺跡研究会」や「佐倉道を歩く会」の方々でした。参加者は私を含めて22名だったそうです。
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千葉県佐倉周辺の大きな城の位置を紹介します。戦国時代は1467年~1590年で、安土桃山時代は1573年~1603年で、江戸時代は1603年~1868年です。約1500年より以前に関しては正確には分かっていないので一つの説です。戦国時代(1493~1590年)の日本の総人口が800~1200万人の世界でした。着色文字をクリックすると過去に掲載した記事を表示します。
臼井城  1114年ごろ~1604年 490年間 平安時代~安土桃山時代+江戸1年 
本佐倉城 1479年ごろ~1615年 136年間 戦国時代~安土桃山時代+江戸12年 
佐倉城  1544年ごろ~1873年 329年間 戦国時代~江戸時代
下高野館 先崎城  井野城  小竹城  中世(臼井城の傘下)


印旛沼の水田干拓(100年前)の地図に3つ城をプロットしました。上の地図と比べてもらったら判るように、今の本佐倉城は印旛沼から4.5kmも離れた内陸にありますが昔は城の脇に印旛沼があったことがわかります。本地図は小さいのでわかりませんが干拓前の臼井城は印旛沼に近かったようです。臼井城と本佐倉城は印旛沼に突き出した半島状の地形に造られ印旛沼との間は笠神埜原(かさがみやわら)と呼ばれる低湿地であったようです。このことからも臼井城と本佐倉城は防御に強い城だったようです。
   臼井城    佐倉城    本佐倉城

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kazu-kun2626

おっ、一番海苔です(笑)
如何にも城が有りそうな地形ですね
史跡探訪も楽しそうですね
今日は大雪の予報ですが
当地は雨が降ってます、寒いので
暖かくしてお過ごしください
by kazu-kun2626 (2023-02-10 10:44) 

SORI

kazu-kun2626さん おはようございます。
ありがとうございます。今、関西に来ていますが、こちらは朝から冷たい雨が降っています。確かに寒いです。
見学会のおかげでいろいろと教えていただきました。
by SORI (2023-02-10 11:14) 

Boss365

こんにちは。
臼井城下、廃城後も「成田山詣でブーム」で宿場町として栄えたみたいですね。太田図書、初耳でしたが、説明板をクリック、不意を突かれた感じで残念です。また、Ⅰ郭・本丸の特別の場所からの印旛沼の景色、いい感いいです。別件ですが、本丸建物の資料もあるのかな?ところで、史跡探訪ツアー、結構歩きハード?適度な体力が必要ですね。また、見所沢山あり、予備知識持って参加するのがベターな感じです。お疲れさまでした!?(=^・ェ・^=)
by Boss365 (2023-02-10 16:35) 

夏炉冬扇

展望もいい、大きな城跡ですね。
史蹟も多々。みなさん一緒だと楽しい。
by 夏炉冬扇 (2023-02-10 17:56) 

溺愛猫的女人

雷電が一目ぼれしたおはんさん、魅力的な女性だったのでしょうね(*^^*)
by 溺愛猫的女人 (2023-02-10 18:10) 

ヨッシーパパ

ただ、歩いているだけだとわからないことでも、要所要所で教えて頂けると、より興味が増しますね。
by ヨッシーパパ (2023-02-10 18:11) 

JUNKO

立派な城跡ですね。大勢の皆さんと見学楽しいですね。説明があるのはありがたいことです。
by JUNKO (2023-02-10 19:46) 

johncomeback

拙ブログへのコメントありがとうございます。
城好きですが、寡聞にして「臼井城」は存じませんでした。
僕の故郷北海道伊達市にはアイヌの城(砦)跡があります。
by johncomeback (2023-02-10 19:58) 

SORI

Boss365さん おはようございます。
まだまだ勉強不足で、本丸の建物のことは分かりませんが、この時代の城は、城の配置が外から敵に判らないようにするために低い建物であったと想像されます。見学会に参加させていただいたおかげでいろんなことが判りました。快く参加させていただいたことを感謝しております。
by SORI (2023-02-11 05:39) 

SORI

夏炉冬扇さん おはようございます。
ほんと展望のいいところで、数百年前の景色を想像すると楽しかったです。
by SORI (2023-02-11 05:42) 

SORI

溺愛猫的女人さん おはようございます。
2人が結婚したのは1792年(寛政4年)なので雷電が満で25歳と思われます。おはんさんも雷電も同じ年の1767年(明和4年)生まれだったので仲が良かったと想像されます。結婚した1792年は江戸に住んでおり名古屋、大坂、京都と連続興行があり本当に忙しかったと思います。
by SORI (2023-02-11 06:05) 

SORI

ヨッシーパパ さん おはようございます。
ほんと見学会に参加させてもらってよかったです。知らないことが沢山あることを知りました。
by SORI (2023-02-11 06:16) 

SORI

JUNKOさん おはようございます。
郷土史を研究されている方の説明だけのことが沢山あって勉強になりました、いい一日でした。
by SORI (2023-02-11 06:18) 

SORI

johncomebackさん おはようございます。
アイヌの城、見てみたいです。
北海道伊達市が故郷だったのですね。

by SORI (2023-02-11 06:24) 

kohtyan

雷電は信州の出身ですね、諏訪大社に像がありました。
21年現役、96%の勝率、史上最強の力士ですよね。
当時は横綱の制度は無かったのですかね。
by kohtyan (2023-02-11 10:06) 

もぐらのもぐ

こんにちは
私は古木のケヤキに注目しました。
皮肌がボコボコとしておりすごく古い事が分かりますが
その割には直径が細いこと、そして根が盆栽のような雰囲気です。
きっと土壌の条件が悪く盆栽のように成長が遅れ気味なのでしょう。
素敵な場所ですね。私も1日旅行で行ってみようと思っています。
by もぐらのもぐ (2023-02-11 10:12) 

SORI

kohtyanさん こんにちは
番付上は横綱はありませんでしたが、このころに相撲界を牛耳っていた吉田司家が横綱免許なるものを考え出して1789年に2人の相撲取りに授与しましたが、その後は39年間はなかったそうです。そんな中で横綱制度確立以前の雷電に横綱免許が無いのはむしろ当然であり、雷電は横綱以前の強豪力士として位置付けているそうです。
by SORI (2023-02-11 12:58) 

SORI

もぐらのもぐさん こんにちは
ケヤキに注目してもらえたのですね。ケヤキの写真を掲載してよかったです。ありがとうございます。
皮肌がボコボコしているのに驚きました。
by SORI (2023-02-11 13:04) 

kazu

SORIさん、こんばんは。

臼井城址公園の掲載ありがとうございます。
蕨さんの素晴らしい解説のおかげで、堪能しましたね。

雷電のお墓も臼井にあるんですね。
今は廃寺となった浄行寺に、雷電と奥さん、一女の3人が眠っている
んです。3人の墓はここだけだそうです。
近くの妙覚寺がこのお墓を仕守りしているようです。
この妙覚寺に、雷電の等身大(197cm)の顕彰碑が建っているんです。
毎年2月11日(雷電の命日)に佐倉雷電祭が行われているんです。
今日だったのですね、忘れていました。
失礼しました。



by kazu (2023-02-11 21:01) 

coco030705

こんばんは。
お友達の集まり、いいですね、楽しそうです。何をするにも、いい仲間が基本ですね。
by coco030705 (2023-02-11 21:51) 

SORI

kazuさん おはようございます。
見学会に誘っていただいたおかげで貴重な体験が出来ました。ありがとうございます。ほんと蕨さんの説明を聞きながら見学をするのは素晴らしい企画だと思います。
雷電のお墓は何度か見に行ったことがあります。それ以上の知らなかったので、甘酒茶屋の娘さんを見染て結婚したのは新鮮な情報でした。臼井城に関して益々興味が出てきました。2月4日から関西に来ていますが、2月26日に佐倉に帰ったら久しぶりにお弁当を持って臼井城に行ってみたくなりました。
by SORI (2023-02-12 05:21) 

SORI

coco030705ん おはようございます。
ほんと、親しい人と一緒に行動するのは楽しいです。5月24日~26日には2022年12月13日にDining Port 御料鶴で食事をした3人で信州の温泉に行ってみたいと思っています。渋温泉と鹿教湯温泉です。
by SORI (2023-02-12 05:29) 

tarou

SORIさん こんにちは
瑞巌寺(松島)にコメントを有難うございました。
宿内砦・臼井城の見学会は、見るところがったくさん
有って、説明を聞きながら歩くのも楽しそうです(^^♪
エレファンタ島・石窟寺院の記事見ました、大きな石窟
ですね。
by tarou (2023-02-12 13:02) 

SORI

tarouさん こんにちは
こちらこそ、エレファンタ島の石窟寺院にコメントいただきありがとうございます。日本の寺院は世界に類を見ない素晴らしさがあります。
初めて見学会に参加させていただきましたが、ほんとよかったです。
by SORI (2023-02-12 14:36) 

よしあき・ギャラリー

素晴らしいレポートですね。
by よしあき・ギャラリー (2023-02-14 11:43) 

トモミ

実にアカデミックですね!勉強になりました!!

by トモミ (2023-02-14 14:02) 

SORI

よしあき・ギャラリーさん こんにちは
うれしいです。掲載した甲斐がありました。見学会に参加させていただいたおかげです。蕨由美さんの下高野館発掘報告書をいただいたことから端迫りました。
 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2013-06-03
by SORI (2023-02-14 14:44) 

SORI

トモミさん こんにちは
うれしい表現です。新しい発見が沢山ありました。
by SORI (2023-02-14 14:47) 

kousaku

州出身の雷伝為衛門が江戸に出てきてからここ佐倉へは巡業だったんでしょうかね、その折におはんさんと知り会ったんですね、素晴らしい恋物語が有ったんでしょうね。
祖の雷伝は負け知らずでよく21年もの間10敗しかしていないとはなんとも素晴らしい功績を残していますね。

by kousaku (2023-02-14 16:28) 

お散歩爺

昔は城の敷地は広大な広さがあったようですが
人家や畑などが増えて今では大分小さくなってますね。
太田図書や来電に奥様の話も楽しめました。
by お散歩爺 (2023-02-14 16:49) 

SORI

kousakuさん こんばんは
フリー百科事典Wikipediaには臼井宿に立ち寄った理由として「巡業あるいは成田詣で立ち寄った」と書かれていました。
ほんと強かったのですね。雷電は身長197㎝、体重169㎏、手形25㎝だったそうです。
by SORI (2023-02-14 19:38) 

SORI

お散歩爺さん こんばんは
ほんと広大な広さだったようです。Ⅰ郭とⅡ郭だけですが残されているのがすごいことだと思います。
by SORI (2023-02-14 19:40) 

老年蛇銘多親父(HM-Oyaji)

臼井城、図をみてずいぶん堅牢な城だなと思い調べてみたら、複数回の籠城戦をかいくぐってきた城で、最後は上杉謙信・里見の軍勢を撃退した城なんですね。

京都での応仁の乱の影響が関東にも及び、関東公方の足利氏、そして千葉を本拠した千葉氏の家督争いの舞台になった場所として、その歴史の重要拠点だった場所として、重要な場所であることが良くわかりました。


by 老年蛇銘多親父(HM-Oyaji) (2023-02-15 21:19) 

SORI

老年蛇銘多親父(HM-Oyaji)さん おはようございます。
ご指摘のように無敵と言われた上杉謙信が1566年(永禄09年)に臼井城の近くに一夜城と呼ばれている陣地を築いて臼井城を攻めたけれども退けたことが有名なほど堅牢であったようです。家督争いのことまで読み解かれたとはすばらしいです。
佐倉市に住んでいるので臼井城のことを知っていただいてうれしいです。
by SORI (2023-02-16 06:07) 

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