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佐倉の武家屋敷 [千葉]



佐倉市立美術館でルパン三世展を見た後に武家屋敷に行きました。佐倉市には立派な武家屋敷が保存されていることは知っていましたが、今まで見に行くことがありませんでしたが、佐倉市立美術館から歩いていける距離であることから行ってみることにいたしました。こんな場所があるのだと驚くと同時に、もっと早く来ればよかったと思いました。時代劇に出てくるすごい門構えの武家屋敷ではなくて山田洋次監督の時代劇に出てくる「たそがれ清兵衛(井口清兵衛)」が住んでいたような平侍(ひらざむらい)や、あるいはそれより少し上の侍(武士)の武家屋敷が河原家(かわらけ)と但馬家(たじまけ)と武居家(たけいけ)の3軒がありました。石高(こくだか)で言えば100石未満の小屋敷から300石程度の大屋敷でした。こちらは河原家の門です。

古い屋敷は少なくなっているために当時もこのような門だったかどうかは判りませんが、新しい家になっても下の写真のように似たような門が使われている家が多かったことから、おそらく当時に近かったのではないかと想像されます。


こちらが通称武家屋敷通りです。
江戸時代の名前は鏑木小路(かぶらぎこうじ)でした。今は宮小路でしょうか。
道は狭いことから大きな門は不釣り合いなため、門は冒頭の写真のように比較的質素のものであったと想像されます。
ここ武家屋敷通りの景観の特徴は道路の両脇に土手を築き、その上に生垣を巡らせていることです。これは馬上から屋敷内を覗かれないようにするためだと伝えられています。
武家屋敷通りの左側(北側)に手前から武居家、但馬家、河原家と並んでいます。武居家と河原家は同じ鏑木小路ですが別の場所に建っていたものを但馬家の両隣に移築されました。それぞれの家の家禄である石高(こくだか)や家の格式や建坪などから次のように分類されています。
      分類  家禄  分類目安家禄 敷地    文化財指定
  河原家 大屋敷 300石 300石以上  759坪 千葉県指定有形文化財
  但馬家 中屋敷 150石 100~299石  340坪 佐倉市指定有形文化財 
  武居家 小屋敷  90石 100石未満  290坪
家禄に使われている一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当する単位で、田畑や屋敷などの土地の価値にそれぞれの計数をかけて米の生産力に換算して石単位で表示しのが石高(こくだか)です。


江戸時代の佐倉の城下町の模式図です。
城下町は武士の住む町と商人に住む町に分けられていました。武家屋敷は城の東側に広く配置されておりその中の赤枠で囲った鏑木小路に今回の武家屋敷がありました。道が行き止まりになったり複雑な道になっているのは敵の侵入を防ぐものだったそうです。この町並みは1610年から佐倉藩主であった土井利勝が築いたものと考えられています。


ほぼ同じ場所のGooglの航空写真を紹介いたします。航空写真でなく地図が表示されている場合は、地図の中のアイコン「写真」をクリックしてください。木の生えている空堀の部分が江戸時代の模式図とそっくりです。マークAが武家屋敷の場所です。

航空写真で見た3軒の武家屋敷です。左から武居家、但馬家、河原家です。上からだと家の形がよくわかります。この辺りには趣のある古径(こみち)が沢山残されていのす。この航空写真の中にも佐倉サムライの古径「くらやみ坂」があります。


それでは3つの武家屋敷を紹介いたします。
  住所 千葉県佐倉市宮小路57番地
  電話 043-486-2947
  時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
  休館 月曜日(祝日の場合は翌日) 12月28日~1月4日
  駐車 無料専用駐車場あり
  料金 大人 210円 学生・児童 100円 土曜日:小中学生無料

こちらが旧河原家住宅です。   冒頭の写真と同じです。
河原家と上では記載していましたが現在の正式の呼名は「旧河原家住宅」です。


こちらの写真は門の位置から撮ったものです。
河原家が鏑木小路に写ってきたのは1835年12月とされています。ただし現在の建物の建築年代は正確にはわかっていませんが古文書から少なくとも1845年には存在していたことがわかっています。建築様式や構造部材の古さから、佐倉で残されている武家屋敷の中で最も古いものとお考えられています。
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建物の周りを回ってみます。こちらの建物は長い縁側のような廊下が特徴です。目安の石高は300石以上と上で記載しましたがネットで調べていると家禄300石と記載されていました。300石は上級武士となります。


その廊下の部分です。河原家の建物の中には年3回の特別公開日を除いて入ることが出来ません。ただし武居家と但馬家に関しては自由に内部に入ることが出来ます。今年最初の特別公開日は2月11日でした。残りの特別公開日は過去の事例から4月29日と11月23日が予想されます。ただし確定ではないので事前に確認願います。


廊下の突き当たりには厠(かわや)がありました。現代風に言えばトイレあるいは化粧室ですね。


違う方向からの写真です。手前に湯殿(ふろ場)が見えます。建坪は数十坪程度で大きくはありませんが敷地は759坪(当時)ありました。そのバランスからの当時の武士の生活が伝わってくるような気がします。当時、鏑木小路には武家屋敷が27軒があり敷地の平均が665坪でした。もっとも広かったのが3869坪で、最も狭かったのが268坪ということで、河原家は鏑木小路では広い方から4番目の武家屋敷でした。


その湯殿です。


襖(ふすま)で仕切られた空間はきれいでした。


10畳の座敷の床の間には甲冑が置かれていました。


居間です。180年舞うの生活の実感が伝わってきます。


こちらは板の間です。下の図面で納戸と書かれているところです。室内には当時の調度品が置かれていたことから江戸時代の武士の生活を垣間見ることが出来ました。


台所は土間になっており窯が中央にありました。土間の部分に関して内部に入れます。


土間には、いろんな桶が並べられていました。


佐々木すみ江さんと三浦貴大がの写真が飾られていました。こちらで映画も撮られたようです。


こちらが旧河原家住宅の配置図です。

こちらが旧但馬家住宅です。
こちらは当時のままの所在地です。そのために建物だけでなく、屋敷地の形状や植栽にも武家屋敷の特徴をよく残しています。


こちらの建物も正確な建築年は判りませんが文献や絵図から1821年から1837年の間に建てられたと推定されています。最初にこの住宅に住んだのは誠心流槍術の師範であった井口氏で明治になって岡田氏に移り、その後に但馬氏に代わりました。井口家の家禄は150石と佐倉藩の中では代表的な中級家臣だったようです。


正面が玄関で左側が一番大きな座敷です。但馬家には自由に室内に上がって内部を見ることが出来ます。玄関から上がってください。


こちらが裏側で一番手前が土間になっているので台所だと思います。


こちらが居間で奥の部屋が仲のまで、さらに奥が座敷です。


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こちらの座敷には甲冑が飾られていました。さすが武家屋敷です。


こちらが旧但馬家住宅の配置図です。

こちらが旧武居家住宅です。
こちらの建物は茅葺が傷まないようにカバーがされていました。


武居家は「天保の御制」と呼ばれる居住の制における百石未満(小知)の藩士が住む小屋敷の規定と家屋の規模が一致しています。幕末にこの家に住んでいた田島伝左衛門は90石の禄高であることも「天保の御制」と一致します。右側の入口が玄関でその横の入口が台所(土間)への入口です。こちらの建物も靴を脱いで内部に上がることが出来ます。


建物の裏側の写真も紹介いたします。90石と言えども敷地は当時290坪の武家屋敷でした。武居家は1996年に250m東の当時の場所からから保存のために移築されました。
参考ですが、たそがれ清兵衛こと井口清兵衛は50石でした。確かに映画の中でも建物は大きくなかったけれども敷地は広かったです。武士の一分の三村新之丞は30石で、隠し剣鬼の爪の片桐宗蔵の家は100石もらっていましたが父親の切腹で30石に減らされました。


土間の台所から奥を見たところです。武居家の内部には武家屋敷の敷地から出土した昔の陶磁器や藩士の生活に関する資料などが展示されています。


こちらが床の間のある6畳の座敷です。藩士の写真が飾られています。名前は読み損ねましたが、もしかしたら田島伝左衛門かもしれません。機会があれば確認いたします。


こちらが旧武居家住宅の配置図です。

こちらが映画の世界ですが、たそがれ清兵衛こと井口清兵衛の屋敷です。同じくらいの大きさの屋敷です。「天保の御制」で百石未満の藩士の規定が関係しているのかもしれません。この模型は寅さんで有名な葛飾柴又の山田洋次ミュージアムに展示してありました。


武家屋敷通り(鏑木小路)辺りの判りやすい地図があったので紹介いたします。但馬家と河原家の移築前と移築後の位置がわかりやすく書かれていました。破線で書かれているのが当時の敷地の区割りをしめしています。この地図は左が北方向なので上で紹介した地図と比較するときは半時計回りに90度回転してイメージしてください。ひよどり坂の方向に、お城があります。
くらやみ坂が真ん中辺りの旧但馬家住宅と旧河原家住宅の間にあります。 くらやみ坂は大手門への近道のため、侍が登城時にはこの道を利用したとも言われているそうです。


これが「ひよどり坂」です。下から武家屋敷の方向を撮っています。背中側がお城の方向ですが一旦下がった後にまた登ります。このような判りにくい道で敵から城を守ったのだと思います。急な長い坂道なので休憩場所が設けられていました。


今も使われている昔の武家屋敷もありました。茅葺は傷まないようにカバーがされていました。現在でも生活出来るようにサッシをつけたりと改築されされています。このような建物を昔通りに復元整備したのが今回紹介した3軒の武家屋敷だと思います。今から30年前の1983年(昭和58年)の説明付の地図が武家屋敷通りに建てられていましたが、そのころは沢山の古い建物があることが、その地図からわかりました。仕方がないことだとは思いますが30年でずいぶんと減ってしまいました。佐倉市でも武家屋敷が残っているのは紹介の場所と中尾余町だけとなったそうです。


帰りは但馬家と河原家の間の佐倉の古径(こみち)である「くらやみ坂」を通って駐車場まで750mの道を歩いて帰りました。先ほど紹介した「ひよどり坂」も佐倉のサムライの古径(こみち)と呼ばれています。佐倉の町には、このような小径が沢山ありそうです。


緑のラインが、くらやみ坂を通って帰った道です。青いラインが佐倉市立美術館から歩いてきた道です。車の場合も青いラインとなります。

より大きな地図で 佐倉市立美術館⇔武家屋敷 を表示