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水戸と言えば水戸黄門 [水戸]



日本三大庭園の偕楽園に梅を見るために水戸に行ってきました。水戸と言えば水戸黄門で有名な常陸国水戸藩の第2代藩主の徳川光圀(1628年7月11日~1701年1月14日 水戸光圀)です。隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされていると考えられていますが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく関東地方の範囲から出た記録は無いそうです。とは言え徳川家康の孫に当たり、徳川一門の長老として将軍綱吉期には幕政にも影響力を持ったことは史実です。上の写真は水戸駅の前にある水戸黄門の像ですが、テレビカメラで撮影されている方がおられました。カメラマン以外にスタッフらしい方も2人おられました。

水戸には家の最寄駅から船橋と柏を経由していきました。柏からは特急「フレッシュひたち9号」の自由席に乗りました。こちらが「フレッシュひたち」の車内です。


常磐線沿いには古い建物が沢山ありました。古い立派な建物を、これだけまとまって見たは久しぶりでした。


水戸到着寸前の偕楽園あたりの景色です。見えている湖は千波湖です。


水戸駅に着きました。この先に改札機があります。


水戸駅前です。冒頭の写真の水戸黄門と助さんと格さんの像は水戸駅前にありました。写真の真ん中あたりに「水戸黄門 助さん 格さん」の背中側からの像が小さく見えると思います。


光圀(義公)の生誕の地が駅の近くにあるらしいので、駅の近くを探していると「水戸黄門神社 義公生誕の地」の看板を見つけました。義公というのは死後に奉る名前である諡号(しごう)です。


義公生誕の地が水戸市指定文化財であるとの説明がありました。内容は下の枠内の通りです。
水戸市指定文化財  義公生誕の地
水戸が生んだ不朽の傑人「水戸黄門光圀」(義公)は 初代水戸藩主頼房(徳川家康の第11子)の第3子で寛永 5年(1628)6月10日家老三木仁兵衛之次の邸に生ま れた。
母は谷氏(靖定夫人)といい義公の生誕を前にこの屋敷に 一粒の梅の実をまいた。義公生誕とともに芽生え、成長と ともに育ち、寛文7年(1667)義公40才の春 ここに賞花の 宴を催し「朽残る 老木の梅も 此宿のはるにふたたび あふぞ嬉しき」と詠んだ。歌に生母への思慕の情がうかがわれる。
水戸市教育委員会


光圀が三木亭で生まれた経緯は、光圀の母である久子は奥付きの老女の娘で、正式な側室ではなかった。久子は母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て、光圀の兄である頼重を懐妊したが、久子の母はこのことに憤慨し、正式な側室であったお勝も機嫌を損ねたため、頼房は堕胎を命じた。同じく奥付老女として仕えていた三木仁兵衛之次の妻・武佐が頼房の准母である英勝院と相談し、密かに江戸の三木邸で頼重を出産したという。光圀を久子が懐妊ときも同様に堕胎の命令が出されたが、三木夫妻は主命に背いて密かに光圀を水戸の三木邸で出産させたそうです。「義公遺事による」
今は、町の中で昔の面影のものは残っていませんが、このあたり一帯が家老であった三木仁兵衛之次の屋敷であったのだと思います。とりあえず水戸黄門に関わる場所に来ることが出来ました。ちなみに水戸黄門は物語の題名でもありますが、徳川光圀が権中納言であったころの別称でもあります。

365日、にぎわう名物橋 [トルコ]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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何が名物かというと、橋の欄干から沢山の人が釣り糸たれていることなのです。
イスタンブールでは沢山の人たちが橋で釣りをしていることは前回トルコに来たときに聞いていました。夕方に、その橋に散歩で来てみました。確かに沢山の人が魚を釣っていました。橋の名前は金角湾の入口にかかっているガラタ(Galata)橋だそうです。丘に建つ気になる塔はガラタ塔(Galata Kulesi)です。

西に太陽が沈む時間帯でした。遠くにイスタンブール最大のスレイマニエ・モスクも見れました。そのモスクを見に行くために急いでいました。せめて日が沈む前に着きたかったのです。


魚を釣り上げたところです。小さな小魚です。


釣ってその場で売っている人も見かけました。並べられた魚を撮りました。小アジでした。拡大してみてほしいです。新鮮さが伝わってくると思います。おいしそうです。
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拡大すると釣り上げられている小アジを見つけられると思います。
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海面からはかなり高さです。船も頻繁に通るため油断していると船を釣り上げてしまうかもしれないですね。