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昼食は「活いか丼」 [函館]


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五稜郭を見て、函館山に登った後は昼食です。函館は塩ラーメンがおいしいとタクシーの運転手さんが進めてくれた鳳蘭(クリックした人は100円引き)というお店に行くつもりでしたが、雷が鳴るほどの雨が降ってきたため、函館駅のすぐよこにある函館朝市の中のどんぶり横丁市場に入りました。どんぶり横丁市場は2005年4月25日にオープンしたそうです。
美味しそうな海鮮丼の写真や見本が並んだお店が沢山あり、どこに入るべきか、迷いました。さらに、お店に入っても、迷うほどの海鮮丼の種類がありました。前日の夕食には活イカを食べましたが、ここでも迷わず「活イカ丼」を注文しました。値段は1890円でした。目の前の水槽からイカをすくってから、あっと言う間に出てきました。写真はクリックすると拡大するように設定しています。是非とも拡大写真を見てください。

どんぶりは味噌汁付きですが、味噌汁には驚くほどの大きな蟹の爪が入っていました。クリックすると味噌汁だけが拡大するので見てください。

旧水海道小学校本館 [水戸]



水戸の偕楽園の近くに132年前の1881年(明治14年)に建てられた小学校の建物がありました。この小学校が建てられたのは茨城県常総市(旧 水海道市)ですが江戸時代は下総国豊田郡水海道村と言いました。 明治10年代における県下唯一の洋風建築でもあったことを考えると明治維新とともに新しい文化が浸透していったのだと思います。当時としては画期的なことだったのだと思います。
下総国豊田郡水海道村は明治から茨城県豊田郡水海道村となり1871年に茨城県豊田郡水海道駅になり1889年に茨城県豊田郡水海道町となったことから水海道駅という地名が使われた時代に建てられたことになります。

水海道市立水海道小学校から茨城県立歴史館に寄贈され1973年に移設されるときに建設当初の設計図を元に当初の姿に復元したそうです。茨城県指定文化財です。すばらしい建物なので紹介いたしました。


創設当時は、この天井に太鼓を吊し授業開始の合図などの時刻を報じたことから鼓楼と呼ばれています。
  場所  茨城県立歴史館の敷地内
  住所  茨城県水戸市緑町2-1-15
  電話  029-225-4425
  時間  9:30~17:00
  休館  月曜日(祝日の場合はその翌日)
  料金  無料
  HP   http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/mitsukaido.htm
  移設前 茨城県常総市水海道天満町2516番地1 ←1973年以前の位置


室内の撮影は禁止されているので、ここから下は頂いたパンフレットの写真で紹介いたします。一部、茨城県立歴史館のHPの写真も使わさせていただいています。こちらが展示室で沢山の資料に加えて全国的に活躍した人などを紹介していました。


当時の机や椅子やオルガンで教室を再現していました。さらに給食も再現されていました。こちらのみHPの写真を使わさせていただきました。


明治14年当時としては高価で貴重な輸入品であった板ガラスや色ガラスを使ってステンドグラスや窓ガラスが作られました。2階には上がることが出来ないのでバルコニーからの写真を紹介いたします。


この校舎を設計・建築したのは地元の宮大工で棟梁の羽田甚蔵(はだ じんぞう)氏です。左の写真が羽田甚蔵氏で、水海道の一言主神社・天満宮などの造営も行なったといわれている方です。西洋風の校舎を建てるために横浜まで見学に行ったといわれています。右の写真のように一階の梁に見られる運形の彫刻は、宮大工の技との和洋混交の建築のの特徴を示しているといえます。


1932年12月に講堂の完成を記念して東京の楽器店から同校後援会の寄付金と町の予算を合わせ1,200円で購入したピアノが実はすごい歴史的なものでした。この時はピアノの存在を知らなかったことからピアノの展示室には入らなかったのでピアノを見たい方は電話でピアノの見学が可能かどうかを確認してから行かれたらよいと思います。
このピアノは今から148年前の1865(慶応元)年にアメリカ・ニューヨーク市のスタインウェイ・アンド・サンズ(Steinway & Sons)社で製造された製造番号が11013番のピアノです。製造当時にはローズウッド木地仕上でした。
長さは203cmで、鍵盤は85鍵(白鍵:象牙製、黒鍵:黒檀製)です。このピアノ にはヘルツ式スプリング採用・ダブルエスケープメント・レペ ティションアクションという素早い連打を可能にするメカニックがあり、これは現代のピアノアクションの原形といえます。
ハーパー夫人によって1871(明治4)年に、このピアノが購入さ れて横浜に向けて送られました。日本に洋楽が導入された幕末・ 明治維新期のピアノのうちの1台で、文明開化を象徴する楽器でもあります。
これを購入した、この小学校では音楽の授業 や各種の儀式,音楽会などにこのピアノを活用してきたそうです。また同年に片野次郎平先生が音楽教育の一環として「金の鈴合唱 団」を作ったり、その後、同校が各種の音楽コンクール等におい て素晴らしい成績をあげたりしたことも、このピアノの存在によ るということだそうです。

水戸城にあった藩校 弘道館 [水戸]



江戸時代には、この橋の場所には三の丸と二の丸を結ぶ橋がありました。橋の手前が二の丸で橋のすぐ近くに大手門がありました。橋の向こう側が三の丸でした。江戸時代後期に三の丸の中に常陸国水戸藩の藩校である弘道館が作られたのです。橋の向こうに現存する弘道館(こうどうかん)を見ることが出来ます。
水戸城は本丸、二の丸、三の丸を含んだ城郭内の施設で弘道館は数少ない現存設備なのです。その弘道館を訪問いたしました。
橋の名前は大手橋ですが、なぜか橋の欄干にはひらがなで「たほてはし」と書かれていました。この橋の竣功日は左の欄干に昭和10年12月と書かれており、1935年と見た目よりは古いことがわかりました。

こちらが弘道館側から見た昔の大手門です。


こちらは二の丸側から見た昔の弘道館です。服装や人力車が走ってる風景から時期は明治と思われます。


そして、これが2013年3月7日の弘道館です。大手橋から撮りました。


こちらが弘道館の正門と弘道館を囲む塀です。弘道館は国の特別史跡に指定されており、その中でも正門と正庁と至善堂は国の重要文化財に指定されています。つまりこの正門は国の重要文化財なのです。


正門を拡大いたしました。この門には水戸藩内の改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が争った弘道館戦争の傷跡が残っています。


それが鉄砲の痕です。扉には四角い板で穴を塞いでいるのが、鉄砲の弾が貫通した跡です。門の右の柱にも弾が食い込んだ跡が見受けられました。保守派(諸生党)が弘道館に立てこもり大手門側から改革派(天狗党)が撃った弾痕なのです。


弘道館境内に入って驚かされました。なんと正庁と至善堂は補修工事のために白い塀で囲まれていたのでした。2010年3月11日の東日本大震災により弘道館も大きな被害を受けたのですが国の重要文化財であることから補修の許可に時間がかかり最近補修工事が始まったとのことでした。


こちらが正面から見た正庁です。部分的に透明のプラスチックの壁になっていることから一部を見ることが出来ました。


瓦の被害は少なくて健在に見えました。


こちらが裏庭から見た正庁と至善堂です。正面が正庁で左の方が至善堂です。


昔の弘道館の図面です。赤枠で囲まれている部分が現存している弘道館です。天文台、③武館、⑤医学館のあたりは水戸市三の丸小学校となり、調錬場は県庁と図書館と水戸警察が建っていました。水戸市三の丸小学校はレトロナ雰囲気に作られているので必見です。多くの藩士たちが学んだ②文館のあたりは弘道館公園となっており建物は残っていませんでした。


現在の航空写真に昔の弘道館の範囲と現在の弘道館の範囲を記載いたしました。
  今の弘道館     ピンクの枠ので囲まれた範囲
  昔の弘道館     緑の枠で囲まれた範囲
  散策ルート      赤い線
  正庁          ピンクの枠の緑のマーク
  本丸&二の丸    橙色で囲まれた範囲
  現在の三の丸地名 空色の枠で囲まれた範囲 

本丸や二の丸を含めた範囲の航空写真

より大きな地図で 弘道館 を表示
震災前の正庁の写真が工事現場の壁に掲載されていたので紹介いたします。これが正庁です。正庁は学校御殿とも呼ばれる弘道館の中心的な建物です。特に正席の間は藩主が臨席して文武の試験や諸儀式が行われた重要な場所です。正庁は玄関から板廊下をへて上手の3室(正席の間、二の間、三の間)とこれに付属する湯殿・便所があり、下手には来館者の控の間である諸役会所などが置かれていました。内部は、高い天井に畳敷きの床の間や違い棚、付属院を備えた格調高い書院造です。また、屋根にも大棟に青海波文様を施すなど、御殿建築にふさわしい意匠(工夫)が凝らされています。


正庁に飾られている扁額で「游於藝」と書かれています。游於藝は論語の一節です。


こちらが上で書いている藩主も臨席する最も格式の高い「正席の間」です。


ここでは葵の紋が入った畳縁が使われています。


井戸がありました。藩校当時、この近くに御台所があり、この井戸が使われていたそうです。


こちらが孔子廟です。孔子廟には,学問の祖である孔子が祀られています。創設者徳川斉昭は,弘道館の聖域に鹿島神社と孔子廟を併設することにより,神儒一致の精神をあらわしました。
孔子廟も震災で被害を受けましたが復旧工事が完了したそうです。


孔子廟の門になる戟門はまだ補修は行われていませんでした。


八卦堂(はっれどう)も補修工事中でした。八卦堂は「弘道とは何ぞ」で始まる弘道館建学の精神を記した「弘道館記」の石碑が納めています。


学生警鐘の鐘楼は完全に倒壊しており補修は決まっているようでしたが工事は始まっていませんでした。学生警鐘は鐘楼につるされて江戸時代の後期に弘道館で学ぶ学生たちに時を告げていた青銅製の鐘いた鐘です。


これは要石歌碑で、書かれている歌は烈公の自選・自筆によるものです。碑には「行末毛富美奈太賀幣曽蜻島大和乃道存要那里家流」と書かれていました。意味は「大和の道は万古不易の大道で、日本人の実践すべきものであることを示された。」とのことです。


八卦堂の近くにも江戸時代に使われていた井戸がありました。


この碑は徳川斉昭(烈公)が天保4年(1833年)に就藩した時に領内に梅が少ないことを知り江戸屋敷の梅の実を集め水戸に送って育苗し偕楽園や弘道館、さらには領民の家々まで植えさせた由来記してあります。また、梅の花を鑑賞するばかりでなく、その実は、戦いのときの副食としても役立つので蓄えておくようにといった梅の効用についても述べてあります。碑文は烈公の自選で天保12年(1841年)に建てられたそうです。碑の名前は種梅記碑です。


弘道館の神殿として創祀された鹿島神社です。安政4年(1857年)5月9日に鹿島神宮の御分霊を遷祀したのが始まりだといわれています。その時に烈公が自ら鍛えた太刀を奉納して御神体に擬え、弘道館に魂を入れましたと伝えられています。その太刀は現在、水戸市指定重要文化財になっています。社殿は戦災にあい、しばらくは仮ででしたが1972年に伊勢神宮の別宮の一つ「風日祈宮」の旧殿一式を移築したそうです。


鹿島神社の前に立った景観です。奥に本殿があります。これは神社特有ですね。裏に回れば見ることが出来ます。


水戸の偕楽園の梅園を紹介しましたが弘道館にも沢山の梅がありました。こちらも梅の開花は限られていました。


こちらにも梅の古木がありました。こちらは臥竜梅(がりゅうばい)です。花が咲いていました。


こちらが臥竜梅の花です。


これ以外の咲いていた花を紹介いたします。こちらが実生野梅(みしょうやばい)です。


偕楽園でも沢山咲いていた早生種の八重寒紅(やえかんこう)です。


こちらの梅は白難波(しろなにわ)です。これ以外はこれから咲いていきそうです。この時(2012年3月7日)から15日後が見ごろではないかと言われていました。


黄色の服の方は市民観光ボランティア「歴史アドバイザー」の方で無料で弘道館や梅のことを案内してもらえます。私は六名木と正門の銃弾痕のことを教えてもらいました。写真は文明夫人(第9代藩主 徳川斉昭の夫人)の歌碑に関して説明されているところです。