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天保14年の医学塾 佐倉順天堂 [千葉]



幕末の佐倉藩の藩主で幕府の老中を努めた堀田正睦は蘭学を奨励し、西洋医術の普及に力を入れていました。その頃、江戸で有名な医師佐藤泰然を招いて佐倉城下の本町に順天堂を開かせました。その佐倉順天堂の建物の一部が今も記念館として残っています。その佐倉順天堂記念館に行ってきました。佐倉市に住んでいながら今まで知らなかったすごい歴史に驚きました。その佐倉順天堂を紹介いたします。佐倉順天堂が出来るまでの経緯です。
 1838年(天保 9 年) 佐藤泰然が江戸薬研堀に蘭方医学塾「和田塾」を創立
 1843年(天保14年) 和田塾が佐倉に移転し医学塾順天堂を開設
 1858年(安政 5 年) 現存建物の建設
つまり、こちらの医学塾順天堂は、天保→弘化→嘉永→安政→万延→元治→慶応→明治→ と、日本の医術の進歩に貢献してきたのです。

こちらが今から170年前の天保14年に創設された医学塾順天堂です。写真の建物は開設から15年目、今から155年前の安政5年(1858年)に建てられた建物です。この建物は玄関を中心に左右対称に近い形であったと思われますが、現在は入口を含めて左側だけが残っています。千葉県の指定史跡となっているこの建物の右側には現在も開業している佐倉順天堂医院のコンクリート製の建物が建っています。ちなみに佐藤泰然は現在の神奈川県川崎市で生まれました。1830年(26歳)に蘭方医を志し、足立長雋や高野長英に師事し、1835年(31歳)に長崎に留学し、1838年(34歳)に江戸の両国薬研堀に和田塾を創立しました。


当時の佐倉順天堂職員の写真ですが、まさにこの建物なのです。佐倉藩は当時、「西の長崎、東の佐倉」と言われるほど西洋医学研究の先進地だったのです。
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慶応元年(1865年)5月時点の佐倉順天堂の門人(塾生)たちの出身地です。
ここではオランダ医学書を基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実践的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が参集しました。
佐藤泰然の養子佐藤尚中(山口舜海)は、長崎でオランダ軍医ポンペに学んだ後、系統的な医学教育をとり入れ、ここで学んだ塾生の多くが明治医学会において活躍しました。明治時代になると佐藤尚中は新政府から大学東校(現東京大学医学部)の最高責任者として招かれた後、御茶ノ水に順天堂医院を開業しました。それが現在の順天堂大学につながっていきました。
一方、佐倉の順天堂は養子佐藤舜海(岡本道庵)が受け継ぎ、佐倉順天堂として医療活動を続けました。画像をクリックすると慶応元年5月時点の門人(塾生)の名前と出身地が書かれた名簿を表示します。藩の枠を超えて沢山の人たちが集まったのには感動します。幕末から明治期に御典医から軍医として活躍した松本良順は佐藤泰然の実の息子で、幼名は佐藤順之助でしたが、幕医の松本良甫の養子となり松本良順となりました。
クリックすると名簿を表示します。

これが佐倉順天堂の模型です。
この模型からも当時の規模が伺えます。中央の少し左側の大きな建物の一部(約80%)が現在残っている建物だと思います。右の配置図の赤く着色した部分です。



これが玄関の入口部分です。


玄関を上がったところです。一時期は受付に使われたような雰囲気がありました。


内部から玄関の方を撮りました。建物の中には沢山の貴重な資料が展示されており、建物と同様に、見る価値の高いものでした。


当時の器具も残っており、展示されていました。


玄関からまっすぐにのびている廊下です。玄関から反対側から玄関方向を撮りました。この廊下は昔は別棟への長い渡り廊下とまっすぐにつながっていました。


解説もしっかりと行われていて参考になりました。赤い病院の文字が印象的です。


一番手前が「小児科書」で青い本が「外科医法」と書かれた当時の医学書ではないかと思います。外科医法はドイツの外科医ストロマイエルの原著を蘭訳本を介して邦訳したもので全部で18冊あり日本の西洋外科医学の古典だそうです。


大切に保管された書類です。説明には「医案書」と書かれていました。今の病院のどのような書類に相当するかはわかりませんが、大切なもののようです。


左が領収書で木村康どの宛の診察料で壱円(一円)と書かれていました。領収書の日付である明治廿九年七月十四日ごろには、かなりの額だと思います。右が種痘証で日付は明治十八年三月四日(1882年)となっていました。日本で種痘が行われたのは1790年ですが、定着したのが種痘法が出来た1909年ですが、その27年前の種痘を行った証明書です。種痘を受けた人の名前も書かれていますが達筆すぎで読めません。佐藤泰然の功績の一つが、感染者の4~5割が死に至る感染症として長く恐れられていた天然痘はのワクチンである種痘の開発でした。


この部屋に当時の順天堂の模型が置かれていました。


ビーカーやフラスコなど学校の実験室を思い出させてくれる光景でした。


こちらでは、主に江戸時代のものが置かれていました。


江戸時代に購入した英国製の顕微鏡です。


江戸時代に行われていた手術の光景を描いた絵です。
この絵は後藤三男の描いた「嘉永年間における 順天堂外科手術の図」です。嘉永年間とは1848年から1854年までの期間を指します。


クリックすると登場人物を表示江戸時代の手術道具です。ノコギリなど、すごい手術が行われていたことが伝わってきます。テレビドラマ「JIN -仁-」の世界に入ったような感じでした。右の写真が「JIN -仁-」の主役の南方仁です。クリックすると動画を表示します。


これも手術道具かと一瞬驚きましたが、薬を作る道具でした。ちょっと安心いたしました。


これは安政元年の治療費を定めた料金表である療治定です。順天堂で実際に行われていた治療を知る貴重な資料です。その内容を見て驚きました。是非とも写真をクリックしてみてください。江戸時代にこれだけの治療が行われていたのかと驚かれると思います。
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拡大するのが面倒な方に一部を拡大したものを掲載いたしました。割腹出胎児術(金十両)の文字が読み取れます。帝王切開が順天堂では江戸時代に行われていたことに驚きました。上の写真をクリックした拡大写真ではガンの摘出手術と思われる治療など高度な医療が行われていた様子が読み取れます。雑病治(銀10匁)以外は全て金(両 疋)での表示です。江戸時代は金 銀 銭(寛永通寳)の三貨制度でした。江戸後期は金1両=銀150匁だったので、雑病治の銀10匁は金27疋=(10÷150x400)程度の価値になります。
 金1両=金400疋=銀50~150匁(平均60匁)=銭4000文 1貫=1000匁


現在の貨幣価値に換算したのが、こちらです。帝王切開だけでなく白内障手術まで安政元年時点でおこなわれていたのには驚きました。現代で言えば最新医療なのだと思います。
  3cm刀傷      6,800円    膀胱穿刺手術    20,500円  
  乳ガン手術    68,400円    動脈止血      68,400円
  手足の切断手術  136,800円    白内障手術      68,400円
  卵巣水腫手術   273,700円    帝王切開手術   273,700円


道路から見た佐倉順天堂です。


実は隣に病院があります。それが医学塾順天堂が直系で続いている佐倉順天堂医院です。医院長はなんと名前が佐藤仁さんでした。テレビドラマ「JIN -仁-」の主人公の名前が南方仁です。名前の「仁」が同じなのが因縁を感じてしまいます。


佐藤仁さんは初代の蘭医の佐藤泰然の7代目になるそうです。祖父の代で一度閉鎖しましたが、父が再度開院したそうです。佐倉順天堂医院の看板です。最近まで佐倉順天堂醫院の文字が使われていたようです。


旧佐倉順天堂(佐倉順天堂記念館)を紹介いたします。
中心の青いマークが旧佐倉順天堂の場所です。100円でこれだけの体験が出来るのは値打ちがあります。
地図の中のアイコンマイナスを数回クリックすると場所がわかってくると思います。
 住所 千葉県佐倉市本町81番地
 電話 043-485-5017
 開館 9:00~17:00
 休館 月曜日(祝日の場合は翌日) 12月28日~1月4日
 料金 一般 100円 児童・学生 50円 (小中学生は土曜日無料) 

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