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サザエのつぼ焼き [東京]



さざえの壺焼きは美味しいですね。特に大きなサザエは食べごたえがあります。今回のサザエも大きかったです。

丸々サザエのつぼ焼きもいいけれども大型のサザエは切ってあっても食べごたえがありました。鎌倉に行った日など肉系の食事が続いたので、この日は寿司でも食べようということで、みんなと意見が一致したのですが午後の4時ごろに開いているお店は見当たりません。  
調べてみると、ありました。


今年(2013年1月5日)の初競りで昨年暮れに釣り上げた大間のクロマグロ222kgを1億5540万円で落札した「すしざんまい」です。昨年(2012年1月5日)の初競りでも1月3日夕~4日朝に釣り上げた大間のクロマグロ269kgを5649万円で落札しましたが昨年の重さあたり3.333倍の落札でした。その「すしざんまい」の新橋店は24時間営業なのです。さっそく探して入りました。そして頼んだのがマグロです。全員一皿づつ頼みました。初競りで落としたマグロを1kgに換算すると70万円だったそうです。それで寿司をつくると赤身で1万円/一個で中トロで5~6.7万円/一個で大トロだと6.7~10万円/一個に相当するそうです。それを通常価格の赤身で134円/一個で中トロで313円/一個で大トロだと418円/一個で提供したそうです。運がいい人は200~270分の一の値段で食べれたことになります。
もちろん我々が食べたマグロは初セリのマグロではありません。これは赤身、中落ち、中トロ、大トロ、あぶりトロのマグロセットです。


やっぱりビールです。


これは赤むつの刺身だったと思います。今回は刺身を多く頼みました。


こちらはシマアジの刺身です。
寿司やだと刺身もいろんなものが食べれるのでいいですね。お寿司のメニューに書かれているものは全て刺身でも出してもらえると書かれていました。


これはアオヤギの小柱とヒモの刺身です。アオヤギは東京湾の名物ですね。


刺身がこれだけ出てくると日本酒も飲みたくなります。


さらに追加でタイラギの刺身です。タイラギはタイラガイ(平貝)ともいい帆立貝のように大型の貝柱を持った二枚貝です。帆立貝よりサクッとした食感が好きです。イカの刺身も頼みました。


最後はさっぱりとした巻き寿司にいたしました。


樹齢750年のビャクシン(柏槇) [鎌倉]



鎌倉で鶴岡八幡宮の次に訪れたのは建長寺でした。建長寺には樹齢が約750年のビャクシンがありました。一般家庭の庭や垣根などに植えられる木なので、まさかここまで大きくなるとは思ってもいませんでした。迫力もありました。中学生の子が2人、幹の近くに立っているので大きさを比べてください。
ビャクシンの下には牡丹が沢山植えられていました。これからが見頃だと思います。

750年以上の樹齢のビャクシンは日本国内で多数ありますが、胸の高さでの幹回りが6.5mはかなりのものです。もちろんこれを超えるものはありますが、これほどの幹回りは珍しい方に入ります。
ビャクシンで最も有名なのが大瀬崎で約百三十本の本数ならびに千年超える樹齢により天然記念物に指定されています。


正式名はイブキ(伊吹)でヒノキ科ビャクシン属の常緑高木です。 別名としてビャクシン(柏槇)と呼ばれています。果物のナシ(梨)の赤星病の宿主になる木であることから梨園の近くでは規制されることでも有名です。
昭和59年(1984年)時点で樹齢が約730年と推定されています。それから28年が経っているので計算的には約758年なので確実なところでは樹齢は750~760年ということになります。。宋からの渡来した初代住職(開山)の蘭渓道隆によって建長寺創建の際に種子がまかれたと書かれています。
建長寺の創建が1253年(建長5年)なので創建時に種子を蒔いたとすれば樹齢は759年となりますが、控え目に数えてタイトルは「樹齢750年のビャクシン」とさせていただきました。いずれにしても建長寺の歴史をすべて経験したきた生命体なのです。


航空写真の中心が、今回のビャクシンですが、1本だけでなく沢山のビャクシンの巨木が植っていることがわかってもらえると思います。

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上の写真には建物が写っていなかったので建長寺らしい写真も紹介いたします。こちらが仏殿とビャクシンです。左側のビャクシンが紹介した一番大きなビャクシンです。


こちらはビャクシンと法堂です。冒頭の写真と同じアングルです。同じ中学生の子が立っているのがわかってもらえると思います。


ビャクシンの後ろの建物は三門です。ここには2012年4月18日に訪れたので今はボタンが満開のような気がします。沢山の棒には蛇の目笠が建てられていると思います。

鎌倉では人力車が大流行 [鎌倉]



鎌倉の記事の続きです。すでに牡丹園町並古い郵便ポストを紹介しています。今回は鎌倉で沢山走っていた人力車を紹介します。最近では日本の有名な観光地には必ず人力車があります。
最近では京都と北海道の小樽でお目にかかりました。それて比べても鎌倉の人力車の数が多かったように感じました。乗っている人力車も沢山見かけました。
この写真は鶴岡八幡宮の入口の鳥居の前です。左側の引き手の人は後でもう一度、登場します。

ネットで調べると「えびす屋」と言う全国店があり、そのお店は「京都嵐山総本店」「京都東山店」「小樽店」「雷門店」「奈良店」「宮島店」「関門店」「湯布院店」で展開していました。最近行った湯布院でも人力車を見かけました。料金は設定された一区間(1km程度)で2000円/一人 or 3000円/ニ人です。60分貸切で9000円/一人 or 15000円/ニ人でした。鎌倉での「えびす屋」の設定コースは下記の通りでした。貸切はいろんな時間で設定できるようなので現地で相談してみてください。
クリックすると別の写真  三ノ鳥居遊覧コース
  二ノ鳥居 ~ 鶴岡八幡宮
  長谷駅 ~長谷寺(または大仏)
  鎌倉駅西口 ~ 銭洗弁財天
引き手の人を車夫あるいは俥夫と呼びます。全国で最も古い車夫の方は鎌倉の老舗の「有風亭」の青木登さんと言われています。人力車をはじめられたのが今から29年前の1983年*だそうです。1948年3月下旬生まれで64歳になる青木登さんは、いろんな伝説を作られたのでしょうね。まさに伝説の人です。右上の昔の青木登さんの写真はネットから拝借いたしました。今が一番、気持ちのいい季節なのかもしれません。乗っている皆さんも気持ちよさそうでした。 *:2008年の記事で人力車を始めて25年と書かれていました。


この写真の中だけで4台の人力車が写っています。かたまって走っていたので同じ仲間の人なのかもしれませ。


こちらは笠をかぶったスタイルです。こちらは全国店の「えびす屋」の法被(はっぴ)を着ておられました。


この人が冒頭の写真の左側の人です。走っていく方向は鎌倉駅西口なので、どこかでお客さんを降ろして、駅に戻っているのだと思います。写真付の証明書を持っておられたので、踏切で待っているときに、免許がいるのかと聞くと「研修を受けると人力車を引くことが出来る」との答えでした。遮断機が下りている間にお話をさせてもらいました。ちなみに彼の名前も青木さんだったと思います。第二の青木登さんになるのでしょうか。もし、この人を見つけたら人力車に乗ってあげてください。
人力車に書かれていた彼の名前を検索していて、驚いたことに「えびす屋」サイトでこの方のプロフィールが紹介されていました。→ポチッ
現時点で鎌倉の「えびす屋」所属の方が23名おられることもわかりました。
ということは全国の俥夫の方もわかるということです。人数を調べてみました。 
嵐山62名 東山47名 小樽15名 雷門48名 鎌倉23名 奈良15名 宮島 5名 関門13名 湯布院14名の合計242名でした。それ以外に鎌倉力車(東京力車)14名有風亭飛車があります。


こちらは鎌倉駅の西口です。駅から降りてくる人を待っているのだと思います。

ネットで記載されていた伝説の人、青木登さんの言葉を紹介します。
青木登1983年、青木さんは飛騨高山の人力車店から譲ってもらった1台の人力車を携えて、北鎌倉に居を移した。「人力車は、道路交通法上は自転車と同じ。免許も何もいりません。でも、人を乗せて道を走る以上、事故だけは絶対に起こしてはならないと心に誓いました」と、当時を振り返る。
人力車は人を乗せたバランスが肝心。うっかり俥夫がかじ棒を離せば、客は後頭部から地面に叩きつけられることもある。青木さんは自分で研修期間は3ヶ月間と決めると、まずは、無人で人力車を引いて鎌倉の町を走った。そして、走る自信がついたところで、「練習ですから」と無料で乗ってもらい、お客さんを乗せて走る練習に励んだ。
鎌倉は坂が多い。谷(やつ)と呼ばれる細い谷や坂道は鎌倉独特の景観だ。人力車が危険なのは、登るよりもスピードが出る下りのほうだ。人力車のブレーキは俥夫の足だけ。そして、急には止まれない。車が通れないばかりか、人力車が壁を傷つけそうな狭い路地もたくさんある。
しかし、そんな道こそ人力車でしか味わえない醍醐味がある。だから、細い路地を走るコツも覚えた。ただ人を運ぶだけでなく、観光ガイドの役目も負う人力車の仕事は、道と街を知ることが大切だと悟った青木さんは、研修期間中、鎌倉中をくまなく走ってみた。
そんな青木登さんには円覚寺門前で会えるそうです。

今から143年前の1870年(明治3年)3月22日が日本の人力車が生まれた日(人力車の営業願いを提出した日)だそうです。その記事の内容も紹介します。ただし2年前の記事なので現在の人力車の台数は500台よりは格段に多くなっていると思います。
1886年時は明治時代初期、移動の手段が駕籠や馬車などと限られていた時代、もっと手軽な乗り物を作ろうと立ち上がった男たちがいた。元町役人の和泉要助、八百屋の鈴木徳次郎、車大工の高山幸助の3人は、人間が二輪車をひく「人力車」を発明に成功。明治3年に東京府(現東京都)に人力車の営業願いを提出。翌年に日本橋で初の人力車営業が始まると、瞬く間に普及した。営業初年度だけで、1万台以上。開業5年で全国に11万台。クリックすると拡大最盛期には21万台にものぼり、庶民のタクシーとなった。 しかし、大正に入り、市街電車や自動車が普及すると、人力車は急速に衰退の一途をたどる。昭和10年代までに、ほとんどの人力車が姿を消したのだった。しかし、それから40年近く過ぎた昭和51年、岐阜・高山で観光用として復活を遂げる。これをきっかけに、観光地を中心に増え続け、現在は約500台にまで普及。目的を変えて生まれ変わった人力車は、その長い歴史とともに、今も走り続けている。

タグ:鎌倉 人力車

鎌倉では古い郵便ポストが健在でした。 [鎌倉]



鎌倉駅と鶴岡八幡宮を真っ直ぐに結んでいる若宮大路には昔の建物が残っていました。ふと見ると昔の郵便ポストもありました。この写真の右端を見てください。

さっそく写真に収めさせていただきました。表示をみると一日に2度ほど郵便物を集めに来るようです。
この郵便ポストは正式には郵便差出箱1号丸型と呼びます。この郵便差出箱1号丸型は、今から64年前の1949年から使われ始めたそうです。本体は高さ約135cmで直径約40cmです。高さ約135cmというのは現在使用されているポストの中で最も高いものだそうです。現在設置されているポストは、1号丸型、1号角型、 2号、3号、4号、特4号、6号、7号、8号、9号、10号、11号、12号、 13号、14号の15種類だそうです


以前に掲載した「鎌倉の町を散策」の中の地図です。緑色のマークのところがポストの位置です。

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鶴岡八幡宮 [鎌倉]



鎌倉では鶴岡八幡宮の神苑ぼたん庭園を紹介しましたが鶴岡八幡宮自体はこちらで紹介いたします。鶴岡八幡宮は、あまりにも有名なので、ご存じの方も沢山おられると思いますが、私のように一度も行ったことがなかった人のために写真を掲載いたします。私は鎌倉が初めてでした。上の写真はJR鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ真っ直ぐに伸びている若宮大路の真ん中の歩道です。

真っ直ぐに歩いてくるとここに来ます。この写真は鶴岡八幡宮の入口に大鳥居側からJR駅側を撮ったものです。


上の写真の場所から鶴岡八幡宮側を撮ったものです。ここからが境内ということになります。この鳥居は「三の鳥居」です。
言葉の通り「一の鳥居」と「二の鳥居」があります。「二の鳥居」は「三の鳥居」と同じように朱色の大鳥居です。「一の鳥居」は石の鳥居です。


右の朱色の鳥居が「二の鳥居」で、白く見えるのが「一の鳥居」です。
三つの鳥居を緑のマークで示しました。上から「三の鳥居」「二の鳥居」「一の鳥居」の順です。空色のマークは鶴岡八幡宮境内の中のいろんな建物などです。マークをクリックすると名前を表示します。
三つの鳥居ともに徳川四代将軍家綱によって御影石の石造で建てられていましたが、関東大震災で三つともに倒壊しました。現在の鳥居は「一の鳥居」のみ1937年に元通りに石造りで再建されて、残りの二つはコンクリート造となっています。
「一の鳥居」はJRの線路越えたところで歩いたルートからは、はずれていて写真を撮らなかったので右の「一の鳥居」の写真のみネットから拝借いたしました。
一の鳥居から本宮まで線を引いてみましたが3つの鳥居と本宮が、一直線に並んでいることがわかりました。

より大きな地図で 鶴岡八幡宮の鳥居 を表示
三の鳥居の下から鶴岡八幡宮を見た景色です。雨や曇りの天気が続いていましたがこの日(4月18日)だけきれいに晴れました。おかげで素晴らしい景色に出会えました。
太鼓橋があります。


その太鼓橋ごしに見た鶴岡八幡宮です。この太鼓橋は、1182年(寿永元年)、源平池が造営された際に架けられたものと考えられているそうです。当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかはし・あかばし)と呼ばれていました。


太鼓橋の横からの姿も紹介します。


太鼓橋脇から見た鶴岡八幡宮です。


参道を歩きながら見える鶴岡八幡宮の景観です。屋台がある景色も神社の参道の風物です。


鶴岡八幡宮側から入口の大鳥居の方向を見た景色です。


入口で清めを行う手水舎(てみずやorちょうずや)は立派でした。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。


柄杓(ひしやく)が置かれた脇には
 手水の作法
  先ず 両手を清め
  次に 清水を掌(てのひら)に受けて口をすすぎます。
      柄杓(ひしやく)には口をつけないでください。  社務所
と書かれていました。


鶴岡八幡宮の本宮(上宮)です。
大石段の左側に四角く清められた場所が有名な大銀杏があった場所ですが2010年3月10日4時40分頃に、強風のために根元から倒れました。
倒壊したことを忘れないようにネットの写真を拝借して右に掲示しました。


源実朝は1219年(建保7年)1月27日に源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁によって大石段で暗殺されたそうですが、その時に身を隠していたのが、この銀杏の木であるとの伝説があり、隠れ銀杏という別名がありました。ただし、あくまでも伝説で真意はわかっていません。1955年に神奈川県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボルとして親しまれていました。樹齢は800年とも1000年余とも言われていました。
倒れた大銀杏は3つに切断され、根元から高さ4メートルは元あった場所から左7mの場所に植えられました。その株もこの写真で確認できますが、ほんとうに大きな銀杏の木だったことが実感できます。右の写真はネットから拝借した元気な頃の大イチョウです。近未来Ⅱさんの記事へTB→ポチッ


鶴岡八幡宮は、源頼朝が鎌倉に幕府を開く100年以上前の1063年(康平6年)に、源頼義が「源氏の氏神」である京都の「石清水八幡宮」を由比郷鶴岡に勧請した鶴岡若宮(由比若宮)がその始まりです。
1180年(治承4年)に鎌倉に入った源頼朝は、鶴岡若宮を小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えたそうです。
1191年(建久2年)に火災によって焼失しましたが、頼朝は若宮を再建するとともに、大臣山の中腹に本宮を新造し鶴岡八幡宮とし、現在の本宮(上宮)と若宮(下宮)のある姿になったそうです。
こちらが本宮(上宮)へ登る大石段の右側(東側)にある若宮(下宮)です。


若宮(下宮)は横からでは全体がわからないので上から見た屋根の写真を紹介します。若宮や本宮があることはネットで調べて知りました。このときはきれいな曲線の屋根の写真を撮っただけでした。そして後で。若宮の屋根であることを知りました。


こちらの写真は本宮(上宮)に上がる大石段です。正面が鶴岡八幡宮の象徴である随身門です。


随身門からの景色です。大石段の正面下には舞殿があります。下拝殿とも呼ばれます。ここから沢山の人が本宮の写真を撮る場所でもあります。正面方向がJR鎌倉です。オリジナルの大きな写真では3つの鳥居が一直線に並んでいるのがわかりました。


舞殿のななめ横からの姿です。境内入口の大鳥居から最初に見えるのがこの舞殿だったのです。


随身門の両側には随身(貴人警護にあたる武人)が鎮座していました。


随身門脇には沢山の絵馬がかけられていました。これだけ並ぶと見事でした。


随身門をくぐるとすぐに本殿です。


本殿の屋根も芸術的でした。


本宮の回廊(宝物殿前)には7基の神輿(みこし)が並べられていました。、本宮の神輿が3基、若宮の神輿が4基だそうです。神幸祭で渡御する神輿は本宮の3基だそうです。
これらは桃山期から江戸初期のものと考えられ、若宮の神輿は本宮の神輿よりやや小柄で簡略化されているそうです。7基ともに神奈川県の有形民俗文化財に指定されています。1821年(文政4年)の火事では、諸堂は焼失してしまいますが、神輿は英勝寺に移されて無事だったと伝えられています。


本宮脇には明治天皇鎌倉御野立所と書かれた石碑がありました。明治6年4月15日に日本で初めての陸軍攻防演習が鎌倉で行われたそうです。その時に明治天皇は4月14日に鎌倉に行幸し、八幡宮裏の大臣山から閲兵された記念碑だそうです。この小道の奥が、その場所なのでしょうね。


ここから境内で気になったものを紹介いたします。左側の2つの丸い石は鶴亀石です。石の真ん中にたてられて説明書きには「記 相模國風土記稿に水をもって石面を洗う時は鶴亀の紋様が輝きあらわれると記され 大変めでたい石である」とありました。右の石の柵で囲われたところは由比若宮遥拝所です。


由比若宮遥拝所と鶴亀石の近くにあるのが白旗神社です。1200年(正治2年)に北条政子が朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り創建したのが、白旗神社(祭神:源頼朝)と伝えられています。源頼家の創建との説もあるそうです。黒漆塗極彩色の社で「武衛殿」と呼ばれた。「武衛殿」の扁額は、幕末の島津藩の実質上の最高権力者島津久光の筆と伝えられています。
最初は鶴岡八幡宮上宮の西側にありましたが1885年(明治18年)に源実朝を祀る柳営社と合祀され、現在の場所に遷されたそうです。現在の祭神は、源頼朝と源実朝だそうです。例祭は5月28日に行われるそうです。


奉納(奉献)された沢山の酒樽も見事でした。


鶴岡八幡宮の参道の途中に右に折れの道があり、その道の両側に沢山の旗がありました。それは旗上弁財天社に向かう道でした。 旗上弁財天社の源氏池に浮かぶ島に建てられた神社です。
源頼朝の旗挙げに家運長久の守護神として弁財天が現れ霊験があったと伝えられ、北条政子が建立した伝わっているそうです。


こちらが源氏池の中の島に建つ旗上弁財天社です。参道や島には、奉納された源氏の二引の白旗が並んでいるのが印象的でした。
弁財天は仏教の守護神であることから、明治の廃仏毀釈で破壊されましたが、鶴岡八幡宮創建800年にあたる1980年に、文政年間の古図をもとに現在の社殿が復元されたそうです。
祭神は「多紀理毘売命(たぎりびめのみこと)」「市寸嶋比売命(いちきしまひめのみこと)」「多岐都比売命(たぎつひめのみこと)」です。

鎌倉の町を散策 [鎌倉]



初めて鎌倉に行ったときのことです。鎌倉では最初に鶴岡八幡宮に行き、そのあとはすでに紹介している神苑ぼたん庭園で牡丹を見ました。そこで12時近くになったことから鎌倉駅の近くで昼食をとることにしました。上の写真は鶴岡八幡宮から駅に真っ直ぐに向かう若宮大路の真ん中の歩道です。

下の地図の赤いラインを散策しながら鎌倉駅まで向かいました。途中で気になったお店の写真を撮りました。その気になったお店の写真を鶴岡八幡宮に近い順番(撮った順番)に紹介いたします。水色のマークが今回紹介しているお店です。マークをクリックすると店名を表示します。その住所と正確な位置は写真に写っている店名などからネットで検索しました。黄色のマークは写真を撮った十字路と踏切です。赤色のマークは食事をした場所です。青色のマークは鶴岡八幡宮の神苑ぼたん庭園です。緑のマークは古い郵便ポストがあった場所です。

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鶴岡八幡宮から駅に真っ直ぐに向かう道沿いにあった趣のあるお店です。店名は三河屋本店と書かれていました。ネットで調べた結果、三河屋本店は、明治33年創業の酒店で、現在の建物は昭和2年に建てられたそうです。伝統的な出桁(だしげた)造りの店構えは、若宮大路の沿道でひときわ目を引く存在のようです。敷地の奥にある蔵や商品の運搬に使うトロッコなど、昔ながらの商文化が大切にまもられているそうです。
三河屋本店は、鎌倉の戦前の商店建築を代表するものとして貴重な建物だそうです。
鎌倉の景観重要建築物33の中の一つ(指定22号)で詳しくネットでも紹介されていました。景観重要建築物には2002年4月1日に指定されました。 緑色の住所の文字をクリックするとストリートビューを表示します。
  住所 神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目9−23
  電話 0467-22-0024
      木造2階建、蔵は木造平屋
      延べ床面積/352.64平方メートル
      蔵/83.88平方メートル
      屋根/桟瓦葺き切妻および寄棟
      蔵/波型鉄板葺き切妻
      外壁/押縁下見板張り、一部土壁
      蔵/土壁、腰部は鎌倉石積み
      http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/keikan/ks22.html


この銀行らしからぬ建物は元ラルフローレン鎌倉店です。ラルフローレン鎌倉店が閉店した後に2009年2月16日に三井住友銀行・鎌倉支店がオープンしたそうです。鎌倉らしいレトロな雰囲気の建物が残ってよかったです。
  住所 神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目9-33
  電話 0467-25-6821


スイーツのお店のようです。ネットで調べると下記のような記載でした。
鎌倉の若宮大路沿いの雑貨&古民家カフェ「蔵楽(KURARA)」です。
見るからに女の子受けしそうなお店です。カフェの入り口は雑貨店の奥にあります。
ここの特徴は冬場の「掘りごたつ」です。古民家を活かした店内で、こたつに入りながらいただくコーヒーもなかなかいいものです。ココはお抹茶もいただけるそうです。
  住所 神奈川県鎌倉市小町2-13-2
  電話 0467-55-5001


こちらも若宮大路沿いの山中材木店と鰻屋さんの茅木家です。
 山中材木店
  住所 神奈川県鎌倉市小町2丁目11−14
  電話 0467-22-3116
 茅木家(かやぎや)
  住所 神奈川県鎌倉市小町2丁目11−16
  電話 0467-22-1460


若宮大路を左に曲がって最初の十字路から鎌倉駅の方を見た写真です。
水曜日の昼にかかわらず沢山の人が歩いていました。上の地図で十字路の黄色のマークのところです。


JRを渡る踏切です。踏切も風情があります。左の踏切の文字をクリックするとGoogleのストリートビューが表示されます。ただし下の写真の反対側の遮断にしています。
この踏切の位置も地図に黄色のマークを立てました。


古本屋さんの游古洞です。こちらのお店は探すのに苦労しました。
  住所 神奈川県鎌倉市御成町13−30
  電話 0467-23-1967


こちらは手仕事雑貨店の「さかゑ」です。女性のお客さんだ沢山入っておられました。
  住所 神奈川県鎌倉市御成町13−12
  電話 0467-23-5573
  HP   http://www.sakae-kamakura.com/


食事はJR鎌倉駅の裏(西口)にある、とんかつ屋の勝烈庵を選びました。勝烈庵は今から85年前の1927年(昭和2年)に横浜で開業した老舗のトンカツ屋さんです。当時、横浜の外国人コックが居留地関内にもたらしたカツレツを初代庵主の工夫で独特の和風カツレツとして完成させたのが始まりだそうです。今は横浜に3店舗、鎌倉に1店舗あるようです。


鎌倉花ごよみ定食1750円を頼みました。内容は、ヒレかつ又はロースかつ、おろし大根、鎌倉野菜サラダ、香り物、ご飯、しじみ椀です。私はヒレかつを選びました。ご飯とキャベツはお代わり自由です。


2日間煮込んで1日寝かした秘伝のソースでいただきました。


しじみ椀のシジミには小粒のものが使われていました。


JR鎌倉駅の裏側(西口)です。こちら側に、とんかつ屋さんがありました。


こちらが鎌倉駅の表側(東口)です。バス停やタクシー乗り場があり、ここから鶴岡八幡宮に若宮大路が真っ直ぐに飲み゛田鎌倉の表玄関口です。