SSブログ

不思議な石碑 [ドイツ]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
ドイツの小さな村Rohrdorf を散策しているときに、珍しい石碑を見つけました。道の右側の木の側に立っていました。石碑という表現は正しくない気もしますが呼び方が判らないので、とりあえず石碑をつかわさせていただきます。

何のためのための石碑かは判りませんが石碑には絵が描かれていました。不思議な雰囲気の石碑でした。
クリックすると拡大

これが、その絵です。聖母マリアかなと思ったけれど、胸に何本も剣が突き立てられているところを見ると、聖母マリアではなさそうです。不思議な石碑でした。ドイツ語が判る方は、是非とも写真をクリックしてみてください。文字が読めるかもしれません。
クリックすると拡大

nyankomeさんのご指摘で絵が判りました。 絵は「処刑されたキリストを抱く聖母マリア」でした。さっそくイタリアに行ったときの写真を探してみました。バチカン市国のサンピエトロ寺院にあったミケランジェロ作のピエタ像(処刑されたキリストを抱く聖母マリア像)を掲載させてもらいました。確かに構図はそっくりでした。ただし聖母マリアの胸に7本の剣が胸に刺さっている理由はまだわかりません。



2013年4月25日 追伸 (こちらの写真はネットから拝借させていただきました。)
サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の胸に7本の剣が刺さった聖母マリアの像聖母マリアの胸に7本の剣が刺さっていることを調べてみるとイタリア・フィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の中にも右の写真の胸に7本の剣が刺さった聖母マリアの像がありました。7つの剣は聖母マリアの7つの悲しみを象徴したものだそうです。心臓に7本の剣が刺さっていたり7つ傷がある絵も描かれているそうです。
7つの悲しみは下記の通りです。
クリックすると拡大 1. メオンの預言
2. エジプトへの逃避
3. 博士たちとの議論
4. 十字架を担うキリスト
5. 磔刑
6. 十字架降下
7. 昇天

小さな村Rohrdorfの石碑に書かれていた聖母マリアの絵を拡大して、もう一度よく見ると心臓も描かれていました。7つの悲しみの6番目「十字架降下」である「イエスが息絶え、十字架から降ろされたとき」を表現した絵だったのです。


クリックすると拡大下の航空写真の空色のマークが今回の石碑があった場所です。左上の方から歩いてきて見つけました。冒頭の写真に写っている家と道路の曲り具合で、わかってもらえると思います。不思議な場所にあったことがわかってもらえると思います。航空写真の中のアイコンマイナスを数回クリックしてもらうと村の中の位置がわかってくると思います。

より大きな地図で Rohrdorfの聖母マリアの石碑 を表示

109年前に設立された小さな小学校 [風習・歴史]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
ワンコの散歩コースで桜の木が沢山植わっている場所があります。今年も桜が満開に咲きました。桜の満開の写真は2013年3月29日に撮りました。ここは昔、小学校だった場所なのです。

その校庭だった場所の写真です。小学校は廃校になりましたが、当時の桜は成長し、今も咲き続けています。ここは千葉県佐倉市青菅地区です。現在の住所は千葉県佐倉市青菅148-2です。
クリックすると拡大

少し足を伸ばしたワンコの散歩コースにある廃校となった小学校です。
この小学校は109年前の明治36年(1903年)に青菅分教場として設立され、昭和52年3月(1977年)に廃校になりました。36年前の廃校当時のままに残っているのです。


噂では映画の撮影に使われたこともあるそうです。この小学校は分校として出来ましたが、その本校(当時名 : 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校 現在名:佐倉市立志津小学校)は明治6年(1873年)に設立された歴史のある学校だそうです。


以前の桜の季節の写真も紹介します。校庭には沢山の桜の木が植わっています。


この小学校の校庭に、もう一つ珍しいものが残っています。庚申塚(こうしんづか )です。
庚申塔(こうしんとう)とも言うそうです。確かに左の石碑には庚申塔と書かれており、右側の石碑には庚申塚と書かれています。庚申塚は中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことだそうです。庚申塚の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からで、近世を通して多数の庚申塔が建てられたが現存するものは開発から免れたものだそうです。クリックすると拡大します。
クリックすると拡大

中心に置かれている、最も立派な庚申塔を拡大してみました。青面金剛(しょうめんこんごう)の像が鉾、弓、矢、輪宝らしいものを手に持っています。災いを調伏する青面金剛のシンボルとして、両足の下に邪鬼が踏みつけられています。さらに見ざる、聞かざる、言わざると思われる三猿(さんえん)が台座に近いところに掘られています。上辺の左右には日と月が描かれている のも庚申信仰の特徴です。
年号を確認すると263年前の寛延三年十一月(1750年)でした。


庚申塔.gif右の絵はネット から拝借しました。上の写真はこの絵の青面金剛の特徴を持っています。さらに傘があるのが特徴のようです。
この周りを見ると草に隠れて小さな庚申塔を見つけました。下の写真です。
この青面金剛は斧、輪宝、数珠を持っているようです。ただし邪鬼や三猿や上辺の左右の日と月は描かれていません。
年号は寛保四年正月(1744年)と上の庚申塔より少し古い物のようです。

この2つの庚申塔(庚申塚)以外の年号も調べるてみると文政九年(1826年)、弘化五年如月(きさらぎ)(1848年2月)、享和三年十一月(1803年)、明治三十年十二月(1897年)とほとんどが江戸時代でした。急に貴重なもののように思えてきました。ここから遠くない場所(昔風に言えば隣村)でも庚申塔を13体見つけました。


庚申塔の中にまぎれて一つだけ馬が急死した路傍によく建てられた馬の無病息災の神である馬頭観世音の文字が刻まれた石碑がありました


冒頭の廃校となった小学校の校区を引き継いでいるのが、下の写真の青菅小学校です。この青菅小学校自体も明治6年に開校した志津小学校の分校で昭和61年(1986年)に志津小学校から分離独立した小学校です。
 志津小学校の沿革
  1873年 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校として創立 
  1887年 村立上志津尋常小学校と改名
  1945年 村立志津小学校と改名
  1954年 市立志津小学校と改名
  1961年 上志津小学校 分離独立
  1967年 井野小学校   分離独立
  1976年 小竹小学校   分離独立
  1977年 青菅分校    廃校
  1986年 青菅小学校   分離独立
明治6年(1873年)と言えば、私が小学1年から4年まで通っていた広島の小学校も開校が明治6年でした。開校時の名前は「協心舎」で、今は広島市立井口小学校です。
その後は神戸に引っ越して神戸市立本山第一小学校から神戸市立本山中学校と進みました。ちなみに神戸市立本山第一小学校は明治8年(1975年 136年前)に田辺小学校として開校し、神戸市立本山中学校は昭和22年(1947年)に開校いたしました。


明治6年開校が偶然のようですが、実は明治5年8月3日の学制発布があったことが関係しているようです。ネットで書かれていた小学校の歴史です。
1872年(明治5年)8月3日の学制発布により始まった日本の近代教育制度において、初等教育は当初、小学校尋常科という名称の学校で行われ、1873年(明治6年)1月15日に設置された官立の東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を皮切りに、1875年には、ほぼ現在並みの約2万4千校の小学校が全国各地に設置された。
しかし、1874年(明治7年)の段階で、小学校への就学率は男児46%、女児17%、総計平均で32%に過ぎず、3人に1人しか小学校に通っていない状況であった。1890年(明治23年)になっても小学校数は2万6千校、就学率は49%と増えてはいるものの、ほぼ全員が就学していると言えるようになるのは明治の終りのことであった。
1886年(明治19年)の小学校令で、尋常小学校(尋常科)と高等小学校(高等科)が設置された。このときの尋常小学校(義務教育)の修業年数は4年間であり、その後に高等小学校の4年間の課程があった。1900年(明治33年)に小学校令が改正され、高等小学校の課程は「2年または4年」とされた。その後、何回かの変遷を経て、澤柳政太郎文部次官の下、1907年(明治40年)に尋常小学校が6年間、高等小学校が2年間となった。
1936年(昭和11年)の統計では、尋常小学校を卒業した者のうち、旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・実業学校)に進学する者は21%、まったく進学しない者(就職等)は13%、高等小学校に進学する者は66%だった。
第二次世界大戦下となる1941年(昭和16年)4月からの初等教育は、国民学校という名称の学校で行われた。国民学校には、6年間の初等科のほかに、初等科を修了した者が進学できる修業年限2年の高等科の制度が設けられていた。国民学校の初等科は、1947年(昭和22年)4月1日の学校教育法の施行とともに順次廃止され、戦後の新制学校である現行の小学校に移行した。

赤いマークが廃校になった青菅分校で緑のマークが現在の青菅小学校です。青菅分校の敷地には青菅会館(公民館)があります。
  青菅分校  千葉県佐倉市青菅148-2
  青菅小学校 千葉県佐倉市宮ノ台1丁目17-1


113年前の姿をみせてくれる旧水戸農業高等学校 [水戸]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
水戸の茨城県立歴史館敷地内にある旧水海道小学校本館を紹介いたしましたが、おなじ茨城県立歴史館敷地内に旧水戸農業高等学校を立っていました。今回の建物の写真はすべてクリックすると拡大するように設定いたしましたので気になった写真があれは、是非ともクリックしてみてください。

水海道小学校本館は遠く常総市水海道から移設されてきたものですが、この水戸農業高等学校本館はもともと歴史館の敷地に1900年(明治33年)から1970年まで,茨城県立水戸農業高等学校の本館として使われていました。
クリックすると拡大

クリックすると拡大旧水海道小学校本館は洋館でしたが、こちらには純日本建築ですが、左右対称で車寄せがあるところは洋館を意識したものかもしれません。
この建物は1900年に創建し1970年の茨城県那珂市に移転するまでまで70年間、使われました。建物が使われなくなったことから同じ歴史館敷地内ですが違う場所に1975年10月に移築・復元されました。通常は外観のみの公開ですが、講座室として各種ワークショップなどに利用されているそうです。
クリックすると拡大

旧水戸農業高等学校の横には運動場があり子供たちが遊んでいました。木造の学校の横で子供たちが遊ぶ姿は、昔を思い起こさせる風景です。


水戸農業高等学校の沿革です。
 1895 明治28年 4月26日 水戸市南三の丸に創設(茨城県中央農事講習所)
 1896 明治29年 4月 1日 茨城県簡易農学校に校名変更
 1899 明治32年 5月 7日 茨城県農学校に校名変更
 1900 明治33年 6月13日 水戸市緑町の新校舎に移転 (現・歴史館敷地)
 1901 明治34年 5月30日 茨城県立農学校に校名改称
 1923 大正12年 4月 1日 茨城県立水戸農学校となる
 1948 昭和23年 4月 1日 茨城県立水戸農業高等学校となる
 1950 昭和25年 4月 1日 石塚分校設置 茨城県東茨城郡城里町
 1963 昭和38年 4月 1日 石塚分校独立常北高等学校となる
 1970 昭和45年 2月18日 那珂市東木倉(現在地)に建物竣工全校移転完了
 1975 昭和50年10月   創建当時の姿に本館を移築・復元

 1987 昭和62年 4月 1日 農蚕科募集停止
 1989 平成 1年 4月 1日 農業経済科新設
 1992 平成 4年 4月 1日 生活科募集停止 生活科学科新設
 1995 平成 7年11月 7日 創立100周年記念式典
 2005 平成17年11月 9日 創立110周年記念式典(県民文化センター)
 住所の移り変わり
 ・1895年~1900年 水戸市南三の丸
 ・1900年~1970年 水戸市緑町(現・歴史館敷地)
 ・1970年~現在   那珂市東木倉


航空写真でも旧水戸農業高等学校を紹介します。写真上のアイコンマイナスを数回クリックすると茨城県立歴史館や旧水海道小学校本館もわかると思います。

歴史館敷地内には、趣のある灯篭のような石柱がありました。これは六地蔵石憧(ろくじぞうせきどう)で、室町時代後期に花崗岩で作られたもので183cmの高さがあります。
憧(はたぼこ)は寺院の堂内の柱にかけた旗の一種で、石憧はこの憧を六枚組合せ、龕部(がんぶ)には六地蔵が浮彫りされており、県内に存在する多くのものが灯篭型となっているそうです。こちらの六地蔵石憧は茨城県指定文化財です。


こちらの建物が茨城県立歴史館です。大きな建物ですが広い敷地に建っていました。


茨城県立歴史館の展示室は写真撮影が出来ませんが、ロビーはOKとのことなので雰囲気を紹介したいためロビーの写真を掲載いたしました。