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連休後半は田植えの最盛期 [生活風景]



千葉県の印旛沼は江戸時代から干拓が行われてきただけのことはあって印旛沼の周りには沢山の田んぼがあり、米どころです。4月30ごろは田植えの準備である代かき(しろかき)が各所で見られました。連休後半の5月5日の田んぼのあたりを散策すると、田植えの真っ最中でした。その光景の写真を紹介いたします。
軽トラックで苗を積んできて田植え機を使って田植えを行っていました。代かき(しろかき)は一人で作業を行っていましたが田植えは沢山の人が一緒に田んぼに出てきて作業をされていました。

田植機が発明される前までは足元の悪い水田の中での最も過酷な作業だったと思います。右の写真はネットから拝借した手で田植えしていたころの写真です。
田植機は明治時代から研究され始め、宮崎県の農民発明家、河野平五郎が1899年(明治31年)に田植機の特許第1号を取得した記録があるそうです。人力による田植機は1960年代に実用化が始まったそうです。動力式のものも1968年には開発されたそうです。1970年代から1990年代にかけて、田植機の技術革新と普及が急速に進み、1980年代後半には、今までの植付け方式であったクランク式からロータリー式が実用化され田植え時の作業能率(スピード)が格段に上がったそうです。これ以降、全農家の半数が田植機を所有し、ほとんどの田が田植機によって田植えされていると記載されていました。1998年にはヤンマーが歩行型田植機と同程度の廉価の乗用田植機Pe-1を発売し大ヒットし他社も急遽追随し急速に乗用型が普及したそうです。1990年代から赤外線やレーザー光線を使った無人機の開発が進められ 2005年にはGPSを活用した無人の田植機の開発が進められていることが発表されています。2007年には、世界初の自動植付け機能が搭載された田植機が 販売されたそうです。


少し散策しただけでいろんな田植え機が活躍していました。


こちらの田んぼでも田んぼの周りの草刈りや隅のあたりを整えたりで5人くらいの方が働かれていました。


複数の田植え機が望遠レンズに入ってくるほど沢山の田植え機が活躍していました。


若い女性の方も、つなぎの作業服を着て田植え機を運転されていました。


こちらは草刈りですが若い女性の、つなぎの作業服姿もかっこよく感じました。今回、驚いたのが若い女性の方が田んぼで作業をされていたことでした。少しずつ若い人が減ってきていると思い込んでいました。農業の世界でも時代のステップアップあるいはチェンジがあるのかもしれません。


沢山の稲の苗を軽トラックに積んでいました。すごい量です。ナンバープレートの番号は目隠しよりはこちらの方が雰囲気が出ると思い変えさせていただいております。


かなり田植えが進みましたが、まだトラックの上には沢山の苗がありました。


一年に一回だけですが田植え機は大活躍でした。


稲の苗を植え終わった田んぼです。


家族旅行の最初の訪問地は! [イタリア]


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すこし前に家族での初めての海外旅行はイタリアにしました。その旅行の最初の訪問場所がミラノのスフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)でした。写真は城の正面のフィレーテの塔とカステッロ広場の噴水です。
この旅行では裏技を使わさせてもらいました。裏技とはJTBのパックツアーでしたが航空券は自分手配することでした。自分手配の航空券とは溜まったマイレージを使った特典航空券のことなのです。以前から一度試してみたかったのですが、旅行会社に頼んでも断られ続けていました。今回受け入れてもらったJTBでも、ほとんどお店に断られましたが一店だけOKしてくれたのです。それからが大変でした。特典航空券は思い通り日の予約が出来ません。一方でパックツアーも日にちが決まっています。さらに休暇が取れる日も決まっているのでタイミングの合わせるのに苦労しましたが、おかげでパックツアー料金の中から航空券代として3名合計で90万円ほど、値引きしてもらえました。学校が夏休みに入った時で航空券の高い時期だったようです。

自前の航空券で行くとうれしい恩恵がありました。成田空港ではラウンジ(左の写真)で、のんびりと過ごせることに加えて、早めの予約であり座席が好きな場所が取れることでした。この時は3人共に通路側を予約しました。通路を挟んだ隣席とその前の席です。実は通路側を予約しておくと満席でない場合は隣席が空く可能性があることは経験的に判っていたのです。ただしチェックインの時に驚かれました。

もう一つの恩恵が直行便で行ける事なのです。パックツアーではブリティッシュ・エアウェイズ(BA)が使われるためロンドン経由となりミラノ空港に着くのが22時40分になるのに対して直行便だと17時50分でした。旅行会社から教えられていたホテルにチェックインしたあと、街に出かけて夕方のミラノを楽しめました。
ガイドブックで事前調べていたピザ専門店(ピッツェリア)のPaper Moon(右の写真)にも行き、ペーパーのようなピザ2枚など、夕食もゆっくりと楽しむことが出来ました。
ガイドブックにはPaper Moonは「昼どきはファッション関係者で込み合うお店 "紙の月"という店名のごとく、薄くカリッと焼き上げたピザが自慢」と書かれていました。
暗くなってきてホテルに戻っても、まだロンドン経由からの方々は着いていませんでした。会えたのは事前に聞いていた翌朝の待ち合わせ時間でした。
ツアーの方は成田を出るときに3名ほど人数が少なかったのでキャンセルされたものと思っていたそうですがミラノについて翌日に全員そろったので、これもまた不思議に思われたことを、親しくなってきた4日目の昼食の時に初めて質問されました。航空券を自分で手配したことを説明して皆さんやっと疑問が解けてなっとくされていました。

下の写真のバスがミラノ市内の観光とベネチアまでの移動に使われたバスです。最初から最後まで同じバスではなくて町を移動するごとに交代いたしました。
この時は「ミラノベローナベネチア」と「ベネチア~フィレンツェ」と「フィレンツェピサ~フィレンツェ」と「フィレンツェ~シエナ~ローマ」と「ローマ市内」と5回変りました。
毎日バスが変るのには驚かされましたが、それぞれの地元のバスを使うほうが効率的だと説明されました。当然ですが日本から来られた添乗員の方は最初から最後まで案内してくれました。そして大変にお世話になりました。
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スフォルツェスコ城(またはスフォルツァ城)は元々は14世紀にミラノを支配していたヴィスコンティ家の建てた居城でしたが。その後、ミラノの支配者となったミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァが1450年にヴィスコンティ家の居城を改築して現在の姿となったそうです。内部の美術館にはミケランジェロの最後の作品「ロンダニーニのピエタ」などが展示されていました。一辺が約200mの正方形に近い形をしており、正面のフィレーテの塔の周囲を回廊が巡り、内側に広い中庭がありました。この写真は中庭側から見たフィレーテの塔と城壁です。城壁は内側から見ると窓や入口がある建物となっていました。
写真の中央の集団が今回のツアーの全メンバーです。この時のツアー人員は21人(2人X9組 3人X1組)で、我々だけが3人でした。
人の大きさからフィレーテの塔の大きさが判ってもらえると思います。オレンジの帽子をかぶっているのが娘(右端)です。写真をクリックして拡大するとわかると思います。
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城壁と堀で囲まれた堅牢なお城でした。
元々、北イタリアは諸侯の勢力争いの耐えない地域でしたが、歴代の君主たちによって城には防御のための改築が度々加えられ、17世紀の初めにはヨーロッパでも1、2を誇る堅固な要塞となったそうです。
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航空写真を紹介します。スフォルツェスコ城の後は大聖堂ドゥオモ、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア、スカラ座や美術館に行きました。


イタリアの自転車野郎 [イタリア]


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家族で初めて海外旅行に来たのはイタリアで、初めての訪問場所がミラノのスフォルツェスコ城でした。その思い出の場所に仕事ではありますが、また来ることが出来ました。その場所はミラノのスフォルツェスコ城に来てみました。さすがヨーロッパは自転車の国!
今は日本の自転車部品は良くなったけれど昔はイタリア製に憧れたものです。私の古い自転車にもイタリア製の部品を使いました。
ミラノは路面電車は古いのも新しいのも走っています。

拡大写真を掲載します。


記念撮影をしているということは地元の人ではなさそうです。
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スフォルツェスコ城の内側からの写真です。


外側の堀 この周りを馬に乗ったお巡りさんが巡回していました。


中庭です。