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機内食はキャビアとステーキを選びました。 [機内 F]

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オーストリアのウィーンへは成田を12時15分発のフライトでフランクフルトへ入りフランクフルトからルフトハンザ機でミュンヘン(ドイツ)までたどり着いて、ミュンヘンで一泊したあと、車でウィーンに来ました。ウィーンで一泊して夜が明けたところです。あいにくの雨です。下の写真は成田→フランクフルトの機内から撮ったものです。

長い飛行機の中での楽しみは食事と映画です。日本発のフライトでは和食がいい言われていますが、メニューでは洋食先に書かれていたので、今回は洋食にすることにしました。アペタイザーとメインディッシュはそれぞれ3種類から選べました。迷わずアペタイザーではキャビアを選びました。コメントの「手作り塩」を試してみたくてメインデッシュはステーキを選択しました。


シャンパーニュはシャンパーニュ・キュヴェ・ルイーズ ポメリー・ブラン 1999(Champagne Cuvee Louise Pommery Blane 1999) を選びました。パリ線ではSALONが置かれていましたが、同じヨーロッパ線でも飲み物のメニューが違うのは面白いです。


シャンパーニュは「タラバ蟹のゼリー寄せ」と「旬野菜のテリーヌ 」と「フォアグラ」で楽しみました。


キャビアはこんな感じで出来ました。シンプルにパンにつけて食べました。


キャビアは大粒でなので高級な種類のようです。塩味がいいですね。
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ステーキはソースはかけないで出てきました。シャトーブリアンステーキ“ペリグー風”フォアグラとトリュフのソースは別の器に入れて出してもらいました。
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焼き具合を聞かれたのでミディアムを頼みました。焼き具合を聞いてくれると言うことは、機内で焼いてくれているのかもしれません。ソースと塩の両方で食べてみました。私は塩が美味しかったです。8割程度は塩でいただきました。塩が美味しいということは、いい肉なのでしょう。機内で塩でステーキを食べたのは初めての経験となりました。
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肉料理になると赤ワインを勧められたので、お薦めのシャトー・カロン・セギュ-ル2006サン・テステフ(Chateau Calon-Segur 2006 Saint-Estheph)を楽しみました。
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ステーキを食べた後も赤ワインを楽しむことにするとアラカルトの中から選んで肴を出してくれました。
「蛤蕗味噌焼き 」と「フォアグラ千枚巻き」と「牛肉時雨煮」です。
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さらに「みつせ鶏の焼き鳥」も出してもらえたので、さらにワインを楽しみました。


満足したところでデザートを頼みました。
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映画を何本か見るとフランクフルトに近づきました。


夕食は選択式なのでカレーを頼みました。カレーのネーミングは「東京香味カレーライス“ぎゅっと野菜”(TOKYO CURRY LAB. X JAPAN AIRLINES)」です。
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パリからの帰りのフライトは日本食にしてみました。

この時は日本からフランクフルト便でヨーロッパに入り、帰国はパリからの便となりました。私の好きなサロン(Salon)のシャンパンを期待していましたが、残念ながら出発便で飲み干されたようで、ありませんでした。もう一つのシャンパンであるシャンパーニュ・アンリオ・ブリュット・ミレジメ1996 (Champagne Henriot Brut Millesime 1996)にしました。

簡単なツマミを食べながら2杯楽しみました。


さらにビールも頼みました。ツマミとしては「焼きしめじポン酢和え」と「海老カレー炒め」と「浅利の時雨煮」を頼みました。


食事は日本食をお願いしたので白ワインにすることにしました。ワインの銘柄は、お薦めのフレデリック・マニアン ムルソー2007(Frederic Magnien Meursault 2007)にしました。
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日本食のコースの最初は「まつぶ貝 柔か煮」でワインを楽しみました。つぶ貝と言えば映画「武士の一分」で三村新之丞(木村拓哉)が毒にあたった「赤つぶ貝」のことを思い出しました。
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箱に入った「かさね前菜」が出てきました。前菜の中身は上段が「ぜんまい田舎煮」、「フォアグラ照焼き」、「桜豆腐」、で下段が「鰯の酢漬け ポン酢卸し」、「牛たたき寿司」、「烏賊のお造り」でした。
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メイン料理は「帆立と海老の白扇揚げ 蟹餡掛け」でご飯は「山菜御飯」を頼みました。お吸物と香の物がついています。
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最後は和菓子のデザートでコース料理は終了です。


夜行便なので映画を見ながら少し寝かしてもらいました。、


日本に近づいたところで暖かな飲み物を頼みました。写真を撮るために、飲み物をマグカップで出してもらうように頼みました。


到着前の簡単な食事として出発便ではカレーを頼みましたが帰国便ではトロロ蕎麦を頼みました。

「小竹城」と「小竹五郎高胤の墓」 [千葉]


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千葉県佐倉市小竹地区は、辻切り不思議な風習を紹介したとおり、伝統が残る歴史のある地区なのです。その中で貴重な文化資産なのが小竹五郎高胤(おだけ ごろう たかたね)によって1390年頃に築城されたと伝えられている小竹城(おだけじょう)の城跡です。この城跡は地元の住民の方によって代々守り継がれてきた文化資産なのです。ここが小竹城であったことを示す標柱が立てられています。

この小竹城跡は2011年3月1日に佐倉市市民文化財に選定されました。車道からの入口部分に小さな看板が立てられていました。資産名は「小竹城跡と小竹五郎の墓およびその周辺の里山風景」です。
佐倉市市民文化資産
小竹城跡と小竹五郎の墓およびその周辺の里山風景
  選定年月日  平成二十三年三月一日
  種     別  自然資産
  員     数  一件及び一基
小竹城は、明徳年間(1390年頃)小竹五郎高胤によって築城されたと伝えられています。現在では一辺約50メートルの土塁や空堀が残るみですが、城址を大切に思う住民により、一帯は墓とともに代々守り継がれてきました。周辺に残る樹林や湧水を含む豊かな里山風景と合わせて、貴重な自然資産です。
平成二十四年三月                佐倉市教育委員会
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車道からの入口です。
選定地は民有地であることから小竹城跡の周囲の限られた景観のみの紹介とさせていただきます。もし見に行かれるときは住民の方に配慮していただけるようにお願いいたします。ミラーの右側の桜の木の下の黄色の〇の部分に小竹城を築城した小竹五郎高胤の墓あります。クリックするともう少しよくわかると思います。
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こちらが小竹五郎の墓です。墓石の中央には「小竹五郎之墓」と書かれており、これが小竹城を築城した小竹五郎高胤の墓であることが判りました。しかし墓石の台座には高橋と刻まれています。ネットによると小竹氏はのちに帰農して名前を高橋に変えたようです。そのために台座には高橋が刻まれていると推察いたします。そんなこともあり、この地域は高橋の姓が多いのです。地元の竜神橋さんからコメントいただいたように、分家に高橋惣兵衛さん(ネットで出てくる名前)が、おられたようです。地域の案内板の高橋さんの数を数えると15軒でした。高橋さん以外でも山崎さんと秋元さん秋山さんの名前が多かったです。
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下の縦長の2枚の写真の左側が墓石の正面の写真で、右側が墓石の右面の写真です。裏面と左面には特に文字は刻まれていませんでした。下で紹介する文字は正面からだけでは読みにくいので右の写真のように2~3文字づつ角度をつけて撮った写真で読み取りました。
墓石の正面中央に「小竹五郎之墓」と書かれていることが判ると思います。その右上には「千葉六家之正跡」と書かれています。これは「千葉六家」の「正しい場所(正跡)」という意味で、重い意味がある墓標のようです。
墓石の右面には、次のように建てられた時期と経緯が書かれていました。
 時期 維明治廿六発巳年十一月穀旦
 経緯 先祖為菩提高橋弥右エ門建之
穀旦は吉日のことです。つまり築城から約500年後の明治26年11月吉日(今から120年前)に高橋弥右エ門によって先祖の菩提(冥福を祈って供養)のために建てたことを表しているようです。クリックすると拡大クリックすると拡大するので文字を見てみてください。
実は「高橋弥右エ門」の名前は、すでに紹介したことがあるのです。小竹の辻切りの記事で③番の辻切りが取り付けられていた右の写真の秩父三十四ヶ所参りを記念した石柱を立てたのが高橋弥右エ門さんでした。明治33年1月吉日に建てられたので年代的にも同じ人だと思われます。
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120年前に建てられた小竹五郎高胤の墓もすばらしいのですが、その右側に小さな2つの墓石があり、そちらも気になって近づいてみました。
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左の墓石には小さな子供を抱いた菩薩像が彫られていることから、小さな子供の墓石だと思われました。その像の右側には「子」の文字が読み取れることからも子供の墓石であることが伺えました。像の左側には寛延三年十月の文字が読み取れます。つまり、この墓石は寛延三年(1750年)のものであることから今から約263年前のもので現在の120年前の小竹五郎高胤の墓石より、はるかに古いものだったのです。
小さな子供の墓石が建てられていたということは、それより古い本体の墓石があったことを示してくれているのです。
一方、右側の墓石をよく見ると古い墓石の屋根の部分でした。クリックしてもらうとわかるように非常に古いものと思われました。もしかしたら小竹五郎高胤のオリジナルの墓石だったのかもしれません。墓石が壊れてしまったことから120年前に建て直した可能性はあります。今となっては史実を確認する手立てはありませんが、いずれにしても現在の墓石を建てる以前で、且つ寛延三年(263年前)以前にも、この場所に立派な墓石があったことは間違いなさそうで、ロマンを感じさせてくれる場所でした。
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車道から入っていく道を正面から見ました。2011年に佐倉市市民文化財に選定され説明文の看板が道り右側に立てられていることが判ると思います。この看板は昨年(2012年)に建てられました。


道を進んで左に曲がると冒頭の写真の標柱が見えてきます。この城は二重土塁で守られており、手前の盛り上がった部分が一文字土塁と呼ばれるものだと思われます。標柱は城郭への入口の虎口に立てられていたのです。 <写真①>


ここが小竹城の主郭への入口であった虎口です。虎口(こぐち)とは中世以降の城郭における出入り口のことです。「こぐち」には狭い道・狭い口という意味があります。虎口を「ここう」とよむ場合は、中世の戦場や陣地における危険な場所を意味することもあるそうです。虎口の両側に土塁が続いています。 <写真①'>
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クリックすると拡大土塁の内側の曲輪と呼ばれる部分には主郭が建っていました。現在は代々受け継がれてきた方の民家が建っています。ネットによると曲輪の土塁脇には妙見社などの祠があるようで、かつて城郭であった雰囲気がありました。右の写真はネットから拝借した祠の写真です。
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立派な土塁が曲輪のまわりに続いていました。<写真②>
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虎口に建てられた標柱です。いずれもクリックすると拡大します。
この標柱は23年前の平成二年(1990年)に建てられたもので、標柱には枠内の内容が書かれていました。
小竹城は小竹氏の居城としての伝承を残す。しかし臼井氏の一族が小竹氏を称するのは十三世紀のことと考えられるのに対し、遺構の構造から判断される築城時期は十六世紀初頭とされている。遺構としては土塁・空堀・虎口等があり、居館的性格を濃厚に有する中世城郭である。
ここでは築城は十六世紀初頭と書かれていますが、同じ佐倉市教育委員会の2011年の見解では1390年ごろ築城と、より具体的な説明になりました。ただし現在残されている遺構は、原氏が臼井城主にあった16世紀(1500年代)中頃から後半の時期のものと考えられいるそうです。
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土塁の外側の空堀もしっかりと残っていました。は二重土塁で土塁と土塁の間が空堀になっているのです。<写真③>


北側斜面の土塁です。ここは20m近い高さの傾斜になっていました。<写真④>


こちらは一文字土塁の手前から小竹城跡の東側の臼井側に降りていく小道の入口です。<写真⑤>


この小道は整備されていましたので降りてみることにいたしました。<写真⑥>


クリックすると拡大小道を降りてみるとこのような広場がありました。
この広場はボランティアの「佐倉里山ガーディアン」の方々が整備されているそうです。
上で紹介した小道の整備も佐倉里山ガーディアンの方により行われたとホームページに書かれていました。
すぐそばには右の写真の樹齢100年のグミの大古木があり佐倉市の保存樹に選定されていました。その木には昔フクロウも住みついていたそうです。正面の竹林の向こうに小竹城跡があるのです。
クリックすると拡大 佐倉里山ガーディアンの紹介
  設立 2003年
  活動 里山のためのボランティア
  会員 10名
  代表 飯田富雄 
  住所 千葉県佐倉市小竹785-3
  連絡 (有)飯田製作所
  HP  http://www.catv296.ne.jp/~satoyama/index.html


上の写真の小道を降りて少し離れた東の臼井側から小竹城跡の方向を見た景色です。この写真では確認する目標は写っていませんが中央より少し右側あたりの奥の丘の上が小竹城跡です。
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上で紹介した写真を撮った場所と方向を配置図に記載いたしました。
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大 ①虎口と標注と一文字土塁
 ② 土塁
 ③ 空堀と二重土塁
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大 ④ 北側斜面と土塁
 ⑤ 東に降りる小道入口
 ⑥ 東に降りる小道


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