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戦国時代の城 井野城 [千葉]

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戦国時代に千葉県の印旛沼の西側にあった城を紹介してきました。
紹介したのは小竹城先崎城下高野館(下高野城)でいずれも私の家から歩いて20分以内のところにあります。その中で度々、名前が出ていた井野城を紹介いたします。上の写真の森の中の遺構は防御性が高いと思われることから井野城の主郭があったと想像されています。想定の域ではありますが、以下の説明では主郭であったとの前提で記載いたします。主郭であってほしいとの願望も込められています。

すでに紹介した3つの小竹城と先崎城と下高野館(下高野城)は昔に近い形で残されているのに対して井野城は1971年から開発され始めた住宅地の中に、主郭の部分だけが残された城跡なのです。井野城の跡である標識などはないことから、この近くに住んでいる方も、この森が城跡であることを知っている方は少ないのではないかと思います。
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もう少し遠くから井野城の城跡の景色を紹介いたします。森の中には八杜大神神社や浅間神社があることから井野城の城跡も「鎮守の杜(宮の杜)」とし残されました。その鎮守の杜の東側には「宮の杜公園」が作られました。
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航空写真を紹介いたします。1971年以前は、このあたり一帯が林で覆われていました。そこに昔からの民家がところどころにある環境でした。1971年に不動産会社の山万が開発を始め、1979年に分譲が開始されたニュータウンとなりました。井野城跡近くには1982年に開業したユーカリが丘線が走っており「中学校」という名の駅が近くにあります。名の通り佐倉市井野中学校が近くにあります。写真をクリックすると広範囲が表示されるので井野中学校など周辺のことが判ると思います。
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井野城の特徴は土塁の内側の主郭の建っていた部分が深く掘りこまれていることでした。主郭が平屋であったならば、周辺から建物が見えなかったと思えるほど土塁の内側は深くなっていました。
下の写真は東南東の方向から主郭を囲んでいた土塁を撮ったものです。この写真からも土塁の深さが判ってもらえると思います。実は先崎城も下高野館も、これほどの深さではありませんが同じように主郭の部分は深く掘りこまれていました。同じ考え方で作られた城であった可能性があります。
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北東方向から主郭のあった土塁の内側を撮った写真です。八杜大神神社の屋根が見えます。
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主郭があったと思われる位置から見ると周りの土手はかなりの高かさです。ここが主郭ならば建物を敵から隠すための土塁かも知れません。この辺りには似たような小山が沢山あるので知らない土地から来た人にとっては、ここも単なる小山に見えると思います。


土地区画整理にともない井野城の北東部分、現在は宮の杜公園やマンションが建っている部分では今から12年前の2001年に確認調査が行われ、2003年に本格的な遺蹟発掘が行われました。下の地図の住居跡発掘場所と書かれているところです。その結果も中世以降に壊されたものと想定され、この辺りには奈良・平安時代の建物が建っていたことが判りました。この地区で奈良・平安時代を含む古代の建物の痕跡が見つかる例は少ないことから貴重な発見となったそうです。ちなみに主郭があったと思われるあたりは、私が佐倉市に引っ越してきた1993年に調査が行われたそうです。


左が発掘調査の写真で右が遺跡の航空写真です。


発掘現場の詳細図です。平安時代(710~794年)の住居跡6軒、掘立柱建物跡6棟が確認されました。ここに平安時代の集落があったことになります。平安時代の日本の総人口は400~600万人で現在の4%だったことを考えると、これだけの集落が見つかったことは驚くべきことだと感じました。
    時代       年代       日本の総人口
   旧石器時代  ~BC14000年       約2万人
   縄文時代   BC14000~BC300年   2→ 15万人
   弥生時代   BC300~250年      15→ 60万人
   古墳時代   200~ 600年末     60→400万人
   飛鳥時代   592~ 710年     300~500万人
   奈良時代   710~ 794年     400~600万人
   平安時代   794~1185年     400~600万人
   鎌倉時代   1185~1333年     700~900万人   
   室町時代   1336~1573年     700~900万人
   建武の新政  1333~1336年     700~900万人
   南北朝時代  1336~1392年     700~900万人
   戦国時代   1493~1590年     800~1200万人   
   安土桃山時代 1573~1603年    1200~1300万人
   江戸時代   1603~1868年    1200→3100万人
   明治時代   1868~1912年    3100→5175万人
   大正時代   1912~1926年    5175→6074万人
   昭和時代   1926~1989年    6074→12278万人
   平成時代   1989~2019年    12278→12623万人
その集落の近くに中世になって城が作られたわけです。
井野城が建っていた中世の時代の遺構としては貯蔵庫もしくは葬送施設と考えられている地下式坑11基、井戸4基、土坑300基、溝15条が検出されたそうです。さらに、地面を削って平場を整形した区画が4ヶ所確認されたそうです。井野城と共通性の高い土塁や台地中央を大きく竪穴状に掘り込ものがあったことから、この辺りにも井野城が広がっていたことにもなるようです。


発掘調査で発見された土塁です。右の写真は土塁の断面を見るために削った貴重な写真です。上の発掘現場の図の中の1号土塁と書かれた部分です。明らかに防衛的な土塁のようにみえます。


左の写真が発掘された井戸です。右の写真は井戸の中から出土した五輪塔の一部(頭の部分?)です。八社神社境内からも中世の五輪塔の一部が見られることとのことです。この点は先崎城と類似しています。


佐倉市の遺跡発掘の報告書を転記させていただきました。
 http://www.inba.or.jp/happyo/pdf/08-1.pdf
遺跡発表1.佐倉市
佐倉市井野城跡-もののふが駆け抜けた乱世-
嘱託職員 阿部有花
はじめに
千葉県内には中近世の城跡・砦跡・館跡等に関する遺跡が1000箇所近くあり、そのうち佐倉市内には約50箇所、その存在が確認されている。 井野城跡は印旛沼に注ぐ手繰川の支流、小竹川と井野川に挟まれた台地上にあり、佐倉市井野字宮ノ台の八社神社周辺に所在する。南東約400mには佐倉地域の真言宗の中心的な寺院、千手院があり、明徳3年(1392)に臼井から移されたと伝えられている。平成5年には、千葉県教育委員会により中近世城館の分布調査が実施され、井野城跡に関しては土塁で囲まれた主要な区画(主区画)を竪穴状に大きく掘り込んだ特異な構造をしていることが明らかにされた。
調査の概要
当センターでは、井野地区の土地区画整理事業に伴い、八社神社の東側を調査することとなった。調査区域には概念図の北東隅にあたる土塁が含まれ(1号土塁、写真㈪㈫)、その北側にはわずかな高まりであったがM字型をした土塁状遺構(2号土塁)が確認された。さらにその南側は擂鉢状に窪んでおり、台地整形区画の存在が確認された。 確認調査は平成13年5月14日~同年5月25日に実施され、当地区には奈良・平安時代や中世の遺構が多数あることが予測された。この結果を受けて、平成15年10月27日~同年12月24日まで6300を対象として、今回報告する本調査が実施された。 調査の結果、古代の遺構は平安時代の住居跡6軒、掘立柱建物跡6棟が確認された。当初はより西・南側まで古代の集落が広がっていたが、中世以降に壊されたものと想定される。当地区で奈良・平安時代の建物が検出された例は少なく、貴重な発見である。 中世の遺構としては貯蔵庫もしくは葬送施設と考えられている地下式坑11基、井戸4基、土坑300基、溝15条が検出された。さらに、地面を削って平場を整形した区画が4ヶ所確認された。ここではそれらの台地整形区画を便宜的にA~D区と呼ぶこととしたい。 A・B区は10・11号溝の左右に形成された平場である。規模はA区が東西約35m、B区が東西20m程で、それぞれの区画内に地下式坑や土坑、溝がみられる。
溝には地割の役割をもつと思われるもの、踏み固められて硬化していることから道路と推測されるものとがある。のちにこの区画では地下式坑や溝を埋め、その上に2号土塁が設けられている。 C・D区は台地中央を大きく竪穴状に掘り込み、内側に平場を設けたものである。長方形を呈し、規模は一辺約20m~30m、地表面から1.5m程低く、神社側の主区画との共通性が高い。C区縁辺部には井戸と多数の土坑、D区縁辺部には井戸と地下式坑が設けられており、地表から区画の内部へ行くのには12号溝を歩いて降りたものと思われる。なお、この溝は西側へさらに伸びており、主区画周囲に現在も残されている道路と通じていると推測される。
出土遺物
今回の調査区域からは整理箱25箱分の遺物が出土した。そのうち中世の出土遺物には、在地で作られたと考えられる内耳鍋や擂鉢、儀礼に使われたと考えられるカワラケ等の焼き物があり、この他に瀬戸・美濃窯製の平碗や花瓶、天目茶碗、中国から輸入した青磁の端反碗等がみられた。 これらはC・D区からの出土が目立ち、15~16世紀にかけて生産されたものが主体的であった。とくに、擂鉢と内耳鍋が多く、このことは食物を擂ることや煮炊きをすることが日常的に行われていたことを示している。今回の調査区内で中世の掘立柱建物跡等の生活跡は発見されていないが、付近で日常生活を行っていたと想定することは十分できるだろう。
注目されたのは、C区の土坑やD区の大型井戸から鉄滓や鞴の羽は口が出土したことである。このことから、付近で小鍛冶等の作業を行っていたことも考えられる。 さらに、井戸から五輪塔の一部が発見されている(写真㈬㈭)。八社神社境内にも中世の五輪塔の一部がみられることから、この周辺が墓地として利用されていたことが明らかとなった。
時代背景
16世紀前半の房総は、古河公方足利高基と小弓公方足利義明兄弟の対立が周辺に飛び火し、争乱の舞台となった。これを受けて、酒々井町本佐倉城を居城とする千葉氏、千葉市小弓城を拠点としていた原氏は古河公方側、臼井氏は小弓公方側につき、天文7年(1538)に相模台(松戸)で両軍が激突した。 この戦いで破れた小弓公方側を支持していた臼井氏の没落は決定的となり、居城である臼井城の城主には原氏を迎えることとなった。その原氏は臼井氏の基盤を吸収し、これ以降臼井周辺を治めていった。
まとめ
井野城跡周辺を含む印旛沼南岸地域は臼井庄と呼ばれ、平安時代末の臼井常康を祖とする臼井氏が開発領主として繁栄した。その一族には神保、真野、星名、鹿渡、山無、小竹氏等、鹿渡氏の子孫には志津、栗山、小名木氏等がおり、地名を苗字としたものもいた。これらの地名は佐倉市から四街道市に広がっている。そして、その周辺に中世城館が多数残されており、臼井氏一族との関連が考えられている。 とくに、佐倉市臼井屋敷跡遺跡や四街道市池ノ尻館跡では地表面より低い位置に方形をした平場が設けられている点で井野城跡と共通している。池ノ尻館跡およびその南西に位置し、同様の構造がみられる千葉市南屋敷遺跡では15、16世紀頃に存続していた城館であることが調査により明らかにされ、いずれも小領主層の屋敷跡と考えられている。地域・年代ともに類似性が高い井野城跡も、同様の性格をもつ可能性がある。
今回の調査区から検出された台地整形区画や溝等は、八社神社周辺に現在も残されている遺構と極めて関連性が高いと考えられる。井野城跡は調査区域から出土した遺物により、15世紀~16世紀代に存続 した城館跡であると推測される。そして、後半には地下式坑や溝を埋めて土塁を設ける等の大規模な改 修がみられた。神社側の主区画の調査はされていないが、土塁で囲まれていることや今回の調査区よりも要害性の高い台地先端にあることから、周辺の不安定な社会情勢に対応しつつ、しだいに防御性を高めていったと考えられる。
井野城跡の概念図は千葉県教育委員会による「千葉県所在中近世城館跡詳細調査調査票」を加筆修正したもので、作成にあたって、外山信司氏・日暮冬樹氏の御指導、御協力を得ました。末筆ながら御礼申し上げます。

これが八杜大紳神社の入口の鳥居です。
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拝殿脇に新しく建てられた八杜大紳の説明書きが建っていました。この中に赤線で示している通り井野城に関する記述を発見いたしました。
この説明によると室町時代後期の井野周辺は関東に勢力を築いていた垣武平氏の流れをくむ千葉氏の勢力下にあり、印旛沼に面した臼井城を千葉氏の一族である原氏が納めているこの地に臼井城の支城として井野城を築いたと想定されているそうです。この八杜大紳は井野城の守護神として創建された可能性があるそうです。
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こちらが拝殿です。拝殿の前に建っている細いポストが賽銭箱です。
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八杜大紳には下の八柱の神々が祀られていました。もともとは十二柱の神々が祀られており十二杜大神と称されていましたが四杜は他村に分祀されて八杜大紳になったと伝えられているそうです。
  別雷命    わけいかづちのみこと
  天兒屋根命 あめまこやねのみこと
  伊弉冉命   いざなみのみこと
  大己貴命   おおなむちのみこと
  比咩神    ひめのかみ
  大山祗神   おおやまづみのかみ
  保食神    うけもちのかみ
  表筒男命   うわつつのおのみこと
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こちらが八杜大紳の本殿です。
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土塁の上から本殿と拝殿をみた景観です。ここに主郭があったと確定はされてはいませんが、このような立派な神社がここに建てられていることからも、この地が主郭であった可能性を感じます。また、2005年隣接した場所の発掘調査でもこの城郭の東側に防衛的な土塁が発見されたことからも主郭であった可能性を感じました。いずれにしても謎の多い城郭です。
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階段を上ったところに建てられている狛犬は古い方が明治30年7月27日で、新しい方が平成21年9月吉日に建立されたもので今でも大切にされていることが伺えました。


神社の脇には3つの石碑が祀られていました。右から八坂大神、神明宮、疱瘡神です。
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その横には安産の神様である子安大明神も祀られていました。


八杜大神神社の奥には浅間神社の石碑が建てられていました。


浅間神社の入口の鳥居ですが、この新しい鳥居の奥に、鳥居の上部が写っているのが判ってもらえると思います。おそらく震災で倒れて物であろうと思います。


道祖神も祀られていました。1982年に入居が開始された此の地域の新しくニュータウンにつけられた「宮ノ台」という地名は、この宮の杜に因んでつけられたように感じました。


今までに紹介した小竹城と先崎城と下高野館と井野城です。中学校の文字のあたりのマークが井野城です。右下が小竹城で上の2つが右から先崎城と下高野館です。


こちらは印旛沼の西側の城跡・館跡で中央が井野城です。
戦国時代には、この辺りには沢山の城がありました。
千葉県内で城跡・砦跡・館跡等に関する遺跡が1000箇所近くあり、佐倉市内には約50箇所、その存在が確認されています。

より大きな地図で 印旛沼の城 を表示

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