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パキスタン料理 [パキスタン]

が表示された写真はクリックすると拡大します。
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せっかくパキスタンに来ていながら夕食では本格的なパキスタン料理を食べる機会がありませんでした。そこで昼食や朝食で食べたパキスタン料理を紹介いたします。写真はクリックすると全て拡大いたします。これはホテルの朝食の時に、パキスタン料理らしいものを集めて撮ってみました。インド料理のようにカレーが中心でした。クリックしてみてください。おいしそーでしょう。おいしかったです。ビールがあったらな~~ぁ

揚げた薄いパンもありました。インドのナンみたいなものかも知れません。鳥料理が多いですね。鳥の肝の料理もありました。
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その鳥の料理だけを拡大いたしました。
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ぶ厚い独特のパンもありました。カレーやシシケバブも一緒に食べます。
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やはり香辛料がパキスタン料理の命のようです。
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イスラマバードの中華料理店 [パキスタン]

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中華料理店は何処にでもありますが、さすがパキスタンとなると数が限られてきます。ホテルにも中華料理店はありますがフォークとスプーンで食べさせられました。イスラマバードはパキスタンの首都ですが、ラホールやカラチに比べると小さな町なのも影響があるのかもしれません。でも、イスラマバードを良く知っている人に町のお薦めの中華料理店を紹介してもらい、食べに行きました。ここは本格的な中華でした。もちろんフォークは出てきません。最初から箸です。お客さんもすべて中国系の人でした。日本人が頼んでいるのでなじみのある料理ばかりですが味は本格的でした。

スープも本格的でした。もちろんここでもビールは飲めませんでした。パキスタンは公然とはアルコールは飲めないのです。持込で個室なら問題ないのですが我々にはお酒を手に入れる術がありませんでした。


おなじみのチンジャオロースです。イスラムの国ですから普通は食べれない品物です。


海老チャーハンです。
実は日本人2名と運転手さんの計3名でしたが、ここに載せている料理は運転手さんは手をつけませんでした。鳥チャーハンを別に頼んでそれを食べました。たぶん豚肉が使われてといるかもしれないと思い食べなかったのだと思います。
したがって、これらの料理を2名だけで食べたることになってしまいました。
パキスタンの卵の黄身は白いのですが、さすがにここで使われている卵の卵黄は白くないみたいです。


レストランの全景です。


お店の名前は黄鶴樓(Huang He Lou)です。
ホテルの食事に飽きたときは是非!
値段も格段に安すかったです。
ネットで調べると沢山出て着ました。→ポチッ ポチッ ポチッ(青年海外協力隊員) 

トラックもド派手 [パキスタン]



パキスタンでのバス乗り合いタクシーが派手なことを紹介しましたが一番派手なのがトラックです。どの車も超派手なんです。この大きさ以上の車で装飾していない車は見ませんでした。日本のトラック野郎を思だしてしまいます。
この写真のトラックが特別ではなくてほとんどのトラックが写真のような感じです。ただし描かれている絵はさまざまなんです・

後ろ姿も趣向を凝るらしています。この写真は拡大します。
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タンプカーも飾られています。これだけ少ない飾りは珍しいです。トレーラーにも必ず飾りが描かれていました。


一番上の写真が最もオーソドックスな飾りつけなんです。町の中でも良く見かけます。


トラクターも飾り付けられています。さすがにこれには驚きました。とっさにカメラで撮ったので画像は不鮮明になってしまいました。

バスもド派手 [パキスタン]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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パキスタンは乗り合いタクシーもなかなかの装飾でしたがバスもたいしたものです。中の装飾もすごいです。クリックすると拡大するので判ると思います。運転手が信号待ちの間に煙草を吸おうとしているのもわかると思います。

クリックすると拡大バスも人がつかまって走るのは当たり前のようです。写真をクリックするとつかまるためのパイプがよく判ると思います。屋根の上まで人でいっぱいであることがわかってもらえると思います。
下の2枚の写真はオリジナルの右の写真の一部を切り取ったものです。小さな写真で振動する車の中から撮ったもの解像度がよくないことはご容赦ください。
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上の写真はクリックすると拡大するのですが、クリックするのが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。これでよくわかると思います。


乗り合いタクシーとバスの紹介記事を見るとパキスタンの車はすべて極彩色なのかと思われたかもしれません。実は一番多いのは普通の乗用車なんです。誤解なきように!


高速道路も整備されています。この写真はクリックすると拡大します。片側3車線で往復6車線の高速道路でした。
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田舎の道はこんな感じです。


上の道沿いではお祭りがあり屋台が出ていました。

ド派手な乗り合いタクシー [パキスタン]

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初めて、パキスタン(اسلامی جمہوریت پاکستان)のイスラマバード(Islamabad)に行きました。ここに来て興味深い車が走っていました。乗り合いタクシー(ミニバス)です。良く見てもらうと判るように軽トラックの荷台を改造しています。でもなっと言っても目を引くのが極彩色のペインティングです。パキスタン名物らしいです。

現在、パキスタンは渡航自粛国に指定されています。したがって外出は自粛していたので車の中からの風景が中心で御報告とさせていただきます。
イスラマバードは緑の豊かなきれい道が多いかったです。


非常に良く見る風景を4枚連続で掲載いたします。


乗車中です。驚くことに大きなバスもド派手でした。


小さな傘の飾りがおもしろいです。この傘で一番したの写真の車と同じ車であることがわかりました。


乗っている人はカーブに合わせて体を傾けているようです。車の転倒防止にもなっているのかもしれません。ところで乗用車のシェアを聞くと大雑把に言えばスズキ50% トヨタ30% ホンダ20%と言われました。日本車がこんなに活躍している国とは知りませんでした。ベースとなった軽トラも日本製だと思われます。

パキスタン国内線 [機内 CY]



初めてパキスタンに来て下記の3回ほどパキスタンの国内線に乗る機会がありました。ここでは最初にラホールからイスラマバードのフライトを紹介いたします。上の写真はラホールの空港で私が乗った飛行機PK356です。ラホールは人口やが約一千万人のビジネスが中心のパキスタン第二の都市です。
  6月06日 PK356 ラホール    → イスラマバード
  6月11日 PK385 イスラマバード → ラホール
  6月13日 PK628 ラホール    → イスラマバード

こちらがPK356便の搭乗券です。パキスタン国際航空 (Pakistan International Airlines 通称PIA)です。日本ではあまりPIAは知られていないので、少し紹介いたします。
  設立日   1946年 (Orient Airwaysとして)
  ハブ空港 カラチ イスラマバード ラホール
  焦点空港 ペシャワル  マンチェスター
  保有機数 42機
  就航地   80都市


ラホールの搭乗口の待合室です。7時14分と早朝で、まだお客は少なかったけれどもビジネスマン風のスーツ姿の人が多かったです。


国内線ですがインドやベトナムや中国のように機内食が出てきました。と言ってもパンとデザートの簡単なものでした。パキスタンは厳格な禁酒国なので、機内でのアルコール飲料のサービスはありません。
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首都のイスラマバードに到着いたしました。イスラマバードはパキスタンの首都で政治の中心ですが人口的にはパキスタンで10番目の都市です。


空港建物内です。この白い服に圧倒されました。街中でもほとんどの人が、この服装でした。ただしアラブのような帽子をかぶっている人は少なかったです。
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空港からの外の景色です。この時の気温は49℃でした。この2日後と3日後にはイスラマバードの最高気温が52℃を記録しました。おそらく観測史上初めてだと思います。
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外から見た空港の建物です。
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赤マーク( )の位置がイスラマバードで、ラホールを緑マーク( )で示しています。それぞれ町の中心を示しています。両町の空港の直線距離は264km(青ライン━━)です。緑のラインは鹿児島(鹿児島駅)と同じ緯度です。

より大きな地図で ラホール⇔イスラマバード を表示
外務省が公開しているパキスタンの2013年7月時点の安全情報も紹介しておきます。残念ながら気楽に観光で行ける場所ではないようです。
パキスタンの最新安全情報→ポチッ
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参考に隣りのアフガニスタンやインドの安全情報の地図も紹介いたします。2001年に始まったアフガニスタン戦争から12年経ちましたが、いぜんとしてアフガニスタン全土が危険な地域のままです。
いろんな国の安全情報に興味がある方は、こちらをクリックしてみたください。→ポチッ
危険だと思う国、安全だと思う国を調べてみると意外な発見があるかもしれません。
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

ロバさんも暑い 気温は52℃ [パキスタン]


連日、日本では35℃を越える猛暑日が続いていますが、海外で52℃の気温を経験したことがあります。場所はパキスタンでした。こちらの記事の写真を見てもらえれば、少しは日本が涼しく感じてもらえるかもしれません。
時期は6月でしたが、実はパキスタンは6月が一年中で最も暑い時期なのです。これ以降は雨季になるため気温はさがっていきます。実際にパキスタンを離れる頃には暑さが少しづつ和らいできました。

これらのロバさんの写真はパキスタンの首都イスラマバードから140kmの場所です。このあたりは走っているとよくこんな風景によく出会います。ロバちゃんはまったく車のことを気にしていない様子で、車が路肩の部分を走って避けて通ります。
どこに行ってもロバさんが多かったです。土漠のような土地に合っているのか沢山見かけました。


街の近くでは働いてるロバさんたちを沢山見ます。このときは連日、最高気温が49℃~52℃でした。ロバさんも大変ですが人も毎日、熱波で20人が亡くなられており、問題になっていました。 


イスラマバードに滞在している時に最も気温が上がった日が52℃で、その時の写真です。太陽が当たって52℃ではなく、日陰で52℃なのです。この日はホテルにいたのですが、52℃を体験したくて外に写真を撮りに出てみました。快晴の状態であったことから太陽の当たる場所での体感気温は相当なものだったと思います。下の写真は道端にある大きな給水タンクの底から水を出して体を冷やしているおじさんです。タンクに入れたばかりの水を出してもったいないけれど命には代えられない。という感じでした。 さすがに日陰に入っても熱かったです。こんな経験のおかげで多少の気温には驚かなくなりました。さすがに52℃は暑かったです。いや熱かったです。ホテルを出てすぐに持っているカメラが触れられないくらいに熱くなってきました。
IMG_5797-1440.jpgこの下の写真と右のタクシーに乗る人の写真を撮ると暑さに耐え切れずに、すぐにホテルに戻りました。
パキスタンはこのときは特に猛暑でイスラマバードに着いた日は最高気温は49℃で、ついには52℃を越える日が2日間もあり、今回の52℃の体験となったわけです。パキスタンは初めてなので「パキスタンは、こんなものなのかな~メチャメチャ暑いところだな!」程度に思って、こちらにいる人に「パキスタンはすごく暑いところですね。」と言うと「と、とんでもない!今年は特別です。」と言われちゃいました。


イスラマバードからラホールに移動しても気温は高かったです。連日、最高気温が49℃~52℃でした。夜中の3時30分なのに31℃でした。
下の画面はmsnの天気予報の気温です。Yahooなどいろんな予報がありますが、この時はmsnがもっとも現地の気温を正確にあらわしているようでした。この日の午前8時の気温は33℃で、前日に比べるとこの日の朝はかなり冷え込んだようです。でも予報によると気温が徐々に上がって14時には52℃に上がるようです。20時には44℃、23時には40℃で最高気温は52℃で最低気温は36℃でした。

12時30分の時点で42℃まで上がっていました。前日までだったら12時30分には48℃には上がっていました。20時と23時の予想気温は、若干、低めに修正されましたが、最高気温予報は52℃のままでした。この日を過ぎると雨季に入り始めるので、日ごとに気温が下がってくるみたいです。一安心かな
パキスタン・ラホール現在の気温はこちらです。→ポチッ(クリック)

こんなに暑いことから日本よりかなり南に位置しいいるし思われるかもしれませんが、実はイスラマバード(赤マーク)もラホール(緑マーク)も日本と同じ程度の緯度なのです。緑のラインは鹿児島(鹿児島駅)と同じ緯度です。
つまりイスラマバードは博多とラホールは鹿児島と同じ緯度なのです。

より大きな地図で ラホールとイスラマバード を表示

自分のホテルが火事 [パキスタン]

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パキスタンのイスラマバードに来て最大の事件がこれです。私にとって海外経験で最大の危機だったかも知れません。
ホテルの部屋で寝ている時に、煙たいのに気がつきました。目を開けると天井が霞んでいました。もしかしたら火事と直感! 時間は午後11時(日本時間 午前3時)ごろで、すぐに廊下を確認すると、ものすごい煙なので火事と判りました。有毒ガスのような煙がすごすぎる上に、熱すぎて廊下からは逃げられる状態ではありませんでした。いざとなったら窓から逃げる覚悟で部屋に戻りました。 しかし一番危険な煙が相当に部屋に入ってきたので、身の危険を感じて部屋にもいられないために、ついに窓の外の小さなスペース(人が行く場所ではないけれど以降はベランダと呼びます。)への窓をこじ開けて窓を乗り越えて避難しました。開けるときに煙で見えないので窓の取っ手を無理やり壊して開けました。火事がおさまってから冷静に見ると壊さなくても開けられる構造でした。
私は4階のRoom No.411 でベランダから見ると火事は同じ4階でした。上の写真はベランダから撮った写真です。良く見ると飛び降りなくてもコンクリートの格子をつたって降りれる構造でした。この状態になって、とりあえず火事が大きくなっても逃げられると感じて、初めて冷静になれました。それで息を止めて部屋に入ってカメラを取ってきてベランダに再度避難しました。

火もかなり出ていました。このときは消防自動車はまだ来ていませんでしたが15分位してから放水が開始されなんとか沈火することが出来ました。それから30分くらい経ってからすごい数の消防自動車が来ましたが、おそらく出火から一時間以上経っていました。火が消えてから初めて非難誘導で一階に降りたわけです。


避難した時に状況をお客さんの一人が以下のように話してくれました。
火事はRoom No. 404だったそうです。 隣の部屋Room No.402に日本人の新婚さんが泊まっており窓から飛び降り(つたって降りる時に落ちたのか動転して飛び降りてしまったのか)て女性が怪我をしたと話してくれました。
これが事実であれば日本人が怪我をしたことから日本でもニュースになるかもしれません。ネットで調べたけれどまったくありませんでした。 
2時間経ってから部屋に戻してもらいましたがススだらけでした。紙を置いていた部分は真っ白なのですごい煤だこと判ってもらえると思います。
とても寝れる状況でないので別の部屋へ変更してもらいました。


ホテル名はPearl Continental Hotel Rawalpindi Pakistanです。防火設備(スプリンクラーや火災報知機)を強化することを期待します。→ポチッ

火事のときの地上です。こちらを見ている人も沢山いました。


4階の人はやっと鎮火してから避難誘導されて1階に下りました。1階は避難した人たちや外から帰ってきた人たちでいっぱいでした。やっと別の部屋は入れたのは3時過ぎでした。一旦自分の部屋に戻って荷物をまとめて別の階の部屋に移動しました。


火事になる前に撮ってあった部屋の写真を紹介いたします。火事のあとは白い部分は全て真黒になったことを想像してください。


やってくれました。 [むさし]


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神妙な顔で座らされているのは、我が家のワンコです。
熊本のおじさんから宅急便で地元の西瓜が届きました。玄関に置きっぱなしで出かけているすきにワンコがやってくれました。幸いスイカは無傷でした。中身が気になったのでしょうね。子供みたいです。
反省しているみたいです。クリックすると拡大します。
スイカは冷やして美味しくいただきました。おじさんありがとうございました。

本場ロシアのビーフストロガノフ [ロシア]

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6月29日にベルリンから夕方にロシアのサンクトペテルブルグに着きました。最初の日の夕食は是非ともロシアの代表的な料理に食べたいと思っていました。地下鉄に乗ってサンクトペテルブルグの町に出たあと戻ってきて、テレビをつけてロシア語でスポーツ番組を見たあとなったので、時間も21時になってしまったため、ホテルのレストランで食べることにしました。
メニューの中でRussian Specialties(ロシア・スペシャル) と書かれたページの料理の中から頼むことにしました。実はホテルではロシア料理は少なくてヨーロッパの料理が圧倒的に多いのです。
そのメニューの中のRussian Specialtiesのページを紹介します。
スターターは4種類
  ① Fish Plate
  ② Meet Plate
  ③ Blini with roasted vegetables
  ④ Traditional mushroom and potato filled vareniki
スープは2種類でした。
  ① Borsch
  ② Solyanka
メインは1種類のみでした。
  ① Beef Stroganoff
デザートは5種類あるのにメインがBeef Stroganoffだけだったのは驚きでした。
上の写真はスターターとして頼んだフィッシュ・プレート(Fish Plate)です。スモークサーモンにスモークされたオヒュウです。サモークサーモンは焼いたものも乗っていました。Fish Platには「Slighty salted salmon, warm smoked salmon and cold smoked halibut with capers and lemon」という詳しい名前がつけられていました。

そのフィッシュ・プレート「Slighty salted salmon, warm smoked salmon and cold smoked halibut with capers and lemon」の拡大写真です。クリックするとさらに拡大します。
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メインデッシュは迷わずビーフストロガノフ(Beef Stroganoff)でした。空港に降りたときから本場のビーフストロガノフを食べてみたかったのです。料理の名前は「Classic Beef Stroganoff, served with mashed potatoes」でした。
マッシュポテトが沢山付いていました。
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ビーフストロガノフ(Beef Stroganoff) を拡大してみました。美味しくて大満足でした。たっぷり入っていた牛肉がすばらしかったです。クリックするとさらに拡大します。
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クリックするのが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大します。味が伝えられたでしょうか。
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ビーフストロガノフはパンに、つけて食べても美味しかったです。


もちろんビールは何杯もいただいてしまいました。フィッシュプレートも美味しかったしビーフストロガノフもビールに合いました。
ネットで調べるとビーフストロガノフは16世紀初頭にウラル地方で成功した豪商・ストロガノフ家の家伝の一品であったとされ、食事と料理が好きな当主が深夜、小腹が空いて起きたものの家人や使用人は全員眠っていたため有り合わせの材料で料理を作ってみたら旨かった事から出来た料理だとされていますが、実際は貴族のたしなみであった『開かれた食事会』のために雇われ料理人が作ったものであるといわれています。19世紀に帝政ロシアのストロガノフ伯爵のフランス人コック長が広めたそうです。
作り方は、牛肉の薄切りとタマネギ、マッシュルームをバターで炒め、若干のスープで煮込んで、仕上げとしてサワークリームをたっぷりいれます。
中央の赤いマークが食事をしたOriginal Sokos Hotel Olympia Gardenです。

大手町で話題のビアガーデンに行ってきました。 Hooters(フーターズ) [ビール]

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アメリカで400店舗以上を展開しているフーターズ(Hooters)が東京・大手町にビアガーデンを期間限定(2013年6月13日~9月30日)でオープンしたとのことなので2013年7月4日に行ってきました。17時にお店に入りました。この写真は2時間経過した19時ごろの写真です。

17時開店ですが、開店前のHootersです。この時はドリンやフードは、まだ売られていませんが席に座ることが出来ました。
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さっそくビールを頼みました。ピッチャーはありますがカップのサイズは、この中サイズだけです。ビヤガーデンでおなじみの取っ手のある大ジョッキや中ジョッキはありませんでした。ビヤガーデンと書きましたが、ビール以外に沢山のドリンクメニューがありました。
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料理はこの6皿を頼みました。「タマネギのリングフライ」と「チキンフリツターとフライドポテト」と「ピリ辛の茹で海老」と「チキンウイング」と「ハッシュドポテト」と定番の「枝豆」です。ホームページの料理のメニューです。→ポチッ
料理の写真は、いずれもクリックすると拡大するように設定いたしました。
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料理や飲み物の購入は正面のステージに上がって買います。左が食べ物コーナーで右が飲み物コーナーです。


こちらが飲み物コーナー


正面から見るとこんな感じです。
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フーターズは、店舗で働フーターズ・ガールの白地にフーターズのロゴをあしらったタンクトップとオレンジ色のホットパンツのコスチュームが有名です。
クリックすると拡大写真撮影は声をかければOKです。写真をクリックしてもらうと拡大いたします。HOOTERSは、フーターズ・ガールを見た男性客がフクロウのように目をキョロキョロさせることから、この名前がついているそうです。タンクトップにデザインされているのも右の写真のようにフクロウです。フクロウのホー、ホー(Hoot, hoot)という鳴き声から来ています。
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フーターズ・ガールは、なかなかかっこいい女性が多いのに驚きました。どうやら写真を撮るときのポーズは決まっているようです。
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フーターズ・ガールのチアリーダーをイメージしたダンスも人気の一つだと思います。
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連続写真も紹介いたします。スライドショーはこちらです。→ポチッ
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フーターズ・ガールのダンスの動画も紹介いたします。実は最初に動画を撮った時は設定ボタンを間違えて白黒になってしまいました。→白黒


一緒に記念写真を撮るのもOKなので、あっちらこちらで写真を撮られていました。


こんな感じで記念撮影に気楽に応じていただけます。


暗くなってさらに盛り上がってきました。
冒頭の写真は19時ですが、こちらは21時の写真です。


21時の別の角度からの写真です。


ビールを買いに行ったときに聞いてみると月曜日から金曜日までは満席になるそうです。


暗くなってくるとフーターズガールの踊りも盛り上がってきます。アメリカンなビアガーデンを堪能できました。
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ピッチャーはカップ5杯分なので、追加のビールはすべてピッチャーにいたしました。


結局、4時間半で3人で中カップ(600円)×3杯とピッチャー(2500円)×3杯とブラック(600円)×3杯を飲みました。つまりビールだけで11100円となりました。やっぱり、いつもの通り料理よりもビールの方が高くなってしまいました。
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お店を紹介いたします。完全な屋外なので雨が降ったらクローズと思ってもらったほうがいいと思います。地図の中の緑のBマークがビアガーデンの一です。
クリックすると拡大 店名  フーターズ Hooters 
 住所  東京都千代田区大手町1-7-2
      東京サンケイビル・メトロスクエア1F 屋外
 電話  070-6406-0503
 期間  2013年6月13日~9月30日
 予約  予約は出来ないそうです。
 ビュー http://goo.gl/maps/RSR40

実は2010年10月に公開された列車の無人暴走を題材にした映画「アンストッパブル」の主人公の1人である機関士のフランク・バーンズ(デンゼル・ワシントン)の19歳と18歳の二人の娘が働いていたお店がフーターズでした。
クリックすると拡大この映画は2001年にクリックすると拡大起きた実際の列車の無人暴走事故をヒントに作られた映画で暴走の原因や危険物を積んでいたこと、機関車を連結させて停止を試みるなど実際と近い映画となっていました。右の写真がフーターズの店内で娘さんがテレビ中継でお父さんを見ている場面で動画の中にも出てきます。


2001年5月15日に発生した実際の無人暴走事故
 事故名 : CSX8888号暴走事故(別名 クレイジーエイツ事故)
       枠内の経緯を読んでいると映画と非常に似ていることが判りました。
12時35分、事故発生時、当該列車の勤続35年のベテラン機関士は貨車を仕分線から出発線に入れ替える作業を行っていた。機関士は列車を発車させた後、進行方向のポイントの向きが間違っていることに気づき、空気ブレーキを作動させたが、ポイントまでに止まり切れないと判断、ブレーキをかけたまま機関車がポイントに到達するまでに飛び降りて走り、ポイントを切り替えてまた運転席に戻ろうとした。 機関士は更にブレーキをかけるため、空気ブレーキに加えてダイナミックブレーキを最大まで動作させてから機関車から飛び降りた。ダイナミックブレーキを使用することにより機関車は更に減速するはずだった。しかし、実際はパワーモードが力行からダイナミックブレーキに切り替わっておらず、コントロールレバーがフルスロットルになったことで機関車は無人のままフルパワーで加速し始めてしまった。機関士は慌てて機関車に飛び乗ろうとしたが、雨で手すりが濡れており、這い上がれずに転落した。
機関車に空気ブレーキはかかっていたが、入れ替え中のため貨車にブレーキホースが接続されておらず、機関車にしかブレーキがかかっていない状態だったため、加速する列車を止めることはできなかった。また機関車には、一定時間操作を行わないと列車を緊急停止させる、Alerterと呼ばれる日本のEB装置にあたるデッドマン装置が装備されていたが、空気ブレーキがかかった状態であったため動作しなかった。
12時38分、事態はオハイオ州警察(以下警察)に通報された。また、操車場スタンリーヤード管制室(以下管制室)に、事故の連絡を受けたCSX社副社長アラン・クラウンが詰めかけ、事態収拾の指揮を執った。 管制室から知らせを受けた勤続31年の機関士ジョン・ホスフェルドは、約6.4km地点のダンブリッジの踏切へ先回りし列車先頭の機関車に乗り込もうとするが、速度が早く断念せざるを得なかった。実は、この時まで機関車がフルスロットルとなっている事実を管制室が知らず、時速10km程度の徐行速度だろうから乗り移ることが可能と考え、連絡したのだった。
機関士ジョンから連絡を受けて初めて、管制室は事態の深刻さに気付いた。貨車に積載されていたのは、2万リットル(L)もの毒性の高い溶解状態のフェノールであり(他は飼料や資材)、加熱され気化し空気と混ざり合うと爆発性の混合ガスになる可能性があった。
スタンリーヤードから約106km離れたオハイオ州ケントンには下り勾配の急カーブがあり、安全に通過するには、時速40km以下である必要があった。さらに、その周辺には燃料倉庫やガスタンクや民家が密集していた。ケントンの急カーブに差し掛かる頃にはフルスロットルの為、時間と共に加速された列車が時速100kmを超え、急カーブで脱線することは確実で、その前までに列車を停止させなければ1万5千人のケントンの町を巻き込む大惨事になるのは間違いなかった。
13時、ケントンの急カーブまで残り距離80kmの地点で、警察は機関車の緊急停止用非常スイッチを狙撃し列車を停止させることを管制室に提案。燃料タンクへの引火を管制室は懸念したが、最終的に了承した。 13時30分、フィンドレイの踏切で警官2名が、少しでも当たるようにと至近距離からショットガンで狙撃したが、非常停止スイッチはわずか3cmの幅しかない小さなもので、さらに列車の速度がこの時点で時速70kmという想定以上の速さだった為、失敗した。
13時35分、周囲に人気のない55km地点のダンカークの待避線の切り替えポイントに、先回りしていた機関士ジョンが管制室の合意の下、予めポイントを切り替えることで安全な場所で列車を脱線させ停止させようと試みる(人けが無いので、脱線し爆発しても被害が最小限に抑えられるため)が、時速80kmというあまりの速度にポイントが跳ね返され、列車は本線を突き進み、失敗した。 ケントンの急カーブまで残り距離30kmとなった所で、ケントンの町で避難誘導が始まった。また、アメリカのメディアもヘリコプターで列車を空撮して、報道した。
14時5分、暴走列車と同じ本線で逆方向から進行中だった別の貨物列車Q96号(勤続28年の機関士ジェス・ノールトンと長年ジェスとコンビを組んでいる車掌テリー・フォーソンが乗務中であった)に対し、「正面衝突を避ける為、一旦、待避線に入り、貨車を切り離した上で待機。暴走列車が本線を通過後、待避線から本線に進入し、暴走する列車の後部に機関車を連結し、ブレーキをかけて止めるように」との指示が管制室からなされた。指示通り、待避線に進入後、貨車を切り離し、待避線で待機。暴走列車が横の本線を通過後、待避線内ではQ96号は方向転換が出来ない為、バック走行のまま時速100kmのスピードで暴走列車の追跡を開始した。バックでの運転で、進行方向の状況が見えないQ96号機関士ジェスの為に、Q96号の後方(進行方向では前方)に車掌テリーが無線を持って立った。
ケントンの急カーブまで残り時間7分の地点で、Q96号は追いついたが、スピードを緩めた場合、引き離される恐れがあった。やむを得ず機関士のジェスは車掌テリーにその旨を無線で伝えた後、そのままのスピードで連結を試みた。テリーはその場で手すりにつかまり、衝撃に備えた。通常は、徐行運転で連結する為、成功するかどうか危ぶまれたが、見事に連結は成功し、テリーも何とか無事であった。 後部機関車でダイナミックブレーキをかけ暴走列車は減速していった。
列車の速度が約18km/hまで落ちたところで、先回りしていた機関士ジョンが乗り移って8888号のスロットルを戻し、エンジンを停止。それに気づいたQ96号の機関士ジェシーがQ96号のブレーキをかけ、約106km離れたオハイオ州ケントンで列車は14時30分、ようやく停止した。 脱線が確実視されていたケントンの急カーブまで残りわずか2kmの地点であった。最高時速110km、走行距離延べ105.6km、走行時間約2時間の暴走だった。 なお、8888号のブレーキシューは全て焼き切れていた。
幸いにもこの事故による死者はなく、また、事故発生時に転落して軽症を負った機関士以外に負傷者はいなかった。

イスラマバードの若いお嬢さん達 [パキスタン]

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パキスタンのイスラマバードの街角の風景です。若いお嬢さんたちがタクシーに乗るところです。なぜ、若いお嬢さんと判るかと言うと、すごくお洒落な服装だからです。靴も洒落ています。
パキスタンはイスラム教の厳格な国です。お酒は法律で禁止されています。しかし他のイスラムの国のように女性が顔を隠すことを法律で義務付けられているわけではありませんでした。お酒に対して高額な罰金を設けるほど厳寒なイスラムの国ですが完全に顔を隠している女性は珍しい方でした。
話題が変わりますが、この時の気温は、紹介の通り、52℃でした。女性の服装は猛暑から守るだけでなく紫外線からも肌を守ってくれるのだと思います。これだけの暑さだから男性も長袖をみんな着ているのだと思います。

エア・ベルリンは格安航空会社 [機内 CY]



6月29日のベルリンからサンクトペテルブルグへのフライト名がAB8484であることは日本を出る時から判っていました。ベルリンからサンクトペテルブルグの便は1日に1便(AB8484)だけのため、航空会社の選択肢はなかったようです。ABはエア・ベルリン(AIR BERLIN)で、調べるとドイツの格安航空会社でした。
国際線ですがエコロミークラス(Yクラス)だけの設定の飛行機でもありました。ただしヨーロッパ近郊線はビジネスクラス(Cクラス)でも椅子はエコロミークラス(Yクラス)と同じで三人席の真ん中の席を空けているだけなので大差はありません。食事だけは違うようです。

これがエア・ベルリン(AIR BERLIN)の飛行機です。格安航空会社の筈でしたが航空券は意外と高かったです。ベルリンからサンクトペテルブルグへの路線は1日1便で競合先がまったくないので仕方がないかもしれません。
エア・ベルリン(Air Berlin)は、ベルリン、デュッセルドルフ、ミュンヘン、ニュルンベルク、ケルンなどを中心に、ヨーロッパ各都市に多く就航するほか、アフリカにも就航しているそうです。ネットで調べると思った以上に手広くやっていました。
  設立日     1978年
  ハブ空港    ベルリン・テーゲル空港 デュッセルドルフ空港など
  マイレージ   Top Bonus
  保有機材数  126機
  就航地     80都市
  本拠地     ドイツ ベルリン


そして、これがエア・ベルリン専用のターミナルですが、見ての通りの平屋建ての鉄骨むき出しの建物で、さすが格安航空会社のターミナルという感じでした。出国審査場を出た途端に免税店が並んでおり、その免税店の中を進むと、この写真の待合室に出るところもこだわりを感じました。写真の中央の奥が免税店でその奥に出国審査から出てくるガラス扉が見えると思います。


国際線にもかかわらず、ターミナルから歩いて飛行機に乗ります。黄色いテープに沿って歩いて乗ります。乗客がコースを外れないように係員が見張っていました。アメリカの国内線では経験がありますが、大きな国の国際線では初めての経験となりました。


クリックすると拡大格安航空会社なので食べ物や飲み物は有料ではないかと予想していましたが、予想通りメニューがポケットに入っていました。
右のメニューは読みにくいけれどクリックすると拡大するので内容がわかると思います。料理は6.5ユーロ~9.9ユーロでした。
あとスナックなども売られていました。
下はドリンクメニューの部分を表示したものです。
ワインが5ユーロでビールが3ユーロでした。シャンパンは4~9.5ユーロの表示がありました。他のアルコール類は4ユーロ前後でした。
思った以上に注文している人が多かったです。
私はサンクトペテルブルグに着いてからロシア料理を食べることにしていたので注文はしなかったです。下の画像をクリックするとメニュー全体が表示されるので他のドリンクや食べ物の価格がわかります。
クリックすると拡大

国際線だけのことはありソフトドリンクとジュースはさすがに無料でした。簡単なウエットサンドイッチも無料でした。ハムかチーズだけが挟まれたシンプルな食べ物でした。そこで活躍したのが、日本から持ってきたツマミです。前のポケットに入っているのがわかりますか。サンドイッチは味見だけに、させてもらいました。


ベルリンからサンクトペテルブルグへのルートです。直線距離で1322kmです。

より大きな地図で ベルリン→サンクトペテルブルグ を表示

ロシアに着いたことを実感させてくれる光景 [ロシア]


海外に行き、その国の空港に着陸した瞬間に着いたことを実感いたします。特に初めての国は気持ちも高まります。この時はドイツのベルリンからロシアのサンクトペテルブルクに初めてエア・ベルリンで着きました。ロシアは初めてでしたが、この機首の扉が開く飛行機を見た瞬間、ここはロシアだ!と実感させてくれました。
世界最大の輸送機であるアントノフ124のようです。通称An-124「ルスラーン」(ウクライナ語:Ан-124 «Руслан»アーン・ストー・ドヴァーッツャチ・チョトィールィ・ルスラーン;ロシア語:Ан-124 «Руслан»アーン・ストー・ドヴァーッツァチ・チトゥィーリェ・ルスラーン)はソ連のアントノフ設計局(ОКБ имени О.К.Антонова、現在はウクライナのO・K・アントーノウ記念航空科学技術複合体(ANTKアントーノウ))が開発したそうです。量産された機体としては、世界最大の輸送機とのことです。ウクライナやロシアでは、ルスラーン (Руслан) の愛称で親しまれている。一方、北大西洋条約機構 (NATO) のつけたNATOコードネームは「コンドル」(Condor) であったそうです。また、An-124の発展型にAn-225「ムリーヤ」があります。後ろの扉も大きいです。

飛行機の仕様は下記の通りです。右下の飛んでいる写真はWikipediaから拝借いたしました。
クリックすると拡大 全幅       : 73.3m
 全長       : 69.1m
 全高       : 21.1m
 空虚重量    : 175t
 最大離陸重量 : 405t
 最大積載量   : 150t
 運航乗務員   : 6名
 搭乗者      : 88名
 最大速度    : 865km/h 
 巡航速度    : 800km/h 
 上昇限界高度 : 12,000m
 エンジン     : イーウチェンコ=プロフレース製 D-18T
            ターボファン(23400kg)4基

荷物の積み込み光景もWikimediaから拝借いたしました。
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ソ連時代(1924 - 91年)はレニングラードと呼ばれたサンクトペテルブルクは大きな町で沢山の観光客訪れるところであるけれどもターミナルは意外と小さかったです。
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Baggage Claim(バッゲージクライム / 手荷物受取所)は3ケ所だけでした。


航空写真で見たサンクトペテルブルク空港です。青い線は飛んできたベルリン方向を示しています。

より大きな地図で サンクトペテルブルグ空港 を表示


2日連続 寝台列車に乗りました。 [ロシア]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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海外で初めて寝台列車に乗ったことを紹介いたしましたが、その翌日(4月27日)もモスクワに帰るために寝台列車に乗りました。その列車が上の写真です。モスクワからの機関車はディーゼルでしたがモスクワへの帰りは電気機関車が使われました。

寝台列車はスタールイ・オルコスを4月27日18時00分に出発し12時間かけて翌日(4月28日)の6時00分にモスクワへ戻ってきます。
帰りも 0号車(ファーストクラス)でした。


これはロシアの鉄道網の地図です。しかしスタールイ・オスコル(Stary Oskol / Старый Оскол)を通る線路は書かれていませんでした。
スタールイ・オスコルの場所と予想通過線路を地図に記載しました。Google地図を見るともっと沢山の線路があることから、この地図の鉄道網は幹線のみで実際には鉄道網が網の目のように走っており、おそらくこの数倍の線があると想像されました。
また路線図では線路はまっすぐのように描かれていますがGoogleの地図で確認するといろんな町を通っていくために曲がりくねりながら目的の場所に向かっていました。地図で見るよりも実際の走行距離は長そうです。
画像をクリックするとロシア全体を表示するので是非とも見てください。
クリックするとロシア全体を表示

来る時と同じように各車両の入口には車両の車掌の女性が立っていいてチケットとパスポートをチェックします。女性の車掌の人たちは終点のモスクワまで一緒に移動します。
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来る時とおなぐく約500mの列車編成でした。我々はちょうど真ん中の0号車でした。
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列車の中からのスタールイ・オルコス駅の風景です。
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列車の通路です。


クリックすると拡大寝台車の個室に関したはモスクワ→スタールイ・オルコスで紹介したので、こちらでは食堂車を紹介いたします。こちらが食堂車です。高級レストランの雰囲気の食堂車ではありませんが、きれいで清潔感がありました。


ファーストクラスはビールと夕食が付いています。部屋でも食べれるのですが、出発前に食堂車に準備するようにお願いして寝台列車が動きはじめたら、すぐに食堂車に向かいました。すでにビールは用意されテーブルに置かれていました。


最初は乗車券についている無料のビールで乾杯です。


ここで黒パンのビールに合う食べ方を教えてもらいました。パンの上に塩とレッドペッパーを振り掛けるのです。これが本当にビールに合うのに驚きました。不思議と胡椒ではなくレッドペッパーが置かれていたのがよかったです。


雰囲気が盛り上がるとやっぱりワインですね。ワインもいただきました。さらに持参していたウイスキー(山崎)も一本開けてしまいました。


乗車券についていた料理をつまみにビールやワインをいただきました。料理は決して高級感はありませんが、ロシアの味を堪能いたしました。ご飯が付いているのにも驚きました。これば鶏肉の料理です。
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料理は2種類からの選択です。付いているご飯はポテトに変更は出来ます。これはビーフのシンプルな料理でした。ビールには合いました。
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ここから下の料理が前日のモスクワ→スタールイ・オルコスの料理です。これはポークのフライです。これは一番料理らしい料理でした。
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こちらがポテトとビーフの組み合わせです。実は「ご飯」か「ポテト」のどちらかを選ぶのです。
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つまみとして頼んだタンとサラミとミートです。つまみに関しては、これ以外に沢山頼んでたっぷりとビールとワインとウイスキーと会話を楽しみました。


スタールイ・オルコスからモスクワへの帰りの寝台特急では、食事の後に近くの席で食事をされていた3人組みの女性の方に一緒に飲みませんかと声をかけた結果、気楽に応じてくれました。行きよりもより楽しく飲むことが出来た気がします。写真の右に少しだけ写っているのが私です。テーブルの上のカメラは彼女たちのものです。ちょっとリッチな人たちだったのかもしれません。女性たちはオルコスの人でした。


列車のルート検索をしてみると行きと帰りでは別のルートが出てきました。これ以外にも2種類の鉄道ルートが出てきたため、少なくとも4ルートがあることがわかりました。それぞれ縮小しているので画面をクリックすると見やすいと思います。
クリックすると拡大クリックすると拡大

ロシアの寝台特急 海外で初めて寝台列車に乗りました。 [ロシア]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ロシアへ出発前に予告した通り4月26日にロシアの寝台特急(寝台列車)に乗りました。海外で寝台列車に乗るのは初めての経験となりました。4月26日19時27分にモスクワを出発してСтарый Оскол(発音 : Stary Oskol / スタールイ・オスコル)に4月27日7時00分に到着する11時間33分の列車の旅となりました。
上の写真はスタールイ・オスコルに到着した寝台列車です。巨大なディーゼル機関車2台で20両客車を引いて走ってきました。20両は、ほんとうに長い列車でした。一日に列車は昼間も含めてこの寝台列車だけなのでこれほどのロング列車になるのだと思いました。

出発30分前はこの機関車が接続されていました。スタールイ・オスコルに到着した時はこの機関車ではなく上の巨大な機関車が2台が連結されていたので、おそらく駅構内で列車編成を行うための車両だと思います。写真を撮った時は、長い列車を、この一台で引くのは大変だな感じていたのです。


下のキップは車内の検札時に半券を切り取った状態です。
半券を切り取る前は右のように飛行機の搭乗券と同じ寸法でした。
ロシア語読めませんが日付と時間と区間は読み取れます。黒塗のところには私の名前が書かれていました。青塗の部分はパスポート番号です。
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モスクワ駅の出発前のホームでの寝台列車の客車です。全ての乗車口には緑の制服の女性の車掌さんが立っていました。入口に立っている車掌さんがチケット(切符)とパスポート(ロシア人は身分証明書)を確認します。ただしチケットの半券はこの時点では切りません。中に入って検札に来た時に初めて半券を切ります。
モスクワ近郊のホームは客車の床と同じ高さですが地方に行くと冒頭の写真のように低いホームになります。


先頭が19号車で一番後ろが1号車でした。ところが列車の真ん中に0号車がありました。それが我々の乗ったファーストクラスの車両でした。車内で表示しているNo 00が車両番号です。20両編成(機関車を入れると22両編成)は本当に長いです。0号車を探してホームの端から端まで歩いたので実感しました。よく考えてみたら日本でもグリーン車は階段に近い真ん中でした。


電光表示板は時刻と外気温度の表示にも切り替わります。早朝ですが20℃と行く前の予想と違い暖かかったです。現地の人に聞くと数日前から異常に暖かくなったとのことでした。持っていったコートは結局スーツケースに入れっぱなしになってしまいました。
ちなみに表示板の左下の緑の丸い表示はおそらくトイレが空いていることを示しているのだと思います。使用中は赤い表示になると想像されますが確認する機会はありませんでした。


0号車の車掌さんだけは青い色の制服で帽子もかぶっていませんでした。沢山の車掌さんの中の上司のような感じでした。この方も緑の制服の車掌さんも全て寝台列車に乗って我々と一緒に移動します。我々の車両には車掌室が2部屋もありました。朝起こしてくれたりしてくれました。食堂車に行く時はドアにカギをかけてくれました。


これが車内のファーストクラスの個室です。ファーストクラスといっても部屋は広くなかったです。でも写真で感じるよりはベッドも部屋も広いと思います。車両の幅が大きいのでベッドの長さが十分にあるのはよかったです。


部屋の両側に鏡が取り付けてあったので、こんなイタズラな写真を撮ってみました。


部屋は個室には鍵のかかるドアがあるので我々外国人は安心して乗れます。個室でないと荷物が心配でしたが、これなら安心です。主要都市間を結ぶ寝台特急には豪華な寝台車も用意されているようです。


日本製のテレビも設置されていました。


スリッパや歯ブラシなどの洗面用具もついていました。


洗面用具袋の中身を確認してみました。歯ブラシ、くし、石鹸、手拭、テッシュ、靴べら、靴磨きが入っていました。


さらに水が一本とビールが一本も無料でした。デザートはこのようなパックで配られました。中にはフルーツゼリーやチョコレートに紅茶のパックが入っていました。驚いたことに夕食もついていました。
その夕食とビールは部屋でも食べれるのですが、ゆっくりとビールを飲みたいので食堂車の方に用意してもらうように頼み列車が出発と同時に食堂車に行きました。ビールやつまみを沢山追加して日本の居酒屋状態となってしまいました。(笑)
おかげで朝までグッスリと寝ることが出来ました。食堂車に関しては帰りの寝台列車を紹介する時にまとめて掲載させてもらいます。


各車両には給湯器が共通で付いているので紅茶を飲みました。


洗面用のタオルが2枚付いていました。いたれりつくせりですが、シャワー室はなかったです。唯一残念に思いました。もっと長距離の場合は必要な気がします。


気になるトイレでですが、写真のトイレが車両に2つ設置されていました。


洗面台はトイレの部屋の中にありました。中は結構広いので日本の列車のトイレの中という感じはなかったです。


モスクワを出た近郊の駅には高速列車と思われるものも停まっていました。時間は19時37分なので走り始めて10分経ったところです。
我々の寝台列車はモスクワを出てく数時間は停車することはなかったです。初めて停車したのことに気が付いたのはスタールイ・オスコルに到着する3時間前でした。


スタールイ・オスコルの一つ手前の駅です。時間は6時51分でした。


日が昇ってきました。時間は7時2分なので到着30分前の景色でした。


列車はほぼ定刻の7時39分に到着して30分停車後に最終目的地に出発します。途中の駅で10分近く停車していることがありましたが30分も停車するのはスタールイ・オスコルが大きな町だからだと思います。ホームは低いので大きな荷物があると降りるのが大変です。降り口に立っているのはモスクワのホームで入口に立っていた青い制服の車掌さんです。
ドアを開けたとき階段がなかったのでどうやって降りるのか心配しましたが、床を内側にスライドさせると床下に階段がありました。ホームがある場合とない場合の両方に対応した構造になっていました。


これがスタールイ・オスコル駅です。真中あたりから寝台列車の後ろ側を撮りました。


これは、真中あたりから前側を撮ったものです。後ろ側を撮った写真同様に列車の先が見えません。2枚の写真から列車の長さを実感してもらえると思います。
こちら側に駅の出口があるので皆さんこちらの方向に歩いています。


近くで機関車を見ると本当に大きかったです。
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今回訪問したスタールイ・オスコルはロシア連邦ベルゴロド州の都市です。モスクワから618km南のオスコル川流域にあります。 人口は215,898人(2002年の国勢調査)の都市だそうです。今から420年前の1593年、モスクワの南の防衛の為に要塞都市として作られ、17世紀にはクリミア・タタール人とウクライナ・コサックの略奪を受け、20世紀以降もロシア内戦、第二次世界大戦でも影響を蒙るが、戦後は工業の発展と共に人口が増加したそうです。右および下の写真はスタールイ・オスコルの紋章です。ここは世界で最も鉄鉱石の埋蔵量が多い場所の一つとされるクルスク磁気異常の境界に位置する重要な鉱業都市とされ、一年間に800万トン以上の鉄鉱石が採掘されているそうです。そのため市にはモスクワ連邦鋼合金研究所の支部が存在しているそうです。


スタールイ・オスコル駅の航空写真を掲載いたします。長い車両が停まれるだけあって駅も長いです。地方都市ではホームが低いのもわかる気がしました。一日に一回しか停まらない長距離列車のために高いホームを作るのは大変だと思います。(http→httpsへ変更済)

スタールイ・オスコル駅舎も紹介しておきます。降りるときは駅舎には寄らずに直接駐車場に向かいます。乗るときもキップを持っている場合は特に駅舎に寄る必要はなく駐車場から直接列車に乗ります。キップとパスポートのチェックは列車の乗り口ごとに立っている女性の車掌さんが行います。


SAILIN' SHOESさんの秩父鉄道へ 03にトラックバックしています。

寝台特急が出発したモスクワの駅 [ロシア]



夜行の寝台特急に乗ったことを紹介しましたが、列車に乗るまでのモスクワの駅を紹介いたします。車でモスクワの駅に行きましたがすぐそばまで近づくのは時間がかかるため少し離れた場所に車を停めて歩いてモスクワの駅を目指しました。

これがモスクワの駅です。駅名はおそらくモスクワ駅ではありません。ロシアでは目的地を駅名に使う習慣があります。パリにあるリヨン駅と同じです。


少し近づいたところでもう一枚撮りました。


駅の構内に入りました。左に沢山の窓口がありますがチケットを買うところです。我々は寝台特急なので事前に買ってもらっていました。


一階から地下にエスカレーターで降ります。


地下一階に降りました。エスカレーターを降りる寸前に撮りました。


そのまま駅のホームの地下通路を歩いて目的のホームに上がりました。


ホームに上がった景色です。ホームは昔ながらの雰囲気でした。


出発の40前ですが、すでに我々が乗る寝台特急が停まっていました。ホーム上で駅名を撮ろうと探しましたがどこにもありませんでした。これにはちょっと驚きでした。


駅の前には趣のある工場がありました。


チケットの駅名はロシア語で МОСКВА КУР とか書かれていました。
写真をクリックして拡大すると文字が読みやすいと思います。
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苦労しましたがGoogleの航空写真でМОСКВА КУР駅を探し出すことが出来ました。建物の感じが私が撮った写真と同じなので間違いありません。
駅名はモスクワ クルスカヤ パサジルスカヤ(Москва Курская Пассажирская)駅でした。КУРはクルスカヤ(Курская)の頭三文字でした。モスクワからクルスカヤを通ってパサジルスカヤに行く駅という意味なのでしょうか。
Курская(クルスカヤ)は今回の目的地のスタールイ・オスコルに比較的近い町で、Пассажирская(パサジルスカヤ)はウクライナの黒海に近くの町の名前でした。やはりロシアも目的地が駅名に使われていました。


神戸のディナーもフランス料理でした。 [神戸]


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クリックすると拡大この日は天気もよくてディナーの部屋からも神戸の夜景が楽しめました。上の写真は宿泊した部屋からの景色です。クリックして出てくる拡大写真は少し違う角度の写真です。
左の写真はWikimediaに掲載されていた昼間の海の方からの写真です。

神戸のフランス料理のランチ(昼食)を紹介いたしました。同じ日に同じ場所でフランス料理のディナー(夕食)をいただいたので紹介いたします。クリックすると拡大ランチの時はナイフとフォークが2本づつでしたがディナーとなると、さすがに本数が増えて料理用だけで5本並んでいました。ナプキンの置き方は上の写真の景色と関係があるように思われます。ナプキンの置き方はランチの時と同じでした。右のランチの時の写真と比べてみてください。
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料理を紹介いたします。前菜は湯葉にキャビアとイクラを乗せたものでした。マスタード系のソースでいただきました。薄く切ったアスパラで編んだ台の上に置かれていました。編むのは結構大変だと思いますが、さすがオークラです。もちろんアスパラもソースにつけて美味しくいただきました。ピンクのシソの花も食べてしまいました。お皿が大きいので料理が小さく写ってしまいました。是非、写真をクリックして拡大した写真を見てください。
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次は鴨肉の肉団子の料理でした。これも普段はなかなか食べられない料理ですね。ローズマリーは香りだけ楽しむことにしました。ソースはタップリつけて少しづつたべて余韻を楽しみました。
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子カブの中に入っていたのは貝だったかな。こかぶも全ていただきました。紅葉の葉っぱだけは残しましたが(笑い)
季節を表現した料理でした。
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松茸入りのスープです。スープ自体も高級感のある味が出ていました。紹介のディナーを食べたのは11月10日でした。


ホークの数で後、2品であることが判ります。メインの一つ前は魚料理でした。雲丹が贅沢に乗せてありました。アサリのスープベースのアッサリ味のソースにつけていただきました。
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パンはクロワッサンとフランスパンでした。


このあたりで横にサラダが出されてきました。ホワイトアスパラがうれしいです。そろそろメインデッシュです。


ここは神戸なので、やはりメインデッュは神戸牛のステーキです。松茸が秋を感じさせてくれる演出ですね。あくまでも秋にこだわった料理でした。もちろん、全て完食でした。
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最後のデザートも季節を感じさせる飾りつけでした。今回は秋をテーマとした演出だったようです。
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神戸のランチもフランス料理でした。 [神戸]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

クリックすると拡大日光中禅寺湖の金谷ホテルのフランス料理の次に四国のフランス料理を紹介しましたが、やはり同じ週に神戸でフランス料理をいただきました。四国と同じくランチ(昼食)なので品数は多くありませんが、席の雰囲気がフランス料理の雰囲気を出してくれています。右の写真の白い鉄骨の建物とナプキンが似ているように思いませんか。右の写真はWikipediaから拝借いたしました。

先ずはAPPETIZERS(前菜)です。このランチは11月10日で見ての通り銀杏と栗が季節を感じさせてくれます。これらは神戸の高級ホテルのシェフが作った料理です。
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タラバ蟹のほぐした身が沢山入ったスープのような料理でした。蟹は大好きなのでよかったです。
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次にスープが出てきました。卵の入ったコンソメスープでした。シンプルな料理こそ料理人の腕が試される気がします。
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こちらでは神戸牛(フィレ肉)の煮込み料理でした。こちらでもフランス料理はソースだと実感させられました。
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最後のデザートも、全て食べてしまいました。
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窓からの景色もご馳走の一つでした。山は六甲山です。右の方の白い高層ビルの辺りが新幹線の新神戸駅です。
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ハウルの動く城??? [川村美術館]

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クリックすると拡大ハウルの動く城?
いえ、川村記念美術館にあるオブジェです。
川村記念美術館はDIC(創業時は「川村インキ製造所」)の創業者・川村喜十郎をはじめとする川村家3代の収集品を公開するために1990年に開館した美術館です。
フランク・ステラ(Frank Stella)ちなみに上の「ハウルの動く城」のような作品はフランク・ステラ(右写真)による『リュネヴィル』/製作1994年です。ちなみにアニメ「ハウルの動く城」が公開されたのは10年後の2004年11月20日です。原作の小説「魔法使いハウルと火の悪魔」は1986年に発表されました。

ヨーロッパの古城を思わせる展示館の横にモニュメントがありました。
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___ モネの睡蓮(スイレン) ___
モネの睡蓮川村記念美術館の主な収蔵品は、次の通りです。
 レンブラント:広つば帽を被った男 (1635年)
 モネ:睡蓮 (1907年 右の絵→) 
 ルノワール:水浴する女
 エルンスト:石化した森 (1927年)
 ジャクソン・ポロック:
緑 黒 黄褐色のコンポジション
 マーク・ロスコ:無題 (シーグラムビル壁画)
 フランク・ステラ:ヒラクラ III (1968年)
 長谷川等伯:烏鷺図 (うろず)(重文)
実は美術館としての魅力だけでなく自然の散策路としても人気があるのです。その散策路を目的に川村記念美術館に来てみました。
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人気ものなのが、このガチョウ(鵞鳥)です。人懐っこくて人を見るとよってきます。種類は額にコブがあるのでシナガチョウのようです。
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別のカチョウたちも寄ってきます。
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こちらが自然散策路です。散策路への入場は無料です。
隣接するDIC総合研究所と合わせて約30ヘクタール(9万坪)の敷地内は、樹木200種、草花500種を超え、野鳥や昆虫も数多く生息しています。木立のなかを数百メートルにわたって続く散策路を歩けば、四季の移ろいを間近で感じることができます。
 開園時間 9:30~17:00
 休園日  月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
 入園料  無料
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池もいくつかあります。スイレンやハナショウブが沢山あったので、来年は花の季節に、また来てみたいと思いました。スイレンが沢山植えられていたのはモネの睡蓮(スイレン)を意識しているのかもしれません。スイレンの見ごろは4月末から9月で、ハナショウブは5月下旬から6月中旬なので6月初旬に行くと両方見れると思います。
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自然のままの森もそのまま残っていました。
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広い広場の真ん中にもモニュメントがありました。

自然の中の散策路なのでワンコを連れて行きたくなりますが、残念ながらペットは禁止です。
家を出る前に、もしかしてペットは禁止かもしれないと思い、事前にネットで調べてペット禁止であることを知ったのでワンコは連れて行きませんでした。
ただし盲導犬・介助犬は美術館館内も含めて入場出来るそうです。
冒頭のモニュメントを私と同じように「ハウルの動く城」と言われているブログが沢山ありました。
やっぱり皆さん感じるのですね。→ポチッ
この美術館で見られる作品の作者を紹介います。川村記念美術館は近・現代芸術に興味のある方に、お薦めの美術館です。マーク・ロスコ(Mark Rothko 1903~1970年)やフランコ・ステラ(Frank Stella 1936年生まれ77歳)やバーネット・ニューマン(Barnett Newman 1905~1970年)のために、それぞれ大きな展示室が用意されており、その部屋自体が芸術でした。クリックすると拡大三人の作品のコレクションに関しては川村記念美術館は世界的であることが有名です。
   レンブラント      シャガール       ピカソ
レンブラントシャガールピカソ
アド・ラインハート アリスティード・マイヨール アレクサンダー・カルダー アンリ・マティス ヴォルス エミール=アントワーヌ・ブールデル    エンツォ・クッキ カジミール・マレーヴィッチ カミーユ・ピサロ クロード・モネ コンスタンティン・ブランクーシ サム・フランシス ジャクソン・ポロック ジャン・アルプ ジャン・デュビュッフェ ジョエル・シャピロ ジョゼフ・アルバース ジョルジュ・ブラック デイヴィッド・スミス ナウム・ガボ パブロ・ピカソ パブロ・ピカソ ピエール・オーギュスト・ルノワール ピエール・ボナール フランク・ステラ フランク・ステラ ヘンリー・ムーア マーク・ロスコ マックス・エルンスト マルク・シャガール マン・レイ マン・レイ モイーズ・キスリング モーリス・ルイス ラースロー・モホイ=ナジ  ラースロー・モホイ=ナジ  ルネ・マグリット レオナール・フジタ レンブラント・ファン・レイン ロバート・ライマン 橋本関雪 佐藤忠良 清水九兵衛 長澤蘆雪 鏑木清方

アニメ「ハウルの動く城」の予告編の動画です。ただし2020年11月時点では再生できません。
クリックすると拡大
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川村美術館でティータイム [川村美術館]


川村記念美術館の自然散策路を散歩した後にレストランで休憩することにいたしました。奥に見える建物がレストランです。

レストランの名前はベルヴェデーレ
イタリア語の「美しい眺め」という店名どおり、窓からの景色を楽しみながらお食事ができるレストランでした。
クリックすると拡大

クリックすると広い範囲を表示レストランの建物は右のように斬新なデザインです。    地図で見る
右図をクリックすると全体を表示します。
そのレストランの店内で、最も美しい眺めが見える場所がここです。
店内は広いのですがティータイムの時間帯はほとんどの方をこの空間に案内されていました。我々もここに案内されました。


ティータイムの時間帯は14:00~17:00で最初に来たときはまだやっていませんでした。お土産屋さんに入って買い物をして出てくると「終了しました。」のシールが外されていたのですぐに入りました。お得なのがセットメニューです。飲み物の種類にかかわらずデザートを頼むと1000円なのです。


私が頼んだ飲み物はカプチーノでした。もちろん次の写真のティラミスとセットにいたしました。写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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そしてデザートはティラミスを頼みました。隣のテーブルのワッフルすごく大きかったです。
ボリュームのあるものを食べたいときはワッフルがよさそうでした。デザートの盛り合わせもボリュームがありました。1日10個限定の「かぼちゃのプリン」も食べてみたいですね。
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クリックすると拡大家内はアールグレイススペシャル・ティーを頼みました。
ポットに砂時計と本格的でした。
紅茶はこれ以外に「ダージリン」「スウィートオレンジ」「さつまいも紅茶」「アップルティー」がありハーブティーは「ワイルドべりー」「ローズヒップピーチ」「オーチャードフルーツ」の3種類が用意されていました。こちらのお店はティーにこだわりを感じました。もちろんシフォンケーキとセットにいたしました。
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アールグレイススペシャルとセットのデザートはスピルリナのシフォンケーキを頼みました。まわりを見ていると、これを頼まれている人が多かったです。
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レストランを紹介しておきます。
  店名 Belvedere (*1)
  営業 9:30-18:00(ラストオーダー17:00)
  席数 92
  電話 043-498-0848
  住所 千葉県佐倉市坂戸631番地
    *1 : コメントいただいたみんこさんの記事「フルカ峠とホテル・ベルヴェデーレ」のホテルと同じ名前(Hotel Belvédère Furka)でした。

品川のホテルの朝食 [東京]


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食事付きの宿泊なので値段は気になりませんがメニューの値段は2500円でした。さすが東京のホテルです。

佐原の町並み 小野川沿い [佐原 潮来]



すでに佐原の香取街道沿いの町並みの景観を紹介いたしましたが、やはり佐原の町並みは川沿いに残った古い建物の町並みが一番だと思います。不思議と水のある風景には惹かれるものがあります。そこで今回、小野川沿いの町並みを紹介したいと思います。寛政5年(1793)に建てられた伊能忠敬旧宅も川沿いにあります。
この写真のように小野川の両岸は道路になっておりその道路沿いに古い建物が並んでいるため見晴らしのよい景色になっています。
佐原は江戸徳川幕府の利根川の流れを東京湾から銚子へと変えた利根川東遷事業を契機に江戸への物資輸送の利根川舟運が発達し、一大物流拠点・河港商業都市として繁栄たそうです。市街地を流れる小野川沿いには水運で栄えた商家の町並みが今も残されており、平成8年12月に関東地方で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうです。

柳の木のために建物が遮られている面はありますが、それも佐原の町並みの趣でもあります。


川沿いは景色もよく荷物の便もよかったので昔から人気の場所ではなかったでしょうか。高級商業地兼住宅地ではなかったかと想像してしまいます。


川には船着き場があります。昔はここから荷物を運びいれたのだと思います。


川と家は舟のある景色は趣があります。伊能忠敬旧宅辺りからは舟めぐりが行われていました。


平日でしたがお客さんが結構乗られていました。やっぱりお客さんが乗った船は絵になります。


昔はこちらの手漕ぎの舟が使われたのだと思います。この船着き場から荷物の出し入れを行ったのだと思います。
こちらの建物は正上と呼ばれるお店で、江戸時代より醤油の醸造をしていた老舗です。創業は寛政12年(1800年)5月で現在は10代目だそうです。戦後は佃煮の製造販売が主となり蔵の左の建物で今でも売られています。正面の土蔵は明治初期の建築で、江戸時代の店構が残る数少ない建築物であるそうです。当時の戸締りの方法である「よろい戸」方式が残っていて、店の奥には千本格子の障子戸が残り趣があるそうです。


趣のある舟の拡大写真を掲載させてもらいます。


昔、醤油を入れた陶器の壺が建物の前の川沿いに並べられていました。


かっこいい女性の方も写真を撮りに来られていました。 船着き場に降りたり、いろんな角度から写真を撮られておられたので、センスのいい写真を撮られている印象を受けました。


こちが正上の店舗の建物です。名物はワカサギの「いかだ焼」です。


川は橋のある景色も趣があります。橋は古いものではありませんが、車が通る橋以外は全て景観にやさしい木製の橋でした。この橋の両欄干から水が小野川に落ちているのがわかりますか。


水が落ちていている、この橋の名前は写真でもわかるように樋橋(とよはし)といいます。江戸時代に、この場所に小野川をまたいで農業用水を通すために大きな樋(とよ)が造られました。その樋の上に板を渡して人が渡るようになったのが始まりだそうです。昭和時代に一度コンクリート製になったそうですが、20年前の平成4年(1992年)に現在の木製の橋に建て替えたとのことです。その時に、かつての樋橋のイメージを再現するために現在の橋となりました。
樋橋の両側からあふれた水が川に落ちる「じゃーじゃー」という音から「ジャージャー橋」の愛称で呼ばれているそうです。このジャージャー橋は午前9時から午後5時まで30分間隔で水音を聞かせてくれるそうです。小江戸の町並みに映える風情ある水音は、環境省の「残したい日本の音風景100選」に選ばれていました。


やはり木製の橋と古い建物は似合います。


二階建ての高い建物が多い中で珍しい景観の建物でした。調べ見ると与倉屋で、この建物は明治初期のものだそうです。 明治初期に酒醸造業を営み、その後醤油醸造業を戦前までつづけ、昭和30年頃まで製粉業を営み、現在倉庫業をしているそうです。裏手にある与倉屋所有の大土蔵(1889年築)が有名で若手たちが佐原囃子の訓練に励んでおり、夜はお囃子の笛の音を伝建地区に響かせているそうです。
 追伸 こちらは与倉屋さんではありませんでした。 後日調べて掲載します。
  与倉屋の記事はこちらです。→ポチッ 



こちらも白い漆喰壁の趣のある建物がありました。


この写真は上の白い壁の建物を川を挟んで正面から撮ったものです。実はこちらは古い民家を改装したフランス料理店だったのです。建物の外観は昔のままなのがいいですね。


写真の中の看板を拡大してフランス料理店(仏蘭西料理店)であることがわかりました。お店の名前は夢時庵(ムージャン MOUGINS)です。調べてみると人気のお店のようです。次に佐原を訪れた時のランチを食べるお店の候補の一つになりました。


香取街道と小野川が交差する絶好の場所にある植田屋荒物店の小野川沿いの景観です。明治26年(1893年)築の古い建物です。佐原では明治26年築の建物が沢山ありました。実は明治25年に大火があったために翌年に建て替えられた建物が沢山あったようです。


すでに香取街道沿いの記事で紹介した中村屋商店ですが、こちらも香取街道と小野川が交差するの場所にあります。こちらの建物は安政2年(1855年)に建てられた有名な建物です。


和紙のお店の格子もきれいでした。並木仲之助商店の看板がと和紙の提灯も印象的でした。建物は明治25年(1892年)の建築で商店の創業は明治34年(1901年)で日用品雑貨荒物卸業を営み、平成10年より和紙とお香の商いをはじめたそうです。


木の下旅館です。こちらは建設の創業も明治34年(1901年)と書かれていました。映画やドラマの撮影に何度も使われたことがある有名な旅館です。


佐原の町並みの地図です。南北に流れているのが小野川です。地図をクリックすると大きな地図を表示いたします。
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タグ:佐原 町並み

与倉屋 [佐原 潮来]



千葉県の佐原地区にある昔ながらの町並みで二階建ての高い建物が多い中で珍しい景観だったので、小野川沿いの平屋建物を倉庫業を営んでいる与倉屋さんだと勘違いをして記事に書いてしまいましたが、こちらの写真が本物の与倉屋さんです。調べ見ると与倉屋で、この建物は明治初期のものだそうです。 明治初期に酒醸造業を営み、その後醤油醸造業を戦前までつづけ、昭和30年頃まで製粉業を営み、現在倉庫業をしているそうです。
クリックすると拡大右の写真が小野川沿いの間違えた建物です。クリックすると拡大するので比べてみてください。佐原の古い町並みは香取街道沿いと小野川沿いにだけではないことを、2度目の訪問で実感いたしました。小野川沿いの建物を与倉屋さんと間違えたのは2012年6月27日の1度目の訪問の時でした。今回の2度目の訪問で、こちらを見つけて間違いであることが分かったのです。

確かにネットで説明されていたように裏手には124年前の1889年に建てられた与倉屋所有の大土蔵がありました。これで与倉屋さんであることを完全に確信いたしました。1200棟の家屋を焼失させた1892年(明治25年)の佐原の大火以前の貴重な建物です。


こちらは上の写真の奥の方から撮った大土蔵の写真です。明治期には醤油醸造業に用いられていたそうです。戦時中は武器庫にもつかわれ、戦後は余剰米の倉庫として使われた時代もあったようです。


大きな倉庫で精いっぱい遠くから広角の24mmで撮っても全景を撮ることが出来ませんでした。現在はイベントスペースとしても用いられておりコンサートなどに使われています。夜は若手たちが佐原囃子(さわらばやし)の訓練に励んでおり、お囃子の笛の音を伝建地区に響かせているそうです。佐原囃子は江戸時代から続いているお囃子で、演奏する団体を「下座連」と呼んでいます。現在約70を超える下座連が活動しているそうです。国の重要無形民俗文化財指定されている佐原の山車行事で演奏されます。


倉庫の壁には赴くのある裸電線が張られているのが印象的でした。今時珍しい白熱電球の外灯(街灯)も印象的でした。


冒頭の与倉屋さんの写真の向かいにも趣のある建物がありました。こちらも与倉屋さんの所有の建物でした。


その建物の横の建物も与倉屋さんの所有の建物でした。この辺り一帯が与倉屋さんだったのです。


倉庫の大きさを実感してもらうために航空写真を紹介します。瓦葺の素晴らしい建物であることがわかりました。屋根の上にブルーシートが見受けられます。震災後の航空写真ですね。この地域の地震はひどかったようですが、大土蔵は大きな被害になっていないようでした。作業場を確保するため柱は最小限にする工夫が施されていて、そんな土蔵を支えるのは「小屋組み」という手法で何層にも張り巡らされた梁にあるそうです。大きな地震にも耐えられる構造だったようです。

佐原の町の地図です。赤い丸印のところが与倉屋さんです。この地図をクリックするとネットのオリジナルの地図を表示します。
クリックするとオリジナルの地図を表示します。
タグ:佐原 町並み

佐原の佃煮屋さん [佐原 潮来]



2013年7月4日追伸 タイトル: 佐原の佃煮屋さん
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クリックすると拡大2013年6月21日に千葉県の佐原にいきました。昨年の6月に「いかだ焼」などを買った佐原の佃煮屋さんを見てびっくり、正面が改築されているのです。昨年掲載した写真と比べてみてください。昨年は小さな入口だけでしたが、今年は広い間口に改築されていました。今は真新しい木の色をしていますが数年経てば、周りの色と溶け込んでくると思います。景観を大切にした改築に感心いたしました。

お店の右側の倉やさらに右側の建物も正上です。今回の改築を見て213年間、老舗を続けてきた商魂の底力のようなものを感じました。
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2012年7月12日掲載 タイトル: いかだ焼

こちらの正上と呼ばれるお店の販売を行っている建物です。ここで、お土産として名物の「いかだ焼」を買いました。こちらのお店は江戸時代より醤油の醸造をしていた老舗です。創業は寛政12年(1800年)5月で現在は10代目だそうです。戦後は佃煮の製造販売が主となったそうです。

これが「いかだ焼」で、ワカサギなどの小魚を数尾横に並べて串を打ち、いかだ状にして焼いたものです。醤油を主に甘辛く味付けしたものです。甘さは控え目なのでビールのつまみに合いました。お酒にも合うと思います。


いかだ焼以外にシジミの佃煮も買いました。


モロミも買いました。


さっそくキュウリに付けていただきました。


正上はいくつかの建物で構成されていました。冒頭で紹介し建物の一部が左端に写っていますがこちらに写っている建物もすべて正上です。川とのかかわりを感じさせてくれる景観でした。
天保3年(1832年)建築でだそうで当時の建築様式がそのまま残っているそうです。

タグ:佐原 佃煮

冬のハイデルベルグ城 [ドイツ]

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ドイツの(Heidelberg)の代表的なハイデルベルグ城です。初夏のハイデルベルグ城を紹介したので、季節の違う冬のハイデルベル城も紹介いたします。この時は午後にハイデルベルグに到着しました。ここは観光都市なので見所は沢山あります。ヨーロッパには華麗な城が沢山ありますがこの城には迫力と歴史を感じます。

ホテルにチェックインして、すぐにハイデルベルグ城に登りました。ここからはネッカー川や街なみが一望できました。
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ここからのカール・テオドール橋を見下ろす景色は有名です。大砲も見れます。
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崩壊した火薬塔の壁の厚さには驚かされます。
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中庭に入ると色々な様式が見られます。
観光都市だけのことはあってメインストリートは沢山の人です。
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この街も例外なく魅力な道や路地が沢山あります。と言うかすべてですね!!
城への登り初め石畳、城近くの登り坂、城からの下り坂、
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路地 等々もなぜか魅力的です。
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クリックすると拡大以前も感激しましたが、やはり何度も来ると新しい発見があります。今回はカール・テオドール橋の上から見たハイデルベルグ城です。我々はカール・テオドール橋に最も近いホテルに泊まりました。橋の上から撮った写真の右端に写った白縁のあるピンクの建物です。スイスと同じように内側からキーでカギをかけます。
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この時に撮ったカール・テオドール橋の写真も紹介いたします。カール・テオドールにより、1786~88年にかけて造られたそうです。その前身は木製の橋だったそうです。
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ネッカー川の景色もきれいだしカール・テオドール橋の横のヒヒの像も絵になります。このヒヒの持ってる円盤を触るとお金持ちになるとか頭がよくなるとか書かれた記事がありました。確かに円盤は皆さんが触るようでピカピカに光っていました。また、ヒヒの像は「サルの姿を見て笑う前に鏡に映った自分の姿を良く見ろ」と言う戒めであることも書かれていました。当時は気が付きませんでしたがヒヒの像の左下に小さなネズミの像があります。ネットで書かれていたので、写真を見直して、見つけました。
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夕食のためにハイデルベルグのハウプト通りにやってきました。夕刻の景色は趣があります。
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特にクリスマスの季節だったので屋台も沢山出ており、雰囲気を楽しむことが出来ました。
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ドイツの食べ物と言えば上の写真の「ソーセージとジャガイモと酢漬キャベツにビール」ですね。レストランでこれを注文!意外とレストランでソーセージを注文するのは難しいですよ。この写真を見せれば大丈夫!
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ビールは2種類を飲んでみました。ドイツを満喫!!!
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露店でもソーセージは人気でした。ドイツ語が出来ないので注文は躊躇します。 でも指で指せば大丈夫です。


ただしこの時期、屋外でビールは寒すぎるのでホットワインですね。若者が樽を囲んでホットワインで一杯!!
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広場には遊園地やスケート場も作られ、みんな楽しんでいます。三輪の乳母車もここでは普通
3輪の乳母車は珍しいですがそれよりタイヤの大きさに驚かされます。乗り心地を優先ですね。デコボコがあった場合、4輪だと1輪は浮いてしまいます。大きいタイヤだと衝撃が少ないので石畳が多いヨーロッパで発達したのだと思います。


この写真にも3輪の乳母車が写っていました。これは2人乗りです。
クリスマスの時期は沢山の露店が開かれます。この時期も違った雰囲気が楽しめます。くれぐれも防寒着を忘れないように!
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小さなホテルですが朝食でいろんなパンが食べることが出来ます。


ハイデルベルグにも紅葉があります。日本とは違った雰囲気が楽しめます。ハイデルベルグの路面電車も撮ってきました。
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初夏のハイデルベルグ城 [ドイツ]

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これはハイデルベルグの初夏の景色です。ハイデルベルグ近郊には不思議と縁があり、今までにハイデルベルグ城は5回ほど訪れる機会がありました。ネッカー川に架かかるカール・テオドール橋から撮ったハイベルベルグ城は本当に絵になりました。

今回はお城を中心に紹介してみます。12月にも来たことがありますが12月と違い写真も鮮明に写ります。本当は一回目の時のように日が当たるともっと鮮明なのですがこの程度で勘弁してください。クリックすると鮮明度が、ばれてしまいます。
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クリックすると拡大お城への入口になっている塔が真ん中です。
右の写真は内側から撮った写真です。クリックすると拡大いたします。拡大すると沢山の観光客の方がこられているのがわかると思います。
ハイデルベルクの城は、1225年に初めて記録されています。ルートヴィヒ1世がヴォルムス司教ハインリヒから、この城をレーエンとして獲得したというものです。1214年にライン宮中伯に叙せられたバイエルン公がこの城の城主となったそうです。1294年までハイデルベルクの城が複数あることを示す記述はありませんが、1303年にハイデルベルクに2つの城があることを示す記述が初めて現れました。
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中で火薬が爆発して崩れたと言われていますが壁の厚さには驚かされます。
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中庭です。この時期は観光客の人がすごいですね。


酒樽の上にいます。ものすごく大きな酒樽でした。大きさは22万17リットルとのこと
約220トンのワインが酒樽に貯蔵できることになります。


お城の中でワインを飲ましてくれます。もちろんお金は払う必要があります。


川側の内部です。窓からは川が望めます。この奥が裏口です。


城からの景色は本当にきれいです。遠くのカール・テオドール橋からの景色が最初の写真なのです。
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ドイツと言えばホワイトアスパラ [ドイツ]

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この時は成田→ロンドン→ラグビーロンドンパリリヨンアヌシーリヨンチューリッヒレンツブルグ→>→チューリッヒフランクフルトと移動してきてハイデルベルグにたどり着きました。ここで待っていたのは素敵な料理だったので、その料理を紹介いたします。写真の順番は出てきた順番です。先ずはフレッシュなサラダです。英文名は「Ruccola salada with Parmesan cheese and cherry tomatoes on Balsamico-Dressing」です。

クリックすると拡大ポテトスープです。 
料理の英文名「Potato soup with marjoram」です。marjoramて何だろと調べてみました。ハーブの一種で、marjoram(マジョラム、学名:Origanum majorana)はシソ科の多年草で学名から判るようにハーブのオレガノと同属です。ハーブ入りスープでした。


ドイツと言えばビールです。少し濁ったビールはフルーティーな感じです。美味しくいただきました。
    

メインデッシュです。
パンケーキとフレッシュ・ホワイトアスパラガス
これがメインデッシュ? と思われる人もおられるかもしれませんが実はものすごく贅沢な料理なのです。
ホワイト・アスパラカスはグリー・アスパラカスと違い皮を厚くむいて料理するそうです。だからこの太さだと元はものすごく太かったと思います。フレッシュ・ホワイトアスパラカスはこの時期だけしか食べれません。いい時期にドイツにこれました。 念願が一つかないました。
すでに紹介したネッカー川の畔で食べたホワイトアスパラには思い出があります。料理の英文名「Herbal pancakrs with asparagus」です。名前とは違いどう見てもホワイト・アスパラガスがメインです。
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他の人のメインデッシュのチョイスも紹介 
同じくフレッシュ・ホワイトアスパラガスが入っていました。ソースは違います。
英文名「Pork tenderloin on red wine sauce with fresh asparagus,new potatoes and sauce Hollandaise」
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デザートはイチゴとバニラアイスクリーム(Fresh strawberries with vanilla ice cream) 
イチゴは今が旬なんです。


カプチーノです。


屋外からはすばらしい景色が見えるレストランでした。食事前に、こちらでビールを飲みました。
レストラン名は Molkenkur です。
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クリックすると景色食事前に私(右の写真)がビールを飲んでいたのはテラスの赤いマークのあたりでした。つい記念写真を撮りたくなるすばらしい景色でした。食事の前に、この屋外で、いろんな会話をしながら、いろんな種類のビールを何杯か飲んでから屋内に入って上の食事をいただきました。最高の演出でした。
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ここからネッカー川が見えます。ハイデルベルグ城のすぐそばのレストランですが城より高いところに位置しています。川の左端に写っている橋は1788年に建設されたカールテオドール橋(Karl Theodor Brücke/Alte Brücke)です。
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赤いマークがレストランの場所です。青いマークがハイデルベルグ城です。前を流れているのがすでに紹介したネッカー川です。


今はなきタイ線のファーストクラス [機内 F]



現在、日本の航空会社(JAL)ではファーストクラスがあるのは長距離のヨーロッパとアメリカ線とジャカルタ線だけになりましたが、昔は北京などの近距離線やタイ線などの中距離線でもファーストクラスが存在しました。タイ線は最近までファーストクラスがありましたが、今はなくなってしまいました。その最後のころにファーストクラスに乗ることが出来たので紹介いたします。これで今までに国際線のファーストクラスに乗ることが出来たのは15回のうち14回を紹介することになりました。残念ながらその一回は1995年のことなので写真が残っていない上に、スペースが広かったとの印象以外は覚えていないのです。それは1995年11月16日でした。インドのバローダという町からムンバイ、ソウルを経由して帰国しましたがムンバイからソウルへのKAL便で不思議なことにチェックインカウンターでアップグレードしてもらえたのです。その時と同様に成田のチェックインカウンターでタイ行きの便をアップグレイドしてもらえました。
これが今までに乗ったファーストクラスです。ポチッをクリックすると記事を表示します。

  1995/11/16 木 ムンバイ→ソウル KE656 洋食

  2008/01/16 水 成田→パリ     JL405 和食 →ポチッ
  2008/01/24 木 パリ→成田     JL406 和食

  2008/04/27 日 成田→シカゴ    JL010 洋食 →ポチッ
  2008/04/30 水 シカゴ→成田    JL009 洋食

  2008/11/06 木 パリ→成田     JL406 和食 →ポチッ

  2009/08/19 水 成田→バンコク   JL717 和食 →今回

  2009/11/22 土 成田→パリ      JL405 和食 →ポチッ
  2009/11/24 火 フランクフルト→成田   JL408 洋食

  2010/05/16 日 成田→フランクフルト   JL407 洋食 →ポチッ
  2010/05/20 木 パリ→成田      JL406 和食

  2010/06/27 日 成田 フランクフルト   JL407 洋食 →ポチッ
  2010/07/01 木 フランクフルト成田    JL408 洋食

  2011/10/13 木 成田→ジャカルタ  JL725 洋食 →ポチッ
  2011/10/15 土 ジャカルタ→成田  JL726 寿司

では、今はなくなったタイ線のファーストクラスを紹介します。
いつも通りビールを頼みました。


乾きもののつまみも沢山準備されているので、ビールのおかわりと一緒に頼みました。


和食を頼みました。これが前菜です。


このときはハモの季節で、お吸い物もハモが使われていました。


もちろんハモの梅肉添えもありました。


冒頭の写真ははハモ料理の拡大写真だったのです。


メインは白身魚の餡かけでした。


デザートは竹筒に入ったヨウカンでした。押し出して食べます。


着陸前の軽食は、お茶漬けをいただきました。



ここから下ではファースト以外を紹介します。
バンコクで乗り継いだバンコク(タイ)→ムンバイ(インド)のTG317のビジネスクラスです。


メインは鶏肉料理でした。


デザートです。



インドからの帰りもバンコク経由で帰国いたしました。ムンバイ→バンコクはTG318でバンコク→成田はJL708でした。JL708のビジネスクラスも紹介いたします。


こちらが料理です。メインはフィレステーキでした。


これがデザートです。

ネッカー川の翌日は [ドイツ]

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ハイデルベルグとネッカー川をドイツの新婚さんに案内してもらったのが土曜日で、翌日の日曜日は別の夫婦の方にマンハイムの近くのぶどうの産地を案内してもらいました。日本人には知られていないと思われるような場所でしたが、この時はサッチャーさんが食事したことがあるレストランで昼食をさせてもらいました。ということはヨーロッパでは知られた場所だったようです。

サッチャーさんなど有名な人が食事をしたレストランに行った後に、こちらの城に来て紅茶やコーヒーをいただきました。車で連れて行ってもらったので場所が判りませんでした。下の有名そうなお城の写真と看板の文字を読めば判るかもしれません。写真の写っているご夫婦に案内していただいたのです。
看板の文字Ruine Wachtenburgで検索すると出てきました。 
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Wachenheim an Der Weinstrabe(ヴァヘンハイム・アン・デア・ヴァインシュトラーセ)という町を見下ろす丘の上の城でした。空色マークの場所です。

より大きな地図で Ruine Wachtenburg を表示
この写真は行った時に撮ったものですが、この城の写真と同じものがネットで出てきました。
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なぜか旗をたてようとしている光景でした。このあたりの農家では質のよいホワイトアスパラカスが手に入るそうで案内してくれた御夫婦は沢山買われていました。
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クリックすると拡大サッチャーさんが食事したレストランを頼りに昼食を食べたレストランをネットで調べた結果、城から比較的近い場所のDeidesheimという町のGasthaus Zur Kanneと言う名のレストランでした。ネットで掲載されていた写真も建物の色や周りの雰囲気も記憶通りなので間違いはないと思います。
サッチャーさんは1989年4月に軽い食事をされたようです。さらにはゴルバチョフやエリツィン、そしてスペイン国王のファン・カルロス1世と女王とソフィアも食事をされたそうです。写真が残っていなかったのでネットから拝借いたしました。Googleストリートビュー→ポチッ
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ネットに書かれていた内容を枠内に転記いたしました。
It was made world-famous, when former German chancellor Helmut Kohl, who lived close-by and fell in love with the place, brought high-ranking visitors such as Margaret Thatcher, Mikhail Gorbachev, Boris Yeltsin, and Spanish King and Queen Juan Carlos I and Sofia to town and introduced them to local Palatian fare such as Saumagen at the Deidesheimer Hof.

お店を紹介いたします。
 店名 Gasthaus Zur Kanne
    Dr. Bürklin-Wolf Weinbar und Vinothek 2016年12月6日から
 住所 Weinstraße 31 67146 Deidesheim, Deutschland
 電話 06326-9660-0
 HP  http://www.gasthauszurkanne.de/

moto_machさんからドイツの童話であるヘンゼルとグレーテルが出てきそうなところとのコメントいたいたのでヘンゼルとグレーテルの絵をフリー百科事典のWikipediaから拝借させていただきました。左が1909年のArthur Rackhamによる挿絵で、右が1842年のLudwig Richterによる挿絵です。クリックすると拡大します。
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