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鬼の築いた九十九段の石段 熊野磨崖仏 [九州]

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九州旅行の最後に行った場所がこちらの記事の場所でした。先ほど(2013年8月23日17時40分)、NHKでこの場所が出て来たので再掲載いたしました。
これは九州の国東半島(くにさきはんとう)にある熊野磨崖仏です。この日は泊まっていた湯布院から夕方のフライトで大分空港から帰るスケジュールでした。特に行く場所は決めていなかったので、湯布院の町を散策したあと大分空港に近いこの熊野磨崖仏に行くことにしました。このあたりは、いろんな場所に石仏があることは有名です。もっとも有名なのが大分からさらに南の4群60余体ある臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)ですが、一度行ったことがあり、空港から遠いので、初めての熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)にしました。熊野磨崖仏は国の重要文化財(1964年5月26日指定)及び史跡(1955年2月15日指定)に指定されています。

熊野磨崖仏は、大分県豊後高田市にある平安時代()794年~1192年)の後期の磨崖仏だそうです。伝説では719年に造られた言われていますが、「六郷山諸勤行等注進目録」や「華項要略」の記録の中で1228年に存在が出てくるので平安後期あるいは藤原末期と推定されています。掲載している航空写真のような辺鄙な場所にある磨崖仏で駐車場のある胎蔵寺まで急坂を上ります。胎蔵寺に上がってくる車道もすれ違いが出来ない細い道でした。
地図内のアイコンを数回クリックすると、この位置が判ってくると思います。

胎蔵寺からの山道への入口です。拝観料200円を払い、杖を借りて登ります。このような参道が210m続いたところに鳥居があり、そこから急な石段が87m続きます。
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拝観料を支払うところで九十九段の石段があると言われました。実は九十九段の石段には、言い伝え(伝説)がありました。鳥居の横には福岡県俳句協会会長の岸原清行さんの俳句「磨崖仏 千年が過ぎ 蝶が過ぐ」の碑が立てられていました。別府出身の内藤凡柳の川柳「信心を 石段で見る 磨崖佛」の碑もありました。
ちなみに同じ5・7・5の川柳と俳句の違いは→こちら
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下の写真は鳥居をくぐって乱積の石段を半分くらいの登ったところで撮りました。頂上に神殿が見えると思います。その神殿のある場所まで登る乱積の石段「熊野権現の道」は鬼が一晩で築いたと言われているのです。いただいたパンフレットに書かれていた、伝説は下記の通りです。
紀州熊野から田染に、お移りになった権現さまは霊験あらたかで、近郷の人々はお参りするようになってからは家は栄え、健康になりよく肥えていた。その時、何処からか一匹の鬼がやってきて住みつきました。鬼はこのよく肥えた人間の肉が食べたくてしかたないが権現さまが怖くてできなかった。
然しどうしても食べたくなってある日、権現さまにお願いしたら、「日が暮れてから翌朝鶏が鳴くまでの間に下の鳥居から神殿の前まで百段の石段を造れ、そうしたらお前の願いを許してやる。然しできなかったらお前を食い殺すぞ」 と云われた。権現さまは一夜で築くことはできまいと思って無理難題を申しつけたのですが鬼は人間が食べたい一心で西叡山に夕日が落ちるて暗くなると山から石探して運び石段を築きはじめました。
真夜中頃になると神殿の近くで鬼が石を運んで築く音が聞こえるので権現さまは不審に思い神殿の扉を開いて石段を数えてみるともう九十九段を築いて、下の方から鬼が最後の百段目の石をかついで登って来る。権現さまはこれは大変と、かわいい里の人間が食われてしまう、何とかしなければと、お考えになり声高らかに、コケコウーロと鶏の声をまねられたら、これを聞いた鬼はおわてて「夜明けの鶏が鳴いた、もう夜明けか、わしはこのままでは権現さまに食われてしまう、逃げよう」と最後の石をかついだまま夢中で山の中を走り、一里半(6キロ)ほど走ってやっと平地に出ましたが、息がきれて苦しいので、かついだ石を放ったら石が立ったまま倒れないので、そこを立石(速見郡山香町)と呼ぶようになった。
鬼はそのまま倒れて息絶えた。これを聞いた里人たちは、これで安心して日暮らが出来る。これも権現さまのおかげと、岩に彫んだ大日さまのお加護であると朝夕感謝するようになった。
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上から見下ろした乱積の石段です。これを下りるには慎重にバランスをとりながら下りることになるので思った以上に筋肉が鍛えられるようで、翌日ふくらはぎが張っていました。
強制的に渡される杖も、さまになっていたし、役にたちました。
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左が冒頭の写真の不動明王像で右が大日如来像です。熊野磨崖仏は石仏は、この2体だけでした。
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向かって左に位置する不動明王像は高さ約8メートルの半身像で、比較的軟らかく加工しやすい岩壁に刻まれており風化が進行しているため、明王像ですが憤怒の相は現さず、口元に柔和な笑みを浮かべているよう見られています。左右両脇には高さ約3メートルの矜羯羅童子と制多迦童子像の脇童子の痕跡が認められます。
円形頭光の上方三面の種子曼茶羅(しゅじきんだら)が隠刻されており中央を理趣教曼茶羅、右方を胎蔵界曼茶羅、左方を金剛界曼茶羅と言われて修験道霊場であったそうです。
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右の小さいほうの大日如来像です。高さは約6.7メートルの半身像で、高さ約8メートルのくぼみ(龕(がん))の中に彫り出されている。羅髪等の造形的特徴から、不動明王像よりも制作年代が下ると推定されています。
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不動明王像と大日如来像の間に高さ1.5mの方形の龕が刻まれています。これは家津御子と速玉の二神像とみられています。


印が押された拝観券を記念に掲載いたします。

階段の一番上にある神殿です。熊野磨崖仏は99段(87m)の乱積の石段の途中(神殿から20m手前)にあります。


神殿の広場には磨崖仏はありませんでしたが、岩を削って祭られているところはありました。


途中の参道の横にはしっかりとした石積みの水路がありました。大雨の時に山が雨で削られないようにした工夫のように思えました。
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こちらが参道入口にあった今熊野山胎蔵寺(いまくまのさんたいぞうじ)です。石の不動明王が置かれていましたが、光っているように感じられませんか。護摩堂の前の小さな七福神と思われる石像もピカピカです。
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七福神や不動明王が光っている理由はこれでした。梵字のシールでした。お参りした人が張るのでしょうか。クリックすると拡大するので張られているシールがわかると思います。
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