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マルセイユは墓地も! [マルセイユ]

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マルセイユでは小さな漁港などを紹介させてもらいました。
マルセイユの空の色は、名もない墓地(?)もすばらしい風景にしてくれます。
こちらでは、扉のついた建物風のお墓が多かったです。

どのお墓にも十字架がついているのが印象的でした。実は道に迷って歩いているときに見つけた墓地でした。


Google地図で写真を撮った場所を見つけたので掲載します。


ここは非常に大きな墓地でした。緑色マークのところで写真を撮りました。緑色のラインが墓地の周囲の長い塀です。黄色マークが墓地の出入口です。墓地の名前はサン・ピエール墓地であることが判りました。周囲の壁の長さは3.77kmです。航空写真で別の場所でも墓地を見つけました。→ポチッ

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墓地を囲む長い壁の写真を紹介します。
その場所のストリートビュー( http://goo.gl/maps/PiaTG )と比較して場所を特定することが出来ました。
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マルセイユの旧港(Vieux Port) [マルセイユ]

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モロッコのカサブランカからフランスのリヨンへ飛びました。すこしの時間を利用してTGVで地中海に面したマルセイユ(Marseille)に来てみました。先ず目指したのは紀元前600年に開港した旧港(VieuxPort)です。
港に着いて、この景色に圧倒されました。今は新港が出来て貿易の中枢は新港に移ったようで、旧港はヨットなどのレジャー船の係留場所になっていますが素晴らしい雰囲気は昔のままだと思います。さすが南フランスです。1月23日とは思えない陽気でした。

大きな入り江の港の中は沢山のヨットが並んでいました。漕艇(そうてい)が印象的です。入り江の入口から少し大きな船が入ってきます。
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入ってくる船を拡大してみました。旧港から約20分のところに浮かぶイフ島から戻ったきた船かもしれません。
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旧港(VieuxPort)の空からの写真をネットから拝借いたしました。画像の中ののアイコンをクリックして拡大してみてください。


ネットでの旧港(VieuxPort)の紹介内容です。
それは紀元前600年頃の話。遥か遠くの海の向こうから船に乗って来た異国の若者プロティスと土着の王女ジプティスは、会ったその日に結ばれ、結婚してしまう。そんな素敵な愛の物語でプロヴァンスは始まりました。
それ以後、人、物、文化、歴史、商業、軍事、すべてのものは、ここマルセイユの港を通じてプロヴァンスに入ってきたと言っても過言ではありません。
プロヴァンスの初めの一歩に名を刻む2600年の歴史を持つ場所、すべてはここから始まった。
海の色と空の色が特別です。港の周りの建物も南フランスの雰囲気を出しています。マルセーユの雰囲気を味わうことができました。


船を吊り上げる装置も沢山ありました。


さすがフランスです。絵を書いて売っている人もいました。


カモメも沢山いました。バハマのカモメとは色も顔つきも違います。


マルセイユ(Marseille)は、フランス最大の港湾都市で、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏(PACA)の首府、ブーシュ=デュ=ローヌ県の県庁所在地だそうです。今回、訪問したモロッコのカサブランカやフランスのリヨンも位置を入れました。
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台風が過ぎた後 [日々]


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クリックすると広範囲を表示今回の台風26号では幸いにも私の住んでいる千葉県佐倉市では目だった被害は無いようでが、伊豆大島では大変な被害が出たようで、お悔やみ申し上げます。上の画像は台風26号が我家へ最接近した2013年10月16日7時の台風の規模を示したものです。右の赤いラインが台風の通過ルートです。
本画像はウェザーニューズから引用させていただきました。画面をクリックするとオリジナルを表示します。緑の点が我が家の位置です。

朝に暴風雨になったために近くの小学校は休校になったようですが、9時ごろには雨が止んだことからワンコの散歩に出かけました。前日の夕方も雨が強く満足な散歩が出来ていなかったので、早く散歩に出してあげたかったのですが、9時に出るのが精一杯でした。雨は止みましたが風は強く吹いていました。道路には折れて飛んできた木の枝が沢山散らばっていました。


雑木林の杉も見事に折れたものもありました。


太い木でしたが、まさに折れるように倒れていました。散歩コースでは枯れた木は何本か倒れたものを見かけましたが、生木ではこれ一本だけでした。


近所の畑の近くに植えられている柳の太い枝も折れているのを見かけました。


団栗(どんぐり)も、今回の風で沢山落ちたようでした。台風が過ぎた後の余韻が残ったワンコの散歩となりました。


国際気象海洋(株)提供の台風の進路の動画です。是非とも紹介したかったので引用させていただきました。
 クリックすると表示→27号 26号 25号 24号 23号 22号 21号 20号 19号 
              18号 17号 16号 15号 14号 13号 12号 11号 10号 
              _9号 _8号 _7号 _6号 _5号 _4号 _3号 _2号 _1号
              台風18号は京都を中心に被害を出した台風です。

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ワンコの散歩に出発したころの2013年10月16日9時の台風26号の位置です。青い点が散歩場所です。表示では暴風雨圏ですが、実際には台風が離れていく時なので風も雨も、おさまっていました。
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そして不思議なことに西の空には晴れ間も見えはじめていました。この時、9時34分でした。


タグ:散歩 台風

塔ノ沢温泉の朝の散策 [箱根]

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箱根では塔ノ沢温泉の福住樓に泊まった翌朝は、あいにくの小雨模様でしたが塔ノ沢温泉街を散策してみることにいたしました。上の写真は早朝の福住樓の玄関です。

塔ノ沢温泉は早川沿いの街道沿いにありました。宿泊した福住樓は塔ノ沢温泉の中では最も箱根湯本に近いところにありました。早川では最も下流側になるのです。それでは下流側から紹介していきます。
  緑色マーク 福住樓 右から玄関、泊まった部屋、大広間
  青色マーク 塔ノ沢温泉の他の宿 マークをクリックすると名前表示
  空色マーク 函嶺洞門の出入口 土木遺跡 近代化産業遺産
  黄色マーク 千歳橋         土木遺跡
  緑色ライン 2013年8月25日早朝の散策ルート 
  赤色ライン 箱根湯本駅~福住樓 1km

より大きな地図で 塔ノ沢温泉 を表示
こちらの写真は福住樓の近くにある土木遺跡である函嶺洞門と千歳橋です。
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千歳橋を過ぎるとすぐに福住樓の玄関前のカーブです。
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福住樓の玄関前の崖の上には弥八大黒天と弥八恵比寿が祀られていました。
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こちらが弥八大黒天と弥八恵比寿です。
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福住樓から少し登って箱根湯本側に振り返った景色です。先の道を右に曲がった曲がり角に福住樓の玄関があります。左側の階段を登っていくと箱根登山鉄道の塔ノ沢駅に行けます。ストリートビューでは階段の登り口に「開運・昇り鯛焼」の幟(のぼり)が立てられていましたが、この時(時間帯?)はありませんでした。
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少し登ったところで山登りのトレーニングをしている人に出会いました。ここは箱根駅伝の最後の山登りのルートなのです。こちらの写真も箱根湯本方向に撮ったものです。正面の緑の屋根の建物は上の写真でも確認出来ると思います。黄色の看板には「趣味の店・つゆき」と書かれています。その向こうの白い看板には権現窯・はこめ焼」とあり手作り陶芸のお店のようです。


早川を渡る「玉の緒橋」が見えてきました。橋の手前に万石の湯・よきや」があります。
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「玉の緒橋」から早川の下流側を見た景色です。川の左側が先ほど紹介した「万石の湯・よきや」で右側が「環翠楼」です。
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こちらは「玉の緒橋」からの上流側の景色です。左側が383年前(1630年)創業の「一の湯本館」で福住樓と同様に国登録有形文化財の建物です。
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これが安藤広重の箱根七湯に描かれた「一の湯」の本館です。
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ここから温泉宿が立ち並んでおり温泉街という雰囲気になってきます。左側が「環翠楼」で、右側には「一の湯本館」「柴雲荘」と大型の温泉宿が続きます。399年前(1614年)創業の「環翠楼」は水戸黄門が宿泊した旅館です。
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左の写真はネットから拝借した明治時代の「環翠楼」(左)と早川に架かる「玉の緒橋」(中央)と「一の湯」(右)の写真です。この写真は長崎大学付属図書館に所蔵されているものです。この辺りは茅葺の建物が並ぶ旅館だったようです。
右は安藤広重(1797年~1858年)が描いた箱根七湯の「塔の澤」の絵ですが、左の明治時代の写真と同様の構図で「環翠楼」と「玉の緒橋」と「一の湯」などが描かれています。両方の構図は現在であれば「万石の湯・よきや」のあたりからの景観ということになりそうです。
長崎大学付属図書館安藤広重の箱根七湯 塔の澤

少し進むと少し静かな雰囲気となってきました。右側には「柴雲荘」の建物ものが続いていました。「柴雲荘」は大型の複数の建物で構成されていました。
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早川を渡る「柴雲荘」の専用の吊り橋があり、渡った先には専用の露天風呂がありました。小雨の中ですが宿泊客の方が露天風呂に入るために渡られていました。
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宿泊客の方の傘が風情のある景色を見せてくれていたので、上の吊橋の写真から露天風呂のあたりを切り取らせていただきました。


こちらが吊り橋からの早川の上流側の景色です。白い建物が温泉宿の「キャトルセゾン」です。「キャトルセゾン」は上で紹介した「一の湯本館」と同じ経営のホテルです。平日(日~木)は4~12歳のお子様が1泊2食付で2100円で泊まれるサービスが行われていました。大人も平日であれば6300円(4名/室)~8400円(4名/室)で泊まれます。 
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吊り橋からの早川の下流側の景色です。右側の建物が「柴雲荘」です。
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「柴雲荘」を過ぎたあたりから静かな雰囲気になってきます。その先に趣のある吊り橋がありました。吊橋を渡ったところに温泉宿の「山の茶屋」がありました。
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吊橋を正面から見ました。古いけれども鋼鉄製の立派な橋でした。
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早速に渡ってみることにいたしました。木製の床ですが2トン以下の車が1台通れるそうです。この時も渡っていると前から車が来て吊橋の上ですれ違いました。「山の茶屋」から降りてきた車だと思います。それにしても一旅館のための吊橋に下は立派だなと思いました。
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吊橋からの早川の上流側の景色です。これから先は自然の渓流という雰囲気でした。右側に木の陰の中に建物と送電線が写っています。さらに山の上から太いパイプが降りてきていました。ここは東京電力の塔ノ沢水力発電所だったのです。
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吊り橋を渡ったところに発電所の入口がありました。クリックすると拡大この吊橋は東京電力の管理している橋だったのです。塔ノ沢水力発電所は調べてみると104年前に出来た歴史のある発電所でした。
早朝の塔ノ沢温泉の散策はここまでとして福住樓に引き返しました。それにしても装置用の散歩では、よく予期しない新しい発見をいたします。
右の図と写真はネットから拝借した水車の概念図と塔ノ沢発電所の発電機の写真です。
仮に2800KWで104年間の90%の稼働率とすると、なんと2800x24x365x104x0.9=23億KWhの電力を生み出したことになります。
  名前 塔ノ沢発電所
  歴史 横浜水力電気東京電燈→(関東配電)→東京電力
クリックすると建設当初の塔ノ沢発電所の写真を表示  住所 神奈川県足柄下郡箱根町塔之澤
  方式 一般水力発電
  運開 1909年7月 横浜水力電気
  出力 最大 3800KW (運開時 3300KW)
      常用 2800KW
  水量 毎秒2.23m3
  落差 214.29m(355.23m→132.12m)
  水車 横軸ベルトン水車×2台
  鉄管 内径1300mm
  取水 早川   放水 早川
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我家へ最接近した台風26号の2013年10月16日7時の位置です。
本画像はウェザーニューズから引用させていただきました。画面をクリックするとオリジナルを表示します。緑の点が我が家の位置です。
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上海蟹 (大閘蟹) [江蘇省]

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昔の10月30日のことです。上海蟹 の季節です。中国では大閘蟹と言います。この蟹は自分で陽澄湖(ようちょうこ)で購入した蟹なので大きくて立派だし間違いありません。上海の町の中では陽澄湖のニセモノが多いいそうです。自分で行って買うのが間違いなさそうです。

大きいので上海のレストランで食べると1匹で伊勢海老なみの値段を取られますが現地で買うと数分の1で購入出来ます。りっぱな上海蟹ならば、どこのレストランでも持ち込み料理してもらうこと可能です。1匹あたり100円くらいで料理してもらえます。70円に値切りましたが!


現在の陽澄湖サービスエリアの航空写真です。購入した時と比べると整備されて変わりました。


下高野の例大祭の幟(のぼり) [風習・歴史]

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クリックすると拡大いろんな伝統行事が行われている千葉県八千代市下高野地区で神社の例大祭が10月10日に行われて、2本の幟(のぼり)が立てられていると、10月10日の夕方にコメントで教えていただいたので、翌日の2013年10月11日の10時ごろに見に行きました。午後の1時に幟を倒すと教えていただいていたので午前に行くことにいたしました。教えられた通り、下高野地区の公会堂に立派な幟が2本立てられていました。2つの幟は同じように見えますが、実は違うのです。わかりますか?  答えは下に書かせていただいております。
幟を見た後に神社によって帰る途中で偶然にも、今回のことを教えていただいたkazuさんに会えて例大祭の行事のことを、いろいろと教えていただきました。
例大祭(れいたいさい / 例祭)を調べてみると、神社で毎年行われる祭祀のうち、最も重要とされているものだそうです。一般的に例大祭は年一回、多くは祭神や神社に特別の由緒のある日に行われるそうで。例えば人物神を祀る神社ではその人物の誕生日や命日です。特に由緒のある日のない場合は、春祭りや秋祭りをもって例大祭としているそう。例大祭が行われる日は毎年一定で、変えることはできないものとされています。下高野でも10月10日で決まっており、変わることはないそうです。
神社は菅原道眞が祀られてしますが、菅原道眞の誕生日は承和12年6月25日(845年8月1日)で命日は延喜3年2月25日(903年3月26日)で10月10日でないので誕生日や命日とは別の由緒のある日のようです。
現在の新しい幟は1982年に奉納されたもので以前のものよりも分厚い生地が使われたそうです。
上で質問させていただいた2つの違いの答えはそれぞれが表と裏の関係になっているのです。写真だと右の幟が文字かちゃんと読めると思いますが、左の幟は文字か左右反対なのです。つまり向こう側から見ると字が読めるのです。どの方向から見てもわかるようにした先人の知恵なのかもしれません。
幟には奉納天満宮昭和五十七年十月吉日下高野氏子中紀佑民謹書の文字が書かれていました。右の写真をクリックすると拡大するので左右の違いが、わかりやすいと思います。太い竿ですが、高さがあるので上から3分の1付近を、3方向からロープで引っ張っています。3本×2で計6本の太いロープも迫力がありました。

行事は先ず10月8日に、この幟を建てもことから始まるそうです。例大祭の告知が目的なのだと思います。そして10月10日に神社で神主さんに来ていただき例大祭が行われるそうです。10月8日が雨の場合は幟は立てないで10月10日の例大祭のみが行われるそうです。そして10月11日の午後に幟が倒されて例大祭の行事が終了だそうですが、10月11日が雨の場合は倒す日を延ばしていくそうです。いずれにしても幟が完全に乾くまで待つそうです。
10月8日以降、台風24号の影響で少し雨が降りましたが、この日は強風の上に快晴で幟も完全に乾いたようなので、予定通り13時に倒すと言われていました。
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幟の布地は非常に分厚くて丈夫のようでした。以前に強風でちぎれたことがあったので分厚くされたそうです。この写真でも分厚さが感じてもらえるのではないかと思います。かなりの重さだと思います。
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これが、幟を垂直の竿に止めている輪で、木をくり抜いて作られている貴重なものだそうです。この輪は篠を火であぶって曲げ輪にしているものだそうです。木をくり抜いて作られているのは竿の継ぎ目の部分だそうです。以前に破損したことがあり、今回も強風で破損を心配されていましたが、すべて無事だったようです。これだけ立派な幟はなかなか見ることのできない珍しいのだと感じました。


幟を見た後に例大祭が行われた神社にも行ってみました。神社は以前に紹介した下高野館の記事の中で書いていた菅原神社です。その菅原神社に行く途中には八千代市で指定されている立派な保存樹の間を抜けていきます。
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こちらが10月10日に例大祭が行われた菅原神社です。天満宮とも呼ばれています。一般的に天満宮は菅原道真を祭神とする神社で、天満神社や菅原神社や天神社と呼ばれることがあるそうです。また通称として「天神さま」や「天神さん」とも呼ばれていることがあります。下高野では菅原神社となっているようです。
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鳥居には真新しい注連縄が取り付けられていました。例大祭のために新しい注連縄に取り換えられたのだと思います。あるいは例大祭の時に取り換えられたのかもしれません。その点はkazuさんに聞き忘れました。
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これが新しい注連縄です。以前に藁の大蛇を作る行事に参加した時に注連縄を作る名人の方がおられたので、その方が作られたのだとおもいます。


横に置かれていた古い方の注連縄の具合からも最近に取り換えられたことが伺えました。下高野地区には昔からの伝統行事が沢山残っています。これは地元の方々が伝統行事を大切にされてきたためだと思います。今までに体験させていただいたり、記事に書いたり、お話を聞かせていただいた下高野地区の伝統行事です。着色タイトルをクリックすると記事を表示します。
  庚申塔   7年ごとに奉造(次は2021年)
  庚申講
  十九夜塔 7年ごとに奉造(次は2021年)
  女人講
  藁の大蛇の辻切り
  伝統的な節分行事
  出羽三山参拝とボンデン塚の奉造
  奥州講とボンデン飾
  大師参り
  菅原神社の例大祭

ラマ教の聖地「五當召(五当召)」 [内蒙古]


2010年8月17日掲載 タイトル:ラマ教の聖地「五當召(五当召)」
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ラマ教の五當召(五当召)に行ってみました。ラマ教には黄帽派と紅帽派があるそうです。チベットで有名なお寺は黄帽派で、今回のお寺は紅帽派だそうです。そして紅帽派の中では2番目に大きなお寺だそうです。建てられたのは1756年なので254年前になります。

正規の道が土砂崩れなどで工事中のため写真のような水のない川底を走っていきました。すると突然羊の群れが行く手を阻むのです。羊が横断仕切ってしまうまでは進めません。羊優先の世界でした。
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町から70kmと距離はそんなに遠くはないけれど、秘境でした。出発した町自体の海抜が1060mでそこから登り続けるのでそこそこの海抜の場所だと思います。
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五當召は山の裾野に建っていました。
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これが、沢山の建物の中で一番上の建物です。
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お寺群の中の通路です。
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  偶には記念撮影→クリックすると景色を拡大 クリックすると拡大
向こうの方から登ってきました。
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入口の飾りです。雰囲気があります。


室内です。お寺の壁の絵は独特です。


大広間です。この部屋に入ったときは目が慣れるまで暗闇でした。照明があったので何とか撮れました。距離が遠いのでフラッシュも効きません。


いくつも建物がありますが内装を新しくしているところもありました。ここは学校のような感じです。


回転経のようです。


博物館もあり掛け軸も沢山展示されていました。その中の2枚の掛け軸を紹介します。クリックするとそれぞれ拡大します。
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仏像に銀のの器にホルンのような笛も展示されていました。


場所がよく判らなかったので衛星写真を拝借いたしました。内モンゴル最大の都市の包頭から北東70kmを目標に探してみました。
クリックすると拡大.jpg

上の写真の黄色い枠を拡大したのが下記の地図です。
この写真の中央に五當召があります。
写真をクリックすると五當召が出てきます。衛星写真の威力はすごい! 場所がわかりました。
写真をクリックすると五當召が出てきます。 


2013年10月13日追伸 タイトル:包頭から五當召への道

より大きな地図で 五當召 を表示
以前に行ったカザフスタンで首都アスタナからカラガンダまでの道の通貨時間を写真で特定したことを報告させていただきました。その作業をしていて、昔、内モンゴルのラマ教の聖地に行ったときに、その場所をGoogle地図で苦労して探し出したことを思い出しました。現在は道のルートを表示する機能があるので道のルートを試しに表示させてみました。その結果が上の航空写真の赤色のラインです。あの時は道が崩れて川底を走ってラマ教の聖地に着いたことを思い出しました。黄色のマークが目的地の五當召(五当召)の場所です。緑のラインが川底を走った思われる部分です。
さすがに山奥なので地図の道路と航空写真の道が、ずれているところがありますが、おおよそのルートが表示できました。

包頭(パオトウ)を出て最初のころは舗装道路でしたが、やはり辺境の地に向かう雰囲気がありました。途中からは無舗装の道になり河原も走りました。


生活の匂いもありました。それも最初だけでした。


人家も少なくなってきて奥地に来た雰囲気が出てきました。この辺りから道が崩れてなくなったために川底を車で走りました。したがって上の地図で表示されている道とは少し違います。川底は大きな石が多いので四輪駆動の車の力を実感できました。


ときどき見かけた家も石造りの独特なものになってきました。下で紹介しているラマ教のお寺と形が似ていることを写真を見て気が付きました。


木の少ない地域に入ってきました。


このような石造りの住居もありました。移動式テント住居であるパオの形に似た住居です。ヨーロッパにはこれと似た建物で町が形成されて世界遺産になったところがありました。こちらではすべてがこの建物ではなく上の四角い石造りの建物の中に点在している感じでした。
ここからは25分くらいで目的地のラマ教の聖地である五當召(五当召)に着くことが出来ました。


世界地図で場所を紹介いたします。


中国なのでGoogle地図のストリートビューはありませんが、個人の人がポイントでGoogleに登録した写真がありました。360度回転はします。この写真は2016年8月に登録されたようです。SV1 SV2 SV3 SV4

本場 内モンゴルの しゃぶしゃぶ [内蒙古]


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日本でも羊のシヤブシャブが知られるようになってきました。その羊のしゃぶしゃぶの最大手なのが日本でも8店舗を展開している小肥羊(内蒙古小肥羊餐飲連鎖有限公司)です。単一業態での売上規模は中国最大で外食産業としても中国大陸ではマクドナルドを抜き、ケンタッキー・フライドチキンを経営する中国百勝餐飲集団に次ぐ第2のチェーン企業であり、店舗数は中国国内で700店以上にのぼります。香港、アメリカ、カナダなど世界各国でもチェーン店を展開をしています。
日本の渋谷に小肥羊が上陸したのが丁度5年前(2006年)の9月28日でした。
その小肥羊(しゃお ふぇい やん)は1999年に内コンゴルの包頭(パオトウ)に一号店を出したのが始まりでした。その発祥の地である包頭でシャブシャブを食べる機会を得ました。もちろん小肥羊で食べました。

お店のビルの柱には「小肥羊総店」の看板がかかげられていました。
総店(总店)は日本語では本店の意味です。なんと本店で食事したのかもしれません。本店でなくても発祥の地である包頭(パオトウ)の中でも代表的な、お店だったのだと思います。
日本にある小肥羊ジャパンのHPはこちら→http://www.hinabe.net/

日本での鍋の食べ方と違っていたので内モンゴルでの羊のシャブシャブの正式な食べ方を紹介します。前菜の一部を除いて出てきたものは全て紹介します。写真の順番は食べる順番です。この順番が内モンゴル流なのです。羊のシャブシャブのフルコースとお考え下さい。

これが前菜です。前菜はこれ以外にも沢山出てきましたがそれは省略! でもここでも、モロキュウが出てきました。真ん中に日本製の電磁調理器が埋め込まれています。
したがってガラスの回転テーブルはドーナツ状です。


これが鍋です。羊の肉のだしにナツメ、生姜、ニンニク、ネギなどが入っていました。食べるときはこのスープを器に入れて漬け汁にもします。好みで辛いオイルを少したらします。


最初は肉だけ食べます。これが日本の食べ方と違うところです。場所は羊の本場である内モンゴルです。肉はこれ以上新鮮なものはありません。羊肉の美味しさは新鮮さです。


いろんな部位が出てきました。


肉は追加追加で、ものすごい量が出てきます。一人当たり大皿2皿は食べたと思います。日本だとすごい値段になってしまいます。


肉が食べ終わるとキノコです。肉を食べ終わってから別の軽い食材を食べるのが内モンゴモ流でした。肉を満足するほど食べてもらう考え方なのではないでしょうか。


その次が豆腐です。


そしてジャガイモも出てきました。


これはカモの血と言っていました。これだけは味見程度だけ食べました。


干し椎茸と餅と人参です。


ここからの野菜攻勢がすごかったです。左の方が春菊です。右の方は名前は判りませんがクセのない野菜です。


肉でお腹がいっぱいになった後に野菜です。これはセリの種類だと思います。


木耳と細長いモチも入っています。


野菜も出てきた順番に写真を掲載させてもらいました。チンゲンサイにレタスです。


最後はうどんのようなものを入れてしめとなります。


おまけにホットケーキのようなトウモロコシの饅頭も出されました。


クリックすると拡大近代的なお店がみんなに受けて、数年で大きなチェーン店に発展したそうです。我々、日本人は右の写真のラマ教の聖地「五當召」に行って12時に戻ってきて食事の予定でしたが、こちらのお店は、すごい人気なので、中国の知り合いの人が場所取りのために10時から来てくれていました。


小肥羊総店お店の場所を紹介いたします。プラスのアイコンを12回クリックすると場所がわかってくると思います。
 店名:小肥羊总店(小肥羊本店)
 住所:内蒙古自治区包头市昆都仑区乌兰道9号
     小肥羊大厦(小肥羊ビルディング)
 電話:+86 472 513 7998
 地図:https://goo.gl/maps/mlKlU

赤色の部分が内モンゴル自治区(内蒙古自治区)で、その中の黄色の点が包頭(包头)の位置です。
包頭の中で小肥羊を検索すると今回の本店も含めて9店舗ありました。

内モンゴルと言えば標高1500mの大草原を思い出します。→ポチッ

泊まったのは文豪が愛した宿でした。 福住樓 [箱根]

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芦ノ湖では箱根の関所を見た後は、その晩のお宿がある塔ノ沢温泉を目指して箱根登山バスに乗って箱根湯本に降りてきました。塔ノ沢温泉は箱根湯本から登山電車で一駅ほど登った場所の距離です。上の写真が我々が泊まった旅館「福住樓」を上から見た全景です。白っぽい屋根の建物がすべて福住樓です。下の方で配置図を掲載しておりますので比較してもらえるとわかりやすいと思います。ネットで検索すると福住樓は難しい文字ではなく福住楼(ふくずみろう)と書かれているところが多かったです。箱根湯本ではコインロッカーに預けていた荷物をピックアップした上で塔ノ沢温泉の福住樓を目指しました。

箱根湯本からは100円で旅館の前に停車しくれる循環バスが出ており、それを利用すると便利なのですが、歩いても遠くない距離だと思い、徒歩で塔ノ沢温泉に向かいました。次のバスまで15分程度の時間があったので、歩いた方が早く着くと思ったことも理由の一つでした。17時2分に歩き始めて10分経っても温泉街らしいものが見当たらないことから歩いたことを後悔し始めました。清流沿いと言えども8月24日だったので汗も出てきました。


でも歩いてよかった思えることがありました。箱根湯本と塔ノ沢温泉の間には土木遺産が3つも、あったのでした。この写真が箱根駅伝でテレビ画面によく映し出される土木遺産の函嶺洞門(かんれいどうもん)です。
函嶺洞門は1930年4月に工事を着手して1931年10月に完成した当時では珍しい片側が開口した鉄筋コンクリート構造6連の落石防止(ロックシェッド)です。中国の王宮をイメージした造りとなっているとのことです。なお、「函嶺」とは「箱根」の異名があるそうです。2007年には経済産業省から近代化産業遺産にも指定されていました。
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函嶺洞門を過ぎたところにあるのが、もう一つの土木遺産である千歳橋(ちとせはし)です。この橋を渡ったところに福住樓がありました。3つ目の土木遺産は旭橋で、土木遺産とは気が付かずに通り過ぎてしまったことから写真は撮りませんでした。旭橋は函嶺洞門の下流側にありました。
2つの橋ともに1933年に完成しました。鉄筋コンクリート構造の下路式タイドアーチ橋で早川を跨いでおり、旭橋は西洋をイメージしており、千歳橋は和をイメージしているとのことです。旭橋は鉄筋コンクリート構造のタイドアーチ橋としては国内最大の長さであり、斜めになった構造としても珍しいものであるようです。箱根街道にあるすべての土木遺産に出会えて大満足でした。
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福住樓の玄関前から見た千歳橋です。こんなにも近い場所に千歳橋がありました。福住樓は塔ノ沢温泉では最も箱根湯本に近い場所にありました。
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クリックすると記事を表示こちらが福住樓の玄関です。
結局、湯本を出発して16分後の17時18分に福住樓に着きました。
ここまで車で来た長男夫婦も同時に着いたので、箱根湯本から歩いたことが、6人全員が福住樓の玄関前でそろうという偶然にもつながりました。
さらに循環バスにも追い抜かれることもありませんでした。ほんとうに歩いてよかったです。
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玄関の上の木彫りの鳳凰の飾りが見事でした。
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玄関をくぐった最初の旅館の内部の景色です。明治から変わっていない雰囲気が伝わってきました。
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旅館の中から玄関ごしに見た外の景色です。この道路を箱根駅伝の選書が右から左に走り抜けていきます。福住樓は内部も外観も昔のままの貴重な旅館でした。
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玄関からは長い廊下を案内されて部屋に向かいました。
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電話室も昔のままに残されていました。ただし電話は設置されていなかったです。
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長い廊下です。廊下の途中にも受付がありました。最後から2枚目に福住樓の配置図を掲載しているので、それを見ると廊下の長さが判ってもらえると思います。中庭も2か所にありました。
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案内をしていただかないととダリ着けないほど長い廊下が続きました。


クリックすると拡大廊下は、まだまだ続きました。これは、玄関側に振り返って撮った写真です。右に降りていく階段の先には右の写真の有名な大丸風呂を含んだ4種類のお風呂がありました。もちろん正真正銘の昔からの源泉掛け流し温泉です。福住樓は単独の温泉源を持っているそうです。
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案内されている廊下から中庭も見ることが出来ました。福住樓は今から123年前の1890年に創業され、明治初期から昭和中期のそれぞれの時代に建設された多棟式木造三階建で、いくつもの建物が複雑に入り組んだ旅館でした。それだけに中庭も趣がありました。
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こちらも廊下から見ることが出来た中庭の景色で正面に評判の大広間が見えました。福住樓は国登録有形文化財にもなっている建物なのです。文化財の宿というキャッチフレーズも使われていました。左の建物の二階に泊まりました。
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同じ一階の廊下でも階段でつながっているところもありました。廊下の複雑さが判っていただけると思います。


上の写真の小さな階段を登って右に曲がるとこちらの景色に出会えます。真っ直ぐに廊下を進むと大広間に行けます。
左の階段を登った二階に我々の泊まった部屋がありました。
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やっと泊まる客室に到着いたしました。
旅館の客室は全部で17あり、間取りや室内の造作はすべて異なり、同じ客室はないそうです。17の客室の名前を紹介すると「せせらぎ」 「せきれい」 「桜一」 「桜二」 「桜三」 「桜四」 「桜五」 「桜六」 「松三」 「竹三」 「竹五」 「梅一」 「梅二」 「桐一」 「桐二」 「桐三」 「桐六」です。
6人のため並びの「桜三」と「桜四」の2つの客室か用意されていました。こちらは「桜四」で、間取りは3つの部屋+縁側で構成されていました。
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こちらが「桜三」で2面から川を見ることが出来る素敵な部屋でした。こちらの間取りは2部屋+縁側でした。なんと、こちらは1912年生まれの歌手・林伊佐緒さんがよく泊まられた部屋だそうです。福住樓は福沢諭吉、夏目漱石、島崎藤村(松二)、川端康成(桐三)、巌谷小波、武島羽衣、大佛次郎、川合玉堂、平福百穂、日下部鳴鶴、中村蘭台、坂東妻三郎、田山方南(せせらぎ)、田村泰次郎(せせらぎ)、三遊亭歌笑(せきれい)、北條秀司(桜一)、吉川英治(桜二)、里見弴(桜二)、林伊佐緒(桜三)、田村高比廣(竹五)、幸田露伴(梅一)、大辻司朗(梅一)などの有名な文化人に愛された旅館でした。名前が多いので敬称は略させていただきました。( )内は泊まられた客室の名前です。「文化財の宿」よりは「文豪が愛した宿」の方が、ピッタリ来る気がしました。
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部屋から縁側の方向を見た景色です。昔ながらの木の温もりと外の緑がホッさせてくれました。
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こちらが縁側です。こちらでお茶を飲みました。
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縁側の窓からは前を流れる川を見ることが出来ました。
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川の方から旅館を見た景色を紹介します。この沢山の木々の中に旅館が建っていました。常にせせらぎの音が聞こえる旅館でした。
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洗面台も昔のままのようで部屋の前の廊下の窓の外にありました。


こちらが3部屋で構成された大広間で全部で66畳あり箱根を代表する名物広間として数々の広告媒体に使われたそうです。
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左側の障子の中で夕食並びに朝食をいただきました。大広間の縁側が、また雰囲気を盛り上げてくれます。
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大広間と縁側の両方が写った写真です。
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普通は各客室で食事を刷るそうですが6名だったことから大広間を襖で仕切って皆で一緒に夕食と朝食をさせていただきました。この部屋だけで18畳あったのでゆったりと優雅に食事を楽しむことが出来ました。下の写真は朝食の膳が並んでいるところです。右の写真は夕食の写真です。夕食と朝食は後日に紹介したいと思います。
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福住樓の全体の配置図です。大広間、食事の場所、泊まった部屋を井際いたしました。クリックすると拡大するので読みやすいと思います。太い赤いラインが玄関から泊まった部屋までのルートです。
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クリックすると拡大福住樓は日本経済新聞が出版した雑誌「日本百名湯」の中で、岡部まりさんと松田忠徳さんの対談に使われたことがあります。使われた部屋はホームページ掲載されていた右の「桜五」の部屋の写真の縁側の欄干や外の景色から、我々が泊まった棟の三階にある「桜五」のクリックすると拡大部屋だと思われます。さらに右下の写真の「桜二」の部屋での対談の写真も掲載されていました。
日本百名湯の中に塔ノ沢温泉が入っており福住樓の料理や風呂や部屋のことが紹介されていました。その百名湯の塔ノ沢温泉の中では、創業380年前(1630年)の「一の湯本館」や「環翠楼」「観山苑」「福住樓」の4軒の宿が紹介されていました。塔ノ沢温泉から1kmの距離ですが箱根湯本も百名湯の一つとして入っていました。
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上で説明した位置関係を航空写真で説明します。
  赤色マーク 箱根湯本駅
  緑色マーク 福住樓 右から玄関、泊まった部屋、大広間
  青色マーク 塔ノ沢温泉の他の宿 マークをクリックすると名前表示
  紫色マーク 旭橋    土木遺跡
  空色マーク 函嶺洞門 土木遺跡 近代化産業遺産
  黄色マーク 千歳橋   土木遺跡
  赤色ライン 箱根湯本駅~福住樓 1km
  緑色ライン 2013年8月25日早朝の散策ルート 

より大きな地図で 塔ノ沢温泉 を表示
翌日は、あいにくの雨でしたが、6名で箱根を楽しむことにしました。先ずは登山電車で彫刻の森まで行くので、この循環バス(100円)で登山電車の出発駅の箱根湯本に向かいました。

マルセイユの街並み [マルセイユ]

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旧港の近くの建物です。パリでも見かける建物ですが、マルセイユは空の色が違います。

上の建物の下にはカフェがあります。沢山の人がいました。


旧港の近くの教会です。ネットでもこの教会を見ることが出来ます。白い壁がまぶしいです。


こちらも旧港の近くの広場です。


こちらも港の近くです。


マルセイユ駅から見た風景です。
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細い路地です。車やバイクが走っていました。


駅からも小さな入り江から見えたノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂が見れます。
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我が家のワンコは「おねだり」のポーズでウインク [むさし]

クリックするとウインクの静止写真を表示
我が家のワンコの写真をサイドバーに掲載しようと、昔の写真を探していると「ちんちん」のポーズでウインクしている写真を見つけました。画像が表示されて8秒ごとにウインクします。撮影した日も違い、撮影した位置も違うので動画のような感じではありませんが雰囲気が伝えられるとうれしいです。不思議なことに、この時は、紹介の写真しか撮っていないので、ほんとラッキーだったと思います。この「ちんちん」のポーズは、いつのまにか覚えた「おやつのおねだりポーズ」なのです。誕生日は2000年4月4日で現在は13歳です。ウインクの写真が撮れた時は9歳でした。上の写真をクリックするとウインクの静止写真を表示します。
    両目をしっかり開けている写真 2009年4月12日撮影
    ウインクしている写真     2009年4月09日撮影

最新の映像の紹介をいたします。2013年10月10日の早朝の散歩の動画です。元気に走っていました。是非とも真中のプレイボタン( )をクリックしてみてください。
画面の中のYouTubeの文字の部分、或いは右下の [  ] をクリックすると大きな画面で動画を見ることが出来ます。


動画はこの場所で撮りました。家から10分ほど歩けばこのような場所に出れるのです。写真はクリックすると拡大します。
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誕生日は2000年4月4日です。この写真はワンコが生まれた年である2000年の5月30日から2015年4月4日までの成長記録です。写真の左上に撮った日付を付記しています。この写真集を作るために昔の写真を探しているときに冒頭のウインクの写真を見つけました。


現在、ブログのサイドバーに掲載しているのは子犬の時の写真と現在の写真です。
2000年5月、6月撮影             2013年10月9日撮影
クリックすると記事を表示      クリックすると拡大

すでに紹介した扉を開ける動画も紹介いてします。まだ見ていない方は是非とも真中のプレーボタン( )をクリックしてみてください。
少し苦労する姿の動画も続きで入っています。扉を押す方向に開けられるようになったのは2006年12月(6歳)で、扉を手前方向ら引いて開けられるようになったのは2008年8月(8歳)です。どうやら2013年9月29日にスライド式が開けられるようになったので玄関ドア以外は自由に行き出来るようになってしまいました。
オリジナルの「我が家のワンコの得意技」の記事はこちらです。→ポチッ


扉は押す側も引く側も開けることが出来ますが横にスライド式の引き戸は開けることが出来ませんでした。例外的に僅かでもスキマがあるとスライド式の引き戸は空けることが出来ました。スキマさえなければ開けることが出来なかっのですが、ついに2013年9月29日にスライド式を開ける技を覚えてしまいました。重りをスライド式の引き戸に押し当てていましたが翌日の9月30日と翌々日の10月1日と連続に重りを移動して扉を開けてしまいました。それ以降は写真のように重りを2個にした結果、まだ開けられていません。重りにしているのは米袋と書類ケースです。ただし留守している間に重りの1個は移動していました。
スライド式を開けるところの写真や動画を撮りたいところですが、このスライド式の扉を開けることは悪いことだ(叱られる)と思っているようで、我々が家を留守にした時にしか行動を起こさないので撮影は出来ないのです。


2013年11月21日に追伸
キッチンの入口のスライド式の扉に重りを置くのも大変なので、本日に扉の一番上に磁石(マグネットキャッチ)を取り付けてみました。これで、当分は様子を見てみます。

写真を撮りたくなる風景でした。 [マルセイユ]

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マルセイユの港でプロらしい人が写真を撮っている風景に出会いました。写されている女性はモデルさんかな?

それとも観光客の人が写真を撮ってもらっているのかもしれません。写真を残したくなる場所でした。
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ここは19世紀まで貿易の中心地として栄えていたマルセイユの港。旧港(LE VIEUX PORT)と呼ばれています。いまではヨットなどレジャー用の船舶が停泊しています。海も撮影しました。
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箱根の関所 [箱根]



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2013年8月24日に芦ノ湖の海賊船に乗って、着いた箱根町には箱根の関所があります。この写真は海賊船の上から撮ったもので、黒い建物が文献に基づいて2007年3月に正確に復元された箱根の関所です。箱根関所の呼び方が一般的なようですが、昔から言っていた「箱根の関所」なってしまいます。箱根関との言い方もあるようです。港に着いたらすぐに見学に行ってみることにいたしました。港から歩いて15分くらいの距離でした。ここからは「箱根関所」を使って説明いたします。
江戸時代末期に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書である「相州御関所御修復出来形帳」が、静岡県韮山町の江川文庫から1983年に発見されました、その資料の解読を行った結果、当時の箱根関所の建物や構造物などの全貌が明らかになったそうです。さらに発掘調査を行ない、その成果や資料の分析結果に基づき、建物の復元や関所周辺の環境整備を行ったそうです。

箱根の関所は江戸幕府によって今回の芦ノ湖畔の場所に元和5年(1619年)に設置されました。そした明治政府によって明治2年(1869年)に諸国の関所を全廃したときに箱根関所も廃止され跡地は国の史跡として保存されていました。
箱根関所をより理解してもらうために箱根関所のホームページから拝借させていただいた概念図を掲載します。概念図をクリックするとオリジナルのページを表示します。箱根の関所は基本的に2つの門とその2つの門の間の建物群で構成されています。奥側のが江戸の方向で江戸側の門が江戸口御門です。一方で手前側が京都の方向で、その方向に建っている門が京口御門です。今回の記事の説明には箱根関所のホームページの説明を各所に使わさせていただいております。
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上の概念図の右上の方向の江戸側にあたる小高い場所から箱根の関所の全景を撮ったものです。右側が江戸側で左側が京都側です。図面と角度は違いますが雰囲気が判ってもらえると思います。永い黒い柵が印象的でした。街道を挟んで手前の建物が足軽番所出、奥側が大番所・上番休息所です。右側が江戸方面で左奥方面が京都への道が続いていました。
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こちらが京口御門です。京口御門は高麗門という形式の門です。その高さは6.1mで、大番所・上番休息所をしのいで、江戸口御門と共に箱根関所で一番高い建物です。屋根は「栩葺(とちぶき)」で、外観は「渋墨塗り(しぶすみぬり)」です。京都方面から来た旅人は、この門から中が箱根関所の構内になり、門の前で身支度を整え、関所の中へと入ったそうです。
京口御門の手前は京口千人溜と呼ばれる広場で、旅人たちが関所改めを待つ待機場として利用されたそうです。
クリックすると関所内から見た京口御門を表示

こちらば箱根関所で最も大きな建物の大番所・上番休息所です。
クリックすると拡大関所の一番主要な建物でもあります。二棟が継がれている建物で、街道側が大番所、湖側が上番休息所と呼ばれています。共に栩葺(とちぶき)と言われる薄く割いた杉板を重ねた屋根です。外観は、渋墨(しぶすみ)が塗られた黒い建物です。渋墨は柿の渋と松のススを混ぜて作った塗料の一種です。
右の図面が大番所・上番休息所の建物内の配置図です。この建物の右側が街道側で旅人が通ります。左側が芦ノ湖側です。
大番所の前には鑓建・長柄建があり、この時は建てかけられていませんでしたが、鑓や長柄という武器が建てかけられ、関所を通る旅人を威嚇していました。下の写真は京口御門あたりの街道側から見た大番所・上番休息所です。写真の中の最も右側に御制札場が写っています。御制札場は箱根関所の役割が記載された高札が掲げられた威厳を感じさせる掲示板のようなものでした。
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下の写真は、その大番所・上番休息所の建物の中の面番所(めんばんしょ)と呼ばれていた部屋です。関所役人や定番人(じょうばんにん)が詰めており、部屋の前の縁側では、「出女」の取調べが行われていました。
面番所の内部には、関所役人用に、机を始め硯箱、煙草盆、火鉢などが一人ずつの側に置かれており、奥の壁際には様々な記録を収めた木箱がありました。また、鴨居には槍や刀が掛けられていました。
面番所内には関所役人や定番人のリアルナ人形が置かれていました。
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大番所・上番休息所の建物の中で、上の間(かみのま)と呼ばれていた部屋です。この部屋は客間であり、常時には人はいませんでした。ただし、旅人を脅す道具として、鉄砲や弓が飾られていました。
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大番所・上番休息所の建物の中の勝手板の間(かっていたのま)と呼ばれていた部屋です。この部屋には囲炉裏が置かれ、関所役人の食事や休息に使われていました。また、部屋の奥には戸棚があり、茶碗や汁椀、皿などのさまざまな食器や持ち運び用の各種の道具がしまわれていました。
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こちらも大番所・上番休息所の建物の中の台所土間(だいどころどま)の横にある土間です。この部屋には「かまど」がありました。この写真は台所土間から土間を撮ったもので、台所土間は写っていませんが台所土間には水屋があり、水屋の上の吊り棚には、調理の道具が置かれており、関所役人の食事などが作られていました。
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大番所・上番休息所の建物の中の湯殿(ゆどの)と呼ばれる部屋です。湯殿ですが、風呂桶が置かれていたわけではなく、たらいに湯を汲んで、湯浴みをしていました。


こちらが足軽番所です。大番所・上番休息所の次に大きな建物です。大番所・上番休息所の向かい側、江戸口御門の脇にあります。昼間は足軽の控え室で、夜は足軽が寝ていた場所です。建物内には足軽のための部屋や休息所、不審な武士などを留め置く「揚屋(あがりや)」、関所破りをした罪人などを一時的に拘置する獄屋(牢屋)などがあります。屋根は大番所と同様に杉板を薄く割って重ねた「栩葺(とちぶき)」で、外壁は壁板を渋墨(しぶすみ)で黒く塗られています。一番右側に刺股(さすまた)と突棒(つくぼう)と袖搦(そでがらみ)という捕り物道具を建てる三つ道具建の一部が写っています。写真には刺股(さすまた)だけが写っています。
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こちらが足軽番所の中にある獄屋(牢屋)です。当然ですが「獄屋」は格子で囲まれており、とても頑丈に造られています。


足軽番所の内部にもリアルな人形が置かれていました。灰色一色なところがよりリアルな感じを受けます。原色よりは、いいと思います。関所の足軽は関所役人の下で、関所内の下働きや、いろんな仕事をしていました。
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足軽番所にある台所土間です。これらでは足軽たちの食事などが作られていました。 大番所・上番休息所の台所土間と同様に水屋があり、水屋の上の吊り棚には、調理の道具が置かれていました。
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足軽番所の裏には足軽番所雪隠がありました。雪隠とは、便所のことです。足軽が利用するためのもので、旅人は利用できませんでした。


足軽番所の裏には井戸もありました。井戸は江戸口・京口の千人溜にそれぞれ1ヶ所ずつ、関所構内に2ヶ所、井戸があり、関所の役人たちが利用していたものです。


足軽番所の裏から街道側を見た景色です。
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これが江戸口御門です。京口御門の対面側にあります。こちらも京口御門と同様に高麗門という形式の門です。江戸方面から来た場合には、この門から中が箱根関所の構内で、西へ向う旅人はこの門の前で身支度を整え、関所の中へと入ったそうです。江戸口御門の前にも京口御門の前と同じように広場があります。その広場のことを江戸口千人溜と呼び関所改めを待つ旅人の待機場となっていました。
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江戸口御門から京口御門を見た景色です。右側が大番所・上番休息所の建物で、左側が足軽番所です。正面が京口御門です。
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江戸口御門の外の湖側に矢場がありました。ここは弓や鉄砲の練習場です。


矢場のあたりから箱根の関所を見た景観です。柵の先にあるのが江戸口御門です。建物の控え丸太が印象的でした。これも昔の資料で再現したものだと思います。左上の丘の上に建っている小さな建物が遠見番所です。
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箱根関所の中で景色のいい場所があります。それが遠見番所です。約80段の急な石段を登ると遠見番所にたどりつきます。ここからの眺めは格別です。遠見番所の外壁は板壁で、屋根も厚い板を2枚重ねた「流し板葺き」というもので、壁や屋根ともに「渋墨」で黒く塗られています。風対策か、建物の四方には控え丸太があり、頑丈につくられていました。
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遠見番所は箱根関所で唯一の二階建ての建物です。
高い場所に建てられており、建物の二階の四方に開かれた大きな窓から2名の足軽が昼夜を問わず交代で、芦ノ湖や街道沿いを見張っていたそうです。
遠見番所は箱根関所のある場所から20mほど高いところにあります。発掘調査では遠見番所の礎石と山を登る石段が発見されたそうです。
この建物の平面積は約6㎡と小さいものですが、高さは約4.5mです。内部は、1階は土間で、2階は畳敷きの部屋となっています。当時、ここには足軽が詰めており、四方の大きな窓から街道や芦ノ湖を見張っていました。
関所を通らないで山の中を抜ける関所破りには親殺しと共にもっとも重い罪であることから死罪でももっとも厳しい磔(はりつけ)の刑となったようです。その中で「お玉の話」は有名です。お玉の場合、同じ死罪ながらひとつ刑が軽くなり、獄門(さらし首)とされたそうです。お玉が捕まったとされる付近には「於玉坂」という坂の名前がつき、付近にある「なずなが池」は「お玉が池」と呼ばれるようになったそうです。
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異変を知らせると思われる拍子木が置かれていました。ここで拍子木を打って、下の大番所や足軽番所に急を知らせたようです。自由に打つことが出来ました。


遠見番所からは箱根関所の全景が見えるので是非とも登ってもらいたい場所です。
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芦ノ湖もよく見えました。富士山が右上に見えます。
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富士山を拡大いたしました。つまり、これが箱根関所からの富士山の景色なのです。
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重慶火鍋 [成都]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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成都では有名な四川料理のお店「陳麻婆豆腐」など、いろんな料理を楽しみましたが、鍋料理もいただきました。中国では鍋料理のことを火鍋といいます。その火鍋もいただいてみました。火鍋と言えば近くに重慶があり、その重慶の火鍋店が成都にもありました。その火鍋を食べてみました。上の写真が、重慶火鍋です。クリックするとグラグラと煮えたぎっているのがわかると思います。参考ですが中国三大火鍋という言葉があります。この場合は鍋料理のことではなく、夏暑い地方として有名な重慶・武漢・南京の3つの地域のことを指しています。いずれも煮えたぎるような灼熱の暑さ(熱さ)からこのような呼び方が出て来たようです。

上の写真は煮えている鍋ですが、こちらは煮える前の写真です。唐辛子と実山椒が沢山入っています。沸騰すると上の写真のように沈んでいた唐辛子と実山椒が浮かび上がってくるので真赤に見えます。


拡大いたしました。不覚にもピントが甘い写真とっなてしまいましたが、唐辛子と実山椒が浮んでいることがよくわかってもらえると思います。特に実山椒の量はすごかったです。日本で、これだけ実山椒を入れると、相当に高価な鍋料理になると思います。


真中には辛くないスープも用意されていました。その真中のスープには唐辛子も実山椒も入っていません。赤いものはクコの実です。これなら辛いのが苦手な方も食べれると思います。私は両方で食べてみました。辛くないスープで茹でた後に少しだけ辛いスープにつけて食べるとちょうどよかったです。真中で私の肉団子が煮えています。中国の方は赤いスープ・オンリーでした。
辛いスープで煮た後に辛くないスープで洗って食べても、かなりの辛さでした。
周囲の赤いスープは冒頭の写真よりもさらに煮えたぎっています。写真をクリックすると拡大するので、わかりやすいと思います。
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真っ赤なスープで入れた具が見えなくて取れないのではないかと心配される方もおられると思います。その点は心配いりません。ちゃんと具をすくうための、お玉が用意されていました。


これがテーブルです。小ぎれいなお店でした。四角の小鉢に入っているのが"つけだれ"となるゴマ油で、これに薬味などを入れるます。


これが薬味です。香菜とネギとニンニクです。


つけダレに薬味の香菜とネギとニンニクをタップリ入れました。さらにオイスターソースも好みで入れて出来上がりです。好みで黒酢も入れますが私は黒酢はなしにしました。


この写真は具を"つけだれ"に入れたところです。


肉、野菜、烏賊、などなど、沢山の食材が出した。


なんと言ってもこの火鍋の特徴はホルモン系が多いことです。シャブシャブのようにして食べます。茹で過ぎないように言われました。肉団子、シュウマイ、田うなぎもありました。


テーブルの上には肉も並んでいますのでホルモン系が苦手な方も安心してください。


沢山の人が入っていました。このようにきれいなお店が人気が出てきたようです。


食べるのを躊躇したのがこれです。鴨の血だそうです。思い切って食べました。血と知らなければ美味しいという人が多いと思います。


重厚な、お店の入口です。お店の名前は重慶呉銘(WUMING HUOGUO)のようです。
ネット検索すると重慶呉銘火鍋 / 重庆吴铭火锅が沢山出てきました。


タグ:中華料理

四川の地元料理 [四川省]

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世界遺産が近くにある四川省都江堰市で昼食を食べる機会がありました。同じ四川省の中でも地元の特徴のある四川料理があると聞いていました。そこで偶然に入ったお店ですが、こちらで特徴のある料理を出してほしいと、お店の人に頼んで料理を出してもらいました。確かに初めての料理が沢山あったので紹介いたします。
上の写真の料理は腊肉(=燻製にした肉)の回鍋肉(ホイコーロー)です。腊肉は塩味のため回鍋肉(ホイコーロー)とは別物でした。もちろん、すでに紹介した蒜苗が使われていました。

日本風に言えば冷奴です。これも、選んでくれた地元の料理でした。豆腐をそのまま辛いタレで食べます。


タレはラー油に唐辛子とネギなどの薬味が沢山入ったものです。木綿豆腐と絹ごし豆腐の中間で豆の香りが残った美味しい豆腐でした。


キュウリのシンプルな料理です。日本風の味付けでした。
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生豆腐の代わりに揚げた豆腐を使った麻婆豆腐です。メニューには麻婆豆腐と並んで書かれていましたが、名前は麻婆豆腐ではなかったです。すでに有名な陳麻婆豆腐と言うお店で麻婆豆腐を食べたので、少し違った料理にしてもらいました。
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これも地元の料理です。肉、タン(舌)、ハツ(心臓)、燻製を唐辛子を付けて食べます。この料理はシンプルで驚きの美味しさでした。ビールにあいました。最後にお皿を見るとハツは完食でした。
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これは鶏肉料理です。一番大きなお皿で出て来ました。
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野菜と豆の料理です。これも完食でした。
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空心菜の料理です。少し唐辛子が入っているのが四川らしいです。でも、この料理は注文していません。間違えたかサービスで出てきました。
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チヂミです。これは地元の料理と言うわけではないと思います。


どの料理が人気があったか、知ってもらうために、きれいな写真ではないけれど、料理を食べ終わったテーブルの写真を掲載いたします。一品だけ紹介していない料理はキャベツの漬物です。日本と同じように塩系の漬物でした。ごはんは陳麻婆豆腐店と同じようにオヒツで、出てきました。四川料理の特徴である唐辛子に埋まった料理は一品も出てきませんでした。確かに地元地元に特徴のある四川料理があることを感じることが出来た瞬間でした。
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このお店は車で走っている時に偶然に入ったお店でした。お店の名前は六間房餐館です。偶然に入る機会があれば思い出してください。


成都の高級四川料理店 [成都]



九塞溝に行くために四川省の省都である成都に入った日の夕食は成都で有名な四川料理レストランと言われている「銀杏川菜酒楼」での夕食となりました。四川料理店のことを川菜館と呼ぶようです。銀杏川菜酒楼は高級店ということで有名なようで、日本からの高級ツアーの観光客の人も多いようです。成都で一番高いと書かれているサイトもあるほどのレストランです。料理は料理人(シェフ)次第なので、沢山の美味しいお店はあるはずです。一番いいのは安くて美味しいお店ですが、滅多に来ることのできない事情のよくわからない場所では、美味しいことが確実なのであれば、高くてもOKとしております。つまり、こちらのお店は値段のことを気にしないのであれば、本場の四川料理を食べるのには間違いのないレストランということなのです。個室は広くて、部屋の中には沢山の人が座れるソファーも置かれていました。

高級と言われるレストランなので料理は出てきた順番に紹介いたします。果物は普通は最後なのですが、こちらでは最初に果物が出てきました。


果物の次はサラダが出されました。ここまでは中華料理や四川料理という感じはありませんでした。


スープは個別に出てきました。柔らかな鶏肉の入ったスープでした。


白い色の豆とブロッコリーの料理です。豆は生ピーナッツかもしれません。味を伝えられないのが残念ですが洗練された味わいの料理でした。


この辺りから四川料理の片鱗が出てきました。これは大型のサザエと野菜を甘辛く味付した料理です。こちらのお店では土鍋などを除いて器に関しては純白にこだわっているようです。料理を一番美味しく見せるのでしょうか。器は絵のキャンバスなのでしょう。飾り付けも素晴らしかったです。


自分の皿に料理を移して撮りましたが、かなり大きな貝で食べごたえもありました。野菜の玉ねぎも美味しかったです。


この次も貝と野菜の料理です。貝はホッキガイ(北寄貝)のようでした。刺身やお寿司ではよく食べられる食材ですが、中華料理では初めてのような気がします。器も飾り付けも凝った一品でした。


こちらも拡大写真を掲載いたします。


小型のイカかタコの料理です。これも絶品の味わいでネギがかけられており日本人には絶好の一品ではないでしょうか。


食材を確認するために拡大いたしました。耳の部分があるので小型の烏賊に間違いないです。もともと美味しい食材ではありますが、シンプルなイカをここまで美味しい料理にする力量には感服させられたという感じの料理でした。料理人の腕と四川料理の奥の深さなのかもしれません。


ここまではシーフードでしたが、ここで肉料理が出てきました。角切りの豚肉とアスパラの料理です。赤っぽい細長いものは乾燥した唐辛子です。


料理の味わいの伝えるは、やはり拡大写真だと思うので、クリックすると拡大こちらも拡大写真を掲載いたします。たっぷりと、お肉が乗っているのがわかると思います。写真では紹介していませんがここで皮つきのダックの料理も出されました。ここまで写真を撮ったところで料理の写真を撮っていたG10の電池が切れてしまいました。右のカメラの写真はクリックすると拡大します。このシリーズは今はG16まで出ています。



写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大コンパクトカメラ(G10)の電池が切れてしまったので、景色をとるためのカメラであるEOS 5Dで料理の写真を撮り始めました。EOSで最初に撮った料理が、この煮込み料理です。ここから後の写真は全てEOSです。肉は柔らかく煮込まれていました。いろんな野菜にぶつ切りのトマトも煮込まれており素晴らしい味わいの料理でした。
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沢山の種類と野菜と田鰻の料理でした。野菜はアスパラ、ねぎ、山芋などで山芋などはステック状に切られていました。田鰻も一匹一匹きれいに開かれておりしっかりとした処理がされていました。もしかしたら開いた鰻かもしれません。赤くて細長いものは干した唐辛子です。これは味付けと料理の色のアクセントのためだと思います。もちろん食べません。
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拡大写真です。野菜は食感を残しているおり食材の良さを生かしている気がします。


こちらは干しナマコとチンゲンサイの料理です。こちらもなかなかの高級食材でした。
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せっかくなので、こちらの干しナマコ料理も拡大します。


魚料理です。細かく切ったねぎと唐辛子がたっぷりとかけられていました。特にねぎの量はすごかったです。この回、魚料理は、この一品だけでした。
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薬味として葱(ねぎ)が沢山使われていることを知ってもらうために上の魚料理の写真を切り取って掲載いたしました。私も唐辛子の印象があったので、今までは四川料理に、これほどのネギが薬味として使われている印象はありませんでした。それにしても料理を一眼レフで自動で撮るとピンポインで焦点が合ってしまうので周辺がぼけてしまうことを知りました。中央の数個のネギだけにピントが合ってしまっています。


待望の海老料理です。大型の海老に大きく切られたピーマン、パプリカ、玉ねぎが時どな食感の料理でした。
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海老はやっぱり拡大したくなります。味を想像してもらえるでしょうか。海老は背中に切れ目を入れているようです。美味しく見えるだけでなく実際の食感からも美味しさがアップしますね。この辺りも手間をかけている感じでした。
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こちらの肉団子料理もおいしかっです。野菜は白菜が主体ですが味がしみて野菜の味もよかったです。細かく切ったニンニクのような薬味が振り掛けられていました。
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我々の部屋を見てくれた方です。服装も洒落ていました。専任で2~3名がついてくれるのでサービスも行き届いていました。


サイコロのように角切りにした鶏肉と芋のような食感の野菜の料理です。ピーマンもアクセントになっていました。
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食感を伝えたいので、こちらも拡大写真掲載いたしました。
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純粋な野菜料理です。紫色をした野菜です。
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本場四川の超高級店の麻婆豆腐は是非とも食べてみたかったです。麻婆豆腐は外せないですね。日本人を意識して注文してくれたと思います。こちらの写真はクリックすると拡大するように設定いたしました。
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味は、この写真を見ていただいたらわかるかもしれませんが、一流シェフの作る料理でした。辛さもたいしたものでした。こちらの麻婆豆腐の写真もこの豆腐だけにピントが合っていることが拡大するとわかりました。クリックするとさらに拡大します。
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四川料理で日本で有名なのが坦々麺(坦坦面)です。本場成都の担々麺は汁がないと以前に紹介しましたが、超高級店の坦々麺も汁がありませんでした。
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このように混ぜて食べます。
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味わいをわかってもらうために拡大しました。クリックするとさらに拡大します。奥の深い味わいであることがわかってもらえるかもしれません。今回は素晴らしい料理に出会えましたが、お店の料理人の腕もありますが、料理を選択してくれた方(中国の人)の力も大きいと思います。いろんな美味しい料理を食べて知っている方が、日本人の好みも知ったうえで選んでくれたことが、伝わってきました。
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これがデザートのようなものかもしれません。少し甘みがありいろんな味わいが楽しめました。写真はクリックするとさらに拡大します。
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今回はEOS 5D(右)で沢山の料理の写真を撮りましたが、おそらくEOS 5Dで本格的に料理の写真を撮るのは最初で最後だと思います。CCD/CMOS(固体撮像素子)の横幅が35mmもあるカメラでは、どうしてもカメラを料理から離す必要があるので座ったままで気楽に撮るわけにはいかないのです。今回はカメラ好きの人が7割くらいおられたので問題ありませんでしたが、普通だと雰囲気を壊してしまうかもしれません。そんなわけで、これからもコンパクトカメラのG10(中)で撮ることになるのですがコンパクトと言ってもG10の重さは404gと大型なので持ち運びが不便で、7年前に買ったカメラですが、意外と画質がいいのでIXY1000(左)を使うことが多いです。
この3台のカメラを撮ったカメラはIXY1000が壊れたので最近買ったIXYなのですが、古いIXY1000と画質を比較した結果、IXY1000の方がよかったので約1万円かけてIXY1000を修理いたしました。CCDだけは新品です。
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成都2 - 『銀杏川菜酒楼』で食べる一段上の四川料理にトラックバックしています。

錦里古街 [成都]

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成都市内の観光地で一番人気なのが三国志で有名なのが劉備玄徳や諸葛孔明などを祀っている武侯祠です。その武侯祠に隣接してあるのが、上の写真の錦里古街です。錦里遺跡を再現した昔の雰囲気のある場所です。

記念撮影している看板は中国語、英語、韓国語と日本語の四カ国語で書かれています。この街の地図も書かれているので写真をクリックしてみてください。
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入口近くの街並みです。
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通り道の上が舞台になっています。この写真はクリックすると拡大します。
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さらに奥の風景です。
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欧米人の人たちも沢山こられていました。
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でも一番多いのは中国各地からこられているいる方々です。
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趣のあるところが沢山ありました。
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ここが奥側の錦里への出入り口です。
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タグ:四川省 成都

芦ノ湖と言えば海賊船 [箱根]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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芦ノ湖と言えば箱根海賊船ではないでしょうか。箱根ロープウェイで大涌谷から芦ノ湖の桃源台駅に降り立つと目の前に見えているのが写真の海賊船です。2013年8月24日の移動は下記のリストですが、このリストのすべての乗り物に箱根フリーパス(特急料金のみ有料)で乗れるのです。つまり箱根海賊船もフリーパス(フリー切符)で乗れるのです。そのこともあってかロープウェイに乗ってきた人はほとんどの人が箱根海賊船に乗るのだと思います。着色文字をクリックするとその記事を表示します。
  乗り物     出発     到着(標高)      主な観光
  ロマンスカー 新宿   → 箱根湯本(108m)
  登山電車   箱根湯本→ 強羅(553m)      強羅公園
  ケーブルカー 強羅   → 早雲山(761m)    展望台
  ロープウェイ  早雲山 → 大涌谷(1044m)    大涌谷
  ロープウェイ  大涌谷 → 桃源台(741m)     芦ノ湖
  箱根海賊船  桃源台 → 箱根町(725m)    箱根関所
  登山バス    箱根町 → 箱根湯本(102m)   
  徒歩      箱根湯本→ 塔ノ沢温泉(120m)  温泉宿泊 

すでに我々が乗る船が停泊していました。次は15:00出航予定です。この時14:37で14:20が出港したばかりでしたが、皆さん並ばれていました。
この時間帯は40分間隔で一日に14便ほど出航していました。12月1日~3月19日のオフシーズンは9便に減ります。
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現在は下記のバーサ号、ビクトリー号、ロワイヤルⅡ号の3隻の海賊船が現役で就航しています。我々の乗る緑の海賊船が一番定員の多いバーサ号です。私の生まれる前の1950年に箱根観光船が就航した当初は小型の「乙姫丸」「大観丸」「竜宮丸」「桃源丸」でしたが、その後に大型の船が就航し小型船は退役していきました。左の白黒写真は「桃源丸」で右の赤い船体は初代海賊船のパイオニア号です。パイオニア号のデーターは見つけられていませんが、写真から判断して650名乗りで造船会社も同じビクトリア号~バーサ号と同じ程度の規模のように思われます。こちらの5枚の写真はネットから拝借させていただきました。
 船名       就航日      定員    退役    形式    備考
 乙姫丸など  1950年      150名  1964年  小型船
 パイオニア   1964年      ?      1991年  海賊船 入替→バーサ
 ビクトリア    1980年      650名  2007年  海賊船 入替→ビクトリー
 ロワイヤル   1987年      650名  2013年  海賊船 入替→ロワイヤルⅡ
 フロンティア  1996年      350名  2008年  外輪船 回遊航路 
 バーサ     1991年3月19日 650名         海賊船 ←今回乗船
 ビクトリー   2007年3月20日 500名         海賊船
 ロワイヤルⅡ 2013年3月20日 565名         海賊船
      桃源丸(乙姫丸など)            初代海賊船のパイオニア号
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    ビクトリア号         ロワイヤル号        外輪船 フロンティア号
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赤枠の会社で芦ノ湖の海賊船が作られました。日立造船でパイオニア、ビクトリア、ロワイヤル、バーサが造られ、ユニバーサル造船でビクトリーが作られ、ジャパンマリンユナイテッド株式会社でロワイヤルⅡが作られました。会社名が変わりましたが、全ての海賊船は海の近くの造船所で作ったブロックを芦ノ湖に運搬し、桃源台港にある船舶工場で組み立て進水したそうです。


出航時間が近づいてきたのでバーサ号に向かって桟橋を進みはじめました。遠くから別の海賊船が、こちらに向かってきていました。
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いざ海賊船バーサ号に乗り込みます。
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出航時刻には遠くに見えていたロワイヤルⅡ号が入ってきました。この船は今年(2013年3月20日)に就航した最新の船です。
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時刻通りに出航いたしました。箱根町港まで30分の船旅です。元箱根港経由となる船の場合は40分の船旅になります。
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高いところは子供たちに占領されていました。手すりに座っているのは本物の子供ではなくて人形ですのでご心配なく。


上部甲板は大人気でにぎわっていました。


気持ちの良い風が流れてきました。8月24日と真夏ですが標高723mの湖面を流れてくる風は涼しかったです。神山が約3000年前に水蒸気爆発と火砕流を起こした際、山の一部が大崩壊を起こす山体崩壊が発生し、その結果誕生した堰止湖だそうです。Wikipediaではカルデラ湖であることを否定していますが、大きなカルデラの中の一部に存在することからカルデラ湖と解釈されても不思議ではないようです。下記は芦ノ湖のデーターです。
 面積     7.10 km2
 周囲長    21.1 km
 最大水深   43.5 m
 平均水深   15.0 m
 水面の標高 723 m
 成因     堰止湖 and (カルデラ湖)
 水区分    淡水
 湖沼型    中栄養湖
 透明度    7 m
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水面すれすれに「う」と思われる鳥が飛んでいました。
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神社のような建物があったので撮りましたが、蛸川温泉の龍宮殿と呼ばれている宿泊施設でした。この辺りには箱根水族館や箱根駒ヶ岳ロープウェイや富士芦ノ湖パノラマパークなどレジャー施設が集まっている場所でもありました。
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こちらがビクトリー号です。これで3隻の海賊船をすべて紹介することが出来ました。最初から船の右舷(右側)で景色を見ていたのですが上の建物を撮るために左舷に移動したおかげで、ビクトリー号を撮ることが出来ました。右舷にいたのは富士山を見ることが出来るかもしれないと思ってのことでしたが、結局は富士山を船の上から見ることは出来ませんでした。
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元箱根港あたりの景色です。
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ここからは箱根港で船を降りてからの写真です。箱根の関所から富士山と海賊船のしゃしんが撮れたので紹介いたします。この海賊船は我々が乗ったバーサ号のようです。
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もう一枚関所からの富士山と海賊船のツーショットです。こちらの海賊船はロワイヤルⅡ号のようです。
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陸から見たロワイヤルⅡ号です。我々が乗ったバーサと比較してみます。バーサは動力が小さくても同じ速力が出せる船のようです。もう一隻のビクトリーは434kW(591hp)×2基です。
  船 名      ロワイヤルⅡ               バーサ
  就 航      2013年3月20日             1991年3月19日
  総トン数     315トン                  308トン
  船の長さ    35m                     35.76m
  船の幅     10m                    10m
  定 員      565名(特別船室111名)        650名(特別船室152名)
  主機性能    423kW(575馬力)x 2基       515kW(700馬力)x 1基
  航海速力    10.5ノット(最速カ12ノット)       10.5ノット(最速カ12ノット)
  エレベーター  1基(10人乗り)
  船内トイレ    3ヶ所(lヶ所バリアフリー対応)
  造船会社    ジャパンマリンユナイテッド株式会社  日立造船
  その他     船首横移動推進装置 2基
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クリックすると拡大紫色のラインが桃源台から箱根町までの海賊船の概ねの航路です。30分間の楽しい船旅でした。
空色マークが海賊船が組み立てられた芦ノ湖の湖畔の造船工場です。その造船工場での進水式の動画の右の風景から場所が判りました。→ポチッ

より大きな地図で 芦ノ湖 を表示

四川省・成都で一番の坦々麺は? [成都]



内モンゴルの「ゆう麺(莜面)」と山西省の麺のその1その2を紹介させていただきました。麺と言えば四川省の坦々麺を忘れてはなりません。そこで日本の坦々麺と少し違う、本場の坦々麺(担々麺)を紹介させていただくことにいたしました。本場では担担面と書きます。四川省に来れば,あの辛い坦々麺(坦坦面)を食べてみたくなります。本物の成都の坦坦面は汁がないと、中国の人が成都に来た時から説明してくれていました。成都に来ている間、沢山四川料理を食べたので、最後の夕食は是非とも坦坦面が食べたいと、その中国の人に頼むと成都で一番美味しい坦坦面のお店をネットで検索してくれました。それが成都の繁華街にある「龍抄手」総店と言う名のお店でした。日本語のネットでも沢山出てきました。このお店は世界的なようでした。
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中に入って驚きました。ファーストフード店のような雰囲気でした。ほんとに美味しいのですかと、その中国の人に聞くと、「絶対に美味しいです。こんなところの坦坦面の方が普通のお店と違って本物で美味しいです。」と自信を持って言われてしまいました。2階より上は普通のレストランのように個室などもあるようです。


注文はファーストフード店のようにカウンターで注文して事前に料金を払います。席に戻ってレシートを店員の人に渡すと料理が出てきます。ちょっとビールがないのではないかと心配してしまったのがちゃんと冷えたビールがありました。これをクリックすると料理の値段が読めます。坦々麺の値段は150gで10元(160円)でした。坦々麺以外には渣渣面・排骨面・紅焼牛肉面・燉鶏面・海味面・酸菜肉畿面・甜水面があり値段はすべて150gが10元でした。


これがうわさの坦々麺です。確かに汁がありません。それに赤くもありません。坦々麺と言えば小さな器で出来るものと思っていましたが、量も十分に一食分ありました。
実は器の底にタレが入っていて、よく混ぜてくださいと説明されました。
担担面は1841年ごろに、四川省成都から258kmの距離の四川省自貢の陳包包(あだ名)の男性が考案した料理で、成都の町を天秤棒で売り歩いていたそうです。天秤棒の片側に豆炭を使う七輪と鍋を、もう一方に麺、調味料、食器、洗い桶などを吊していたそうです。暖かく、辛い麺を出したのが受けて流行ったと言われています。天秤棒を担いで売り歩いた料理のため、スープを多量に持ち歩くのは難しいことから、「汁なし」が原型となったそうです。
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これが混ぜた状態です。色はソース焼きそばのような感じです。赤い色を通り越して黒い色と言う感じでした。確かに見かけによらず美味しいかったです。本物を食べれただけでも満足でしたが、味にも満足でした。クリックすると拡大席が取り合いになるくらいに満席状態が続く理由もわかりました。全ての料理の写真はクリックすると拡大するので、拡大写真を是非とも見てください。実はお店に入った時に、美味しそうなソース焼きそばを食べている人がいることは気が付いていました。でもそれが坦々麺だとは、まったく頭になかったので、ほんと驚きました。もちろん器の中のものはすべて完食でした。
下の方に中国の別のお店の坦々麺を3種類掲載いたしました。→ポチッ
わかったことは坦々麺、特に汁なしの坦々麺は、麺で決まることを感じました。ここの麺はコシがあって美味しかったのです。スープがある場合は、特別に美味しい麺でなくてもスープの美味しさでカバーできるのだと思います。
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タレと麺を拡大写真で紹介します。写真の左の方の器に付いている赤黒い塊が旨みと辛さの元のタレです。これが麺に絡まると絶妙の美味しさになるのです。
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ここのお店は店の名前の右2文字でも、わかるように抄手(ワンタン)が美味しいことでも有名なので、坦々麺以外にワンタンも頼みました。有名さは坦々麺以上です。
燉鶏抄手・海味抄手・原湯抄手・酸辣抄手・枸杞抄手・豆辨抄手の6種類の中から2種類のワンタンを頼みました。ワンタンは全て同じでスープが違うだけのようです。
燉鶏抄手と海味抄手が10個入りで12元(192円)で他の抄手(ワンタン)が10個入りで10元(160円)でした。
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これが、もう一種類のワンタンです。一緒に来た中国の人は全員、こちらの辛いワンタンばかりを食べていました。私は、この辛いワンタンは味見程度で、もっぱら上のワンタンを食べました。確かにすごく美味しいワンタンでした。人気が出る理由がわかりました。
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ビールのつまみにワンタンと坦々面だけでは寂しいので、簡単な料理も頼みました。真中の料理は成都名産のビーフジャーキーです。空港のお土産で一番人気のものです。
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下の3枚の写真はいずれも龍抄手のものではなく比較のために別のお店の坦々麺を掲載いたしました。先ず一枚目は北京にある四川省政府直轄の超人気の四川料理店の坦々麺です。これは汁が入っていました。これはおいしかったです。これも本場の担担麺だと思います。
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こちらは北京市内の別の四川料理店の坦々麺です。これも汁が入っていました。さすが北京で有名なお店だけのことはあり洗練された味でした。日本の担担麺は、麻婆豆腐と同様に、四川省出身の料理人陳建民が日本人向けに改良した作り方を紹介して広まったと言われています。


こちらは昼食で食べた成都市内のホテルで頼んでみた坦々麺です。こちらは汁がなかったです。しかし、この坦々面の麺はコシがなくて美味しくありませんでした。やはり、麺のコシや美味しさで坦々面のおいしさは決まることを実感いたしました。


こちらが成都の超高級な四川料理のレストラン「銀杏川菜酒楼」の担担面です。まさに「龍抄手」総店の担担面と同じタイプのものでした。


「銀杏川菜酒楼」の担担面を、まぜても「龍抄手」総店の担担麺と同じ感じでした。ただし器は上品でした。


ネットで「龍抄手」総店のことを調べると出てきました。内容を転記させていただきました。
四川料理で知られる成都市は、また小吃(軽食)でも名高いところです。担担麺・鐘水餃・頼湯元などです。この小吃の一つとして名高い龍抄手を紹介します。抄手とは、中国南方地区でワンタンのことをいいます。
すなわち、龍抄手とは龍ワンタンということです。これの本家が「龍抄手」総店です。当店は1941年に創業され、1963年に成都市の中心繁華街の春期路南段に店を構えました。2007年8月、ビルの改築にともない、近くの城守街63号に移転して、現在に至っています。
この間、1995年、国内貿易部(省)から「中華老字号」(中国老舗)の称号を得ました。「陳麻婆豆腐」店も同様に称号を受けた店です。現在の店舗地は、城守街(イトーヨーカドー春熙店前から南に行く)と聯升巷(紅星路三段〔東〕と春熙路南段〔西〕とを結ぶ)とが交差する北西角に、位置します。
「龍抄手」総店の本来の姿は1階です。ここは中国の庶民食堂として、まず食券を買い、テーブル席について係員に食券を渡し、配膳されるのを待ちます。
人気店とあって、ほぼ1階のテーブルは埋まっていました。テーブル席は地下1階にもありますが、休日などの混雑時には席を確保するのも大変です。抄手(ワンタン)は各種(燉鶏抄手・海味抄手・原湯抄手・酸辣抄手・枸杞抄手・豆辨抄手)あり、10個入りで12元です。当店のワンタンの餡は豚肉でこれを薄い皮で包んであります。味の違いは基本的にスープの違いです。淡泊なものから辛いのまであります。
ワンタン以外にも、麺・粉・餃子・糕などの小吃もあります。もちろんこちらにも小吃セットがあります。Aセット38元(14小吃6冷菜1湯)とBセット28元(12小吃4菜1湯)で、これで十分にお腹いっぱいになります。なお、ビールは8元です。

内モンゴルで「ゆう麺(莜面)」を食べる [内蒙古]

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山西省の太原のうどんのルーツのような美味しい麺を紹介したので、クリックすると拡大内モンゴルで美味しいと思った有名な蕎麦に似た麺を紹介いたします。
上の写真は莜面(ゆうめん)というそうです。地元の人に紹介してもらい行きました。原料は麦の種類で莜麦です。莜麦は日本語の検索サイトでは出てきませんが中国語のサイトでは沢山出てきます。右の写真が莜麦です。

莜麦は内モンゴルに生育するオートミール(燕麦 / エンバク 右下の写真)の一種だそうです。日本語だとハダカエンバクになるそうです。飢饉や寒さにも強い品種で、クリックすると野生種の図を表示約2500年も前から栽培されているという原始的な穀物だそうです。麺にすると色合いから、見た目は日本の蕎麦そっくりで味も似ています。冷水で冷して、日本の蕎麦汁で食べると日本蕎麦のセイロの味だと思います。試してみたいです。
右の写真はWikipediaから拝借いたエンバクでクリックすると野生種の図を表示します。
日本で麺と言えば上のタイプの細い蕎麦のような麺ですが、ここではいろんなタイプの麺がありました。日本人だから細い麺を沢山注文しましたが地元の人のテーブルでは、他の麺の方が多かった気がします。昔からのなごりではないでしょうか。
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手打ちしたものを蒸篭(セイロ)で蒸して出てきたものを下の暖かいスープに付けて食べます。このスープは羊肉から取ったものでなかなかの味でした。
麺はいろんな形がありますが、やはり細い麺にしたものが一番美味しかったですね。他のものはソバガキのような食感です。その蒸篭(セイロ)のまま出てきます。日本蕎麦のセイロと語源的にどんな関係なのだろうと感じました。


この前菜の真ん中に次から次ぎへと出してくれました。
蒸してあるので麺と麺がくっついてしまっているのが難点! ただしスープに浸けてしまえばばらばらになるので食べるときは問題なしです。力いっぱい蒸篭から引っ剥がしてスープに浸けるのです。
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追加して別のタイプの莜面(ユウ麺)も出してもらいました。それが下の写真です。
クリックすると拡大右の写真は中国語サイトで見つけた莜面の写真です。我々が食べた莜面とそっくりでした。
下の写真の右側の麺は、もともとは見た目が蜂の巣(蜂)に似ているので、「莜面窩窩」と呼ばれていましたが、それが後に「栲栳」に似ているとされて、「莜面栲栳栳」という名前がついたそうです。こちらのお店では「莜面窝窝」の名前がつかわれていました。莜面で検索すると圧倒的に右の莜面栳栳のタイプの画像が多いのに驚きました。莜面窝窝は山西省でも食べられているようです。写真の中の右側の莜面窩窩または莜面栲栳栳が下のおばさんが作ってくれている麺です。
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おばさんがガラス越しに打ってくれています。打ち手は5人くらいで、次から次へと作っていました。この写真は蜂の巣(蜂窩)に似た「莜面窩窩」を作っているところです。


お店の名前はずばり「莜面大王」! 判りやすいです。 この町一のお店のようです。内モンゴルでは別のレストランでも前菜として莜面が出てきます。IMG_4908-50.jpgいずれも冷たい麺でした。パオでの食事の前菜や羊のしゃぶしゃぶの時の前菜でも出てきました。お店は内モンゴル自治区(内蒙古自治区)の包頭市にありました。右の図は内モンゴルと包頭市(パオトウ・シ)の場所を示しています。
 店名 莜面大王
 住所 包头市昆都仑区白云鄂博路
 地図 http://goo.gl/maps/0DcJJ
 電話 0472-2510665
 営業 11:00-14:00 17:00-21:00

山西省の料理 [山西省]

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こちらは山西省で初めて食べた料理です。この料理は「山西省の麺 その1」で紹介した麺を食べたレストランの食事です。どれも洗練されていて美味しい料理でした。
レストランの名前は「港江大飯店」でしたが、本当は我々の泊まったホテルの隣の「港源大飯店」の中にあるレストラン「港源貴賓楼」のつもりでしたが予約を間違えて、このレストラン「港江大飯店」となりました。
これは「港源大飯店」と「港江大飯店」が似ているために間違えたようです。ちなみに「港源貴賓楼」は「山西省の麺 その2」と「でか~~い餃子」を食べたところです。
このレストランの最後に出てきた麺がすでに紹介した「山西省の麺 その1」でした。
上の写真の料理はホタテと春野菜を使った料理です。タケノコも沢山入っていました。ホタテと似ているので拡大して、じっくり見ると両方が区別できると思います。

こちらのレストランもテーブルセットを見ていただくとわかるように、格式のあるお店でした。
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料理の前の前菜も美味しかったです。
左は白菜とくらげの冷菜ですっぱい味が良かったです。真ん中はロバの肉だそうです。燻製風がよかったです。下はとろけるように柔らかい豚肉です。クリックすると拡大します。
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これも美味しかったです。肉の揚げ物のレタス包みです。
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パンぽい物の上に餅が乗った料理です。ビールには合わないけれど美味しい料理でした。
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例のなぞの野菜と胡桃の料理です。これがもっとも山西省らしい料理だと説明してくれました。
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これはタラの照り焼きです。日本人のために選んでくれた物だと思います。タラは輸入品なのでここでは超高級料理です。山西省料理ではないと思います。
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最後に絶品の麺が出てきました。記事はこちら→ポチッ
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山西省の場所をご存知ない方もおられると思うので山西省の場所の地図を掲載クリックする地拡大いたしました。Wikipedia拝借しました。
 省名     山西省
 省都     太原市
 最大都市  太原市 495 人/km²
 面積     156,800 km²  (19位)
 人口     33,350,000 人 (19位)
 人口密度  213 人/km²   (19位)
 主要民族  漢民族:99.7% 回族:0.2%
 GDP     6939 億元 (18位 2008年)

でか~~い餃子 [山西省]

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クリックすると拡大すでに前記事「山西省の麺 その2」で紹介したように山西省の太原で有名な麺を食べました。
でも高級料理店で右の写真の個室まで頼んでクリックすると拡大一杯3元(48円の)の麺だけでは気の毒なのでビールのつまみに少しだけ、料理を頼みました。その料理をここで紹介いたします。紹介の料理は3食分(昼食1回と夕食2回)のビールのつまみです。上の写真は餃子です。山西省は水餃子ではなく焼餃子ですが、ものすごく大きいのです。中国でも普通は日本の餃子と同じ位の大きさです。場所によってこんなにも違うのに驚きました。具には沢山の野菜が使われいてました。中国では普通は水餃子か蒸餃子なので焼餃子は、珍しいのですが、この巨大な焼餃子は山西省太原あたりの名物餃子のようです。

各自のテーブルセットです。なかなかのレストランでした。このテーブルのため麺だけを食べるのは気が引けたわけです。レストランの名前は「港源貴賓楼」です。
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貝の料理です。 内陸なので活きた貝を使った料理は高級です。日本では刺身で食べるミル貝です。是非とも写真をクリックしてみてください。ビールが美味しかったです。
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細い竹の子の料理です。シャキシャキして美味しかったです。
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いつもの麻婆豆腐です。これは、なかなかの辛さでした。この料理だけクリックすると拡大するようにしました。クリックするとさらに辛さが伝わると思います。
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マテ貝の料理です。こちらも活きた貝を使っています。つまみにぴったりでした。これもクリックして拡大した写真をを見てもらいたい料理です。もちろん活きたマテ貝が使われています。
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汁物の料理です。これらをつまみにビールを飲んで麺を食べました。
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こんにゃくのような食べ物の料理もありました。
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上で紹介した料理以外に注文した料理を掲載します。これらはどちらかというと前菜です。いずれの写真もクリックすると拡大します。
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最後は甘い揚げたお菓子がデザートとして出てきました。
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山西省の麺 その2 [山西省]

が表示された写真はクリックすると拡大します。
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「山西省の麺 その1」を紹介させていただきました。→ポチッ
山西省へ2度目来た機会に徹底的に麺を食べてみました。そのために、今回は同じお店で昼食1回と夕食2回の計3回食べました。

それも3回とも同じお店です。それも麺の専門店ではなくて、この町の高級中華料理で食べました。中華料理はほとんど注文しないで麺ばかり頼んだのには店員さんも驚いていたと思います。
個室にまで入って麺と前菜とビールしか頼まなかったのです。一品888元(14100円)の料理もある中で3元(48円)の麺を主食にしているので当然かもしれません。レストランの名前は「港源貴賓楼」です。前回は「港江大飯店」というお店で食べました。山西省の省都の太原に行く機会があれば、是非とも、こちらのお店に行って麺を食べてみてほしいです。


メニューの麺の部分です。食べた麺をこれから下に紹介いたします。そして一番下にネットで調べた面の作り方を掲載しております。


①
前回も紹介した麺です。この麺はコシのある本当に美味しい麺でした。タレは一番下で紹介している3種類のタレをかけます。これには3種類ともかけました。それぞれが特徴のある美味しいタレです。クリックすると拡大するので拡大した写真も見てください。「お皿に乗せた生地を箸で細かくちぎってとばしながら作る」そうです。
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                   タレをかけると
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②
この刀削麺は日本でも有名ですね。山西省の特徴の麺です。コシは①の麺ほどではありませんが他の町で食べた刀削麺とは別物でした。今まで他の町で食べた刀削麺はパホーマンスは感じましたが美味しいと感じたことはありませんでした。ここのはおいしいかったです。タレとの組み合わせは抜群です。確かに有名になるかもしれません。こちらの麺もクリックすると拡大した写真を掲載します。
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                   タレをかけると
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③
一本につながった麺かと思いましたがそうではなかったです。手で伸ばした麺です。他の麺よりは長かったです。うどんに近い麺ですね。これだけは中(4元)を頼みました。この写真の量が中ですが、他はすべて3元の小を選びました。これも3種類のタレで味わいました。これは「生地を引っ張って伸ばして、ねじりながら細い麺に仕上げる」そうです。
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                   タレをかけると
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④
中国のお酢や中国の高級な酒の原料となる高粱(こうりゃん)と言う穀物の麺です。初めて味わいました。上の麺のようにコシはありませんが味わいのある麺です。タレがおいしいことが改めてわかりました。
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                   タレをかけると
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⑤
これも小麦粉ではなく豆を使った麺です。コシはないので麺と言う感じではないけれどおいしくいただきました。一つしか頼まなかったので小さな器に取り分けてタレをかけました。
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                   タレをかけると
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⑥
これだけはタレをかけるのではなくスープ麺でした。麺は小麦粉ですが猫耳と言われる小さな麺です。麺が猫の耳のような形なんです。これは「小さく丸めた生地を指で押して猫の耳のような形に作る」そうです。
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①~⑤にかける3種類のタレです。麺もおいしいけれどこのタレが美味しいのです。3種類のタレを紹介いたします。

これは肉のタレです。麺にかけると肉が麺の上に表れます。


トマトを丸まま使ったタレです。生のトマトの酸味があり一番気に入りました。イタリアのスパケッティーのトマトソースのレベルに匹敵する味だと思います。タレの中の黄色ものは玉子です。


あんかけのタレです。これも味わい深いタレでした。


この3種類以外に右下のお酢に香味野菜が入ったタレも出てきます。日本だと醤油のぶっ掛けのような食べ方ですが試しませんでした。今になって試さなかったのが残念でなりません。山西省は中国最大のお酢の名産地でもあります。
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ネット上の山西省の麺の紹介文の抜粋です。
山西省は『刀削面(dao xiao mian)』、『尖面(ti jian mian)』など独特の作り方の麺が有名。 山西省といえば、黄河文明の発祥の地黄河文明と言えば、小麦ということで小麦で出来た麺の本場でもあるんです。
中国では「麺は山西にあり」と言われる。2000年の歴史を持つ中国麺の本場、山西省の省都・太原市を訪れた。
太原の街を歩くと、あちらこちらに麺類の店がある。確かにほかの中国の町よりも多い。地元の人は毎日1食は必ず麺を食べるという。 材料や食べ方にもいろいろな種類があり、山西省には全部で300種類以上の麺があると言われる。
【剔尖麺(ティ・ジエン・ミエン)】 お皿に乗せた生地を箸で細かくちぎってとばしながら作る
【拉麺(ラー・ミエン)】 生地を引っ張って伸ばして、ねじりながら細い麺に仕上げる
【猫耳朶(マオ・アル・ド)】 小さく丸めた生地を指で押して猫の耳のような形に作る
【柳葉麺(リウ・イエ・ミエン)】 平たく伸ばした生地を、包丁で線切りにしていく
【刀削麺(ダオ・シァオ・ミエン)】 山西省の麺の代表格。大根のような形の生地の固まり
                    の表面を包丁で削り取って作る

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山西省の麺 その1 [山西省]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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山西省の料理の最後に出てきた麺です。美味しかったので紹介いたします。手のひらで打った麺でうどんのようにコシのある麺でした。どのようにして麺が出来上がるのかわかりませんが、掌の中で箸を使って一本一本、麺にしていくそうです。確かに山西省の人もコシがあることが特徴だと話してくれました。これにかけるタレとの相性が抜群で美味しかったです。是非、写真をクリックしてみてください。すこし味が伝わるかもしれません。今までの経験の中で中華料理の最後に出てくる麺の中ではトップクラスでした。皆さんに是非食べてもらいたい麺でした。

上の写真は拡大しますが面倒な方のために拡大写真を掲載します。クリックすると全体を表示します。
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出て来た時はこの状態でした。下の2種類のタレを好みで掛けて食べます。
麺もタレも暖かいのが良かったですね。


麺の食感を感じてもらうために麺の拡大写真を掲載します。コシは讃岐うどんですが、包丁で切るのではなくて、手で一本一本麺にするそうで不揃いなのが特徴です。これが日本の「うどん」のルーツかもしれない思われるほどの美味しい麺でした。たしか、そのような説をテレビで聞いたことがありました。


冒頭の写真は左側のタレをかけたところです。これだけをかけると服務員(中国式の呼び方)の人が右側も少し入れてくれました。基本的には2種類の量を好みで入れるようです。左側だけでも美味しかった! 右側はトマト系の酸味のある珍しい味で確かにこれを混ぜると深みが増しました。
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箱根ロープウェイ 大涌谷→桃源台(芦ノ湖) [箱根]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

大涌谷の噴煙地を見て黒玉子を食べた後は箱根ロープーウェイでクリックすると拡大芦ノ湖を目指しました。ここでは大涌谷駅(おおわくだに・えき)から桃源台駅(とうげんだに・えき)までの景色を紹介いたします。上の写真は大涌谷駅です。
少しだけ行列が出来ていましたがすぐに乗れました。18名乗りのゴンドラが約1分間隔で次々と出発するので輸送能力は高いようです。このロープウェイは2007年6月1日に新型になりました。右の写真は開業当初に使われていた古いロープウェイです。
  箱根ロープウェイの歴史です。
             当初開業     新型開業     距離
   早雲山~大涌谷 1959年12月06日  2002年06月01日   1472m
   大涌谷~桃源台 1960年09月07日  2007年06月01日   2533m
                                           計 4005m
大涌谷駅を出発しました。桃源台駅までの距離は2533mです。
標高差は303m=1044m(大涌谷) - 741m(桃源台)です。
途中に姥子駅(うばこ・えき)があります。丘の向こう側に芦ノ湖が少し見えます。
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手前に鉄柱がないと迫力があります。
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曇り空でしたが、微かに富士山が見えました。写真の中央です。全体的に霞んでいたので、富士山が見えることは諦めていたため、感激でした。クリックすると拡大

富士山を拡大いたしました。晴れたらきれいに見えたのだと思います。


丘を越えたら富士山が見えてきました。観光海賊船が2隻見えます。あの場所をロープーウェイが目指します。ここでは進んでいる方向が違いますが姥子駅あたりで大きく左に曲がって船の泊まっているあたりにある桃源台駅に着きます。
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登りのゴンドラと芦ノ湖の写真です。


ここが途中駅の姥子駅(うばこ・えき)です。ロープウェイで、途中駅があるのは珍しいです。新型のゴンドラだから出来る芸当だと思います。これほど急角度で曲がるロープウェーも珍しい気がします。
駅の建物内ではロープは動いていますが、ロープから外れてゴンドラはレールでゆっくりと進み停車して乗客の乗り降りが終わると発車します。


ここからは芦ノ湖の桃源台駅に進みます。
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桃源台駅が大きく見えてきました。約16分間のロープウェイの旅でした。


赤色が箱根登山鉄道(小田原~強羅)で橙色がケーブルカー(強羅~早雲山)で水色がロープウェイ(早雲山~大涌谷~姥子~桃源台)です。
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昨晩は自炊夕食 [料理]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大事情があり、急に9月26日から10月4日までの予定で家内が実家に帰省いたしました。家内の帰省中の前半は、作り置きのカレーがあったので特に料理はすることがなく過ごしていましたが、カレーが亡くなった後に冷蔵庫を見ると沢山の食材が手つかずのままになっていたので2日前から、その食材を使って夕食を作り始めました。残っていた食材は野菜類で言えばキュウリが8本、ニンジンが8本、ミョウガが多数、ナスが5本、ブロッコリーの芽が1パック、シシトウが1パック、ブロッコリが1本です。そこで昨晩(2013年10月2日)に作ったのが上の写真の料理です。作ったのはマグロのステーキとブロッコリーの芽のサラダと焼きナスとシシトウ焼きです。キュウリとミョウガの漬物も作りました。キュウリと茗荷を千切りにしてコブ茶の粉を振り掛けて袋で揉んだものです。
これで残っている野菜はニンジン8本、ブロッコリー1本とキュウリが1本です。ニンジンは日持ちがすると思うので置いておくとして、今日は残ったブロッコリーとキュウリをシンプルに食す予定です。

分厚いマグロが3人前程度あったのでステーキにいたしました。これが、この日のメインディッシュです。実は前日(2013年10月1日)も、簡単なのでマグロのステーキにいたしました。マグロのステーキにメインデッシュとして桜貝の想い出さんが記事で紹介されていた「ベビーホタテの塩胡椒チーズ蒸し」を作ってみました。
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分厚いマグロで食べごたえがありました。先日、テレビで紹介されていた、低温から弱火で焼くテクニックをつかわさせていただきました。


こちらがブロッコリーの芽のサラダでした。普通は何かに混ぜるのだと思いますが、そのまま食べても意外と美味しかったです。ドレッシングが良のかもしれません。
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焼きナスです。 今回の料理の中で一番手が込んでいたかもしれません。それだけ簡単な料理ばかりでした。
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焼きシシトウガラシです。生姜醤油でいただきました。かなり辛味の残ったシシトウガラシでした。
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こちらが前日(2013年10月1日)のメインデッシュのベビーホタテの塩胡椒チーズ蒸しとベビーホタテの刺身とマグロのステーキです。この日は少し薄めのマグロで分厚いマグロは最後にとっておきました。
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こちらがチーズと混ぜ合わせた「ベビーホタテの塩胡椒チーズ蒸し」です。黒こしょうが効いて美味しかったです。桜貝の思い出さん、ありがとうございます。チェダーチーズがなかったのでプロセスチーズを使いました。
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世界遺産 首里城(すいぐすく) [沖縄]

が表示された写真はクリックすると拡大します。

この日は那覇空港からレンタカー店に行き、車を借りて先ずは腹ごしらえに沖縄そばを食べた後、すぐに首里城に行きました。
近くに着くと沢山の私設駐車場がありましたが、今の時期は、すいていると思い真っ直ぐ進んで首里杜館(首里城公園レストセンター)地下の県営駐車場に入りました。
これは首里城の城壁です。この首里城は2000年に世界遺産に登録されました。正確には「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」の中の一部として世界遺産になりました。琉球王国に関連する遺跡が世界遺産に登録されたので沖縄本島の広い範囲に世界遺産が点在しています。
その代表格が首里城と言えます。城を沖縄ではグスクと読みます。首里城は沖縄でも一般的に「しゅりじょう」と言われていますが、沖縄読みでは「すいぐすく」になります。他の城の遺跡はグスクと呼ばれるものがほとんどでした。

首里城を紹介いたします。県営駐車場から首里城に向かう道の最初にあるのが守礼門です。守礼門は城外にある門の一つですが、この門が首里城への事実上の入口になっているようです。
創建年代の確定はできていないが、琉球王国第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)の時に建てられていることは分かっている。門は四本の柱で支えられ、扁額が掲げられている。これは三間牌楼形式と呼ばれ、中国でよく見られる形状の建物です。「守礼之邦」と書かれているますが、これは「琉球は礼節を重んじる国である」の意味であるといわれています。
守礼門が二千円紙幣のデザインに採用されていることは意外と知られていません。手に取る機会があれば是非とも見てみてください。
守礼門(しゅれいもん or しゅれいのもん)は、そこに掲げられた扁額の「守禮之邦」からきている俗称で、本来は「上の綾門(うぃーぬあいじょう)」という。
沖縄戦で焼失したが、昭和33年(1958年)に再建されました。再建されたものとしては最初のもので、他はかなり後になってから再建されたために、昔に首里城を訪れた人は建造物としては城壁以外では守礼門だけしか記憶にない人もいるかも知れません。
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戦前の守礼門の写真をネット で探してみました。随分と今の雰囲気とは違います。
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これは瑞泉門(ずいせんもん)です。門の近くにある龍樋に因んで付けられたといわれており、瑞泉には立派なめでたい泉という意味があると言われています。


瑞泉門をくぐり城に向かって進むと漏刻門(ろうこくもん)があります。瑞泉門と似た門です。漏刻というのは水時計のことで、この門の櫓に水時計が設置されていたことからこの名が付いたといわれています。15世紀の創建であり、老朽化のため昭和初期に撤去されていたが、平成4年(1992年)に復元されたようである。国王に敬意を表すため、高官でもこの場所で駕籠を下りたことから、「かご居せ御門(かごいせうじょう)」とも呼ばれていいます。


ここには3つの門が写っています。
一番奥に見えるのが歓会門(かんかいもん)です。歓会門は首里城の城郭内に入る正門で、尚真王時代(1477~1526年)に創建されたものといわれ、太平洋戦争で破壊されたが、昭和49年(1974年)に復元されそうです。アーチ式の門の上には木造の櫓が付けられている。門の幅は3m程度であり正門とされているわりには狭いような感じがするが、防御のためだと思います。
中央寄りの右側に見えるのが久慶門(きゅうけいもん)で首里城北側の通用門です。
左端に写っている門が先ほど紹介した瑞泉門です。
歓会門からの通路の両脇に鮮やかな花が植えられていました。なんとなく違和感がありましたが、琉球王朝時代は南国ならではの鮮やかな花が沢山植えられていたと思うと納得でした。


先に進むと首里城の建物群が姿を現します。


建物群の最初にあるのが広福門(こうふくもん)です。ここから先の建造物は石ではなく木で出来ていました。広福門はこれまでくぐってきた門とはかなり趣を異にしています。広福というのは福を行き渡らせるという意味であるといわれており、て右側が士族の財産をめぐる争いを調停する大与座、左側が神社仏閣を管理する寺社座がおかれていたといわれています。創建年代は不明とされ、明治末期には撤去されたようであるが、平成4年(1992年)に復元されたそうです。


広福門の次の門です。正殿のある御庭(うなー)に入る最後の門である奉神門(ほうしんもん)です。門に向かって左側は薬、茶、タバコなどを扱った納殿、右側は城内の儀式などに使われた君誇という部屋になっていたそうです。
三つの入口の内、中央は国王や賓客など身分の高い人の専用の通路で一般の役人は左右の門から出入りしていたといわれています。


これが首里城の正殿(せいでん)です。
もちろん復元(1992年)されたものですが、残念なことに戦前までは1712年に再建された建物が存在しており、それが沖縄戦で完全に消失 したそうです。正殿は何度か焼失しています。記録に残っているのは1709年に焼失し1712年に再建、その前は1660年に焼失し1672年再建、その前は1453年に全焼したとの記録が残っていますが、最初の創建は十四世紀末と思われていますが年代は不明だそうです。
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戦前の建物の写真をネットから拝借いたしました。
1944年(昭和19年)10月10日の那覇市を襲った米軍の大空襲でも、首里の町は災禍を免れ、戦雲急を告げる1945年の始めでも文化遺産のある首里は安泰でしたが日本陸軍の精鋭第32軍が首里に司令部を置き、地上戦の準備を始め、首里城の地下に総延長千数百メートルにも及ぶ壕を掘り、ここを防衛ラインとして、1945年4月1日に本島中部西海岸に上陸した米軍を、迎え撃ったことにより、首里城をはじめ麓の玉御陵、円覚寺、弁財天堂、御茶屋御殿、識名苑、末吉宮、龍潭など史跡・文化遺産がことごとく消滅し、一木一草まで城下町のすべてが壊滅してしまったそうです。
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壊滅して47年後にあたる平成4年(1992年)に正殿の廻りの建物が復元されました。
広いカラフルな広場は御庭(うなー)で、その正面奥に正殿があります。
御庭は東西約40m、南北約44mの広場でカラフルな模様は赤と白の敷き瓦が敷きつめられたものだそうです。ここでは種々な式典の会場に使われていたといわれている。縞模様の敷き瓦は儀式の際、役人が位の順に並ぶ目印の役割をはたしていたとも言われています。オリジナルの建物は琉球王国最大の三階建ての木造建築物でした。
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復元に際し、正殿の遺構を保護するため約70cmの盛り土をして現存の正殿を建てたそうで正殿の床の一部がガラス張りになっており遺跡が見えるようになっていました。


正殿の一階部分です。一階は下庫理(しちゃぐい)とよばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行なう場でした。写真は国王の座る場所である御差床(うさすか)と呼ばれているころです。御差床の両脇には金龍と五色の雲が描かれた朱柱がありました。御差床の後障子を開けると二階に通じる階段があります。国王が一階の御差床にあらわれる際に使用した専用階段のある間のことを「おちょくい」と呼びます。


ここは正殿の二階です。二階は大庫理(うふぐい)と呼ばれ、王家の行催事が行われました。中央には国王が座る場所である御差床があり、その後方には「西のみこちゃ」「おせんみこちゃ」と呼ばれる間があります。「おせんみこちゃ」は国王と女官が毎朝、国家の安泰や子孫繁栄を祈願した場であると言われています。
二階の御差床で黄金の装飾が施された椅子、御轎椅(うちゅーい)が置かれていました。
ここには中国の皇帝から贈られた扁額がいくつも架かっていたといわれています。現在、架かっている「中山世土」は古い記録をもとに復元した扁額だそうです。
三階は通気のために設けられた屋根裏部屋だそうです。
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正殿に向かって左側には北殿(ほくでん)があります。ここは王府の中央行政庁として、日常は大勢の官人が出入りして重要案件の審議など政務の中枢として機能していたと共に、中国から皇帝の使者が訪れたときの接待所としても使われていたといわれています。
首里城の中で最も活気の溢れる館であったようです。ちなみにペリー提督が首里城を訪れた時も、この北殿で歓迎の宴が催されました。
この写真でカラフルな広場の御庭(うなー)の広さが実感してもらえると思います。


正殿に向かって右側に南殿(なんでん)と番所がありました。こちらの建物は、塗装はなく白木のままで、なんとなく和風色が強い感じでした。右側が番所で左側が南殿です。南殿は主に日本的な儀式や薩摩藩の役人の接待などに用いられ、番所は登城してきた人々の受付や国王への取り次ぎを行っていた場所といわれています。和風の南殿で薩摩藩の接待で中国風の北殿で中国の使者の接待とは琉球王朝の人たちの知恵を垣間見た気になってしまいました。


南殿の奥は、さすが和風作り徹していると感じました。ここには書院と鎖之間(すさのま)があり書院は国王が日常の政務を行ったそうです。正殿の真赤な中ではやはり疲れると思います。鎖之間は王子などの控所であり諸役の人たちとの懇談の場所でもあったようです。ここには日本庭園も広がっていました。これは鎖之間から書院の方を撮った写真です。


この部屋は鎖之間で、白木がきれいな純和風の部屋でした。


右掖門(うえきもん)が見えます。かつては、国王の親族や女官の生活の場であった本殿裏側のエリアへ通じる門として機能していたといわれています。首里城にいくつかある裏門の一つです。この門は15世紀頃の創建といわれており、他の建築物と同様、太平洋戦争で破壊されてしまったが、発掘調査で遺構が確認され、この遺構の上に新たに石を積んで平成12年(2000年)に復元されました。見学ルートでは御庭からの出口になっています。


すでに紹介した久慶門(きゅうけいもん)の外側です。歓会門が正門であったのに対し、久慶門は首里城北側の通用門で、主に女性が使用していたといわれている。城郭内見学順路では出口になっています。現存の門は昭和58年(1983年)に復元されたものだそうです。


琉球の城砦のコーナーは独特のカーブーになっています。このカーブが本土の城の石垣と違うところです。中国とも違う感じです。


広福門の内側の下之御庭(しちやぬうなー)と呼ばれる広場に花人形が置かれていました。本土の菊人形のようなものなのでしょうか。日本だけれど、なんとなく異国を感じさせてくれました。


パンフレットから全景写真を拝借いたしました。写真をクリックすると拡大するので、建物の位置が判ると思います。守礼門はこの写真外の左側にあります。
正殿の奥側(写真の右側)は今でも復元工事が行われていました。完成予想図を見たい方はこちら→ポチッ
ポチッをクリックして出てきた建物で緑地に白抜き文字が復元中の建物です。復元中の建物を紹介すると
  世誇殿 (よほこりでん)
  黄金御殿・寄満 (くがにうどぅん・ゆいんち)
  二階堂御殿 (にーけーうどぅん)
  白銀門 (はくぎんもん)
  寝廟殿 (しんびょうでん)
  美福門 (びふくもん)
  東のアザリナ (あがりのアザリナ)
  継世門 (けいせいもん)
                           です。
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奉神門(ほうしんもん)の内側にある御庭、正殿、南殿、北殿、書院、鎖之間は有料で広福門をくぐってから、その右側で入場券を購入します。門などの他の地域は無料です。
 大人    800円 (団体 640円)
 高校生   600円 (団体 480円)
 小・中学生 300円 (団体 240円)
 6歳未満  無料           団体は20名以上   
カーナビに入力する電話番号は 098-886-2020です。
下記が世界遺産の「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」のです。9ケ所の内、6ケ所を訪問しました。
 首里城(すいぐすく)
 玉陵(たまうどぅん)
 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
 中城(なかぐすく)
 座喜味城(ざきみぐすく)
 今帰仁城(なきじんぐすく)
 識名園(しきなえん)
 勝連城(かつれんぐすく)
 斎場御嶽(せいふぁうたき

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天空の白鷺 姫路城 [兵庫県]

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2013年9月13日に兵庫県姫路市にある世界遺産の姫路城に行ってきました。
クリックすると拡大ただし、今は上の写真のような天守閣を見ることが出来ません。
2009年から45年ぶりの改修工事に入って天守閣が右の写真のように改修工事用の仮設建物(素屋根)で、すっぽりと覆われてしまったからです。
上の写真は2007年5月11日に撮ったものです。2006年からは姫路城には3回来ており今回が4回目でした。それ以前は中学校時代に、さかのぼります。私の人生では5回目になります。
全国で、1940年時点において江戸時代の天守閣は20ほど存在していましたが、その後の焼失などで現在の現存天守は12天守です。それにしても姫路城の国宝8棟・重要文化財74棟は群を抜いています。
 現存12天守
   天守建造 城名          文化財
   1601年 姫路城  国宝8棟 重要文化財74棟 特別史跡 世界遺産
   1606年 彦根城  国宝2棟  重要文化財 5棟 特別史跡 
   1615年 松本城  国宝5棟          史跡
   1601年 犬山城  国宝1棟
   1852年 松山城       重要文化財21棟 史跡
   1747年 高知城       重要文化財15棟 史跡
   1810年 弘前城       重要文化財 9棟
   1681年 備中松山城     重要文化財 3棟 史跡
   1660年 丸亀城       重要文化財 3棟 史跡
   1607年 松江城       重要文化財 1棟 史跡
   1666年 宇和島城      重要文化財 1棟 史跡
    不明  丸岡城       重要文化財 1棟
 焼失 8天守(1940年以降)
   戦争 : 水戸城 大垣城 名古屋城 和歌山城 岡山城 福山城 広島城
        広島城は原爆により、他は空襲により、すべて1945年に焼失
   失火 : 松前城(1949年)

太平洋戦争で日本中の多くの天守閣が失われましたが、姫路城も紙一重で焼失を免れた幸運の城でもありました。特に大天守に直撃した焼夷弾が不発だったことは奇跡に近い幸運だったのかもしれません。枠内にWikipediaの内容を転記しました。枠内の写真は天守閣を隠すため擬装網がかけられた姫路城です。
太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。
クリックすると拡大しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された。
かつて、姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったと言われていたこともあるが、獨協大学の四宮満の研究によって否定されている。城内にも実際に着弾したものの、運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったと考えられる。
当時のB-29の機長だったアーサー・トームズは戦後50年に来日し姫路を訪れた際に「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった。レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と語っており、実際の空爆時刻が夜間だったこともあって上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がないと判断したため爆撃しなかったと回顧している。

今回、姫路城に見学に来た目的は素屋根(仮設建物)の最上階から同じ高さで天守閣の最上階の屋根を見ることでした。
その仮設建物の素屋根は2014年1月中旬から解体に入ることから、仮設建物(素屋根)内部から天守閣を見ることが出来るのは2014年1月15日で終わってしまうため、最後のチャンスと思い、兵庫県宝塚の実家に帰省していた機会に見に行きました。逆瀬川駅から阪急電車に乗り三ノ宮でJRの新快速に乗り換えて姫路を目指しました。
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姫路駅から正面に姫路城を見ることが出来ます。やはり天守閣はすっぽりと素屋根に覆われていました。
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姫路駅と姫路城の中間地点から見た景色です。素屋根には姫路城の実物大の絵が描かれていました。
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町の中にも昔の城壁跡が残されていました。現在の姫路城の敷地は結構広いのですが、昔はそれの数倍の広さがあったのでした。こちらが大通りから東側です。
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こちらが大通りの西側の城壁跡です。


この石碑に特別史跡・姫路城跡と書かれています。石碑の左面に1956年11月26年に特別史跡に指定されたことが書かれていました。


姫路城前まで来ました。
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桜門橋を渡ると姫路城の敷地に入ります。
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桜門橋前の堀です。敷地はこの水堀で囲まれていました。
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大手門です。江戸時代には桜門と桐二門と桐一門の3つの門で構成されており、石垣を組み合わせた二重枡形虎口となっていて、通り抜けるには180度の方向転換を強いられる構造になっていました。しかし、城としての役目を終えた後、それらは取り壊され、桜門の前の橋も無くなり濠は埋められました。今ある大手門は桐ニ門があった場所に1938年に再建され物です。現在の大手門を桜門と呼ぶこともあるようです。
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大手門脇の石垣の上からの桜門橋の方向の景色です。
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反対方向から見た桜門橋です。
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城の城壁から見た水堀です。
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横から見た大手門です。
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大手門をくぐると三の丸広場が広がります。目の前に天守閣を覆う素屋根が大きく見えてきました。右側に伸びる工事用の鉄骨橋が印象的でした。
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Google航空写真で姫路城を紹介します。2013年9月30日時点では天守閣を覆う素屋根が航空写真に入っています。

ここで仮設建物(素屋根)に覆われる以前の天守閣の写真を紹介します。
2006年と2007年に突然に3回も行く機会を得ました。中学校の遠足以来でした。4月の桜の季節と5月の新緑の季節と12月のクリスマスイブの日です。この写真は冒頭の写真ですが5月の新緑の季節の遠くから見た姫路城です。
姫路城 は内曲輪(うちくるわ)以内の面積は230,000m2で外曲輪(そとくるわ)以内の面積は2,330,000m2です。内曲輪の面積だけで甲子園球場のグラウンド(14,700m2)の約15.9倍になるそうです。
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上の写真はクリックすると拡大しますがクリックするのが面倒な方のために拡大写真を掲載します。クリックするとさらに拡大します。
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こちらは4月の満開の桜の季節に行った時の写真です。これはラッキーでした。
姫路城はその400年の歴史の中で、戦にまみえることなく、近代の戦災に遭うこともなかった、たぐいまれな城です。その結果天守や櫓、門などの保存状態が非常によいうえ、ほかに類例のない遺構も多く、極めて貴重な文化遺産となっているそうです。
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横(西方向)からの天守閣の姿です。細っそりしています。
天守閣の高さは姫山(標高45.6m)+石垣が14.85m+建物が31.5mで合計海抜92mになります。
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横(東方向)からの天守閣の姿です。こちら方向は、一般的には、あまり人が来ない場所なので珍しい景観かもしれません。でも、こちら側からの景観も高さがあり、すばらしいです。
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姫路城の天守台は大天守閣と3つ小天守で構成されており、その華麗な姿が特徴です。
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お城の地図を見ると迷路のようになっていることがよく判ります。天守閣が見えてもなかなかたどり着かないことは実際に歩いてみるとわかります。ここから下の写真は要塞の要の門を中心に写真を掲載いたします。


正面は壮大な姿です。木造建築では美しさも兼ね備えた日本建築最大級のものと言えると思います。
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こちらが大天守閣を覆う素屋根の図です。上の写真の右側(東側)から見た図面になっています。見学スペースが最上階の8階と7階と1階に設けられておりエレベーターで上がることが出来ます。緑の部分が見学者が入れるエリアです。天守閣自体は木造の昔のままで急な階段で足の不自由な方や車椅子の方は登ることは出来ませんが、この素屋根がある時期だけは同じ高さに登ることが出来るのです。車椅子で入りたい方は、特別なルートがあると思うので問い合わせをしてみてください。
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素屋根「天空の白鷺」に入館するには事前予約の方法と当日に入る方法があります。私は予約のことは知らなかったので当日で入りました。両方ともに料金は同じたと思います。平日では特に予約の必要はないと思います。当日の場合は先ず姫路城の入口で400円を支払、素屋根建物(天空の白鷺)の入口で自動販売機で200円を支払います。予約の人は一括で600円を支払うのだと思います。
  大人 400円(姫路城)+200円(天空の白鷺)
  小人 200円(姫路城)+100円(天空の白鷺)


工事予定表です。一番下の欄に「素屋根内見学可 (H26 1/15まで)」と書かれている通り2014年1月15日で見学終了となります。クリックすると拡大するので見やすくなると思います。2011年3月26日(開館)から2014年1月15日(閉館)までの天空の白鷺(素屋根)への入場者数は次の通りでした。
     2011年3月26日~2011年3月31日   12,057人
     2011年4月01日~2012年3月31日  549,732人
     2012年4月01日~2013年3月31日  622,286人
     2013年4月01日~2014年1月15日  659,331人
                         合 計 1,843,406人
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入場口を過ぎると「葵の門」が目に飛び込んできます。
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こちらは「葵の門」の前から天守閣を見た景色です。
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「菱の門」は美しい大きな門でした。この門をくぐるとすぐに右手に天守が見えます。攻め込んできた敵はすぐに天守に向かって突き進もうとしますが、道は三国濠とよばれる水だまりで狭められ、攻め込んできた兵は流れを悪くさせられます。さらにその奥にある「るの門」は「菱の門」からは見えない角度の石垣に作られた小さな門で、一度に多数の人が通ることが出来ず、束ねられた敵兵を待ちかまえて撃ち取りやすくするという巧妙な戦術がそこには隠されているそうです。この写真は2007年に撮ったものです。


正面から見た「葵の門」です。
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まっすぐに天守閣を目指しました。途中にお菊の井戸がありました。
お菊という女性の亡霊が「いちま~い、にま~い」と皿を数える、1741年に大坂豊竹座で初演された浄瑠璃の怪談話『播州皿屋敷』に登場する「お菊井戸」で、姫路城の沢山の伝説の中の一つです。
詳しくは説明文が建てられているので読んでみてください。
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現在は車椅子の方の仮設のスロープが設けられていました。車椅子の方1名と付き添いの方2名がスロープを登られているところです。
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スロープは素屋根「天空の白鷺」までつづきます。まさに今が車椅子の方が姫路城に行けるチャンスなのです。
 ホームページの車椅子利用→ポチッ


工事用の搬入鉄骨の下をくぐります。


素屋根「天空の白鷺」の入口に入場券の自動販売機があり200円の入館券を買いました。


入口を入った一階のホールです。フラッシュなしの写真撮影はOKでした。工事の方に配慮して「フラッシュ撮影」「動画撮影」「描写行為」は禁止されています。あとタバコは禁煙でペットの入館と飲食も禁止されています。
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エレベーターで最上階まで登れます。


この写真のようにエレベーターからは修復中の1階から8階まで連続で天守閣を見ることが出来るのです。


エレベーターの中から1階から8階までの8枚の景色を下から順番に紹介いたします。最上階に着いたとたんに上からの光で明るくなります。





最上階は大きな部屋になっていました。置かれているのは予備あるいは取り外された昭和のシャチホコです。このシャチホコの裏が内部を見る大きな窓になっています。おそらく反射を防ぐために見る位置を暗くする配慮だと思います。
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大きな窓から修復中の天守閣を見ることが出来ました。
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姫路城の修復の様子をビデオで見ることも出来ました。
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この景色を見たかったのです。姫路城の天守閣の屋根を水平目線で見ることが出来ることが出来るのは修復中の今だけなのです。
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大天守閣をすっぽりと覆う素屋根の大きさに圧倒されました。
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次の改修工事はいつになる判りませんが、今回は徹底した改修であり、簡単には出来ない工事であることから現在生きている人にとって、2013年が見ることのできる最後のチャンスなのかもしれません。
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避雷工事が徹底されていることが判りました。
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瓦の端には紋が掘られており2種類が交互に配置されていました。
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これが平成の鯱瓦(しゃちがわら / しゃしほこがわら)です。すでに天守閣の上に乗っていました。クリックすると鯱瓦の避雷設備も徹底していることが判ってもらえると思います。
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クリックすると拡大こちらが江戸時代からの四代のシヤシホコです。今回(平成)の鯱瓦は昭和のものとそっくりです。昭和の鯱瓦はの高さは6尺1寸5分(約186cm)で総重量は約278kgです。おそらく今回(平成)の鯱瓦も近いと思います。鯱(しゃち)とは、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物です。それを模して屋根に使われる装飾・役瓦のことで、一字で鯱(しゃちほこ)あるいは鯱鉾とも書かれます。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では魚虎(しゃちほこ)と表記されているそうです。
右の看板は最上階に飾ってあった昭和の鯱瓦の横にあったものです。写真は4枚共にクリックすると拡大します。
    江戸時代                     明治時代
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    昭和時代                     平成時代
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最上階の景色です。これだけ広けた景色も今だけのものです。
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最上階(8階)から7階に降りる階段です。車椅子の方はエレベーターが利用できます。


こちらが7階から見た天守閣です。
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上の方を見た写真です。大きな一枚のガラスになっており全体を撮ることは出来ませんでした。
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ガラスに照明の光が反射しないように斜めに撮っています。
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7階からの景色です。ガラス窓も広いことからすばらしい景色でした。これは西方向です。
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こちらは北東方向の景色です。お城が広がっていました。
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こちらは南方向の景色です。正面が姫路駅です。
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7階の部屋です。こちらが7階の西方向です。広さが実感してもらえると思います。


こちらが7階の東方向です。エレベーターの降り口が奥にあります。


江戸時代の姫路城の図面です。左側は最近発見された1682年~1704年の間の詳細な図面です。現在と同じ範囲の図面です。右は城全体の図面で姫路城が現在の市街地まで広がった広大な城であったことが示されています。いずれの図面も北を上方向に回転させて掲載しているので展示(東が上 と 西が上)とは方向が違っています。
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7階からエレベーターで1階に降りてきました。石垣を見ることが出来ます。これは素屋根がなくなっても見ることが出来る場所です。ガラス越しに見れるのも今だけです。


1階の展示室です。


ここが天守閣に上がる入口でした。今は上がることが出来ません。
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今は入ることは出来ませんが天守閣の内部を2007年に撮った写真で紹介します。
姫路城のすごいところは昔のままの木で出来ているところです。日本でも鉄筋コンクリートのお城が多い中でこれだけの大きさの木造建築はすばらしいです。


天守閣の中です。中は結構広いことが判りました。


天守閣の一番上には神社が祭られていました。刑部神社と呼ばれています。


大天守閣は今は見ることは出来ませんが、大天守閣の西側には3つの小天守を見ることが出来ます。
その中で一番大きいのが乾小天守で天守台の西北隅(乾の方角)に位置して、外観3層・内部は地下1階・地上4階の造りになっています。
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見上げると小天守と言えども大きいことが判ります。
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防御のための工夫がされていました。
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ここから天守閣以外を紹介いたします。
姫路城は華麗な姿である一方で、堅固な要塞としても必見の価値があります。要塞としての機能性は、縄張(設計、構成、仕組み)のよしあしで決まります。姫路城の縄張は、抵抗(防御)線が3重の螺旋形になった複雑巧妙なもの。これは江戸城と姫路城にしか類例のない形式です。この門は「水三門」で天守閣の北西側の門です。
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2007年に撮った「水三門」の写真も紹介します。西小天守の下に位置する小さな門です。この先、天守閣への順路には水四門、水五門、水六門と続きます。


「水三門」から順番に紹介します。「水三門」の外側に位置するのが「水二門」で、これは「水二門」です。沢山の通路と門が入れ組んで迷路のようになっているため城内の地図がないと攻め込んでも迷ったと思います。
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反対側から見た「水二門」です。
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水二門の外側にあるのが水一門です。これが水一門の内側です。
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左側の門が「水一門」の外側です。いろんな方向に通路や門がありました。土色の壁は油壁です。山土に豆砂利を加え、もち米のとぎ汁とかお粥などで練り合わせた土を仮枠の中で叩き締めて築いたもので秀吉築城の名残の壁と言われています。油壁の右側を降りたところが「ほの門」です。
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「ほの門」を降りる前に「口ノ渡櫓」と呼ばれる場所があり、その建物の中には井戸などがありました。
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油壁の右側を降りたところの「ほの門」です。


外側から見た「ほの門」です。天守閣のすぐ近くなのに、この奥に沢山の門があり入り組んだ構造になっていることが判ってもらえると思います。
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「ほの門」の外側にあるのが「にの門」です。門には見えませんが、こちらが「にの門」です。
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建物の下が天上の低いトンネル状の通路になっているのです。建物の中でトンネルはでL字に曲がっているのです。


門の扉があります。狭い通路になって攻めるのを難しくしています。


その狭い通路です。
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狭い通路側から見た「にの門」です。「にの門」の外側にある「はの門」をくぐり、さらにまっすぐ天守の方へ延びる坂を上ると、今度は急に180度反対の方向へと進まされ、天守から徐々に遠ざかることになります。そして迷路のような道の先にある「にの門」は薄暗い空間で、敵兵が入ってくると二階から槍や鉄砲で攻撃される仕組みになっているそうです。


「にの門」の外側にあるのが「はの門」です。これが「はの門」です。
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奥に見えるのは「はの門」です。「はの門」へは天守にまっすぐ延びるような坂を上っていきます。この坂を上りそのまま駆け上がろうとする敵兵を、進入させにくくするために、「はの門」をくぐってすぐ前にある石段はわざと角をとり足を滑らせやすくしているそうです。
右に見える鉄砲狭間、矢狭間の数は、記録では3,125か所といわれています。現在残っているのは内曲輪のものだけですが、その数は997だそうです。
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2007年に撮った、ほぼ同じ場所からの写真です。やはり細い通路で敵を防ぐ構造だったのと思われます。「はの門」の門の外側にあるのが「ろの門」でその外側にあるのが「いの門」でその外側が「葵の門です。つまり今回、降りてきたルートを攻める場合は桜門→桐二門→桐一門→葵の門→いの門→ろの門→はの門→にの門→ほの門→水一門→水二門→水二門→水三門→水四門→水五門→水六門と通っていくことになります。


「葵の門」からは別のルートでも天守閣につながっています。別の門も紹介します。三層の門なので「ぬの門」だと思います。この門は重厚な鉄板がで作られ、門の上に二階建ての櫓がある姫路城内で唯一の三層の門です。この門は、上山里と呼ばれる広場へ続く門で、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓などと繋がり一連の建物になっています。


これは「への門」だとおもわれます。東小天守の下に位置する小さな門です。姫路城の門を分類すると次のようになります。
 棟門(むねもん)   ちの門、、水一門、水ニ門
 櫓門(やぐらもん)  菱の門、はの門、と一門、ぬの門 (ぬの門は二重櫓)
 埋門(うずめもん)  ほの門、水三門、水四門
 穴門(あなもん)   るの門
 高麗門(こうらいもん)いの門、ろの門、への門、とニ門、と四門、りの門 
(への門は潜戸付、他5門は脇門付)


白い土塀に囲まれたところが徳川家康の孫娘である千姫が住んでいた西の丸です。天守閣の内部には入れませんが、実は姫路城で屋内が見学できる場所があります。
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それは西の丸の周囲の回廊です。「ワの櫓」から入り。ワの櫓→渡櫓→ヲの櫓→ルの櫓→西の丸長局(百閒廊下)→ヌの櫓→化粧櫓と見ることが出来ます。
くりっくすると拡大姫路城と言えば千姫(1597-1666)です。千姫が住んだのが西の丸です。西の丸の中央に建っていた住居部分は残っていませんが、化粧櫓や長局(百間廊下)、土塀等13棟の重要文化財が現存しており、そのあたりも散策の場としていたのではないでしょうか。
千姫といえば、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の長女です。千姫は7歳で豊臣秀頼に嫁ぎました。しかし、徳川方と豊臣方は激しく対立しました。その結果、秀頼は大坂夏の陣で自害し、千姫は夫に死別するという運命をたどったのです。そのあと千姫は、姫路城主の本多忠政の長男である本多忠刻に嫁ぐことになります。その際、将軍家から10万石の化粧料をもらったそうです。
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西の丸の南側の回廊も修復工事中でした。
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城壁も美しいです。コーナーにあるのは「ワの櫓」です。
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修復工事前の2007年の西の丸の城壁の写真も紹介します。コーナーにあるのが「ワの櫓」です。


渡櫓のあたりからの内側の景色です。長い回廊が続いているのが判ります。
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この渡櫓の廊下からは城の内側と外側を見ることが出来ました。


こちらの廊下は内側には部屋が並んでいました。左側の部屋は、ここでは大きな部屋の方でした。


沢山の侍女たちが暮らした長局で、百間廊下の呼び名がついているだけのことはありました。


回廊の内側には、このような部屋が無数にありました。このような部屋に侍女たちが暮らしていたのだと思います。


一番端の化粧櫓には大きな部屋がありました。
化粧櫓とは現代風に言えば美容院なのでしょうか?
上で紹介した沢山の部屋には侍女たちが住んでいたと思われるので美容院のような場所が必要だったのかもしれません。これは勝手な想像です。
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百人一首を楽しんでいる姿も再現されていました。ここは「化粧櫓」の中です。徳川家康の孫の千姫が本多忠刻に嫁ぎ、姫路城にやってきたとき、当時幕府の方針で城の改築は禁止されていましたが、将軍の孫娘とあって特例として千姫の化粧櫓が建てられたそうです。
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2007年の時は貝あわせを楽しんでいる姿が再現されていました。この時は「化粧櫓」の中には入れませんでしたが、今は入ることが出来ます。赤い着物姿の女性は千姫をモデルにしているようです。
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「化粧櫓」の中からの景色です。昔も、このような景色が見えていたのだと思うとロマンを感じます。
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千姫が遊んだ羽子板も展示されていました。


クリックすると拡大右の写真の「ぬの門」を登ったところにある「リの一渡櫓」では改修に伴い姫路城の瓦などの展示も行われていました。上で紹介した江戸と明治と昭和の3つの鯱瓦も、こちらの「リの一渡櫓」で展示されていました。
「リの一渡櫓」は「お菊井戸」の近くでもあります。


ここは「リの一渡櫓」の展示室の内部です。葵の御紋の瓦です。


これは昔の道具です。


皆さん熱心に見られていました。


沢山の甲冑類の展示もありました。天守閣内に展示されていたものも入っていると思います。
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全体のイメージを感じていただくためにWikimediaから拝借した明治初期の姫路城の鳥瞰図を紹介いたします。日本の天守閣は下記のように分類されています。現存天守と復元天守以外は数が多く調べ切れていない可能性があるため天守数に関しては参考程度とお考えください。すばらしいことに、名古屋城は木造復元天守にするためにSRC造の天守の解体工事が始まりました。木造復元天守の完成は2022年12月だそうです。
 現存天守  12天守 姫路城 彦根城 松本城 犬山城 松山城 など 
 木造復元天守 5天守 白河小峰城 掛川城 白石城 大洲城 新発田城
 外観復元天守 9天守 名古屋城 大垣城 広島城 和歌山城 岡山城 など  
 復興天守  14天守 大阪城 岐阜城 岸和田城 小倉城 岩国城 など
 模擬天守  51天守 洲本城 郡上八幡城 富山城 大多喜城 今治城 など
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天守閣のある城は上で紹介しましたが、それ以外に日本には沢山の城があります。下記リストはWikimediaで調べた日本の城です。これで全てではありません。小さな城はさらに沢山あると思います。着色された文字は今までに、その城に関連した内容の記事を書いた城です。着色文字をクリックすると記事を表示します。

北海道
松前城 五稜郭 四稜郭 志苔館 弁天台場 シベチャリチャシアイヌ民族の古城 モシリヤチャシアイヌ民族の古城 根室半島チャシ跡群アイヌ民族の古城

青森県
蠣崎城 田名部城 奥瀬館 七戸城(柏葉城) 野辺地城(金鶏城) 横浜館 櫛引城 新井田城 根城 八戸城 相内館 上名久井城 剣吉城 平良ヶ崎城 三戸城(留ヶ崎城・糠部城) 田子館 聖寿寺館(本三戸城) 浅水城 中市館 法師岡館 伝法寺館 沢田館 蓬田城 高畑城 油川城 尻八館 高田城 浅瀬石城(汗石城) 横内城 黒石城 田舎館城 大光寺城 浪岡城 藤崎城 福島城 唐川城 青柳館 石川城(大仏ヶ鼻城) 弘前城 小栗山館 堀越城 和徳城 大浦城(八幡城・賀田城) 種里城 元城(深浦館)

岩手県 
軽米城 小軽米城 種市城 野田城 久慈城 石峠館 千徳城 田鎖城 払川館 大槌城 鱒沢館 鍋倉城(遠野城) 火渡館 横田城 金田一城(四戸城) 九戸城 姉帯城 一戸城 浄法寺城 一方井城 葛巻城 雫石城(滴石城) 平館城 盛岡城(不来方城) 志波城(斯波城) 厨川柵(古代城柵) 乙部館 郡山城(高水寺城、志和館(城)) 徳丹城(古代城柵) 長岡城 樋爪館 見前館(見舞館) 大迫城 寺林城 新堀城 岩崎城 江釣子城 鹿島館(鬼柳城) 黒沢尻柵(古代城柵) 二子城 十二丁目城 花巻城(鳥谷ヶ崎城) 十八ヶ城(本館 (陸奥国)) 世田米城 片寄城 鳥海柵 嫗戸柵 岩谷堂城 人首城 胆沢城 水沢城 岩谷堂城 金ヶ崎城 衣川館 上口内城 前沢城 薄衣城 豊田館 一関城 白鳥舘 平泉館 接待館 伽羅御所

宮城県
仙台城(青葉城) 白石城(益岡城) 岩出山城(岩手沢城) 若林城 船岡城 松森城 涌谷城 笹森城 松山城(千石城) 川崎城 不動堂城(鶴頭城) 吉岡城 丸森城(丸山城) 鶴楯城(下草城) 中新田城 東光寺城 利府城 岩切城 角田城 多賀城 寺池城(登米要害) 金山城 北目城 根添城(根添館) 高清水城 佐沼城 岩沼城(鵜ヶ崎城) 平沢城 小堤城 亘理城 坂元城(蓑首城) 宮沢城 今泉城 名生城 大窪城 古川城

秋田県
久保田城 秋田城(古代城柵) 払田柵(古代城柵) 大館城 岩崎城 角館城 本堂城 本荘城 亀田城 横手城(韮城) 金沢柵 大鳥井山遺跡 吉田城 稲庭城 十狐城 湊城 紫島城 檜山城 脇本城 毛馬内城 花輪城

山形県
山形城(霞城) 朝日山城 左沢城 大山城 亀ヶ崎城(東禅寺城) 城輪柵(城輪柵跡) 寒河江城 小国城 鮭延城 清水城 白鳥城 新庄城(沼田城、鵜沼城) 高畑城 楯岡城 舘山城 鶴ヶ岡城(大宝寺城) 上山城(月岡城) 天童城(舞鶴城) 中山城 成生城 成沢城(鳴沢城) 長谷堂城 畑谷城 東根城 真木山城 松山城(松嶺城) 丸岡城 溝延城 谷地城 山野辺城 米沢城 出羽柵

福島県
若松城(鶴ヶ城) 白河小峰城 神指城 磐城平城(龍ヶ城) 小高城 谷地小屋城(蓑首城、新地要害) 駒ヶ嶺城 中村城(馬陵城) 高倉城 大館城(飯野平城) 長沼城 三春城(舞鶴城) 須賀川城 棚倉城 福島城 宇津峯城 猪苗代城 桧原城 八丁目城 石母田城 新宮城 二本松城(霞ヶ城) 鎌田城 水久保城 三芦城 小浜城 小手森城 桑折西山城 梁川城 大森城 大鳥城 霊山城 懸田城 陣ヶ峯城 北田城 鴫山城(南山城) 久川城 搦目城(白川城) 守山城 中丸城 柏木城 宮森城

茨城県
水戸城 伊佐城 牛久城 太田城 小田城 笠間城 久下田城 栗橋城 古河公方館(鴻巣御所) 古河城 頃藤城 多気城 土浦城 豊田城 助川海防城 逆井城 馬坂城 高井城 下館城 上条城 木原城 月居城 東林寺城 野口城 真壁城 松岡城 結城城 依上城 今泉城 守谷城 馴馬城 龍ケ崎城

栃木県
宇都宮城 飛山城 多気山城 真岡城 岡本城 西明寺城 茂木城 籠谷城 八木岡城 生田目城 中村城 古山城 勝山城 鹿沼城 壬生城 小山城 鷲城 中久喜城 羽生田城 唐沢山城 佐野城 足利城 足利氏館 皆川城 川崎城 矢板城 玉生城 松ヶ嶺城 山田城 伊佐野城 喜連川城 烏山城(臥牛城) 大田原城 黒羽城 千本城 福原城 成田城 山根城

群馬県
高崎城 館林城(尾曳城) 岩櫃城 大胡城 小泉城 白井城 膳城 反町館 高津戸城 倉賀野城 根小屋城 国峰城 新田金山城 名胡桃城 沼田城 柄杓山城(桐生城) 平井城 前橋城(厩橋城) 松井田城 箕輪城 安中城 中野城 山名城

埼玉県
川越城 青鳥城 岩槻城 小倉城 柏原城 河越館 雉岡城 児玉城 菖蒲城 杉山城 高見城 天神山城 難波田城(南畑城) 花園城 本庄城 松山陣屋 毛呂城(山根城) 蕨城 深谷城 鉢形城 吾那蜆城(大築城) 大堀山城 忍城 騎西城(根古屋城) 北秋津城 寿能城 菅谷館(城) 高坂館 滝の城 仲山城 根古屋城(龍谷城) 花崎城 羽生城 松山城 源範頼館 石戸城 山口城(児泉城)

千葉県
館山城 山下城 高月城 三原城 金山城 岡本城
勝浦城 金山城 山田城 鶴ヶ城 大多喜城 根古屋城 佐貫城 造海城(百首城) 百首城(造海城) 飯野陣屋 大戸城 久留里城 千本城 真里谷城 久保田城 大網城 小西城 坂田城 田中城 古城 高田城 宮崎城 山中城 坂田城 津辺城 富田城 成東城 松尾城 森城 今泉城 千田城 根古屋城 丸山城 榎本城 高山城 一宮城 小林城 本納城 牛久城 高田城 根古屋城 引田城 村上城 佐倉城 本佐倉城 大椎城 小弓城 亥鼻城 土気城 馬加城 生実城 高品城 大草城 御茶屋御殿 金堀城 中野城 中山城 鷺沼城 実籾城 米本城 臼井城 小林城 飯野城 高岡城 長沼城 鷺山城 中野城 大崎城 大戸城 山崎城 白井城 長岡城 山崎城 牛尾城 今泉城 和田城 内山城 長岡城 横須賀城 吉田城 高根城 金杉城 米ケ崎城 夏見城 大野城 国府台城 国分城 深井城 関宿城 増尾城 松戸城 栗ケ沢城 根木内城 小金城 佐津間城 小竹城 井野城 下高野館 先崎城

東京都
江戸城(皇居) 赤塚城 奥沢城 小田野城 葛西城 片倉城 勝沼城 辛垣城 品川台場 渋谷城(金王丸城) 志村城(板橋城、篠田城) 八王子城 石神井城 浄福寺城 深大寺城 世田谷城 高月城 滝山城 戸倉城 練馬城 初沢城 平塚城 小野路城 成瀬城

神奈川県
小田原城 足柄城 進士ヶ城 鷹之巣城 岡崎城 住吉城 玉縄城 浦賀城 三崎城 津久井城 石垣山城 石垣山一夜城) 大庭城 河村城 衣笠城 深見城 淵野辺城 荻野山中陣屋
小机城 笹下城 榎下城 茅ヶ崎城 大塚・歳勝土遺跡 枡形城 小沢城

新潟県
春日山城 北条城 高田城 長岡城 勝山城(落水城) 渟足柵 沼垂城 磐舟柵 村上城(本庄城・舞鶴城) 鳥坂城 栖吉城 栃尾城(舞鶴城) 蔵王堂城 新潟城 木場城 蒲原津城 上杉館 根知城 猿毛城 下田城 畑野城(熊谷城) 上条城 新発田城 村松城 三条城 津川城(麒麟山城) 赤谷城 五十公野城 河原田城(獅子ヶ城) 箕冠城 本与板城 与板城(直江城、直江山城) 与板城(与板陣屋) 赤田城 新津城 田中城 鮫ヶ尾城 坂戸城 平林城 福島城 雁金城 安田城 (越後国刈羽郡) 安田城 (越後国蒲原郡) 天神山城 長峰城
羽茂城

富山県
富山城 阿尾城 安楽寺城 安田城 安養寺城 井口城 井波城 一乗寺城 猿倉城 鴨城 岩木城 願海寺城 宮崎城 弓庄城 魚津城 源氏ヶ峰城 古国府城 御峰城(土山御坊) 今石動城 今泉城 寺家新屋敷館 柴田屋館 守山城 宗守館 小出城 庄ノ城(壇城) 松倉城 上見城 城生城 高岡城 城端城 赤丸城 千代ヶ様城 浅井城 増山城 太田本郷城 大村城 大峪城 池田城 (越中国射水郡) 池田城 (越中国新川郡) 中村山城 長沢西城 長沢東城 天神山城 湯山城(森寺城) 道坪野城 日宮城(火宮城) 日方江城 白鳥城 飯久保城 富崎城 布市城 福光城 放生津城 名畑城 木舟城 野尻城 蓮沼城

石川県
金沢城(尾山御坊) 小松城 大聖寺城 松任城 鳥越城 二曲城 津幡城 高尾城 松根城 朝日山城 岩倉城 荒山城 日谷城 今江城 虚空蔵城 南郷城 檜谷城 柏野城 高松城 森城 多田城 舟岡城 竹橋城 朝日山城 堅田城 一瀬城 七尾城 小丸山城 末森城 穴水城 天堂城 崎山城 (能登国) 末吉城 松波城 正院川尻城 飯田城 甲山城 幾保比城 石動山城 棚木城 荒屋城 棚懸城 勝山城 荒山城 金丸城 柴峠砦 石動山城 三日城 新宮城 富来城 木尾嶽城

福井県
一乗谷城 福井城(北ノ庄城) 金ヶ崎城 敦賀城 丸岡城 杣山城 小丸城 大野城 勝山城 三国湊城
後瀬山城 小浜城 国吉城 高浜城 箱ヶ岳城

山梨県
躑躅ヶ崎館(武田氏館) 甲府城(舞鶴城・一条小山城・府中城) 新府城 白山城 能見城 勝沼氏館 谷村城(谷村館) 上野原城 岩殿山城 小山城 勝山城 (甲斐国都留郡) 勝山城 (甲斐国八代郡) 要害山城 積翠寺城) 若神子城 谷戸城 御坂城

長野県
松本城(深志城) 上田城 小諸城 林城 井川館(井川城) 桐原城 山家城 埴原城 村井城(小屋城) 平瀬城 小岩嶽城 青柳城 大峰城 麻績城 真田本城(松尾城) 塩田城 岡城 丸子城 長窪城 内山城 志賀城 海ノ口城 春日城 (信濃国伊那郡) 龍岡城 戸石城(砥石城) 尼巌城 井上城 葛山城 旭山城 横田城 横山城 栗田城 生仁城 霞城 室賀城(原畑城、笹洞城) 松代城(海津城) 高遠城 塩崎城 清滝城 髻山城 長沼城 吉窪城 葛尾城 屋代城 荒砥城 牧之島城 古山城 割ヶ嶽城 飯山城 高梨氏館 鴨ヶ嶽城 内池館(市河氏館) 上原城 桑原城(高戸屋城) 高島城 望月城 春日城 (信濃国佐久郡) 春山城 羽場城 福与城 箕輪城 飯田城 鈴岡城 松尾城 (信濃国伊那郡) 大島城 道本城 福島城(木曽福島城) 妻籠城 森城 矢筒城

岐阜県
岐阜城 (稲葉山城) 郡上八幡城 阿木城 伊木山城 一柳城(大洞城) 鵜沼城 猿啄城(猿ばみ城、勝山城) 下切館 加治田城 加納城 革手城 刈安城 関城 岩村城 顔戸城 久々城 久々利城 金山城 戸狩城 広恵寺城 高桑城 黒野城 今城 根本城 (美濃国) 妻木城 細野城 鷺山城 三井城 山口城 篠脇城 十七条城 小原城 小倉山城 小野城(迫間城) 小里城 松尾山城 大垣城 上茜部城 跡部城 川手城 川田城 曽根城 太平城 大桑城 大森城 竹ヶ鼻城 長山城 長森城(切通陣屋) 椎倉城 鶴ヶ城 東殿山城 藤橋城(杉原砦) 堂洞城 八神城 飯羽間城 苗木城 伏屋城 米田城 片山城 菩提山城 北方城 墨俣城 本郷城 本城山城 無動寺城 明知城(明智城) 明智城 (美濃国可児郡) 毛利山城 柳津城 揖斐城 和知城 鉈尾山城
帰雲城 向小島城 広瀬城 江間氏下館 高原諏訪城 高山城 桜洞城 山下城 小鷹利城 小島城 松倉城 神岡城 増島城 東町城 萩原諏訪城 萩町城 尾崎城 馬籠城 松倉城 田代城

静岡県
駿府城 江尻城 興国寺城 葛山城 深沢城 花沢城 大宮城(富士城) 久能城(久能山城) 興津城(横山城) 蒲原城 沼津城 三枚橋城 持船城 丸子城 田中城 長久保城
韮山城(龍城) 山中城 深根城 高谷城 鎌田城 下田城(鵜島城) 長浜城 熱海城 戸倉城
掛川城 浜松城 高天神城 二俣城 天方城 犬居城 高根城 (遠江国) 諏訪原城 井伊谷城 宇津山城 堀江城 久野城 馬伏塚城 横須賀城 横地城 小山城 相良城

愛知県
清洲城(清須城) 名古屋城 那古野城 勝幡城 古渡城 末森城 守山城 岩倉城 小牧山城 犬山城 黒田城 入尾城 岩崎城 鳴海城 沓掛城 上条城 小折城 大高城 緒川城 大草城(知多市) 大草城(小牧市) 大野城(常滑市) 大野城(現一宮市) 大野城(愛西市) 一宮城 小田井城 楽田城 下大留城 下奈良城 下之一色城 白山城 早尾東城 吉田城(柏井城) 西溝口城 光明寺城 今村城 (尾張国) 横山城 (尾張国) 大留城 苅安賀城 木ノ下城 高田城(河田城) 九之坪城 奥城 竜泉寺城
岡崎城 安祥城 刈谷城(亀城) 西尾城(西条城) 東条城 上ノ郷城 寺部城(寺部陣屋) 真弓山城(足助城) 山中城 牛久保城 二連木城 牧野城 吉田城(今橋城、豊橋城) 田原城 長篠城 野田城 田峰城 井田城 大給城 大津城 亀山城(作手城) 挙母城(七州城) 中島城 形原城 上条城 (三河国) 上菱野城 川口城 月ヶ谷城 五本松城 古宮城 深溝城

三重県
長島城 亀山城 上野城(伊勢上野城) 長野城(中根城) 桑名城 田丸城(玉丸城) 津城(安濃津城) 神戸城 松ヶ島城 松坂城 大河内城 霧山城 多芸城 五ヶ所城 白米城 高城 枳城 家城城 鳥羽城 波切城 上野城(伊賀上野城・白鳳城) 名張城 丸山城 (伊賀国) 福地氏城 千賀地氏城 赤木城 中村山城 (紀伊国) 鬼ヶ城 仲氏館 関山砦 山ノ神砦 三木城 (紀伊国) 長島城 (紀伊国)

滋賀県
彦根城 安土城 大津城 小谷城 坂本城 佐和山城 膳所城 長浜城 水口城(碧水城) 水口岡山城(水口古城) 横山城 望月城 鎌刃城 上平寺城 東野山城 山本山城 水茎岡山城 観音寺城 山崎山城 八幡山城 壺笠山城 宇佐山城 日野城 箕作城 清水山城 大溝城 三雲城 朽木谷城 荒神山城 河瀬城 肥田城 鯰江城 高宮城 寺村城 矢守城

京都府
二条城(二条御所) 勝竜寺城 聚楽城(聚楽第) 山科本願寺 伏見城(桃山城) 槇島城 嵐山城 鹿背山城 淀古城 淀城 船岡山城 山崎城 (山城国)(宝寺城、天王山城) 堂ノ庭城 将軍山城(瓜生山城、北白川城) 福知山城 亀山城(丹波国) 八木城 (丹波国) 神尾山城 園部城
建部山城 田辺城(舞鶴城) 宮津城 弓木城

大阪府
大坂城(錦城) 池田城 茨木城 三宅城 芥川山城 芥川城 高槻城 丸山城 (摂津国能勢郡) 野田城 福井城 (摂津国) 安威城 安威砦 榎並城 太田城 (摂津国) 江口城 堀城 柴島城 大塚城(茶臼山陣城) 大和田城 普門寺城 郡山城 (摂津国) 吹田城 原田城 地黄城(地黄陣屋) 石山本願寺 佐保来栖山砦 岸和田城 淡輪城 深井城 畠中城 雨山・土丸城 千石堀城 貝吹山城 積善寺城
若江城 高屋城 飯盛山城 交野城 枚方城 高安城 上赤坂城 下赤坂城 野田城 岡山城 田原城 野崎城 千早城 平石城

兵庫県
姫路城(白鷺城) 三木城(釜山城) 英賀城 明石城 置塩城 淡河城 加古川城 上月城 白旗城 御着城 龍野城 利神城 波賀城 枝吉城 赤穂城 神吉城 光明寺城 小谷城 (播磨国) 感状山城 大嶋城 丸山城 (播磨国) 山崎城 中道子山城 豊地城 善防山城 船上城 満久城 妙見山城
伊丹城(有岡城) 尼崎城 越水城 瓦林城 丸山城 (摂津国有馬郡) 富松城 滝山城 (摂津国) 花隈城 兵庫城 山下城 三田城(車瀬城) 茶臼山城 鷹尾城 上津城 新田城 松岡城 (摂津国) 下田中城 道場城 有子山城 出石城 竹田城 豊岡城 此隅山城 八木城 朝倉城 宵田城 宿南城 八上城 黒井城 篠山城 岩尾城 洲本城 養宜館

奈良県
高取城 多聞山城 柳生城 五条二見城 信貴山城 龍王山城 二上山城 (大和国) 山田城 (大和国) 上庄北城 郡山城 (大和国) 宇陀松山城 筒井城 小泉城 (大和国) 片岡城 辰市城 福住中定城 椿井城 十市城 宿院城 森屋城

鳥取県
鳥取城(久松城) 丸山城 (因幡国高草郡) 丸山城 (因幡国邑美郡) 岩崎城 雁金山城 桐山城 景石城 山崎城 市場城 私部城 鹿野城 蛇山城 若桜鬼ヶ城 新山城 大崎城 天神山城 道竹城 二上山城 布勢天神山城 防己尾城 妙見山城 鵯尾城 宇部山五本松城 雨滝七曲城 奥崎丸尾城 奥谷城 岡崎神社所在古城 河原高座城 梶原城 釜谷城 観音山城 亀後城 狗尸那城 栗谷城 午房山城 向山城 荒神山城 香音寺城 高平城 今衣山城 坂谷城 三津ヶ崎本陣山城 山王社裏山城 山根式田城 山本城 七曲城 秋里城 勝山城 小畑高尾城 小平田蔵谷城 松茸尾城 城山城 杉が尾城 生山城 青谷大平城 赤子田城 善田すけたい城 早牛城 早牛矢島城 大滝谷城 大平田城 猪子山城 鳥ヶ城 釣山城 唐櫃城 藤山城 徳吉城 鍋山城 南中尾城 楠根山根城城 楠城 婆ヶ城城 伏野城 法楽寺城 北村城 北尾山城 鳴滝不動山城 養郷小丸山城 淀山城 露谷城 河原城 米子城(久米城、湊山城) 羽衣石城 岩倉城 尾高城 江尾城 鏡山城 八橋城 堤城 法勝寺城 石井垣城 田内城 打吹城 船上山城 淀江城 小浪城 不動ガ嶽城 河口城 俣野の土居城 手間要害

島根県
月山富田城 松江城(千鳥城) 牛尾城(三笠山城) 布部城 熊野城 白鹿城 大西城(高麻城) 三沢城 三刀屋城 高瀬城 真木城(夕景城、馬木城) 神西城 赤穴城(瀬戸山城、衣掛城) 十神山城 鳶ヶ巣城 平田城(手崎城、薬師寺城) 満願寺城 佐世城(金剛山城) 玉造要害山城(湯ノ城) 檜ヶ山城 荒隈城 新山城 津和野城 七尾城(益田城) 浜田城 三隅城 周布城 本明城(音明城) 福光城 山吹城 温湯城 藤掛城 青杉城 鵜の丸城 三宅御土居

岡山県
岡山城(烏城) 乙子城 奈良部城 砥石城 三石城 富山城 茶臼山城 天神山城 亀山城(沼城) 金川城 虎倉城 飯盛山城 (備前国) 舟山城 明善寺城 中島城 保木城 常山城
矢筈城 大別当城 竹山城 三星城 美和山城 稲荷山城 津山城(鶴山城) 岩屋城 高田城 麓城 勝山城 神楽尾城 嵯峨山城 高野城 荒神山城 備中松山城(高梁城) 高松城 鬼ノ城 鬼身城 幸山城 猿掛城 鶴首城 成羽城(成羽陣屋) 笠岡城 楪城 下津井城 福山城 庭瀬城 撫川城 鴨山城 竜王山城 青佐山城 佐井田城 茨城

広島県
広島城(鯉城) 亀居城 吉川元春館 吉田郡山城 宮尾城 鏡山城 桂城 己斐城 五龍城 御薗宇城 高山城 佐東銀山城(銀山城) 桜尾城 三入高松城 小倉山城 新宮城 新高山城 仁保城 水晶城 曽場ヶ城 草津城 多治比猿掛城 鳥籠山城 槌山城 頭崎城 日野山城 白山城 八木城 米山城 木村城 矢野城(保木城) 福山城(葦陽城・久松城) 稲村山城 茨城 旗返山城 亀山城 九鬼城 五品嶽城 甲山城 桜山城 三原城(浮城) 蔀山城 常城 神辺城 相方城 南天山城 比叡尾山城 比熊山城 鷲尾山城 鞆城

山口県
山口城(山口藩庁) 大内氏館 高嶺城(鴻の峰城) 若山城 徳山城 鞍掛山城 蓮華山城 右田ヶ岳城 岩国城 須々万沼城 萩城(指月城) 勝山城(且山城) 霜降城 櫛崎城(串崎城) 青山城 長門城 矢田城 深川城 青景城 荒滝城 賀年城(賀年勝山城) 亀山城

徳島県
徳島城 一宮城 夷山城 撫養城 土佐泊城 立江城 牛岐城 川島城 上桜城 仁宇城 岩倉城 重清城 秋月城 日和佐城 海部城 勝瑞城 脇城 大西城 白地城 田尾城 西条城 木津城 板西城

香川県
高松城(玉藻城) 丸亀城(亀山城、蓬莱城) 天霧城(雨霧城) 引田城 勝賀城 本台山城 雨滝城 虎丸城 藤尾城 羽床城 笠島城 詫間城 星ヶ城 屋島城 十河城 香西城 昼寝城 作山城 前田城

愛媛県
伊予松山城 今治城 湯築城 高穴城 荏原城 甘崎城 霊仙山城 犬尾城 一之森城 萩森城 高峠城 象ヶ森城 米津城 仏殿城 甲之森城 黒瀬城 龍王城 恵良城 港山城 土居城 国分山城 告森城 吉岡山城 岡本城 金子山城 常磐城 宇和島城 大洲城 横山城 花見山城 縦淵城 忽那山城 能島城 来島城 石城 法華津本城 大森城 岡崎城 高尾城 世田山城 鹿嶋城 三滝城 松前城 河後森城 土山城 大浜城 鷺ノ森城 海辺城 畠山城 松葉城 曽根城

高知県
岡豊城 高知城 浦戸城 安芸城 本山城 朝倉城 吉良城 蓮池城 姫野々城 中村城 久礼城 崎浜城 宿毛城 柏井城 森城 大津城

福岡県
福岡城(舞鶴城) 小倉城 久留米城 名島城 岩屋城 水城 蒲池城 黒崎城 立花山城 蔦ヶ嶽城 香春岳城 岩石城 秋月城 益富城 古処山城 城井谷城 柳瀬城 稲光城 南原城 覗山城 宝山城 蓑島城 旭城 大宰府(大宰府政庁跡) 障子ヶ岳城 長岩城 大野城 柳川城(舞鶴城) 榎津城 酒見城 貫城 門司城 三角山城 寒竹城 山隈城 怡土城(高祖城) 長野城 (豊前国) 発心城 上伊良原城 山下城 大坂山城 小倉山城 繋城 舞岳城 岳山城 白山城 豊前松山城 花尾城 高野山城 八木山城 馬ヶ岳城 若松城

佐賀県
勢福寺城 佐賀城 姉川城 臥牛城 勝尾城 三瀬城 鬼ヶ城 千葉城 梶峰城 蓮池城 名護屋城 唐津城 岸岳城 獅子城 伊万里城 唐船城 佐嘉飯盛城 武雄城 蟻尾城 吉野ヶ里

長崎県
島原城 原城 桟原城 玖島城(大村城) 厳原城 金田城 鶴亀城 日野江城(日之江城) 大垣城 深江城 金山城 多比良城 神代城 鍋島陣屋 守山城 山田城 釜蓋城 里城 陣笠城 田平御館 河原城 小峰城 三城 深堀陣屋 平戸城 清水山城 金石城(厳原城・府中城) 三城城 勝本城 石田城 勘次ヶ城 高津城 風早城 樋詰城 生池城 船匿城 古舘 郡城 鶴翔城 覩城 鉢形城 亀尾城 魚見岳台場 福江城 富江陣屋 勘次ヶ城 出島(築島)

熊本県
熊本城(銀杏城) 宇土城 田中城 岩尾城 鞠智城 菊池城 鍋城 佐敷城 山鹿城 木山城 山田城 人吉城 八代城(古麓城) 八代城(麦島城) 八代城(松江城) 水俣城 本渡城 富岡城 竹迫城 南関城 御船城 堅志田城

大分県
岡城 中津城(扇城) 臼杵城(丹生島城) 大友館 上原館 杵築城 佐伯城 高崎山城 栂牟礼城 角牟礼城 玖珠城 府内城(大分城) 長岩城 永山城(丸山城) 日田城(大蔵城) 日出城(暘谷城) 日隈城 真玉城 光岡城 龍王城 高田城

宮崎県
飫肥城 延岡城 (縣城) 高鍋城 (舞鶴城) 松尾城 西階城 井上城 浦城城 綾城 高城(新納院) 高城(三俣院)(日和城) 高城(穆佐院)(穆佐城) 清武城 佐土原城 曽井城 天ヶ城 山田城 梶山城 勝岡城 樺山城 宮崎城 野尻城 紙屋城 戸崎城 飯野城(亀城) 加久藤城 小林城(三ツ山城) 三ツ山城(吉富城) 野首城 岩牟礼城(岩瀬城) 内木場城(木葉城) 須木城(鶴丸城) 高原城(松ヶ城) 都之城 都於郡城 安永城 野々美谷城 志和池城 櫛間城

鹿児島県
清水城 内城 鹿児島城(鶴丸城) 伊作城(亀丸城) 加世田城 平佐城 一宇治城 串木野城 清色城 虎居城 堂崎城 出水城 大口城 馬越城 知覧城 頴娃城(獅子城)
加治木城 高山城(肝属城) 国分城(舞鶴城) 清水城(舞鶴城) 志布志城 見城 佐多城 蒲生城 岩剣城 横川城 廻城 平房城 富隈城

沖縄県
首里城 今帰仁城 勝連城 浦添城 玉城城 座喜味城 伊波城 伊祖城 具志川城 下田原城 中城 名護城 知念城 垣花城 糸数城 伊是名城 伊敷索城 高腰城 安慶名城 山田城

五稜郭と四稜郭 [函館]


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五稜郭と言えば箱館戦争(函館戦争)、箱館戦争と言えば土方歳三を思い浮かべる人は少なくないと思います。
五稜郭の全体を見るためには五稜郭タワーが一番です。エレベーターで昇ると約100mの高さから星型の五稜郭が一望できます。残念ながら大きすぎて全体を撮ることは出来ませんでした。
五稜郭の真中の温室のような建物の中で2006年7月13日から2010年度の工事で昔の建物を復元したそうです。この写真は2009年なので今は完成した建物を見ることが出来とおもいます。ここも紅葉がきれいでした。
四稜郭と言うのが五稜郭の北北東約3.5㎞の丘陵にあるそうです。上の写真の丘のあたりにあると思います。

星のイメージを判ってもらうために右側も撮ってみました。
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左側も紹介いたします。
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五稜郭タワー内部です。


場内からの五稜郭タワーです。
五稜郭タワーは、民間の観光施設で、1964年(昭和39年)12月に五稜郭築城100年を記念して高さ60mの旧タワーが開業し、写真の新タワーは旧タワーの隣にあった料亭「稜雲亭」跡地に2004年11月に着工して2006年3月に竣工、同年4月1日に開業、同年12月1日にグランドオープンしました。五稜郭にちなんで断面形状を塔は星形、展望台は五角形とし、高さは107m(避雷針高)だそうです。


函館の町から見た五稜郭タワーです。展望台は高さ90m(展望2階)と86m(展望1階)の2層からなり、約500人が収容可能だそうです。
1階には土産物売店があり2階には直営コーヒーショップ「Cafe107」があります。1階のみやげ物店は充実しており、早めに土産物をゲットして函館観光をしたい人にはおすすめです。我々もじゃが豚などのお土産をここで買いました。タクシーを契約して半日または一日、函館市内を廻る場合は、チケット売り場の人に運転手さんが声を掛けてもらうとチケットを割引してもらえるので、詳しくは運転手さんに聞いてみてください。


五稜郭場内を紹介いたします。


幾何学的な城壁も近くで見ると全体は判らないですね。見た目は器楽的できれいだけれど大砲が主火器のなりつつある時代では無防備に近いものであったようです。防御壁としては土塁を築き、砲弾のショックを吸収するのが稜堡式の築城様式の特徴であるが、五稜郭の場合は土塁を築こうにも北海道の寒冷な気候に適合せず、冬の間に凍った土塁が、春に温かくなると崩壊するという困難に直面した。そのためわざわざ石垣を築き、その上に土を盛るという手間をかけていたそうです。一番の問題は、既にヨーロッパでもこのような稜堡式の築城様式は、いささか旧式化していたことでありました。堡塁を重ねるのは小銃を防御兵器として用いるための方式であり、当時のヨーロッパでは大砲を掩体壕に据えての防御へと移行しつつあった時期でした。ちなみに同時期に東京湾に築かれた台場は、大砲を用いる要塞施設でした。


遠距離や海からの大砲の標的にならないように低く造られているのが本来の姿でしたが高い建物を建ててしまったために官軍の大砲の目標になり沢山の弾が着弾してしまったそうです。当時の建物の写真→ポチッ
飛行機が出来て初めて幾何学的な城壁のすばらしさがわかったでしょうね。今はタワーがあるので気楽に感じることが出来ます。
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城壁の内側は土塁になっていました。思っていたよりも広かったです。
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紅葉もすばらしかったです。城壁沿いは桜の木が並んでおり春の桜の名所でもあります。
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五稜郭の設計者はあまり知られていませんが、この碑によって武田斐三郎氏の設計および監督によって造られた城であることを知りました。当時の正式名称は亀田役所土塁(柳野城とも)で、五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に現在の北海道函館市に建造された城郭および当時日本で建造された星形の城郭の通称で、長野県佐久市の龍岡城(未完成)も五稜郭として知られていますが、一般的に「五稜郭」といえば函館のそれを指しており、国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されて名実共にここが五稜郭になったようです。
  1857年(安政4年) 工事開始
  1864年(元治元年) 竣功 業務開始
  1866年(慶応2年) 完成 


拝借したGoogleの衛星写真です。 左下にあるのが五稜郭タワーです。


衛星写真で四稜郭を探してみました。四稜郭は1869年の箱館戦争時に急造された洋式築城法に基づく堡塁(ほうるい)です。五稜郭および鎮守府である東照宮を防御するため築造されたものだそうです。


五稜郭と四稜郭の位置が判ってもらえると思います。
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五稜郭内の昔の建物の配置です。


五稜郭駅から木古内駅(上磯郡)を経て江差駅(檜山支庁檜山郡)を結ぶJR江差線を走っているディーゼル車です。この電車に乗りました。

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世界遺産 今帰仁城(なきじんぐすく) [沖縄]

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水族館の次に行ったのが今帰仁城 (なきじんぐすく)です。主郭から見た志慶真郭です。

これが昔の今帰仁城の想像図です。
想像図の中の中央よりすこし下に平郎門があります。今も平郎門より高い部分は遺構(城壁や石垣)として残っています。
想像図の中に次の項目が書かれています。
①平朗門 ②大隅 ③カーザフ ④大庭 ⑤御内原 ⑥主郭 ⑦今帰仁ムラ ⑧志慶真門郭 カラウカー ソイツギ テンチジマチジ 志慶真門跡 水揚げ場の跡 石垣 旧道 外郭 古宇利殿内火神 ウーニー 七五三の階段 神ハサギ跡
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こちらも世界遺産の「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」の一つです。この世界遺産は次の遺産で構成されています。今回、今帰仁城を訪問したことで9ケ所の内、6ケ所を見ることが出来ました。黄緑色の文字をクリックすると訪問した時の記事を表示します。これで、今回訪れた世界遺産の6ケ所全てを紹介したことになります。
クリックすると拡大右の地図はネットから拝借いたしました。地図をクリックすると拡大します。
 ①首里城(すいぐすく)
 ②園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
 ③玉陵(たまうどぅん)
 ④識名園(しきなえん)
 ⑤今帰仁城(なきじんぐすく)
 ⑥勝連城(かつれんぐすく)
 ⑦座喜味城(ざきみぐすく)
 ⑧中城なかぐすく)
 ⑨斎場御嶽(せいふぁうたき)

これが外から見た平郎門です。


平郎門あたりから上を見たところです。長い道を登っていくと城の全貌が見えてきます。想像図で旧道と書かれているところです。


今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう)は別名として北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく)とも呼ばれています。ここは沖縄県国頭郡今帰仁村にある城跡で13世紀ごろに作られ、14世紀に琉球王国三山時代の三山の一つ・北山王の居城でありました。
ここは大隈郭です。御内原から見た景色です。
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御内原から志慶真郭を見た景色です。
南北350m、東西800m、面積37000㎡。沖縄県最大級の城(グスク)とのことです。
今帰仁城は天然の要塞で難攻不落をイメージさせるが2度の落城を経験しているそうです。1度目は中山の尚巴志(しょうはし)王によって滅ぼされ、その後は首里王府から派遣された北山監守の居城となったそうです。2度目は1609年の薩摩軍の琉球侵略によって落城したそうです。
北山監守の制度はその後も続いたそうだが1665年(寛文5年)に廃城となりました。
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主郭のあった場所には、今は火の神(ひぬかん)が建てられていました。


志慶真郭には建物の跡が沢山ありました。
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