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昨晩は自炊夕食 [料理]

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クリックすると拡大事情があり、急に9月26日から10月4日までの予定で家内が実家に帰省いたしました。家内の帰省中の前半は、作り置きのカレーがあったので特に料理はすることがなく過ごしていましたが、カレーが亡くなった後に冷蔵庫を見ると沢山の食材が手つかずのままになっていたので2日前から、その食材を使って夕食を作り始めました。残っていた食材は野菜類で言えばキュウリが8本、ニンジンが8本、ミョウガが多数、ナスが5本、ブロッコリーの芽が1パック、シシトウが1パック、ブロッコリが1本です。そこで昨晩(2013年10月2日)に作ったのが上の写真の料理です。作ったのはマグロのステーキとブロッコリーの芽のサラダと焼きナスとシシトウ焼きです。キュウリとミョウガの漬物も作りました。キュウリと茗荷を千切りにしてコブ茶の粉を振り掛けて袋で揉んだものです。
これで残っている野菜はニンジン8本、ブロッコリー1本とキュウリが1本です。ニンジンは日持ちがすると思うので置いておくとして、今日は残ったブロッコリーとキュウリをシンプルに食す予定です。

分厚いマグロが3人前程度あったのでステーキにいたしました。これが、この日のメインディッシュです。実は前日(2013年10月1日)も、簡単なのでマグロのステーキにいたしました。マグロのステーキにメインデッシュとして桜貝の想い出さんが記事で紹介されていた「ベビーホタテの塩胡椒チーズ蒸し」を作ってみました。
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分厚いマグロで食べごたえがありました。先日、テレビで紹介されていた、低温から弱火で焼くテクニックをつかわさせていただきました。


こちらがブロッコリーの芽のサラダでした。普通は何かに混ぜるのだと思いますが、そのまま食べても意外と美味しかったです。ドレッシングが良のかもしれません。
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焼きナスです。 今回の料理の中で一番手が込んでいたかもしれません。それだけ簡単な料理ばかりでした。
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焼きシシトウガラシです。生姜醤油でいただきました。かなり辛味の残ったシシトウガラシでした。
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こちらが前日(2013年10月1日)のメインデッシュのベビーホタテの塩胡椒チーズ蒸しとベビーホタテの刺身とマグロのステーキです。この日は少し薄めのマグロで分厚いマグロは最後にとっておきました。
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こちらがチーズと混ぜ合わせた「ベビーホタテの塩胡椒チーズ蒸し」です。黒こしょうが効いて美味しかったです。桜貝の思い出さん、ありがとうございます。チェダーチーズがなかったのでプロセスチーズを使いました。
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世界遺産 首里城(すいぐすく) [沖縄]

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この日は那覇空港からレンタカー店に行き、車を借りて先ずは腹ごしらえに沖縄そばを食べた後、すぐに首里城に行きました。
近くに着くと沢山の私設駐車場がありましたが、今の時期は、すいていると思い真っ直ぐ進んで首里杜館(首里城公園レストセンター)地下の県営駐車場に入りました。
これは首里城の城壁です。この首里城は2000年に世界遺産に登録されました。正確には「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」の中の一部として世界遺産になりました。琉球王国に関連する遺跡が世界遺産に登録されたので沖縄本島の広い範囲に世界遺産が点在しています。
その代表格が首里城と言えます。城を沖縄ではグスクと読みます。首里城は沖縄でも一般的に「しゅりじょう」と言われていますが、沖縄読みでは「すいぐすく」になります。他の城の遺跡はグスクと呼ばれるものがほとんどでした。

首里城を紹介いたします。県営駐車場から首里城に向かう道の最初にあるのが守礼門です。守礼門は城外にある門の一つですが、この門が首里城への事実上の入口になっているようです。
創建年代の確定はできていないが、琉球王国第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)の時に建てられていることは分かっている。門は四本の柱で支えられ、扁額が掲げられている。これは三間牌楼形式と呼ばれ、中国でよく見られる形状の建物です。「守礼之邦」と書かれているますが、これは「琉球は礼節を重んじる国である」の意味であるといわれています。
守礼門が二千円紙幣のデザインに採用されていることは意外と知られていません。手に取る機会があれば是非とも見てみてください。
守礼門(しゅれいもん or しゅれいのもん)は、そこに掲げられた扁額の「守禮之邦」からきている俗称で、本来は「上の綾門(うぃーぬあいじょう)」という。
沖縄戦で焼失したが、昭和33年(1958年)に再建されました。再建されたものとしては最初のもので、他はかなり後になってから再建されたために、昔に首里城を訪れた人は建造物としては城壁以外では守礼門だけしか記憶にない人もいるかも知れません。
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戦前の守礼門の写真をネット で探してみました。随分と今の雰囲気とは違います。
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これは瑞泉門(ずいせんもん)です。門の近くにある龍樋に因んで付けられたといわれており、瑞泉には立派なめでたい泉という意味があると言われています。


瑞泉門をくぐり城に向かって進むと漏刻門(ろうこくもん)があります。瑞泉門と似た門です。漏刻というのは水時計のことで、この門の櫓に水時計が設置されていたことからこの名が付いたといわれています。15世紀の創建であり、老朽化のため昭和初期に撤去されていたが、平成4年(1992年)に復元されたようである。国王に敬意を表すため、高官でもこの場所で駕籠を下りたことから、「かご居せ御門(かごいせうじょう)」とも呼ばれていいます。


ここには3つの門が写っています。
一番奥に見えるのが歓会門(かんかいもん)です。歓会門は首里城の城郭内に入る正門で、尚真王時代(1477~1526年)に創建されたものといわれ、太平洋戦争で破壊されたが、昭和49年(1974年)に復元されそうです。アーチ式の門の上には木造の櫓が付けられている。門の幅は3m程度であり正門とされているわりには狭いような感じがするが、防御のためだと思います。
中央寄りの右側に見えるのが久慶門(きゅうけいもん)で首里城北側の通用門です。
左端に写っている門が先ほど紹介した瑞泉門です。
歓会門からの通路の両脇に鮮やかな花が植えられていました。なんとなく違和感がありましたが、琉球王朝時代は南国ならではの鮮やかな花が沢山植えられていたと思うと納得でした。


先に進むと首里城の建物群が姿を現します。


建物群の最初にあるのが広福門(こうふくもん)です。ここから先の建造物は石ではなく木で出来ていました。広福門はこれまでくぐってきた門とはかなり趣を異にしています。広福というのは福を行き渡らせるという意味であるといわれており、て右側が士族の財産をめぐる争いを調停する大与座、左側が神社仏閣を管理する寺社座がおかれていたといわれています。創建年代は不明とされ、明治末期には撤去されたようであるが、平成4年(1992年)に復元されたそうです。


広福門の次の門です。正殿のある御庭(うなー)に入る最後の門である奉神門(ほうしんもん)です。門に向かって左側は薬、茶、タバコなどを扱った納殿、右側は城内の儀式などに使われた君誇という部屋になっていたそうです。
三つの入口の内、中央は国王や賓客など身分の高い人の専用の通路で一般の役人は左右の門から出入りしていたといわれています。


これが首里城の正殿(せいでん)です。
もちろん復元(1992年)されたものですが、残念なことに戦前までは1712年に再建された建物が存在しており、それが沖縄戦で完全に消失 したそうです。正殿は何度か焼失しています。記録に残っているのは1709年に焼失し1712年に再建、その前は1660年に焼失し1672年再建、その前は1453年に全焼したとの記録が残っていますが、最初の創建は十四世紀末と思われていますが年代は不明だそうです。
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戦前の建物の写真をネットから拝借いたしました。
1944年(昭和19年)10月10日の那覇市を襲った米軍の大空襲でも、首里の町は災禍を免れ、戦雲急を告げる1945年の始めでも文化遺産のある首里は安泰でしたが日本陸軍の精鋭第32軍が首里に司令部を置き、地上戦の準備を始め、首里城の地下に総延長千数百メートルにも及ぶ壕を掘り、ここを防衛ラインとして、1945年4月1日に本島中部西海岸に上陸した米軍を、迎え撃ったことにより、首里城をはじめ麓の玉御陵、円覚寺、弁財天堂、御茶屋御殿、識名苑、末吉宮、龍潭など史跡・文化遺産がことごとく消滅し、一木一草まで城下町のすべてが壊滅してしまったそうです。
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壊滅して47年後にあたる平成4年(1992年)に正殿の廻りの建物が復元されました。
広いカラフルな広場は御庭(うなー)で、その正面奥に正殿があります。
御庭は東西約40m、南北約44mの広場でカラフルな模様は赤と白の敷き瓦が敷きつめられたものだそうです。ここでは種々な式典の会場に使われていたといわれている。縞模様の敷き瓦は儀式の際、役人が位の順に並ぶ目印の役割をはたしていたとも言われています。オリジナルの建物は琉球王国最大の三階建ての木造建築物でした。
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復元に際し、正殿の遺構を保護するため約70cmの盛り土をして現存の正殿を建てたそうで正殿の床の一部がガラス張りになっており遺跡が見えるようになっていました。


正殿の一階部分です。一階は下庫理(しちゃぐい)とよばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行なう場でした。写真は国王の座る場所である御差床(うさすか)と呼ばれているころです。御差床の両脇には金龍と五色の雲が描かれた朱柱がありました。御差床の後障子を開けると二階に通じる階段があります。国王が一階の御差床にあらわれる際に使用した専用階段のある間のことを「おちょくい」と呼びます。


ここは正殿の二階です。二階は大庫理(うふぐい)と呼ばれ、王家の行催事が行われました。中央には国王が座る場所である御差床があり、その後方には「西のみこちゃ」「おせんみこちゃ」と呼ばれる間があります。「おせんみこちゃ」は国王と女官が毎朝、国家の安泰や子孫繁栄を祈願した場であると言われています。
二階の御差床で黄金の装飾が施された椅子、御轎椅(うちゅーい)が置かれていました。
ここには中国の皇帝から贈られた扁額がいくつも架かっていたといわれています。現在、架かっている「中山世土」は古い記録をもとに復元した扁額だそうです。
三階は通気のために設けられた屋根裏部屋だそうです。
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正殿に向かって左側には北殿(ほくでん)があります。ここは王府の中央行政庁として、日常は大勢の官人が出入りして重要案件の審議など政務の中枢として機能していたと共に、中国から皇帝の使者が訪れたときの接待所としても使われていたといわれています。
首里城の中で最も活気の溢れる館であったようです。ちなみにペリー提督が首里城を訪れた時も、この北殿で歓迎の宴が催されました。
この写真でカラフルな広場の御庭(うなー)の広さが実感してもらえると思います。


正殿に向かって右側に南殿(なんでん)と番所がありました。こちらの建物は、塗装はなく白木のままで、なんとなく和風色が強い感じでした。右側が番所で左側が南殿です。南殿は主に日本的な儀式や薩摩藩の役人の接待などに用いられ、番所は登城してきた人々の受付や国王への取り次ぎを行っていた場所といわれています。和風の南殿で薩摩藩の接待で中国風の北殿で中国の使者の接待とは琉球王朝の人たちの知恵を垣間見た気になってしまいました。


南殿の奥は、さすが和風作り徹していると感じました。ここには書院と鎖之間(すさのま)があり書院は国王が日常の政務を行ったそうです。正殿の真赤な中ではやはり疲れると思います。鎖之間は王子などの控所であり諸役の人たちとの懇談の場所でもあったようです。ここには日本庭園も広がっていました。これは鎖之間から書院の方を撮った写真です。


この部屋は鎖之間で、白木がきれいな純和風の部屋でした。


右掖門(うえきもん)が見えます。かつては、国王の親族や女官の生活の場であった本殿裏側のエリアへ通じる門として機能していたといわれています。首里城にいくつかある裏門の一つです。この門は15世紀頃の創建といわれており、他の建築物と同様、太平洋戦争で破壊されてしまったが、発掘調査で遺構が確認され、この遺構の上に新たに石を積んで平成12年(2000年)に復元されました。見学ルートでは御庭からの出口になっています。


すでに紹介した久慶門(きゅうけいもん)の外側です。歓会門が正門であったのに対し、久慶門は首里城北側の通用門で、主に女性が使用していたといわれている。城郭内見学順路では出口になっています。現存の門は昭和58年(1983年)に復元されたものだそうです。


琉球の城砦のコーナーは独特のカーブーになっています。このカーブが本土の城の石垣と違うところです。中国とも違う感じです。


広福門の内側の下之御庭(しちやぬうなー)と呼ばれる広場に花人形が置かれていました。本土の菊人形のようなものなのでしょうか。日本だけれど、なんとなく異国を感じさせてくれました。


パンフレットから全景写真を拝借いたしました。写真をクリックすると拡大するので、建物の位置が判ると思います。守礼門はこの写真外の左側にあります。
正殿の奥側(写真の右側)は今でも復元工事が行われていました。完成予想図を見たい方はこちら→ポチッ
ポチッをクリックして出てきた建物で緑地に白抜き文字が復元中の建物です。復元中の建物を紹介すると
  世誇殿 (よほこりでん)
  黄金御殿・寄満 (くがにうどぅん・ゆいんち)
  二階堂御殿 (にーけーうどぅん)
  白銀門 (はくぎんもん)
  寝廟殿 (しんびょうでん)
  美福門 (びふくもん)
  東のアザリナ (あがりのアザリナ)
  継世門 (けいせいもん)
                           です。
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奉神門(ほうしんもん)の内側にある御庭、正殿、南殿、北殿、書院、鎖之間は有料で広福門をくぐってから、その右側で入場券を購入します。門などの他の地域は無料です。
 大人    800円 (団体 640円)
 高校生   600円 (団体 480円)
 小・中学生 300円 (団体 240円)
 6歳未満  無料           団体は20名以上   
カーナビに入力する電話番号は 098-886-2020です。
下記が世界遺産の「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」のです。9ケ所の内、6ケ所を訪問しました。
 首里城(すいぐすく)
 玉陵(たまうどぅん)
 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
 中城(なかぐすく)
 座喜味城(ざきみぐすく)
 今帰仁城(なきじんぐすく)
 識名園(しきなえん)
 勝連城(かつれんぐすく)
 斎場御嶽(せいふぁうたき

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天空の白鷺 姫路城 [兵庫県]

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2013年9月13日に兵庫県姫路市にある世界遺産の姫路城に行ってきました。
クリックすると拡大ただし、今は上の写真のような天守閣を見ることが出来ません。
2009年から45年ぶりの改修工事に入って天守閣が右の写真のように改修工事用の仮設建物(素屋根)で、すっぽりと覆われてしまったからです。
上の写真は2007年5月11日に撮ったものです。2006年からは姫路城には3回来ており今回が4回目でした。それ以前は中学校時代に、さかのぼります。私の人生では5回目になります。
全国で、1940年時点において江戸時代の天守閣は20ほど存在していましたが、その後の焼失などで現在の現存天守は12天守です。それにしても姫路城の国宝8棟・重要文化財74棟は群を抜いています。
 現存12天守
   天守建造 城名          文化財
   1601年 姫路城  国宝8棟 重要文化財74棟 特別史跡 世界遺産
   1606年 彦根城  国宝2棟  重要文化財 5棟 特別史跡 
   1615年 松本城  国宝5棟          史跡
   1601年 犬山城  国宝1棟
   1852年 松山城       重要文化財21棟 史跡
   1747年 高知城       重要文化財15棟 史跡
   1810年 弘前城       重要文化財 9棟
   1681年 備中松山城     重要文化財 3棟 史跡
   1660年 丸亀城       重要文化財 3棟 史跡
   1607年 松江城       重要文化財 1棟 史跡
   1666年 宇和島城      重要文化財 1棟 史跡
    不明  丸岡城       重要文化財 1棟
 焼失 8天守(1940年以降)
   戦争 : 水戸城 大垣城 名古屋城 和歌山城 岡山城 福山城 広島城
        広島城は原爆により、他は空襲により、すべて1945年に焼失
   失火 : 松前城(1949年)

太平洋戦争で日本中の多くの天守閣が失われましたが、姫路城も紙一重で焼失を免れた幸運の城でもありました。特に大天守に直撃した焼夷弾が不発だったことは奇跡に近い幸運だったのかもしれません。枠内にWikipediaの内容を転記しました。枠内の写真は天守閣を隠すため擬装網がかけられた姫路城です。
太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。
クリックすると拡大しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された。
かつて、姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったと言われていたこともあるが、獨協大学の四宮満の研究によって否定されている。城内にも実際に着弾したものの、運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったと考えられる。
当時のB-29の機長だったアーサー・トームズは戦後50年に来日し姫路を訪れた際に「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった。レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と語っており、実際の空爆時刻が夜間だったこともあって上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がないと判断したため爆撃しなかったと回顧している。

今回、姫路城に見学に来た目的は素屋根(仮設建物)の最上階から同じ高さで天守閣の最上階の屋根を見ることでした。
その仮設建物の素屋根は2014年1月中旬から解体に入ることから、仮設建物(素屋根)内部から天守閣を見ることが出来るのは2014年1月15日で終わってしまうため、最後のチャンスと思い、兵庫県宝塚の実家に帰省していた機会に見に行きました。逆瀬川駅から阪急電車に乗り三ノ宮でJRの新快速に乗り換えて姫路を目指しました。
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姫路駅から正面に姫路城を見ることが出来ます。やはり天守閣はすっぽりと素屋根に覆われていました。
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姫路駅と姫路城の中間地点から見た景色です。素屋根には姫路城の実物大の絵が描かれていました。
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町の中にも昔の城壁跡が残されていました。現在の姫路城の敷地は結構広いのですが、昔はそれの数倍の広さがあったのでした。こちらが大通りから東側です。
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こちらが大通りの西側の城壁跡です。


この石碑に特別史跡・姫路城跡と書かれています。石碑の左面に1956年11月26年に特別史跡に指定されたことが書かれていました。


姫路城前まで来ました。
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桜門橋を渡ると姫路城の敷地に入ります。
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桜門橋前の堀です。敷地はこの水堀で囲まれていました。
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大手門です。江戸時代には桜門と桐二門と桐一門の3つの門で構成されており、石垣を組み合わせた二重枡形虎口となっていて、通り抜けるには180度の方向転換を強いられる構造になっていました。しかし、城としての役目を終えた後、それらは取り壊され、桜門の前の橋も無くなり濠は埋められました。今ある大手門は桐ニ門があった場所に1938年に再建され物です。現在の大手門を桜門と呼ぶこともあるようです。
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大手門脇の石垣の上からの桜門橋の方向の景色です。
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反対方向から見た桜門橋です。
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城の城壁から見た水堀です。
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横から見た大手門です。
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大手門をくぐると三の丸広場が広がります。目の前に天守閣を覆う素屋根が大きく見えてきました。右側に伸びる工事用の鉄骨橋が印象的でした。
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Google航空写真で姫路城を紹介します。2013年9月30日時点では天守閣を覆う素屋根が航空写真に入っています。

ここで仮設建物(素屋根)に覆われる以前の天守閣の写真を紹介します。
2006年と2007年に突然に3回も行く機会を得ました。中学校の遠足以来でした。4月の桜の季節と5月の新緑の季節と12月のクリスマスイブの日です。この写真は冒頭の写真ですが5月の新緑の季節の遠くから見た姫路城です。
姫路城 は内曲輪(うちくるわ)以内の面積は230,000m2で外曲輪(そとくるわ)以内の面積は2,330,000m2です。内曲輪の面積だけで甲子園球場のグラウンド(14,700m2)の約15.9倍になるそうです。
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上の写真はクリックすると拡大しますがクリックするのが面倒な方のために拡大写真を掲載します。クリックするとさらに拡大します。
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こちらは4月の満開の桜の季節に行った時の写真です。これはラッキーでした。
姫路城はその400年の歴史の中で、戦にまみえることなく、近代の戦災に遭うこともなかった、たぐいまれな城です。その結果天守や櫓、門などの保存状態が非常によいうえ、ほかに類例のない遺構も多く、極めて貴重な文化遺産となっているそうです。
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横(西方向)からの天守閣の姿です。細っそりしています。
天守閣の高さは姫山(標高45.6m)+石垣が14.85m+建物が31.5mで合計海抜92mになります。
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横(東方向)からの天守閣の姿です。こちら方向は、一般的には、あまり人が来ない場所なので珍しい景観かもしれません。でも、こちら側からの景観も高さがあり、すばらしいです。
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姫路城の天守台は大天守閣と3つ小天守で構成されており、その華麗な姿が特徴です。
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お城の地図を見ると迷路のようになっていることがよく判ります。天守閣が見えてもなかなかたどり着かないことは実際に歩いてみるとわかります。ここから下の写真は要塞の要の門を中心に写真を掲載いたします。


正面は壮大な姿です。木造建築では美しさも兼ね備えた日本建築最大級のものと言えると思います。
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こちらが大天守閣を覆う素屋根の図です。上の写真の右側(東側)から見た図面になっています。見学スペースが最上階の8階と7階と1階に設けられておりエレベーターで上がることが出来ます。緑の部分が見学者が入れるエリアです。天守閣自体は木造の昔のままで急な階段で足の不自由な方や車椅子の方は登ることは出来ませんが、この素屋根がある時期だけは同じ高さに登ることが出来るのです。車椅子で入りたい方は、特別なルートがあると思うので問い合わせをしてみてください。
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素屋根「天空の白鷺」に入館するには事前予約の方法と当日に入る方法があります。私は予約のことは知らなかったので当日で入りました。両方ともに料金は同じたと思います。平日では特に予約の必要はないと思います。当日の場合は先ず姫路城の入口で400円を支払、素屋根建物(天空の白鷺)の入口で自動販売機で200円を支払います。予約の人は一括で600円を支払うのだと思います。
  大人 400円(姫路城)+200円(天空の白鷺)
  小人 200円(姫路城)+100円(天空の白鷺)


工事予定表です。一番下の欄に「素屋根内見学可 (H26 1/15まで)」と書かれている通り2014年1月15日で見学終了となります。クリックすると拡大するので見やすくなると思います。2011年3月26日(開館)から2014年1月15日(閉館)までの天空の白鷺(素屋根)への入場者数は次の通りでした。
     2011年3月26日~2011年3月31日   12,057人
     2011年4月01日~2012年3月31日  549,732人
     2012年4月01日~2013年3月31日  622,286人
     2013年4月01日~2014年1月15日  659,331人
                         合 計 1,843,406人
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入場口を過ぎると「葵の門」が目に飛び込んできます。
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こちらは「葵の門」の前から天守閣を見た景色です。
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「菱の門」は美しい大きな門でした。この門をくぐるとすぐに右手に天守が見えます。攻め込んできた敵はすぐに天守に向かって突き進もうとしますが、道は三国濠とよばれる水だまりで狭められ、攻め込んできた兵は流れを悪くさせられます。さらにその奥にある「るの門」は「菱の門」からは見えない角度の石垣に作られた小さな門で、一度に多数の人が通ることが出来ず、束ねられた敵兵を待ちかまえて撃ち取りやすくするという巧妙な戦術がそこには隠されているそうです。この写真は2007年に撮ったものです。


正面から見た「葵の門」です。
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まっすぐに天守閣を目指しました。途中にお菊の井戸がありました。
お菊という女性の亡霊が「いちま~い、にま~い」と皿を数える、1741年に大坂豊竹座で初演された浄瑠璃の怪談話『播州皿屋敷』に登場する「お菊井戸」で、姫路城の沢山の伝説の中の一つです。
詳しくは説明文が建てられているので読んでみてください。
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現在は車椅子の方の仮設のスロープが設けられていました。車椅子の方1名と付き添いの方2名がスロープを登られているところです。
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スロープは素屋根「天空の白鷺」までつづきます。まさに今が車椅子の方が姫路城に行けるチャンスなのです。
 ホームページの車椅子利用→ポチッ


工事用の搬入鉄骨の下をくぐります。


素屋根「天空の白鷺」の入口に入場券の自動販売機があり200円の入館券を買いました。


入口を入った一階のホールです。フラッシュなしの写真撮影はOKでした。工事の方に配慮して「フラッシュ撮影」「動画撮影」「描写行為」は禁止されています。あとタバコは禁煙でペットの入館と飲食も禁止されています。
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エレベーターで最上階まで登れます。


この写真のようにエレベーターからは修復中の1階から8階まで連続で天守閣を見ることが出来るのです。


エレベーターの中から1階から8階までの8枚の景色を下から順番に紹介いたします。最上階に着いたとたんに上からの光で明るくなります。





最上階は大きな部屋になっていました。置かれているのは予備あるいは取り外された昭和のシャチホコです。このシャチホコの裏が内部を見る大きな窓になっています。おそらく反射を防ぐために見る位置を暗くする配慮だと思います。
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大きな窓から修復中の天守閣を見ることが出来ました。
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姫路城の修復の様子をビデオで見ることも出来ました。
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この景色を見たかったのです。姫路城の天守閣の屋根を水平目線で見ることが出来ることが出来るのは修復中の今だけなのです。
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大天守閣をすっぽりと覆う素屋根の大きさに圧倒されました。
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次の改修工事はいつになる判りませんが、今回は徹底した改修であり、簡単には出来ない工事であることから現在生きている人にとって、2013年が見ることのできる最後のチャンスなのかもしれません。
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避雷工事が徹底されていることが判りました。
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瓦の端には紋が掘られており2種類が交互に配置されていました。
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これが平成の鯱瓦(しゃちがわら / しゃしほこがわら)です。すでに天守閣の上に乗っていました。クリックすると鯱瓦の避雷設備も徹底していることが判ってもらえると思います。
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クリックすると拡大こちらが江戸時代からの四代のシヤシホコです。今回(平成)の鯱瓦は昭和のものとそっくりです。昭和の鯱瓦はの高さは6尺1寸5分(約186cm)で総重量は約278kgです。おそらく今回(平成)の鯱瓦も近いと思います。鯱(しゃち)とは、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物です。それを模して屋根に使われる装飾・役瓦のことで、一字で鯱(しゃちほこ)あるいは鯱鉾とも書かれます。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では魚虎(しゃちほこ)と表記されているそうです。
右の看板は最上階に飾ってあった昭和の鯱瓦の横にあったものです。写真は4枚共にクリックすると拡大します。
    江戸時代                     明治時代
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    昭和時代                     平成時代
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最上階の景色です。これだけ広けた景色も今だけのものです。
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最上階(8階)から7階に降りる階段です。車椅子の方はエレベーターが利用できます。


こちらが7階から見た天守閣です。
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上の方を見た写真です。大きな一枚のガラスになっており全体を撮ることは出来ませんでした。
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ガラスに照明の光が反射しないように斜めに撮っています。
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7階からの景色です。ガラス窓も広いことからすばらしい景色でした。これは西方向です。
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こちらは北東方向の景色です。お城が広がっていました。
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こちらは南方向の景色です。正面が姫路駅です。
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7階の部屋です。こちらが7階の西方向です。広さが実感してもらえると思います。


こちらが7階の東方向です。エレベーターの降り口が奥にあります。


江戸時代の姫路城の図面です。左側は最近発見された1682年~1704年の間の詳細な図面です。現在と同じ範囲の図面です。右は城全体の図面で姫路城が現在の市街地まで広がった広大な城であったことが示されています。いずれの図面も北を上方向に回転させて掲載しているので展示(東が上 と 西が上)とは方向が違っています。
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7階からエレベーターで1階に降りてきました。石垣を見ることが出来ます。これは素屋根がなくなっても見ることが出来る場所です。ガラス越しに見れるのも今だけです。


1階の展示室です。


ここが天守閣に上がる入口でした。今は上がることが出来ません。
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今は入ることは出来ませんが天守閣の内部を2007年に撮った写真で紹介します。
姫路城のすごいところは昔のままの木で出来ているところです。日本でも鉄筋コンクリートのお城が多い中でこれだけの大きさの木造建築はすばらしいです。


天守閣の中です。中は結構広いことが判りました。


天守閣の一番上には神社が祭られていました。刑部神社と呼ばれています。


大天守閣は今は見ることは出来ませんが、大天守閣の西側には3つの小天守を見ることが出来ます。
その中で一番大きいのが乾小天守で天守台の西北隅(乾の方角)に位置して、外観3層・内部は地下1階・地上4階の造りになっています。
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見上げると小天守と言えども大きいことが判ります。
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防御のための工夫がされていました。
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ここから天守閣以外を紹介いたします。
姫路城は華麗な姿である一方で、堅固な要塞としても必見の価値があります。要塞としての機能性は、縄張(設計、構成、仕組み)のよしあしで決まります。姫路城の縄張は、抵抗(防御)線が3重の螺旋形になった複雑巧妙なもの。これは江戸城と姫路城にしか類例のない形式です。この門は「水三門」で天守閣の北西側の門です。
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2007年に撮った「水三門」の写真も紹介します。西小天守の下に位置する小さな門です。この先、天守閣への順路には水四門、水五門、水六門と続きます。


「水三門」から順番に紹介します。「水三門」の外側に位置するのが「水二門」で、これは「水二門」です。沢山の通路と門が入れ組んで迷路のようになっているため城内の地図がないと攻め込んでも迷ったと思います。
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反対側から見た「水二門」です。
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水二門の外側にあるのが水一門です。これが水一門の内側です。
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左側の門が「水一門」の外側です。いろんな方向に通路や門がありました。土色の壁は油壁です。山土に豆砂利を加え、もち米のとぎ汁とかお粥などで練り合わせた土を仮枠の中で叩き締めて築いたもので秀吉築城の名残の壁と言われています。油壁の右側を降りたところが「ほの門」です。
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「ほの門」を降りる前に「口ノ渡櫓」と呼ばれる場所があり、その建物の中には井戸などがありました。
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油壁の右側を降りたところの「ほの門」です。


外側から見た「ほの門」です。天守閣のすぐ近くなのに、この奥に沢山の門があり入り組んだ構造になっていることが判ってもらえると思います。
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「ほの門」の外側にあるのが「にの門」です。門には見えませんが、こちらが「にの門」です。
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建物の下が天上の低いトンネル状の通路になっているのです。建物の中でトンネルはでL字に曲がっているのです。


門の扉があります。狭い通路になって攻めるのを難しくしています。


その狭い通路です。
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狭い通路側から見た「にの門」です。「にの門」の外側にある「はの門」をくぐり、さらにまっすぐ天守の方へ延びる坂を上ると、今度は急に180度反対の方向へと進まされ、天守から徐々に遠ざかることになります。そして迷路のような道の先にある「にの門」は薄暗い空間で、敵兵が入ってくると二階から槍や鉄砲で攻撃される仕組みになっているそうです。


「にの門」の外側にあるのが「はの門」です。これが「はの門」です。
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奥に見えるのは「はの門」です。「はの門」へは天守にまっすぐ延びるような坂を上っていきます。この坂を上りそのまま駆け上がろうとする敵兵を、進入させにくくするために、「はの門」をくぐってすぐ前にある石段はわざと角をとり足を滑らせやすくしているそうです。
右に見える鉄砲狭間、矢狭間の数は、記録では3,125か所といわれています。現在残っているのは内曲輪のものだけですが、その数は997だそうです。
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2007年に撮った、ほぼ同じ場所からの写真です。やはり細い通路で敵を防ぐ構造だったのと思われます。「はの門」の門の外側にあるのが「ろの門」でその外側にあるのが「いの門」でその外側が「葵の門です。つまり今回、降りてきたルートを攻める場合は桜門→桐二門→桐一門→葵の門→いの門→ろの門→はの門→にの門→ほの門→水一門→水二門→水二門→水三門→水四門→水五門→水六門と通っていくことになります。


「葵の門」からは別のルートでも天守閣につながっています。別の門も紹介します。三層の門なので「ぬの門」だと思います。この門は重厚な鉄板がで作られ、門の上に二階建ての櫓がある姫路城内で唯一の三層の門です。この門は、上山里と呼ばれる広場へ続く門で、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓などと繋がり一連の建物になっています。


これは「への門」だとおもわれます。東小天守の下に位置する小さな門です。姫路城の門を分類すると次のようになります。
 棟門(むねもん)   ちの門、、水一門、水ニ門
 櫓門(やぐらもん)  菱の門、はの門、と一門、ぬの門 (ぬの門は二重櫓)
 埋門(うずめもん)  ほの門、水三門、水四門
 穴門(あなもん)   るの門
 高麗門(こうらいもん)いの門、ろの門、への門、とニ門、と四門、りの門 
(への門は潜戸付、他5門は脇門付)


白い土塀に囲まれたところが徳川家康の孫娘である千姫が住んでいた西の丸です。天守閣の内部には入れませんが、実は姫路城で屋内が見学できる場所があります。
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それは西の丸の周囲の回廊です。「ワの櫓」から入り。ワの櫓→渡櫓→ヲの櫓→ルの櫓→西の丸長局(百閒廊下)→ヌの櫓→化粧櫓と見ることが出来ます。
くりっくすると拡大姫路城と言えば千姫(1597-1666)です。千姫が住んだのが西の丸です。西の丸の中央に建っていた住居部分は残っていませんが、化粧櫓や長局(百間廊下)、土塀等13棟の重要文化財が現存しており、そのあたりも散策の場としていたのではないでしょうか。
千姫といえば、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の長女です。千姫は7歳で豊臣秀頼に嫁ぎました。しかし、徳川方と豊臣方は激しく対立しました。その結果、秀頼は大坂夏の陣で自害し、千姫は夫に死別するという運命をたどったのです。そのあと千姫は、姫路城主の本多忠政の長男である本多忠刻に嫁ぐことになります。その際、将軍家から10万石の化粧料をもらったそうです。
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西の丸の南側の回廊も修復工事中でした。
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城壁も美しいです。コーナーにあるのは「ワの櫓」です。
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修復工事前の2007年の西の丸の城壁の写真も紹介します。コーナーにあるのが「ワの櫓」です。


渡櫓のあたりからの内側の景色です。長い回廊が続いているのが判ります。
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この渡櫓の廊下からは城の内側と外側を見ることが出来ました。


こちらの廊下は内側には部屋が並んでいました。左側の部屋は、ここでは大きな部屋の方でした。


沢山の侍女たちが暮らした長局で、百間廊下の呼び名がついているだけのことはありました。


回廊の内側には、このような部屋が無数にありました。このような部屋に侍女たちが暮らしていたのだと思います。


一番端の化粧櫓には大きな部屋がありました。
化粧櫓とは現代風に言えば美容院なのでしょうか?
上で紹介した沢山の部屋には侍女たちが住んでいたと思われるので美容院のような場所が必要だったのかもしれません。これは勝手な想像です。
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百人一首を楽しんでいる姿も再現されていました。ここは「化粧櫓」の中です。徳川家康の孫の千姫が本多忠刻に嫁ぎ、姫路城にやってきたとき、当時幕府の方針で城の改築は禁止されていましたが、将軍の孫娘とあって特例として千姫の化粧櫓が建てられたそうです。
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2007年の時は貝あわせを楽しんでいる姿が再現されていました。この時は「化粧櫓」の中には入れませんでしたが、今は入ることが出来ます。赤い着物姿の女性は千姫をモデルにしているようです。
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「化粧櫓」の中からの景色です。昔も、このような景色が見えていたのだと思うとロマンを感じます。
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千姫が遊んだ羽子板も展示されていました。


クリックすると拡大右の写真の「ぬの門」を登ったところにある「リの一渡櫓」では改修に伴い姫路城の瓦などの展示も行われていました。上で紹介した江戸と明治と昭和の3つの鯱瓦も、こちらの「リの一渡櫓」で展示されていました。
「リの一渡櫓」は「お菊井戸」の近くでもあります。


ここは「リの一渡櫓」の展示室の内部です。葵の御紋の瓦です。


これは昔の道具です。


皆さん熱心に見られていました。


沢山の甲冑類の展示もありました。天守閣内に展示されていたものも入っていると思います。
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全体のイメージを感じていただくためにWikimediaから拝借した明治初期の姫路城の鳥瞰図を紹介いたします。日本の天守閣は下記のように分類されています。現存天守と復元天守以外は数が多く調べ切れていない可能性があるため天守数に関しては参考程度とお考えください。すばらしいことに、名古屋城は木造復元天守にするためにSRC造の天守の解体工事が始まりました。木造復元天守の完成は2022年12月だそうです。
 現存天守  12天守 姫路城 彦根城 松本城 犬山城 松山城 など 
 木造復元天守 5天守 白河小峰城 掛川城 白石城 大洲城 新発田城
 外観復元天守 9天守 名古屋城 大垣城 広島城 和歌山城 岡山城 など  
 復興天守  14天守 大阪城 岐阜城 岸和田城 小倉城 岩国城 など
 模擬天守  51天守 洲本城 郡上八幡城 富山城 大多喜城 今治城 など
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天守閣のある城は上で紹介しましたが、それ以外に日本には沢山の城があります。下記リストはWikimediaで調べた日本の城です。これで全てではありません。小さな城はさらに沢山あると思います。着色された文字は今までに、その城に関連した内容の記事を書いた城です。着色文字をクリックすると記事を表示します。

北海道
松前城 五稜郭 四稜郭 志苔館 弁天台場 シベチャリチャシアイヌ民族の古城 モシリヤチャシアイヌ民族の古城 根室半島チャシ跡群アイヌ民族の古城

青森県
蠣崎城 田名部城 奥瀬館 七戸城(柏葉城) 野辺地城(金鶏城) 横浜館 櫛引城 新井田城 根城 八戸城 相内館 上名久井城 剣吉城 平良ヶ崎城 三戸城(留ヶ崎城・糠部城) 田子館 聖寿寺館(本三戸城) 浅水城 中市館 法師岡館 伝法寺館 沢田館 蓬田城 高畑城 油川城 尻八館 高田城 浅瀬石城(汗石城) 横内城 黒石城 田舎館城 大光寺城 浪岡城 藤崎城 福島城 唐川城 青柳館 石川城(大仏ヶ鼻城) 弘前城 小栗山館 堀越城 和徳城 大浦城(八幡城・賀田城) 種里城 元城(深浦館)

岩手県 
軽米城 小軽米城 種市城 野田城 久慈城 石峠館 千徳城 田鎖城 払川館 大槌城 鱒沢館 鍋倉城(遠野城) 火渡館 横田城 金田一城(四戸城) 九戸城 姉帯城 一戸城 浄法寺城 一方井城 葛巻城 雫石城(滴石城) 平館城 盛岡城(不来方城) 志波城(斯波城) 厨川柵(古代城柵) 乙部館 郡山城(高水寺城、志和館(城)) 徳丹城(古代城柵) 長岡城 樋爪館 見前館(見舞館) 大迫城 寺林城 新堀城 岩崎城 江釣子城 鹿島館(鬼柳城) 黒沢尻柵(古代城柵) 二子城 十二丁目城 花巻城(鳥谷ヶ崎城) 十八ヶ城(本館 (陸奥国)) 世田米城 片寄城 鳥海柵 嫗戸柵 岩谷堂城 人首城 胆沢城 水沢城 岩谷堂城 金ヶ崎城 衣川館 上口内城 前沢城 薄衣城 豊田館 一関城 白鳥舘 平泉館 接待館 伽羅御所

宮城県
仙台城(青葉城) 白石城(益岡城) 岩出山城(岩手沢城) 若林城 船岡城 松森城 涌谷城 笹森城 松山城(千石城) 川崎城 不動堂城(鶴頭城) 吉岡城 丸森城(丸山城) 鶴楯城(下草城) 中新田城 東光寺城 利府城 岩切城 角田城 多賀城 寺池城(登米要害) 金山城 北目城 根添城(根添館) 高清水城 佐沼城 岩沼城(鵜ヶ崎城) 平沢城 小堤城 亘理城 坂元城(蓑首城) 宮沢城 今泉城 名生城 大窪城 古川城

秋田県
久保田城 秋田城(古代城柵) 払田柵(古代城柵) 大館城 岩崎城 角館城 本堂城 本荘城 亀田城 横手城(韮城) 金沢柵 大鳥井山遺跡 吉田城 稲庭城 十狐城 湊城 紫島城 檜山城 脇本城 毛馬内城 花輪城

山形県
山形城(霞城) 朝日山城 左沢城 大山城 亀ヶ崎城(東禅寺城) 城輪柵(城輪柵跡) 寒河江城 小国城 鮭延城 清水城 白鳥城 新庄城(沼田城、鵜沼城) 高畑城 楯岡城 舘山城 鶴ヶ岡城(大宝寺城) 上山城(月岡城) 天童城(舞鶴城) 中山城 成生城 成沢城(鳴沢城) 長谷堂城 畑谷城 東根城 真木山城 松山城(松嶺城) 丸岡城 溝延城 谷地城 山野辺城 米沢城 出羽柵

福島県
若松城(鶴ヶ城) 白河小峰城 神指城 磐城平城(龍ヶ城) 小高城 谷地小屋城(蓑首城、新地要害) 駒ヶ嶺城 中村城(馬陵城) 高倉城 大館城(飯野平城) 長沼城 三春城(舞鶴城) 須賀川城 棚倉城 福島城 宇津峯城 猪苗代城 桧原城 八丁目城 石母田城 新宮城 二本松城(霞ヶ城) 鎌田城 水久保城 三芦城 小浜城 小手森城 桑折西山城 梁川城 大森城 大鳥城 霊山城 懸田城 陣ヶ峯城 北田城 鴫山城(南山城) 久川城 搦目城(白川城) 守山城 中丸城 柏木城 宮森城

茨城県
水戸城 伊佐城 牛久城 太田城 小田城 笠間城 久下田城 栗橋城 古河公方館(鴻巣御所) 古河城 頃藤城 多気城 土浦城 豊田城 助川海防城 逆井城 馬坂城 高井城 下館城 上条城 木原城 月居城 東林寺城 野口城 真壁城 松岡城 結城城 依上城 今泉城 守谷城 馴馬城 龍ケ崎城

栃木県
宇都宮城 飛山城 多気山城 真岡城 岡本城 西明寺城 茂木城 籠谷城 八木岡城 生田目城 中村城 古山城 勝山城 鹿沼城 壬生城 小山城 鷲城 中久喜城 羽生田城 唐沢山城 佐野城 足利城 足利氏館 皆川城 川崎城 矢板城 玉生城 松ヶ嶺城 山田城 伊佐野城 喜連川城 烏山城(臥牛城) 大田原城 黒羽城 千本城 福原城 成田城 山根城

群馬県
高崎城 館林城(尾曳城) 岩櫃城 大胡城 小泉城 白井城 膳城 反町館 高津戸城 倉賀野城 根小屋城 国峰城 新田金山城 名胡桃城 沼田城 柄杓山城(桐生城) 平井城 前橋城(厩橋城) 松井田城 箕輪城 安中城 中野城 山名城

埼玉県
川越城 青鳥城 岩槻城 小倉城 柏原城 河越館 雉岡城 児玉城 菖蒲城 杉山城 高見城 天神山城 難波田城(南畑城) 花園城 本庄城 松山陣屋 毛呂城(山根城) 蕨城 深谷城 鉢形城 吾那蜆城(大築城) 大堀山城 忍城 騎西城(根古屋城) 北秋津城 寿能城 菅谷館(城) 高坂館 滝の城 仲山城 根古屋城(龍谷城) 花崎城 羽生城 松山城 源範頼館 石戸城 山口城(児泉城)

千葉県
館山城 山下城 高月城 三原城 金山城 岡本城
勝浦城 金山城 山田城 鶴ヶ城 大多喜城 根古屋城 佐貫城 造海城(百首城) 百首城(造海城) 飯野陣屋 大戸城 久留里城 千本城 真里谷城 久保田城 大網城 小西城 坂田城 田中城 古城 高田城 宮崎城 山中城 坂田城 津辺城 富田城 成東城 松尾城 森城 今泉城 千田城 根古屋城 丸山城 榎本城 高山城 一宮城 小林城 本納城 牛久城 高田城 根古屋城 引田城 村上城 佐倉城 本佐倉城 大椎城 小弓城 亥鼻城 土気城 馬加城 生実城 高品城 大草城 御茶屋御殿 金堀城 中野城 中山城 鷺沼城 実籾城 米本城 臼井城 小林城 飯野城 高岡城 長沼城 鷺山城 中野城 大崎城 大戸城 山崎城 白井城 長岡城 山崎城 牛尾城 今泉城 和田城 内山城 長岡城 横須賀城 吉田城 高根城 金杉城 米ケ崎城 夏見城 大野城 国府台城 国分城 深井城 関宿城 増尾城 松戸城 栗ケ沢城 根木内城 小金城 佐津間城 小竹城 井野城 下高野館 先崎城

東京都
江戸城(皇居) 赤塚城 奥沢城 小田野城 葛西城 片倉城 勝沼城 辛垣城 品川台場 渋谷城(金王丸城) 志村城(板橋城、篠田城) 八王子城 石神井城 浄福寺城 深大寺城 世田谷城 高月城 滝山城 戸倉城 練馬城 初沢城 平塚城 小野路城 成瀬城

神奈川県
小田原城 足柄城 進士ヶ城 鷹之巣城 岡崎城 住吉城 玉縄城 浦賀城 三崎城 津久井城 石垣山城 石垣山一夜城) 大庭城 河村城 衣笠城 深見城 淵野辺城 荻野山中陣屋
小机城 笹下城 榎下城 茅ヶ崎城 大塚・歳勝土遺跡 枡形城 小沢城

新潟県
春日山城 北条城 高田城 長岡城 勝山城(落水城) 渟足柵 沼垂城 磐舟柵 村上城(本庄城・舞鶴城) 鳥坂城 栖吉城 栃尾城(舞鶴城) 蔵王堂城 新潟城 木場城 蒲原津城 上杉館 根知城 猿毛城 下田城 畑野城(熊谷城) 上条城 新発田城 村松城 三条城 津川城(麒麟山城) 赤谷城 五十公野城 河原田城(獅子ヶ城) 箕冠城 本与板城 与板城(直江城、直江山城) 与板城(与板陣屋) 赤田城 新津城 田中城 鮫ヶ尾城 坂戸城 平林城 福島城 雁金城 安田城 (越後国刈羽郡) 安田城 (越後国蒲原郡) 天神山城 長峰城
羽茂城

富山県
富山城 阿尾城 安楽寺城 安田城 安養寺城 井口城 井波城 一乗寺城 猿倉城 鴨城 岩木城 願海寺城 宮崎城 弓庄城 魚津城 源氏ヶ峰城 古国府城 御峰城(土山御坊) 今石動城 今泉城 寺家新屋敷館 柴田屋館 守山城 宗守館 小出城 庄ノ城(壇城) 松倉城 上見城 城生城 高岡城 城端城 赤丸城 千代ヶ様城 浅井城 増山城 太田本郷城 大村城 大峪城 池田城 (越中国射水郡) 池田城 (越中国新川郡) 中村山城 長沢西城 長沢東城 天神山城 湯山城(森寺城) 道坪野城 日宮城(火宮城) 日方江城 白鳥城 飯久保城 富崎城 布市城 福光城 放生津城 名畑城 木舟城 野尻城 蓮沼城

石川県
金沢城(尾山御坊) 小松城 大聖寺城 松任城 鳥越城 二曲城 津幡城 高尾城 松根城 朝日山城 岩倉城 荒山城 日谷城 今江城 虚空蔵城 南郷城 檜谷城 柏野城 高松城 森城 多田城 舟岡城 竹橋城 朝日山城 堅田城 一瀬城 七尾城 小丸山城 末森城 穴水城 天堂城 崎山城 (能登国) 末吉城 松波城 正院川尻城 飯田城 甲山城 幾保比城 石動山城 棚木城 荒屋城 棚懸城 勝山城 荒山城 金丸城 柴峠砦 石動山城 三日城 新宮城 富来城 木尾嶽城

福井県
一乗谷城 福井城(北ノ庄城) 金ヶ崎城 敦賀城 丸岡城 杣山城 小丸城 大野城 勝山城 三国湊城
後瀬山城 小浜城 国吉城 高浜城 箱ヶ岳城

山梨県
躑躅ヶ崎館(武田氏館) 甲府城(舞鶴城・一条小山城・府中城) 新府城 白山城 能見城 勝沼氏館 谷村城(谷村館) 上野原城 岩殿山城 小山城 勝山城 (甲斐国都留郡) 勝山城 (甲斐国八代郡) 要害山城 積翠寺城) 若神子城 谷戸城 御坂城

長野県
松本城(深志城) 上田城 小諸城 林城 井川館(井川城) 桐原城 山家城 埴原城 村井城(小屋城) 平瀬城 小岩嶽城 青柳城 大峰城 麻績城 真田本城(松尾城) 塩田城 岡城 丸子城 長窪城 内山城 志賀城 海ノ口城 春日城 (信濃国伊那郡) 龍岡城 戸石城(砥石城) 尼巌城 井上城 葛山城 旭山城 横田城 横山城 栗田城 生仁城 霞城 室賀城(原畑城、笹洞城) 松代城(海津城) 高遠城 塩崎城 清滝城 髻山城 長沼城 吉窪城 葛尾城 屋代城 荒砥城 牧之島城 古山城 割ヶ嶽城 飯山城 高梨氏館 鴨ヶ嶽城 内池館(市河氏館) 上原城 桑原城(高戸屋城) 高島城 望月城 春日城 (信濃国佐久郡) 春山城 羽場城 福与城 箕輪城 飯田城 鈴岡城 松尾城 (信濃国伊那郡) 大島城 道本城 福島城(木曽福島城) 妻籠城 森城 矢筒城

岐阜県
岐阜城 (稲葉山城) 郡上八幡城 阿木城 伊木山城 一柳城(大洞城) 鵜沼城 猿啄城(猿ばみ城、勝山城) 下切館 加治田城 加納城 革手城 刈安城 関城 岩村城 顔戸城 久々城 久々利城 金山城 戸狩城 広恵寺城 高桑城 黒野城 今城 根本城 (美濃国) 妻木城 細野城 鷺山城 三井城 山口城 篠脇城 十七条城 小原城 小倉山城 小野城(迫間城) 小里城 松尾山城 大垣城 上茜部城 跡部城 川手城 川田城 曽根城 太平城 大桑城 大森城 竹ヶ鼻城 長山城 長森城(切通陣屋) 椎倉城 鶴ヶ城 東殿山城 藤橋城(杉原砦) 堂洞城 八神城 飯羽間城 苗木城 伏屋城 米田城 片山城 菩提山城 北方城 墨俣城 本郷城 本城山城 無動寺城 明知城(明智城) 明智城 (美濃国可児郡) 毛利山城 柳津城 揖斐城 和知城 鉈尾山城
帰雲城 向小島城 広瀬城 江間氏下館 高原諏訪城 高山城 桜洞城 山下城 小鷹利城 小島城 松倉城 神岡城 増島城 東町城 萩原諏訪城 萩町城 尾崎城 馬籠城 松倉城 田代城

静岡県
駿府城 江尻城 興国寺城 葛山城 深沢城 花沢城 大宮城(富士城) 久能城(久能山城) 興津城(横山城) 蒲原城 沼津城 三枚橋城 持船城 丸子城 田中城 長久保城
韮山城(龍城) 山中城 深根城 高谷城 鎌田城 下田城(鵜島城) 長浜城 熱海城 戸倉城
掛川城 浜松城 高天神城 二俣城 天方城 犬居城 高根城 (遠江国) 諏訪原城 井伊谷城 宇津山城 堀江城 久野城 馬伏塚城 横須賀城 横地城 小山城 相良城

愛知県
清洲城(清須城) 名古屋城 那古野城 勝幡城 古渡城 末森城 守山城 岩倉城 小牧山城 犬山城 黒田城 入尾城 岩崎城 鳴海城 沓掛城 上条城 小折城 大高城 緒川城 大草城(知多市) 大草城(小牧市) 大野城(常滑市) 大野城(現一宮市) 大野城(愛西市) 一宮城 小田井城 楽田城 下大留城 下奈良城 下之一色城 白山城 早尾東城 吉田城(柏井城) 西溝口城 光明寺城 今村城 (尾張国) 横山城 (尾張国) 大留城 苅安賀城 木ノ下城 高田城(河田城) 九之坪城 奥城 竜泉寺城
岡崎城 安祥城 刈谷城(亀城) 西尾城(西条城) 東条城 上ノ郷城 寺部城(寺部陣屋) 真弓山城(足助城) 山中城 牛久保城 二連木城 牧野城 吉田城(今橋城、豊橋城) 田原城 長篠城 野田城 田峰城 井田城 大給城 大津城 亀山城(作手城) 挙母城(七州城) 中島城 形原城 上条城 (三河国) 上菱野城 川口城 月ヶ谷城 五本松城 古宮城 深溝城

三重県
長島城 亀山城 上野城(伊勢上野城) 長野城(中根城) 桑名城 田丸城(玉丸城) 津城(安濃津城) 神戸城 松ヶ島城 松坂城 大河内城 霧山城 多芸城 五ヶ所城 白米城 高城 枳城 家城城 鳥羽城 波切城 上野城(伊賀上野城・白鳳城) 名張城 丸山城 (伊賀国) 福地氏城 千賀地氏城 赤木城 中村山城 (紀伊国) 鬼ヶ城 仲氏館 関山砦 山ノ神砦 三木城 (紀伊国) 長島城 (紀伊国)

滋賀県
彦根城 安土城 大津城 小谷城 坂本城 佐和山城 膳所城 長浜城 水口城(碧水城) 水口岡山城(水口古城) 横山城 望月城 鎌刃城 上平寺城 東野山城 山本山城 水茎岡山城 観音寺城 山崎山城 八幡山城 壺笠山城 宇佐山城 日野城 箕作城 清水山城 大溝城 三雲城 朽木谷城 荒神山城 河瀬城 肥田城 鯰江城 高宮城 寺村城 矢守城

京都府
二条城(二条御所) 勝竜寺城 聚楽城(聚楽第) 山科本願寺 伏見城(桃山城) 槇島城 嵐山城 鹿背山城 淀古城 淀城 船岡山城 山崎城 (山城国)(宝寺城、天王山城) 堂ノ庭城 将軍山城(瓜生山城、北白川城) 福知山城 亀山城(丹波国) 八木城 (丹波国) 神尾山城 園部城
建部山城 田辺城(舞鶴城) 宮津城 弓木城

大阪府
大坂城(錦城) 池田城 茨木城 三宅城 芥川山城 芥川城 高槻城 丸山城 (摂津国能勢郡) 野田城 福井城 (摂津国) 安威城 安威砦 榎並城 太田城 (摂津国) 江口城 堀城 柴島城 大塚城(茶臼山陣城) 大和田城 普門寺城 郡山城 (摂津国) 吹田城 原田城 地黄城(地黄陣屋) 石山本願寺 佐保来栖山砦 岸和田城 淡輪城 深井城 畠中城 雨山・土丸城 千石堀城 貝吹山城 積善寺城
若江城 高屋城 飯盛山城 交野城 枚方城 高安城 上赤坂城 下赤坂城 野田城 岡山城 田原城 野崎城 千早城 平石城

兵庫県
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奈良県
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鳥取県
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島根県
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岡山県
岡山城(烏城) 乙子城 奈良部城 砥石城 三石城 富山城 茶臼山城 天神山城 亀山城(沼城) 金川城 虎倉城 飯盛山城 (備前国) 舟山城 明善寺城 中島城 保木城 常山城
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広島県
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山口県
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徳島県
徳島城 一宮城 夷山城 撫養城 土佐泊城 立江城 牛岐城 川島城 上桜城 仁宇城 岩倉城 重清城 秋月城 日和佐城 海部城 勝瑞城 脇城 大西城 白地城 田尾城 西条城 木津城 板西城

香川県
高松城(玉藻城) 丸亀城(亀山城、蓬莱城) 天霧城(雨霧城) 引田城 勝賀城 本台山城 雨滝城 虎丸城 藤尾城 羽床城 笠島城 詫間城 星ヶ城 屋島城 十河城 香西城 昼寝城 作山城 前田城

愛媛県
伊予松山城 今治城 湯築城 高穴城 荏原城 甘崎城 霊仙山城 犬尾城 一之森城 萩森城 高峠城 象ヶ森城 米津城 仏殿城 甲之森城 黒瀬城 龍王城 恵良城 港山城 土居城 国分山城 告森城 吉岡山城 岡本城 金子山城 常磐城 宇和島城 大洲城 横山城 花見山城 縦淵城 忽那山城 能島城 来島城 石城 法華津本城 大森城 岡崎城 高尾城 世田山城 鹿嶋城 三滝城 松前城 河後森城 土山城 大浜城 鷺ノ森城 海辺城 畠山城 松葉城 曽根城

高知県
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福岡県
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長崎県
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鹿児島県
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沖縄県
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五稜郭と四稜郭 [函館]


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五稜郭と言えば箱館戦争(函館戦争)、箱館戦争と言えば土方歳三を思い浮かべる人は少なくないと思います。
五稜郭の全体を見るためには五稜郭タワーが一番です。エレベーターで昇ると約100mの高さから星型の五稜郭が一望できます。残念ながら大きすぎて全体を撮ることは出来ませんでした。
五稜郭の真中の温室のような建物の中で2006年7月13日から2010年度の工事で昔の建物を復元したそうです。この写真は2009年なので今は完成した建物を見ることが出来とおもいます。ここも紅葉がきれいでした。
四稜郭と言うのが五稜郭の北北東約3.5㎞の丘陵にあるそうです。上の写真の丘のあたりにあると思います。

星のイメージを判ってもらうために右側も撮ってみました。
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左側も紹介いたします。
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五稜郭タワー内部です。


場内からの五稜郭タワーです。
五稜郭タワーは、民間の観光施設で、1964年(昭和39年)12月に五稜郭築城100年を記念して高さ60mの旧タワーが開業し、写真の新タワーは旧タワーの隣にあった料亭「稜雲亭」跡地に2004年11月に着工して2006年3月に竣工、同年4月1日に開業、同年12月1日にグランドオープンしました。五稜郭にちなんで断面形状を塔は星形、展望台は五角形とし、高さは107m(避雷針高)だそうです。


函館の町から見た五稜郭タワーです。展望台は高さ90m(展望2階)と86m(展望1階)の2層からなり、約500人が収容可能だそうです。
1階には土産物売店があり2階には直営コーヒーショップ「Cafe107」があります。1階のみやげ物店は充実しており、早めに土産物をゲットして函館観光をしたい人にはおすすめです。我々もじゃが豚などのお土産をここで買いました。タクシーを契約して半日または一日、函館市内を廻る場合は、チケット売り場の人に運転手さんが声を掛けてもらうとチケットを割引してもらえるので、詳しくは運転手さんに聞いてみてください。


五稜郭場内を紹介いたします。


幾何学的な城壁も近くで見ると全体は判らないですね。見た目は器楽的できれいだけれど大砲が主火器のなりつつある時代では無防備に近いものであったようです。防御壁としては土塁を築き、砲弾のショックを吸収するのが稜堡式の築城様式の特徴であるが、五稜郭の場合は土塁を築こうにも北海道の寒冷な気候に適合せず、冬の間に凍った土塁が、春に温かくなると崩壊するという困難に直面した。そのためわざわざ石垣を築き、その上に土を盛るという手間をかけていたそうです。一番の問題は、既にヨーロッパでもこのような稜堡式の築城様式は、いささか旧式化していたことでありました。堡塁を重ねるのは小銃を防御兵器として用いるための方式であり、当時のヨーロッパでは大砲を掩体壕に据えての防御へと移行しつつあった時期でした。ちなみに同時期に東京湾に築かれた台場は、大砲を用いる要塞施設でした。


遠距離や海からの大砲の標的にならないように低く造られているのが本来の姿でしたが高い建物を建ててしまったために官軍の大砲の目標になり沢山の弾が着弾してしまったそうです。当時の建物の写真→ポチッ
飛行機が出来て初めて幾何学的な城壁のすばらしさがわかったでしょうね。今はタワーがあるので気楽に感じることが出来ます。
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城壁の内側は土塁になっていました。思っていたよりも広かったです。
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紅葉もすばらしかったです。城壁沿いは桜の木が並んでおり春の桜の名所でもあります。
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五稜郭の設計者はあまり知られていませんが、この碑によって武田斐三郎氏の設計および監督によって造られた城であることを知りました。当時の正式名称は亀田役所土塁(柳野城とも)で、五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に現在の北海道函館市に建造された城郭および当時日本で建造された星形の城郭の通称で、長野県佐久市の龍岡城(未完成)も五稜郭として知られていますが、一般的に「五稜郭」といえば函館のそれを指しており、国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されて名実共にここが五稜郭になったようです。
  1857年(安政4年) 工事開始
  1864年(元治元年) 竣功 業務開始
  1866年(慶応2年) 完成 


拝借したGoogleの衛星写真です。 左下にあるのが五稜郭タワーです。


衛星写真で四稜郭を探してみました。四稜郭は1869年の箱館戦争時に急造された洋式築城法に基づく堡塁(ほうるい)です。五稜郭および鎮守府である東照宮を防御するため築造されたものだそうです。


五稜郭と四稜郭の位置が判ってもらえると思います。
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五稜郭内の昔の建物の配置です。


五稜郭駅から木古内駅(上磯郡)を経て江差駅(檜山支庁檜山郡)を結ぶJR江差線を走っているディーゼル車です。この電車に乗りました。

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