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1月14日は青菅のどんどれえ 2014年 [風習・歴史]

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毎年1月14日に、千葉県佐倉市青菅地区では正月飾りなどを燃やす「どんど焼き」が行われています。江戸の初期から続く小正月の伝統行事ですが、この青菅地区では「どんどれえ」と呼ばれています。規模が大きく一般には「青菅のどんどれえ」と呼ばれています。わが家からは歩いて10分くらいの距離なので昨年初めて見に行きましたが吹雪のような大雪と強風で本来の「青菅のどんどれえ」ではなかったと聞きましたので、今年2014年は是非とも見に行くつもりでした、天気も良く見事な「青菅のどんどれえ」を見ることが出来ました。中々の伝統行事であったことから紹介いたします。
   2013年の青菅のどんどれえ → ポチッ

「どんどれえ」の全景は夜は見えないので昼の間に撮った「どんどれえ」の写真を紹介します。元々は「どんどれえ塚」を建てるところを撮りたかったのですが2014年1月11日に見に来た時にはすでに、この写真の状態でした。「どんどれえ塚」は「ドウシンボク」と呼ばれる1本の竹を中心に、9本の孟宗竹を直立に立てて作られるそうです。
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どんどれえ塚には太い竹を切ったものが組み込まれています。これが爆発すると、どんという音するから、どんどれえの名前になったようです。これはかなりの迫力でした。これが本当の爆竹なのでしょう。
一般には、「どんど焼き」と言われるこの行事ですが、青菅の「どんど焼き」が「どんどれえ」と呼ばれる理由をネットで調べてみると、この竹が破裂する音にあるそうです。称念寺の先代の御住職・小島令考氏(故)によって記されたものに爆竹の「どんど」に「払い」が訛って「はれえ」となった語が続き、「どんどはれえ」が「どんどれえ」となったもので、言葉の意味としては、「爆竹の大きな音で、悪魔払いをする」そうです。この「どんどれえ」の呼び名に悪魔払いの意味が含まれているようでした。
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わが家から持ってきた今日月飾りも燃やしてもらうために置きました。この大小の2つの正月飾りが我が家から持ってきたものです。


Googleの航空写真で「青菅のどんどれえ」が行われた場所を紹介いたします。航空写真でもはっきりと「どんどれえ塚」がわかります。
赤色マーク( )の場所です。

より大きな地図で 青菅のどんどれえ塚 を表示
毎年18時きっかりに点火するそうなので家を17時30分に出発して、どんどれえ塚に17時40分に到着いたしました。ここからは時間の順番に写真を紹介いたします。
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お願いの表示があったので、初めての方のために紹介いたします。ダルマ、人形、ゴム製品、ゴミはだめです。門松、注連縄、お札などを持ってきて焼いてください。


18時が近づいてきたので、どんどれえ塚に、お神酒をかけていました。これが最初の行事でした。


18時にお孫さんと思われる小さな子供さんと二人で火を着けます。灯油を湿らせた松明に火を着けました。青菅のどんどれえは2007年6月に市指定無形民俗文化財になりました。
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どんどれえ塚に点火です。
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点火は2人だけで行ないます。塚の周りを回りながら周囲に火を着けます。
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火はすぐに大きくなっていきます。
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点火して2分で、火はこの勢いになりました。大雪だった昨年とは大違いでした。
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この時は見ている方は比較的近い位置で火が大きくなっていくのをみまもられていましたが、火がさらに大きくなってくると遠くに離れました。皆さんが持っているのは先端に餅が付けられた竹や木の棒です。
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高く積み上げられた部分に火が上って行きました。
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遠くから撮った写真です。
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クリックすると拡大火の近くの人は減ってきました。皆さん熱いので遠くに離れたのです。ちょうどこのころが冒頭の写真の時間で、18時3分でした。つまり火を着けて3分でここまで火が大きくなるのです。
以前は1月14日に小正月の行事として男の子を中心として行われていましたが、現在では区の行事として大人とともに行われています。そんな伝統があることから子供さんが火を着けていたのだと思います。周囲から燃え上がった火が、中央の竹の「ドウシンボク」に移り地面に倒れると、その倒れた方角で一年の豊凶を占います。
火が下火になった頃に、ザンマタ(二股)の栗の枝に一個ずつ餅を刺し、焼いて食べると一年間風邪を引くことがないと言われています。また、門松の燃えさしを、家の門口に立てて盗難除け、魔除けとするそうです。
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火の粉も舞い始めました。これから炎が最も迫力を増してくる時期になってきます。この時が18時4分です。火を着けて、たった4分しかたっていないのです。
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木の枝や竹が積み上げられた部分が本格的に燃え上がり始めました。
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炎に包まれました。この後、迫力のある竹が破裂する音が続きました。
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爆竹の音を紹介したくて動画を掲載いたしました。動画のプレーボタンをクリックしてもらうと竹が破裂する音を聞くことが出来ます。爆竹の「どんど」という大きな音で悪魔を祓う意味があるようです。


火の粉もさらに舞い上がる勢いを増しました。
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こちらの動画でも竹の破裂音を聞くことが出来ます。


高く立てられていた竹が焼けて倒れ始めました。
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迫力の炎の伝統行事です。
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満月が出ていたので満月と青菅どんどれえのツーショットも掲載いたします。
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竹はすべて焼け落ちました。この時、18時11分でした。
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遠巻きに皆さんは見ておられました。


餅を焼くために竹の先に大きな餅を刺して待っておられました。皆さんつきたてのお餅で焼かなくても食べれるほど柔らかな餅ばかりでした。


二股の栗の木の枝に餅を刺して焼くのが正式な焼き方だそうです。簡単には長い栗の枝は手に入らないためか、ほとんどの方が竹を使われていました。


360度を紹介する動画です。全体の雰囲気が判ってもらえると思います。


まだ火が大きいことが判ってもらえると思います。皆さん、餅を焼くために近づくことが出来るまで火が弱まるのを待っているのです。


心なしか、炎が小さくなってきました。
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炎は、まだ強いけれども餅焼きが始まりました。焼いた餅を食べると一年間、風邪を引かずに健康に過ごせるそうです。


完全に焼かなくても炙る程度でよいと話されていました。何しろ熱いので餅が焼けるほど近くに居続けるのは大変なのだと思います。


沢山のお餅が焼かれ始めました。


地元のテレビ局の人が「青菅のどんどれえ」を取材に来られていました。女性のキャスターの方が小さな子供さんにインタビューをしているところを撮っているところです。放送は2月16日(日曜)の朝の番組だそうです。静止画だと完全防寒の小さな男の子が判りにくいので簡易動画にいたしました。手に持っている餅の動きでインタビューを受けている青い服の男の子が、わかってもらえると思います。


まだ火の勢いが結構あることを紹介したいので、この写真を掲載いたしました。


テレビ局の方も餅焼きの光景を撮られていました。
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偶然照明が当たった写真が撮れたので掲載いたしました。決死の覚悟で餅を焼いているのが判ってもらえると思います。この時、18時26分でした。19時に近くなると比較的楽に焼くことが出来ます。見学に来られた方は、つきたてのお餅を一つもらえるので、家内は竹を貸してもらい焼きました。それを、その場で食べたので今年は風邪を引かないと思います。
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餅を焼いている場面の動画です。


少し炎が小さくなってきました。
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短時間なら、餅を焼くところを近くで撮ることが出来るくらいの熱さになってきました。
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でも時々、崩れて炎が大きくなることもありました。
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皆さんが餅を焼き終わったのが19時53分でした。火がおさまると地元の消防団の方が水をかけるということなので、我々も家に引き上げました。
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翌日の早朝にワンコの散歩を兼ねて来てみると、どんどれえ塚はきれいに燃え尽きていました。中心の「ドウシンボク」が確認できました。青菅区自治会の方、ならびに消防団の方、ありがとうございました。遅くまでお疲れ様でした。
 So-net内の「どんど焼き」の記事→1週間 6ケ月 1年 無制限 どんどれえ
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千葉県佐倉市青菅地区で米の生産・販売IMG_8129-50.jpgされている方のホームページ「らいすぼうい」の中に「青菅のどんどれえ」に関する詳しい説明があったので、そのまま枠内に転記する形で紹介いたします。ホームページの会社も紹介します。
 【会社名】   有限会社 らいすぼうい
 【代表者】   三門 増雄
 【所在地】   千葉県佐倉市青菅272
 【電話番号】  043-487-6965
 【特徴】     あいがも農法 冬みず田んぼ
青菅の「どんどれえ」 
青菅(あおすげ)の「どんどれえ」は、千葉県佐倉市青菅で行われる小正月の行事です。江戸時代初期にこの地を知行した旗本川口氏の頃に始まったと伝えられています。市内でも数少なくなった民俗行事です。 1月14日の夕方に、正月の門松やしめ縄を「どんどれえ塚」と呼ばれる場所に一か所に集め、高く積み上げて焼きます。以前は、14日に小正月の行事として男の子を中心として行われていましたが、現在では地区の行事として大人とともに行われています。
この青菅の「どんどれえ」について、佐倉市文化財審議会委員の長さんが、昭和60年代当時、お年寄りから聞いて書き留めたもの、またご自身で調査された結果をまとめた貴重な資料がありますので、それをもとに詳しく紹介したいと思います。

◆ なぜ、「どんどれえ」?
一般には、「どんど焼き」と言われるこの行事、どうして「どんどれえ」と言うのでしょう。称念寺の先代の御住職・(故)小島令考氏によって記されたものによると、爆竹の「どんど」に「払い」が訛って「はれえ」となった語が続き、「どんどはれえ」が「どんどれえ」となったもので、言葉の意味としては、「爆竹の大きな音で、悪魔払いをする」とあります。実はこの名称は、この行事の本質を最も端的に表している言葉だったのです。

◆ 九本のご神木
青菅の「どんどれえ」では、「どんどれえ塚」に、「どうしんぼく」と呼ばれる 1本の竹を中心に、9本の孟宗竹を直立に立てて火をつけます。その一本一本は上部に枝葉を残してあとはきれいにとってしまいます。これは、神様の依り代(よりしろ)を表しています。依り代とは、神様が降りてこられる所のことです。真ん中に立てる竹を「どうしんぼく」と言いますが、「中心にある神木」の意味です。
全国のどんど焼きや左義長では、割合多くのところで一年12ヶ月を表す12本の竹を立て、うるう年には、1本多く立てています。つまり、月々の悪魔払いをして一年の無病息災・五穀豊穣を祈願しているのです。他に36本というのもあり、これは12ヶ月と24節気を合わせた数だそうです。つまり、この行事は、暦数や天体、吉凶を占うことと深く関連があります。
青菅の場合の「9」という数についてですが、「九曜」ととらえられています。九曜に対する信仰は日本では平安時代にさかのぼります。「七曜」とは、「日・月・火・水・木・金・土」のことで、「九曜」はこれに「羅ゴウ(漢字は目へんに侯)・計都」という想像上の星を加えたものです。

◆「どんどれえ」の歴史
小島令考氏によって記されたものによると、その歴史は、青菅に旗本の川口氏がおかれた江戸時代初期にさかのぼるようです。初期の「どんどれえ」は、「小陣屋口の全戸がクズ束を持ち寄り夕暮れに点火したと伝わる」と記されています。つまり、この行事の始まりは、陣屋口からということになります。
(『佐倉市史』には、青菅は慶長 11年(1606年)から元禄11年(1698年)8月までの約93年間、徳川幕府の直轄地で、川口宗勝・宗信・宗次・宗恒の四代にわたる知行地(治めた所)であり、四代目の宗恒が出た後に、佐倉藩領になった事が記されています。この時、数人の家臣がとどまり、後に「陣屋口五姓」「郷口二姓」と言われるようになったようです。)
明治時代中ごろには、すでに子供の行事としてほぼ現在と同規模になっており、大正時代末ころまでに辺田の子供たちの参加も自由になったようです。戦時中、米軍機が飛来した数年間も日没前にごくささやかに行われ、戦後次第にかつての盛大さを取り戻していったと記されています。記録で見る限り、この行事を行わなかった年がないということになります。

  ◆昔の「どんどれえ」の様子
青菅には、幕府時代から、火災予防のため薪(たきぎ)置き場の共有地があり、そこに「木小屋(きごや)」がありました。今は電気やガス・石油など使い便利になりましたが、以前はカマドや風呂焚きなどに使う一年分の燃料(クズ)を集めるために、冬場の作業として山の中に入りました。燃料は、山林の下枝や下草で、これを刈って束ねたものを木小屋に蓄えたのです。木小屋は、通称「出土」に十数棟、「大和田台」に数棟ありました。子供たちは一軒につきクズを二束ずつもらい、荷車で「どんどれえ塚」まで運びました。(もっと前は、三束ずつ集めたようです)
子供たちは、正月三日から「どんどれえ」の孟宗竹9本分の穴掘りを始めました。周辺の竹林から孟宗竹を切り出し、一本を4~5人で運び、9つの穴に立てました。竹の間にクズ束を積み上げてその上に2人の子供が上がり、竹2本をレールにしてさらに下からクズ束を引き上げて重ねていき、最後に各家から集めた門松などを頂上に積み上げます。「どうしんぼく」に青菅側に倒すための引き綱が結ばれてこれで完成です。
14日当日、午前中にそれぞれの家で新年最初の餅つきをします。前日までに適当な大きさの栗の木を準備しておきますが、14日この木を家の大黒柱に結わえます。ついたお餅は丸餅にして12個を枝にさしたり戸主の年齢の数だけさしたりします。12個というのは、一年12ヶ月が実りある年でありますようにということなのです。これを「成り木」といい、このお餅を「成らせ餅」といいます。栗の木は、一年間繰り回しが良いようにと祈念して使われます。この時に、「どんどれえ」で焼くお餅を、また焼くときに使う長さ2~3mで先が二股に分かれた栗の木の枝も準備します。
夜6時、最上級生の男の子により点火され、炎が上空に上がると子供たちは「どうしんぼく」を青菅側に倒そうと懸命になったようです。一年の吉凶を占っているのです。青菅側に倒れると青菅が豊作、先崎側に倒れると先崎が豊作と言われています。その年一年、豊作でありますようにという祈りがこめられています。

◆無病息災・五穀豊穣を祈願
火が下火になった頃に、ザンマタ(二股)の栗の枝に一個ずつ餅を刺し、この火にかざして焼きその場で食べますが、これで、一年間風邪を引くことがないと言われています。また、門松の「燃えちゃれ(=燃えさし)」をいただいて帰り、門口にさします。こうすると、「盗難除け」「魔除け」になると言われます。また他にも、「どんどれえ」を行えば火災は起こらない、正月の焚き火は「どんどれえ」前にはやらない、正月にとった燃料は、「どんどれえ」前には燃やさない(これを犯せば火事になると信じていた)、などの言い伝えがあります。
「青菅には心から誇れる歴史も伝統行事もございます。一つの行事が、長く続いて来たということには、やはりそれなりの確かな意味を伴っております。その意味を知ってこそ、行事にたずさわる意欲そして大きな喜び、さらに郷土への誇りも湧いてくるのではないでしょうか。」と、佐倉市文化財審議会委員の長さんは、最後をこう結んでいます。
古くから青菅にある家から、小学校に通う子供は非常に少なくなってしまいましたが、今は大人が中心になって、現在もこの伝統行事を続けています。

青菅村の歴史  
印旛沼に注ぐ青菅川の北に先崎村、南に青菅村と相対している。 ・慶長十一年(1606年)以来、旗本川口宗勝領で印旛・葛飾両郡で領した二千五百石のうちの一部(宗勝は初め織田信長に任う)。
・承応二年(1653年)葛西郡青菅村田畑改帳を集計すると、田畑屋敷合わせて一町歩以上が六名、八反部以下四名(当時の佐倉領内の地村と比べて富裕である)
・元禄十一年(1698年)、治世4代で宗勝は采地が香取郡に移される。その跡は佐倉城主戸田忠昌の領となり、初めて地名に印旛郡を冠した。
・元禄十四年(1701年)、佐倉領となったのを機に、城主戸田忠昌の役所に差し出した「青菅村差出シ帳」に、「村高百四十一石六百九十五、田方十四町四反三畝二十歩、畑屋敷合四町三反一畝十五歩、御林八ヶ所」(この内訳を延享三年(1746年)、掘田城主に看わした青菅村明細帳より摘記すると「御林八町八反二畝・御塚村三町四畝・木ノ宮林二町四反五畝・西山林四反六畝・向原林三町二反六畝・別所林七反・稲荷林一町五反一畝・妙見林一反九畝」)で藩有林となった面積、争数が多いのが注目される。なお延亨三年の差出シでは他に馬数二十九疋、家数二十六軒(内、本百姓二十二軒、水呑四軒)となっている。
・天保三年(1832年)の免定(割付)では村高百四十五石七十三、納合米五十八石二百三十二、永一貫八百九十一文(野銭)、鐚四貫十三文(山銭)。寺社では浄土宗鎮西派称念寺(天正五年(1577年)創建)、真言宗正福寺(領主川口氏の菩提寺)がある。
・明治22年(年)で面積一四三町一反三畝、世帯三三、人口一九五人あった。
(出典:佐倉市史・第一章 社会生活 P41-42)

青菅どんどれえ塚の位置をGoogle地図で紹介します。
 どんどれえ塚         住所:千葉県佐倉市青菅69-2
 ユーカリゴルフプラザ駐車場  住所:千葉県佐倉市先崎233
 ━━ ユーカリが丘線中学校駅からの徒歩ルート 1.4km
 ━━ ユーカリゴルフプラザからの徒歩ルート  740m