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ニュー・プロビデンス島 [バハマ]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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カリブ海の島国であるバハマの首都ナッソー(Nassau)がある島が、ニュー・プロビデンス島(New Providence Island)です。バハマは約700の島々と2,400の岩礁からなる、ほぼサンゴ礁の群島です。その中でもニュー・プロビデンス島は大きな島では、ありません。それでもバハマ全人口30万人の内、半数の15万人が住む経済的には大きな島です。バハマの人種構成は、アフリカ系黒人が 85%、白人が 12%、アジアやラテンアメリカ系人が 3%の黒人の島なのです。
写真の場所はアメリカからのカリブ海クルーズの大型客船のバハマ(Bahamas)の玄関口(国際港)です。
その港はニュー・プロビデンス島とパラダイス島の間の作られています。
この日(火曜日)は5隻の大型クルージング船が入っていました。バハマは1973年にイギリスから独立した独立国ですから、ここニュー・プロビデンス島のナッソー港で入国審査が行われるのだと思います。
写真から5隻の船の名前を読み取りました。上の写真をクリックするとわかると思います。
奥から
  1 SEVEN SEAS MARINER →ポチッ
  2 Celebrity CENTURY     →ポチッ
  3 不明
  4 MAJESTY SEAS       →ポチッ
  5 Carnival SENSATION   →ポチッ   です。
いずれもすばらしい船です。それにしても料金もすばらしいです。

大型クルーズ船の手前の観光客の人が乗った豪華な双胴ヨットは、これからバハマの別の島に行くのだと思います。バハマの雰囲気が出ていますね。写真をクリックすると双胴ヨットの全体が表示されます。このヨットは今や観光スポットとなっているストローマーケット(Straw Market)の前に停泊していました。


一度紹介したこの写真です。前日の月曜日にはこの1隻だけでした。写真は宿泊していたホテルから撮ったものですが同じ場所です。前々日の日曜日には船は停泊していなかったし火曜日にはこの船は出航していたので、この船は1日だけの寄港だったことになります。


同じ船を海岸からも撮りました。大きさが実感出来ると思います。
船の煙突の白いシルエットが気になって写真を拡大してみてそれがミッキーマウスであることが判りました。さっそくネットで検索してみました。→ポチッ
この船の名前はDisney WONDERといいます。船体の真中あたりに書かれています。
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カジノのあるパラダイス島(Pardise Island)との連絡船です。パラダイス島へは橋でもつながっているので車でもいけますが写真の連絡船(US$3)でも行くことが出来ます。
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港には沢山の馬車も待ってくれています。


バハマ全体の地図
これがニュー・プロビデンス島の全体です。 の部分が国際港で下記のナッソーの市街地の地図もこの場所です。我々の泊まったホテルもここにありました。


港の近くのダウンタウンです。
IMG_5547-2.jpg

500万アクセスに到達いたしました。 [SNS]



2014年3月30日18時15分に累計アクセス数(総閲覧数)が500万に達しました。So-netブログを2009年5月5日14時59分に始めたので4年10ケ月25日(1790日)と2時間26分目に達成したことになります。niceの数も188,700をいただきました。これはすべて訪問していただいた皆様のおかげです。ありがとうございました。
クリックすると記事を表示偶然ですが、関西に住んでいる息子が北海道に転勤になり3月30日0時5分にフェリーで舞鶴発を出発しました。小樽に着くのは20時45分なので、500万アクセス到達時は海の上でした。

18時13分に総閲覧数の累計が4,999,734と表示されていたものが、18時15分に5,000,280になりました。2分間で546の閲覧があったわけではなく、下のグラフのように総閲覧数の表示が3時間ごとしか更新されなかったためです。したがって実際に閲覧数が5,000,000に到達したのは15時16分から18時15分の間で、もう少し絞り込むと、印の16時45分ごろだと思われます。
確認出来ている累計アクセス数の表示は次の通りです。
  3月30日06:14~09:11 4,998,189
  3月30日09:12~12:10 4,998,682
  3月30日12:14~15:15 4,999,221
  3月30日15:16~18:13 4,999,734
  3月30日18:15~21:15 5,000,280
  3月30日21:16~00:15 5,000,835
  3月31日00:16~03:16 5,001,373
  3月31日03:17~06:15 5,001,870
  3月31日06:16~09:16 5,002,198
このグラフを作るにはデーター収集のためには、パソコンに24時間張り付いて冒頭の画面を確認してメモし続ける必要があるので、結構大変でした。普通では簡単ではありませんが、500万アクセスは滅多にないことなので出来たのだと思います。


こちらは時間ごとのアクセス数です。こちらのグラフはSo-netさんのアクセス解析からデーターを取り込むのでグラフ作成は事後に出来るので簡単です。


クリックすると全体表示下のグラフは累計アクセス数と累計nice数の推移です。2014年3月30日18時15分時点のアクセスとniceなどの数値は以下の通りです。
     累計アクセス数 5,000,280件
     累計nice数   188,720件
     niceと思った人 7,574人
     読者数     315人


一日当たりアクセス数と訪問者数をグラフにしたのがこちらです。日によって、ばらつきます。2009年5月5日からの全データーをプロットしています。従って2014年3月29日の時点で、それぞれ1790点がプロットされています。


一日当たりアクセス数とnice数をグラフにしたのがこちらです。最初の数ケ月はniceがいただけませんでした。一日のnice数は直接に集計できないので累積niceの数日分の増加から一日のnice数を算出してプロットしています。従って移動平均化されています。


100万アクセスに到達するまでのグラフが下記です。So-netブログを初めて2ケ月間はniceが、ほとんどありませんでした。100万アクセスに到達したのは2010年11月17日12時(560日21時間)でした。
今までに到達アクセス数を報告したのは次の3回でした。
    1,000,000アクセス 2010年11月17日12時ごろ
    2,000,000アクセス 2011年10月09日22時ごろ
    2,277,777アクセス 2012年01月31日07時34分
    5,000,000アクセス 2014年03月30日17時ごろ

産み立て卵の洋菓子店 洋菓子HASEGAWA [千葉]

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2014年3月29日追伸 サブタイトル:もうすぐ開店一年目
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昨日(2014年3月28日)、久しぶりに産み立て卵の洋菓子店に行ってきました。
自分の記事を読み返してみると、洋菓子HASEGAWAさんがオープンしたのは、2013年4月18日(木)10時でした。つまり、もうすぐ一年になります。家内は友達と一緒に何度か来ていますが、私がこちらに食べに来たのは、今回で3回目となります。そこで3回目(2014年3月28日)と2回目(2013年9月23日)に食べたスイーツを紹介したいと思います。

先ずは今回のスイーツですが、頼んだのは1回目と同じく、シフォンケーキでした。ただし、前回がオレンジ味に対して今回はコーヒー味のシフォンケーキをたのみました。今回は生クリームとイチゴが添えられていました。自然な味わいなのがHASEGAWAさんを気に入っているところです。
シフォンケーキは下の写真のように、ストレート紅茶と一緒にいただきました。お店のお外ではコロちゃん(17歳の雄犬)が気持ちよさそうに日向ぼっこをしていました。
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家内が頼んだのは、ブルーベリーチーズケーキでした。イチゴとラズベリーがトッピングされていました。そして一緒に頼んだ飲み物はホット・メープルミルクティーでした。偶然ですが私が初めて来たときに家内が頼んだのもニューヨークチーズケーキでした。その時はニューヨークチーズケーキの名前の由来が判りませんでしたが、Sweet of Oregonのチーズケーキを食べる機会があって、焼いたベイクド・チーズケーキであることを初めて知りました。
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お土産は、こちらの2種類のマフィンです。若い店長さんからは「今日からヨーグルト」入りにしたと言われていました。それまでは豆乳入りだったそうです。バナナマフィンとベリーマフィンです。べりーマフィンにはブルーベリーとラズベリーが入れられているようでした。
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こちらのメニューにあるように、産み立て卵の、ごはん物も充実してきていることを知って、近いうちにランチを食べに来ることにいたしました。使われている天日干しのお米は「下高野の辻切り」で紹介した地元の方が作られたものでした。実はお米を作られた方は2012年に藁の大蛇(辻切り)を作る行事に参加させていただいた時に知り合いになった方なのです。さらに今週に庚申塔を探しに下高野を散策しているときに、偶然にも畑作業をされているところでお会いして長谷川養鶏園さんと洋菓子店さんの話題が出たばかりだったのです。



2回目(2013年9月23日)にいただいたスイーツを紹介いたします。実は初めて来たときも評判の卵が使われたプリンを食べたかったのですが、その時は売り切れで食べられなかったのでした。これが2回目で食べることが出来たプリンです。クリーミーなタイプのプリンでした。名前は「はせたまプリン」です。水だしアイスコーヒーと一緒にいただきました。
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家内が注文したのはキェラメルパウンドケーキでした。注文した飲み物はカフェラテでした。
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2013年9月23日のメニューです。


もちろんお土産も買って帰りました。3種類のマフィンを1個づつ買いました。これらは豆乳入りだそうです。
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こちらはお土産用のクッキーです。左がスノーボールクッキーで、右が、うずまきクッキーです。うずまきクッキーをお土産にいたしました。
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こちらもお土産用ケーキです。右が店内で食べたキャラメルシナモンパウンドで、左がクルミとチョコが入ったブラウニーです。このブラウニーをお土産に買いました。
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家に帰って食後のデザートでいただきました。順番に紹介すると、
  左上 青森県産フレッシュプラム・バニラシュガーのマフィン
  右上 レモンとホワイトチョコのマフィン
  左下 バナナとM&M'sチョコのマフィン
  右下 クルミとチョコが入ったブラウニー             です。
写真はクリックすると拡大いたします。
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2013年5月4日掲載 タイトル:産み立て卵の洋菓子店
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家内の知り合いの人が務めていた学校の生徒さんが実家で、小さな洋菓子店を始められたということで、その知り合いの方と家内が先週の土曜日(2013年4月27日)に行ってきました。その実家は養鶏場だとのとこで、もしかしたらと思い、今年の2月の記事「地たまごプリンとチェア 佐倉市立美術館」の中で紹介した長谷川養鶏園さんではないかと聞くと、予想が的中で小さな洋菓子店をやっている若い店長さんの実家は長谷川養鶏園さんでした。
クリックするとオリジナルの写真その時はカフェラテを飲んで卵とお土産のケーキーを買って帰ったそうです。私も養鶏園の洋菓子店を見てみたくなって2013年5月4日に私と家内の二人で、お店にお邪魔しました。残念ながら養鶏園の産み立て卵の黄身を使った右の写真のプリンは売れきれでした。そこで私が頼んだのが上の写真のオレンジのシフォンケーキでした。
右のプリンの写真をクリックすると、お店のFacebookのオリジナルの写真を表示します。

スポンジを見てもらいたくてシフォンケーキを拡大いたしました。シフォンケーキの種類が充実していました。写真をクリックするとさらに拡大します。
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アールグレイティーと一緒にいただきました。養鶏園でスイーツが食べれたり買えたりするのはいいですね。


こちらが家内が頼んでN.Yチーズケーキです。イチゴとブルーベリーとラズベリーがトッピングされていました。
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こちらが店内のテラスです。壁が黒板になっていて、そこにメニューが書かれていました。写真をクリックすると読めると思いますが、5月4日のメニューを紹介いたします。
 シフォンケーキ5種(バニラ、メープル、オレンジ、甘納豆入り抹茶、完熟バナナ)
 オレンジとバナナのショートケーキ、、N.Yチーズケーキ、はせたまプリン
 フレンチトースト2種、たまごかけご飯、パンケーキ、たまごだけサンド
 ドリンク16種
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手元のメニューに「たまごかけご飯のお米は立石さんち」と書かれていました。「下高野の立石さんですか?」と聞くと「そうです。」との答えでした。実は以前に辻切りの風習を紹介させていただいた千葉県八千代市下高野の方だったのです。私の家から歩いて10分くらいところの田んぼのお米でした。ちょっと感激でした。


お店は実家の敷地の建物を改装し2013年4月18日(木)10:00にOPENしたそうです。OPENして17日目でした。
 店名 洋菓子 HASEGAWA
 住所 千葉県佐倉市上志津原173 長谷川養鶏園内
 営業 基本的に金曜、土曜、日曜、(祝日)の9:00~17:00
     正確な営業日は、お店のFacebookで確認願います。
     ちなみに2013年7月の営業日は     
5 6 7 12 13 14 15 19 20 21  26 27 28日 だそうです。
 備考 毎週月曜はOnce Upon A Timeに卵販売に行かれているそうです。


こちらが販売ケースです。5種類のシフォンケーキが並んでいました。シフォンケーキがお得意のようです。お店の説明でも「産みたてたまごで作るシフォンケーキ。 そのときの美味しいものをお菓子にします。。」とネットで書かれていました。


地元の佐倉産の小麦粉を使ったクッキーがあったので買ってきました。
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先週、家内が買ってきたお土産のオレンジとバニラのシフォンケーキ2種です。こちらは紅茶でいただきました。
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クリックするとオリジナルの写真こちらも先週、長谷川養鶏園さんで買ってきた卵です。
この卵は佐倉市立美術館のCafe Buona Giornataの人気プリンに使われています。鶏はボリスブラウン種で、長谷川養鶏園さんの卵は千葉県・県知事賞を受賞したことがあるそうです。右の写真が洋菓子HASEGAWAさんのFacebookに掲載されていたニワトリさんです。写真をクリックするとFacebookのオリジナルの写真を表示します。
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クリックすると拡大意外と、たまごの表面をじっくりと見たことはないと思うので卵を拡大いたしました。
たまごは10個で300円でした。
写真をクリックするとさらに拡大します。
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黄身の張りが特徴なので殻を割った生を紹介いたします。黄身が盛り上がって美味しそうです。
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上の写真はクリックすると拡大するのですが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。上の写真よりも、低い角度から撮りましたさらに黄身の盛り上がりがわかってもらえると思います。
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やっぱり新鮮な卵は、たまごかけご飯で食べるのが一番ですね。
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かきまぜました。海苔やネギを乗せる前の卵かけご飯を紹介いたします。
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目玉焼きでもいただきました。つい卵の話になってしまいましたが、洋菓子HASEGAWAは産み立て卵の洋菓子店だったのです。長谷川養鶏園の敷地内で産み立て卵も買うことが出来のです。
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前回の記事でも紹介した「ぶらり途中下車の旅」の動画です。娘さん(店長)のお母さんが登場いたします。


動画ではブリンの画像がきれいでないので写真を掲載します。これが長谷川養鶏園さんの卵を使った佐倉市立美術館のCafe Buona Giornataの人気プリンです。
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航空写真にユーカリが丘駅からと志津駅からと勝田台駅からのルートを記載いたしました。ユーカリが丘駅からと志津駅からのルートで最後に右折する入口に「たまご売ります。」の幟(のぼり)が立てられています。

より大きな地図で 洋菓子HASEGAWA を表示
参考にキーワードをYahooおよびGoogleに入力して検索した場合の本記事の順位を紹介します。順位が空欄の部分は100位以内に入っていないケースです。なお本結果は掲載して6日目の2013年5月10日時点です。興味のる方は検索を試してみてください。ちなみに着色された数値をクリックすると検索画面を表示します。
*マークは2013年5月11日の時点では100以内に入っているキーワードです。
キーワードYahooGoogle
12順位総数順位総数
生みたて卵  10,700,000 9,080,000
産みたて卵 411,900,00031,840,000
うみたて卵 1,480,000 1,180,000
生み立て卵 18864,0002854,000
産み立て卵 16864,0001854,000
産み立て卵ケーキ2201,0001200,000
産み立て卵プリン2102,0001102,000
産み立て卵洋菓子134,900134,900
産み立て卵洋菓子店115,700115,700
産み立て卵佐倉123,100123,100
産み立て卵千葉3191,0003191,000
産み立て卵シフォンケーキ120,800120,800
洋菓子店7764,0001855,000
佐倉 1,040,000*1,040,000
洋菓子165,100,00025,100,000
シフォンケーキ 1,700,000 1,700,000
洋菓子店佐倉*96,600296,600
洋菓子店9863,0001863,000
洋菓子店千葉 1,010,000 1,230,000
洋菓子店プリン 950,000 949,000
洋菓子佐倉 404,000 310,000
洋菓子224,960,00025,070,000
産みたて卵ケーキ3286,0001286,000
産みたて卵プリン2134,0002134,000
産みたて卵洋菓子145,100145,100
産みたて卵洋菓子店116,800116,800
産みたて卵佐倉128,700128,700
産みたて卵千葉3269,0002269,000
産みたて卵シフォンケーキ119,100119,100
うみたて卵ケーキ*384,000*315,000
うみたて卵プリン*230,000*191,000
うみたて卵洋菓子*83,900*78,200
うみたて卵洋菓子店*25,100*25,100
うみたて卵佐倉*64,500*64,500
うみたて卵千葉*213,000*213,000
うみたて卵シフォンケーキ1454,200254,200
生みたて卵ケーキ*2,900,000*2,910,000
生みたて卵プリン*1,370,000*1,370,000
生みたて卵洋菓子24395,0003395,000
生みたて卵洋菓子店10127,0003127,000
生みたて卵佐倉8321,0002321,000
生みたて卵千葉*2,160,000*2,110,000
生みたて卵シフォンケーキ29228,0002204,000

観光名所 ストローマーケット [バハマ]

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バハマのナッソーに来て見逃せないのがストローマーケット(Straw Market)です。ナッソーの民芸品と言えばストロー(麦わら)を編んだものだそうで、そこから名前が付いたようです。仮設の建物のような市場ですが、すごいにぎわいでした。おまわりさんも沢山いました。
不思議なことにバハマに到着した日曜日の夕刻にこのあたりを散歩しましたが観光客の人はまばらでした。どうやら日曜日は休みのようです。写真を撮ったのはバハマを離れる日の午後です。少し時間があったので、よってみて賑わいに驚きました。火曜日でした。

マーケットの中もすごい人です。バハマの住人のほとんどが黒人です。だからお店の人は黒人なのです。


マーケットの中は活気にあふれていました。
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木彫りのお土産も沢山売っていました。


マーケットの近くではコンク貝を小船で売りに来ている人もいました。大きなヒトデも迫力がありました。コンク貝は法螺貝(ホラガイ)の種類です。
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バハマはアメリカンでした。
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マーケットはクルージング船が入る港のそばにありました。この日は大型クルージング船が5隻入港していました。この日のマーケットはすごい人だったのはうなづけます。
ここは船での入出国の場所です。このレジャーヨットの停泊していた目の前がストローマーケット(Straw Market)でした。
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赤色マークがストローマーケット(Straw Market)の場所です。地図上のプラスを何度かクリックするとマーケットの周辺が判ってくると思います。青色マークがコンク貝レストランの場所です。

より大きな地図で ストローマーケット(Straw Market) を表示

バハマでも交通事故 [バハマ]

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クリックすると拡大総人口30万人のバハマで15万人が住むニュープロビデンス島での出来事です。朝の散歩で歩いている時に交通事故に出会いました。幸いにも人身事故にはなっていないようで救急車は来ていませんでした。

拡大写真を掲載します。
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別の角度からの写真です。ニュープロビデンス島は小さな島で車はゆっくりと走っています。どうしてこんなところでと思うような交通事故でした。
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車は非常に多いのですが、実はこの島では信号が非常に少ないのです。メイン道路を走っていると脇道から車が来ると皆さん止まって入れてあげていました。ところがアメリカ人が運転するレンタカーに乗せてもらう機会がありましたが、そのアメリカの人は、譲って入れてあげる習慣がまったくありませんでした。この島では道を譲る人と譲らない人が混在しているのです。この事故もそんなことで発生したのかもしれません。
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アメリカ人が運転するレンタカーに乗せてもらっているときでも脇道から入ってきそうに感じることが何度もありました。それ以前にアメリカ人はバハマの左側通行に戸惑っている様子で、そちらの方が怖かったです。ぐるっと廻った後に完全に右側の車線を走っていたのでフロントガラスに張ってあるレンタカー屋(AVIS-RENT-A-CAR)さんのシールの「YOU MUST KEEP LEFT」の文字を指差すと苦笑してすぐに左車線に戻りました。左走行なのに左ハンドルが多いと紹介したように、このレンタカーも左ハンドルでした。


交通事故の場所を緑色マークで紹介します。この島はバハマの首都ナッソーのあるニュープロビデンス島です。

より大きな地図で バハマ を表示

この写真、違和感がありませんか ? [バハマ]

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この写真はホテルから空港に向かうタクシーの後部座席から撮ったものです。何か違和感がありませんか。


車が左側通行なのに、運転席も左側(左ハンドル)なのです。

他の車を見ても、ほとんどが中央車線側には運転手が見当たりません。旧イギリス領であることから、日本と同様、車は左側通行です。しかしながら地理的にアメリカ合衆国からの輸入車が多く、日本車であってもアメリカ合衆国からの車なので左ハンドル車が多いのです。日本から持ってくるのにはあまりにも遠いようです。


書き忘れていました。ここはフロリダの東に広がるバハマ諸島(独立国)の首都ナッソーでした。 あの胴長リムジンも左ハンドルです。つまりバハマは日本と同じ左側走行にも関わらず全ての車は左ハンドルの珍しい国だったのです。写真をクリックすると拡大するのでじっくり見てみてください。
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こちらのバスだって左ハンドルでした。前を走っているトヨタ製の乗用車も左ハンドルです。おそらくアメリカ仕様のアメリカで作られた車なのでしょうね。
ここから下の4枚の写真は2度目にバハマに行ったときのもので、今回、追加させていただきました。
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このレンタカーも左ハンドルでした。レンタカーのフロントガラスの運転席前には、このようなシール「YOU MUST KEEP LEFT」が貼られていました。まさにマスト(mast)のことですね。
バハマでレンタカーを借りて運転するのは、ほとんどがアメリカ人なので、常に左走行の注意喚起が必要なのでしょうね。アメリカは右側走行に対して、バハマは左側走行なのです。最大の危機は交差点を曲がった時の瞬間です。その時のことを別の記事で紹介いたします。


この写真はバハマで待ち合わせていたアメリカ人の人がエイビス・レンタカー(AVIS-RENT-A-CAR)から借りた車に乗せてもらった時に撮りました。ちなみにAVIS-RENT-A-CARはアメリカ・ニュージャージー州パーサイパニー(トロイ・ヒルズ)に本社を持つ会社で、バハマだけでなく北米・中米ラテン・インド・オーストラリア・ニュージーランド・ヨーロッパなど世界的にレンタカービジネスを展開している会社です。
沢山の撮った写真の中を探した結果、右ハンドルを見つけたのがトヨタ製のマイクロバスと、この写真のトヨタ製のバスだけでした。
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もちろん、この写真の前から来る車も、すべて左ハンドルです。クリックすると拡大するのでわかってもらえると思います。
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下記の地図で青色部分が、「車両が左側通行の国」です。面積にして20%程度ですが、小さな国が多いので国の数は意外と多いです。地図はWikimediaから転用させていただきました。
アイルランド アングリア アンティグア・バーブーダ イギリス インド インドネシア ウガンダ 英国領バージン諸島 オーストラリア オーデニー ガーンジー島 キプロス共和国 ギヤナ キリバス クック島 クリスマス島 グレナダ ケイマン諸島 ケニヤ ココス島 ザンビア ジャージー島 ジャマイカ共和国 シンガポール ジンバブエ スワジランド王国 スリナム共和国 スリランカ セイシェル セントクリストファーネイビス セントビンセント及びグレナディーン諸島 セントヘレナ セントルシア ソロモン諸島 タイ王国 タンザニア ツバル トケラウ諸島 ドミニカ共和国 トラック・カイコス島 トリニダ・トバコ トンガ ナウル ナミビア共和国 ニウエ 日本 ニュージーランド ネパール ノーフォーク島 バーミューダ パキスタン バハマ パプアニューギニア バルバドス バングラディッシュ 東チモール ピトケアン諸島 フィジー ブータン フォークランド諸島 ブルネイ 米国領バージン諸島 ボツワナ 香港 澳門 マラウイ共和国 マルタ共和国 マレーシア マン島 南アフリカ モーリシャス モザンビーチ モルディブ モントセラト レソト王国
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世界には左側通行から右側通行に変更した国が沢山あります。それを示した地図があったので紹介します。


下高野の庚申塔 [風習・歴史]

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2011年10月9日掲載 タイトル:下高野の庚申塔
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小学校の校庭の庚申塔を以前紹介いたしました。江戸時代のものが中心で、クリックすると拡大手入れもあまり行われていない雰囲気でした。そこから2km足らずの場所で庚申塔を見つけました。全部で13体でした。一番古いものは1727年と小学校の校庭の庚申塔と同じように江戸時代が中心ですが、ここでは新しい庚申塔がありました。

右の写真の卒塔婆(そとば)と呼ばれる木の板もお供えされていました。まだまだ風習がつづいていることを実感させられました。
ラッキーなことに、すべて庚申塔の年代を読み取ることが出来ました。
先ず後列の右から
 1889年 明治二十二年 四月
 1822年 文政五年  十一月
 1758年 宝暦八年   十月
 1895年 明治二十八年 三月
 2000年 平成十二年  三月
そして前列の右から
 2007年 平成十九年  三月
 1861年 文久元年   三月
 1858年 安政五年  十一月
 1809年 文化六年  十一月
 1790年 寛政二年  十一月
 1727年 享保十二年  十月
 1974年 昭和四十七年 三月
 1993年 平成五年   三月
なんと平成の庚申塔が三体も入っていました。昭和の庚申塔も入れると4体が新しいものでした。
3月と11月が多いことも判ります。
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前列の左端の庚申塔だけ正面を向かずに左を向いていました。大きな道路は左にあるためかもしれません。この横向きの庚申塔は珍しく(?)白い文字で書かれていました。


一番の驚きは2007年(平成19年)にも庚申塔が建てられていることです。今も庚申信仰が続いていることを示しているのだと思います。これが平成19年の庚申塔です。
以前に掲載した「下高野の辻切り」にコメントいただいたkazuさんから説明をいただきました。それによると
今は年の始めの最初の申の日に庚申講として行われているそうです。青面金剛の掛け軸を掛け、世間話をして宴を開くそうです。
昔は庚申(かのえさる)の日に庚申講または庚申待ちとして行われていたとされているそうです。神仏を祀り、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かしたらしいです。神の信仰は猿田彦神、仏は青面金剛(しょうめんこんごう)だそうで、猿田彦神は天孫降臨の時、邇邇芸尊(ににぎのみこと)の道案内をしたとされ、庚申塔にも、三方向にその方向の地名を彫ってあるのもあるそうです。kazuさんの地区でもいろいろなところに庚申塔があり、三猿や道案内の地名を彫ってある石碑もあるそうです。
最古の庚申塔は享保12年だそうで、基本的には7年に一回庚申塔を建て、今も継続している。
そうです。


下の大きな写真の庚申塔が、13体の中で最も古いものです。 享保十二年(1727年)に建てられました。小さい方の写真が2番目に古い宝暦の庚申塔です。なかなか立派なので、これからこれらを「下高野の庚申塔」と呼びます。青面金剛の特徴を持っているものです。下高野には不思議な風習辻ぎりが残っています。
この庚申塔以降は下のように数十年に一回の割りに建てられていますが平成になってからは7年ごとです。
          奉造間隔
  享保  1727年  ↓
  宝暦  1758年 31年 31年
  寛政  1790年 32年 63年
  文化  1809年 19年 82年
  文政  1822年 13年 95年
  安政  1858年 36年 131年
  文久  1861年  3年 134年
  明治  1889年 28年 162年
  明治  1895年  6年 168年
  昭和  1974年 79年 247年
  平成  1993年 19年 266年
  平成  2000年  7年 273年
  平成  2007年  7年 280年
  平成  2014年  7年 287年


同じエリア(10m程度はなれた位置)に二十六夜塔かありました。これは月待信仰と呼ばれるものだそうです。


さらに、そのそばに小さなほこらがありました。中に石板があり薄っすらと赤い字で道祖神と書かれているのが判りました。
道祖神(どうそしん)は、路傍の神だそうです。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、 芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場しました。 村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されているそうです。 古い時代のものは男女一対を象徴するものになっていて餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残ているそうです。


田んぼの横にも同じようなほこらがありました。豊作を願うのでしょうか。



クリックすると拡大2012年1月12日追伸 タイトル:今日は庚申講です。
今日(2012年1月12日)は千葉県八千代市下高野地区の年に一度の「庚申講」の日だそうです。kazuさんからコメントをいただいたので紹介のために本文に記載して再投稿いたします。下記にkazuさんのコメントを紹介いたします。
以前は「庚申(かのえさる)の日」(60日に一回)に行っていましたが、数十年前から年一回になりました。
年の初めの1~3日を除いた最初の申の日に行われています。
庚申(かのえさる)ですから申の日なんです。
当番は年一回になってから4軒になり、家順になっています。
再来年(2014年)は前回の石建てから7年目になります。
十九夜講の石建てと一緒に行われます。
当日は宴会と「餅投げ」が行われ、前回もみなさん一生懸命お餅を拾っていました。
(注)十二支と十干の組み合わせの「最小公倍数」は60ですから60日毎に行われていました。
ちなみに還暦はこれと同様に60歳ですよね。

庚申講は男性のための講ですので、女性は出席されません。
女性は十九夜講の方です。
前にお話ししましたように7年に一度両方の石建てを行いますので分かれているんですね。
この日はあの庚申塔の一番古い「享保十二年十月吉日」にも刻まれている「青面金剛」の掛け軸を掲げ、ロウソクとお線香に火をともして講が始まります。
昔は「フナの叩き汁」と言うような特殊の汁物も作りましたよ。
フナを一匹っまま、なた包丁で骨まで叩いて細かくし、味噌を混ぜてツミレ状にして、野菜をたくさん入れて醤油味にしたものです。
私が30歳くらいまでは行われていました。

それでは、下高野の年間行事を一覧表にしてみます。
ご興味がございましたら是非ご参加ください。
正月三が日:天満宮の合格祈願の絵馬に、願い事を書いて頂き奉納して頂きます。三が日を過ぎてもご依頼がございましたら、いつでも奉納して頂けます。

1月: 三が日を除いた最初の申の日。   「庚申講」
   25日 天満宮のおびしゃ(初天神) 「天神備社」(天神びしゃ)
   27日 毎月27日はお不動様    「念仏を唱える」
   28日 お不動様のおびしゃ     「不動備社」
   最終日曜日または土曜日       「辻切り」
2月: 最初の午の日(伏見稲荷の縁日)  「初午備社」
   14日 出羽三山に由来する     「梵天ハギ」(ぼんでん)*1
4月: 中旬 弘法大師の寺参り      「千葉寺大師参り」
7月: 最初の未の日           「未祭り」
   15日天満宮などお宮の掃除     「宮なぎ」
   20日前後の日曜日、出羽三山参り経験者 「奥州講」*2
9月25日 弁天様のお備社        「弁天備社」
10月8日  天満宮と書かれた幟(のぼり)「天満宮の幟立て」
10月10日 村社、天満宮のお祭り    「菅原神社祭礼」
10月11日 お祭りの終わり       「天満宮の幟倒し」
 
*1,2は5種類の色紙を特殊な切り方や折り方で、梵天というものを作り、篠の先に刺す。
奥州三山塚に行って、梵天を神前に刺し祝詞をあげてお参りする。
・梵天は奥州参りに行って、その後亡くなられた方への供養です。
・奥州講では同じ梵天を作り、三山塚に奉納します。

明治新政府は神仏分離令を出して、神社から仏像を一掃しました。
下高野では明治以前の行事そのままに、神仏習合として奥州三山の神社の「梵天」と仏様の梵天ハギの「梵天」を同じように作っています。
以上が下高野の行事です。ご参加されたいものや写真に残したい行事がございましたら お知らせください。

来年以降の最初の「申の日」と「庚申の日」を調べてみました。
 2012年 1月12日(木) 壬申   2月29日(水) 庚申
 2013年 1月06日(日) 壬申   2月23日(土) 庚申
 2014年 1月13日(月) 甲申   2月18日(火) 庚申
 2015年 1月08日(木) 甲申   2月13日(金) 庚申
 2016年 1月15日(金) 丙申   2月08日(月) 庚申 1月3日が初甲の日
 2017年 1月09日(月) 丙申   2月02日(木) 庚申
 2018年 1月16日(火) 戊申   1月28日(日) 庚申
 2019年 1月11日(金) 戊申   1月23日(水) 庚申
 2020年 1月06日(月) 戊申   1月18日(土) 庚申


2014年3月16日追伸 タイトル:下高野の平成26年の庚申塔
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千葉県八千代市には7年ごとに新しい庚申塔が建てられている貴重な伝統行事が残っている下高野という地区があります。すでに紹介させていただいたように、その八千代市下高野では2014年3月2日13時から女性の講中である十九夜塔の建立式典が盛大に行われました。十九夜塔も7年ごとに新しい石碑が建てられていますが、同じ日に庚申塔も7年ごとに建てられているのです。
2014年3月2日に新しく建てられた庚申塔が上の写真の前列の一番右側です。

下の大きな写真は新しい庚申塔の部分を拡大したものです。クリックするとさらに拡大します。花が供えられている庚申塔が平成26年の庚申塔で、クリックすると拡大左側が7年前に建立された平成19年の庚申塔です。新しい庚申塔の後ろの木の板は卒塔婆(そとば)と呼ばれるものです。卒塔婆は右の写真のように十九夜塔の建立式典で一旦は十九夜塔の場所に供えられて念仏が唱えられた後に庚申塔の場所に移動して供えられたものです。右の写真の右側の卒塔婆が庚申塔用で、左側が十九夜塔用の卒塔婆です。
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庚申塔の設置工事(石建)自体は3月1日に行われました。こちらの写真は十九夜塔の建立式典が行われる前の3月2日9時50分に撮ったものです。まだ卒塔婆や花は供えられていませんでした。
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新しい庚申塔は正面には鮮やかな朱色で「庚申塔」と書かれており、左面には「下高野講中」と書かれています。
右面には「奉造 平成二十六年 三月吉日」と刻まれています。287年続いている伝統行事として、今でも定期的に新しい庚申塔を建てられる地区は非常に珍しいことだと想定されることから、シンプルな庚申塔ではありますが、現時点において伝統行事として建てられた庚申塔では、全国で一番新しい庚申塔なのかもしれません。
いずれにしても平成二十六年の庚申塔は非常に貴重なものだと思います。こちらの庚申塔塚には新しい庚申塔も含めて14基が設置されていました。ネットで調べた範囲では、さわらびYさんの記事に平成の庚申塔は千葉県木更津市の戸隠神社に平成20年に復元された庚申塔が3基あるそうです。
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下高野の庚申塔の位置をでプロットしてみました。
上の写真のように庚申塔が沢山建てられた場所を「庚申塔塚」と呼ばせていただきます。その庚申塔塚が緑色マークです。
地区の十九夜塔は寺院の敷地などの一か所に建てられますが、庚申塔の場合は庚申塔塚だけでなく地区の辻などにも単独で設置されます。その辻などに設置された庚申塔が黄色マークです。
赤色マークが下高野で十九夜塔がまとめて設置されている場所です。空色マークが下高野以外の近隣地区の庚申塔です。
画面の中の右端のは佐倉市先崎の庚申塔塚です。画面外にもプロットしているので-のアイコンをクリックしてもらうと八千代市米本、佐倉市青菅、佐倉市井野、佐倉市小竹の庚申塔の場所を表示します。赤色ライン内が八千代市下高野です。紫色マークは今は移設されてありませんが、昔に庚申塔が建っていた場所です。
   庚申塔   庚申塔塚 14基 1~9 18 21~24 
   庚申塔   単独設置 10基 10~17 19 20
   庚申塔   10番の移設前の位置
   十九夜塔  32基
   庚申塔   近隣地区 先崎 青菅 小竹 米本

より大きな地図で 八千代市下高野 を表示
下高野の庚申塔を一覧表にまとめました。全部で24基です。内訳は庚申塔塚に14基で、単独に辻などに設置されている庚申塔が10基です。庚申塔が単独で建てられているのは一時期、庚申塔は「道しるべ(道標)」のして役割も果たしていたためであると推測されます。道標となっていたのは明治28年(1895年)~昭和40年(1965年)であったことが、一覧表にしてみて判りました。したがって、辻に設置された◆マークもすべて明治28年(1895年)以降になっています。
十九夜塔は32基に対して庚申塔は24基です。十九夜塔は女性の講中の石碑で、庚申塔は男性の講中であり、同じ年から始まっていることから数が8基も違うのは不思議です。これは、十九夜塔は同じ場所に建てられる石碑であることから、下高野に現存している十九夜塔は32基であると言えます。失われた数も少ないと思われるのに対して、庚申塔はいろんな場所に設置されたものも多くあることから、失われた可能性も高い上に、まだ発見できていないものもあるかもしれません。
道沿いは下高野の方(Kazuさん)も丁寧に探されたようなので、現存していて、まだ見つかっていないものがあるとすれば八千代ゴルフクラブの敷地内ではないかと思われています。八千代ゴルフクラブの敷地内には昔は道があったとのことだそうです。ただし、道標として庚申塔が建てられるようになったのは1895年からなので、現存する可能性があるとすれば、1899年、1933年前後の2基ではないかと想像されます。それ以前のものは建てられていたとしても、すでに失われた可能性が高いと思われます。庚申塔塚は複数あることも考えられることから、1895年以前の物も現存する可能性はゼロではありません。表をクリックすると十九夜塔の詳しいデーターを表示します。
クリックすると十九夜塔
               十九夜塔の建立年   庚申塔の設置場所
               ◎ :完全に一致    △:庚申塔塚
               〇:近似年に建立   ◆:辻などに単独
庚申塔の形式 ( 写真はクリックすると拡大 )
 青面 : 青面金剛像  文字 : 青面金剛(文字)    文字 : 庚申塔(文字)
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

庚申塔塚の庚申塔はすでに2011年10月9日の記事で紹介しているので、今回は、辻などの道端に単独で設置されている庚申塔と道標を兼ねた庚申塔を新しい順(18 17 15 14 13 12 11 10 9)で紹介いたします。道標と兼ねた庚申塔が限られた期間だけに存在するのは興味深いことです。庚申塔に書かれている文字を赤色文字で「正面→右面→裏面→左面」の順番に紹介いたします。

こちらが20番(1986年)の庚申塔です。
こちらの庚申塔は庚申塔塚から道路を挿んだ辻に建てられていました。辻に建てられていますが道標にはなっていませんでした。ただし庚申塔の後ろには古い道標が建てられていました。庚申塔に書かれていた文字は次の通りです。
  正面   庚申塔
  右面   昭和六十一年三月吉日
  裏面   ( 空白 )
  左面   下高野講中
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こちらの辻には2基の庚申塔が建てられていました。
新しい方が19番(1979年)の庚申塔です。
道を挟んだ場所には藁の大蛇の「辻切り」が設置される場所でもあります。こちらも道標ではありませんでした。書かれている文字は次の通りです。
  正面   庚申塔
  右面   昭和五十四年三月吉日
  裏面   ( 空白 )
  左面   下高野講中
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こちらが19番(1979年)の傍の17番(1965年)の庚申塔です。
こちらは道標(道しるべ)の庚申塔です。書かれている文字は次の通りです。
  正面   庚申塔 下高野講中
  右面   東 先崎 ニ至ル
  裏面   昭和四十年三月吉日
  左面   西 大和田 ニ至ル  正面 志津 ニ至ル
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こちらは16番(1958年)の庚申塔です。
下高野の人達が住んでいる集落の中に建てられていました。こちらも道標タイプの庚申塔です。書かれている文字は次の通りです。
  正面   庚申塔 下高野講中 
  右面   北ノ方 保品 ニ至ル
  裏面   昭和三十三年三月吉日
  左面   西ノ方 米本 ニ至ル
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先崎との境界の15番(1940年)の庚申塔です。
すぐそばには下高野の馬頭観音や先崎の馬頭観音がありました。書かれている文字を紹介します。現在の地名で「當區」は見つかりません。小竹の庚申塔の中に「當村講中」と書かれたものがあることから、今は存在しない當村と関係しているのかもしれません。「區」は「区」と同じであり、「村」と解釈することが出来るのかもしれません。また當は当の意味があるようで当地区(下高野)を示している可能性もあるようです。
  正面   庚申塔  此方 米本 ニ至ル  下高野講中
  右面   此方 當區 ニ至ル
  裏面   昭和二十七年三月吉日
  左面   此方 先崎 ニ至ル
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米本に近いところに建っていた14番(1940年)の庚申塔です。「米本いなり」は米本稲荷神社だと思われます。
  正面   庚申塔 下高野講中
  右面   北 米本いなり道  東 先崎 青菅道
  裏面   ( 空白 )
  左面   西 米本 城橋道  昭和十五年三月吉日
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こちらは13番(1926年)の庚申塔です。この部分は歩道を作るために盛り土がされたようで庚申塔の下の部分は地面に埋まってしまっていました。そのために文字の下の方は読み取れませんでした。
  正面   庚申塔  米本 城橋・・・・・・
  右面   上高野道・・・・・・   大正十五年三月吉日
  裏面   ( 空白 )
  左面   青菅 臼井・・・・・・
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こちらが冒頭で紹介の2014年3月25日に新しく見つけることが出来た12番(1920年)の庚申塔です。2014年3月13日にKazuさんが2基の庚申塔を発見されて、さらにKazuさんが八千代ゴルフクラブ内で大正二年の庚申塔を見つけられたことで、明治28年以降で見つかっていなかった庚申塔は3基のみとなっていましたが、今回の発見で残りが昭和8年と明治32年前後の2基となりました。その2基を探して、八千代ゴルフクラブの敷地以外の、昔の道があったと思われるところを隈なく探しましたが見つけることが出来ませんでした。これで、残りの2基の探索は八千代ゴルフクラブの敷地内ですが、無断で入ることが出来ないので、次の、なんらかの機会にゆだねることにいたします。今回発見された庚申塔に書かれていた文字は次の通りです。
  正面   庚申塔  下高野講中  西 米本いなり道
  右面   北方 米本城橋道
  裏面   大正九年三月吉日
  左面   東 青菅臼井 道
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こちらが庚申塔の裏面です。この裏面は東方向に建てられた思われますが、現在はフェンスの土台に南方向に立掛けられていたことから、フェンス工事の時に地面から抜かれて、現在の状態に立掛けられたと思われました。この庚申塔の裏面の自然の地肌を掘り込んでいるところは11番の大正二年の庚申塔に似ていました。
 場所はこちらです。 →
 ポチッ
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2014年3月16日にKazuさんから八千代ゴルフクラブ内で大正二年の庚申塔が発見されたと連絡があり、次の4枚の写真も送っていただきました。12番(1913年)を上の一覧表に追加いたしました。書かれている文字を紹介します。その道しるべに書かれている「北 保品渡船」から、大正初期には保品に印旛沼(新川)を渡るための渡し船があったものと思われます。
  正面   庚申塔  西 米本稲荷 下高野区中
  右面   南 上高野
  裏面   東 臼井 大正二年三月吉日
  左面   北 保品渡船
   正面      右面       裏面         左面
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

さっそく2014年3月24日に新しく発見された12番(1913年)クリックすると拡大庚申塔を見に行きました。ゴルフ場の中であることが判ってもらえると思います。庚申塔に書かれている西、南、東、北は実際の方向を示していることから、建てられた時の方向通りに今も建っていると思われます。一方、この庚申塔は道に背を向けて建っていることから、庚申塔の後ろの道は、後から出来たものと推察します。
クリックすると拡大

こちらは十九夜塔が設置されている福蔵院の敷地の中に建てられていた10番(1906年)の庚申塔です。元々は、こちらの庚申塔は上の地図の紫色マークの近くに建てられていたものを保護の目的で福蔵院に移設されたものです。下の写真を見てもらえると庚申塔がかなり削られているのが判ると思います。これは某大学の研究員(学生)が分析のために削って持ち帰ったようです。偶々、学生が削りに来ているところを地元の人が見つけたそうです。右下の写真が元々建てられていて石が削られた場所です。
クリックすると拡大さらに削られないように福蔵院に移設したそうです。この庚申塔の赤色の石材が珍しいそうで、分析のために削ったそうです。
  正面   庚申塔
  右面   東 青すげ道  先さき
  裏面   右 米本いなり道
  左面   明治三十九年三月吉日
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庚申塔塚の14基の庚申塔の中で、一つだけ「道しるべ」が書かれている庚申塔があります。
正面から見て左面に「北 先崎道」と書かれた大きな庚申塔が判ると思います。
それが9番(1895年)の庚申塔です。庚申塔に書かれている文字を紹介いたします。
  正面   庚申塔  西 米本城橋道
  右面   ( 空白 )
  裏面   東 青菅 臼井 道
  左面   北 先崎道  明治廿八年三月吉日
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参考に下高野の外側の近隣地域(先崎、青菅、井野、小竹、米本)の庚申塔を紹介します。いずれも古い庚申塔で、下高野のような平成の庚申塔がないことからも今も庚申塔を建て続けていることが貴重なことであることが判ってもらえると思います。


こちらは佐倉市先崎の庚申塔塚です。下高野の境界線に隣接した空色マークの場所です。
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こちらは佐倉市青菅の庚申塔塚です。
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こちらが佐倉市小竹の庚申塔塚です。
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こちらが佐倉市おだけ井野の庚申塔塚です。
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下の写真は2014年3月25日に下高野の新しい庚申塔を探すために下高野を散策した時に足を延ばして撮りに行った八千代市米本の庚申塔塚です。道路脇にきれいに並べられていました。ここには庚申塔だけでなく二十三夜塔(1基)や馬頭観音(3基)や猿田彦命(さるだひこのみこと 1基)や月讀尊(つきよみのみこと 1基)の石碑も並べられており、クリックすると拡大さらに道標の書かれた庚申塔も複数あることから10基の庚申塔の内、いくつかは後世に集められた庚申塔塚なのかもしれません。クリックすると拡大するので是非とも見てください。右の写真の2基の庚申塔は八千代ゴルフクラブの敷地内にありました。道路のすぐ脇に建っていたので撮らせていただきました。
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2014年3月17日追伸
今日の15時から3月22日夕刻まで関西に出かけます。この間はネットへのアクセス手段は空港のラウンジとネットカフェだけとなるため、記事の更新など、限られたことしかできません。皆様の記事へ本格的な訪問は3月23日からとなることをお許しください。
帰って来ましたらKazuさんが、新しく発見された大正二年の庚申塔を見に行きたいと思います。


2014年3月26日追伸 サブタイトル:24基目の庚申塔を見つけました。 
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いつもお世話になっている下高野のKazuさんが、本ブログのコピーを親しくされている下高野のTさんに見せたところ、Tさん畑の近くの道沿いに庚申塔があるとの連絡がありました。さっそくKazuさんに同行して2014年3月25日に庚申塔に探しに行きました。その結果、上の写真の大正九年の庚申塔を見つけることが出来ました。下の道標を兼ねた庚申塔を紹介している欄に詳細を追加掲載いたしました。追加したところは紫色の文字にしています。

家で美味しい鰻丼を食べる秘策 [鰻]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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家で焼きたての美味しい鰻丼を食べる秘策は、ずばり評判の美味しい鰻屋さんから、蒲焼を買ってきて、炊き立てのご飯の上に乗せることです。
幸いなことに我が家から車で10分程度のところに、口コミで教えてもらった美味しい鰻屋さんがあります。
 美味しい鰻丼が出来るまでの手順を紹介いたします。
先ずは鰻屋さんに電話して、蒲焼の予約を入れます。
ご飯は、蒲焼が家に到着予想時刻より5分前に炊き上がるようにセットします。
焼きたてを持って帰るために、お願いした時間より、少し早めに受け取りに行きます。少し待つくらいがベストです。
受け取るとすぐに安全運転で家に帰ります。つい急いで帰りたくなりますが、そんな時は、意識して、いつもより、ゆっくりと走ることをお薦めします。
家では、お吸い物など鰻丼以外を準備してテーブルの上に並べておきます。
家に到着すると、ご飯を器によそって蒲焼を乗せ、タレをかけて出来上がりです。

10分で家まで帰れるのであれば、暖めなおす必要はなく、炊き立てのご飯の上に乗せれば、すぐに鰻丼の完成です。四角い鰻重箱があれば特上うな重に、早代わりですが、鰻重箱はないので丸い器になります。でも味は「特上うな重」と同じです。暖めなおす必要がないことが、美味しい鰻丼を食べる重要な要素となってきます。少し距離がある場合は保温ケースを用意するといいかもしれません。いつもお願いしているお店では、タレも沢山入れてくれるので、特別にタレを買う必要はありません。
鰻を乗せるご飯は、2016年4月14日21時26分から始まった一連の熊本地震で震度7を2回も経験した熊本県上益城郡益城町の阿蘇山の伏流水で育った「ましきの米(益城米)」です。右の写真は叔父さんがいつも送ってくれている30kgの米袋です。このお米が鰻丼を格段に美味しくしてくれるのです。ちなみに、叔父さんの家は、その震度7を2回経験した益城町にありますが、幸いにも比較的新しい1階建の平屋だったこともあり、家も体も無事でした。ただし余震が怖いので夜だけは単独で庭に建っている車庫で寝泊まりしているそうです。
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こんな形で持ち帰ってきます。家に帰っても、まだ熱々でした。評判のお店で、国産ウナギの焼きたての蒲焼が1200円は、お得だと思いませんか。


袋を開けるとタレがたっぷりかかった焼きたての蒲焼が姿を現しました。冒頭の写真は、この写真の一部を拡大したものです。
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この日は3人で鰻丼とビールを楽しみました。ビールを楽しんだのは2人ですが。
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肝吸いはありませんが、雰囲気だけは鰻屋さんです。お店で食べると、残念ながらビールが飲めません。でも我が家だとビールをみんなで楽しめます。そんな訳で、昼食では鰻屋さんに食べに行くことはありますが、夕食はいつも、この方法で、家で美味しい鰻丼を楽しんでいます。
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いつも、美味しい鰻丼を食べさせてもらっているので、感謝の気持ちで、お店を紹介いたします。近所の人から口コミで教えてもらって食べに行ったお店ですが、食べて、すぐに気に入ってしまいました。それからは、電話で予約する方法を覚えて、今回紹介の方法で、何度も夕食を楽しんでいます。
  店名  川ばた園
  住所  千葉県佐倉市臼井田2712-3 (印旛沼 船戸大橋 際)
  電話  043-461-8989
  営業  11:30~LO 14:30
      17:30~LO 19:30(7~9月 ~LO 20:00)
  休日  火曜日 月1回不定休
  新年  1月4日から営業(2017年)
  地図  http://goo.gl/maps/zdju5 (黄色マーク)
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地図で場所を紹介いたします。地図の中の黄色マークの場所が川ばた園です。お店の名前をクリックすると掲載した記事を表示します。
   川ばた園
   岡野川魚店  白焼き持ち帰り専門店
   白藤養魚   白焼き持ち帰り専門店
   い志ばし
   かどかわ
   水産センター 印旛沼漁業協同組合直営レストラン
より大きな地図で 印旛沼の鰻専門店 を表示

カザフスタンのショッピングモール [カザフスタン]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

カザフスタンの32万人の都市アクトベにあったショッピングモールMEGAです。昼間に車で横を通りました。

こちらは翌日の早朝にモスクや教会を見るために歩いて散歩した時に同じショッピングモールMEGAを撮った写真です。広大な場所に名前の通り大きなショッピングモールが建っていました。こちらの写真はクリックすると拡大します。
早朝のため駐車場には車もなく人もいませんでした。手前に写っている道は道路ではなくショッピングモールの駐車場につながる誘導路です。
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すでに紹介したモスクと教会と国旗と泊まったホテルの位置関係を航空写真にマークしました。青色が中央モスクで赤色が聖ニコラス正教会です。今回のショッピングモールは教会の近くの黄色のマークの位置です。巨大な国旗があったのが緑色で泊まったホテルは空色のマークです。早朝なので散歩できましたが昼間は38℃あったので歩くのは難しかったです。

より大きな地図で Aktobe を表示
店内も紹介します。こちらはアクトベのショッピングモールではなく同じ日にカザフスタン最大の町であるアルマトイ(アルマティー)に飛行機で戻った時に興味があったので町の中にあるお店に入ってみました。すごい広さでした。この写真はクリックすると拡大します。
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それぞれの売り場が大きかったです。これはクッキー売り場です。この写真に写っている2倍くらいの広さにクッキーだけが並べられていました。肉売り場はもっと迫力がありました。全ての食材がこのような規模で売られていました。お寿司も売っていました。
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日本のお店では見かけないものが売っていました。横で売られているレッドブルとは関係ありません。


こちらが拡大したものですが、生ビールの販売機です。この容器にビールを入れてもらい家に帰って飲むそうです。

カザフスタン最大の町アルマトイ [アルマトイ]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ここがカザフスタンです。
カザフスタンとウクライナに行く機会がありました。時期は7月7日から7月14日とすごしやすい季節でした。すでにカザフスタン料理などを紹介しましたが、カザフスタンの最大の都市アルマトイ(アルマティー Almaty)に最初について、漠然と思っていた印象が一変してしまいました。その最大の理由はアルマティーの町並みでした。これから記事を読んでいただく上で大切なことのように思えたので、先ずはアルマティーの町並みを紹介いたします。上の写真は車の中から見た町並みの中で、もっとも斬新に思えた建物です。

こちらの建物もきれいな建物でした。この町の呼び方は迷います。英語のAlmatyから我々はアルマティーと読んでいましたが、カザフ語ではアルマトゥ (Алматы)で日本人が言いやすくしたのがアルマトイだそうです。
アルマトイは人口は1,348,500人(2008年)のカザフスタン最大の都市です。カザフスタンは日本の国土の7.2倍に対して人口は1560万人の国なのでアルマトイはカザフスタンの中では特別な場所なのかもしれません。


Googleの航空写真で、上の2ケ所の建物の位置に緑色のマークをつけました。

より大きな地図で アルマトイでの行動の範囲 を表示
近くの丘コクトベから見た町の中心です。写真の真中の茶色と白の小さなビルが私の泊まったホテルです。
カザフスタンは1991年12月16日に旧ソ連から分離独立しました。時差は日本と3時間と4時間と5時間の地域があります。西にあるカザフスタン最大の町アルマトイ(アルマティー)は日本とは3時間差です
宗教の割合はイスラム教が47%、正教会が44%、プロテスタントが2%、その他7%とイスラムの国ですが、女性のほとんどが普通の服装でアルコールも自由に飲める国でした。写真の中央の先端化が赤いツインビルの少し手前にカザフスタン料理を食べたレストランがあります。
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こちらはアルマトイの住宅街です。このような住宅街がコクトベの周りに広がっていました。これがカザフスタンのアルマトイです。首都であり人口第2の都市(75万人)であるアスタナはもっと斬新な街だと皆さんが言われていました。
日本や行きなれた国しか知らなかったことを、あらためて実感いたしました。世界はほんとうに広いです。
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メデウ・スケートリンク [アルマトイ]



アルマトイ(アルマティ)市内から車で約30分走ると海抜1520~1750mの美しい渓谷があります。そこにはメデウ・スケートリンク(Medeo Skating Rink)があり、その辺りはアルマトイの誇る観光名所のひとつになっているということで、さっそく行ってみました。上の写真はが、そのメデウ・スケートリンクの前を車で通った時に撮ったものです。
メデウ・スケートリンクは1972年につくられスピードスケートの数々の世界記録が生まれたために「世界記録の工場」といわれました。理由は良質の氷と書かれていますが、標高が1700mと高く気圧が低いことで空気抵抗が少ないことが本当の理由なのではないかと私は思っています。

12月から4月の週末はスケートが楽しめるが、スケートをしなくても週末はここを訪れる人々が多いそうです。それはスケートリンク裏にダムがあり、そのダムから美しい山間の自然が見られからだそうです。そのダムからメデウ・スケートリンクを撮りました。写真はクリックすると拡大します。
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そのダムからさらに約3km先にはシンブラン・スキー場があります。ダムからスキー場に向かうゴンドラを撮りました。
カザフスタンでは2011年に第7回アジア冬季競技大会(1月28日~2月6日)が、この町アルマトイ(アルマティー)と首都アスタナで開催されました。スキー関係の競技がこのゴンドラの終点で行われたのだと思います。したがって日本の選手の人たちはアルマトイをご存知のはずです。
 アスタナ(Astana)
   開会式 スピードスケート フィギアスケート ショートトラック
   アイスホッケイ(男子)
 アルマトイ(Almaty)
   閉会式 アルペンスキー クロスカントリー ジャンプ バイアスロン
   フリースタイルスキー オリエンテェーリングスキー バンデイ
   アイスホッケイ(女子)
こちらの写真もクリックすると拡大します。
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航空写真で説明いたします。青色マークの上側がメデウ・スケートリンクで下側の青色マーク(赤の横棒)がダムです。黄色のラインが上の写真で紹介したスキー場に登るためのゴンドラです。Google地図でゴンドラの長さを見ると6.1kmとかなり長いゴンドラです。ゴンドラのりばが赤色マークです。緑色のラインが車でダムまで登ってきた道を示しています。写真内のアイコンを数回クリックすると、この位置が判ってくると思います。

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ダムの上では馬に乗せる商売が繁盛していました。ダムの上を往復するのですが、結構、長い距離でした。馬に乗っているのが観光客で、後ろから付いてきている人が、この馬の持ち主です。


この馬に立って乗っている男性は馬の持ち主です。


この女性は右の写真のように、手馴れた感じで馬に上手に乗られていました。
クリックすると拡大この女性は、お客さんなのか馬の持ち主側の人なのかはわかりませんでしたが、一人で長く乗っていたので、この男性の娘さんの可能性が高いと思えました。このダムの上で馬乗せの商売している人は、みな家族のようなものなのかもしれません。


馬に乗っているのはカザフ人と思われる小学生くらいの兄弟です。馬を引いている人も中学生くらいだと思います。もちろん馬に乗っているのがお客さんで引いているのが商売をしている人です。


カメラを向けると急に速く走りががら曲乗りをしてくれます。何度もダムを往復してくれるのです。カメラサービスなのでしょうね。
子供の時から馬に乗っていたのかもしれません。曲乗りをしてくれているのは、娘さんと思われる人と立って一緒に乗っていた人です。


沢山の馬たちがいました。馬たちはつながれることもなく自由にしていましたが、不思議なことに馬達もカメラを向けるとポーズをとってくれるのです。
クリックすると馬ちゃんを拡大

ダムの上では沢山の観光客の人が記念撮影をしていました。
真中がSORIクリックすると拡大もちろん我々も5000mを越えるザイリスキ・アラタウ山をバックに記念撮影(右側の写真)をいたしました。私が真中です。観光客の人もきれいな景色の写真を撮られていました。左の写真はクリックすると拡大します。


こちらの車に乗ってダムまで来ました。町のホテルから16.7kmですが約1000m登りました。カザフスタンでは価格の高いベンツやポルシェの乗用車やスポーツカーよりも、この写真のような重くて頑丈な四駆車の方が格上と長くカザフスタンに住んでいる人から説明されました。

アルマトイ空港の景色 [アルマトイ]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ソウル経由でカザフスタンの航空会社であるエアアスタナでカザフスタンのアルマトイ(アルマティー)空港に夕方に着きました。その時はボーディングブリッジを使ったことから、空港の周りの景色に気が付きませんでしたが翌日に国内線で移動のためにバスを使った時に上の写真の景色に出会いました。
アルマトイの標高は800mですが、その南側には夏でも雪が残った6000m級の山脈が連なっているのです。

ターミナルビルも入った景色です。写っている飛行機はアルマトイ(カザフスタン)とキエフ(ウクライナ)を結んでいるウクライナの航空会社であるアエロスヴィット航空です。この飛行機には2日後に乗りました。
アルマトイの町の中からも、このような山脈が見えるのですが、泊まったホテルの近くは高いビルが多く空港のようにひらけた場所はなかったために見ることが出来ませんでした。もう一つきれいに見えたのは天気でした。この日はきれいに晴れました。前々日までは大変な嵐だったそうです。日本で言う台風一過のようなものだと思います。嵐の爪あとは後日紹介いたします。7月9日にも山脈を見る機会がありましたが、少し霞んでいるためにここまで景色を見ることは出来ませんでした。
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こちらの飛行機に乗りました。エア・アスタナのカザフスタン国内線です。KC863 7時20分発でした。


この衛星写真を見てもらうと山脈とアルマトイ空港の位置関係がわかると思います。マークの位置が空港です。

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空港のターミナルビルと滑走路の航空写真です。滑走路の長さは4397mと4500mの2本があります。成田空港の滑走路が4000mと2500mで羽田空港が3000mx2本 2500mx2本なのでかなり長く感じました。4500mの新滑走路は2008年9月30日に最初のフライトに使われたとネットに書かれていました。

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空港の建物も紹介しておきます。この写真は前日にソウルからアルマトイ国際空港(Алматы Әуежайы)到着した時に撮ったものです。


空港の別の角度から撮ったものです。1935年開港し、1990年まではカザフ民間航空局(Kazakh Department of Civil Aviation)の一部だったそうですが、1991年にアルマアタ空港に改組されました。1993年以来独立採算事業体として独立し1994年よりアルマトイ空港となったそうです。1999年にターミナル火災事件し、2004年に現在の新ターミナルビル完成したそうです。


本場のカザフスタン料理 [アルマトイ]



この日は韓国のソウルからカザフスタンの最大の都市であるアルマトイ(アルマティー Almaty)にエアアスタナシルクロードの上を飛んで入りました。予定では17時55分着の予定でしたがソウルの出発が遅れたことから空港到着は約1時間遅れたことからホテルにはチェックインせずにレストランに直行することにしました。それでもレストランに到着したのは20時3分でした。カザフスタンの最初のディナーはやっぱりカザフスタン料理です。

立派な建物のレストランでしたがカザフスタンでは屋外が人気なようなので、我々も屋外の席にいたしました。
今の時期は屋外だと暑いように思われるかもしれませんがアルマティーは標高800mで乾燥しているので今の時期は気持ちがいいのです。逆に冬は寒いため屋内になってしまうのだと聞かされました。


やっぱり日本人ですね。先ずはビールにいたしました。


焼物は屋外でやっていました。料理を作っている方はたぶんカザフ人です。
カザフスタンはもとソ連でしたが、周りの人を見ているとアジアだと実感させられました。アジアというよりはモンゴルの雰囲気でした。アルマティーは天山山脈の支山脈の麓のオアシスのような135万人のカザフスタン最大の町でした。


裂きイカのように見えますが、裂きチーズです。塩味の強いチーズでした。


これが最もカザフスタンらしいものだと出してもらったものです。馬肉のハムあるいはソーセージです。特に脂身の部分は独特で美味しいとのことで薦められました。
カザフスタンはイスラム系の国であることから豚肉はなく、肉と言えば牛肉と羊肉と馬肉と鶏肉です。ただし鶏肉はカザフの人にとって肉の範疇ではないと聞きました。


チーズとオリーブが入ったサラダです。、どこかで見たことがあると思ったらロシアの地方都市の朝食で食べたサラダでした。
ただしそこではギリシャ風サラダと書かれていました。→ポチッ


野菜とハーブとチーズがそのまま出てくるのがカザフスタンでした。これに関してはウクライナでも似ていました。意外と美味しいし初めて食べるハーブの味でした。


カザフスタン独特のパンです。確か揚げパンと言われていましたが油っこさはまったくないパンでした。


カザフスタンにも馬乳酒がありました。小ぶりのドンブリバチのような器で出てきました。内モンゴルでも馬乳酒をいただきました。内モンゴルの馬乳酒は市販されているもので、まさにカルピスハイの味でしたが、カザフスタンの馬乳酒は酸味の強く、手作りであることが感じられるものでした。アルコール濃度は高くありませんでした。


こちらは初めとの経験となったラクダ乳酒です。馬乳酒と違い酸味は少なく全体に泡立っていました。まさに手作りの味でいい経験になりました。


これはお酒ではありません。カザフスタンの果物のジュースです。これからウォッカを飲み始める合図で出されるジュースでした。写真の右上の小さな透明の器に入っているのが最高級ウォッカのベルーガです。
このあと、この高級な銘柄のウォッカを2本開けてしまいましたが、私は小さな器で一杯飲んだだけでビールを飲み続けました。もちろんラクダ乳酒と馬乳酒も飲みました。


骨付きの羊肉の入ったスープです。これもカザフらしい料理なので頼みました。


このようなスパゲッティーのような麺を使った料理もありました。煮込まれた牛肉と野菜がたっぷりと使われたカザフスタンらしい雰囲気の料理でした。


日がやっと沈みかけました。この時が21時17分でした。日本時間だと0時17分なので、少し眠くなってきました。


メインは肉です。長い串にさされて出てきました。串から外した写真です。牛肉と鶏肉です。カザフスタンの人は日本人が一年間に食べる肉の量を一ヶ月で食べるそうです。すごく肉好きだと聞きました。天然資源で経済が潤っているので肉による栄養過多も問題になっていると聞きました。そんなことは忘れて、思いっきりステーキを楽しみました。こちらではミデアムはありません。カチカチに焼いて歯ごたえがないと肉らしくないと皆さん思っているそうです。


冒頭の写真が、ここで登場です。またビールが進みました。その地域の食べ方にはそれなりの美味しさがあることがわかりました。やっぱり美味しいかったです。


見た目は中華まんですが、味は独特でカザフの味でした。豚肉は使えないので羊が牛か馬ですが、どの肉なのかは判りませんでした。これも、れっきとしたカザフスタン料理だそうです。



追加掲載 タイトル:レストランの場所が特定できました。

カザフスタンに最初に着いた日の夕食にカザフストン料理を食べたレストランの場所が気クリックすると拡大になっていました。
右のレストランから撮った写真の景色から、そのレストランの場所を見つけ出しました。黄色のマーク( )が、そのお店です。場所を特定した景色は、西にツインタワーがあり、その右側にドームのある建物があって、目の前に白い道路があることでした。右の写真は20時21分です。


レストランの場所を拡大してみました。赤い屋根が建物で白い屋根は屋外の部分です。テーブルは屋根のために見えませんが、この黄色いマーク( )のところにあるテーブルで食事をいたしました。
 店名 Tyubeteyka チュベテイカ
 住所 Satpaev St 32, Almaty
 電話 +707-127-0305

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結婚式用の白いリムジン [アルマトイ]



すでに紹介したとおりカザフスタンに始めて着いた日(2011年7月7日 木曜日)は飛行機が遅れたこともあり空港からカザフスタン料理のレストランに直行いたしました。道路が渋滞するので住宅街の抜け道を通っている時に、上の写真の光景に出会いました。ボンネットの上にハート型の花輪が乗せられている通り結婚式の車でした。我々とすれ違うのということはこれから空港に行くところでしょうか。それても披露宴のレストランに向かうところでしょうか。目的地ははわかりませんが町の中心から郊外に向かっているところです。

我々の前の車が進むまではリムジンは曲がれないのでじっと待っていましたが、前の車が進めたので、やっとリムジンが曲がることが出来ました。


見ての通りかなりの胴長リムジンです。この車の後ろに沢山の車が連なって目的地に向かっていました。後ろの車にも花が飾られているのがわかってもらえると思います。


後ろの車も全て白色のベンツでした。これも結婚式のお付専用車なのかもしれません。
ここで、かなりの足止めさせられてしまいましたが、珍しいおめでたい光景を見せてもらい大満足でした。


カザフスタンに到着して2日後の土曜日(2011年7月9日)に車でカザフスタン最大の町であるアルマトイ(アノマティー)を散策している時に同じような白い胴長のリムジンを数え切れないほど見かけました。こちらに長く住んでいる方に聞くと、こちらでは皆さん結婚式で、この白いリムジンを使われと説明されました。これほど沢山の白い胴長リムジンが走る町は初めての経験でした。白いリムジンしか見かけなかったので、アメリカと違い、普段に胴長リムジンを使っている人はカザフスタンにはいないのだと思いました。やはりカザフスタンの胴長リムジンは結婚式専用のようです。こちらのお付の車は全て黒のベンツでした。お付の車は白と黒があるようです。


結婚式で使われている白い胴長リムジンは車の中からしか見ることがありませんでしたが、間近で見る機会がありました。それがこの車です。ハマー(HUMMER)のH2モデルを胴長に改造したものでした。この写真はクリックすると拡大します。
拡大してもらうと車の真中にピンクのマークがつけられている通り結婚式の専用車であることが推察できます。
クリックすると拡大

クリックすると拡大ハマー(HUMMER)のH1モデルはネットから拝借した右の写真の軍用車ハンヴィー(HMMWV, Humvee:High Mobility Multipurpose Wheeled Vehicle = 高機動多用途装輪車両)の基本構成部品を共有化した民生仕様の車です。それはアーノルド・シュワルツェネッガーの要望により作られたものでした。
クリックすると拡大右の写真が民生用のH1です。
今回のリムジンのベースになっているH2はH1の雰囲気を踏襲したフルサイズSUVでありますが軍用車との関連はありません。
そのH2をリムジン化したのが今回の結婚式専用車というわけですがエンジンもかなりの大きさです。


この写真で大きさがわかってもらえると思います。ちなみに横を歩いている人がカザフ人だと思います。
カザフスタンの人たちの車感を長く住んでいる人に聞きましたがポルシェやベンツの乗用車よりもレクサスのランドクルーザの方が格が上だそうです。つまり車の値段ではなく大きくて頑丈な車が人気があるそうです。その意味ではリムジンの中でもハマー(HUMMER)のリムジンが最も格の高い結婚式専用車なのかもしれません。
ちなみにウクライナでも同じ質問をして見ましたがウクライナではベンツやポルシェの方が格が上だったので、やはりカザフスタン独特の車感のようでした。


H2リムジンの後ろ姿です。屋外好きのカザフの人たちなのでオープンなスペースも設けられています。ベンツの白い胴長リムジンを数え切れないほど見かけましたが、アルマトイのH2の胴長リムジンは1台だけですか? と長くカザフに住んでいる人に聞くと何台も見たとのことでした。さすが恐るべしカザフの結婚式!と実感してしまいました。


真後ろから内部も撮らせてもらいました。手前の椅子が屋外部分の椅子で入口の中が室内です。広さの実感は難しいけれども車自体がかなりの大きさなので中も広いと思います。


こちらがHUMMERのリムジンに乗っていた花嫁さんです。アルマトイの町が見下ろせる有名な丘のコクトベを散策している時に出会いました。ここはコクトベの中でも景色が最高のレストランなので、結婚式が行われているとは知らないで、そのレストランに入ろうと入口をくぐると結婚式が行われていました。
ちょっと息をのむ映画のシーンのような光景でした。花嫁さんもきれいな方でしたが、周りの女性の方もすばらしくきれいな方が多かったです。入口でお店の方に「どうぞ自由に入ってください。」と言われましたが、皆さんが着ているドレスからして格の高さが伝わってきたので、つい遠慮してしまいました。今となって、このレストランに入れば、もっとすばらしい光景に出会えたかもしれないと後悔しています。でもGパン姿では、ちょっと!!
驚いたことに、こちらの結婚式に参加されている方が何人も報道陣に取材を受けていました。我々が見ている間でも男性と女性の方が2名、わざわざ別の場所まで移動して本格的に座って取材を受けていました。
こちらの写真もクリックすると拡大するように設定しております。あらためて拡大写真を見て、いろんな状況や報道関係者がいたことから、単なるセレブな人ではなく女優さんだと感じております。
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結婚式参加者の女性が、これから取材を受けるところです。カメラマンと取材をする人と取材を受ける女性の方です。取材を受けている方も容姿からして女優さんではないかと思えました。取材を受けていた男性の方の顔は見ていないのですが雰囲気は似た感じでした。


コクトベの航空写真です。黄色のラインがロープーウエイで赤色のラインがコクトベの散策路です。写真の中の下側の赤色マークが結婚式が行われていたレストランです。青色のラインがH2リムジンが登って来た道です。よく登ってこれたと関心してしまいました。
写真内のアイコンを数回クリックすると、この位置が判ってくると思います。

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標高1800mの渓谷には沢山の花が咲いていました。 [アルマトイ]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

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すでに紹介したカザフスタンのアルマトイ(アルマティー)から車で30分で行けるメデウ地区にあるダムの上から撮った写真です。ゴンドラが渓谷沿いにスキー場に向かっています。奥に雪を頂いている山は7000mを越える山々を持つ天山山脈の支山脈であるザイリスキ・アラタウ山です。この山は5000mを越えているとのことでした。

右上の雪を頂いたザイリスキ・アラタウ山を拡大いたしました。


これが航空写真で見たダムです。赤色ラインがダムの頂部で幅は約600mあります。このダムは土石流をくい止めるためのものだそうです。下側が渓谷の上流側ですがダムの上流側は土で出来ていました。黄色のラインは谷とスキー場を結ぶゴンドラで丁度ダムの上を通っています。緑のラインが車で登ってきた道です。
地図内のアイコンを数回クリックすると、この位置が判ってくると思います。

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そのダムの土の上流側の斜面には沢山の黄色い花が咲いていました。ダムの上流側の斜面は南向きなので日当たりは最高の場所でした。


黄色い花に混じって赤紫の花も咲いていました。


青い花も咲いていました。この青い花が群生している場所が車の通り道にありました。、


ダムの上流の川原です。車が小さく見えます。川原には石を並べて文字を書いているのが見えます。


ダムの下流にはこのような鉄骨が組まれていました。洪水の時に流木を食い止めて町を守っているように見えました。


今回(7月7日~7月14日)はカザフスタンとウクライナを訪れました。なじみの薄い国の方もおられると思うので地図に色を塗って見ました。緑色がカザフスタンで黄色がウクライナです。比較のためにモンゴルは空色を塗りました。

アルマトイの町が一望出来る人気の丘 コクトベ [アルマトイ]



珍しい光景ですが6車線(片側3車線)の道路の上をロープーウエイが通っているのがわかってもらえるでしょうか。ここはすでに紹介したカザフスタン最大の町アルマトイ(アルマティー)です。このロープーウエイはアルマトイの町が一望できる丘コクトベの上につながっています。

そのコクトベ(カザフ語:Көк-төбе ロシア語:Кок-Тюбе 英語:Kok-Tobe)に登ってみることにしました。ここが町の中あるロープーウエイの乗り場です。真っ赤なKok-Tobeの文字が印象的な駅でした。コクトベはカザフ語で「緑の 丘」で海抜は1130mですが、アルマトイの町の海抜が約800mなので町との標高差は200m程度です。


我々の乗るロープーウエイが降りてきました。住宅地や道路の上を渡って山頂に向かいます。ここに登ったのは2011年7月9日(土曜日)でした。


こちらのロープーウエイは往復タイプで丁度真中でもう一つの車両とすれ違います。山に近づくまではゆっくりと登っていきます。この時点で下は住宅地でした。


ロープーウエイからの住宅街の景色です。見るからに高級住宅地が沢山ありました。
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冒頭の道路の上に差し掛かってきました。ロープーウエイが道路の上を渡る。この光景も珍しいのではないでしょうか。
クリックすると動画

ロープーウエイが道路を渡るところの動画も掲載いたします。プレイボタンを押して乗っている気分になってください。


山頂のロープーウエイのりばです。建物の上に立っている大きな旗はカザフスタンの国旗です。


山の上には散策路があり沢山の人が来ていました。特に子供連れの家族の人が多かったです。


ロープーウエイのりばの横の展望場所です。アルマトイの町が一望できる人気スポットで訪れている人が多かったです。写真はクリックすると拡大します。
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黄色のラインがロープーウエイです。黄色のラインをクリックすると長さが1.62kmと表示されます。
写真の中の上側の赤色マークがロープーウエイ乗り場で下側の赤色マークが以前に紹介した結婚式が行われていたレストランです。赤いラインの散策路を歩いそのてレストランまで行きました。青色マークはテレビ塔で青色ラインは車で登りる道です。

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散策路ではカザフスタンの民族衣装を借りて記念撮影をされている方もいました。着ている人に一緒に記念撮影を頼みました。
その民族衣装を右の写真はその記念写真です。
でもその人に「私はカザフスタン人ではないのだけれども」といわれてしまいました。おそらくロシアからの観光客の人だと思います。
アジア系の人は地元の人だと思いますがロシア系の人に関しては地元の人なのか外国人なのかはわかりません。


なぜかビートルズの銅像がありました。クリックすると検索サイトこのベンチに座ってビートルズと一緒に記念撮影もしてみました。ちなみにビートルズは、カザフスタンには来たことがないそうです。ここにビートルズの像がある理由を検索してみましたが日本語サイトでは見つけることが出来ませんでした。
カザフ語の動画を見つけました。→ポチッ


散策路には沢山のお店が出ていました。


鶏(ニワトリ)を中心にした小さな動物園も家族連れには人気でした。


珍しいニワトリたちをいくつか紹介いたします。日本のニワトリ(右下)もいました。



すでに紹介した写真です。結婚式が行われていたレストランです。→ポチッ
このレストランが散策路の一番奥にあります。ここからまた散策路をロープーウエイのりばに向かって歩きました。
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コクトベからのレストランの横から泊まったホテルの方向の写真です。これがズームをしていない普通のサイズの写真です。


ホテルが小さいため上の写真から切り取りました。中央付近がビジネスの中心で泊まったホテルも真中にあります。
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レストランの横からは天山山脈の支山脈であるアラタウ山脈があり夏でも雪を頂いた山々をきれいに見ることが出来ました。町の中からもこれらの山々を見ることが出来ます。地元の人も多かったけれども国外の観光客の人も多かったです。
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カザフスタンでは今年(2011年)に第7回アジア冬季競技大会(1月28日~2月6日)が、この町アルマトイ(アルマティー)と首都アスタナで開催されました。写真はアジア冬季競技大会が行われたジャンプ台です。上の写真の天山山脈の支山脈には競技が行われたスキー場もあります。だから日本の選手の人たちはアルマトイをご存知のはずです。
アスタナ(Astana)
開会式 スピードスケート フィギアスケート ショートトラック アイスホッケイ(男子)
アルマトイ(Almaty)
閉会式 アルペンスキー クロスカントリー ジャンプ フリースタイルスキー オリエンテェーリングスキー アイスホッケイ(女子) バイアスロン バンデイ  


カザフ料理の大きなレストランもありました。私の知る限りモンゴル風の建物ですが、それがカザフ風なのだと思います。人種的にもモンゴルに近い感じがします。一度だけのため写真は撮れませんでしたが内モンゴルで見た遊牧民の移動式住居であるパオ(モンゴル語:ゲル гэр、ger)とそっくりのものも車の中から見かけました。こちらではユルトあるいはユルタ(يورت Yurt)というそうです。そのユルタの形のレストランでした。


散策路を戻ってきたところでビールがのみたくなります。カザフ風のレストランでビールを飲むのもいいけれでも、やっぱり屋外で冷えたビールをグビッと飲みたくなります。さっそく実行です。地元の冷えた生ビールを頂きました。銘柄はEFFSでかなり有名なようでいたるところで、この看板を見かけました。屋外でのんびりと生ビールが飲めるのは最高でした。


帰りのロープーウエイは満員でした。沢山の人が訪れているのに驚かされました。

大使館に囲まれたアスタナのホテル [アスタナ]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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こちらがカザフスタンの首都アスタナで泊まったホテルです。
ホテルの名前はRixos President Hotel Astana(リクソス プレジデント ホテル)です。アスタナは今から17年前の1997年にアルマトイから遷都された町なのです。
アスタナは1998年のカザフスタン政府主催の国際コンペで1位に選ばれた日本の建築家・黒川紀章の都市計画案に基づき開発が今でも続けられています。その中で、このホテルは最初のころに建てられたと思われます。

それはこの航空写真を見てもらうとわかってきます。真ん中より少し左の大きな建物が、今回紹介するホテルです。ホテルの周りに同じような小さな建物(と言っても結構大きい建物)があるのがわかってもらえると思います。実は、これらは各国の大使館なのです。つまり新しい首都を作った時にカザフスタン政府が大使館を作って各国に大使館を提供したのです。配置から見て、このホテルも各国の要人を泊めるために政府が作ったものと想像できます。写真をクリックしてもらうともっとよくわかると思います。
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もっと遠くからの航空写真を見てもらうとわかるように最重要な場所に計画的に建てられてことも想像できます。マークのところがホテルです。
以前は写っていなかったカーン・シャティールも航空写真に反映されました。以前は大統領官邸と大使館と今回のホテルなど限られた建物だけが反映された時代もありました。

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入口の門の近くから撮ったホテルです。大きな敷地の中にホテルが建っていました。


チェックインカウンターです。こちらに住んでいる方がアスタナで一番のホテルと言われていましたが、確かに納得でした。


大きな吹き抜けのスペースがありました。


ガラス張りのエレベーターから撮った吹き抜けのスペースです。


一階のロビーから入口の門の方を見た景色です。


もうすぐクリスマスの時期だったのでロビーにはクリスマスツリーが飾られていました。


私の部屋は丁度入口の正面にとってくれました。3つのドームがあるのがホテルのもんです。夜の景色です。


こちらは昼間の景色でした。ホテルの正面には3台の大型テレビ画面がありました。これもホテに泊まる要人を意識して作られたような気がします。その正面の様子の動画も撮りました。→ポチッ
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こちらはホテル内のクラブです。食事の後はゆっくりとくつろぎました。


地表から見たホテルの前の高層ビル群です。左に航空写真で紹介した沢山の大使館があるのがわかってもらえると思います。


同じ場所のあたりを部屋の窓からも撮ってみました。角度が違うと少し雰囲気も違うと思います。


部屋の中も紹介しておきます。部屋は一般的なクラスです。


うれしいことに浴槽にはジャグジー(jacuzzi)がついていました。ボタンを押すと空気の泡のジェット噴流が出てきました。これは初めての経験でした。


浴槽に加えて専用のシャワー室もあり、中にはシャワーも大型のレインシャワーに近いものがついていました。
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料金所は前払い [アルマトイ]



カザフスタンの有料道路の料金所です。でも、ここで現金の支払いはありません。

実は料金所の手前の広場にある自動支払機で料金を払い、自動支払機から出てきた紙を料金所の係員に渡すのです。空港の駐車場の料金所も同じシステムでした。沢山の自動支払機tが設置されているので渋滞にはなりませんが一度、車から降りて料金を払うので時間がかかります。国によってシステムが違うことを知りました。
ベトナムの料金所でも手前で料金を支払う形式の料金所が多かったです。ベトナムでは自動販売機ではなく人間が料金を受け取っていました。

カザフスタンの国内線 機内編 [機内 CY]



カザフスタンの航空会社であるエア・アスタナでソウルからアルマトイ(アルマティー)に着いた翌日は同じ航空会社であるエア・アスタナの国内線に乗りました。上の写真がその飛行機に乗る前に撮ったものです。国内線と言っても2時間50分のフライトでした。時差もアルマテイから1時間ある場所でした。カザフスタンの広さを感じていまいました。

さすがカザフスタンです。飛び立つ前の飲み物としていつもの水とオレンジジュースとシャンペン以外にヨーグルト系の飲み物も選択できました。料理はいくつかの種類から選択が出来ましたが、私はこの料理にいたしました。


国内線ですが料理が出ました。焼きトマトの中にオムレツが入った洒落た料理でした。


ヨーグルト系の美味しいデザートでした。


ソウルからの国際線は通路が真中1本の小さな飛行機でしたが国内線の飛行機はボーイング767で通路は2本の比較的大きな機体が使われていました。


クリックすると拡大右の写真はフライトコースです。クリックすると拡大いたします。オアシスのようなアルマトイの町から灼熱の町アクトベに向かいました。こちらは32万人の町で総人口1560万人のカザフスタンの中では大きな町になります。
下の写真がアクトベ空港のターミナルビルです。想像していた以上に近代的な空港でした。



アクトベからアルマトイに戻るフライトも紹介いたします。前日早朝の便でアクトベに来ましたが帰りは10時10分発だったのでゆっくりと出来ました。
乗ると前日のキャビンアテンダント(CA)の方と同じ方達で、顔を覚えてくれていたので、皆さんがにこやかに挨拶をしてくれました。エア・アスタナはアジア系の美人のCAの方が多い航空会社でした。
アクトベに来る時は真中の席でしたが帰りは窓側を頼みました。
この日は前日と同じように晴れていました。アクトベは雨の少ない地域であることは飛行機が飛び立ってすぐにわかりました。出発時間の1時間5分前の9時5分に空港に着きました。その時の車の中からの写真です。


クリックすると拡大5Aの席からの機内の景色です。
遠めですが美人のアテンダントの方も紹介いたします。行きと同じフライトに乗っているのを気が付いてくれてうれしかったです。男性のCAの方も1名乗られていました。こちらもアジア系の方でした。


さっそくビールを頼みました。こちらは一番小さい缶が500ccなので機内のビールも我々で言うロング缶が出てきました。アーモンドをつまみに先ずは一杯です。ただし日本のようには冷たくはありません。


アルマトイへの帰りの便で選んだのは海老の天婦羅のようなフリッターでした。メニューにはTERIYAKI(照り焼き)とかかれており日本を意識した料理のようでした。こんなところでTERIYAKIの文字に出会えるとは思いませんでした。おそらく日本風というような使い方なのだと思います。


これが、すばらしく美味しいプリンでした。クリーミーなタイプのプリンで日本で流行のプリンのタイプでした。これは他の人も絶賛していました。


使われいてた食器も可愛らしかったので紹介いたします。手前はコショウと塩の入れ物です。


オレンジのラインを往復したわけです。緑色のマークがアクトベ空港で黄色のマークアルマトイ空港です。途中に現在では中央アジア最大の湖であるバルハシ湖がありました。

より大きな地図で アルマトイ⇔アクトベ を表示

巨大なカザフスタン国旗 [カザフスタン]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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カザフスタンのアクトベという町を早朝に散歩してモスクと教会を訪れました。もう一つ気になっていたところに行ってみました。それがこの写真の場所です。高いポールに大きな旗が風でたなびいていました。上の写真は是非ともクリックしてみてください。高さが実感してもらえるかもしれません。
ネットで調べたけれども、これは出てこなかったので正確な高さはわかりませんが、60m~70mではないかと思えました。もしかしたら、もう少し高いかもしれません。このポールの高さをご存知の方が、おられたら教えてください。

旗も遠くなので小さく見えましたが、かなりの大きさです。
この旗がカザフスタンの国旗です。おそらく15mを越える長さの旗だと思いますが強い風のおかげで、たなびいていました。


この旗は大きな公園の真中辺りに立てられており、周りには池などもありました。


カザフスタンの1人当たりGDPは11,415ドル、失業率は1999年に13.47%あったものが下がり続けて2013年には5.3%になり、独立直後の経済状況に比べ、クリックすると拡大著しい飛躍を遂げています。この経済成長は、鉱物資源の輸出によるものであり、天然資源依存型であるといえます。採掘量が世界第10位以内に達する地下資源が9つも存在します。輸出品目も地下資源とその加工品が7割を占めています。豊富な地下資源も、何もしなければ宝の持ち腐れですが、経済発展を成し遂げた初代からの現大統領(ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領)は、絶大な人気で2011年4月3日の大統領選挙では95.5%の得票率で再選(5選)されています。大統領の写真はWikimediaから拝借いたしました。参考に日本の失業率もプロットいたしました。


ポールの根元の部分です。根元にはいろんな飾り付けや文字が書かれていました。この裏側には大統領と思われる写真も取り付けられていました。ポールは亜鉛メッキのようでした。


下から見上げるように撮った写真です。迫力がありました。

公園の入口の門からの写真です。入口から一直線に花壇が続いていました。この写真はGoogle地図のカメラマークの場所から撮りました。Google地図で確認したところ公園の入口にある門から旗までの距離は470mです。
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緑色のマークのところに巨大なカザフスタンの国旗が立っていました。紹介したモスク(青マーク)や教会(赤マーク)から近いところにありました。
ネットで調べるとカザフスタンはカザフ人が63.1%、ロシア人が23.7%、ウズベク人が2.9%、ウクライナ人が2.1%、ウイグル人が1.4%、タタール人が1.3%、ヴォルガ・ドイツ人が1.1%、その他4.5%となっています。アジア系が60~70%というイメージは当たっていました。


カザフスタン共和国の国旗(1992年6月4日~現在)
カザフスタンの国旗は1991年のソ連解体後、カザフスタン共和国として独立(1991年12月16日)した際に制定(1992年6月4日)されました。 ソ連時代に使われていた赤い色はなくなりました。
青地は空、中央の黄は33本の光を擁する太陽と翼を広げて飛ぶワシ(ステップ・イーグル)をイメージし、左端の文様は民族の伝統的なアラベスク文様で、この青地は、この地域のテュルク系諸民族を示し、その諸民族の間では青地は宗教上特別な意味である神の存在を象徴するが、現在ではカザフスタンの広い空と自由を象徴しています。中央の鷲は、当時も青地に鷲の旗のもとで、この地方を支配したチンギス・ハーンの帝国を示し、カザフスタンの人々の誇りを表したそうです。
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独立する前のカザフ・ソビエト社会主義共和国時代の旗を古い順に紹介します。このころは赤が主体でした。真中は第二次世界大戦のころの旗になります。一番最近のものにはブルーの色が入りました。文字もなくなりました。下の国旗はクリックすると拡大します。
  1937年~1940年    1940年~1953年    1953年~1991年
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首都のアスタナにも、町の中に大きな国旗が建てられていたので紹介します。アクトベの国旗よりも少し小さいようですが、それでもかなりの大きさでした。


Hotel Dastan Aktobe 日本食がブーム? [カザフスタン]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大すでにカザフスタンのアクトベのモスク教会などを紹介いたしましたが、ここの町は下の航空写真のように15km程度の範囲に入ってしまう町でした。その町で泊まったホテルが、前記事で紹介した右の写真のHotel Dastan Aktobeです。前日はカザフスタン最大の町であるアルマトイ(アノマティー)でカザフ料理を堪能いたしましたが、こちらのアクトベでは、このホテルで種類はこだわらないでアラカルトで頼んでみました。アクトベ(Ақтөбе)はアクトベ州の州都で人口は約32万人の町です。この町で食べた料理を紹介いたします。

この地図の空色のマークの位置が、ホテルの場所です。マークをクリックすると名称を表示します。

より大きな地図で Aktobe を表示
チーズたっぷりのシーフードサラダというところでしょうか。チーズがたっぷり乗っているところがカザフスタン風なのかもしれません。


こちらもチーズがたっぷ乗った「きのこ」のクリームシチューのようなソースの美味しい料理でした。味わって見て、こちらのホテルのレストランは一流の味であることが徐々にわかってきました。昼食で食べたボルシチもすばらしかったです。


ロシアの特徴である黒パンも出てきました。


これらを肴にしてビールです。写真のピントはバックのテーブルの方にあってしまったのでレストランの雰囲気もわかってもらえると思います。写真をクリックすると背景の山の絵の拡大写真を表示するようにいたしました。


こちらのレストランでは日本風の料理も食べれるのが特徴でした。肉がたっぷりの野菜炒めです。


こちらは、まさに焼肉でした。次のような飯類もありました。
 親子丼     Oyakodon            550テンゲ 310円
 鰻玉丼     Una-Tama don         1500テンゲ 847円
 牛丼       Gyudon             500テンゲ 282円
 シーフード焼飯 Tennpanyaki rice with seafood 1300テンゲ 734円
 野菜焼飯    Tennpanyaki rice with vegetables 550テンゲ 310円
 ごはん     Gohan              500テンゲ 282円


こちらが冒頭の写真です。究極の日本食であるお寿司もありました。これには驚きでした。ここはカザフスタンの首都アスタナでもなく、最大の年アルマトイでもなく、日本人が住んでいるとは思えない砂漠の辺境の町アクトベなのです。そこで、お寿司が食べれるとは!
辺境の地ではありますが、人口はカザフスタン5番目(38万人)の町です。サーモンと鰻のお寿司を頼みました。
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メニューのお寿司の部分ですが、メニューでは日本食の部分に4ページも使うほどの力の入れようでした。メニューはカザフ語とロシア語と英語の3種類が書かれています。左側がカザフ語とロシア語で右側が英語でした。クリックすると拡大するのでメニューが読めると思います。一番下の9品の「デラックス盛り合わせ(Delux Moriawase)」の寿司の内容を紹介いたします。値段は15000テンゲ(約8470円)です。「巻き盛り合わせ(Maki Moriawase)」かが5500テンゲ(約3100円)で、「寿司盛り合わせ(Sushi Moriawase)」が6500テンゲ(約3670円)でした。単品の巻物は550~1600テンゲ(310~900円)です。ちなみに一番安いのがカッパ巻(Kappa Maki)です。
クリックすると拡大   Sake Kunsei nigiri
   Unagi nigiri
   Izumi tai nigiri
   Maguro nigiri
   Hotate nigiri
   California maki
   Unagi maki
   Maki with baked salmon
   Philadelphia maki
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ホームページに、こちらのレストランの動画があったので紹介します。残念ながら日本食は出てくなかったですが、雰囲気は伝わってくると思います。


実は、ここは小さいホテルでしたがカザフスタンの大統領も訪問するほどのホテルでした。ホテルの壁には有名な人と思われる方々の写真が沢山飾られていましたが、この写真はその中の一枚です。


ホテルの中は日本風の絵が沢山飾ってあったことからも日本にこだわっていることが感じられました。


地方の小さなホテルではバーはあるけれども早くしまってしまうことが多いけれども、こちらではバーも遅くまでやっておりカクテルを楽しみました。


ついカクテルの、おかわりもしてしまいました。


ホテルの部屋も紹介いたします。寝室と居間が分かれたタイプでした。


長期に滞在する人にも対応できるようにしているのでしょうか。キッチンや大形冷蔵庫もありました。


少しアクトベを紹介いたします。ネットでの記載内容です。
ラテン文字表記はAqtöbe(またはAktöbe、Actöbe)。ロシア語ではアクチュビンスク(Актюбинск)と呼ばれる。
住民の民族構成は多彩で、カザフ人とロシア人を始めとして、ウクライナ人・タタール人・ウイグル人・チェチェン人・アルメニア人・ユダヤ人・ギリシア人などが住んでいる。ペレストロイカ以前はドイツ人の大きなコミュニティがあった。
アクトベという名はカザフ語で「白い丘」を意味し、19世紀の入植地であった丘に由来する。 1869年3月、ロシアはオレンブルクからのキャラバンルートに当たるこの地に軍事要塞を建設、周囲にスラブ人が農業のために入植を開始した。要塞は拡張され町も大きく整備された。1891年、アクチュビンスクという名の市に昇格した。1901年にはトランス・アラル鉄道も開通した。 ロシア第一革命ではボリシェビキが活発な反政府活動を展開、ロシア革命で完全にアクチュビンスクを掌握した。その後、戦略的に重要なアクチュビンスクをめぐって赤軍と白軍が激しい争奪戦を展開、1919年4月、アクチュビンスクは白軍の手に落ち、ボリシェビキの中央アジアへの連絡路は断たれた。しかし、9月になるとミハイル・フルンゼのボリシェビキ軍は激戦の上、アクチュビンスクを奪還、以降、タシュケントへの鉄路は赤軍の掌握するところとなった。1920年、キルギス自治ソビエト社会主義共和国が誕生し、その後、カザフ・ソビエト社会主義共和国のアクトベ州となる。 第二次世界大戦では、工場がロシアやウクライナから疎開、フェロアロイ工場やクロム工場も移転してきたため工業都市として飛躍することになった。1990年代以降、アクトベのヴォルガ・ドイツ人たちはドイツへと帰還した。
マークの場所がお寿司が食べれたカザフスタンのアクトベ(Aktobe)です。首都アスタナ(Astana)では日本食店はありません。
カザフスタン最大の都市アルマティー(Almaty)でも日本食店は2~3店しかないことから首都アスタナや最大の都市アルマティーから遠く離れた、この場所で寿司が食べれたことが、どれだけすごいことかが、判ってもらえると思います。

ベットルームが2つ アクトベNO.1のホテル [カザフスタン]

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前記事でカザフスタンの首都アスタナのNO.1ホテルを紹介したので、地方都市のNO.1ホテル紹介させていただきます。
その地方都市のアクトベ(Aktobe/Ақтөбе/Актюбинск/Aqtöbe)で泊まったホテルが上の写真です。

以前にカザフスタンの主要な都市の位置を紹介した地図です。マークをクリックすると都市の名前を表示します。赤色マークは訪問した町で、左から順番にアクトベ、アスタナ(Astana)、カラガンダ(Karaganda)、アルマティー(Almaty)です。つまり一番左の赤いマークが、今回のホテルのあったアクトベです。人口は地図の中のマークの都市の中では7番目で317,700人です。カザフスタンでは中堅の都市と言えます。

より大きな地図で カザフスタン を表示
その中堅の都市で泊まったホテルの部屋にはベットルームが2つありました。正面に入口が2つありますが、それぞれがベッドルームなのです。


こちらが左側の入口のベットルームです。


こちらは右側の入口のベットルームです。


居間(リビング)にはキッチンや大型の冷蔵庫も設置されていました。居間も結構広かったです。


冒頭の写真ではクリスマスツリーを作っている最中でしたが夜には完成して点灯いたしました。ホテルを紹介します。
 名前 Hotel Dastan Aktobe
 住所 2 Bogenbay street, Aktobe, Kazakhstan, 030008
 HP  http://www.dastanhotel.kz/en/main
 電話 07132-90-1000


ホテルの前の道路です。寒そうでしょう。いつもなら散歩をするのですが、さすがに散歩に出る気にはなりませんでした。


ホテルの壁にはホテルを訪問した有名人と思われる人の写真が沢山、飾られていました。一際、目立っていたのがカザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ大統領の写真でした。大きくはないホテルでしたが、アクトベNO.1のホテルの証しだと思います。ちなみにヌルスルタン・ナザルバエフ大統領は初代からの大統領で2011年4月3日の大統領選挙では95.5%の得票率で再選(5選)されている人気の大統領なのです。
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ホームページにホテルを紹介した動画があったので掲載いたします。空港からホテルへの移動で日本の車(トヨタ)が登場します。
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首都アスタナのホテルの朝食 [アスタナ]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大すでにカザフスタンの首都アスタナのホテルを紹介いたしましたが、このホテルの朝食を紹介していませんでした。なかなかの雰囲気の朝食だったので紹介いたします。大きな部屋の真ん中に料理が並べられたテーブルがいくつか置かれていました。食事のテーブルも十分な間隔を置いて配置されているのが印象的でした。

ホテルの名前はRixos President Hotel Astana(です。料理が並べられていたテーブルをいくつか紹介いたします。このテーブルはパン類が起これていました。
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こちらは果物類です。一番手前にあるのが、今回食べたザクロです。
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温かい料理が並んだテーブルです。
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チーズ関係も充実していました。
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こちらはサラダとハムやソーセージなどの肉関係のテーブルです。
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カザフスタンは中央アジアです。そこで今回は珍しい肉関係ばかりを選んでみました。ハムやソーセージは、今回は選びませんでした。珍しい肉類だけでもこれだけの種類がおかれていました。本当に沢山の種類がありました。
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気になったことがあったのでオムレツも頼んで見ました。やっぱり予想したとおりでした。それは卵の黄身がパキスタンの時のように白いことでした。黄身が白いので全体が白いオムレツになっているのです。
パキスタンの白い黄身の記事はこちらです。→ポチッ
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パッションフルーツかなと思いましたがザクロでした。
なかなか食べ応えのある大きさでした。。
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こちらがホテルの全景で大使館に囲まれた敷地の中にある、首都アスタナを代表するホテルでした。
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最新の動画を追加しました。 我が家のワンコの得意技 [むさし]

2014年3月10日追伸 タイトル: 最新の動画を追加しました。
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

我が家のワンコ(名前 : ムサシ)は扉を開けることが出来ます。扉を開けるところの動画は、すでに紹介していましたが、すでに3年半が経過していることから、右下の写真の新しいカメラ(Canon Power Shot S120)で、ムサシが扉を開けるところを撮りなおしました。その動画を追加掲載いたしました。動画の前半が手前から扉を引いて開けるところですが、後半は扉の向こう側から扉を開けで入ってくるところをとらえましたので、19秒ですが、どうぞ最後まで見てください。
実は扉を開ける時に我々が、そばに居ると、最初は扉を前足で叩いて我々に開けてくれるようにアピールしますが、無視していると自分で扉を開けます。一連の動きは別画面の方に収録しています。上の動画は督促するところは省略しています。別々に別画面で見たい場合は下記のポチッをクリックしてください。
クリックすると拡大  手前から開ける動画 → ポチッ 24秒
  向側から開ける動画 → ポチッ  9秒
初めて開けられるようになったムサシの年齢です。
  押して開ける    6歳8ケ月
  引いて開ける    8歳4ケ月
  スライド式扉   13歳5ケ月

SDカード新しいカメラは家内の3月4日~7日の海外旅行のために小さくて画像の良いカメラが欲しいということで買いました。
AF(オートフォーカス)は0.1秒だし連写は12.1枚/秒で、AFをしながらの連写(5.5枚/秒)も出来るということで、進歩を感じました。AF連写が出来るので連写中に被写体までの距離が変わってもピントが合うので、ワンコが走ってくるところの連写が撮れそうです。一秒間に約50MB(=4.2MBx12.1枚)の写真を撮ることになるので、SDカードも高速で書き込みが出来るR95・W90MB/Sにいたしました。
3月8日から学生時代のサイクリング部の友達が家に遊びに来ていたので、ワンコの得意技を見てもらいました。下の写真が卒業してすぐのもので、右が2014年3月9日の写真です。どちらの写真も左端が私です。この中の一人は私の結婚式以来、初めて会いました。3月8日は上野の居酒屋で2時間飲んだ後、私の家に来て昔のアルバムなどを見ながら、飲み直しました。


クリックすると拡大友達にスマホで撮ってもらった縦長の動画を送ってもらいました。その友達のFacebookに、この動画が乗せてもらえるそうです。この動画は縦長なのでサイドバーにも使わさせていただきました。右の写真の赤い矢印の3人です。この写真で真中が私で、左がスマホで動画を撮ってくれた人で、右が結婚式以来の人です。


さらに16歳でも扉開けが出来ました。17歳3日目に三半規管か脳に障害が出たことから、足腰はしっかりしているけれども真直ぐに歩けないため、扉開けも出来なくなっています。2017年11月4日で17歳7ケ月となりました。



2010年8月21日追伸 タイトル: You Tubeに登録しました。

本日(2010年8月21日)、我が家のワンコのレベルアップ技の動画をYou Tubeに登録しました。動画は前に紹介した2つと同じですが、前よりも大きな画面で見ることが出来ます。


少し苦労する姿の動画です。扉を押す方向に開けられるようになったのは2006年12月で、扉を手前方向ら引いて開けられるようになったのは2008年8月です。今ではスライド式の扉と玄関ドア以外は自由に行き来しています。YouTubeだと動画の形式や容量を気にせずに登録出来るのがいいですね。



2009年8月7日追伸 タイトル:レベルアップ技の動画が撮れました。
ついに扉を手前に引いて開けるところの動画を撮ることが出来たので紹介いたします。画像は、もう一つですが雰囲気は判ってもらえると思います。プレーボタンを押して見てください。少し画像が出るまで時間がかかる場合がありますが、ご了承願います。

もう一つ動画を紹介いたします。少し開け方が小さかったので向こう側に行くのに時間がかかってしまいました。


2009年2月7日追伸 タイトル:レベルアップ技の写真を撮りました。

手前に引いてドア開けるところの写真が撮れたので掲載いたします。押して開ける時より垂直に立って開けています。
これはワンコにとって、なかなか難しい技のように感じます。
クリックすると拡大

開けて向こう側に行くところです。教えていないのに、よく自分で覚えたものです。



2008年8月16日追伸 タイトル:得意技をレベルアップ

8月未明に得意技をレベルアップさせてしまいました。
オリジナルの記事は2007年2月5日でした。そのころはドアは取っ手を回したあと押す側にしか開けられませんでしたが、ついに手前に引く側も開けられるようになってしまいました。これで引き戸のところ以外は家中どこにでも行けてしまいます。困った!


2007年2月5日掲載 タイトル:ついに現場を押さえました。

家のワンコは教えていないのに扉が開けられるようになりました。確か3ケ月前からです。その瞬間の写真をついに撮ることができました。向こう側に開けることしか出来ませんが取っ手を押し下げることを覚えました。家の廊下側からはすべての部屋の扉は向こう側に開くので廊下側にいると、すべての部屋に自力で入れてしまいます。夜のうちに入ってゴミ箱を散らかしたりと、いたずらをするんです。困ったものです。
我々がいると所ではなかなか、しませんでしたが、やっと撮ることが出来ました。
IMG_0590-1200.jpg

下の写真は娘とちょっと遠出の散歩の時の写真です。写真をクリックすると子犬のころの写真を表示します。
誕生日は2000年4月4日です。
クリックすると子犬のころの写真

他の家族も紹介しておきます。左側の写真は実家にいた昔のワンチャンです。右側の写真が今の実家のワンチャンです。
クリックすると別の写真を表示 クリックすると別の写真を表示
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除雪作業は5台一組 [アスタナ]



カザフスタンのアスタナは一月には-40℃になることもある寒い場所です。私が着いた11月29日も‐20℃でしたが、その代わりに雪が少ない場所です。それでも雪が時々降るようで我々が滞在した最終日12月2日も小ぶりながら雪が降っていました。雪が降る日は暖かくて、この日も-3℃とアスタナとしてはすごく暖かい日でした。初日は-20℃なのでやはり雪の効果はすごいです。
上の写真はアスタナの幹線道路の除雪作業を行っているところですが、驚いたことに5台の除雪車で除雪作業を行うのです。日本のように沢山の雪が降ることはないようで、この速く走る5台で片側車線を一気に除雪してしまうようです。速く走るといっても一般車両にとっては少し遅いので、この写真のように車が少し渋滞します。

5台の除雪車の3台目と4台目の間は少し広く開けて走ってくれるのです。その部分を一般車両は追抜いていきます。前の乗用車が3台目の除雪車の右側を追抜いているところです。次は我々が追抜く番です。


3台目の除雪車を追抜いたところです。表面の薄い雪を除雪ですが寒い国なので頻繁に除雪を行っているようです。

十九夜塔の建立式典 下高野 [風習・歴史]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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千葉県八千代市下高野には2014年2月28日の時点において子安観音あるいは如意輪観音が合わせて31基が建てられている場所があります。観音像の台座に女人講中と書かれていることでわかるように、すべて「十九夜講の石碑」なのです。以降、「十九夜講の石碑」は十九夜塔と呼ばさせていただきます。
十九夜講は、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、念仏などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという月待行事(月待講)の一つです。つまり十九夜塔は月待塔の一つでもあります。文献史料では室町時代から確認されているそうで、江戸時代の文化・文政のころに全国的に流行したそうです。下高野では十九夜講で、今でも2ケ月に一回、この場所に集まられているそうです。
ネットの中に下高野の十九夜塔も入った資料がありました。→ポチッ
この研究されている方のブログによれば、千葉県で現存する最古の十九夜塔は千葉県香取市石納480番の結佐大明神にあるそうです。承応元年十二月十九日(1652年)に建てられたもので「十九夜侍之供養」と台座に刻まれているそうです。

動画でも新しい十九夜塔の設置前の2014年2月28日の時点の状態を紹介いたします。建物の中からは建立式典で行なわれる念仏を練習されている音と声が聞こえていました。台座には女人講中あるいは女人中と書かれていました。千葉県では十九夜塔が1997基ほど確認されているそうです。古い十九夜塔が注目されていますが、今も十九夜塔が7年ごとに建てられて、平成の十九夜塔が沢山立っているのは珍しいのではないでしょうか。ただし7年ごとに建立されている理由は、まだ調べ切れていませんが、昔から引き継がれてきた伝統だと思います。さらに今後も十九夜塔が12基(84年)ぶんも建てられるスペースが作られているのも非常に珍しいことだと思います。


クリックすると拡大そして翌日の2014年3月1日の10時から右の写真のように32基目の新しい十九夜塔の設置工事(石建)がおこなわれ1時間くらいで完了したそうです。3月1日の石建て日には、こちらに来れなかったので、下高野の辻切り庚申塔梵天飾りなどの件でお世話になっているkazuさんから、右の写真をメールで送っていただきました。
下の写真が十九夜塔の建立の行事の当日3月2日の朝9時57分の写真です。3月2日は、あいにくの雨であったことから十九夜塔は、まだビニールで覆われていました。私は下高野の人間ではないけれども、ありがたいことに3月2日の建立式典に参加させていただきました。この日の13時から下高野の人たちが集まって十九夜塔の建立の行事が行われための準備がすでに行われていました。十九夜塔の建立の行事の正式の呼び名は判らないので「十九夜塔の建立式典」と呼ばさせていただきます。
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建立式典の30分前、2014年3月2日12時半の写真です。きれいに飾り付けがされていました。13時から式典が始まります。
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冒頭の写真の反対方向から見た十九夜塔群です。これだけ並ぶと見事です。
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準備が出来たところで記念撮影を撮られてました。十九夜講は安産や子供の無事成長を祈る女性のための行事であることから主役の10名の女性の方たちと、世話人である4組の夫婦の方たちで記念撮影を撮られていました。私もシャッターを押す手伝いをさせていただきました。石碑の台座の横に世話人の4名の名前が彫られています。主役の女性の方は若い方なので、理由を聞くと子供が大きくなると脱退されるためだと教えていただきました。それを聞いて、まさに安産や子供の無事成長を祈る行事なのだと実感いたしました。



式典の準備が整いました。御供えのお餅は上段が赤で下が白い紅白の餅でした。真中に乗っているのはダイダイでしょうか。十九夜塔の後ろの木の板は卒塔婆(そとば)と呼ばれるものです。左側が十九夜塔用で右側は庚申塔用です。
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13時から式典が始まりました。最初は念仏が行われます。本来ならば十九夜塔の前で行なわれるのですが雨のために、十九夜塔側の窓を開けて福蔵院の中で行われました。念仏は女性の方ですが先ほどのメンバーではなく、念仏講の人たちが行っているそうです。窓の下の段ボールの中には餅投げ使われる餅やお菓子が沢山はいっていました。直会(なおらい)用のビールなども沢山置かれていました。直会は地区の皆さんが参加される神仏の前で行なわれる宴会のことです。


念仏を行っているところを小さな写真で紹介させていただきます。25分程度の長さの念仏が2回ほど行われました。計50分くらいでした。十九夜講は2ケ月に1回ですが、念仏講は月に1回だそうです。右下の画面は動画で、念仏の始まりの部分です。



念仏を動画でも紹介します。動画は念仏が始まった頃なので人は少ないけれども徐々に人が増えてきました。雨だったので出だしが遅かったようです。


念仏が終わると除幕式です。念仏が始まったころとは集まった人数が違います。これからさらに増えていきました。
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世話人の方が除幕をいたしました。
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庚申塔用の卒塔婆は、新しい庚申塔にお供えし完成です。
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参加者の方々の待望の餅投げです。お餅だけでなくお菓子も投げられるので子供たちは大喜びでした。


一人当たりスーパー袋に半分から満杯の量が巻かれました。


動画でも紹介いたします。子供たちの歓声が伝わってくると思います。


建立式典のあとに十九夜塔にはお札が張られました。お札には一枚を除いて「十九夜講中 下高野」と書かれていました。「十九夜講中 下高野」ではないお札を、写真をクリックして探してみてください。正解は一番最後の写真のところに記載いたします。
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裏側にも、お札が貼られていました。さらに翌日3月3日には近隣の佐倉市先崎の雲祥寺、佐倉市青菅の正福寺、佐倉市井野の千手院の十九夜塔にも「お札貼り」と呼ばれる行事が行われました。
下高野の十九夜塔の建立式典は概ね次の通りです。ただし直会の時期に関しては想像で書かせていただきました。
 3月1日 新しい十九夜塔の設置(石建) → 新しい庚申塔の設置(石建)
 3月2日 式典準備 → 念仏 → 除幕式 → 餅投げ → 直会
 3月3日 十九夜塔へのお札貼り → 隣接地区の十九夜塔へのお札貼り → 直会

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下高野と隣接地区の十九夜塔です。千手院には元禄十二年(1669年)の二十三夜塔がありました。平成の十九夜塔があるのは下高野だけでした。隣接ではありませんが近隣の小竹地区には観音像ではない文字だけの十九夜供養塔という平成の石碑があります。
  八千代市下高野 福蔵院の十九夜塔 32基 1727年~2014年 
  佐倉市青菅   正福寺の十九夜塔 12基 1729年~1936年(78年前)
  佐倉市先崎   雲祥寺の十九夜塔  8基 1760年~1940年(74年前)
  佐倉市井野   千手院の十九夜塔 13基 1789年~1936年(78年前)
  佐倉市小竹   西福寺の十九夜供養塔

より大きな地図で 十九夜塔 を表示
佐倉市井野の千手院の十九夜塔に行ってみました。確かにお札が十九夜塔に貼られていました。雨のために剥がれたお札もありました。下高野の十九夜塔が設置されている福蔵院は真言宗豊山派で、井野の千手院の末寺(まつじ)という関係になります。ここには十九夜塔以外に次の女人講と思われる4つの石碑も一緒に並べられていました。この4基は上の13基の数には含めておりません。
  二十三夜塔 元禄十二年 二月廿二日 1699年 315年前
  二十三夜塔 享和二年 十一月三日  1802年 212年前
  二十三夜塔 文政十三年 二月吉日  1830年 184年前
  井野村講中 文化十五年 正月廿六日 1818年 196年前
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こちらが佐倉市青菅の正福寺の十九夜塔です。やはりお札が貼られていました。柔らかい地面に直接建てられていたので地震で土台の石が傾いて倒れてしまったようです。ここは日が当たらないためか、欠けたものを除き石碑の文字はすべて、くっきりとしており年代がよく読めました。古いもの2つと新しいもの2つを紹介します。
           享保十四年 十月吉日  1729年 285年前
           宝暦二年 二月日    1752年 262年前
           大正五年 三月     1916年  98年前
           昭和十一年 四月吉日  1936年  78年前
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そしてこちらが佐倉市先崎の雲祥寺の十九夜塔です。こちらにも教えてもらった通り、お札が貼られていました。3ケ所の十九夜塔は古いものばかりです。もちろん平成の十九夜塔はありません。下高野の十九夜塔が今でも7年ごとに建てられていることが、いかに貴重なことなのかが改めてわかりました。
こちらも古いもの2つと新しいもの2つを紹介します。
           宝暦十年 十月     1760年 254年前
           文政七年 三月吉日   1824年 190年前
           大正八年 三月吉日   1919年  95年前
           昭和十五年 三月吉日  1940年  74年前
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こちらが航空写真で位置を紹介した佐倉市小竹の西福寺の十九夜供養塔です。こちらは隣接ではないので、お札貼りには行っていませんが、西福寺は「大師参り」のコースの一つのお寺ではないかと思い紹介いたしました。一番新しい十九夜供養塔は平成17年で二番目に新しかったのが平成5年だったので、小竹では12年ごとに建てているのかもしれません。写真にあるように新しいものは下高野と違い、「十九夜供養塔」と書かれた文字だけの石碑でした。「十九夜塔」と「十九夜供養塔」の違いは調べ切れていませんが「十九夜塔は、十九夜講中供養の記念として造立されたもの」との記述がありました。
「大師参り」は下高野(福蔵院)から先崎(雲祥寺)、青菅(正福寺)を経て小竹(西福寺)に行くような経路だったかと思います。Kazuさんによれば、昔は大勢で歩いてお参り(巡礼)をしたそうですが、今は少人数(昨年は16名)でマイクロバスでのお参りとなっているようです。昨年は千葉寺十善講(真言宗豊山派・奈良の長谷寺が総本部)の幟を持つお坊さんが同行されたそうです。
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それではあらためて下高野地区の十九夜塔を紹介いたします。
下高野地区の十九夜塔はすべて一か所に設置されています。雛壇のようになっており上段に1~23の23基が設置されており下段に今回設置されたものを含めて24~32の9基が設置されています。写真をクリックすると別画面で拡大写真が表示されるのでわかりやすいと思います。
左の写真が12番 13番 14番で、右の写真が18番 19番 20番の十九夜塔です。
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クリックすると拡大クリックすると拡大

クリックすると拡大八千代市下高野の32基の十九夜塔の建立時期をまとめました。建立時期は左から順番のはずなのですが、8~13に関しては入れ替わっています。実は昭和59年に大きな竜巻を含む暴風雨によってここの左側の崖が崩れて設置しなおしたそうで、その時に入れ替わったのかもしれません。地面に設置されていたものを雛壇を作って設置したのも、その昭和59年だったそうです。
昭和27年以降は十九夜塔を建立するときには同時に庚申塔も建立していることが判ります。これもすごいことだと思います。右の写真の右側が新しく建てられた平成26年の庚申塔です。現時点で24基の庚申塔が見つかっています。表をクリックすると庚申塔の詳しいデーターを表示します。
クリックすると庚申塔
       十九夜塔の観音   庚申塔の建立年  庚申塔の設置場所
        : 如意輪観音  ◎ : 完全に一致   △ : 庚申塚
        : 子安観音   〇 : 近似年に建立  ◆ : 辻など

32基の十九夜塔をすべて紹介します。28番の昭和61年(1986年)の十九夜塔には鮮やかな色の紅が残っています。写真はクリックすると拡大するので是非とも確認してみてください。
1 享保12年 1727年     2 宝暦6年 1756年     3 安永7年 1778年
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4 寛政6年 1794年     5 文化3年 1806年     6 文政3年 1820年
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7 文政10年 1827年    8 弘化4年 1847年     9 安政2年 1855年
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10 文久4年 1864年    11 天保10年 1840年    12 明治13年 1880年
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13 明治6年 1873年    14 明治21年 1888年    15 明治28年 1895年
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16 明治32年 1899年   17 明治39年 1906年   18 大正2年 1913年
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19 大正9年 1920年    20 大正13年 1924年    21 昭和8年 1933年
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22 昭和15年 1940年   23 昭和27年 1952年   24 昭和33年 1958年
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25 昭和40年 1965年   26 昭和47年 1972年   27 昭和54年 1979年
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28 昭和61年 1986年   29 平成5年 1993年    30 平成12年 2000年
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31 平成19年 2007年   32 平成26年 2014年    33 平成33年 2021年
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今回の石建ての前に撮った1番と2番の写真です。右側が1番で、左側が2番です。
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こちらが石建ての後に撮った1番と2番の写真です。こちらの写真では右側が2番で、左側が1番なのです。1番と2番の十九夜塔が入れ替わっていることが判ってもらえると思います。昭和59年に崖崩れが起きて建替えた時に最も古い十九夜塔が2番目に設置されたことから、今回の石建ての時に石屋さんに入れ替えてもらったそうです。最も古い十九夜塔の年号の部分が欠けてしまったことから今まで判りませんでしたが、下高野のKazuさんが、和暦の右半分と残った文字「十二丁未」から享保十二年の十九夜塔であることを発見されました。これは下高野に残る最も古い庚申塔と全く同じ日付「享保十二丁未十月吉日」でした。
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十九夜塔の背景にある沢山の石碑が気になっている方がおられると思います。いろんな形の石碑がありますが、全て墓石なのです。ただしこれらは昔の墓地が崩れそうになったことから貴重な墓石をこちらに移動したそうです。同時に新しい墓地も別の場所に作ったので、この場所には遺骨はないそうですが、みなさん墓参りは両方に行くそうです。いろんな墓石を紹介します。いずれも江戸時代の年号が書かれている貴重な墓石です。
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これが形から最も古いと思われる墓石で、右が正保四年(1647年)で、左が承応四年(1653年)です。先崎城址の下にあった墓石と形が似ています。そちらは1650年と1662年なので、ほぼ同年代です。


餅投げでいただいたお餅です。足元に落ちてきたお菓子も一つゲットです。


さっそく磯辺焼きにしていただきました。なにか、御利益(ごりやく)があるかもしれません。それでは上のクイズでの回答です。一枚だけ違うお札に書かれていた文字は「八千代市郷土博物館講中」でした。博物館の方(女性)が取材に来られていて、下高野の方のアイデアでお札を貼られたのだと推察いたします。

「さわらびYの歴史・民俗・考古探索ノート」の「千葉県最古の十九夜塔を訪ねて」にトラックバックしています。>

バイテレック [アスタナ]



これがカザフスタタンの首都アスタナのシンボルである高さ105mのバイテレック(あるいはバイテレク・タワー)です。帰国の前日(12月1日)に来てみました。

バイテレック(Bayterek)は「高いポプラの木」の意味でカザフスタンの民話の「生命の木」と「幸福の魔法の鳥」をイメージしたデザインだそうです。
下の方が木を表現しています。それでは鳥は?


実は球体が伝説の鳥の卵でその下が鳥の巣を表現しているそうです。金色の球体の中が展望台になっています。


正面にある国防省の建物もきれいにライトアップされていました。ここまでが夜のライトアップされた景色でした。


ここからは翌日の12月2日の昼間の景色ですが、残念ながら小雪の降る天候でした。


夜と同じ構図の昼間の写真も紹介します。この場所に絵を描いているアートが置かれていました。雪の中で人が黒っぽく見えます。本物の人間と間違えてしまうのが判ってもらえると思います。これから球体の中の展望台に行くことにしました。


エレベターは少し地上より下がった部屋から出ています。その部屋には水槽があり不思議な魚たちが泳いでいました。


展望台にあがるためのチケットです。


エレベーターの奥側はガラスになっており上っていく途中の景色も楽しむことが出来ました。


金色の球体の中からの景色です。金色の球体のように見えましたがコーティングされたガラスの球体だったのです。国防省の反対側の外務省の方向の景色です。


正面の外務省を拡大いたしました。


大統領官邸の方向の景色です。青い屋根の建物が大統領官邸です。左右対称に建てられた金色の建物は、いずれも内務省です。その金色の内務省のツインタワーから手前の壁のように建っているビルも内務省のビルだそうです。


大統領官邸(Ak Orda)と金色のツインタワーを拡大してみました。大統領官邸の先に「平和のピラミッド」があります。


こちらが世界最大のテントであるカーン・シャティール(Khan Shatyr Entertainment Center)と呼ばれているショッピングモールの方向です。


こちらも拡大してみました。ショッピングモールの手前にあるのが国営石油会社とエネルギー省が入った建物です。カザフスタンは地下天然資源に恵まれており輸出品目も地下資源とその加工品が70%を占めています。とりわけ石油が49.4%を占めているのです。石油の埋蔵量は約300億バレルで世界で11位(2.22%)です。国営石油会社とエネルギー省が大きな地位を占めていることが建物からも判りました。鉱物資源も豊富で産出量で世界の10位以内に入る鉱物は7つもあります。
           世界シェア 世界順位   産出量(年あたり)
  クロム鉱     17.6%    2位     102万トン
  ウラン鉱     9.2%    3位     3300トン
  亜鉛鉱      4.7%    7位     39万トン
  硫黄       3.6%     7位     210万トン
  マンガン鉱    5.4%    8位      44万トン
  銀鉱        4.5%    9位      892トン
  ボーキサイ ト 3.0%     9位     438万トン
  銅鉱       3.6%    10位     49万トン
  石炭       1.5%    10位   11640万トン
  原油       2.0%    17位    8130万トン  
  鉄鉱       1.5%            870万トン
  鉛鉱       1.4%              4万トン
  金鉱       1.1%              27トン
  コバルト鉱                    300トン
  ニッケル鉱                   3000トン
  リン鉱石                    17000トン


これはカーン・シャティールから見たバイテレックです。


球体の中は3階建てになっておりこの部分が一番上の部分です。


一番上の階からの景色です。


上から2階の部分を撮りました。一番下がエレベーターがある階です。


一番上の階には大統領の手形が置かれており、そこに手をあてて記念撮影をしている人を沢山見かけました。

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私も手形に手をあてて記念撮影をしてみました。
右の写真が手形です。クリックすると拡大します。
下の写真が自分の手を手形にあててみたところです。
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中央がバイテレック(バイテレク)です。右側(東側)に大統領官邸があります。左側(西側)の丸い部分がエネルギー省と石油会社の入ったビルです。この画面には入っていませんがさらに左側(西側)にテントのショッピングモールであるカーン・シャティールがあります。スクロールしてもらうとわかると思います。バイテレックの上側(北側)が外務省で下側(南側)が国防省だと思います。このアスタナの街並みが建築家・黒川紀章がデザインしたものなのです。右下の「大きな地図で見る」をクリックすると、より判りやすいと思います。

3.5年の歳月をかけて2010年7月5日に完成したカーン・シャティールが、まだ写っていないGooglの航空写真を紹介します。右下にバイテレックがあります。画面をクリックすると現在の航空写真が表示されます。
クリックするとGooglg

寒そう! こんな中で絵を描いている人が! [アスタナ]



カザフスタンの首都アスタナからはアルマトイとソウルを経由して帰国いたしましたがアスタナのフライトは15時40分発だったために午前中にアスタナ市内を回ってみました。その帰国の日は12月2日でした。行った場所はカーン・シャティール(Khan Shatyr Entertainment Center)と呼ばれているショッピングモールとアスタナの象徴的建造物であるバイテレック(Bayterek)でした。そのバイテリックは大きな広場の中に建っていましたが、その広場の中で絵を描いている人がいたので驚かされました。
この日は小雪模様のため暖かくてマイナス10℃程度でしたが普段はマイナス20℃~25℃なので、驚いたわけですが、すぐに、まさかありえない思い、よく見ると金属で出来たアート作品でした。遠くから見ると本当に生の人間が絵を描いているように見えたわけです。遠くに三脚のそばに人が立っていますが、こちらは記念写真を撮ってくれる人でした。1月にはマイナス40℃になるそうです。写真を撮るのも大変でしょうね。

背景の中央にあるのがバイテレックの下の部分です。
もしアスタナに行く機会があれば探してみてください。


描かれていたのは文字でした。最初から書いてあったのか、誰かの落書きなのかはわかりませんが、これも楽しいですね。


最後に別の角度の写真も紹介いたします。こんなに薄着だと今の時期では数分も耐えられないと思います。
コートを着せてあげると私のように勘違いする人が、もっと沢山でるかもしれません。


ウォッカと言えばベルーガ [アスタナ]


11月26日から12月3日までシベリア(ロシア)とカザフスタンに行っていました。旧ソ連圏のお酒と言えばウォッカです。英語ではVodkaでロシア語ではводкаです。本場だけのことはありウォッカは沢山の種類があります。値段もピンからキリまでありました。その中で最高級の銘柄がベルーガ(BELUGA)です。ベルーガ(Beluga)と言えばキャビア(チョウザメの卵)の高級な品種で有名ですが、ウォッカにそのチョウザメの名前が使われているのです。
上の写真はカザフスタンの首都アスタナのショッピングモールで撮ったものです。ウォッカのビンにチョウザメの絵が描かれているので名前の語源は間違いなさそうです。価格は5500テンゲなので日本円では3050円くらいですがレストランでは3倍くらいの値段で9200円くらいのため、やっぱり高級なウォッカです。カザフスタン内のウォッカの、ほとんどがロシアからの輸入ですが、ロシアとカザフスタンの間では関税協定が結ばれておりウォッカに関してはロシアでもカザフスタンでも値段はほぼ同じでした。
2010年1月1日から関税同盟の加盟国(ロシア、ベラルーシ、カザフスタン)は原則統一された税率を適用され加盟国間の輸出入は免税だそうです。
日本のネット販売では「ベルーガ・ウォッカ クラシック」と呼ばれて5460円前後で売られていました。

レストランではこのようにガラスの器に入れられて出てきます。このウォッカも上の写真のベルーガです。 ウォッカの原料は小麦などの麦系統の穀物がほとんどです。出来上がったものは不純物が少なく水とアルコールのお酒です。


同じベルーガでも、さらに高いベルーガがあります。値段は24925テンゲなので日本円にすると13850円になります。高級なレストランでは、このウォッカが置かれていましたが、一本が数万円なので、当然冒頭のベルーガにいたしました。
こちらの日本のネット販売では「ベルーガ・ウォッカ ゴールドライン」と呼ばれて14980~18555円で売られていました。


クリックするとWikipedia名前の元になっている魚のベルーガは主にカスピ海(黒海やアドリア海でも見られることがある)に生息するオオチョウザメ(Huso huso、英: Beluga; Beluga sturgeon; European sturgeon)で、チョウザメ目チョウザメ科の遡河性の魚だそうです。キャビアとして有名で魚卵を採取するために捕獲されます。体長は6m近くに達するそうで、118年まで生きるものもあるなど長寿であり、ゆっくり成長するそうです。乱獲や密猟によって個体数が減ったため、多くの政府がその取引を禁止しています。最も近縁な種はダウリアチョウザメだそうです。
英語名はベルーガですか、ロシア語で「白い」を意味するбелыйに由来するбелуга (beluga)またはбелуха (belukha)という言葉が語源だそうです。
オオチョウザメは体長8.6m、体重2,700kgにも達したという記録(公式的には1827年にボルガ川の河口で捕獲された体長7.2m、体重1,476kg)があり、ピラルクやメコンオオナマズを超えて世界最大の淡水魚とされているそうです。しかしながらオオチョウザメは海水でも生きる能力を持つことから、メコンオオナマズが最大の淡水魚であると考える研究者もいるそうです。乱獲などにより近年捕られる平均的なオオチョウザメは、体長142-328cm、体重19-264kg程度だそうです。メスのオオチョウザメは、オスよりも20%程度大きいといわれています。下記の写真はスーパーで売られていた活きたチョウザメでした。こちらの人はよくチョウザメを食べるそうです。

首都アスタナのレストラン [アスタナ]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大すでにカザフスタンの首都アスタナのレストランを紹介いたしました。そのお店で初めて水たばこを経験したことも紹介させてもらいました。そのレストランでもう一つ紹介したいことがありました。こちらのレストランでは踊りを楽しみながら食事が出来るのでした。右の写真は別の女性です。
その日の最後の踊りが終わるときにテーブルの近くまで来て踊ってくれるのですが、その時の写真が上の写真です。

ステージでの踊りを動画で紹介いたします。我々がレストラに来たのは21時5分と遅かったため踊りとしては最後のステージでした。


最後のステージでも何種類もの踊りがありましたが、この踊りが最後の踊りでした。もちろん男性の踊りもありました。


クリックすると拡大最後の踊りが行われている中で冒頭の写真のように順番に女性たちが各テーブルの近くに来て踊ってくれるのです。最後にテーブルの近くまで来て踊ってくれた時にチップを渡するですが、右の写真のようにチップを服に挟むのが、こちらの習慣です。500円程度のお札を渡していました。下の動画で、右端でお札を挟むところが写っていました。


目の前で踊ってくれると迫力があります。私もカザフに住んでいる人に勧められてチップを挟みましたが、やっぱり躊躇しながら挟むことになりました。チップを服に挟むのはこちらの習慣のようで、みなさん躊躇なくチップを挟まれていました。
クリックすると拡大これが最後の踊りで、この後は右の写真の人たちの演奏だけでした。この時の時間は21時35分だったので、結局踊りは30分程度しか楽しむことが出来ませんでした。でもレストランでは食事や水たばこで23時35分までレストランで楽しみました。
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以前に紹介した記事の中から料理の一部を紹介いたします。これらの写真はその時にも掲載させてもらいました。やっぱり最初はビールですね。右が無濾過のビールです。左は濾過されたクリヤーなビールですが、女性だと不思議なことにストローが入れられてきました。


この日は肉料理が中心になることから、先ずは野菜を頼みました。ハーブ類も入った野菜の盛り合わせです。


このパンも特徴のある有名なものだそうです。


さっそく肉のオードブルが出されてきました。どれもビールに合うおいしい一品ばかりでした。


こちらのお店の名物に「うどん」があるということなので頼んでみました。スープは日本のうどんとは違うものでしたが、正式名はわかりませんが確かに日本人がウドンと呼ぶにふさわしい料理でした。
讃岐うどんのような強いコシはありませんが、確かに麺の味はうどんでした。


これがメインデッシュのリブロースと串焼きの肉です。


特徴的な焼き飯もありました。各自のお皿に民族衣装着た人が取り分けてくれました。


肉も焼き飯もおいしかったです。


やはり肉の国です。しっかりと焼くのがカザフスタン流ですが牛肉の高級な部位は柔らかくておいしかったです。さすが! リブ付きのリブロースです。おそらく、アスタナを代表するお店の最高の肉だと思いました。


この肉料理もおいしかったです。結局はウォッカを2本あけてしまいました。もちろんウォッカは一本9200円位のベルーガです。


レストランを紹介します。紫色マーク( )が今回のレストランです。
   レストラン Alasha
   泊まったホテル Rixos President Hotel Astana
 店名 Алаша Alasha
 住所 Республика Казахстан г.Алматы ул. М.Оспанова, 20
    Republic of Kazakhstan Almaty Ospanov st., 20
 電話 0727-254-0700
 HP http://www.alasha.kz/ru/contacts