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父の日のプレゼントは北海道産の殻付の活牡蠣でした。 [日々]

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北海道の長男夫婦から父の日のプレゼントとして写真の殻付活牡蠣が届きました。牡蠣は北海道の厚岸町産で、カリスマ漁師の中嶋孝さんが作った牡蠣だそうです。
厚岸は「あっけし」と読むようで、厚岸産の牡蠣は有名なようです。
ちなみに昨年の父の日のプレゼントは北海道の地ビールでした。

牡蠣が届いたのは父の日(2015年6月21日)の一週間後の2015年6月28日(日曜)でした。長男夫婦は初めての子供(我々にとっては初孫)が6月12日に生まれるなど、6月前半は忙しかったことから、一週間後になったようです。
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箱を開けると、ちゃんと「お父さん ありがとう 心からの感謝を込めて送ります」のカードが入っていました。やっぱり、うれしいですね。
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大ぶりの殻付牡蠣が10個入っていました。前日の6月27日からワンコ(むさし)の手術の見舞いも兼ねて娘も来ていたので、3人で食べることにいたしました。
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食べるためには、先ずは下記の殻を開ける必要があるので、食べる寸前に殻を開きました。かなり活きがいいので開こうとすると力強く殻が閉るので、少し手間取りました。力強くしまってからの隙間に薄いナイスを入れるのは難しかったので途中から、厚いテーブルナイフを使いました。本当は牡蠣ナイフがあると便利なのだと思います。右の写真をクリックすると詳しい説明書を表示します。
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牡蠣の殻の開き方
 ①ケガをしないように両手に軍手をはめます。
 ②殻の平らな方を上に、深い方を下にして持ちます。
 ③殻の細くなっている方を自分に向けます。
 ④殻の隙間の殻の太いところにナイフを3cm入れます。
 ⑤貝柱があるのでナイフをスライドして貝柱を切ります。
 ⑥貝柱が切れると殻が少し開くので手で開きます。
 ⑦深い殻にくっ付いている貝柱も切ります。
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ネットに殻付牡蠣の剥き方の動画あったので紹介します。
ナイフが入らない場合は殻を少し割ってやるのがコツのようです。これからは殻を割るためのペンチも用意します。


無事にすべての牡蠣の殻を開けて、我が家で一番大きな直径29cmの皿に並べました。細長い牡蠣や丸い牡蠣など、いろんな形がありました。円形に並べられた牡蠣を見ると、フランスで牡蠣を食べた時のことを思い出しました。 → パリ リヨン
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拡大写真を掲載します。
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牡蠣がメインということでシャンパンを用意いたしました。シャンパンの銘柄はモンヴェルメイユ クレマン ド ロワール ブリュット(Montvermeil Crémant de Loire Brut)で、辛口です。
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もちろんレモンも用意いたしました。
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さっそく牡蠣をいただきました。もちろんレモンだけでいただきました。
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スープは、娘が5月30日から行っていたドイツ旅行のお土産です。ちなみに娘の父の日のプレゼントはドイツのレッドブルでした。そのうちに掲載したいと思います。
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大きな牡蠣で食べごたえもありました。レモンをたっぷりかけていただきました。
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シャンパン1本では少ないと思い、白ワインも用意していました。銘柄はメゾン ルイ・ジラール シャブリ(Maison Louis Girard Chablis)です。こちらも辛口を選びました。シャンパンと白ワインの2本が空いてしまいました。
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モッツァレラチーズとトマトの前菜も用意いたしました。オリーブオイルをたっぷりとかけました。
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ミョウガをたっぷりとかけた冷奴も用意いたしました。
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娘の大好きな春巻きも用意いたしました。結局、和、洋、中の料理となりました。どの料理もシャンパンやワインにあいました。
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家内は前々日まで友人と3人で福島に旅行に行っていたので、お土産の、笹蒲鉾もつまみに出しました。娘のドイツ旅行と、家内の福島の旅行と、初孫の話と、ムサシの手術の話で盛り上がりました。
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今回のプレゼントされた牡蠣の産地である厚岸湖の場所を紹介します。厚岸と牡蠣に関するネットでの記載を紹介します。
古来よりの牡蠣の町、厚岸
厚岸という地名は、アイヌ語の「アッケケシ」(牡蠣の多いところ)に由来しているという一説があります。その名の通り、数百年前の厚岸湖は天然牡蠣が豊富で、夏の産卵期にはカキの放卵で水面は真っ白になったそうです。また、牡蠣の殻だけで出来ていて、さらに生きた牡蠣で覆われている「牡蠣島」が幾つも点在していました。しかし、天然牡蠣は明治以降の乱獲により枯渇し、それからはさまざまな養殖方法への挑戦が為されてきました。


厚岸の牡蠣は寒冷地の為、ゆっくり育つ事により旨さがギュッと凝縮していて 1年を通して市場に出荷されているそうです。現在厚岸では約160軒の方が牡蠣作りをされていて、汽水湖の厚岸湖と海水の厚岸湾を絶妙なタイミングで移動させて美味しく育てるのが漁師の腕の見せ所で、厚岸の漁師さん達はそれぞれの美味しさに磨きをかけているそうです。
 厚岸漁業協同組合
  住所 北海道厚岸郡厚岸町奔渡3丁目1番地
  電話 0153-52-3152
  直売 北海道厚岸郡厚岸町港町5丁目3番地
  漁師 https://goo.gl/maps/F70Pb


こちらの湖岸から漁師さんが牡蠣の手入れに出ていくのだと思います。
航空写真上のプラスのアイコンを2回クリックする建物の雰囲気が判ります。湖の中の沢山の島は牡蠣で出来た牡蠣島で、天然牡蠣が堆積して出来た浅瀬(カキ礁)で、昔は大部分が活きた牡蠣で覆われていたそうです。厚岸湖には大小65のカキ礁(牡蠣島)があり、4号島とか、11号島のように番号が付けられています。
クリックすると拡大画面の上の方の牡蠣島(牡蠣島16号島)にある白い点のように見えるのが弁天神社です。拡大すると神社であることが判ると思います。弁天神社には嘉永5年(1852年)にクリックすると拡大山田文右衛門によって奉納された木彫りに極彩色を施した高さ約24cmの弁財天座像が祀られています。
この厚岸湖牡蠣島弁天神社は何度も場所を変えて建替えられましたが1964年に現在の場所に基礎の半永久的工事が行われたそうです。弁天神社および弁財天の写真はネットから転用させていただきました。

タージマハールホテル [インド]

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インドのホテルの話をするときにムンバイ(ボンベイ)のタージ・マハール・ホテルの話を抜きにしては出来ません。特に外観の豪華さには目を奪われてしまいます。真中の旧館の右側の高い建物が新館です。

このホテルの奥に並んでいる海岸沿いのマンションは百万ドル(1.2億円)を下ることはなく、ますます値段は上がっているそうです。インドには2つ世界があります。庶民の生活の世界と我々の想像を遥かに超えた豪華の世界です。そして、最近、3つ目の世界が現れて来ました。我々日本人の平均的な経済力がある人たちの世界です。そんな人たちの人数は日本人を越えて約2億人いるそうです。クリックすると拡大します。
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海から見たタジマハールホテルです。エリファンタ島に行く船の上からの景色です。残念ながら夕方であったために正面からは上の写真のように太陽があたった写真が撮れませんでした。


太陽を背にしたタージマハールホテルです。


ホテルの前でタクシーと交渉しているインドの女性も印象的でした。なかなか交渉が成立しませんでした。
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ホテルの旧館に入ってみました。
中央のドームの部分は上まで吹き抜けになっており螺旋状に階段で上がれます。ここは2階部分です。


これは何か判りますか。
中央ドームを真下から見たところです。廻りに螺旋階段があるのが判ってもらえのと思います。


一階から上がるところの写真です。


中庭にはプールがあり、廻りではのんびりとすごすことが出来ます。

世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院 [インド]

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インドのムンバイから船で1時間のエレファンタ島のヤギさんです。
白黒模様の珍しいヤギさんだったので紹介いたします。ネットで調べてもこのような白黒ヤギさんは出てこなかったです。クリックすると拡大この島には世界遺産のヒンドゥー教の石窟寺院があります。 緑の豊かな島で野生動物も沢山いそうな感じでした。この島には野生の猿もいました。
お猿さんは、こちらがおとなしくしていたら自然に周りを歩き回っていました。

船の出発地点はインド門(Gateway of India)です。インド門は英国の支配下にあった1911年に、英国王ジョージ5世とメアリー王妃の訪問を記念して造られました。この門は玄武岩でできており、ムンバイ湾に面したアポロ埠頭の突端に建っています。
クリックすると拡大高さ26m、グジャラート様式のこの門は、パリの凱旋門をモデルにしてジョージ・ウィテットの設計により、1924年に完成しました。かつては、植民地であったインドを訪れる英国の要人たちの歓迎式典が行われる場所であったが、現在は観光客で賑わいを見せる観光ポイントとなっています。ここには豪華なタージマハール・ホテルもありました。
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1時間チョットの船旅ですがインド海軍の空母や潜水艦さらにトーチカ、さらにいろんな島が目を楽しませてくれました。左が空母の写真で右がトーチカの写真です。船のスピードは遅かった! 昼過から出発して帰ってくると夕方近かったです。
クリックするとインド海軍の記事クリックするとインド海軍の記事

クリックすると拡大船旅も楽しいですよ。エレファンタ島の船着場には船が沢山停泊しています。
結構訪れる人が多いことがわかります。
右の写真は山の上から船着場を撮ったものです。
右の写真はクリックしてみてほしいです。
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船着場から山の麓までは観光用の変わった乗り物が走っています。値段を聞いてビックリ! 船代とあまり変わらないということで乗らずに歩きました。
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途中には船の残骸が!この写真の森の中に石窟寺院があります。
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急坂をを登ると世界遺産となった石窟洞窟がありました。それではエレファンタ島の世界遺産の石窟洞窟を紹介いたします。
下記の地図の①~⑤の番号は見ている方向を記載しています。
ここには7つのヒンドゥー教石窟寺院があり、巨大な第一窟は、破壊を免れ、多数のシヴァ神像が彫られている。ここが一番大きな石窟寺院である第一窟の入口です。
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第一窟の岩をくりぬいた内部の地図です。赤い矢印は下の5枚の写真の撮影方向です。③だけはもう一つ自信がありませんでしたがネット内の写真から間違いないこと確認しました。石窟寺院の面積は約5,600平方メートルあり、東西の祠堂とメインの列柱ホールから構成される。エレファンタ島に残る多くの彫刻は17世紀に、ポルトガル人が銃の練習の標的として用いられてきたこともあり、往時の外観を損なっしまったそうです。クリックすると拡大古代インドの神は自然の岩窟の奥深くから信者の前に姿を現すと言われています。エレファンタ島の 7つの石窟寺院はヒンドゥ教のこうした考え方とシヴァ神への帰依の心からつくられたようです。エレファンタという島名は、この島にいくつも残されていた大きな象の彫刻に由来するそうです。インド名はガーラープリー島だそうです。 何世紀にもわたって風雨にさらされた石窟と内壁に刻まれた彫像の傷みは激しいけれどもすばらしさが伝わってきました。

下のクリックすると拡大写真はの方向から中庭を撮ったもので、この部分の写真が一番迫力がありました。 エレファンタ石窟寺院は6世紀のカラチュリ朝、あるいは600~635年のグプタ朝時代の造営されたといわれており、「創造の神」と「破壊の神」の両神格を持つ最高神シヴァ神を祀る寺院だそうです。
右の写真は中庭からの方向を撮ったもので奥の方に最初の入口が内側から写っています。この小さな写真もクリックすると拡大いたします。
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列柱ホール内の聖室の入口には、守門神が彫刻されています。内部には石像が沢山ありました。
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奥から撮った写真
あらためてエレファンタ石窟群(マラーティー語:घारापुरीच्या लेण्या)を紹介すると、ムンバイ近海のアラビア海に浮かぶエレファンタ島にある石窟寺院のことで、シヴァ信仰の中心地であり、グプタ朝時代に建設が始まったとされています。1987年にUNESCOの世界遺産に登録されました。
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部屋の入口
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内部にあった彫刻も紹介します。暗かったので画像を露出調整しています。手が沢山あるシヴァ神像です。
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列柱ホールの最深部の壁面にシヴァ神三面上半身像があります。3方にある有名なシヴァ神像で、高さ5.7メートルあります。
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崩れかけていますが立派な彫刻です。
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暗くてよく判りませんがなんとなくシヴァ神であることがわかります。
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岩山の裏側にも石窟洞窟がありました。その石窟洞窟も見逃さないように!
小さい石窟がいくつかありました。その中で3つほど紹介いたします。
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こちらは部屋のようになった洞窟です。観光客で一番多いのはインドの人でした。
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作りかけて柱が折れて断念したような洞窟もありました。造りかけの洞窟はまだ柱は四角いだけだし壊れかけています。この写真の中にも、お猿さんがいます。
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Google地図/航空写真でエレファンタ島の位置を紹介します。
   世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院
   世界遺産 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅
   インド門      タージマハールホテル
   トーチカ      インド海軍基地
   ムンバイ・インド門からエレファンタ島までの航路

世界遺産 レッド・フォート ( Red Fort / Lal Qila ) [インド]

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インドの首都デリーには1993年に登録されたフマユ-ン廟とクトゥブ・ミナールの2つの世界遺産にがありましたが2007年に赤い城の建造物群が世界遺産が登録されて、デリーの世界遺産は3ケ所になりました。それが今回紹介するレッド・フォートです。フマユ-ン廟クトゥブ・ミナールはすでに紹介させてもらっております。
世界遺産としての正式の登録名は"レッド・フォートの建造物群(The Red Fort Complex)"です。大きな城壁に囲われた中にいろんな建築物があります。しかし、なんといっても入口の城壁そのものが、すばらしい景観を見せてくれます。
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 現地語 ラール・キラー(Lal Qila)
 日本語 デリー城 赤い城の建造物群

門の部分を拡大いたしました。
インド全体では32個の世界遺産がありますがレッド・フォートは27番目の登録の世界遺産です。
昔はラリー・キラーで検索すると沢山でてきましたが今はレストラン名前がほとんどとなりました。これは世界遺産になる前はラリー・キラーとの呼び名が多かったのではないかと想像しています。
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ネットで調べても詳しく判りませんが調べた範囲で解説させてもらうとレッド・フォートは17世紀前半、ムガール帝国(1526~1858年)のシャージャハーン皇帝(在位1628~1658年)によって建設されましたそうです。そしてムガール帝国の都をアーグラからデリーに遷都し、このデリー城(ラールキラー)を建設したそうです。つまりムガール帝国の第5代皇帝から第17代皇帝までが住んだことになります。第3代皇帝~第5代皇帝までは、すでに紹介したアーグラ城塞に住んでいました。
レッド・フォートは長く壮観な姿を見せていましたが、19世紀半ばに反乱軍と英国軍の攻撃を受け、華麗な宮殿のほとんどが破壊されたそうです。総延長約2kmの赤砂岩の城壁に囲まれた内部には、高さ33mで八角形の門塔、一般謁見の間、貴賓謁見の間、真珠のモスクなどが残っており権勢を振るったムガール帝国の面影を今に残していました。写真は入口となっているラホール門です。
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城壁の外側は堀になっています。日本の世界史教科書ではデリー城と書かれているそうです。
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近くで見ると堅固な城塞であったことが伝わってきます。
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門の部分は芸術的でもあります。
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城の入口の最も有名な門の上の飾りの部分です。
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その有名な飾りの下の門を正面から撮りました。門の奥はアーケードのようになっていました。巨大さが判ります。
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そのアーケードの通路には沢山のお土産屋さんがありました。
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アーケードを過ぎると赤砂岩の門が目の前に現れます。写真はアーケードとは反対側から撮ったものです。名前はチャッタ・チョウクで内部は軍事博物館になっていました。
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その門の奥にインドの観光客の人が記念撮影する建物がありました。上の門の写真はその建物の方から撮ったものです。ここは一般謁見の間で名前はディワン・イ・アームです。
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その記念撮影の建物の奥に大理石の建物群がありました。これは貴賓謁見室ディワニ・カースです。
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さっそく貴賓謁見室ディワニ・カースにきてみました。大理石は宝石が埋め込まれて装飾されていました。
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その装飾された柱を拡大しました。宝石を大理石に埋め込んでいるのが判ってもらえると思います。
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見事な大理石の細工物もありました。これは是非ともクリックしてみてください。
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城の中にはイギリス風の建物群もありました。沢山の建物がありました。これらはインド人の独自の力によって建てられたことが意義があるように説明されていました。
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一般の観光客の人はあまり行かない裏側の道路からの景色です。
大理石の建物が沢山並んでいました。真中の建物は「真珠のモスク」と呼ばれる美しい白大理石造りのモティ・マスジット(Moti Masjid) 右側が、先ほど説明した貴賓謁見室ディワニ・カースだと思います。
このあたりは地盤沈下が激しくて数mに達します。
入口が地面に埋もれているのが判ると思います。
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この城の中は世界遺産登録前には軍関係の施設であったことから、他の観光地と違い警備が厳重でした。
すごく警備の人のターバンが雰囲気があったので下のように写真を撮らせてもらいました。さらに右の写真のように横に並んだ写真も撮らせてもらいました。真中が私です。
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これがレッド・フォートの航空写真です。Google航空写真でレッド・フォートの広さを測ってみると南北が1160mで、東西が570mでした。

上の航空写真と比べて見てください。Wikipediaから転用させてもらった1857年以前の城塞の中の配置図です。つまり反乱軍と英国軍の攻撃を受け前のレッド・フォートです。
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2015年時点のインドの世界遺産を紹介します。タイトルが着色のものは私が訪問した7ケ所の世界遺産です。タイトルまたは写真をクリックすると、その記事を表示します。
クリックすると拡大文化遺産
  1983年 アジャンター石窟群               
  1983年 エローラ石窟群                 
  1983年 アーグラ城塞                   
  1983年 タージ・マハル                  
クリックすると拡大  1984年 コナーラクのスーリヤ寺院
  1984年 マハーバリプラムの建造物群         
  1986年 ゴアの教会群と修道院群            
  1986年 カジュラーホーの建造物群           
  1986年 ハンピの建造物群                
クリックすると拡大  1986年 ファテープル・シークリー            
  1987年 パッタダカルの建造物群            
  1987年 エレファンタ石窟群                
  1987年 大チョーラ朝寺院群               
  1989年 サーンチーの仏教建造物群          
クリックすると拡大  1993年 デリーのフマーユーン廟            
  1993年 デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群 
  1999年 インドの山岳鉄道群               
  2002年 ブッダガヤの大菩提寺              
  2003年 ビンベットカの岩陰遺跡群            
クリックすると拡大  2004年 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅  
  2004年 チャンパネール=パーヴァガドゥ遺跡公園  
  2007年 赤い城の建造物群 レッド・フォート      
  2010年 ジャイプルのジャンタル・マンタル        
  2013年 ラージャスターン州の6つの丘陵城砦群
クリックすると拡大  2014年 グジャラート州パタンのラーニキ・ヴァヴ
自然遺産
  1985年 カジランガ(カージランガー)国立公園    
  1985年 マナス(マーナス)野生生物保護区      
  1985年 ケオラデオ(ケーオラーデーオ)国立公園  
クリックすると拡大  1987年 スンダルバンス国立公園            
  1988年 ナンダ・デヴィ(ナンダー・デーヴィー)    
  2012年 西ガーツ山脈
  2014年 大ヒマラヤ国立公園

クリックすると拡大クリックすると拡大デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
  レッド・フォート Red Fort
  フマーユーン廟 Humayun's Tomb
クリックすると拡大  クトゥブ・ミナール Qutab Minar
地図上のアイコンマイナスを何度もクリックすると訪問した他の世界遺産の場所もわかると思います。

より大きな地図でデリーの世界遺産を表示

世界遺産 フマユーン廟 (Humayun's Tomb) [インド]

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これはデリーにある3つの世界遺産の一つであるムガール帝国第2代皇帝フマユーン(همايون)の霊廟(墓)です。インドのデリーは帰国の日の飛行機に乗るまでの時間で、3つの世界遺産を全て廻ることが出来る、うれしい街なのです。

フマーユーン皇帝は1530年に即位しましたが、1540年にスール族のシェール・ハンに大敗し、インド北部の君主の座を奪われてペルシアに亡命しました。しかしながら1555年に、アーグラとデリーを奪回して、北インドの再征服に成功しました。ところが、翌1556年に47歳で、突然に事故で死んでしまいました。フマーユーン死後の1962年に、ムスリマを信仰していたハミーダ・バーヌー・ベーガム王妃がデリーのヤムナー川のほとりに、亡き夫の壮麗な墓廟を建設することを指示し、サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤートゥッディーンと父ミラーク・ギヤートゥッディーン二人の建築家によって8~9年の歳月をかけてフマユーン廟を完成させたそうです。ハミーダ王妃は、フマーユーンの王妃であるとともに第3代皇帝アクバルの母でもありました。ちなみフマーユーン皇帝が37歳で亡くなった時、ハミーダ王妃は29歳で、即位したアクバル皇帝は13歳でした。ハミーダ王妃は1604年8月29日に77歳で生涯を閉じて夫の眠るフマーユーン廟に埋葬されました。
 フマユーン皇帝の即位から墓廟(霊廟)完成まで
    1530年~1540年 皇帝在位
    1540年~1555年 ペルシアに亡命
    1555年~1556年 皇帝復位
    1562年~1571年 フマユーン墓廟を建設
肖像画はWikipediaから転用させてもらったハミーダ王妃とフマユーン皇帝です。
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フマユーン廟の拡大した写真を紹介します。
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さらに拡大した写真を紹介します。フマーユーン廟はムガル帝国の廟建築の原型を示すと言われ、その建築スタイルはタージマハールにも影響を与えたそうです。
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正面からだと大きすぎて全体が撮れないために斜め45度から撮った写真を紹介いたします。フマユーン廟の建設を指示したハミーダ王妃は、ムガール帝国初代皇帝バーブルの皇子ヒンダールの信仰上の導師でもあったシーア派のペルシア人のシャイフ・アリー・アクバル・ジャーミーの娘でした。ちなみにヒンダールは、長男フマーユーンの異母兄弟にあたります。
フマーユーンがハミーダに一目ぼれして求婚しました。ハミーダ本人や彼女を好いていた皇子ヒンダールに反対されましたが、40日間求婚するという涙ぐましい努力の末に彼女が応じたという経緯があるのです。
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別の角度からの全景も紹介しまい。同じように見えますが、椰子の木の形の違いで同じ角度ではないことが判ってもらえると思います。実は建物は4方向が対称なのです。
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航空写真で四方対称の建物であることを確認できます。


フマユーン廟の門です。これをくぐると上の写真のフマユーン廟が目の前に現れます。このあたりが紹介したリスが寄ってくる場所でした。


フマユーン廟側から見た入口側の門です。


上の写真と似ていますが別の門です。フマユーン廟は正方形の建物ですが、そのフマユーン廟はさらに大きな正方形の敷地に立てられています。入口の門から見て右側の門です。


こちらの門は左側の門です。フマユーン廟の中からの景色です。


正方形の敷地の中にはこんな建物もありました。


上に上がる階段です。すごく急な階段でした。


内部を紹介します。フマユーン廟をお寺や宮殿と思われている方も多いと思います。以前にご紹介したとおり、実はお墓なのです。あの有名な総大理石の巨大な建物であるタージ・マハールも同じくお墓なのです。私も初めて、ここに来るまでは知りませんでした。そしてタージ・マハールは、このフマユーン廟をモデルにして作られたそうです。真ん中に墓石らしいものが置かれています。


別の角度から見た墓石です。
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天井は大理石できれいに飾られています。写真をクリックして拡大すると大変な細工であったことが感じてもらえるかもしれません。
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この廟には約150人もの死者が埋葬されたとされているそうで沢山の墓石(石棺)がありました。
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入口からフマーユーン廟の通路の右脇に古い廟が2~3っあります。これらも是非見てほしいです。
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崩れかけた入口が時代を感じさせてくれます。クリックすると中央の建物が表示します。
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更に、もうひとつ紹介いたします。これらは全てフマーユーン廟の敷地にあるので見過ごさないように!
インド観光で最大の障害の一つが暑さです。ちょうど2月だったので一番気温の低い時期で、一番すごし易い季節です。ただしホテル代は夏に比べると2倍に跳ね上がります。もしかして世界で、もっともホテル代の高い国かもしれません。物価が非常に安い国のひとつなのに、これには驚きでした。


クリックすると拡大クリックすると拡大デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
   レッド・フォート Red Fort
   フマーユーン廟 Humayun's Tomb
クリックすると拡大   クトゥブ・ミナール Qutab Minar
地図上のアイコンマイナスを何度もクリックするとインド全体からの位置関係が判ると思います。