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伊能 忠敬(いのう ただたか) [佐原 潮来]



行ってきた佐原と言えば全国を測量して日本地図を作った伊能忠敬も有名です。幼い時は伊能の姓ではなかったけれども1762年(宝暦12年)、18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動したそうです。伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていました。商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されています。また、このときに、かなりの財産を築いたことから、この佐原に伊能忠敬の原点があるのです。その時代の伊能忠敬旧宅が残っています。平屋造の瓦葺で、母屋、店舗、土蔵などがあります。上の写真は忠敬が設計したと伝えられている書院か母屋だと思いますが、東日本大震災で被害を受けました。2回目に行ったときは修復中で見ることが出来なかったので、現在は修復が終わっていると思います。

こちらは店舖部分で小野川に面しています。こちらも地震で被害を受けてけて修理中でした。伊能忠敬は1795年(寛政7年)50歳で江戸に出るまでこの旧宅に住んでいたそうです。 1930年(昭和5年)4月25日、国の史跡に指定された。


以前は旧宅の敷地内に伊能忠敬記念館がありましたが、現在は旧宅前の小野川を挟んで向かいに建っている。また、旧宅の敷地内には旧宅前のジャージャー橋の愛称で呼ばれている樋橋により対岸に水を渡していた水路が残っています。この橋の道の奥に伊能忠敬記念館がありました。


こちらが伊能忠敬記念館の入口です。中に入りましたが写真撮影は出来ないので今回は紹介出来ませんでした。


昔の町並みのように見えますが、伊能忠敬記念館です。4つの民家のように見えますが一つの鉄筋コンクリートの建物なのです。入口と反対側から見た記念館の景観です。


伊能忠敬の年表を紹介します。これを見ると彼の偉業がわかります。
 西暦 年齢        内容
1745年  0 1月11日上総国山辺郡小関村の名主の家で生まれる。延享2年
1751年  6 母が亡くなり、武射郡小堤村の神保家に戻る。
1755年 10 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる。
1762年 18 下総国香取郡佐原村の伊能家に婿養子に入る。
1781年 36 佐原村本宿組名主となる。
1794年 50 隠居し家督を長男景敬に譲る。
1795年 51 江戸に出て幕府天文方高橋至時に暦学・天文学を学ぶ
1800年 56 第1次測量 奥州街道~蝦夷地太平洋岸     180日間
1801年 57 第2次測量 三浦半島~津軽半島         230日間
1802年 58 第3次測量 奥州街道~津軽半島         132日間 
1803年 59 第4次測量 東海道~北陸沿岸 佐渡       219日間
1805年 61 第5次測量 幕府直轄事業となる。東海道~山陰 
1808年 64 第6次測量 東海道~四国
1809年 65 第7次測量 中山道~九州鹿児島
1811年 67 第8次測量 甲府~九州鹿児島 壱岐 対馬 五島 913日間
1815年 71 第9次測量 東海道 忠敬は参加せず。
1816年 72 第10次測量 江戸府内 
1818年 74 4月13日死去、喪を秘して地図製作を続行。
1821年 没後 大日本沿海輿地全図が完成 文政4年
1883年 没後 贈正四位 明治16年
以前に函館に行ったときに函館山で、このような石碑を見つけました。伊能忠敬が北海道の測量の基点にしたのが函館山だそうです。寛政12年(1800年)と書かれていることから第1次測量の時であることがわかりました。