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シュノンソー城 その2(城内編) [ロワール]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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先日、上の写真のフランスのロワール地方にあるシュノンソー城をその1として城を外から見た景観を中心に紹介いたしました。シュノンソー城はシェール川の上に建てられた美しい景観の箸です。本記事では城の内部を紹介したいと思います。今回はフランス文化・歴史、言語学を熟知した高橋保さんがガイドを務めるマイバス社のツアーだったことから城の中に関しては、特に詳しい話を聞かせてもらえました。城の内部に入ってから案内してもらった順番(①→⑫)に紹介したいと思います。①~⑤が1階で、⑥~⑫が2階にありました。
上の写真はクリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
クリックすると拡大 ① 護衛兵の間
 ② ディアーヌ・ド・ポワティエの寝室
 ③ 一階の回廊(ギャラリー)
 ④ フランソワ1世の居間(寝室)
 ⑤ ルイ14世の居間
 ⑥ 階段 & 回廊
 ⑦ ルイーズ・ド・ロレーヌの寝室
 ⑧ 五人の王妃の寝室
クリックすると拡大 ⑨ カトリーヌ・ド・メディシスの寝室
 ⑩ 二階の回廊(ギャラリー)
 ⑪ セザール・ド・ヴァンドームの寝室
 ⑫ ガブリエル・デストレの寝室
チケット→


① 護衛兵の間
この部屋には武装した宮廷の護衛が控えていたそうです。壁には、16世紀に作製されたタペストリーがかかっていました。そのタペストリーには、城での生活や結婚の申し込みや狩の場面が織られていました。
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この部屋には立派な暖炉がありました。この暖炉は16世紀のものです。暖炉の上の天井近くにトマ・ボイエの紋章が飾られていることが有名です。
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上の写真でも暖炉が今でも使われていることが判りますが、実感してもらいたくて本写真を追加いたしました。
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これが暖炉の上のトマ・ボイエの紋章です。この紋章だけは特別にライトアップされていました。クリックすると特別に大きく拡大いたします。
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城は全て石で出来ていると思われがちですが、軽量化のために2階以上の階の床は木で出来ている場合が多いそうです。当然ですが天井は木造となります。見事な天井です。
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壁の彫刻やタペストリーを拡大いたしました。写真の中の像は守護聖人(聖カトリーヌと聖トマ)で、その下にはトマ・ボイエとカトリーヌ・ブリノネの金言「シュノンソーが完成したならば、私の名は歴史に残る」が刻まれています。その下の扉はオーク材で、ルネッサンス期に作られました。
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これがタペストリーの絵です。
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部屋の床は石がむき出しでしたが、昔は見事な装飾がされていたそうです。
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壁に近い部分には、床の装飾が残されていました。このような装飾が床全体に行われていたと想像してください。クリックすると真上から撮った拡大写真を表示します。
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窓は幾何学的な文様で飾られていました。
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② ディアーヌ・ド・ポワティエの寝室
シュノンソー城は女性が城主で6代続きました。フランソワ1世の息子のアンリ2世の正妻カトリーヌ・ド・メディシスが第1代目城主はでしが、その後、アンリ2世は幼少期より家庭教師として出入りしていて絶世の美女と謳われた20歳年上のディアーヌ・ド・ポワティエに思いを寄せるようになり、その愛妾(愛人)にシュノンソー城を贈ったことで、ディアーヌ・ド・ポワティエが第2代目城主となりました。その第2代目城主のディアーヌ・ド・ポワティエの部屋がこちらでした。その後、アンリ2世が不慮の事故の死をきっかけに正妻カトリーヌ・ド・メディシスによって、愛妾のディアーヌ・ド・ポワティエが追い出されてしまうのです。その恨みの痕跡が残された部屋でもあるのです。
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暖炉の上にはアンリ2世の正妻カトリーヌ・ド・メディシスの肖像画が飾られています。天蓋ベッド、コルドバ革で作られたアンリ2世の肘付き椅子、ベッドの脇の見事な寄木細工のテーブルはルネッサンス様式だそうです。
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正妻カトリーヌ・ド・メディシスの肖像画の下の飾りにCとHが使われていました。Cはカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis)を表しており、Hはアンリ2世(Henri II de France)を表しています。
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1559年にアンリ2世が宮廷のスコットランド衛兵隊長ガブリエル・モンゴメリと行った騎乗槍試合で不可解な事故で命を落として、王妃カトリーヌ・ド・メディシスは未亡人となりましたが、後ろ盾をなくしたディアーヌ・ド・ポワチエからシュノンソー城を取り戻したそうです。その時にディアーヌ・ド・ポワチエは城が自分の物である証を、いろんな場所のCとHの飾りの中に込めたのです。CとHのように見えますが、実はDとHだったのです。つまりDはディアーヌ・ド・ポワチエ(Diane de Poitiers)を表しているのです。
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こんなところにも堂々と怨念のDとHの紋章がありました。この紋章はフォンテーヌブロー派のフランス人彫刻家、ジョン・グージョン作です。
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貴重な資料も部屋の中に展示されていました。
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こちらの紋章も見事でした。
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③ 一階の回廊(ギャラリー)
川の上にあたる長さ60mの回廊でギャラリーと呼ばれています。幅は6mで、城の中で最も広い部屋の一つでもあります。そのためダンスホールなどに使われたそうです。1577年にはカトリーヌ・ド・メディシス主催で、彼女の息子アンリ3世を記念する祝宴が開かれたそうです。もう一つの広い部屋が2階の(回廊)ギャラリーになるわけです。天井は横梁が剥き出しになっています。つまり、天井は2階の床でもあるのです。床にはスレートと石灰岩タイルが張られています。アーチの窓と四角い窓が交互に並べられていました。
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ギャラリー両端にはそれぞれ、美しいルネサンスの暖炉があります。
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クリックすると拡大採光のための窓は18あります。このアーチの窓が片側4つで両側8つ、四角い窓が片側5つで両側10つありました。右の写真をクリックすると窓の配置が判ると思います。
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その採光窓からの川の景色です。
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シュノンソー城は珍しく個人の所有物で、主によって城内各所に見事な生花が飾られていました。
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正面からギャラリーを見ました。白黒の床と白い壁が美しいです。柱の部分には人物像が彫られています。
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ギャラリーにつながった美しい廊下にも生花が沢山飾られていました。
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④ フランソワ1世の居間(寝室)
フランソワ1世はヴァロワ朝第9代のフランス王で在位は1515年~1547年です。シュノンソー城は所有者であったトマ・ボイエの息子から国庫への債務のためフランソワ1世に献じようされた経緯があります。その時にフランソワ1世の息子であるアンリ2世の正妻のカトリーヌ・ド・メディシスが女城主でした。フランソワ1世が、この城を訪問したのは1~2度のようですが、やはり所有者であり国王であることから、この部屋が作られたのだと思います。壁には沢山の絵画が飾られていました。
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家具には、15世紀フランスの祭器棚が3つと、16世紀イタリアのキャビネットがあるそうです。写真はイタリアのキャビネットと思われます。このキャビネットは真珠貝のはめ込み細工や象牙の羽ペン画が施された見事な調度品でした。
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右の大きな絵がディアーヌ・ド・ポワチエ像です。プリマティッチオによって1556年に描かれました。左の大きな絵もディアーヌを描いたもので「狩の女神ディアナ姿のディアーヌ・ド・ポワティエ」です。
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上の写真では小さかったので、「狩の女神ディアナ姿のディアーヌ・ド・ポワティエ」が大きく写った写真を掲載しました。この絵が完成された時、ディアーヌは57歳だったそうです。彼女は50歳を過ぎても美しさは衰えず、20歳年下の王と同年齢に見えたといわれています。こちらの部屋に飾ってあった生花は白とピンクでした。
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この部屋の暖炉はルネッサンス様式の作品の傑作のひとつに数えられているそうです。マントルピースにはトマ・ボイエの辞が刻まれています。辞は「S'il vient à point, me souviendra (城を建設すれば建てた人間は歴史に残る)」で、ドアの上の彼の紋章にも同じ言葉が刻まれているそうです。右の絵はファン・ローの「三美神」です。
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ファン・ローの「三美神」です。
ルイ15世が相次いで寵姫(愛妾)にしたというネール三姉妹がモデルだそうです。3人は、シャトールー夫人、ヴァンティミリア夫人、マイイー夫人で、皆、既婚者だそうです。その時代は王妃としては安心なので愛妾は既婚者のほうが都合が良かったようです。
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暖炉の見事な飾りをいくつか紹介します。
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これは暖炉のすぐ上の飾りです。
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暖炉の中の飾りも見事でした。
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この素朴な椅子も趣があったので撮りました。
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これはドアの入口の上の飾りです。
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⑤ ルイ14世の居間
こちらのルイ14世の居間も立派です。この城に来たのは僅かだと思いますが、さすが王朝の最盛期を築き、太陽王と呼ばれたフランス国王の部屋だけのことはあります。
左の絵がルイ14世です。サラマンダーと白鼬の紋章で飾られた暖炉も見事です。
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暖炉の薪を焚く部分です。
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暖炉のサラマンダーと白鼬(しろいたち)の紋章はを拡大いたしました。口から火を吐いている左側がサラマンダーと思われます。サラマンダーは四大精霊の一つで燃える炎の中や溶岩の中に住んでいると信じられています。四大精霊は、地・水・風・火の中にそれぞれ住んでいる目に見えない自然の生きものだそうです。左側がサラマンダーなので右側が白鼬(しろいたち)ということになります。
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こちらの生花も見事でした。
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暖炉を真横から見ました。
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ルイ14世が1650年7月14日にシュノンソー訪問訪問を記念し、リゴーによって書かれた肖像画です。肖像画の見事な額縁はルポートル作で、大きな4つの木片のみで組まれているそうです。クリックすると額のすごさが判ってもらえると思います。
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こちらはルイ15世の肖像画です。比べるとルイ14世の額のすごさが判ります。
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こちらの椅子も見事です。
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天井と壁のつなぎ部分の模様です。クリックすると広範囲を表示します。
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⑥ 階段 & 回廊
1階から2階に上がる階段です。
当時、城の階段は防御しやすい螺旋階段にすることが常識だったようですが、ここでは直線的な階段が採用されました。
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2階に上がった最初の回廊です。
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見事な壁と天井の作りです。
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そこに置かれていた家具の装飾も見事でした。
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⑦ ルイーズ・ド・ロレーヌの寝室
ルイーズ・ド・ロレーヌ(Louise de Lorraine-Vaudémont)はフランス王アンリ3世の王妃です。夫アンリ3世(37歳)が1589年8月2日に修道士ジャック・クレマンに暗殺されると、王妃はシュノンソー城に引きこもり、瞑想と祈りにふけったそうです。夫が暗殺された時、王妃は36歳でした。修道院代わりに城に住み込んだ修道女に囲まれ、王室の慣習で王への哀悼を示す白い喪服を常に着用して「白衣の王妃」と呼ばれたそうです。当時の状態のまま残っていた天井にあわせて復元されたのが黒い部屋でした。
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黒に圧倒されました。銀の涙、未亡人の綬章、荊冠、ギリシャ文字など、喪を表すもので天井は飾られていました。
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飾られていたこの絵が亡くなったアンリ3世国王ではないかと思われました。アンリ3世は選挙によってポーランド国王になったこともありました。
 出生     1551年9月19日
 ポーランド王 1573年5月09日~1575年5月12日  2年在位
 フランス王  1574年5月30日~1589年8月02日 15年在位
 死去     1589年8月02日(37歳) 暗殺
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こちらがベッドを正面から撮った写真です。
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黒い部屋の中では人の服が鮮やかに見えます。この部屋の、悲しみに沈み信仰にすがる雰囲気を最もよく表すのが、暖炉を装飾するキリストの荊冠と16世紀に描かれた絵画だそうです。家具は16世紀のものだそうです。
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天井の黒の模様を拡大いたしました。
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床は茶色でした。
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こちらの生花は黒い部屋に合わせて白い花が使われていました。
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生花の後ろの窓もきれいでした。
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悲しみに暮れた王妃のベットです。
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⑧ 五人の王妃の寝室
この寝室は、カトリーヌ・ド・メディシスの2人の娘と3人の義理の娘を記念して、名づけられたそうです。2人の娘とはアンリ4世の妻マルグリット・ド・ヴァロワ、フェリペ2世の妻エリザベート・ド・ヴァロワで、義理の3人の娘とはフランソワ2世の妻メアリー、シャルル9世の妻エリザベート・ドートリッシュ、アンリ3世の妻ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンです。
ルイーズ・ド・ロレーヌの部屋から移動された16世紀の恪天井には、5人の王妃の紋章が描かれている。暖炉はルネッサンス様式です。壁には、トロイの包囲、ヘレナの略奪、コロセウムでの競技、ダビデ王の載冠を描いた一連のフランドルタペストリーがかかっている。
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こちらの部屋の暖炉も実際にひが入っていました。
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壁には16世紀フランダースのタペストリーのセットがかけられていました。題材はトロイヤの包囲とヘレネの誘拐、コロッセオの円形劇場の試合、ダビデ王の戴冠だそうです。家具は大きな四柱式寝台、木製多彩色の女性頭部の飾りがついたゴシックの祭器棚2つ、鋲のついた旅行用チェストが置かれていました。。
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⑨ カトリーヌ・ド・メディシスの寝室
カトリーヌ・ド・メディシスの寝室の中央にはルネッサンス期特有の天蓋付きベッドが置かれていました。ベッドの柱と横羽目板には彫刻が施され、古代のメダルから着想を得た人物の横顔の浮き彫りも見られます。
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カトリーヌ・ド・メディシスの居室は、彩色された金泥が塗られた、木製の恪天井で覆われていて、天井の格子内に様々なイニシャルが見られます。メディチ家の紋章と、中央にカトリーヌの”C”とアンリ2世の”H”が組み合わさったイニシャルが表されている部分もありました。どこの部屋も暗いので、このようにぶれる写真がありましたが、手ぶれ機能のおかげで半分以上は見ることの出来る写真が撮れたので、こん回の記事を掲載することが出来ました。
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暖炉と赤レンガの床はルネッサンス期のものだそうです。
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⑩ 二階の回廊(ギャラリー)
一階の回廊とは雰囲気が違っていました。採光のための窓はの数は一階と同じ18ですが形は全て四角でした。さらに窓にはすべて扉がついていました。
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1階の回廊(ギャラリー)と同じように暖炉が両端に設置されていました。そして、ここにも生花が飾られていました。
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⑪ セザール・ド・ヴァンドームの寝室
ここは王アンリ4世とガブリエル・デストレの息子、ルイ14世の叔父、そして1624年にシュノンソー城の城主となったヴァンドーム公セザールの思い出が残されている部屋だそうです。この部屋の天蓋ベッドと家具はルネッサンス期のものです。ルネッサンス期の暖炉は19世紀に金色に彩色されたそうです。
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この部屋は梁の見える美しい天井が特徴です。
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ブリュッセルのタペストリーの特徴である華麗な縁飾りは、豊穣の角から溢れ出る果物や花をモチーフとしているそうです。
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ここのタペストリーも見事でした。細い花瓶にかざられた生花もきれいでした。
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⑫ ガブリエル・デストレの寝室
ここは王アンリ4世の愛妾でり、後に王の摘出子となったセザール・ド・ヴァンドームの母であるガブリエル・デストレの部屋です。
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梁の見える天井、床、家具はルネッサンス期のものです。こちらにも生花が飾られていました。
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こちらも大きな暖炉がありました。
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天蓋ベッドのそばにかけられた16世紀のフランドル製タペストリーには「愛のアレゴリー」の題名が付けられています。それ以外の三方の壁には「ルカの月暦図」と呼ばれる珍しいタペストリーがかかっていました。
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