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古墳のある小学校 佐倉市立青菅小学校 [風習・歴史]

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千葉県佐倉市の市立青菅小学校の校庭には「大塚」「小塚」「すげの子山」とよばれる古墳のような小山が3つあります。特に大塚と小塚はきれいな円形で、まさに円墳です。
ただし、古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)の墓ではなく約400年前の江戸時代初期に作られた墓所であることから、正しくは古墳ではなく、古墳のような墓所と言うことになります。この青菅の大塚は、徳川家康と「はとこ」の関係にあった旗本2500石の川口宗勝から下記の4代の墓所と言われています。二代の川口宗信の弟(三男)である川口宗重(2000石 1587年生~1654年没)の墓は佐倉市八幡台にあるそうです。川口宗勝の母は織田信長の伯母だった可能性もある上に徳川家康の又従兄弟(またいとこ/はとこ)で、主君は水野信元→柴田勝家→織田信長→信雄→豊臣秀吉→徳川秀忠の遍歴の戦国時代の名家の武将だったのです。江戸時代において四代の川口宗恒は川口家の中で最も出世し領地は青菅村だけでなく各地に加増されたようです。職を辞した後は旗本寄合席に列したそうです。元々は川口氏は平家の支流で、伊賀國から美濃国川口村に移り、宗倫のときに川口氏を名乗ったそうです。
 初代:川口宗勝 2500石 通称:久助   1548年生~1612年没
 二代:川口宗信 2000石  通称:孫作
 三代:川口宗次 2000石  通称:久助        ~1652年没
 四代:川口宗恒 2700石 通称:源左衛門 1630年生~1704年没

Google地図に大塚、小塚、すげの子山を書き込みました。
青菅の大塚は、上で記載した通り、青菅領主の旗本川口家四代の墓所ですが、小塚は、夫人の墓所と伝えられているそうです。そのことからか大塚は男塚(おとこづか)、小塚は女塚(おんなづか)ともよばれています。伝承では大塚・小塚ともに初代宗勝の時に築造され、大塚には四代すべての髻(もとどり)が埋葬されていると伝えられており、別名「もとどり塚」とも呼ばれています。
ちなみに、髻(もとどり)とは髪を頭の上で束ねた部分だそうです。


冒頭の写真は南東方向から見た大塚です。この写真は反対側の北西から見た大塚です。大塚自体は円形(円墳)ですが、周囲に一部ですが縁石が四角に並べられています。そのためか、塚を方形と書かれている方もおられますが、周囲を廻ってみると縁石は五角形に並べられていました。縁石には大谷石が使われていて、つなぎはセメントが使われていることから縁石に関しては小学校が作られた時か、それ以降に土の流失防止に作られたものと感じました。
大塚・小塚は佐倉市の市指定の史跡となっています。佐倉市のホームページによると、青菅の大塚・小塚周辺では、地域住民により「ミチカリ」がおこなわれているそうです。かつての「ミチカリ」は、塚周辺の清掃および、道に繁る枝を刈り、道を掃いたりする青菅地区の年中行事だったそうです。現在でも当時とは若干姿を変えていますが、毎年行われているそうです。「ミチカリ」とは「道刈り」のことでしょうか。今は道が整備されていますが、江戸の初期のころの大塚・小塚の周辺は一年で道がなくなってしまうほど草木が生い茂っていたのかもしれません。
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南西方向から見た大塚です。不思議なことに川口家の墓所でありながら墓石は立てられていません。ただし小さな石碑が建てられていました。これは川口家のものではなく小島泰堂の石碑なのです。小島泰堂に関してはさらに調べる必要があることから後日詳しく紹介したいと思います。
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石碑には月読尊と書かれています。手前の石で見えませんが、右下には「菶蔫 小島稲子」、左下には「泰堂翁謹書」とあり、真ん中下部には「能見鏡者食国廼 民之福召所知哉」と文字が刻まれているそうです。この歌は「月読みの鏡を見ればをす国の民のしあわせしろしめすかな」と読むそうです。
関係あるかないか分かりませんが、川口宗勝の母親は小島信房の娘または織田信長の伯母だそうです。同じ小島姓は気になりますが、時代的には300年近い差があるので関係は薄い気がします。
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写真を撮っている方は下高野の辻切りなどでお世話になっている近くに住んでおられるkazuさんで、この時も案内していただきました。大塚・加塚や小島泰堂に関する情報も沢山教えていただきました。
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もう一つ、石碑の痕跡がありましたが、こちらの方は分かりませんでした。
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小学校の裏ての校庭に小塚があります。
川口家の墓所になる以前から古墳があったと考えている方もおられるようです。それだけ謎が多いのだと思います。ただし、龍角寺古墳群のように古墳は集まっていることが多いようですが、この周囲1kmでは見当らないことから塚の形だけで古墳であったとするには無理があるようです。一番近い縄文時代の遺跡はここから直線距離で1.9kmのところにある井野長割遺跡(国指定史跡)です。これも小学校(井野小学校)の隣りの敷地です。また佐倉市で古墳と認定されている「ひょうたん塚古墳」までは7.0kmで、八千代市の根上神社古墳までは3.7kmです。
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これが北西方向から見た小塚です。川口家の初代から4代の当主の夫人たちの墓所です。この時、小塚に植わっている木の枝を伐採しているところでした。関係する各時代の日本の総人口を記載いたします。江戸初期頃の日本の人口は現在の10分の1でした。青菅村の人数を想像してみてください。
 縄文時代  BC14000年~BC300年  2万人→15万人
 古墳時代  200年~600年末     60万人→400万人
 江戸初期  1603年ごろ        1200万人
 江戸後期  1868年ごろ        3100万人
 現在    2018年2月1日      1億2656万人
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南東方向から見た小塚です。佐倉市の文化財-史跡「墓・碑 など」は下記の通りで、この中に「青菅の大塚・小塚」と「川口宗重墓」があります。
青菅の大塚・小塚の場所は佐倉市のホームページでは青菅となっていますが、住所は千葉県佐倉市宮ノ台1丁目です。佐倉市青菅に新興住宅地が出来来たことによって青菅の一部が宮ノ台に町名が変更になったのが1981年11月1日でした。 さらに井野の一部と小竹の一部の町名がユーカリが丘に変更になったのが1985年2月1日でした。周辺地域での一番新しい町名変更は2012年8月18日で、井野の一部が西ユーカリが丘6丁目と7丁目になりました。
 太田図書墓      (臼井)
 海隣寺中世石塔群   (海隣寺町)
 川口宗重墓      (八幡台)
 桔梗塚跡       (将門町)
 佐藤泰然・舜海碑   (本町)
 勝胤寺中世石塔群   (大佐倉)
 土井利勝父母夫人供養塔(弥勒町)
 道誉上人墓      (臼井田)
 堀田正俊・正睦・正倫墓(新町)
 雷電墓        (臼井台)
 青菅の大塚・小塚   (青菅)
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青菅小学校の北西側には大塚の名前が使われた「青菅大塚公園」があります。
川口宗勝は徳川家康とは「はとこ」どうしになるのですが、関ケ原の戦いにおいては成り行きで西軍(豊臣側)でした。戦いに敗れて高野山に蟄居していましたが、第2代将軍徳川秀忠に許されて旗本になった経緯がWikipediaに書かれていたので枠内に転記いたしました。
川口 宗勝(かわぐち むねかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。徳川家康ははとこに当たる。
宗勝の祖父・川口盛祐は一族の川口宗持の養子となり、大河内元綱の養女・於富の方(華陽院)を娶り宗勝の父・宗吉を儲けた。於富の方は水野忠政に嫁ぎ徳川家康の生母・於大の方を産み、また家康の祖父・松平清康にも嫁いでいる。
天文17年(1548年)、川口宗吉の子として誕生。
当初、宗勝は水野信元に仕え、永禄6年(1563年)には柴田勝家へ、翌永禄7年(1564年)には織田信長の直臣となり弓大将となる。また、永禄9年(1566年)に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が墨俣に一夜城を築いた時の野武士の中に宗勝の名が見える。本能寺の変後には織田信雄、豊臣秀吉に仕え、伊勢国尾張国内で18000石を領した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、宗勝は大坂城におり東軍に味方するつもりで中江直澄と共に出立したが、増田長盛・長束正家に留められたため心ならずも西軍に属した。安濃津城攻めなどに参加するが西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領を没収され身柄を伊達政宗に預けられる。慶長11年(1606年)、徳川秀忠に許されて青菅2500石を賜り旗本となった。
慶長17年(1612年)、青菅にて死去。以後、元禄11年(1698年)までの92年間、宗信(孫作)、宗次(久助)、宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行した。
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こちらが青菅小学校の3つ目の塚「すげの子山」です。運動場にあります。
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近づいて撮りました。青菅小学校のあたりは標高23mの平らな地形なので自然に出来たものとは思えませんが、この小山に関する情報は残念ながら一切ありませんでした。昔は古墳であった可能性もあるようにも感じました。
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この小山は子供たちの遊び場となっています。青菅小学校のホームページにも経緯は書かれていませんでした。学校の沿革の中で「平成2年11月5日すげの子山移動・整備」と書かれているだけでした。平成2年は私が佐倉市に引越してくる前のことでした。ご存じの方のコメント(by UMA 2018-05-31 11:36)で、すげの子山は25~28年程前に残土を使って作った盛山であることが分かりました。当時青菅小学校に通っていた教員や生徒の方しかしらないそうです。
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すげの子山(菅の子山)の上からの校庭の景色です。
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青菅小学校の門です。
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そして青菅小学校の表札です。
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参考に青菅小学校の生徒数の推移を紹介します。一旦は生徒数が減りましたがマンションが建設されたり、周辺に新しい住宅地が開発されたことから現在は生徒数が増えつつあります。
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生徒数のずれが見られますが、別の資料から転用させていただいたグラフで、学校の創立(1986年)からの生徒数の推移も紹介いたします。廃校となった志津小学校青菅分校から340mの距離に今の青菅小学校があります。
 青菅小学校が出来るまでの沿革
  1873年 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校として創立 
  1887年 村立上志津尋常小学校と改名
  1903年 青菅分教場設立→青菅分校
  1945年 村立志津小学校と改名
  1954年 市立志津小学校と改名
  1961年 上志津小学校 分離独立
  1967年 井野小学校  分離独立
  1976年 小竹小学校  分離独立
  1977年 青菅分校   廃校(1903年設立の青菅分教場)
  1986年 青菅小学校  分離独立(新しい学校として設立)
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クリックすると拡大二代・川口宗信の弟(三男)である川口宗重の墓が、佐倉市の八幡台一号公園の南西コーナーにあるとのことなので写真を撮ってきました。こちらが墓の正面です。正面に「為珉照院釈道是善根菩提也 南無阿弥陀佛 茲時承応三年甲午歳林鐘十七日」、左側面に「川口茂右衛門尉 平宗重 六十八歳逝去」、右側面に「川口作左右衛門尉 平宗忠 廿七歳建立 之孝子敬白」、裏面に「唯獨自明了」と書かれていることから、子供または孫あるいは子孫の川口作左右衛門(川口宗忠)が28歳の時に建立したようです。Wikipediaに書かれていた内容を枠内に転記いたしました。墓の位置をGoogle地図で表示→ポチッ
川口 宗重(かわぐち むねしげ、天正15年(1587年) - 承応3年6月17日(1654年7月30日))は、江戸時代初期の旗本。川口宗勝の三男、母は福富平左衛門直貞の娘。兄弟に宗信、宗之、宗利、宗澄、宗政。
慶長17年(1612年)、父の宗勝が没すると遺領のうち葛飾郡臼井500石を相続した。その後、上総、甲斐国内に加増され、合わせて2000石となる。承応3年(1654年)没する。墓は佐倉市八幡台にある。家督は長男宗徳が継ぎ、宗憲、宗建と臼井を領した。
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左・後ろ斜めから撮った写真です。写真をクリックして拡大すると、川口宗重の通称名の川口茂右衛門の文字が読み取れると思います。佐倉市のホームページ書かれていた川口宗重に関する内容を枠内に転記いたしました。
川口氏は戦国時代に織田氏に仕えていましたが、宗勝の代に関ヶ原の戦いにおいて西軍に付き、一時伊達政宗に預けられました。 その後、宗勝は二代将軍秀忠の御家人となり、慶長10年(1605)印旛・葛飾両郡内にて2500石を知行しました。宗重は宗勝の三男で、慶長17年(1612)に父の遺領の内、葛飾郡臼井500石を継承しました。後には上総国・甲斐国内に加増され、都合2000石を知行しましたが、承応3年(1654)に68歳で死去しました。
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川口宗重の墓が設置されている位置をGoogle地図で紹介します。
川口宗重の墓がある八幡台第一公園は臼井八景の第八景であるクリックすると拡大右の写真の州崎青嵐(すざきせいらん)の表示板が設置されている場所でもあります。
クリックすると拡大 川口宗重の墓
 臼井八景 第八景・州崎青嵐
 八幡宮の祠


川口宗重の墓の脇が周囲より7~8m低い窪地になっていて、その窪地に八幡宮の祠があります。公園から神様を見下ろす珍しい神社です。
大雨の時に水が溜まるのではないかと心配になりますが、この公園自体が丘陵地にあり周辺の地域より17m高い(=23m-6m)ので排水路さえ確保されていれば心配は無いようです。標高の数値はGoogle地図のPrincipalement plat機能で表示された道路の標高値です。
クリックすると拡大 公園の標高 23m
 窪地の標高 15m(=23m-8m)
 周辺の標高  6m
本写真は4秒ごとに切り替わるようにいたしました。クリックするとその中の1枚を拡大いたします。
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窪地に下りて八幡宮の祠を撮りました。ネットでは本神社を「八幡宮の祠」と表現する記述が多いようですが、祠の前には狐(きつね)の像が置かれていることから本神社は稲荷神を祀る稲荷神社のようです。佐倉市のホームページの記述でも稲荷神社となっていました。住所は千葉県佐倉市八幡台1丁目-1です。
神社の右側の大木は御神木のカヤの木です。
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このカヤの木は佐倉市の指定文化財(天然記念物)でもあります。カヤは雌雄異株で、この木は雄株だそうです。老樹のため樹皮は剥離し、幹には数か所の空洞が見られるそうです。地上3mのところで幹枝を4本に分離していて、そのうち1本は大正期の神社の火事で枯れたそうですが、樹勢全体は旺盛のようです。カヤ以外にシイ、ムク、ケヤキなどの大樹もに元気に生えていました。
クリックすると拡大 界 植物界   Plantae
 門 裸子植物門 Gymnospermae
 綱 マツ綱   Pinopsida
 目 マツ目   Pinales
 科 イチイ科  Taxaceae
 属 カヤ属   Torreya
 種 カヤ    Torreya nucifera
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タグ:青菅 佐倉 古墳
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