SSブログ

奈良の興福寺 阿修羅像に出会えました。 [奈良]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
2018年9月10日に2人目の孫娘が生まれたので、2018年9月14日に奈良の近くの病院に孫娘の顔を見に行きました。少し早めに着いたので駅の近くの興福寺に行ってみることにいたしました。その時に撮った写真を紹介いたします。
クリックすると拡大右が興福寺の配置図です。
実際に歩いた通りに東金堂、五重塔、中金堂(再建工事中)、南大門跡、不動堂、南円堂、一言観音堂、三重塔、国宝館の順番に紹介したいと思います。上の写真は東金堂の前から五重塔の方向を撮った写真です。興福寺(こうふくじ)は奈良市登大路町にある法相宗の大本山の約1300年の歴史のある寺院です。さらに、ユネスコ世界遺産「古都奈良の文化財」にも含まれています。

大きな建物が国宝の東金堂です。奥に見えている五重塔も国宝です。
興福寺の起源は天智天皇8年(669年)に山背国山階(現:京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)です。その後、壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)に藤原京に移り厩坂寺(うまやさかでら)となり、さらに和銅3年(710年)の平城遷都に際し現在地に移転して興福寺と名付けられたことから、この710年が実質的な興福寺の創建年といえるそうです。
クリックすると拡大

正面から見た東金堂です。東金堂は聖武天皇の発案で神亀3年(726年)に造営されました。5度の焼失に会いその都度再建されたそうです。現在の建物は応永22年(1415年)に再建されたものです。
クリックすると拡大

東金堂の拝観券(300円)です。左が表で右が裏です。
拝観券の注意事項には「文化財の写真撮影、スケッチならびに万年筆、サインペン等の使用はお断りします。」と書かれていました。注意事項は国宝館でも同じです。鉛筆でのメモはOKのようなので、インクなどで仏像などの文化財が汚れることを恐れているのだと思います。
クリックすると拡大

東金堂の賽銭箱が置かれた正面です。ここはすでに有料エリアです。賽銭箱の前の白い布がかぶった台に注目してみてください。
クリックすると拡大

不思議なことに賽銭箱の奥側に氷が置かれていました。気になって調べてみると9月14日の9時から下記のスケジュールで氷室神社・神職の先導により、純氷が運ばれ、東金堂にて神仏習合の法要(純氷式)が執り行われたそうです。これは、かき氷のイベント「ひむろしらゆき祭」の中の一つだそうです。
 純氷式 2018年9月14日(金) 
     9:00~ 氷室神社出立
     9:30~ 興福寺東金堂にて献氷
クリックすると拡大

東金堂の中には21躯(く)の仏像が置かれたおり、その内の18躯(く)は国宝で、3躯(く)は重要文化財です。躯(く)は仏像の数を言う時の1つの呼び方です。その1躯(く)以外に1体、1頭(かしら)、1座(ざ)、1尊も使われます。両資料共にパンフレットから転用させてもらいました。仏像が載った方はクリックすると特別に大きく拡大いたします。
クリックすると拡大
クリックすると拡大

中央の金色の大きな仏像が本尊の薬師如来坐像です。両脇の立像が月光菩薩立像(左)と日光菩薩立像(右)です。東金堂の中は写真撮影が禁止されているのでネットの写真やパンフレットの写真を転用させていただきました。クリックするとWikipediaに掲載されている別角度の写真のオリジナルを表示します。


本尊の薬師如来坐像です。拝観券販売所でもらった説明パンフレットに載っていた写真です。
クリックすると拡大

月光菩薩立像(左)と日光菩薩立像(右)も紹介します。


現在の五重塔は室町時代中期・応永33年(1426年)に再建されたもので、本瓦葺の三間五重塔婆です。初代の五重塔は天平2年(730年)に創建されました。高さ50.1mで、現存する日本の木造塔としては、東寺五重塔(54.8m)に次いで2番目の高さだそうです。
クリックすると拡大

再建工事中の中金堂です。落慶法要が2018年10月7~11日に営なまれることから現在は足場は取り払われていると思われます。写真は工事中の最後の姿だと思います。中金堂は興福寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定されています。
クリックすると拡大のちに東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれていました。創建以来何度も焼失と再建を繰り返しましたが江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)に仮堂が再建された状態が今日まで約200年続き、クリックすると拡大元の中金堂の姿で再建するために傷みの激しい仮堂を2000年に解体して2010年に着工して現在に至っているそうです。右の小さな2枚の写真はネットから転用させていただいた199年前の文政2年(1819年)に建てられた仮堂です。
再建される中金堂は創建当時と同じ東西36.6m(9間)、南北23m(6間)、高さ21.2mの建物だそうです。
クリックすると拡大

真横から撮った中金堂です。9月14日時点では中金堂歓進所などがありました。再建される中金堂は古式のままの木造建築だそうです。今回の落慶法要は中金堂だけですが、将来は中門や回廊も再建して昔の姿にしたいと考えられているようです。中金堂は下記リストのように過去7回も焼失と再建を繰り返してきたそうです。つまり初代336年、2代12年、3代29年、4代77年、5代83年、6代27年、7代318年、8代181年と短い期間で焼失してしまったこともありました。明治5年12月3日(1873年1月1日)以前は西暦と和暦の月日は違います。つまり永承元年12月24日を計算すると1047年1月22日になります。
  創建 和銅3年( 710)      被災 永承元年(1046)12月24日 336年 
  再建 永承3年(1048)03月02日 被災 康平3年(1060)05月04日 12年
  再建 治暦3年(1067)02月25日 被災 嘉保3年(1096)09月25日 29年
  再建 康和5年(1103)07月25日 被災 治承4年(1180)12月28日 77年
  再建 建久5年(1194)09月22日 被災 建治3年(1277)07月26日 83年
  再建 正安2年(1300)12月05日 被災 嘉暦2年(1327)05月04日 27年
  再建 応永6年(1399)03月11日 被災 享保2年(1717)01月04日 318年
  再建 文政2年(1819)09月22日 解体 平成12年(2000)07月31日 181年
  再建 平成30年(2018)10月07日   
クリックすると拡大

本図は 応永6年3月11日(1399年4月17日)の再建時の梁行断面図と平面図です。このような図面が残っていたからこそ忠実に再建出来たようです。
クリックすると拡大

中金堂の正面には南大門跡がありました。南大門は奈良時代に創建されましたが11~18世紀に7度の火災に遭い享保2年(1717年)に焼けてからは再建されていないそうです。発掘調査により東西5間(23.4m)、南北2間(9m)の規模だったことが分かったそうです。
クリックすると拡大

南大門跡を少し離れて撮りました。五重塔も写っています。
クリックすると拡大

南大門跡の脇にある不動堂と呼ばれる小さな建物がありました。東を向く南円堂と向かい合う形で西向きに建っている小さなお堂でした。お堂は不動明王をお祀りしているようでした。
クリックすると拡大

不動堂の中を撮らせていただきました。堂内で火を焚きあげながら行われる護摩法要が頻繁に実施されていて、お堂の中は不動明王像も含め黒いススで覆われていました。
クリックすると拡大

こちらは南円堂です。現存する南円堂は江戸時代の寛保元年(1741年)に再建された建物です。正面に拝所が付属した八角円堂です。1986年12月20日 に重要文化財に指定されたそうです。南円堂正面の銅製の高さ236cmの燈籠は南円堂創建時(813年)の唯一の伝来品で弘仁7年(813年)に造られたことが火袋扉に書かれた銘文から判るそうです。本物は最後に紹介する国宝館に置かれていると書かれていたので、これはレプリカのようです。本物は頂上の宝珠が無くなっているそうです。現存する日本の金属燈籠としては東大寺大仏で前の八角燈籠(推定752年)の次に古いものだそうです。
クリックすると拡大

遠くから見た南円堂です。左側が南大門跡で右側の方向に再建工事中の中金堂が建っています。
クリックすると拡大

南円堂の傍にある鐘楼です。朝の6時と正午と夕方の18時を知らせる鐘のため、一般の人は撞くことができないそうです。
クリックすると拡大

南円堂の脇にある一言観音堂です。「一言だけ」願いを聞き入れてくれるということでこの名が付いたようです。
クリックすると拡大

入口で清めを行う手水舎(てみずやorちょうずや)です。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。井戸と思われる部分に南円堂と彫られているので南円堂のための手水舎と思われます。
クリックすると拡大

南円堂の南西方向に三重塔があるはずなのですが見当たりませんでした。実は地面の低い位置に立っていたのです。
クリックすると拡大

この石段を下りて右に曲がると三重塔がありました。
クリックすると拡大

これが興福寺の三重塔です。興福寺三重塔は康治2年(1143年)に崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建されました。現存する興福寺三重塔は鎌倉時代前期に再建されたものだそうです。記録は残っていないそうですが時期的に治承4年(1180年)の大火により焼失して再建されたと考えられています。
クリックすると拡大

三重塔が建っている辺りにはお地蔵さんが沢山並べられているエリアがありました。延命地藏尊です。
クリックすると拡大

三重塔辺りから見上げると南円堂が見えました。
興福寺の住所等を紹介します。
 住所 奈良県奈良市登大路町48番地
 山号 なし
 宗派 法相宗
 寺格 大本山
 本尊 釈迦如来
 開基 藤原不比等
 創建 天智天皇8年(669年) 京都・山科
 移転 天武天皇元年(672年) 藤原京(飛鳥)
 移転 和銅3年  (710年) 現在地に実質創建
 札所 西国三十三所9番(南円堂)
    南都七大寺2番
    西国薬師四十九霊場4番(東金堂)
    神仏霊場巡拝の道16番
    大和北部八十八ヶ所霊場 第62番(菩提院)
クリックすると拡大

最後に国宝館に行きました。国宝館は文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で1959年に食堂(じきどう)及び細殿(ほそどの)の跡地に建てられたそうです。鉄筋コンクリート構造ですが、外観は創建時の食堂を模したものになっているそうです。建物の地下には奈良時代以降の食堂の遺構がそのままの形で保存されているそうです。正面35.3m、奥行き31.8mの建物です。なお、興福寺に関する本や土産が売られている売店は国宝館の中の無料エリアにあります。
クリックすると拡大

こちらが拝観券(700円)です。実は東金堂との共通券(900円)がありましたが、東金堂の拝観券を買うときに気が付かなかったために個別に買うことになりました。国宝館の拝観券販売所では変更出来ないので、東金堂の拝観券販売所に戻って買いなおしてほしいと言われましたが、面倒なので個別券を購入いたしました。そのために一人100円高くなりました。拝観券に印刷されている仏像は教科書にもよく出てくる阿修羅像です。
クリックすると拡大

クリックすると拡大館内は写真撮影が禁止なだけではなくスケッチも許されないほど厳格でした。そのため雰囲気を紹介したくてネットの写真を転用されていただき紹介いたします。国宝館には有名で貴重な仏像が沢山展示されていて圧巻でした。中央には食堂の本尊であった高さ5.2mの千手観音立像が安置されています。主な国宝を紹介します。
 阿修羅像 (旧西金堂) ※1
 木造千手観音立像 (旧食堂)
 乾漆八部衆立像 8躯 (旧西金堂) ※1
 乾漆十大弟子立像 6躯 (旧西金堂)
 木造金剛力士立像 2躯 (旧西金堂)
 板彫十二神将像 (旧東金堂)
 銅造仏頭 (旧東金堂)
 木造天燈鬼立像 / 木造龍燈鬼立像 (旧西金堂)
※1:阿修羅像は乾漆八部衆立像 8躯(8体)の中の1躯(1体)です。


こちらが阿修羅像です。阿修羅像のすばらしさは、その表情に隠されていると言われています。阿修羅は帝釈天と戦った戦闘神ですが、元々は帝釈天と阿修羅は仲間でした。阿修羅の娘を帝釈天が力ずくで奪ったことから戦いが始まったそうです。何度も戦を挑んだことから、ついには仏世界から修羅道に追放されしまったそうです。そんな中でお釈迦様の説法を聞く機会があり、再び正義の神に戻ったそうです。像は三面六臂(さんめんろっぴ)と呼ばれる形式です。三面六臂は3つの顔と6つの腕をもつ意から一般的に1人で何人分かの働きをすることを表しています。作者を検索すると百済から渡来した仏師・将軍万福との記述が多く出てきます。興福寺のホームページによれば正倉院文書である西金堂造営記録「造仏所作物帳」に八部衆像や十大弟子像の作者が将軍万福(仏師)と秦牛養(画師)と書かれていました。仏師の将軍万福は百済からの渡来人で姓が「将軍」で名が「万福」です。画師の秦牛養は百済からの渡来人で姓が「秦」で名が「牛養」です。2011年4月25日の朝鮮新報によると天平6年5月1日(734年)に将軍万福が造像し、秦牛養が彩色したことも造仏所作物帳に書かれていたそうです。十大弟子像も八部衆像(阿修羅像含む)と同じ乾漆造です。
クリックするとWikipediaの写真を表示クリックすると拡大

阿修羅像が含まれる乾漆八部衆立像を紹介します。八部衆像は廃絶した西金堂に本尊釈迦三尊像を中心に梵天・帝釈天像、十大弟子像などと共に安置されていたそうです。現在は国宝館に展示されています。八部衆像は麻布を漆で貼り重ねた乾漆造で、いずれも1体が15 kg程度で度々の火災での焼失を免れた要因としてこの軽さが挙げられています。興福寺の八部衆が、五部浄沙羯羅鳩槃荼乾闥婆阿修羅迦楼羅緊那羅畢婆迦羅なのに対して、法華経や金光明最勝王経では、衆、衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆となっていて緑色の最初の3つが違います。左上から順番に次の通りで、いずれも奈良時代の制作です。数値は像の高さです。
 五部浄(ごぶじょう)  50.0cm
 沙羯羅(さから)   154.5cm
 鳩槃荼(くばんだ)  150.5cm
 乾闥婆(けんだつば) 148.0cm
 阿修羅(あしゅら)  153.4cm
 迦楼羅(かるら)   149.0cm
 緊那羅(きんなら)  152.4cm
 畢婆迦羅(ひばから) 155.4cm


将軍万福と秦牛養が造ったとされている十大弟子像も紹介します。名前の通り元は 10躯(10体)あったと思われますが、興福寺に現在あるのは下の写真の 6躯(6体)の十大弟子像です。経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるそうですが維摩経弟子品では次の通りで記載の順番は出家順です。興福寺での仏像の呼名を右側に書いています。丸の数字は写真の左からの順を表しています。十大弟子は釈迦の弟子達の中で主要な10人の弟子のため十大弟子はインド人ではありますが興福寺の十大弟子像は日本人の顔立ちです。
 釈迦の十大弟子(維摩経弟子品)    興福寺の十大弟子像(写真)
 舎利弗(しゃりほつ)         ① 舎利弗像(しゃしほつぞう)
 摩訶目犍連(まかもっけんれん)    ② 目犍連(もくけんれんぞう)
 摩訶迦葉(まかかしょう)        
 須菩提(しゅぼだい)         ③ 須菩提(すぼだいぞう)
 富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし) ④ 富楼那像(ふるなぞう)
 摩訶迦旃延(まかかせんねん)     ⑤ 迦旃延像(かせんえんぞう)
 阿那律(あなりつ)            
 優波離(うぱり)            
 羅睺羅(らごら)           ⑥ 羅睺羅像(らごらぞう)
 阿難陀(あなんだ)            木骨のみ(東京芸術大学)
クリックすると拡大

動画も公開されていたので紹介します。雰囲気がよく分かると思います。紹介されている仏像の何倍も展示されていました。


Google地図でも紹介します。紫色ライン(━━━)で囲ったエリアが興福寺の敷地です。エリアの外側を南側と東側と北側と4分の3周を廻ってみて広さを実感いたしました。航空写真上のアイコンマイナスをクリックすると広範囲表示になるので興福寺の全体エリアや近鉄奈良駅の場所が分かると思います。計3回クリックするとJR奈良駅との位置関係も判ると思います。航空写真の中に北円堂がありますが北円堂に関わる歴史ファンタジー小説をomachiさんから紹介していただきました。タイトルは「北円堂の秘密」で、その1からその18まで続く大作で、作者は大町阿礼さんです。
 本記事で紹介
 今回未紹介

nice!(108)  コメント(36)