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丹波篠山歴史美術館 第80回ハイク [兵庫県]

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第80回ハイクでの3つ目の訪問場所の武家屋敷・安間家を見た後、昼食をとって、お土産屋さんを廻って4つ目ので最後に向かったのが丹波篠山歴史博物館(丹波篠山市立歴史博物館)でした。上の写真は館内に展示されていた源氏物語絵巻の須磨・明石です。江戸時代に描かれた源氏物語の中でも、須磨・明石の絵巻は全国的に残っていない貴重なものだそうです。
クリックすると拡大 すでに紹介した第80回ハイクの記事
  篠山城
  丹波篠山デカンショ館
  安間家(武家屋敷)
  一休庵
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航空写真です。昼食をとったお蕎麦屋の一休庵を出た後、黒豆大福を買った大福堂に寄った後、丹波篠山歴史美術館に向かいました。本記事では丹波篠山歴史美術館( )を紹介したいと思いますが、大福堂( )を出発するところから記載いたします。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキング(2020年2月15日)での散策したルートです。クリックすると拡大
クリックすると拡大  丹波栗菓匠大福堂
  丹波篠山歴史博物館 SV
  春日神社バス停
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こちらが本記事の出発点である大福堂です。前記事で紹介した通り、ここで私の次の人で売れ切れた黒豆大福を買いました。
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右の小さな写真が大福堂から歴史美術館に向かって歩いている写真です。下の写真は歴史博物館の入口の門です。大福堂からこの門の写真を撮ったところまでの距離は98mでした。驚いたことに丹波篠山の歴史博物館は木造建物でした。それもかなり古くて歴史のありそうな建物でした。
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こちらが門を正面から撮った写真です。藩庁時代の門だそうです。門の右の柱にかけられている大きな表札には丹波篠山市立歴史美術館です。
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門をくぐると大きな木造の建物がありました。これが歴史美術館の本館の建物のようでした。美術館本館の建物は日本最古の木造裁判所「篠山地方裁判所」を使用されていたのです。篠山裁判所は篠山藩庁の建物を使用して明治3年(1870年)に発足しました。明治23年(1890年)に民・刑事の一審のみを 取り扱う地方裁判所になり、翌年の明治24年(1891年)に完成したのが、今回の歴史美術館の建物だったのです。裁判所としては1981年6月まで使用されていました。この建物を使って歴史美術館が開館したのは1982年4月でした。開館に当たっては建築物を解体せずに、そのままの状態で移動する曳家工法(ひきやこうほう)で建物の向きを90度回転させ従来の姿を残し、美術館にふさわしい内部を改装したそうです。
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門から建物入口までの間に石柱がたてられていました。石柱には「丹波篠山五十三次 篠山歴史美術館」と書かれていました。丹波篠山五十三次とは篠山町制100周年と篠山築城380年記念事業として社寺仏閣・歴史的遺産など95ヵ所を選定し、さらに53ヵ所を絞り込んで丹波篠山五十三次としたそうです。2つの事業は平成元年(1989年)から2ヵ年だそうです。平成元年頃はだったので多紀郡篠山町篠山歴史美術館と呼ばれていたのだと思います。篠山藩時代は多紀郡篠山(城下町)には篠山東新町、篠山西新町、篠山南新町、篠山北新町、篠山乾新町、篠山山内町、篠山河原町、篠山小川町、篠山立町、篠山呉服町、篠山二階町、篠山魚屋町、篠山西町が存在したそうです。歴史美術館があるのは現在の住所である丹波篠山市呉服町から、その時代の篠山呉服町と思われます。1889年の篠山町の発足は多紀郡篠山の上記の13町と黒岡村の飛地で構成されていたそうです。本歴史美術館は篠山町立歴史美術館(1982年)→篠山市立歴史美術館(1999年)→丹波篠山市立歴史美術館(2019年)と正式名は変わりました。
 篠山藩時代     丹波国多紀郡篠山(篠山藩の城下町)
 1870年(明治03年)      篠山裁判所発足(藩庁建物内)
 1971年07月14日  廃藩置県により篠山藩は篠山県となる
 1971年11月02日  篠山県は豊岡県に編入
 1876年08月22日  兵庫県多紀郡篠山 兵庫県の管轄となる
 1889年01月08日  兵庫県多紀郡篠山町発足 町村制の施行
 1891年(明治24年)      本建物が地方裁判所として完成
 1981年(昭和56年)      本建物での裁判所の90年の幕を閉じる
 1982年(昭和57年)      本建物が篠山町立歴史美術館として開館
 1999年04月01日  篠山市の発足 篠山町・今田町・丹南町・西紀町が合併
 2019年05月01日  篠山市→丹波篠山市へ改名
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建物から車寄せの屋根が飛び出しているところが歴史美術館の入口です。
 明治(1868年~1912年) 1891年 地方裁判所として建物完成 
 大正(1912年~1926年)
 昭和(1926年~1989年) 1982年 篠山町立歴史美術館として開館
 平成(1989年~2019年) 1999年 篠山市立歴史美術館となる
 令和(2019年~     ) 2019年 丹波篠山市立歴史美術館となる
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昔の裁判所前での記念写真を紹介します。この写真は建物の中の法廷の部屋に飾られていました。昭和10年代の写真だそうです。
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車寄せ部分の屋根の天井も趣きがありました。
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階段で高くなっていているところにつけられた入口は建物の大きさに比べて意外と小さかったです。これが明治24年の裁判所の入口だったのです。当時、どんな思いでこの入口をくぐったのだろうかと思ってしまいました。
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入口の上には篠山歴史美術館と現代とは反対の右から書かれた扁額が入口の上にありました。未確認ですが古さから見て開館当初の1982年に掛けられたように感じます。
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明治24年時の篠山裁判所の平面図です。左下の法廷と書かれている部屋は当時のままに保存されていて公開されています。他の部屋の間取りは当時のままでねそこに美術品なのが展示されていました。玄関を入って右に行き、左廻りに見学しました。法廷は写真撮影は許可されていますが、残念ながら法廷以外の場所では写真撮影は禁止されていました。
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美術品などの写真撮影は禁止されていたので、先ずは129年前の1891年当時の法廷を紹介したいと思います。右端が裁判官席で椅子が沢山並べられた左端が傍聴人席です。裁判官席の前の机が書記管席で、奥が検察管席で手前が弁護人席です。証人台でしようか、真ん中の半円上の立ち席が印象的でした。
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こちらが傍聴人心得です。
 傍聴人は法廷において次の事項を守らなければならない
 一、静粛を旨としけん騒にわたる行為をしないこと。
 一、不体裁な行状をしないこと。
 一、みだりに自席を離れないこと。
 一、裁判長の命じること及び裁判長の命を受けた裁判所職員の
   指示することに従うこと。               以上
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傍聴人席側の右端から撮った写真です。古い裁判所を見たのは2度目だと思います。初めて見たのはハワイのアリイオラニ・ハレ(Aliʻiōlani Hale)で、こちらは今も現役で使われていました。
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こちらが弁護人の席です。弁護人になったつもりで法廷内を見てください。対じする形で正面に検察管席があります。
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こちらが検察管席です。
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傍聴席です。
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こちらが書記官席です。
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法廷の最後の写真として裁判官側から撮った写真を紹介します。
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法廷室以外での写真は禁止されているため丹波篠山市立歴史美術館ブログや新聞社が公開している写真を転用させていただいて歴史美術館の雰囲気を紹介します。屏風や貴重な資料や巻物が展示されていました。この部屋と同じように別の部屋も展示室になっていました。別の部屋にあった長い巻物は特に興味深かったです。嬉しいことに展示物の説明をしていただきました。
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興味深い屏風も展示されていました。上の写真の正面に飾られている屏風がこちらです。歴史美術館の展示品は、篠山城主であった青山家の家蔵品を中心に城下町篠山に伝わる武具、漆芸、絵画、蒔絵のなどの美術品や、篠山藩の御用窯として開窯した王地山焼の名品の数々のほか、古代の埋蔵文化財が展示されています。
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掛け軸も沢山展示されていました。10秒ごとに画面が切り替わります。
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春日神社の祭礼で使われる懸装品なども掲載されていました。本しを中心に祭に関する貴重な資料を展示しております。本写真が掲載されていた丹波篠山市立歴史美術館ブログの記事のページはこちらです。→ポチッ
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いただいた資料の展示品の写真も紹介します。
屏風絵はどれも圧巻でした。こちらは東海道・中山道・甲州街道屏風です。江戸時代の主要な三街道の屏風で江戸から山科までの各地の名所・旧跡などが描かれていて当時の様子がわかります。ここでは全体の一部のみ掲載しています。
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こちらは源氏物語絵巻の須磨・明石です。篠山藩第12代藩主青山忠裕が、源氏物語中最も名文であるとされている須磨・明石の巻を後世に残すために、お抱えの狩野派絵師・栄保典繁(えいほ みちしげ)らに描かせた絵巻です。江戸時代に描かれた源氏物語の中でも、須磨・明石の絵巻は全国でも残存しておらず、人物や風景が細密に描かれた逸品(いっぴん)だそうです。須磨巻が三巻と明石巻が三巻の 計六巻が所蔵されているそうです。
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左は二十八間筋兜(にじゅうはちけんすじかぶと)で右は篠山藩主青山家の祖の忠勝所用の黒紅糸威大袖具足(くろべにいとおどしおおそでぐそく)です。


藩鎌で焼かれた王地山焼も展示されていました。王地山焼は江戸末期の文政年間に始まった篠山藩のお庭焼で、京焼の奥田潁川に師事した金古堂亀祐が指導に当たり、柳亀堂亀七などが活躍したそうです。1871年の廃藩とともに、わずか50年で廃窯となった吉ような焼きものです。
左は鶴形蓋物で右は燈籠です。灯籠は市指定文化財です。


左は金梨地葵唐草紋蒔絵御衛府太刀(きんなしじあおいからくさもんまきえごえふたち)で、右は七鈴鏡(しちけいきょう)です。七鈴鏡は市内の宝地山古墳群の2号墳から出土したもので、直径16.9cmで、縁に7個の鈴が付いていることから七鈴鏡と呼ばれているそうです。全国的に数例しか知られておらず兵庫県指定文化財になっています。
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クリックすると拡大いただいた丹波篠山歴史美術館の資料を紹介します。右の小さな画面は文化財の写真が載った裏面です。クリックすると両方共に特別に大きく拡大するように設定いたしました。
 名前 丹波篠山市立歴史博物館
 住所 兵庫県丹波篠山市呉服町53
 電話 079-552-0601
 時間 9:00~17:00
 休館 月曜日 年末年始 新型コロナによる臨時休館あり
 備考 無料ガイドあり 新型コロナにより20名の入館制限中
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見終わった後に案内いただいた歴史美術館の方に記念写真を沢山撮っていただきました。その中の一枚を紹介します。
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丹波篠山歴史博物館の見学が終わったのが15時28分でした。すぐに最寄のバス停・春日神社に向かいました。
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バス停の前に春日神社がありました。見学しようという話は出ませんでした。すでに、第80回ハイクの打ち上げ飲み会に気持ちが切り替わったからです。
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バスは1時間に2本しかないのですがタイミングよく15時35分のバスに乗れました。乗り遅れていたら16時5分まで待たなければなりませんでした。
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JR篠山口駅に向かっていくところです。
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篠山口駅に着いて打ち上げ飲み会が出来るところを探しましたが、残念ながら16時に開いているお店はなく、どこも開店は17時でした。
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とりあえず三田駅に行くことにしました。10名のメンバーの内5名は宝塚方面からJRで帰るのですが、5名は三田駅で神戸電鉄に乗り換えて神戸方面に帰るので、三田駅で飲み会を行うのが都合がよかったのです。篠山口16時08分発の大阪行き丹波快速に乗り三田駅に16時37分に着きました。問題は16時台に開いているお店があるかどうかでした。
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