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新年あけましておめでとうございます。2021年 元旦 [新年]


新年あけましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
幸多き一年となりますよう心からお祈りいたします。
2009年5月5日に最初の記事を掲載して、今回が12回目の正月となります。 昨年中も沢山のアクセスをしていただき、沢山のnice!を頂き、沢山のコメントを頂き、ありがとうございました。
2021年元旦

令和三年つまり2021年の最初の記事に選んだのが、山口県岩国の錦帯橋周辺と母の関わりです。こちらの写真は2020年12月23日の実家(兵庫県宝塚)からの日帰りの墓参り(山口県周防久保)の帰りに寄った岩国城です。母の実家が岩国であったこともあり錦帯橋には何度も来ていますが、錦帯橋を見下ろす山の上に建つ岩国城には初めて来たので2021年元旦の記事に岩国城の写真を掲載させていただきました。岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に毛利輝元の一族の吉川広家が築き始めた城です。山上の城は戦時の城で、麓(ふもと)にも住むための城(土居)が築かれました。麓(ふもと)の城(土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。土居は最終的に吉香公園となったことから叔父さん(母の弟)が通っていた岩国高等学校は麓の城址にあったことになります。
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錦帯橋の場所から見た岩国城です。山の上に小さく見えている建物が岩国城の天守閣です。現在の天守閣は絵図「天守構造図」を元に1962年3月21日に建てられました。鉄筋コンクリート構造であることから復興天守に分類されています。本来の天守台は約30m離れた本丸北側でしたが、下からの見栄えを重視して現在の位置に建設されたそうです。本写真は岩国城の形がしっかりと確認できるようにクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。錦帯橋と岩国城の両方を堪能していただきたいと思います。
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こちらが岩国城の天守閣から見た景色です。写真の中心あたりに1673年に作られた錦帯橋があります。実は岩国城から見た景色の中には母と縁が深い場所があるのです。こちらの写真もクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。
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錦帯橋が写ったこの写真の中に母が通っていた女学校(山口懸立岩國高等女學校)とクリックすると拡大叔父さん(母の弟)が通っていた高等学校(山口懸立岩國高等學校)がありました。それは女学校跡地と岩国高等学校跡地と書いている場所です。現在の女学校跡地は川西第一街公園となり、クリックすると拡大岩国高等学校跡地は吉香公園となっています。右の2枚の写真は現在の川西第一街公園です。母たちは、家のあった岩国の町から毎日片道4km(往復8km)を歩いて通っていました。118年と173年の長い歴史のある女学校と岩国高等学校の2つの学校は統合して、いろんな変遷を経て現在は川西駅のさらに向こう側に山口県立岩国高等学校として存在しています。
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母の女学校時代の錦帯橋をバックにした友達同士の記念写真です。右から2人目が女学校時代の母です。女学校には2年生の時に広島県三原から転入したそうです。父親が一時期三原に転勤していて2年生の時に岩国に戻ってきたとのことでした。3年生からは級長もしていたということなので、すぐに女学校になじんだのだと思います。母の出身校である山口懸立岩國高等女學校出身で最も有名な人は右下の写真の宇野千代(1897年11月28日~1996年6月10日)さんだと母が話してくれました。クリックすると拡大多才な小説家で4度結婚(藤村亮一、藤村忠、尾崎士郎、北原武夫)するなど多くの著名人との恋愛・結婚遍歴も有名で一度は卒業名簿から除名されましたが、世の中の価値観が変わってくるとともに積極的に宇野千代の出身校であることを宣伝されるようになったそうです。小説家だけでなく随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持っていました。
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クリックすると拡大母に関わる7枚の写真を切り替えて表示しています。その中の2枚の大人数の集合写真は女学校の構内での写真なので、今は無き女学校の建物が写った貴重な写真なのです。学校は木造瓦葺きの歴史がありそうな建物であったことが判ります。母が判るように黄色の矢印をつけています。4年生の時は梅組と桜組と楓組の3組あり、クリックすると拡大母は梅組だったそうです。右の「4年 梅組」の文字は集合写真の裏に書かれていました。
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かつて山口懸立岩國高等女學校があった川西第一街区公園のストリートビュー(SV)を紹介します。クリックすると拡大個人の井上一雄さんがGoogle地図に登録したSVです。公園の中心から撮った数枚の写真を組み合わせて360°の景色が見えるように作られています。初期画面は山口懸立岩國高等女學校と書かれた石碑がある南東方向です。水平に回転させて西方向にすると女學校の門と思われる2本の石柱が右下の写真のように確認できます。
クリックすると拡大母が写った右上の集合写真に写っている石柱と同じものかはわかりませんが似た石柱です。母の記憶によれば岩徳線に近い方(南東方向)にグランドがあり、遠い方向(北西方向)に校舎が沢山建っていたそうです。


クリックすると拡大母が通学で錦川を渡ったのが臥龍橋だそうです。当時のままかどうかを判りませんが、当時もコンクリート製の橋だったそうです。明治のころは右の写真のように木造製(橋脚はコンクリート)だったようです。右の写真はネットから転用させていただきました。
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叔父さん(母の弟)が通っていたころの山口懸立岩國高等學校の跡地は吉香公園になっています。1602年には麓(ふもと)の城(土居)が建てられた場所であることから、岩国城(麓の城)→山口懸立岩國高等學校→吉香公園と変遷したことになります。現在の山口県立岩国高等学校は、1847年(弘化4年)に創立された岩国藩(長州藩の支藩)の藩校「養老館」の流れをくむ旧制中学校から名前が変わった男子校の山口県立岩国高等学校(叔父さんが通っていた学校)と、1902年(明治35年)創立の高等女学校である山口県立岩国高等女学校(母が通っていた女学校)を前身としています。この吉香公園には岩国城の土居(麓の住居用の城)が1601~1602年に築城され、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、石垣が使われた公園なのは城(土居)を意識して造られたのかもしれません。
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位置関係をGoogle地図に書き込みました。墓参りをした後、周防久保駅ら岩徳線に乗って地図の中の川西駅( )で降りて岩国城ロープウェイの山麓駅まで青色ラインを歩きました。途中で臥龍橋(がりゅうばし)と錦帯橋(きんたいきょう)を渡りました。川西駅から岩国城までのルートの景観に関しては後日に詳しく紹介したいと思っています。岩国国際観光ホテルは母の実家が近いことから泊まったのは1度だけですが法事を2度行った上に、最近では右下の写真のような四川料理を2度食べました。
 山口懸立岩國高等女學校跡地 川西第一街区公園
 山口懸立岩國高等學校跡地  吉香公園
 現在の山口県立岩国高等学校
 川西駅 JR岩徳線
クリックすると拡大 錦帯橋
 食事処 むさし
 ロープウェイの山麓駅と山上駅
 岩国城 天守閣
 吉香神社
 岩国国際観光ホテル
 新岩国駅
 ━━ ロープウェイ


新岩国駅( )も入れた航空写真です。元々は錦帯橋から新岩国駅までバスで移動するつもりでしたが、新岩国の新幹線は1時間に1本であることからタイミング的にタクシーに乗ると1時間早い新幹線に乗れる可能性があったことから、岩国国際観光ホテルまで行きタクシーを呼んでいただき新岩国駅まで行きました。クリックすると拡大予想した通りほとんど待ち時間なしで1時間早い新幹線で実家に帰ることが出来ました。今回も広島駅で乗り換える時間を利用して、前回の時と同じように夕飯用の穴子めしと広島流お好み焼きを買いました。それ以外に広島菜の漬物ともみじ饅頭も買いました。

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