武家屋敷 旧目加田家住宅 [山口県]
2021年11月21日更新 タイトル:旧目加田家住宅の2度目の訪問
前記事で紹介した白山比咩神社の次は、2020年12月に一度訪問したことがある武家屋敷である旧目加田家住宅に来てみました。2020年12月の時は岩国城の天守間に登るために時間的制約からあまり時間をさけなかったことから十分に見れなかったので、今回はじっくりと見ることにしました。上の写真は白山比咩神社方面から来た場合の入口です。前回はこちらから出て岩国城の天守閣が建つ山に登るロープウェイに乘りました。
この門の内側の庭のエリアには前回は入らなかったのです。最後の部分に追加いたします。またそれ以外に撮った写真は前回の記事の途中に差し込みます。その写真には<追加>と記載いたします。
2021年02月17日掲載 タイトル:武家屋敷 旧目加田家住宅
年末の記事「岩徳線の川西駅から岩国城までの景色」の中で触れた錦帯橋の近くの吉香公園に建っている武家屋敷(国指定重要文化財)を紹介したいと思います。吉香公園は岩国城の土居(麓の城)で、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、その吉香公園の場所に建っていた武家屋敷であることから、上位の武士の屋敷であったと想像されます。文化財の名称は旧目加田家住宅です。目加田は「めかだ」と読みます。
旧目加田家住宅の説明板があったので紹介します。武家屋敷は全国に沢山ありますが、多くが下級武士のものが多いのが私の印象です。この武家屋敷は百七十石の中級武家の住宅で全国的にも珍しいことから国の重要文化財に指定されたのだと思います。
国指定重要文化財 旧目加田家住宅 指定年月日 昭和49年2月5日旧目加田家は、近江国愛知郡の出身で、天正年間に吉川元春に召し抱えられ、吉川広家が慶長5年(1000)関ケ原の戦いの後、出雲国富田から岩国に移封された時に広家に従ってこの地に移り住んだ。江戸時代中頃の屋敷割図によると、既に現在地に住居が構えており、文政の頃には御用人役を勤めて知行百七十石取りであったことが御家中系図に記録されている。この住宅は18世紀後半の建築と推定され、中級武家の住宅としては全国でも数少ない遺構の一つとして、昭和49年2月5日重要文化財に指定された。
建物は入母屋作り、浅瓦葺きで、土間側面を除いて三方に庇(ひさし)を巡らし、南西に面して建つ。間取は正面に式台付の玄関の間を設け、向って右に仲間部屋、左に表座敷2間を配している。仲間部屋の裏の土間で平常の出入口とし、続いて中の間、台所、板の間等を設け、表座敷の背後には中廊下をはさんで裏座敷3間を配し、裏座敷上部には屋根裏部屋が設けてある。総体的に木割が細く、松を主材とし簡素ではあるが隅々まで端正な構えを見せている。なお、筋葺きに用いられている特殊な形の浅瓦は「両袖瓦」と呼ばれ、この城下町西岩国地区に集中してみられる地方色として注目される。
建築後、およそ200年を経て建物は全体に緩みをきたしたほか、数回に及ぶ床下浸水による腐朽に加え、蟻害も広範囲に及んでいたため、昭和50年10月から解体修理工事を起し、同53年12月に竣工した。修繕に当たっては、できるだけ古材の再用に務め、やむを得ず取り換えを必要としたものは同種材をもって補足し、形式、工法等は従来の技法を踏襲とて、当初の姿に復旧した。
平成31年1月 岩国教育委員会
ネットから目加田家住宅の平面図を転用させていただきました。この図を見ながら上の説明を読むと部屋の配置がよく分かると思います。旧目加田家住宅で風呂が置かれていた場所が気になるところですが、湯殿などの記述がありません。170石の武家の家なので風呂はあったと思います。他の武家屋敷では1畳程度の土間がある部屋に風呂が置かれていることから、風呂が置ける場所の候補としては、建物の最も右上の1畳半の部屋か、厠の「たたき」か、台所の横の板の間か土間などです。右の写真は参考として掲載させていただいた千葉県の佐倉藩の300石の武家屋敷の風呂(湯殿)です。ちなみに佐倉藩の150石と50石の武家屋敷の平面図には湯殿はありませんでした。西日本の風呂と言えば五右衛門風呂が有名ですが、江戸時代は鉄は貴重であったことから全鉄製の五右衛門風呂は高価で、まだまだ普及はしていなかったようです。
3間の裏座敷側からの写真です。障子があるのが裏座敷です。左から4畳、8畳、3畳の裏座敷です。右端の建物が厠(かわや/便所)です。上の平面図の左上(北北東)から撮った写真です。
今回は厠の写真を撮りました。 <追加>
裏座敷を大きく撮った写真も紹介します。平屋の建物のように見えますが、裏座敷の上に中二階があります。その中二階の窓が写真から分かると思います。
上で紹介の平面図をクリックすると中二階の位置を赤色で書いた平面図を表示します。
平面図の右下(南)方向から撮った写真です。一番手前に3畳の仲間部屋があり、その左側の凹んだ部分が脇玄関で、脇玄関の左側に式台のある玄関の間があります。
前回掲載した時の冒頭の写真に写っている「建物について」と「両袖瓦について」の説明板を紹介します。クリックすると読める大きさに拡大いたします。右の写真は両袖瓦の説明板の中にある写真と同じ位置を撮った写真です。ただし、撮った角度と範囲は少し違います。右の写真も拡大します。 <追加>
前回は撮っていない角度からの写真を紹介します。
右端に井戸があります。 <追加>
井戸を単独で撮りました。 <追加>
井戸の石組も見事でした。 <追加>
少し離れた位置からの全景の写真を紹介します。 <追加>
こちらが玄関の間です。玄関の間の奥に中二階に上がる階段が写っています。その奥に裏座敷を見ることが出来ます。
二階への上り階段の下の2段はには引き出しが付いていました。 <追加>
遠くから式台のある玄関の間を正面に撮りました。今までに掲載した武家屋敷が下記です。170石は米俵が約425俵に相当します。着色文字をクリックすると記事を表示します。
千葉県 佐倉 佐倉の武家屋敷 3軒 300石 150石 50石
兵庫県 丹波篠山 丹波篠山の御徒士町と武家屋敷 高12石+3人扶持
山口県 岩国 旧目加田家住宅 170石
岩国市公式観光Webサイトに目加田家住宅の30秒の動画があったので掲載させていただきました。
Googleマップの航空写真に目加田家住宅を書き込みました。橙色の枠が目加田家住宅の敷地で、臙脂色の部分が武家屋敷の建物を示しています。青色のラインが岩徳線の川西駅から岩国城に上がるロープウェイの山麓駅までの散策ルートです。シロヘビ館や鵜の里(鵜飼育施設)の隣りにあるので、錦帯橋から少し足を延ばす価値があると思います。黄色のラインが2021年11月の更新で紹介した初めて庭のエリアに入ったルートです。
岩国徴古館で保管されていた古地図「旧岩国城下図(横山)」に目加田家が記載されているので紹介します。作製年は不明だそうですが、岩国城の御土居(麓の城)のところに御城跡と書かれていることから明治維新から1884年(明治17年))の間の可能性が高いように感じます。 明治17年に御土居(居館)跡に吉香神社が建てられたからで、もし明治17年以降であれば御城跡ではなく吉香神社と書かれていると思われるからです。本地図をクリックすると広い範囲の大きな地図を表示します。今回の武家屋敷が城のそばであったことが本地図でも判りました。
目加田家あたりを拡大いたしました。「目加田」の文字が読めると思います。目加田の後ろの一文字は名前と思われますが、折り目部分で滲んでいるために現時点では読み取れていませんが、我家で検討した結果の名前の第一候補は甫(はじめ)です。もし名前が正しいとすれば古地図が描かれた時の主の氏名は目加田甫(めかだ はじめ)ということになります。下の古地図の右端の大きな文字は御城跡です。御城跡と書かれている場所は現在は吉香神社となっています。ホリ(堀)は現在も同じ配置で存在しています。
古地図のオリジナルはこちらです。→ポチッ
Google地図の航空写真と同じように北が上になるように回転した古地図です。
上の回転させた古地図に近い範囲を表示させたGoogleマップです。本地図で堀が昔のままだあることが分かっていただけると思います。右の小さな写真は堀の写真で、堀の写真の中の建物は錦雲閣です。
初めて入った庭の部分の写真をこの下に追加します。ここから下の写真は全て今回(2021年11月)に追加したものなので<追加>は省略いたしました。
この写真の中の小さな門から庭に入りました。
こちらがその門です。飛び石が門から続いているのが判っていただけると思います。
庭に入る門の位置から撮った景色です。家の中からの庭の景色が想像されます。
こちらが庭の写真です。
庭の方から建物を撮った写真です。広い縁側部分が印象的でした。右側の部屋が次の間で、左側の部屋が表座敷です。次の間も表座敷も客用の部屋です。つまり客用の部屋の前に手入れされた庭があったようです。
部屋についての説明板がありました。1977年と1978年の修理の時に改築されていた部分を建設当時の間取りに復元したそうです。説明内容を枠内に転記いたします。
部屋について旧目加田家住宅の内部には様々な部屋があり江戸時代岩国の武家住宅の様相を残しています。昭和49年(1974)に国重要文化財の指定を受けた後、昭和52年(1977) 53年(1978)の修理によって、これまでに改築がなされた部分を建設当時の間取りに復元しています。
座敷は客を迎え入れる表座敷と家族が利用する裏座敷があり、表座敷の前には次の間と呼ばれる控えの部屋があります。
このほかにも、台所や、主人の身の回りの世話をする中間(ちゅうげん)がつめる中間部屋などがあります。
庭のコーナー(西方向)からの建物の全景写真です。
厠(かわや/便所)につながる廊下がよくわかります。
目加田家に関する説明板も紹介します。これに寄れは目加田家は元々は近江国愛知郡(滋賀県愛知郡愛荘町)の出身だそうです。その出身地の滋賀県愛知郡愛荘町に今も残されている目賀田城跡の写真が掲載されていました。ネットでの目賀田城の説明では目加田城とも記載されていました。岩国に関する記述も出てきました。目賀田家(目加田家)は分家も多くあったと書かれていたことからその中の一つではないかと想像されます。説明内容を枠内に転記いたしました。
目加田家について目加田家は元々、近江国愛知郡(滋賀県愛知郡愛荘町)出身の豪族です。天正年間(1573-93)に吉川元春に仕え、関ヶ原の合戦後、吉川広家に従って出雲国富田(島根県安来市)より岩国に移り、以降吉川氏の家臣として明治まで仕えます。屋敷地は江戸中期の屋敷割図によると現在地のままであり、この地で続いていたことが伺えます。
吉川氏の家臣達の系図を編纂した「御家中系図」によると、天保年間(1831-45)は御用人役と呼ばれる藩の政策を審議する役所の政務官を勤め、知行(武士の身分に与えられる俸禄)は170石でした。
目賀田城跡(滋賀県愛知郡愛荘町教育委員会提供)
以前に紹介しましたが建物は一見は平屋に見えますが、2階建であることはこの角度の写真だと良く分かると思います。右の写真の2階部屋は洪水の時の避難場所として設けられたと考えられています。数回の床下浸水は記録されているようです。
敷地外からの旧目加田家住宅の景観を紹介するためにGoogleのストリートビューSV)を掲載させていただきました。このSVは真下を是非とも見てほしいです。画面を真上にスクロールすると真下が見れます。
白山比咩神社 岩国 [山口県]
シロヘビ館の次に訪れたのは白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)です。本記事では白山比咩神社を紹介したいと思います。敷地内の建物の配置をGoogle地図の航空写真で紹介します。
A 一の鳥居
B 手水舎
C 錦川水神社
D 桜門
E 白山比咩神社 拝殿
F 御霊神社 拝殿
G 御霊神社 本殿
H 倉庫 ?
I 白山比咩神社 本殿
水色のラインが白山比咩神社境内の散策ルートです。錦帯橋の右岸側から一の鳥居までの距離は徒歩で約500mで、左岸側からだと約710mです。錦帯橋の左岸からだと錦帯橋を渡ることになります。
こちらが白山比咩神社の一の鳥居(A)です。鳥居の正面に見えているのが手水舎です。本写真をクリックすると全体の写真を特別に大きく(面積で16倍に)拡大するように設定させていただいたので、手水舎も確認できると思います。
上の写真の右端に写っている説明版です。説明の内容を転記する形で枠内に紹介します。説明文では現在の社殿は1897年に建てられたものと書かれていますが、社殿の中で一番大きな建物の拝殿は2004年5月13日に火災により焼失したことから、2005年12月に再建された建物です。
しら やま ひ め じん じゃ白山比咩神社この神社は白山比咩神社(別命菊理媛の命)大己貴の命(大国主命の別命)を祭っている。創建年代は明らかでないが、伝えられるところによると、加賀国(石川県白山神社の分霊を移し祭ったものという。永興寺伝記によればもとこの社は永興寺の鎮守社であったと記してあり、永興寺所蔵の神輿には永禄二年(一五五九年)正月の字が刻まれている。萩の近藤清石の風土記によれと、鎮守云々は誤りで一時永興寺僧徒の奉仕したことが推し図られるとしている。
社前の石鳥居は元禄七年(一六九四年)吉川広紀(第四藩主)のご寄進で石柱に宇都宮遯庵(漢学者)の碑文がある。享保十二年(一七二七年)に再建された大規模の社殿は明治二十三年(一八九〇年)に焼失した。現在の建物は明治三十一年二月(一八九八年)に完成したものである。
鳥居の正面に見えた手水舎(B)です。ここを右に曲がると神社の拝殿や本殿に進みます。
手水舎を拡大いたしました。
手水舎の水盤を拡大いたしました。正面に取り付けられている紋は岩国藩の藩主の吉川家の家紋です。
右の大きい方の写真は下の写真から家紋の部分を切り取ったものです。クリックすると拡大いたします。
手水舎の前から進行方向を見た写真です。正面に見えているのは錦川水神社(C)で、左に見えている建物は白山比咩神社の社殿入口の楼門です。
こちらが錦川水神社(C)です。右の石柱には恭仰神徳と書かれていて、左の石柱には揁謝水恩と書かれています。左の揁謝水恩は水の恵みに感謝する意味だと思われます。恭仰神徳は神に敬意表す言葉のようです。ちなみに8月には錦川の豊かな恵みに感謝する祭である水恩感謝祭が行われるそうです。
錦川水神社の本殿です。御祭神は弥都波能売神(みづはのめのかみ)です。
真横から見た錦川水神社の本殿です。
錦川水神社の由来の説明板です。転記する形で枠内に説明内容を紹介します。
錦川水神社
御祭神 弥都波能売神(みづはのめのかみ)
岩国市を貫流する錦川は古代より優れた水質と豊富な水量によって近代産業誘致の原動力となり一面天下の奇橋錦帯橋によって観光面に於いても岩国市今 日の繁栄をもたらしたものであるが近来世情一般に動もすれば此の偉大な水恩に対する感謝の念薄れつつ有るを愁へ岩国市観光協会会長坂井正夫氏が発起して神社を建立して永々錦川の守護神として崇め水恩に感謝すると共に岩国市永遠の発展を祈念すべし昭和四十九年十一月十日竣工せしものにて偶々前年第六十回伊勢神宮式年御遷宮に際会し神宮の古材の一部の御分譲を得て当白山比咩神社境内に建立せしもので有ります。 以上
錦川水神社から見た白山比咩神社の桜門です。
白山比咩神社の社殿の門の桜門(D)です。これより内側が社殿です。
桜門を拡大いたしました。
門には見事な龍の彫り物がありました。
門から見た拝殿(E)です。
左の石柱は瑞拱紅雲日月光と書かれていて右の石柱には祥開黄道乾坤潤と書かれています。
石柱の注連縄をくぐって撮った拝殿です。祭神に関してはサイトによって祭神1と祭神2の記載がありました。大己貴神および大己貴命は、有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)のことです。古事記に記される因幡の白兎の神話に大国主命が登場するのは有名な話です。
名称 白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)
住所 山口県岩国市横山2丁目8-10 旧周防国 玖珂郡
祭神1 白山比咩神 (しらやまひめのかみ)
大己貴神 (おおなむちのかみ)
祭神2 菊理媛命 (きくりひめのみこと)
小白山比咩命(こしらやまひめにみこと)
大己貴命 (おおむなちのみこと)大国主命
SV https://goo.gl/maps/9vedyiS8mVP2EXoG8
拡大した拝殿の写真を掲載しました。拝殿の後ろには本殿があります。こちらの写真をクリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
右は青木哥彦が描いた白山比咩神です。神社の名前になっている祭神である白山比咩神は菊理媛神と同一神とされていて、古事記には記載されていませんが日本書紀の一書(第十)に一度のみ出てくる神(命)です。記載の原文を枠内に記載します。白山比咩神(菊理媛神)のことはほとんどわかっていませんが、伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされているそうです。
及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。 時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。 是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。
拝殿の前には立派な青銅製の灯篭がありました。こちらの写真もクリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
斜め方向から撮った拝殿です。
参拝のしかたの説明板がありました。神拝詞(となえことば)が書かれているのは珍しいので写真に撮りました。
拝殿の後ろには本殿(I)があります。左の建物が拝殿と社務所です。
本殿には近づけないので写真を拡大いたしました。
拝殿の横には湧き水が流れ出るところがありました。
湧き水はこちの溝を流れて最終的には錦川に流れていくのだと思います。さすが境内に錦川水神社があるだけのことはあります。
こちらは白山比咩神社の拝殿の横にあった御霊神社です。こちらの建物は御霊神社の拝殿(F)で後ろに本殿がありました。御霊神社には鎌倉権五郎命を祀っているそうです。
こちらが御霊神社の本殿(G)です。由来は調べ切れていませんが、立派な本殿を持つ神社でした。
謎の建物の前に対の四角い石灯篭が置かれていました。
こちらが謎の建物(H)です。倉庫のようにも感じる建物がネットで見てもわかりませんでした。
以前の記事で紹介したように1884年(明治17年)に建立された吉香神社の社殿(本殿、拝殿、神門など)は白山比咩神社内に吉川興経を祀る治功大明神として1728年(享保18年)に造営されたものを1884年(明治17年)に移築に近い形で建立されたそうです。つまり1728年~1884年にはこちらの社殿は白山比咩神社の境内にあったことになります。
古地図(作製年不明)の中に白山社と書かれているのが、白山比咩神社です。この時は吉香神社の文字はなく御城跡と書かれていることから白山比咩神社は吉香神社より前からあったことが判ります。白山社の文字の左側に治功社の文字が読み取れます。吉香神社は明治5年に吉川家の氏神社3社(治功社、高秀社、鎮昭社)を統合した神社だそうです。今は治功社の鳥居が建っていたあたりに柏原美術館(2020年10月1日に岩国美術館から改称)が建っています。ネットで調べてみると明治4年の廃藩置県の後、吉川経健は東京移住を命ぜられたときに治功社と高秀社と鎮昭社は廃社となる筈ででしたが岩国城下の旧士民が吉川家に請うて、高秀社と鎮昭社の二社を治功社に併合して、明治6年に吉香神社と号したそうです。さらに明治18年4月(1885年)に白山神社境内から治功社(吉香神社)が居館跡(御城跡)に移転したことが判りました。岩国藩藩主の吉川家は藤原氏南家の支流で駿河国入江庄に住んで入江氏を称した維清3代の孫、入江景義の嫡男経義が寿永・文治の頃(1183~86)入江庄吉川(静岡県清水市)に居館を構え、吉川と称したのが始まりだそうです。
白山比咩神社を広い範囲の地図で紹介したいと思います。赤色マーク( )は私が3歳から10歳(少学4年)まで住んでいた場所(井口)です。通っていた幼稚園は聖モニカ幼稚園で、小学校は広島市立井口小学校でした。今は大きな小学校のようですが私が通っていた頃は1学年が1クラスでした。私のクラスは34人だったので全校生徒数は約200人の規模でした。0歳~2歳までは兵庫県に住んでいました。10歳~36歳までは主に兵庫県に住んでいて、その後は千葉県に住んでいます。
獅子として生きる アニメーション作家グループZENTOY(ゼントイ)を応援しています。 ライオンこぶたのベンジャミン [話題]
上の動画の名前は「獅子として生きる」です。主人公の子ブタ「ベンジャミン」は大富豪の家で暮らしていましたが、ひょんなことからアフリカのサバンナで、ライオンとして生きていく物語です。
2015年9月のオタワ国際アニメーション映画祭の子供向け短編映画部門で準グランプリに選ばれた作品でもあります。右の小さな写真が表彰式のためにカナダのオタワに到着したZENTOY(ゼントイ)のメンバーの写真です。小さな写真をクリックすると詳しい説明の記事を表示します。
興味がある方は是非とも上の動画のプレーボタン( ► )をクリックしてみてください。途中からの表示ですが、終わると動画の頭から表示します。
ZENTOYの名前の由来は「禅」+「TOY」からきているそうです。
我が家ではアニメーション作家グループのZENTOY(ゼントイ)を応援しています。
ということで家にはライオンとして生きるベンジャミンのマグカップがあります。マグカップ名は「獅子として生きる」ベンジャミン thank youです。右のアニメーションGIFはホームページから転用させていただきました。
さらに写真の絵本もあります。
本のタイトルは「ライオンこぶたのベンジャミン/みんなと ちがっても だいじょうブヒ!」です。
海外のサイトでも売られていました。→ベルギー(België)
3つのプレーボタン( ► )を連続クリックしてみてください。同時に見ることが出来ます。映画などのVFX(CGなど)の指導(スパーバイザー)なども行っているようです。最近のクライアント(Client)に対する活動はこちらです。→ポチッ
ルパンの娘劇場版 ライオンライフ フルーツバスケット
シロヘビ館 白へびの赤ちゃん「ラブちゃん」 [山口県]
以前に錦帯橋に来た時に、シロヘビ館を新しく(リニューアル)するために、仮設のシロヘビ観覧所がソフトクリーム店の前に作られていたので、子供の時以来初めてシロヘビを見たことを報告させていただいたことがあります。その仮設シロヘビ観覧所でシロヘビを2015年12月26日に見て以来、リニューアルされたシロヘビ館を訪れたいと思っていました。5年半以上経ちましたが、やっと今回2021年9月18日に実現させることが出来ました。上の写真は2020年10月31日に生まれたばかりの白ヘビの赤ちゃんです。手のひらに乗っているので大きさが判ってもらえると思います。この写真が載ったパネルが掲載されていたので、そのパネルを撮った写真から切り取りました。これが白ヘビなのかと思われる方がおられると思いますが、生まれたばかりの赤ちゃんは皮膚が薄く毛細血管が透けることからオレンジ色の模様が浮き上がって見えるそうです。成長して大きくなると模様がなくなり、右の写真のように白色かクリーム色になります。名前はラブちゃんです。頭の額にハートマークがあったことから命名されたそうです。あとでラブちゃんの今の姿を紹介したいと思います。頭の模様はいろんな形が現れるそうですがハート型は珍しいそうです。
シロヘビ館を最初に入った部屋の展示物です。江戸時代の白へびと人々の関りを表したものです。岩国ではネズミなどを捕ってくれる白へびを大切にしていたのです。
展示されていた古地図に米蔵の場所が書かれていたことから上の写真は、その米蔵を再現したものなのかもしれません。
入口て写真のタッチペンが渡されました。このタッチペンで展示物の操作を行うことが出来るのです。主に子供たちが興味深くタッチペンで操作していました。指でも操作できるのですが、新型コロナ対策として消毒したタッチペンを渡しているのだと感じました。
展示物の一部を紹介します。細長いものは脱皮したヘビの皮です。
こちらがガラス張りのシロヘビの展示室です。多くのシロヘビは岩の下にいるのですが表に出てきていたのは1匹でした。左端に見える円筒状のケースには冒頭で紹介したシロヘビの赤ちゃんのラブちゃんが入っています。ただし、生まれて11ケ月経つのでオレンジ色の模様はありませんでしたが、体は小さな赤ちゃんヘビでした。
上のシロヘビも岩の下に入っていきました。爬虫類の4目の中でヘビが属する有鱗目は7160以上の種がいる最大のグループで、その中のヘビ亜目(ヘビ)は3000以上の種がいます。右の写真が旭山動物園のアオダイショウです。岩国のシロヘビ(白蛇)はアオダイショウが白化したヘビです。
カメ目 Testudines 約500種
ムカシトカゲ目 Sphenodontia 2種のみ
ワニ目 Crocodilia 23種
有鱗目 Squamata
トカゲ亜目 Sauria 4000種以上
ヘビ亜目(ヘビ) Serpentes 3000種以上
ミミズトカゲ亜目 Amphisbaenia 約160種
岩の下に沢山のシロヘビがいました。
こちらがラブちゃんが入ったケースです。真ん中に大きな拡大鏡になっていますが、ラブちゃんは地面にいました。
こちらが現在のラブちゃんです。オレンジ色の縞模様は少なくなっていました。ハートマークまでは確認できませんでした。ネットで確認した結果、2021年3月3日の時点ではハートマークが確認できました。
ハートマークの赤ちゃんシロヘビのラブちゃんの説明を紹介します。枠内が転記した内容です。
ラブちゃん 恋愛の神様の使い!?
シロヘビの赤ちゃんにロマンチックなハートマークを発見!!
このようにハートに見えるものは、飼育員でもめったに見ることが出来ません。拝めば、ラブ運上昇かも!!
シロヘビの赤ちゃんは皮膚が薄いのでオレンジ色の模様であることの説明が書かれていました。
生まれた時はオレンジ色
赤ちゃんは皮膚が薄く毛細血管が透けるため、オレンジ色に見えます。特に頭部にはいろんな形の模様を見ることができます。
しかし、成長すると模様は次第に消えていきます。大人になる頃には、体の色は白色またはクリーム色になります。
シロヘビ館の外観を撮り忘れていたのでストリートビューを掲載させていただきました。
航空写真で見たシロヘビ館です。右斜め下方向が前記事で紹介した鵜飼育施設(吉香 鵜の里)です。
錦帯橋のシロヘビ館を紹介した30秒の動画がネットにあったので掲載させていただきました。サイトの名前はやまぐち映像図鑑です。
以前に掲載したシロヘビの記事「岩国のシロヘビ 天然記念物」を紹介します。
鵜飼育施設「吉香 鵜の里」 吉香公園 [山口県]
岩国高校記念館の次に訪れたのは鵜飼育施設(う しいく しせつ)「吉香 鵜の里(きっこう う の さと)」です。案内板の左後ろある建物が鵜の飼育施設です。錦帯橋の鵜飼」は、日本三名橋の一つ「錦帯橋」を背景に清流錦川で行われます。錦帯橋の鵜飼の起源は古く、今から約380年前と言われているそうです。長い歴史の中で一時中断していましたが、1952年に復興され現在に至っているそうです。
フリー百科事典のWikipediaによれば、鵜飼い・鵜飼・鵜養は飼いならした鵜(ウ)を使ってアユなどを獲る伝統的な漁法です。中国や日本などにみられる漁法ですが、日本では平安時代から貴族や武士などが鵜飼見物を行ってきた歴史があり、現代でも各地で観光としての鵜飼が行われています。一方、ヨーロッパでは16世紀から17世紀の間はスポーツとして行われたそうです。
書物以外の日本での鵜飼に関する物証としては、5〜6世紀に築造されたとされる群馬県の保渡田八幡塚古墳から、頸に紐を巻きつけ嘴には魚をくわえた形状で鵜飼の様子を表現した「鵜形埴輪」が出土したそうです。
こちらが右の写真の錦帯橋のそばで行われる鵜飼(うかい)に使われる鵜の飼育施設です。吉香・鵜の里の施設は鵜飼育施設と左後ろの建物の鵜飼に関する展示施設です。吉香・鵜の里は吉香公園の施設の一つで無料です。と言ってもシロヘビ館や美術館以外のほとんどが無料です。
こちらの施設は鵜飼(うかい)で使われる鵜(う)を間近で見ることが出来るのが特徴です。日本の鵜飼いは中国からもたらされたと思っていましたが、隋書に倭国(日本)の鵜飼いが書かれた時代(600年)には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法で、その後に中国においても鵜飼い漁法が定着したそうです。
中国の史書「隋書」の開皇二十年(600年)の条の記載内容は、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として「以小環挂鸕鷀項 令入水捕魚 日得百餘頭 (小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る)」だそうです。つまり、鵜飼は世界に誇れるユニークな漁法と言えます。
中央の金網に近いところに水槽があり、よく泳いでいました。時々羽を広げで羽ばたくので写真のように金網の外まで水が飛んでくるので注意してください。見ている間に4~5回は水をかけられました。
水槽の横はガラスになっていて水中を潜って泳ぐ姿も見ることが出来ます。日本に生息しているウ科は、ウミウ(海鵜)とカワウ(川鵜)とヒメウ(姫鵜)とチシマウガラス(千島鵜鴉)です。日本では体の大きいウミウが鵜飼に使われていて、内陸部が圧倒的に多い中国ではカワウが使われているそうです。属の分け方には諸説あるようです。
界 動物界 Animalia
門 脊索動物門 Chordata
亜門 脊椎動物亜門 Vertebrata
綱 鳥綱 Aves
目 カツオドリ目 Suliformes
科 ウ科 Phalacrocoracidae
属 ウ属 Phalacrocorax
種1 ウミウ Phalacrocorax capillatus
種2 カワウ Phalacrocorax carbo
種3 ヒメウ Phalacrocorax pelagicus
種4 チシマウガラス Phalacrocorax urile
ウミウ(海鵜)とカワウ(川鵜)の分布図です。ウミウは日本、韓国、北朝鮮、中国、ロシア南東部に分布しているのに対して、カワウは世界の内陸も含めた広い範囲に分布していることが判ります。
鵜の飼育ゲージの隣の建物の展示コーナーです。こちらにはトイレや授乳室が備わっています。
全国の鵜飼も紹介されていました。西方向から紹介します。
日本で鵜飼に使われるウミウは、下で紹介している12ケ所の鵜飼のうち11ケ所には茨城県の鵜の岬のウミウ捕獲場で捕獲されたウミウが供給されているそうです。右の浮世絵は渓斎英泉作の「河渡 長柄川鵜飼(木曽街道六十九次)」です。右の下段の小さな写真は全国で唯一船を使わず徒歩で鵜飼が行われている有田川の鵜飼です。現在においては和歌山県有田市(ありだし)の有田川(ありだがわ)の鵜飼は地元で捕獲したウミウが使われている唯一の鵜飼でもあります。
筑後川の鵜飼 福岡県朝倉市
日田の鵜飼 大分県日田市
大洲のうかい 愛媛県大洲市
錦帯橋のう飼 山口県岩国市
三次の鵜飼 広島県三次市
有田川の鵜飼 和歌山県有田市
嵐山の鵜飼 京都府京都市
宇治川の鵜飼 京都府宇治市
ぎふ長良川鵜飼 岐阜県岐阜市
木曽川うかい 愛知県犬山市
小瀬鵜飼 岐阜県関市
笛吹川石和鵜飼 山梨県笛吹市
鵜飼は錦帯橋の傍の上流側で行われます。川の水量が少なくても上流側は鵜飼や屋形船が出せるように写真のように深く作られているのです。こちらの写真は以前に岩国国際観光ホテルで食事をしたときに右の写真の部屋から撮った写真です。
鵜飼が行われるエリアの航空写真も紹介します。
錦帯橋と、その上流にある錦城橋の間のエリアで鵜飼が行われます。漁の対象となる鮎(あゆ)は北海道・朝鮮半島からベトナム北部まで東アジア一帯に分布していますが、日本がその中心的存在のようです。
界 動物界 Animalia
門 脊索動物門 Chordata
亜門 脊椎動物亜門 Vertebrata
綱 条鰭綱 Actinopterygii
目 キュウリウオ目 Osmeriformes
亜目 キュウリウオ亜目 Osmeroidei
上科 キュウリウオ上科 Osmeroidea
科 キュウリウオ科 Osmeridae
亜科 アユ亜科 Plecoglossinae
属 アユ属 Plecoglossus
種 アユ Plecoglossus altivelis
過去も含めて錦帯橋の鵜飼の写真は撮っていなかったので、岩国旅なびと岩国市観光協会HPに掲載されていた錦帯橋の鵜飼の写真を転用させていただきました。吉香・鵜の里の飼育設備の鵜たちが活躍している姿です。2021年の鵜飼が行われたのは鮎釣り(鮎漁)解禁日の6月1日から9月10日でした。つまり鵜飼が見れるのは3ケ月です。右下に長良川の鵜飼のサイトから鵜舟や鵜飼の名称の説明図を転用させていただきました。
鵜の手縄(たなわ)を持っているのが鵜匠です。
期間 6月1日(火) ~ 9月10日(金)
時間 19時~21時
トイレ休憩あり
料金 大人(中学生以上) 2,200円
小人(小学生) 1,100円
予約 5月6日(木)より
吉香・鵜の里の場所をGoogle地図で紹介します。赤色マーク( )が今回初めて訪れた場所です。
初めて訪れた場所
今までに訪れた場所(今回も訪問)
今までに訪れた場所(今回は行かず)
錦帯橋の鵜飼いを紹介した30秒の動画がネットにあったので掲載させていただきました。サイトの名前はやまぐち映像図鑑です。