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塩原温泉 その7:昼食は手打ち蕎麦 そば処 是庵たみ吉 [那須・塩原]

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クリックすると拡大塩原温泉その5の記事で紹介した松泉堂本店で熱々の温泉饅頭を食べた後一旦はホテルに戻りましたが、塩原温泉へのバスツアーの帰りのバスの集合時間は13時40分(出発:13時50分)だったので、再度、温泉街に出て昼食を食べることにいたしました。この時まだ11時20分でした。友人の一人が美味しい手打ち蕎麦屋を知っていたので迷わずそこに食べに行きました。お店の名前は「そば処 是庵たみ吉(そばどころ ぜあん たみきち)」でしたが、温泉饅頭を食べた松泉堂本店とは旅館(源美の宿)を挟んだ隣のお店でした。と言ってもホテルからは5分くらいの距離なので、時間的な無駄はさほどあませんでした。上の写真が「そば処 是庵たみ吉」です。右の写真がお店の看板でクリックすると「そば処 是庵たみ吉」の文字が読めると思います。建物は築75年(2012年の時点で築65年)だそうです。

早かったので我々3人が最初のお客のようで、いい雰囲気の場所に座らしてもらいました。その場所の写真を撮らなかったのを後悔するほどよかったです。下記が我々が食べたかった、せいろ(冷たいそば)の目乳です。2人が二八せいろを注文して、もう1人が天せいろを注文しました。


我々は食べませんでしたが、温かいそばのメニューも紹介します。


お店の外にあった季節限定などのメニューも紹介します。


席に座ると先ずは温かくて香ばしいお茶が出てきました。
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そして美味しいお漬物も出てきました。うれしいことに食べてしまうとさらに出していただきました。
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クリックすると拡大もちろんビールを頼みました。選んだのはエビスビールでした。もしかしたらビールを注文したのでお漬物が出てきたのかもしれません。と言うのもお店に入って先ずはビールを頼んだので、はっきりしたことは分らずじまいでした。やっぱりお蕎麦屋さんで飲むエビスビールはおいしかったです。
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これが私が食べたニハせいろです。かなり細く切られた麺でした。確かにおいしかったです。
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麺の触感と細さを感じていただくために、セイロの部分のクリックすると拡大写真も撮りました。少し緑がかった新蕎麦の色でした。撮った写真を確認すると建物の窓の黄色の〇を示しのところに「新そば 打始めました」と書かれた紙が貼られていました。下の写真をクリックすると面積で16倍に拡大いたします。
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クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。思いがけず新蕎麦を食べることが出来たわけです。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大します。
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こちらが友人の1人が頼んだ天せいろです。
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これが天婦羅です。天せいろとニハせいの値段差は720円(=1570円-850円)なので、お得な感じがしました。
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美味しいお蕎麦でした。
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お店の場所を紹介します。臙脂色マーク( )がお店の場所です。
我々が泊まったニューホテル塩原は一番下にあります。右の写真は一緒に旅行に行った友人2人で、クリックすると拡大前記事で紹介したDining Port 御料鶴に行ったのも同じメンバーでした。
 店名 そば処 是庵たみ吉
 住所 栃木県那須塩原市塩原736
 電話 0287-32-2022
 営業 11:00~15:00
 定休 木曜日 SV 航空写真
 動画 塩原温泉ラブ(しおばラブ) 冷やしぶっかけ蕎麦


別の表示でホテルから蕎麦屋さんまでのルートを紹介します。350mで5分と表示されました。車だと2分と表示されました。

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ちょっと話題の Dining Port 御料鶴 でランチしてきました。 [千葉]

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2022年12月13日に塩原温泉のその1の記事で紹介した友人2人計3人でちょっと話題のお店で食事をしてきました。3人が一緒に食事するのは新型コロナ渦のおかげで、ゴルフ以外では塩原温泉以来になります。つまり2019年12月14日以来、つまり3年ぶりなのです。上の写真は私が食べた御料鶴小鉢膳です。
話題の理由の1つ目がJALグループの食材を扱うJAL Agriportのレストランであることから料理だけでなくファーストクラスのラウンジの雰囲気が味わえることなのです。さらにCOVID-19の影響で航空機の運航本数が減少した期間中は現役の客室乗務員も接客をしていたそうです。JAL Agriportは日本航空と和郷園(農事組合法人)の共同出資により2018年4月18日に設立され会社で、成田国際空港周辺の9市町(成田市・富里市・香取市・山武市・栄町・神崎町・多古町・芝山町・横芝光町)を中心に、観光農園運営やプライベートブランド商品の販売などの農業事業を行っているそうです。

話題の2つ目の理由がこの写真のように成田空港の地元農家の民家を借りてリノベーションされた空間で食事ができることなのです。
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話題の3つ目の理由が成田空港の近くでありながら、公共の交通機関で行くのはほぼ不可能な場所にあることなのです。不便ですが、これが魅力の一つに感じられる空間なのです。つまり行く手段は下に書いている3つに限られるのです。見ているとほとんどが②と③でした。公共の交通機関で行くのはほぼ不可能と書いたのは1日数本のバスが近くの県道44号を通っていますが、残念ながら食事どきには走っていないのです。参考ですが近くのバス停の名前は夜番(千葉交通・栗原線 5本/日 7:18 9:08 13:08 17:48 19:48)と川上(コミュニティーバス 1本/日 18:34)です。13:08着がありますが帰りは16:53発になってしまいます。
 ① 徒歩往復2時間→ルート図
 ② タクシー   →ルート図
 ③ 自家用車          Dining Port 御料鶴


我々は京成成田駅の近くに住んでいる人の車で行きました。京成成田駅で11時25分にピックアップしてもらってレストランに向かいました。友人は新しい車を買ったばかりで、アイサイトの最新の半自動運転を体験させてもらいながらレストランに向かいました。写真は千葉県道44号線からレストランがある道に入るところです。写真の左端に 御料鶴と書かれた看板が写っています。
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細い道を進むとレストランが見えてきました。道の左側に見える大きな民家がダイニングポイント御料鶴(Dining Port 御料鶴)です。SV
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レストランに入る入口の門です。駐車場も門の中にあります。SV
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駐車場にはすでに沢山の車が来ていました。駐車場の奥の方から撮った写真です。左の建物がレストランです。向こうの方から入ってきました。
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建物が見えてきました。
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建物の正面です。渡り石の先に入口があります。
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席に着くとメニューが出されました。私は御料鶴小鉢前にしました。のこりの2人は千葉県産せんば牛のすき焼き膳にしました。いずれの料理にもソフトドリンクが付いていてソフトドリンクのメニュー欄から好きなものを選びます。機内食風の料理もありました。国際線のラウンジで人気のビーフカレーも食べれます。懐かしく思う人や、食べたことのない人にお勧めです。
 御料鶴小鉢前           2,300円
 千葉県産せんば牛のすき焼き膳   2,500円
 鰻の白醤油焼き膳         3,500円
 本日のパスタ膳          1,650円~
 千葉県産せんば牛の肉まぶし膳   3.500円
 JAL特製オリジナルビーフカレー 1,700円
 御料鶴でフライト気分       1,650円
 キッズプレート          1,100円
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久しぶりに会っての食事なので、ビールやお酒を飲みながらの話になりそうなのでフライドプテト(600円)も頼みました。
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私はもちろんビールにいたしました。
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車を運転していない方の友人は日本酒を頼みました。ただし私も半分くらいいただきました。
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私が頼んだソフトドリンクはジンジャエールでした。この写真からお店の中の雰囲気が判っていただけると思います。
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フライドポテトが出てきました。量もあり熱々だったのでこれを頼んだのは大正解でした。
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御料鶴小鉢膳が出てきました。クリックすると拡大御料鶴小鉢膳だけは料理の名前が書かれた おしながき が出てきました。おしながき によれば、千葉県産、主に成田市に隣接する9市町の新鮮な食材や伝統料理を中心に仕立てているそうです。
 成田産にんじんのムース
 富里産桜美卵のニラの出汁巻き
 水郷赤鶏のトンナートソース
 菜の花ぶたのチャーシュー ネギ塩だれ
 鰯の卯の花漬け
 ふろふき大根の味噌だれ
 地元野菜のサラダ
 多古米ごはん
 味噌汁
 香の物
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こちらが小鉢類です。
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こちらが「地元野菜のサラダ」のサラダです。見るからに新鮮そうでした。
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そしてこちらが「菜の花ぶたのチャーシュー ネギ塩だれ」です。
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こちらは「水郷赤鶏のトンナートソース」だと思います。
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こちらが「成田産にんじんのムース」のようです。食べる前は、この料理だけは名前が判りませんでした。
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こちらは「ふろふき大根の味噌だれ」です。
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こちらは「富里産桜美卵のニラの出汁巻き」です。
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こちらは「鰯の卯の花漬け」です。おしながきでは魚の名前のところが鯛のようにも見えましたが、鰯(いわし)でした。千葉といえば鰯が有名です。
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そして、香の物と
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味噌汁です。
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JALらしい箸置きが使われていました。
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拡大いたしました。
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箸なしの写真も紹介します。
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ビールは2杯目を注文してしまいました。
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友人2人が選んだ「千葉県産せんば牛のすき焼き膳」です。
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お椀を開けた写真も撮らせてもらいました。
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私は食べていないのでわかりませんでしたが、これはおいしかったようです。確かに見ただけでも美味しそうでした。
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「千葉県産せんば牛のすき焼き膳」が出てきたところで記念写真をスタッフの方に撮ってもらいました。私は真ん中です。いい記念になりました。
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料理がそろった写真です。上の写真から切り取りました。
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この中に飛行機(B777-200)の部品を使って作ったモニュメントがあります。新型コロナ禍のためにB777-200は早期退役となったそうです。
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話は尽きなかったのでコーヒーも頼みました。
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今の季節は寒いので使えませんが、外のエリアでも食事ができるようになっていました。お店を紹介します。
 名前 Dining Port 御料鶴  (ダイニングポート ゴリョウカク)
 住所 千葉県成田市川上245-219
 電話 0476-36-5272
 営業 平日 11:00~15:00 土日祝 11:00~16:00
 定休 不定期(月に1日メンテナンス作業のため休業)
 SV https://goo.gl/maps/yho6nigXPW5muxQX9 3D
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食べ終わった後は京成成田駅に送ってもらいました。約2時間の楽しい食事会でした。次回はゴルフのメンバーも加わって2023年1月22日に決まりました。SV
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タグ:昼食 成田 千葉
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臼井八景を廻ってきました。 [千葉]

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2022年12月19日再掲載 タイトル:臼井八景を廻ってきました。
クリックすると拡大前記事の下高野館で臼井八景のことを記載したのを機会に本記事「臼井八景を廻ってきました。」を再掲載させていただきました。
偶然にも2022年12月18日に八千代栗谷遺跡研究会主催で行われた「臼井田宿内砦と臼井城の見学会」に参加させていただきました。クリックすると拡大見学会では郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんが説明をしていただきました。佐倉道を歩く会の方も参加されていたお話をうかがいました。上の写真は臼井城の近くにある太田道灌の弟の太田図書(太田資忠)の墓の前で説明を聞いている写真です。太田図書はこの場所で討死したそうです。臼井城には臼井八景の第六景の城嶺夕照(じょうれいせきしょう)があります。私が初めて行った臼井田宿内砦での見学会の様子は近いうちに紹介したいと思います。

見学会で臼井八景の紹介が入った臼井に関するクリックすると拡大パンフレット(さんさく-ミニ見にガイド)をいただいたので掲載します。臼井城と宿内砦の辺りは江戸時代の成田山詣の宿場町として栄えた臼井宿で、各所に残る史跡や街並みや寺院から当時の雰囲気が想像されます。右の写真は宿内砦跡で撮っていただいた見学会の記念写真です。クリックするとパンフレット全体を表示します。
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2022年12月19日 本記事への累計 アクセス数:7,256 nice:145 コメント:27

2011年10月10日掲載 タイトル:臼井八景を廻ってきました。
クリックするとGoogle地図を表示
より大きな地図で臼井八景 を表示→ポチッ (クリック)
私が住んでいる近くに印旛沼があります。その印旛沼の景観で臼井八景(うすいはっけい)と言われるものがあることを最近いただいたブログへのコメントで知り、さっそく自転車で日曜日(2011年10月9日)、八景すべて廻ってきました。臼井八景とは江戸から臼井村に隠棲した「信斉」と当時の円応寺住職であった「宋的」により中国の瀟湘(しょうしよう)八景にならって元禄11年(1698年)に印旛沼の美しい風景の中から臼井の八景を選び出したものです。
上の航空写真の緑のマークが臼井八景の場所で、そこには佐倉市の掲示板が立てられていました。赤いラインが自転車での散策ルートです。左側(西側)から来て臼井八景を廻ったあと元の道を戻りました。
 第一景 舟戸夜雨(ふなとやう)     船戸大橋近く
 第二景 遠部落雁(とうべのらくがん)  西印旛沼自転車道路沿い
 第三景 飯野暮雪(いいのぼせつ)    西印旛沼自転車道路沿い
 第四景 師戸帰帆(もろときはん)    船戸大橋近く
 第五景 瀬戸秋月(せとしゅうげつ)   西印旛沼自転車道路沿い
 第六景 城嶺夕照(じょうれいせきしょう)臼井城址(臼井城公園)
 第七景 光勝晩鐘(こうしょうばんしょう)光勝寺
 第八景 洲崎晴嵐(すざきせいらん)   八幡台第一公園

これが第一景の舟戸夜雨(ふなとやう)の掲示板です。臼井八景には自転車で廻ったので記念のために自転車と掲示板を一緒に撮らせてもらいました。残りの掲示板に関しても全て自転車と一緒に撮りました。掲示板の写真をクリックすると、書かれているいる文字が読める大きさの画面が出るように設定いたしました。掲示板の下の写真は、掲示板の位置から見れる景色ですが城嶺夕照と光勝晩鐘と洲崎晴嵐の場所からは印旛沼が見れないので、近くの見晴らしのよい場所からの写真です。
 漁する船戸の浪のよるの雨 ぬれてや網の縄手くるしき
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こちらが第二景の遠部落雁(とうべのらくがん)です。臼井城からは最も遠い場所になります。西印旛沼自転車道路沿いにあります。
印旛沼の干拓は江戸時代に入ってから行われたことから臼井八景が選定された1698年ごろは自転車道路沿いは陸地ではなく印旛沼の中であったために、当時に景色を眺めたのは、もっと内陸の今の住宅地あたりだと思います。
 手を折りて ひとつふたつと かぞふれば みちて とおべに 落つる雁がね
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クリックすると拡大こちらが第三景の飯野暮雪(いいのぼせつ)です。こちらも西印旛沼自転車道路沿いです。東側にある丘の印旛沼サンセットヒルズに登ると森鷗外之詩の碑があり、転用させていただいた右の小さな写真のようなダイヤモンド富士も見ることが出来ると聞きました。
 ふり積る雪の夕べを見ぬ人に かくと いひのの ことの葉もなし
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こちらが第四景の師戸帰帆(もろときはん)です。船戸大橋近くからの景色です。白鷺が沢山いました。景色の写真はクリックすると拡大します。
 もろ人の諸戸の渡り行く舟の ほのかに見えて かえる夕ぐれ
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こちらが第五景の瀬戸秋月(せとしゅうげつ)です。こちらも西印旛沼自転車道路沿いでする。
 もろこしの 西の湖かくやらん には照る浪の 瀬戸の月影
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こちらが第六景の城嶺夕照(じょうれいせきしょう)です。臼井城跡からの景色です。掲示板は臼井城跡である臼井城公園の入口に立っているため掲示板の位置からは印旛沼の景色は見えません。写真の景色は本丸跡から撮ったものです。
 いく夕べ 入日を峯に送るらん むかしの遠くなれる古跡
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こちらが第七景の光勝晩鐘(こうしょうばんしょう)です。掲示板は丘の中腹にある光勝寺に立てられていたので丘の上まで上がって景色の写真を撮りました。
 けふも暮れぬ あはれ幾世をふる寺の 鐘やむかしの音に響くらん
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クリックすると拡大こちらが第八景の洲崎晴嵐(すざきせいらん)です。 八幡台第一公園です。ここは住宅地の真中になるために、この公園からは右の写真のように印旛沼を見ることが出来ません。丘の上から降りて同じ方向の写真を掲載しました。この景色を高い位置から見たのが洲崎晴嵐です。
 ふき払い雲も嵐もなかりけり 州崎によする波も静かに
Iクリックすると文字を拡大


臼井八景発祥の地と呼ばれている円応寺です。今から300年以上前の円応寺二十四世住職の玄海(宋的)と江戸から隠棲した「信斉」によって臼井八景が考えられたことから、このお寺が「臼井八景発祥の地」と呼ばれているわけです。信斉の子孫は臼井城主となります。正式名を臼井秀胤と言います。
クリックすると自転車を表示

光勝晩鐘のある光勝寺も趣のあるお寺なので写真を紹介いたします。


城嶺夕照である臼井城跡は臼井城址公園となっています。冒頭の航空写真で印旛沼の周りの水田は江戸時代以降に干拓されたために水田の部分が印旛沼であったと想像すると臼井城は南側以外は印旛沼に囲まれた堅固な城であったと想像できます。
一緒に撮らせてもらった私の自転車を紹介いたします。→ポチッ


下の3枚の地図はネットから拝借した昔の地図です。これは昔の臼井城です。今は水田の部分は印旛沼でした。つまり上の写真の位置からは、もっと手前まで湖があり大きく広がっていました。


さらに古い時代(約1000年前)は霞ヶ浦や北浦、さらには手賀沼とつながていて印旛沼のあたりは印旛浦と呼ばれ、香取海という汽水の内海の一部でした。江戸幕府の度重なる干拓および洪水対策の利根川治水工事(利根川の流れを東京湾から銚子から太平洋に注ぐ川に変える工事)、それに伴う土砂の流入、さらには近年の干拓および治水工事により徐々に現在の印旛沼に変わっていきました。


6000年前から5000年前の関東平野も紹介いたします。

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戦国時代の城 下高野館(しもこうや やかた) [千葉]

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2022年12月15日追記 タイトル:下高野館の発掘の結果が出ました。
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地元で「下高野館」と呼ばれる右下の写真の小高い丘の上は城館跡とされていましたが、推定の域を出ていませんでした。クリックすると拡大2021年2月3日に追記させていただいたように2020年10月中旬から2020年12月20日過ぎまで大規模な発掘が行われて、発見された中世の土塁と堀や地下式坑の遺構や、掘り出された鎌倉期の中国製青磁器や15 世紀の瀬戸・美濃焼陶器片などの遺物などや過去の調査を入れて2022年に郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんによりまとめられた報告書が刊行されて、下高野館は中世城館跡という立地の性格が明らかになりました。その記載部分を枠内に転記させていただきました。
2.下高野 天神の板碑群と発掘調査で明らかになった中世城館址の立地
『通史編』一覧表の「X 下高野・天神」の文正 2 年銘 2 基、文明 13 年・15 年銘各 1 基、年号不明 3 基の計 7 基について、道上氏から提供いただいた村田顧問の手書きの覚 書を参照し、掲載を許可いただいた市博物館所蔵の拓本を地点別に紹介する。
板碑群 3 地点の板碑数は断片を含めると全 13 点、うち梵字・年号銘のある 7 基を採 拓し、『通史編』一覧表に反映させている。
13 点の板碑の現状は、『史談八千代』46 号掲載の写真と航空地図で示したとおり、第 1~3 地点に集積されていている。
この板碑群 3 地点を含む天神遺跡 a 地点台地の縁部分が 2020 年に発掘調査され、 2022 年 3 月に報告書(*4)が刊行された。調査では、中世の土塁と堀、地下式坑の遺構 や、鎌倉期の中国製青磁器や 15 世紀の瀬戸・美濃焼陶器片などの遺物が検出され、これ までも推定されていた中世城館跡という立地の性格が明らかになった。

更に今までに見つかった板碑に関しても報告されていたのでクリックすると拡大下高野の板碑を紹介いたします。下の表は報告書の中の下高野地区で見つかった7つの板碑の属性です。板碑の大きさを知っていただくためにkazuさんに案内されて板碑を見に行った時の写真を右に紹介します。板碑を持っているのがkazuさんです。写真の板碑は文明十三年と書かれた1―①の板碑です。
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こちらは第 1 地点と第 2 地点の板碑群拓影です。報告書から転用させていただきました。
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第 3 地点板碑拓影や2020年の発掘時の写真も紹介します。こちらも報告書から転用させていただきました。
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参考:「天神遺跡 a 地点」発掘調査報告書の第 6 節 まとめの中世から転載
遺構は,南北の台地縁辺に,01M・06M の横堀を造り,最南部に土塁を巡らした主郭を配置している。 土塁には,04M が郭内の防御用堀として掘られている。調査区中央及び北側の遺構群である 01SK・01P・21 ~ 22P・03M は土地利用上,平時での所産と想定したい。
遺物は,22P から 13 世紀中頃~ 14 世紀初頭の中国産青磁連弁文口折皿が出土している。また,15 世紀代の瀬戸美濃焼平碗が同じく 22P から,46P から瀬戸・美濃焼直縁大皿が出土している。戦国後期以前の地域拠点としての土地利用が想定される。
調査範囲外からは,五輪塔・宝篋印塔・板碑等中世の石碑が集積ないし祀られている。 この内,板碑には年代が刻まれており,文正 2 年(1467),文明 15 年(1483)等と 15世紀後半の葬祭儀式の一端を示している。また,近隣住民の方々は,「深山」・「小沢」・「立石」姓が多く,千葉氏系の出自を示していることから,臼井氏や臼井原氏との関連性が考慮される。
筆者注:M=溝(堀) SK=台形成形区画 P=ピット(土坑) DR=土塁

クリックすると拡大発掘で出て来た出土品(出土遺物)の資料を2022年12月18日の宿内砦と臼井城の見学会(右の写真)で頂いたので追加掲載いたしました。21P(第32図)からの出土品は中世時(内耳土鍋)と美濃焼(擂鉢)と石製品(砥石)の3点が出土しました。
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22P(第33図)からは青磁(蓮弁文口折皿)と瀬戸・美濃焼(鉄袖天目茶碗)と瀬戸・美濃焼(灰袖平椀)と瀬戸・美濃焼(灰袖丸皿)と常滑焼(受)と常滑焼(受)と貝製品(お玉か)の7点が出土しました。
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2022年12月18日に発掘の遺構の実測図もいただいたので掲載いたします。
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下高野館(しもこうや やかた)の歴史は判りませんが、下高野館の役目の一つであったと思われるのが臼井城の守りであることから、臼井城の下記の歴史からクリックすると拡大下高野館の歴史を感じることが出来ると思います。右の小さな写真と下の写真は臼井八景を自転車℃廻った時に撮った臼井城です。右の小さな写真は臼井城から印旛沼を見下ろした景色です。ここに立つと城主になった気分になるかもしれません是非ともクリックしてみてください。
 12世紀中頃    臼井常康が築いたと伝わるが定かではない
 14世紀中頃    本格的城郭として整備される
 1479年(文明11年)太田道灌の率いる上杉方に攻められ篭城(7ケ月)の後落城
 1557年(弘治03年)臼井久胤の後見として原胤貞が入り原氏の支配下となる
          1551年(天文19年12月 旧暦)とする説もある
 1561年(永禄09年)上杉謙信に呼応した里見側の正木信茂に攻められ落城
 1564年(永禄07年)原胤貞が奪還
 1566年(永禄09年)臼井城の戦いで上杉・里見勢に攻められるが、これを退ける
 1574年(天正02年)生実城が里見氏の手に落ちたため原氏の本拠となる
 1590年(天正18年)小田原征伐により原氏が滅び、豊臣側に接収された
 1604年(慶長09年)酒井家次の高崎移封に伴い廃城となった
 1610年(慶長15年)佐倉城が完成するに至ってその役目を終えた
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2021年2月3日追記 タイトル:下高野館の発掘が行われました。
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千葉県八千代市下高野の上の写真の小山の上には土塁などが確認されており戦国時代には小城館があったとされています。小城館の当時の呼名は分かりませんが、現在は下高野館(しもこうや・やかた)と呼ばれています。その下高野館があった辺りの発掘が行われたので、2013年に掲載した記事に追記する形で紹介いたします。発掘の写真8枚⦅①~⑧)は以前記載した中で「地元のKさん」と紹介した方に提供していただきました。Kさんは辻切り(藁の大蛇)や庚申塔などの地域の風習を教えていただくなど大変にお世話になっている方です。コメント欄では kazu という名でコメントをしていただいている方でもあります。私自身は発掘は見ていないので説明を受けた内容で掲載いたしました。発掘は2020年10月中旬に始まり2020年12月20日過ぎまで行われたそうです。発掘の埋め戻し工事は2021年1月5日~2021年1月20日頃まで行われたそうです。

今回の発掘エリアを航空写真に書き込みました。緑色に着色した部分です。埋め戻し後しか見ていないので、発掘のために整地された部分も含めたエリアに着色いたしました。


①下高野館跡の発掘
周辺より高台になった最も南西側の発掘場所の写真です。結構大規模に行われたことを写真で知りました。
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同じ場所を2021年2月2日に撮った写真です。埋め戻された後のためすでに整地されていました。残された切り株でも判るように木と竹で覆われていたために全貌は全く分かりませんでした。
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②下高野館跡の発掘
上で紹介した①の写真は北東から撮った写真ですが、こちらは南西方向から撮った発掘中の写真です。この写真から発掘時の写真を撮った時、太陽は南西方向にあったことが分かります。他の発掘時の写真の撮影方向を影の方向から推定することが出来ます。
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同じ場所を2021年2月2日に撮った写真です。②の写真に写っている小屋がこちらの写真にも写っているので同じ場所を撮ったものだと判っていただけると思います。
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③下高野館跡の堀クリックすると拡大
発掘により堀も発見されたそうです。以前に紹介した天神様境内にある右の写真の甲人大明神に立石家が祀った兜(甲)が、この堀に落ちていたいたのではないかと想像されるそうです。昔に下高野館の堀で兜(甲)が発見されて、その甲を天神様境内に祠(甲人大明神)を作り祀ったと伝えられているためにその堀だと考えられたわけです。残念ながら甲自体は失われてしまって今は見ることが出来ないそうです。
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掘りがあったと思われる場所の写真を撮りました。上の堀の後の写真の背景部分が少ないので確実ではありません。
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④戦国時代のお墓
戦国時代のお墓も発掘されたそうです。コメント欄のkazuさんの説明(2021-02-04 08:43)によれば発掘エリアの最も北東側で発見されたそうです。
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⑤中世の住居跡
発掘場所の中の北東方向には中世の住宅跡もあったそうです。館跡からは食料保存の「むろ」は見つかりましたが出土品はなかったようです。
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⑥中世のかまど跡
中世の住宅のかまど跡もみつかりました。
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中世の住居跡の場所も背景から想定してみました。このエリアの一番奥に④の戦国時代のお墓があったそうです。
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⑦奈良・平安時代の住居跡
奈良・平安時代の住居跡も見つかったそうです。おそらく中世の住居跡よりは北西側になるのだと思います。
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奈良・平安時代の住居跡も想定してみました。埋め戻し前に見に来なかったのを悔いております。正確な場所が分かった場合は写真を差し替えさせていただきます。
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⑧縄文時代の住居跡
縄文時代の住居跡まで見つかったそうです。縄文式の住居跡付近からは、矢じりや小さな石器は多数見つかったようです。分析はこれからで確定ではありませんが、物を切るのに使われたと思われる石器のような石も見つかったそうです。残念ながら土器や壺などは見つからなかったようです。
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前に来た時は沢山の木や竹が生い茂っていた下高野館の辺りからは景色を見ることが出来ませんでしたが、発掘のお陰で見晴らしが良くなりました。
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最も南西の場所に基準杭がありました。
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基準杭の辺りから見た景色です。
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下高野館の発掘し埋め戻したところの動画を2021年2月3日に撮ったので紹介します。上の写真の基準杭があった最も南西の場所から発掘現場を回って元の場所に戻って来るところまでを撮っています。元に戻ると繰り返し最初から表示するように設定しています。すべて見ていただくと位置関係が判っていただけるのかもしれません。



2013年6月3日掲載 タイトル:戦国時代の城 下高野館
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今から600年~400年前の千葉県の印旛沼の西側地域には、すでに紹介した小竹城先崎城井野城のように防御のための城が沢山あったことが知られています。その小竹城や先崎城の近くには、同じような役目を持っていたと思われる館の痕跡が、写真の小山の中に見つかっています。また麓の人たちの家にも館があったことが言い伝えられています。その館は八千代市下高野地区にあることから「下高野館」と呼ばれています。こちらの写真は館から南東方向から撮りました。

その下高野館が建っていたと思われる場所を航空写真にマークいたしました。この小山は東、西、南の方向に対しては高台になっていますが北に広がる台地とは同じ高さで、その台地から舌状に突き出た部分なのです。
地形的には先崎城と類似しています。

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真上からではなく、斜めから見た航空写真も紹介いたします。こちらは発掘前の航空写真です。上の航空写真と比較すると、発掘のために住宅に近いエリアの木を伐採したことが分かります。クリックすると広い範囲をを表示するので、周りの建物の雰囲気が判ると思います。
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このあたりの景観を動画で紹介いたします。 興味のある方はプレーボタン( )をクリックしてみてください。
最初の画面の中心が先崎城で、画面が左方向に移動して一度ズームする場所が下高野館(下高野城)が建っていた高台です。右の写真をクリックすると別画面で動画を見ることが出来ます。
下高野館と先崎城は直線距離で530mでした。


南西方向から下高野館があったあたりを見たものです。この森の中に土塁の遺構が残っています。下高野館の奥の台地は梨畑や畑が広がっていました。下高野館ではなく、上で書いた(下高野)は一般的な呼び方ではありませんが、下高野城と書いた理由は後で説明いたします。
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小山を拡大すると斜面に、小さな祠(ほこら)があります。この小祠は、下高野館が建っていたあたりの土地の所有者(Mさん)の家の氏神様とのことでした。お願いして、高台のあたりを下高野の地元のKさんに2013年5月31日に案内していただいたときに偶然にも高台の畑のあたりで、その所有者のMさんに会うことが出来ことから小山の中に入らせていただいた上に案内までしていただきました。さらに写真撮影の許可もいただきました。
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これがMさんの家の氏神様の祠(ほこら)です。祠の奥が、館の周囲にあったと思われる土塁の一部です。写真の中で右端に写っている方がMさんです。


祠の中の飾りも撮らせていただきました。初めて見るもので真新しい飾りで、この祠が大切に受け継がれていることを感じました。


クリックすると大きな画像PDFを表示Mさんの家では氏神だけてなく、この稲荷大明神も祀られておりました。2つの守り神があるのは珍しいとKさんから教えていただきました。
Mさんの家では辻切りを始め、成らせ餅、節分、サナブリ、カッキリなど、昔からの多くの伝統行事を守っておられます。これだけたくさんの伝統行事を続けられている家は貴重な存在だと思います。右の写真のように「広報よちよ」にも何度か掲載されました。今年の2013年2月14日のNHKのおはよう日本で「下高野の辻切り」が放映されました。同じ2月14日ですがNHKの「こんにちは いっと6けん」でMさんの家の節分行事(右の写真)が放映されたくらいです。クリックすると拡大放送内容は辻切りの記事の後半で紹介させていただきました。→ポチッ
2012年の2月29日にもNHKで千葉県の色々な民俗行事の紹介の中でMさんの奥さんも出演されたそうです。


館があったと思われる場所を囲むように土塁がありました。土塁の上を歩いている方がMさんです。写真を撮られている方が、民俗博物館やこの場所を案内していただいた地元のKさんです。これは館の西方向の土塁です。


北側の土塁から上の写真を撮った方向の写真です。


この石碑の中央には「身魂霊神」と書かれており左右にはカタカナ交じりの漢字で、石碑に由来が書かれていました。写真をクリックすると、完全ではありませんが、その文章を読むことが出来ると思います。
文章は 「大石某ナル者 此地 居城ヲ構ヘタリト伝フモ記録存セス・・・
と始まり「記載ナク年代不詳其ノ後我祖先此處ニ住居ヲ定メ・・・
と続き 「大石氏を身魂?神ト祭リテ以テ・・・
と続き 「其ノ由緒ヲ傅フルモノナリ」と締めくくっています。
この石碑は1925年に立石幸造さんが後世に伝えるために建てたものです。立石幸造さんは現在の当主の先祖の方と思われます。将来のことを考えて倉に残された資料や代々伝えられてきたことを石碑に残したものと思われます。内容から見ると大石氏が城を構えたと書かれていることから城主の姓は大石であったことになります。また「館」ではなく「城」の言葉が使われており、しっかりとした土塁に周囲を囲まれていたことから下高野館は「大石城」あるいは「下高野城」と表現できるのかもしれません。
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館跡に近い場所から、今までに13枚の板碑(いたび)が見つかりました。写真はその板碑です。板碑は中世仏教で使われた供養塔で、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだもので鎌倉幕府(1185~1333年)の武士の信仰に強く関連すると考えられているそうです。一番右の板碑には梵字が読み取れます。
下高野地区は立石さん、小澤さん、深山さんの3つ姓で構成されており、いずれも千葉氏とゆかりのある姓であることから、下高野館も千葉氏系の館主であったと考えられています。
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書かれている文字を読むため所有者のMさんに坂碑を抜いていただきました。写真をクリックすると文字が書かれていることが判ると思います。文字は正確には読めませんでしたが全体の形が判ることから546年前の古さが伝わってきました。発見された板碑のなかで古いものは文正2年(1467年)であることから、少なくとも戦国時代の少し前から館があったものと考えられています。一方、距離的にも関係が深かったと考えられている先崎城は臼井城の支城であったことから下高野館も臼井城(12世紀中頃~1604年廃城)の支城であったと考える方が多いようです。参考にこの時代の年代を書いておきます。最大の戦いは1566年に上杉謙信が臼井城を攻めて謙信が敗退した時ですが、それ以外に臼井城に関わる戦いが記録されているのが1479年、1561年、1564年などがあります。
 鎌倉時代   1185~1333年   板碑の起源
 室町時代   1336~1573年
  建武の新政 1333~1336年
  南北朝時代 1336~1392年
  戦国時代  1493~1590年   印旛沼周辺での戦いの時期
 安土桃山時代 1573~1603年
 江戸時代   1603~1868年
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板碑は発掘された場所の近いところに祀られていました。
この坂碑は「大先祖 八良右エ門 之墓」に祀られていました。
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小山の上から館跡の方向(南方向)を撮ったものです。この畑からも沢山、板碑が発見されたそうです。


館があったあたりは東側、南側、西側は急な崖になっていることから北側から上がっていきます。この道は梨園に軽トラックが上がっていくために整備されたものと思われます。道の脇にも太い木が生えていることから軽トラックが通れる道が整備される以前にも、元となった道があったと想像されます。昔、この元となった道が、空掘りだったのか、単なる小道だったのかは判りませんが、昔も北側のみが館に上がってこれる方向だったことは、まちがいないことである上に、この天満宮あたりは畑以外は、昔のままの地形と想像されることから、何らかの防衛のための地形だったのだと想像されます。直感的に、この道は空堀であったのではないかと感じました。左側の土手の奥に館がありました。左側の土手は単なる自然の地形なのか土塁なのかは今となって判断が難しいところですが、少なくとも入口に近いところは土塁になっていたのだと思います。畑で削られた部分を頭の中で復元してみると全体の形が判ってくるものと思います。


この写真は空堀かもしれない道を上り詰めたあたりです。今となっては確認はできませんが、道が空堀であったとするならば、つきあたり付近が昔の主郭への入口である虎口ということになります。そんな想像をしてみるとロマンを感じます。


これが空堀と思われる道の近くにある菅原神社です。 地元の方は天満宮と呼ばれていました。


天満宮の拝殿と本殿です。この近くの地域は江戸時代は幕府領とクリックすると拡大旗本領と佐倉藩領で構成されていました。隣接する小竹村、井野村、青菅村、先崎村、上高野村は佐倉藩に属していました。下高野村は寺社除地という区分で272村で構成された印旛郡地域で1村だけの区分でした。寺社除地の定義はよくわかりませんが特別な地域であったようです。
そんな下高野村に版木が伝えられていました。その版木から刷ったのが右の版画です。版画は大宰府天満宮・宮司・西高辻信長・氏により鑑定されたそうで右上に、宮司の「天満大自在天神」の添え書きが書かれていました。
クリックすると拡大菅原道真の別称に「天満大自在天神」があることから、こちらの天満宮は学問の神様ということで近隣の受験生の方が絵馬を奉納されていました。そんなこともあり菅原神社の名前が使われている気がします。絵馬には版画の「天満大自在天神」が使われている、ここだけの絵馬です。
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天満宮の横にはいくつかの社がありました。奥から2つ目の鳥居の社(祠)が下高野館と縁のある「甲人大明神」です。沢山の社(祠)は麓の人たちが、それぞれに担当があり大切に管理されているそうです。
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これが正面から見た「甲人大明神」です。下高野館のあった小山の下の方の庭で昔の武士の兜が発見されたそうです。その兜を祀ったのが「甲人大明神」です。
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その兜は残念ながら盗まれてしまったので、今は社(祠)の中には石碑が祀られています。大切な文化財は、みんなで大切にしてほしいものです。
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天満宮(菅原神社)と下高野館の関係を示す地図を紹介します。庚申塔と書かれているのは下高野地区の庚申塔を建てられている場所です。今で庚申講が続いており、庚申塔の建立も1993年、2000年、2007年とつづいており、7年ごとにあたる来年(2014年)には新しい庚申塔が建てられるそうです。
また辻切りも下高野地区には6体あり、この地図上にも2体を見ることが出来ます。クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大福蔵院は下高野地区のお寺で、明治初期には井野小学校の分校「下高野小学校」でもあったようです。写真は左から「下高野の庚申塔」「下高野の辻切り」「沢山の十九夜塔が建つ福蔵院」です。十九夜塔も7年ごとに建立されており来年2014年に庚申塔とともに建てられるそうです。


下高野館に関してはネツトにも詳しい説明がないことから、下高野館跡を案内してもらったKさんにお願いして2013年5月31日に八千代市立郷土博物館の方の話を伺いに行きました。その後に下高野館跡に行ったわけです。八千代市立郷土博物館(黄色マーク )には貴重な資料が展示されており国道16号を挟んでジョイフル本田の園芸売場(青色マーク )の向かいにあるので、是非とも買い物の時にでも一度、見てみてください。入館料は無料です。スーパー・イズミヤ八千代店(空色マーク )の隣でもあります。
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郷土博物館の内部です。一部のもの「撮影禁止と記載」を除いて写真撮影も許可されています。


下高野館の周辺の戦国時代の城跡を緑色のマークで紹介いたします。マークをクリックすると名前と説明を表示します。中心近くの左側のマークが下高野館(下高野城)です。この画面上に出てきている城跡は下高野館、井野城、先崎城、小竹城、臼井城、臼井田宿内砦、洲崎砦、稲荷台砦、田久里砦、忍台城、師戸城、岩戸城、保品竜害城、神野館、正覚院館、米本城ですが、広範囲を表示させると志津大口館、志津城、上峠城の位置もマークしております。まだマークは付けていませんが新川の西には吉橋城、尾崎館、高津館、妙泉寺城、神久保寺台館、飯網権現砦がありました。臼井城( )の近くは洲崎砦、臼井田宿内砦、稲荷台砦、田久里砦、忍台城などが臼井城を守っていたと思われます。今回は地図ではなく高低が判る地形図を使用しました。地形図の中のアイコン写真地図をクリックするとまた違ったことを発見できるかもしれません。黄色のマークは八千代市立郷土博物館と上杉謙信が臼井城を攻めるために築いた一夜城(野戦陣地)です。あの上杉謙信が多くの死傷者を出して敗退したのは有名な話です。

より大きな地図で 印旛沼の城 を表示


ネットで参考にさせていただいた下高野館の記事を枠内に紹介いたします。検索した結果、詳しい記載は、この一件のみでした。
http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/joukan-tiba/simokouya-yakata-2009/simokouya-yakata-2009.html
城跡ほっつき歩記  2009年3月30日掲載
下高野館
凸千葉氏系統の小城館か
「八千代の歴史」(上巻)によりますと、「仮称下高野館」として掲載されています。その明確な歴史的経緯は不明とされていますが、印旛沼へ続く小竹川を俯瞰する台地上に位置し麓に所在する旧家の名称などから千葉氏系統の小城館と推定を行ったうえで、臼井氏、その後の臼井原氏の家臣が拠る一支城という可能性を示しています。
また低地を挟んで東方約500mの台地上にに先崎城が所在していることから、その関連性を深さを示唆しています。
クリックすると拡大凸 台地先端部の遺構
台地の南東端に小祠が祀られた小規模な土塁地形に囲まれた小郭が台地辺縁部に所在しています。また下高野の「北野天神」(天満宮)境内が台地の基部(台地狭隘部)に所在しており、当時においてはこの辺りにも空堀や土塁などの防御施設が構築されていたものと考えられますが、現在の神社の土塁や参道などの整備により地形判別が難しくなっておりました。また天満宮には「堀に落ちた武士の兜を拾い上げて祀ったと伝承の残る」「甲人大明神」(かぶとだいみょうじん)という祭神が合祀され、中世城館との関わりを暗示しています。
台地先端部の遺構は、南と東側を急斜面で囲まれ、西側には堀底道で北側は小郭を隔絶する土塁跡と思しき地形が明瞭に残存していますが、 単郭としては余りに狭隘に過ぎる向きもあります。クリックすると拡大 かといって複郭の形態を具体的に想定するには、耕地化(確か梨畑だったかと記憶)による地形の改変が大きく、日没までの時間の制約もあり天満宮との間の地形の想定は困難でありました。 (注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。 (注2)なお、この「概念図」については「電子国土」等の地形図を参考にして現地作成していますが、おぼろげな記憶を頼りにしているところもあり極めて不正確なものです。
クリックすると拡大凸土塁上の小祠
武蔵型板碑の小片らしきものも散見される土塁上の小祠(祭神不明)。画像右側が郭内ですが、大きめの腰郭ほどの規模しかないことから、この祠が祀られている向こう側の果樹園(たぶん梨畑と記憶)を中心に主郭のようなものが存在していたと考えたいところです。
クリックすると拡大凸下高野館郭跡と堀底道(推定)
画像中央部の平坦地が左手の土塁により遮断され、やや不整形な小郭状の地形を形成しています。  また、画像右下が堀底状の道となって麓の旧家まで続きいていますが、堀底道であるのか耕作等のための生活道路であるのかは不明です。
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「八千代市の歴史通史編上」(2008/八千代市)
千葉県八千代市下高野字天神

佐倉市の周辺を治めた3つの城を紹介いたします。ちなみに江戸時代は1603年~1868年で、戦国時代は1467年~1590年です。つまり本佐倉城は戦国時代の城なのです。しいて言えば、臼井城は鎌倉時代、佐倉城は江戸時代の城なのです。戦国時代(1493~1590年)は、日本の総人口が800~1200万人の世界でした。
 臼井城  12世紀中頃~1604年 490年間 平安時代~安土桃山時代 
 本佐倉城 文明年間頃 ~1615年 136年間 戦国時代~安土桃山時代 
 佐倉城  天文年間頃 ~1873年 329年間 戦国時代~江戸時代
文明年間:1469年~1487年  天文年間:1532年~1555年
 蕎麦屋「地蕎麦 みなもと」+ そば畑(約8000㎡)
 酒々井プレミアムアウトレット
 下高野館  先崎城   井野城   小竹城

塩原温泉 その6:朝食後の散策4 [那須・塩原]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

クリックすると拡大早朝の散策から帰ってきて6時50分に帰ってきて7時にバイキングレストランに朝食を食べに行きました。朝食の後は温泉に入ったり部屋でゆっくりして10時にホテルニュー塩原( )の正面玄関から空色ライン(━━)を反時計回り(左周り)に3人で散策いたしました。右の写真は上の航空写真の右上端にある門前温泉神社( )です。クリックすると拡大
 ━━ 散策ルート(周回)
  ホテルニュー塩原 本館
  ホテルニュー塩原 別館(湯仙峡)
  門前温泉神社
  見晴台鱒つり場
  もみじの湯(露店風呂)
  松泉堂本店(温泉饅頭のお店)
  翁の湯(一般非公開 門前自治会用)
  姫の湯(一般非公開 門前自治会用)

朝の温泉に入った後に本館と別館をつなぐ「虹のかけ橋」からの景色を見るとすっかり明るくなりました。この時、9時33分でした。箒川(ほうきがわ)の上流方向なので、背中側からの太陽の光で「虹のかけ橋」の影が落ちています。
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こちらは「虹のかけ橋」から箒川の下流側を撮った写真です。逆光気味なので右側は少し暗いけれども左側の建物には日が当たって鮮やかに見えます。食後の朝の散策では最初に写真に写っている歩道橋を渡りました。
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ホテルを10時に出発して歩道橋に向かう道を下っているところです。食後の散策は写真の友人2人と計3人で歩きました。写真の顔にはぼかしを入れさせていただいています。今回の3人のメンバーは、その1の記事で説明させていただいたように古くからの親しい友人でありゴルフ仲間でもあります。
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こちらが箒川を渡る歩道橋です。右側にその4の記事で紹介した翁の湯が写っています。
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歩道橋から撮った箒川の上流方向の写真です。ホテルニュー塩原の本館と別館をつなぐ「虹のかけ橋」に太陽の日が当たって鮮やかです。虹のかけ橋の左側が本館出みだり側が別館です。
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こちらは歩道橋から箒川の下流方向を撮った写真です。「虹のかけ橋」から撮った写真と同じ方向ですが低い目線だと雰囲気が違います。
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最初に目指したのは朝食前の早朝の散策では、門が閉まっていて中に入れなかった妙雲寺です。
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こちらが妙雲寺の本堂です。この写真と上の写真の2枚は早朝の散策の時に撮って、記事その4で紹介した写真です。したがってまだ太陽の光は当たっていません。妙雲寺(みょううんじ)は臨済宗妙心寺派の寺院で、鎌倉時代初期に平重盛の妹妙と言われている妙雲禅尼が開基したそうです。つまり約800年の歴史があることになります。本尊の釈迦如来像は平重盛の念持仏と言われているそうです。
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本堂の左方向の写真です。手入れされた庭がきれいでした。
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趣のある建物が沢山ありました。この建物の名前は分かりませんが妙雲寺には沢山の建物が文化財に指定されています。宮殿は本殿の中に置かれています。調べてみるとこの建物は文化財の塩渓文庫(旧閻魔堂)でした。
 本堂   那須塩原市指定有形文化財指定
 宮殿   那須塩原市指定有形文化財指定
 薬師堂  那須塩原市指定有形文化財指定
 塩渓文庫 那須塩原市指定有形文化財指定
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左方向の道が散策路です。左の建物が本堂です。
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庭の奥に大きな滝が見えました。
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滝の名前は常楽滝です。この水はどこから来るのか気になりましたが、の山の奥は標高1100m以上ある山があるところなのです。
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門には「ぼたん苑」と書かれています。妙雲寺と言えば牡丹(ぼたん)が有名なようです。
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門の「ぼたん苑」が読みにくいので露出調整して拡大いたしました。
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これを進むと境内および周辺への散策路です。ちょっとしたハイキングコースのような道が続いていました。道の左側に黄色の丸のところに白い大きな説明板が立てられていますが、これが那須塩原市指定天然記念物指定の「妙雲尼塔の大杉」の説明板のようです。この時は気が付かなくて説明板の写真を撮りませんでしたが、ネットの説明板の文字の配置からわかりました。
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クリックすると拡大ネットから「妙雲尼塔の大杉」の説明板を転用させていただきました。この写真の文字の配置から上の写真の説明板が「妙雲尼塔の大杉」であることを確証しました。右の写真は上の写真から説明板の部分を切り取って少し横幅を広げたものです。下の説明板の文字の配置と右の説明板の文字の配置を比較してみました。クリックすると拡大するのでわかりやすいと思います。
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散策路の左右には沢山の石碑と石像などがありました。これも意味ありげな石碑ですが立ち入り禁止でした。
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この灯篭の真中には鬼らしきものが彫られていました。
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見ごたえのある石碑群で説明板も設置されていました。
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上の石碑群の方への道は高尾太夫墓道です。残念ながら高尾太夫墓道は立入禁止でした。我々が行く右の水戸は「あたごみち」と名付け似れています。
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道に沿って石像が並べられていました。
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「学問の神 天満宮」と書かれた石碑の恩に石の祠があります。祠への道の左側に意味ありげな大きな石が置かれています。SV
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こちらが塩原北野天満宮です。
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意味ありげな石がこちらです。仏足跡(ぶっそくせき)でした。
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仏足跡の説明板がこちらです。説明内容を枠内に転記いたしました。
仏足跡(ぶっそくせき)
むかしインドではお釈迦さまの聖徳を敬慕してそのお姿を形に表わすことを遠慮し足跡を刻んで礼拝していた。
お釈迦さまは広いインド中を歩いて布教された健脚長寿の方であった。吾々もその徳にあやかるべく一心に仏足を礼拝しましょう。
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クリックすると拡大幹周3.5mの塩原町の巨木保護条例の対象の杉の木がありました。これ以外にここから10枚と11枚上の写真のところで説明板のことを書いているように根回り12mの那須塩原市指定天然記念物指定の「妙雲尼塔の大杉」がありますが、気が付かなかったので右の写真を転用させていただきました。妙雲尼塔の大杉の根回りは12mなのは大きな3本の杉が根元で結合しているためだそうです。
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こちらは平家塚です。左側の石碑に平家塚と書かれているのが判っていただけると思います。
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聞きなれないフィトンチッドの説明板があったので紹介します。フィトンチッドは森林の精気のようです。説明内容を枠内に転記します。
植物の不思議な力 フィトンチッド
フィトンチッドとは、「フィトン」は植物、「チッド」は殺菌という意味です。このフィトンチッドという物質は、植物の葉から発散さる炭水化物、テンペン類とよばれる揮発性物質で、樹木に害をあたえる微生物を殺しながら人間の病気予防にも大いに役立つといわれています。
森の中には、保険万能薬のような揮発性物質フィトンチッドが、シャワーのように降り注いでいます。
森は、健康増進のためにもってこいの環境です。
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開けた場所に出ました。沢山のお墓があります。広い墓地になっていました。
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塩原妙雲寺百観音の案内板がありのした。全国にある百ヵ所の観音菩薩が、温泉街ょ一望できる寺山の中腹にジグザクの参道沿いに安置されているそうです。時間的に見るのは難しいので直線の石段で登れる温泉神社まで行ってみることにしました。
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地図の部分だけ切り取りました。途中で観音菩薩像が並べられた参道の一部を見ることが出来るはずです。
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これが温泉神社への直線の石段の登り口です。鳥居の右側に注意書きがありました。
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これが注意書きです。塩原温泉 その4(塩原温泉の朝食前の散策)の記事で「車が通らない山の中の道はサルやクマなども出てくるのではないかと感じたのも戻ることにした」との感は本当だったのだとこの注意看板を見て実感いたしました。4枚上の墓地の写真をクリックすると同じ注意看板が左端に写っていることがわかっていただけると思います。
野生動物(クマ・シカ・サル・ハチ・ヘビ等)が出没しますので十分に注意してください。
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石段の中段です。ここをジグザグの参道が横切っているのです。
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これがジグザクに登っていく参道で100体の観音菩薩が道の脇に置かれているのです。いくつか確認できます。
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石段の上に温泉神社の屋根が見えてきました。
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こちらが温泉神社です。
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温泉神社からさらに登っていく参道です。時間があれば上りたいところですが、ここで断念して直線の石段を戻りました。この先には百観音観音の鐘観音平があります。
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塩原渓谷歩道の標識です。左が妙雲寺で、右の道に行くと、もみじの湯(露天風呂)があります。もみじの湯のそばも通りましたが、沢山の人が入浴されていたので写真は撮りませんでした。
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下の方を見下ろすと建物の屋根が見えました。Googleの地図には見晴台鱒つり場と書かれていました。下に下りて川の対岸からもマスつり場であることを確認しました。
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箒川まで下りてきて紅の吊橋(くれないのつりばし)のところで記念写真を撮りました。全長52.5m吊橋で、2003年に完成した橋です。この吊橋は奥側の片方だけから吊った吊橋です。片持ち式の吊橋に分類されると思います。
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橋を吊っている塔に近づきました。
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ワイヤーを地面に固定る部分です。
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紅の吊橋(くれないのつりばし)の中央あたりから下流側を撮った写真です。
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上流側から見た紅の吊橋です。こちらの写真の方が片持ち式の吊橋であることがわかりやすいと思います。
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今回の散策で箒川の最も上流側まで行って、さらに上流側を撮った写真です。
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最も上流側まで行って下流側を撮った写真です。
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こちらの写真は最上流から戻りながら撮ったものと思われます。おそらく上の写真の中にこの場所があると思うのですが見つかり切れていません
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箒川の説明板があったので紹介します。
箒川について
箒川は、源を高原山に発し、途中幾川かをごうりゅうして、塩原、関谷、佐良土を流れて那珂川に合流する。流程56kmの河川です。
今日、箒側と呼ばれている川の名は、もと法喜川と書かれ、「ほうきがわ」と呼んでいました。古文書によると、元来今の中塩原一帯の住民はほとんど農業を営んでおり、「法喜川」の水は米作りに適していたので、「穂が多く実り喜びにたえない川」ということで、「法喜川」と呼ばれていたのです。明治時代になり現在の箒川という字に替えられました。
栃木県
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クリックすると拡大こちらが見晴台鱒つり場です。驚いたことに仮設の橋で対岸から渡るようです。Googleの航空写真でも確認できます。右の写真は紅の吊橋の下流側から紅の吊橋ごしに見た仮設の橋です。
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趣のある石碑があったので紹介します。出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の一つの名であることから出羽三山の山岳信仰由来した奥州参りの記念碑なのかもしれません。
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紅の吊橋の一つ下流側の蓬莱橋(塩原街道の橋)から撮った紅の吊橋です。
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上の写真から紅の吊橋の部分を切り取りました。吊橋の下側に鱒つり場へ渡るための仮設橋も写っています。
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塩原街道の蓬莱橋の上での紅の吊橋をバックにした記念写真です。赤い運動靴を履いているのが私です。右の写真の方が紅の吊橋が大きく撮れているのは離れたところからズームで撮ったからです。
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この後、前記事「作りたて熱々の温泉まんじゅう」で紹介した温泉饅頭のお店(松泉堂本店)に行き温泉まんじゅうを食べました。
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追伸 2022年12月11日 
関西から2022年12月11日の早朝の新幹線で関東の家に帰っているところです。写真は京都に到着直前の2号車車内の写真です。
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恒例のワンコイン(500円)のおむすび弁当セット(お茶付き)をいただきました。
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きれいな富士山を見ることが出来たので、新幹線からの富士山の写真を3枚紹介します。この川は富士川で、見えている白い橋は富士川水道管橋です。
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小川があると自然を感じます。
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クリックすると拡大この辺りは右の写真のように富士山の前に電線が写るのことが多いのですが、電線が一瞬途切れた時の写真が撮れました。さらにこの日も富士山の写真を撮っている最中に電池が切れましたが、なんとか電池交換が間に合って撮れた写真でもあります。前回の時は間に合いませんでした。
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塩原温泉 その5:作りたて熱々の温泉まんじゅう 松泉堂本店 [那須・塩原]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大ホテルの朝食を食べた後は、みんなで散策に出かけました。いろいろ見ている中で温泉饅頭(温泉まんじゅう)の製造販売のお店があったので食べてみることにいたしました。
松泉堂本店さんの右隣りは、敷地内に400年の歴史の洞窟風呂と源泉がある源美の宿の会津屋です。

私が温泉まんじゅうを買っているところです。注文すると、丁度、作っているところなので少し待つと出来立ての熱々の温泉まんじゅうが食べれると言うことなので10分くらい待ちました。お店の前の角セイロから湯気が出ていますが、この中には饅頭類は入っておらず、作っているのはお店の奥でした。
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作りたて熱々の温泉まんじゅうをゲットいたしました。私が持っているのが温泉まんじゅうです。この時10時56分でした。
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手に持っている温泉まんじゅうの部分を拡大いたしました。3人で食べると1人当たり2個づつです。
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こちらが塩原温泉の松泉堂本店の温泉まんじゅう(温泉饅頭)です。伊香保温泉の記事に書かせていただいたように温泉饅頭の発祥は、群馬県の伊香保温泉の湯の色から来ているというのが定説です。つまり1910年(明治43年)に伊香保温泉の勝月堂が作り出した湯乃花饅頭が温泉饅頭のルーツになりますが、それ以前に類似のものがなかったという証拠は見つかっていないそうです。
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温泉まんじゅうの断面です。写真のピントは断面にはあっていないのが残念です。今回紹介の温泉まんじゅう以外に「栗入り温泉まんじゅう」や「田舎まんじゅう」や「かぼちゃまんじゅう」がありました。
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縁台でお茶を飲みながら温泉まんじゅう食べているを食べている雰囲気を感じてもらえると思います。座っているのは私の友人で写真を撮っているのは私です。もちろん私も同じように縁台に座ってお茶を飲みながら温泉まんじゅうを食べました。お茶を出してもらえるのはうれしい心遣いです。
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縁台で食べたいるところを拡大いたしました。クリックすると拡大
 店名 松泉堂本店 SV 航空写真 しおばラブ(動画)
 住所 栃木県那須塩原市塩原728
 電話 0287-32-2063
 営業 8:00~18:00
 定休 無休 
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塩原温泉 その4;塩原温泉の朝食前の散策 [那須・塩原]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

散策1 5時30分~5時42分 往復12分
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夕食の後に右下の無料の浅井劇団などの演劇を見た後にもう一度お風呂に入って寝ました。ちなみに踊っている役者の方は男性(浅井海斗)です。ホテルの大浴場の写真を撮りたかったのですが、クリックすると拡大夕方や夜は人がいるために撮れなかったので、早朝ならばたくさんある浴場の一つぐらいは無人のところがあると思って翌朝に行ってみましたが、どこも人が入っていて撮れなかったことから、ホテルの外を散策してみることにいたしました。上の写真はホテルの本館入口から正面を撮った写真です。この時5時30分でした。写っている小川の水(少し温かいお湯)はホテルの地下を通って箒川(ほうきがわ)に七絃の滝(七弦の滝)となって流れ落ちていました。SV

赤色ライン(━━)が、泊まっていたホテルニュー塩原から箒川(ほうきがわ)までの散策ルート(往復)です。マイナスのアイコン()を2回クリックするとスープ焼きそばのお店をすべて(3店舗)表示します。
  ホテルニュー塩原 本館
  ホテルニュー塩原 別館(湯仙峡)
  古町温泉神社
  箒川の撮影場所
  スープ焼きそばのお店   かんろの郷 水車 釜彦 こばや食堂
 ━━ 散策ルート(往復)


クリックすると拡大箒川に出た地点から川の上流側を撮った写真です。暗くて景色がよくわかりませんでした。かすかに見えている橋の名前は紅の吊橋です。この場所は路地の奥にありました。右の小さな写真は明るくなってから撮った撮影場所です。写真をクリックすると画像処理で少し明るくした写真を表示します。
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こちらは下流側を撮った写真です。あまりにも暗いので戻ることにことにいたしました。こちらの写真もクリックすると画像処理で明るくした写真を表示します。実際に見た感じは画像処理前のオリジナルの写真に近いです。
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急坂を下りていく散策路の途中にあった古町温泉神社ですが、やはり暗くて何も見えないので、この神社や箒川はもう少し明るくなってから見に来ることにしました。
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ホテルに戻るとまだ5時42分だったので、もう一度大浴場に行ってみましたが、やっぱり人が来てて写真を撮ることは出来ませんでした。代わりに浴場の近くにクリックすると拡大貼ってあった右と下の写真を撮りました。演劇以外も行われていました。パク・ジュニョンさんは山本譲二に見いだされた韓国出身の演歌歌手だそうです。コンサートは、この日(12月14日)でしたが、我々は13時過ぎにバスが出てしまうので見ることは出来ませんでした。
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クリックすると拡大散策2 6時05分~6時30分 往復25分
高いところから朝日を撮りたかったので、山の方向に登ってみました。右の冒頭の写真の坂道の上から撮った写真です。正面の明かりが見える大きな建物がホテルニュー塩原です。この時6時05分でした。
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山の方に登り始めると泊まったホテルニュー塩原が見えてきました。SV
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すでに空は赤色になっていました。期待しながらさらに登りました。SV
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上の写真と同じ方向の写真です。
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道のそばに小さな小川もありました。SV
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途中に文化会館/公民館の看板もありました。SV
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なかなか太陽が見えません。
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開けた場所に出ましたが、これ以上登っても朝日を見ることは出来ないことが判ってきたので登るのはここまでにして戻りました。SV
車が通らない山の中の道はサルやクマなども出てくるのではないかと感じたのも戻ることにした理由でした。さらに4km進む那須塩原ドローン練習場おおるりグラウンド・ドローン飛行場に行けることが、あとでわかりました。標高差は233m(=875m-642m)、そこまでは建物らしいものが見当たりません。ホテルニュー塩原からだと4.9kmの距離で高低差は317m(=875m-558m)でした。
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下りてくると明るくなってきました。SV
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塩原温泉も見えてきました。
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ホテルニュー塩原の正面の直線の坂道に出てきました。登り始めた時の写真と比べていただくと明るくなったことが判っていただけると思います。この時6時29分でした。
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ホテル(左側の建物)の前に戻ってきました。この時6時30分でした。朝食の7時ころまでは時間があるのでホテルには入らないで、さらに散策を続けることにしました。暗くて写真が撮れなかった早朝に散策した川の方向に行くことにしました。ホテルの前の道路は国道400号線です。
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散策3 6時30分~6時50分 周回20分
古町温泉神社の石碑の周辺の景色も見えるようになっていました。石碑の後ろには説明板があります。
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その温泉神社と古町の説明板の写真です。クリックすると拡大するので読みやすくなると思います。
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こちにか古町温泉神社だと思われます。朝早く来た時は電気もついていませんでしたが、この時は電気もついていました。
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敷地の中には祠や石像が置かれていました。
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下りてきた方向に振り返って川の方に下る坂道を撮りました。
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路地を抜けると箒川(ほうきがわ)があります。
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箒川に出ました。最初に来た時に、この場所から箒川の上流側と下流側の写真を撮ったのです。真ん中に妙雲寺は右方向との標識が立っています。
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同じアングルで上流側を撮りました。紅の吊橋もよく見えます。
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同じように下流方向の写真も撮りました。遠くに泊まったホテルニュー塩原が見えます。
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下流方向に歩きました。ホテルニュー塩原が大きく見えてきました。
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ホテルニュー塩原が目の前に見える場所まで来ました。七絃の滝(七弦の滝)もよく見えます。SV
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ホテルの本館の対岸側の塩原街道の温泉街です。Hotel New Shiobaraと書かれているのが泊まったホテルニュー塩原の別館があるところです。SV
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今は別館の湯仙峡ですが、昔はここがホテルニュー塩原の本館の入口だったようです。→航空写真
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趣のある寺がありました。妙雲寺と書かれています。ホテルから箒川に出たところにあった標識に書かれていた妙雲寺はここにありました。SV
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大門をくぐると、さらに山門が見えました。最初の門が大門で、奥の門が山門であることは案内板でわかりました。
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門が閉まっていて中には入れませんでした。早すぎたようです。朝食を食べた後に来てみると門は開いていました。
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門の隙間から撮った本殿です。
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閉まっていた山門のところから大門の方を撮った写真です。
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参道の石碑の写真です。徳一大師塩原温泉開湯千二百年記念碑と書かれていました。徳一大師が大同元年(806年)に温泉を発見したと言われているそうです。
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妙雲寺の案内板を紹介します。
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本館側に戻るために歩道橋を渡ると浴場らしいところがありました。
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これがこの建物です。共同湯の一つのようです。
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名湯・翁の湯だそうです。妙雲寺の近くには姫の湯もあるそうです。下に記載のように、それぞれ女性専用時間(レディースタイム)が設けられていました。男性専用時間が設定されていないので、これ以外の時間は混浴なのかもしれません。いい温泉のようですが、カギの使用は原則自治会加入者と書かれているので一般の人は利用できないようです。
 女性専用時間(レディースタイム)
  翁の湯 19:30~20:30
  姫の湯 20:00~21:00 姫の湯がある路地のSV
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この石段の方向がホテルなので登ってみました。
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クリックすると拡大予想通りホテルに戻れました。この時6時50分でした。SV
部屋に戻って7時05分に朝食を食べに部屋を出て、右の写真の朝食(お茶漬けと味噌汁とわらび餅とおはぎ)を食べました。さらに追加でカレーもいただきました。
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こちらが散策2と散策3のルートを地図に書き込みました。1回あたりは短いけれども合計では57分の早朝の散策となりました。
    散策1 5時30分~5時42分 往復12分 → ポチッ
 ━━ 散策2 6時05分~6時30分 往復25分
 ━━ 散策3 6時30分~6時50分 周回20分
     翁の湯   姫の湯

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