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戦国時代の城 下高野館(しもこうや やかた) [千葉]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2022年12月15日追記 タイトル:下高野館の発掘の結果が出ました。
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地元で「下高野館」と呼ばれる右下の写真の小高い丘の上は城館跡とされていましたが、推定の域を出ていませんでした。クリックすると拡大2021年2月3日に追記させていただいたように2020年10月中旬から2020年12月20日過ぎまで大規模な発掘が行われて、発見された中世の土塁と堀や地下式坑の遺構や、掘り出された鎌倉期の中国製青磁器や15 世紀の瀬戸・美濃焼陶器片などの遺物などや過去の調査を入れて2022年に郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんによりまとめられた報告書が刊行されて、下高野館は中世城館跡という立地の性格が明らかになりました。その記載部分を枠内に転記させていただきました。
2.下高野 天神の板碑群と発掘調査で明らかになった中世城館址の立地
『通史編』一覧表の「X 下高野・天神」の文正 2 年銘 2 基、文明 13 年・15 年銘各 1 基、年号不明 3 基の計 7 基について、道上氏から提供いただいた村田顧問の手書きの覚 書を参照し、掲載を許可いただいた市博物館所蔵の拓本を地点別に紹介する。
板碑群 3 地点の板碑数は断片を含めると全 13 点、うち梵字・年号銘のある 7 基を採 拓し、『通史編』一覧表に反映させている。
13 点の板碑の現状は、『史談八千代』46 号掲載の写真と航空地図で示したとおり、第 1~3 地点に集積されていている。
この板碑群 3 地点を含む天神遺跡 a 地点台地の縁部分が 2020 年に発掘調査され、 2022 年 3 月に報告書(*4)が刊行された。調査では、中世の土塁と堀、地下式坑の遺構 や、鎌倉期の中国製青磁器や 15 世紀の瀬戸・美濃焼陶器片などの遺物が検出され、これ までも推定されていた中世城館跡という立地の性格が明らかになった。

更に今までに見つかった板碑に関しても報告されていたのでクリックすると拡大下高野の板碑を紹介いたします。下の表は報告書の中の下高野地区で見つかった7つの板碑の属性です。板碑の大きさを知っていただくためにkazuさんに案内されて板碑を見に行った時の写真を右に紹介します。板碑を持っているのがkazuさんです。写真の板碑は文明十三年と書かれた1―①の板碑です。
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こちらは第 1 地点と第 2 地点の板碑群拓影です。報告書から転用させていただきました。
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第 3 地点板碑拓影や2020年の発掘時の写真も紹介します。こちらも報告書から転用させていただきました。
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参考:「天神遺跡 a 地点」発掘調査報告書の第 6 節 まとめの中世から転載
遺構は,南北の台地縁辺に,01M・06M の横堀を造り,最南部に土塁を巡らした主郭を配置している。 土塁には,04M が郭内の防御用堀として掘られている。調査区中央及び北側の遺構群である 01SK・01P・21 ~ 22P・03M は土地利用上,平時での所産と想定したい。
遺物は,22P から 13 世紀中頃~ 14 世紀初頭の中国産青磁連弁文口折皿が出土している。また,15 世紀代の瀬戸美濃焼平碗が同じく 22P から,46P から瀬戸・美濃焼直縁大皿が出土している。戦国後期以前の地域拠点としての土地利用が想定される。
調査範囲外からは,五輪塔・宝篋印塔・板碑等中世の石碑が集積ないし祀られている。 この内,板碑には年代が刻まれており,文正 2 年(1467),文明 15 年(1483)等と 15世紀後半の葬祭儀式の一端を示している。また,近隣住民の方々は,「深山」・「小沢」・「立石」姓が多く,千葉氏系の出自を示していることから,臼井氏や臼井原氏との関連性が考慮される。
筆者注:M=溝(堀) SK=台形成形区画 P=ピット(土坑) DR=土塁

クリックすると拡大発掘で出て来た出土品(出土遺物)の資料を2022年12月18日の宿内砦と臼井城の見学会(右の写真)で頂いたので追加掲載いたしました。21P(第32図)からの出土品は中世時(内耳土鍋)と美濃焼(擂鉢)と石製品(砥石)の3点が出土しました。
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22P(第33図)からは青磁(蓮弁文口折皿)と瀬戸・美濃焼(鉄袖天目茶碗)と瀬戸・美濃焼(灰袖平椀)と瀬戸・美濃焼(灰袖丸皿)と常滑焼(受)と常滑焼(受)と貝製品(お玉か)の7点が出土しました。
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2022年12月18日に発掘の遺構の実測図もいただいたので掲載いたします。
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下高野館(しもこうや やかた)の歴史は判りませんが、下高野館の役目の一つであったと思われるのが臼井城の守りであることから、臼井城の下記の歴史からクリックすると拡大下高野館の歴史を感じることが出来ると思います。右の小さな写真と下の写真は臼井八景を自転車℃廻った時に撮った臼井城です。右の小さな写真は臼井城から印旛沼を見下ろした景色です。ここに立つと城主になった気分になるかもしれません是非ともクリックしてみてください。
 12世紀中頃    臼井常康が築いたと伝わるが定かではない
 14世紀中頃    本格的城郭として整備される
 1479年(文明11年)太田道灌の率いる上杉方に攻められ篭城(7ケ月)の後落城
 1557年(弘治03年)臼井久胤の後見として原胤貞が入り原氏の支配下となる
          1551年(天文19年12月 旧暦)とする説もある
 1561年(永禄09年)上杉謙信に呼応した里見側の正木信茂に攻められ落城
 1564年(永禄07年)原胤貞が奪還
 1566年(永禄09年)臼井城の戦いで上杉・里見勢に攻められるが、これを退ける
 1574年(天正02年)生実城が里見氏の手に落ちたため原氏の本拠となる
 1590年(天正18年)小田原征伐により原氏が滅び、豊臣側に接収された
 1604年(慶長09年)酒井家次の高崎移封に伴い廃城となった
 1610年(慶長15年)佐倉城が完成するに至ってその役目を終えた
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2021年2月3日追記 タイトル:下高野館の発掘が行われました。
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千葉県八千代市下高野の上の写真の小山の上には土塁などが確認されており戦国時代には小城館があったとされています。小城館の当時の呼名は分かりませんが、現在は下高野館(しもこうや・やかた)と呼ばれています。その下高野館があった辺りの発掘が行われたので、2013年に掲載した記事に追記する形で紹介いたします。発掘の写真8枚⦅①~⑧)は以前記載した中で「地元のKさん」と紹介した方に提供していただきました。Kさんは辻切り(藁の大蛇)や庚申塔などの地域の風習を教えていただくなど大変にお世話になっている方です。コメント欄では kazu という名でコメントをしていただいている方でもあります。私自身は発掘は見ていないので説明を受けた内容で掲載いたしました。発掘は2020年10月中旬に始まり2020年12月20日過ぎまで行われたそうです。発掘の埋め戻し工事は2021年1月5日~2021年1月20日頃まで行われたそうです。

今回の発掘エリアを航空写真に書き込みました。緑色に着色した部分です。埋め戻し後しか見ていないので、発掘のために整地された部分も含めたエリアに着色いたしました。


①下高野館跡の発掘
周辺より高台になった最も南西側の発掘場所の写真です。結構大規模に行われたことを写真で知りました。
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同じ場所を2021年2月2日に撮った写真です。埋め戻された後のためすでに整地されていました。残された切り株でも判るように木と竹で覆われていたために全貌は全く分かりませんでした。
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②下高野館跡の発掘
上で紹介した①の写真は北東から撮った写真ですが、こちらは南西方向から撮った発掘中の写真です。この写真から発掘時の写真を撮った時、太陽は南西方向にあったことが分かります。他の発掘時の写真の撮影方向を影の方向から推定することが出来ます。
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同じ場所を2021年2月2日に撮った写真です。②の写真に写っている小屋がこちらの写真にも写っているので同じ場所を撮ったものだと判っていただけると思います。
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③下高野館跡の堀クリックすると拡大
発掘により堀も発見されたそうです。以前に紹介した天神様境内にある右の写真の甲人大明神に立石家が祀った兜(甲)が、この堀に落ちていたいたのではないかと想像されるそうです。昔に下高野館の堀で兜(甲)が発見されて、その甲を天神様境内に祠(甲人大明神)を作り祀ったと伝えられているためにその堀だと考えられたわけです。残念ながら甲自体は失われてしまって今は見ることが出来ないそうです。
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掘りがあったと思われる場所の写真を撮りました。上の堀の後の写真の背景部分が少ないので確実ではありません。
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④戦国時代のお墓
戦国時代のお墓も発掘されたそうです。コメント欄のkazuさんの説明(2021-02-04 08:43)によれば発掘エリアの最も北東側で発見されたそうです。
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⑤中世の住居跡
発掘場所の中の北東方向には中世の住宅跡もあったそうです。館跡からは食料保存の「むろ」は見つかりましたが出土品はなかったようです。
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⑥中世のかまど跡
中世の住宅のかまど跡もみつかりました。
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中世の住居跡の場所も背景から想定してみました。このエリアの一番奥に④の戦国時代のお墓があったそうです。
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⑦奈良・平安時代の住居跡
奈良・平安時代の住居跡も見つかったそうです。おそらく中世の住居跡よりは北西側になるのだと思います。
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奈良・平安時代の住居跡も想定してみました。埋め戻し前に見に来なかったのを悔いております。正確な場所が分かった場合は写真を差し替えさせていただきます。
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⑧縄文時代の住居跡
縄文時代の住居跡まで見つかったそうです。縄文式の住居跡付近からは、矢じりや小さな石器は多数見つかったようです。分析はこれからで確定ではありませんが、物を切るのに使われたと思われる石器のような石も見つかったそうです。残念ながら土器や壺などは見つからなかったようです。
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前に来た時は沢山の木や竹が生い茂っていた下高野館の辺りからは景色を見ることが出来ませんでしたが、発掘のお陰で見晴らしが良くなりました。
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最も南西の場所に基準杭がありました。
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基準杭の辺りから見た景色です。
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下高野館の発掘し埋め戻したところの動画を2021年2月3日に撮ったので紹介します。上の写真の基準杭があった最も南西の場所から発掘現場を回って元の場所に戻って来るところまでを撮っています。元に戻ると繰り返し最初から表示するように設定しています。すべて見ていただくと位置関係が判っていただけるのかもしれません。



2013年6月3日掲載 タイトル:戦国時代の城 下高野館
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今から600年~400年前の千葉県の印旛沼の西側地域には、すでに紹介した小竹城先崎城井野城のように防御のための城が沢山あったことが知られています。その小竹城や先崎城の近くには、同じような役目を持っていたと思われる館の痕跡が、写真の小山の中に見つかっています。また麓の人たちの家にも館があったことが言い伝えられています。その館は八千代市下高野地区にあることから「下高野館」と呼ばれています。こちらの写真は館から南東方向から撮りました。

その下高野館が建っていたと思われる場所を航空写真にマークいたしました。この小山は東、西、南の方向に対しては高台になっていますが北に広がる台地とは同じ高さで、その台地から舌状に突き出た部分なのです。
地形的には先崎城と類似しています。

より大きな地図で 下高野館 を表示
真上からではなく、斜めから見た航空写真も紹介いたします。こちらは発掘前の航空写真です。上の航空写真と比較すると、発掘のために住宅に近いエリアの木を伐採したことが分かります。クリックすると広い範囲をを表示するので、周りの建物の雰囲気が判ると思います。
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このあたりの景観を動画で紹介いたします。 興味のある方はプレーボタン( )をクリックしてみてください。
最初の画面の中心が先崎城で、画面が左方向に移動して一度ズームする場所が下高野館(下高野城)が建っていた高台です。右の写真をクリックすると別画面で動画を見ることが出来ます。
下高野館と先崎城は直線距離で530mでした。


南西方向から下高野館があったあたりを見たものです。この森の中に土塁の遺構が残っています。下高野館の奥の台地は梨畑や畑が広がっていました。下高野館ではなく、上で書いた(下高野)は一般的な呼び方ではありませんが、下高野城と書いた理由は後で説明いたします。
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小山を拡大すると斜面に、小さな祠(ほこら)があります。この小祠は、下高野館が建っていたあたりの土地の所有者(Mさん)の家の氏神様とのことでした。お願いして、高台のあたりを下高野の地元のKさんに2013年5月31日に案内していただいたときに偶然にも高台の畑のあたりで、その所有者のMさんに会うことが出来ことから小山の中に入らせていただいた上に案内までしていただきました。さらに写真撮影の許可もいただきました。
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これがMさんの家の氏神様の祠(ほこら)です。祠の奥が、館の周囲にあったと思われる土塁の一部です。写真の中で右端に写っている方がMさんです。


祠の中の飾りも撮らせていただきました。初めて見るもので真新しい飾りで、この祠が大切に受け継がれていることを感じました。


クリックすると大きな画像PDFを表示Mさんの家では氏神だけてなく、この稲荷大明神も祀られておりました。2つの守り神があるのは珍しいとKさんから教えていただきました。
Mさんの家では辻切りを始め、成らせ餅、節分、サナブリ、カッキリなど、昔からの多くの伝統行事を守っておられます。これだけたくさんの伝統行事を続けられている家は貴重な存在だと思います。右の写真のように「広報よちよ」にも何度か掲載されました。今年の2013年2月14日のNHKのおはよう日本で「下高野の辻切り」が放映されました。同じ2月14日ですがNHKの「こんにちは いっと6けん」でMさんの家の節分行事(右の写真)が放映されたくらいです。クリックすると拡大放送内容は辻切りの記事の後半で紹介させていただきました。→ポチッ
2012年の2月29日にもNHKで千葉県の色々な民俗行事の紹介の中でMさんの奥さんも出演されたそうです。


館があったと思われる場所を囲むように土塁がありました。土塁の上を歩いている方がMさんです。写真を撮られている方が、民俗博物館やこの場所を案内していただいた地元のKさんです。これは館の西方向の土塁です。


北側の土塁から上の写真を撮った方向の写真です。


この石碑の中央には「身魂霊神」と書かれており左右にはカタカナ交じりの漢字で、石碑に由来が書かれていました。写真をクリックすると、完全ではありませんが、その文章を読むことが出来ると思います。
文章は 「大石某ナル者 此地 居城ヲ構ヘタリト伝フモ記録存セス・・・
と始まり「記載ナク年代不詳其ノ後我祖先此處ニ住居ヲ定メ・・・
と続き 「大石氏を身魂?神ト祭リテ以テ・・・
と続き 「其ノ由緒ヲ傅フルモノナリ」と締めくくっています。
この石碑は1925年に立石幸造さんが後世に伝えるために建てたものです。立石幸造さんは現在の当主の先祖の方と思われます。将来のことを考えて倉に残された資料や代々伝えられてきたことを石碑に残したものと思われます。内容から見ると大石氏が城を構えたと書かれていることから城主の姓は大石であったことになります。また「館」ではなく「城」の言葉が使われており、しっかりとした土塁に周囲を囲まれていたことから下高野館は「大石城」あるいは「下高野城」と表現できるのかもしれません。
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館跡に近い場所から、今までに13枚の板碑(いたび)が見つかりました。写真はその板碑です。板碑は中世仏教で使われた供養塔で、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだもので鎌倉幕府(1185~1333年)の武士の信仰に強く関連すると考えられているそうです。一番右の板碑には梵字が読み取れます。
下高野地区は立石さん、小澤さん、深山さんの3つ姓で構成されており、いずれも千葉氏とゆかりのある姓であることから、下高野館も千葉氏系の館主であったと考えられています。
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書かれている文字を読むため所有者のMさんに坂碑を抜いていただきました。写真をクリックすると文字が書かれていることが判ると思います。文字は正確には読めませんでしたが全体の形が判ることから546年前の古さが伝わってきました。発見された板碑のなかで古いものは文正2年(1467年)であることから、少なくとも戦国時代の少し前から館があったものと考えられています。一方、距離的にも関係が深かったと考えられている先崎城は臼井城の支城であったことから下高野館も臼井城(12世紀中頃~1604年廃城)の支城であったと考える方が多いようです。参考にこの時代の年代を書いておきます。最大の戦いは1566年に上杉謙信が臼井城を攻めて謙信が敗退した時ですが、それ以外に臼井城に関わる戦いが記録されているのが1479年、1561年、1564年などがあります。
 鎌倉時代   1185~1333年   板碑の起源
 室町時代   1336~1573年
  建武の新政 1333~1336年
  南北朝時代 1336~1392年
  戦国時代  1493~1590年   印旛沼周辺での戦いの時期
 安土桃山時代 1573~1603年
 江戸時代   1603~1868年
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板碑は発掘された場所の近いところに祀られていました。
この坂碑は「大先祖 八良右エ門 之墓」に祀られていました。
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小山の上から館跡の方向(南方向)を撮ったものです。この畑からも沢山、板碑が発見されたそうです。


館があったあたりは東側、南側、西側は急な崖になっていることから北側から上がっていきます。この道は梨園に軽トラックが上がっていくために整備されたものと思われます。道の脇にも太い木が生えていることから軽トラックが通れる道が整備される以前にも、元となった道があったと想像されます。昔、この元となった道が、空掘りだったのか、単なる小道だったのかは判りませんが、昔も北側のみが館に上がってこれる方向だったことは、まちがいないことである上に、この天満宮あたりは畑以外は、昔のままの地形と想像されることから、何らかの防衛のための地形だったのだと想像されます。直感的に、この道は空堀であったのではないかと感じました。左側の土手の奥に館がありました。左側の土手は単なる自然の地形なのか土塁なのかは今となって判断が難しいところですが、少なくとも入口に近いところは土塁になっていたのだと思います。畑で削られた部分を頭の中で復元してみると全体の形が判ってくるものと思います。


この写真は空堀かもしれない道を上り詰めたあたりです。今となっては確認はできませんが、道が空堀であったとするならば、つきあたり付近が昔の主郭への入口である虎口ということになります。そんな想像をしてみるとロマンを感じます。


これが空堀と思われる道の近くにある菅原神社です。 地元の方は天満宮と呼ばれていました。


天満宮の拝殿と本殿です。この近くの地域は江戸時代は幕府領とクリックすると拡大旗本領と佐倉藩領で構成されていました。隣接する小竹村、井野村、青菅村、先崎村、上高野村は佐倉藩に属していました。下高野村は寺社除地という区分で272村で構成された印旛郡地域で1村だけの区分でした。寺社除地の定義はよくわかりませんが特別な地域であったようです。
そんな下高野村に版木が伝えられていました。その版木から刷ったのが右の版画です。版画は大宰府天満宮・宮司・西高辻信長・氏により鑑定されたそうで右上に、宮司の「天満大自在天神」の添え書きが書かれていました。
クリックすると拡大菅原道真の別称に「天満大自在天神」があることから、こちらの天満宮は学問の神様ということで近隣の受験生の方が絵馬を奉納されていました。そんなこともあり菅原神社の名前が使われている気がします。絵馬には版画の「天満大自在天神」が使われている、ここだけの絵馬です。
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天満宮の横にはいくつかの社がありました。奥から2つ目の鳥居の社(祠)が下高野館と縁のある「甲人大明神」です。沢山の社(祠)は麓の人たちが、それぞれに担当があり大切に管理されているそうです。
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これが正面から見た「甲人大明神」です。下高野館のあった小山の下の方の庭で昔の武士の兜が発見されたそうです。その兜を祀ったのが「甲人大明神」です。
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その兜は残念ながら盗まれてしまったので、今は社(祠)の中には石碑が祀られています。大切な文化財は、みんなで大切にしてほしいものです。
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天満宮(菅原神社)と下高野館の関係を示す地図を紹介します。庚申塔と書かれているのは下高野地区の庚申塔を建てられている場所です。今で庚申講が続いており、庚申塔の建立も1993年、2000年、2007年とつづいており、7年ごとにあたる来年(2014年)には新しい庚申塔が建てられるそうです。
また辻切りも下高野地区には6体あり、この地図上にも2体を見ることが出来ます。クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大福蔵院は下高野地区のお寺で、明治初期には井野小学校の分校「下高野小学校」でもあったようです。写真は左から「下高野の庚申塔」「下高野の辻切り」「沢山の十九夜塔が建つ福蔵院」です。十九夜塔も7年ごとに建立されており来年2014年に庚申塔とともに建てられるそうです。


下高野館に関してはネツトにも詳しい説明がないことから、下高野館跡を案内してもらったKさんにお願いして2013年5月31日に八千代市立郷土博物館の方の話を伺いに行きました。その後に下高野館跡に行ったわけです。八千代市立郷土博物館(黄色マーク )には貴重な資料が展示されており国道16号を挟んでジョイフル本田の園芸売場(青色マーク )の向かいにあるので、是非とも買い物の時にでも一度、見てみてください。入館料は無料です。スーパー・イズミヤ八千代店(空色マーク )の隣でもあります。
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郷土博物館の内部です。一部のもの「撮影禁止と記載」を除いて写真撮影も許可されています。


下高野館の周辺の戦国時代の城跡を緑色のマークで紹介いたします。マークをクリックすると名前と説明を表示します。中心近くの左側のマークが下高野館(下高野城)です。この画面上に出てきている城跡は下高野館、井野城、先崎城、小竹城、臼井城、臼井田宿内砦、洲崎砦、稲荷台砦、田久里砦、忍台城、師戸城、岩戸城、保品竜害城、神野館、正覚院館、米本城ですが、広範囲を表示させると志津大口館、志津城、上峠城の位置もマークしております。まだマークは付けていませんが新川の西には吉橋城、尾崎館、高津館、妙泉寺城、神久保寺台館、飯網権現砦がありました。臼井城( )の近くは洲崎砦、臼井田宿内砦、稲荷台砦、田久里砦、忍台城などが臼井城を守っていたと思われます。今回は地図ではなく高低が判る地形図を使用しました。地形図の中のアイコン写真地図をクリックするとまた違ったことを発見できるかもしれません。黄色のマークは八千代市立郷土博物館と上杉謙信が臼井城を攻めるために築いた一夜城(野戦陣地)です。あの上杉謙信が多くの死傷者を出して敗退したのは有名な話です。

より大きな地図で 印旛沼の城 を表示


ネットで参考にさせていただいた下高野館の記事を枠内に紹介いたします。検索した結果、詳しい記載は、この一件のみでした。
http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/joukan-tiba/simokouya-yakata-2009/simokouya-yakata-2009.html
城跡ほっつき歩記  2009年3月30日掲載
下高野館
凸千葉氏系統の小城館か
「八千代の歴史」(上巻)によりますと、「仮称下高野館」として掲載されています。その明確な歴史的経緯は不明とされていますが、印旛沼へ続く小竹川を俯瞰する台地上に位置し麓に所在する旧家の名称などから千葉氏系統の小城館と推定を行ったうえで、臼井氏、その後の臼井原氏の家臣が拠る一支城という可能性を示しています。
また低地を挟んで東方約500mの台地上にに先崎城が所在していることから、その関連性を深さを示唆しています。
クリックすると拡大凸 台地先端部の遺構
台地の南東端に小祠が祀られた小規模な土塁地形に囲まれた小郭が台地辺縁部に所在しています。また下高野の「北野天神」(天満宮)境内が台地の基部(台地狭隘部)に所在しており、当時においてはこの辺りにも空堀や土塁などの防御施設が構築されていたものと考えられますが、現在の神社の土塁や参道などの整備により地形判別が難しくなっておりました。また天満宮には「堀に落ちた武士の兜を拾い上げて祀ったと伝承の残る」「甲人大明神」(かぶとだいみょうじん)という祭神が合祀され、中世城館との関わりを暗示しています。
台地先端部の遺構は、南と東側を急斜面で囲まれ、西側には堀底道で北側は小郭を隔絶する土塁跡と思しき地形が明瞭に残存していますが、 単郭としては余りに狭隘に過ぎる向きもあります。クリックすると拡大 かといって複郭の形態を具体的に想定するには、耕地化(確か梨畑だったかと記憶)による地形の改変が大きく、日没までの時間の制約もあり天満宮との間の地形の想定は困難でありました。 (注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。 (注2)なお、この「概念図」については「電子国土」等の地形図を参考にして現地作成していますが、おぼろげな記憶を頼りにしているところもあり極めて不正確なものです。
クリックすると拡大凸土塁上の小祠
武蔵型板碑の小片らしきものも散見される土塁上の小祠(祭神不明)。画像右側が郭内ですが、大きめの腰郭ほどの規模しかないことから、この祠が祀られている向こう側の果樹園(たぶん梨畑と記憶)を中心に主郭のようなものが存在していたと考えたいところです。
クリックすると拡大凸下高野館郭跡と堀底道(推定)
画像中央部の平坦地が左手の土塁により遮断され、やや不整形な小郭状の地形を形成しています。  また、画像右下が堀底状の道となって麓の旧家まで続きいていますが、堀底道であるのか耕作等のための生活道路であるのかは不明です。
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「八千代市の歴史通史編上」(2008/八千代市)
千葉県八千代市下高野字天神

佐倉市の周辺を治めた3つの城を紹介いたします。ちなみに江戸時代は1603年~1868年で、戦国時代は1467年~1590年です。つまり本佐倉城は戦国時代の城なのです。しいて言えば、臼井城は鎌倉時代、佐倉城は江戸時代の城なのです。戦国時代(1493~1590年)は、日本の総人口が800~1200万人の世界でした。
 臼井城  12世紀中頃~1604年 490年間 平安時代~安土桃山時代 
 本佐倉城 文明年間頃 ~1615年 136年間 戦国時代~安土桃山時代 
 佐倉城  天文年間頃 ~1873年 329年間 戦国時代~江戸時代
文明年間:1469年~1487年  天文年間:1532年~1555年
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 下高野館  先崎城   井野城   小竹城