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臼井八景を廻ってきました。 [千葉]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2022年12月19日再掲載 タイトル:臼井八景を廻ってきました。
クリックすると拡大前記事の下高野館で臼井八景のことを記載したのを機会に本記事「臼井八景を廻ってきました。」を再掲載させていただきました。
偶然にも2022年12月18日に八千代栗谷遺跡研究会主催で行われた「臼井田宿内砦と臼井城の見学会」に参加させていただきました。クリックすると拡大見学会では郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんが説明をしていただきました。佐倉道を歩く会の方も参加されていたお話をうかがいました。上の写真は臼井城の近くにある太田道灌の弟の太田図書(太田資忠)の墓の前で説明を聞いている写真です。太田図書はこの場所で討死したそうです。臼井城には臼井八景の第六景の城嶺夕照(じょうれいせきしょう)があります。私が初めて行った臼井田宿内砦での見学会の様子は近いうちに紹介したいと思います。

見学会で臼井八景の紹介が入った臼井に関するクリックすると拡大パンフレット(さんさく-ミニ見にガイド)をいただいたので掲載します。臼井城と宿内砦の辺りは江戸時代の成田山詣の宿場町として栄えた臼井宿で、各所に残る史跡や街並みや寺院から当時の雰囲気が想像されます。右の写真は宿内砦跡で撮っていただいた見学会の記念写真です。クリックするとパンフレット全体を表示します。
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2022年12月19日 本記事への累計 アクセス数:7,256 nice:145 コメント:27

2011年10月10日掲載 タイトル:臼井八景を廻ってきました。
クリックするとGoogle地図を表示
より大きな地図で臼井八景 を表示→ポチッ (クリック)
私が住んでいる近くに印旛沼があります。その印旛沼の景観で臼井八景(うすいはっけい)と言われるものがあることを最近いただいたブログへのコメントで知り、さっそく自転車で日曜日(2011年10月9日)、八景すべて廻ってきました。臼井八景とは江戸から臼井村に隠棲した「信斉」と当時の円応寺住職であった「宋的」により中国の瀟湘(しょうしよう)八景にならって元禄11年(1698年)に印旛沼の美しい風景の中から臼井の八景を選び出したものです。
上の航空写真の緑のマークが臼井八景の場所で、そこには佐倉市の掲示板が立てられていました。赤いラインが自転車での散策ルートです。左側(西側)から来て臼井八景を廻ったあと元の道を戻りました。
 第一景 舟戸夜雨(ふなとやう)     船戸大橋近く
 第二景 遠部落雁(とうべのらくがん)  西印旛沼自転車道路沿い
 第三景 飯野暮雪(いいのぼせつ)    西印旛沼自転車道路沿い
 第四景 師戸帰帆(もろときはん)    船戸大橋近く
 第五景 瀬戸秋月(せとしゅうげつ)   西印旛沼自転車道路沿い
 第六景 城嶺夕照(じょうれいせきしょう)臼井城址(臼井城公園)
 第七景 光勝晩鐘(こうしょうばんしょう)光勝寺
 第八景 洲崎晴嵐(すざきせいらん)   八幡台第一公園

これが第一景の舟戸夜雨(ふなとやう)の掲示板です。臼井八景には自転車で廻ったので記念のために自転車と掲示板を一緒に撮らせてもらいました。残りの掲示板に関しても全て自転車と一緒に撮りました。掲示板の写真をクリックすると、書かれているいる文字が読める大きさの画面が出るように設定いたしました。掲示板の下の写真は、掲示板の位置から見れる景色ですが城嶺夕照と光勝晩鐘と洲崎晴嵐の場所からは印旛沼が見れないので、近くの見晴らしのよい場所からの写真です。
 漁する船戸の浪のよるの雨 ぬれてや網の縄手くるしき
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こちらが第二景の遠部落雁(とうべのらくがん)です。臼井城からは最も遠い場所になります。西印旛沼自転車道路沿いにあります。
印旛沼の干拓は江戸時代に入ってから行われたことから臼井八景が選定された1698年ごろは自転車道路沿いは陸地ではなく印旛沼の中であったために、当時に景色を眺めたのは、もっと内陸の今の住宅地あたりだと思います。
 手を折りて ひとつふたつと かぞふれば みちて とおべに 落つる雁がね
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クリックすると拡大こちらが第三景の飯野暮雪(いいのぼせつ)です。こちらも西印旛沼自転車道路沿いです。東側にある丘の印旛沼サンセットヒルズに登ると森鷗外之詩の碑があり、転用させていただいた右の小さな写真のようなダイヤモンド富士も見ることが出来ると聞きました。
 ふり積る雪の夕べを見ぬ人に かくと いひのの ことの葉もなし
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こちらが第四景の師戸帰帆(もろときはん)です。船戸大橋近くからの景色です。白鷺が沢山いました。景色の写真はクリックすると拡大します。
 もろ人の諸戸の渡り行く舟の ほのかに見えて かえる夕ぐれ
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こちらが第五景の瀬戸秋月(せとしゅうげつ)です。こちらも西印旛沼自転車道路沿いでする。
 もろこしの 西の湖かくやらん には照る浪の 瀬戸の月影
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こちらが第六景の城嶺夕照(じょうれいせきしょう)です。臼井城跡からの景色です。掲示板は臼井城跡である臼井城公園の入口に立っているため掲示板の位置からは印旛沼の景色は見えません。写真の景色は本丸跡から撮ったものです。
 いく夕べ 入日を峯に送るらん むかしの遠くなれる古跡
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こちらが第七景の光勝晩鐘(こうしょうばんしょう)です。掲示板は丘の中腹にある光勝寺に立てられていたので丘の上まで上がって景色の写真を撮りました。
 けふも暮れぬ あはれ幾世をふる寺の 鐘やむかしの音に響くらん
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クリックすると拡大こちらが第八景の洲崎晴嵐(すざきせいらん)です。 八幡台第一公園です。ここは住宅地の真中になるために、この公園からは右の写真のように印旛沼を見ることが出来ません。丘の上から降りて同じ方向の写真を掲載しました。この景色を高い位置から見たのが洲崎晴嵐です。
 ふき払い雲も嵐もなかりけり 州崎によする波も静かに
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臼井八景発祥の地と呼ばれている円応寺です。今から300年以上前の円応寺二十四世住職の玄海(宋的)と江戸から隠棲した「信斉」によって臼井八景が考えられたことから、このお寺が「臼井八景発祥の地」と呼ばれているわけです。信斉の子孫は臼井城主となります。正式名を臼井秀胤と言います。
クリックすると自転車を表示

光勝晩鐘のある光勝寺も趣のあるお寺なので写真を紹介いたします。


城嶺夕照である臼井城跡は臼井城址公園となっています。冒頭の航空写真で印旛沼の周りの水田は江戸時代以降に干拓されたために水田の部分が印旛沼であったと想像すると臼井城は南側以外は印旛沼に囲まれた堅固な城であったと想像できます。
一緒に撮らせてもらった私の自転車を紹介いたします。→ポチッ


下の3枚の地図はネットから拝借した昔の地図です。これは昔の臼井城です。今は水田の部分は印旛沼でした。つまり上の写真の位置からは、もっと手前まで湖があり大きく広がっていました。


さらに古い時代(約1000年前)は霞ヶ浦や北浦、さらには手賀沼とつながていて印旛沼のあたりは印旛浦と呼ばれ、香取海という汽水の内海の一部でした。江戸幕府の度重なる干拓および洪水対策の利根川治水工事(利根川の流れを東京湾から銚子から太平洋に注ぐ川に変える工事)、それに伴う土砂の流入、さらには近年の干拓および治水工事により徐々に現在の印旛沼に変わっていきました。


6000年前から5000年前の関東平野も紹介いたします。

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