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宿内砦 千葉県佐倉市 [千葉]

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昨年の年末に下高野館の発掘調査の報告書をいただいたのをきっかけに2022年12月18日に行われた臼井城跡とそれを守る宿内砦の見学会に参加させていただきました。臼井城跡には何度も行ったことがありましたが宿内砦跡は初めてだったので紹介したいと思います。宿内砦(しゅくうちとりで)は現在の住所で千葉県佐倉市臼井田にあることから臼井田宿内砦跡(うすいだ・しゅくうちとりで・あと)とも呼ばれています。本記事の記載は「跡」も省略して宿内砦と表現いたします。見学会は郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんの案内で行われました。参加者は「八千代栗谷遺跡研究会」や「佐倉道を歩く会」の方々でした。参加者は私を含めて22名だったそうです。

上の写真はこの宿内砦の図の南西方向に位置するⅢ郭から北東側にあるⅠ郭に上る部分のの写真です。クリックすると拡大下図は見学会でいただいた資料から転用させていただきました。出典は「臼井田宿内砦跡(主郭部第 1・2・3・4 次)発掘報告書」と書かれていました。右の小さな立体的なイメージはネットから転用させていただきました。臼井田宿内砦は、12世紀中頃に臼井常康が築いたと伝わる臼井城の支城・砦として築城されたと考えられています。その後の詳しい歴史は不明ですが、1604年に臼井城は廃城となり、佐倉城が完成した1610年には役目を終えたようです。宿内砦が役目を終えた正確な時期は判りませんが数百年たった今でも、砦であった地形が残されているのは素晴らしいことだと思います。
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臼井城は宿内砦、洲崎砦、仲台砦、田久里砦、稲荷台砦と5つの砦で守られていた言われています。赤色の矩形で砦の名前を囲っています。当時は干拓はまだ行われていないと思われることから臼井城の北側は印旛沼や湿地に囲まれるような地形であったと思われます。宿内砦の近い位置にありましたが臼井城があった丘とは別の独立した丘の上にあり、臼井城に隣接した南側にある丘にある宿内砦は守りの重要な役目を持っていたと想像されます。この図でも宿内砦は最も大きな砦であったように感じます。宿内砦と稲荷台砦は同じ丘(台地)の上にありますが、他の砦と臼井城は独立した丘(台地)の上にあるのが特徴の防御システムなのが上杉謙信をも跳ねのけた臼井城の特徴のようです。下で紹介している記事3(城郭図鑑)の記載では「臼井城は数次に及ぶ攻防戦が展開された城であり、戦いが終わる度に弱点が補強されて複数の砦を擁する下総屈指の大城郭へと発展を遂げた。臼井田宿内砦も外郭を形成する砦のひとつで臼井城の南側の守りを固めていた。稲荷台砦と隣接するようなかたちで築かれており、このあたりは永禄年間に上杉謙信の軍勢が臼井城へ攻め寄せたとき敵味方が鼻先を接するような距離で対峙した場所でもあった。」と書かれていました。
地図内の緑の枠が上の地図の範囲です。
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Googleマップの航空写真に臼井城( )と5つの砦( 宿内砦、洲崎砦、仲台砦、田久里砦、稲荷台砦)をプロットいたしました。紫色のマークは1566年(永禄09年)に上杉謙信が臼井城を攻めた時に短期間で作ったとされる陣地(一夜城 )です。この時、臼井側は謙信勢を退けたことは有名な話です。橙色ライン(━━)と空色ライン(━━)が見学会で歩いたルートです。約4kmです。出発は京成臼井駅で解散は御伊勢公園でした。黄色ライン(━━)で囲ったところが宿内砦です。
 宿内砦、洲崎砦、仲台砦、田久里砦、稲荷台砦
クリックすると拡大  臼井城
  杉謙信の一夜城  一夜城公園→
 道誉上人の墓塔
 長源寺
 太田図書の墓
 稲荷神社
 阿多津の碑
  臼井駅(集合)→宿内砦→道誉上人の墓塔→長源寺
  長源寺→太田図書の墓→臼井城→稲荷神社→御伊勢公園(解散)


Google地図で地名の臼井田のエリアを表示させるといろんな場所にとびとびになっていました。赤いラインで囲われところが臼井田です。これは臼井田の中に新しい住宅地が出来るなどして、新しい地名が出来ることで部分的に地名がが変わってきたためだと思われます。地名としては、臼井八幡台臼井台南臼井台稲荷台などがあり、1889年以前は臼井村、臼井田町、臼井台町、角来村、江原村、江原新田村などがありました。1889年~1954年(佐倉市が出来た年)までは千葉県印旛郡臼井町が大きなエリアを占めていました。
 臼井城  千葉県佐倉市臼井字城之内
 長源寺  千葉県佐倉市臼井田818-2
 宿内砦  千葉県佐倉市臼井田809
 洲崎砦  千葉県佐倉市臼井田1213
 仲台砦  千葉県佐倉市八幡台2丁目3-6
 田久里砦 千葉県佐倉市南臼井台23
 稲荷台砦 千葉県佐倉市臼井1丁目111-2
  Gooleマップ → 地図 地図(拡大) 航空写真 航空写真(拡大)
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ここからは見学会で歩いた雰囲気で宿内遺跡を紹介したいと思います。見学会の集合場所であり出発地点の京成臼井駅(京成電鉄・京成本線)です。元々は2022 年 11 月 23 日 に八千代栗谷遺跡研究会主催で行われた中世城郭遺構についての学習会のあとに行われる予定の現地見学会でしたが雨のために見学会は中止になり12月18に行われることになったものでした。見学会が延期されていなければ、見学会に参加することは出来ませんでした。
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待ち合わせ場所の改札口です。集合時間は12時30分でした。時間が近づくとそれらしい人が沢山集まられていましたが、参加者の中で顔を知っているのは資料をいただいたりブログにコメントをいただいているkazuさんだけだったので、kazuさんが来られるまで待って皆さんに紹介していただき、出発いたしました。
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駅を出て須吾の景観です。宿内砦は駅の近くの高台の上にあるため住宅地の中を歩きます。
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正面右上の小山が宿内砦跡です。
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宿内砦に登り始めました。
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木が生い茂っていていました。駅に近い高台にあることから住宅開発の危機にさらされていることから、保存を訴えてきているそうです。
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写真の右端に写っている坂道を登りきると宿内公園(しゅくうちこうえん)の標識がありました。当時は、この場所も宿内砦でした。宿内砦の跡は宿内公園となっていて一部は住宅地となっています。
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道の左側は住宅地ですが当時は砦の一部だったようです。
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砦として保存されているところにたどり着きました。砦のⅢ郭の一部にです。
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砦内に入っていく前に郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんに宿内砦に関して説明していただきました。
詳しく知りたい方はこちらをクリックしてください。→ポチッ
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保存されている砦の部分に進みました。ここからが宿内公園となっているのです。
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Ⅲ郭の広い広場です。
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Ⅲ郭とⅠ郭の間の空堀と思われる地形が残されていました。左側の上がⅠ郭です。
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階段を上がるとⅠ郭およびⅡ郭です。
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各所の説明をしていただきました。
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階段は2ヶ所に設置されていました。階段は公園として付けられられたものだと思います。
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階段を上ってⅠ郭に上がりました。
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階段を上がると、広いⅠ郭(主格)が見えてきました。
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皆さんが主郭(Ⅰ郭)に上がってきたところです。
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これが主郭(Ⅰ郭)です。臼井城を守の5つの砦の中で一番広いと感じました。砦というよりは城と言ってもおかしくないほどでした。Ⅰ郭、Ⅱ郭、Ⅲ郭と揃っていることからも城と呼んでもおかしくないほどの大きさでした。臼井城と丘がつながって入れは゛臼井城の一部のようになりますが、それぞれの丘は高低的に独立しているのです。
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宿内砦(主郭部第 1・2・3・4 次)発掘図です。この図も見学会でいただいた資料から転用させていただきました。驚いたことに城郭形成時代の遺構だけでなく弥生時代の竪穴式住居跡や古墳時代の竪穴式自由居跡も確認されました。さらに縄文土器、弥生土器、古墳時代時、中世陶器、近世陶器、近世磁器、近世陶磁器、銭貨なども出土したことから、日本の総人口が2万~15万人の陽に非常に人口の少ない縄文時代から人が住んでいた可能性がある貴重な場所であることも分かったようです。
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最初に紹介した図の中に上の発掘図の範囲を橙色の枠で入れてみました。
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臼井城と同じように砦の上から印旛沼が見えました。Ⅰ郭はタンポポの丘と名付けられていました。
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この場所から印旛沼が見えやすいので、皆さん集まってきました。
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そのタンポポの丘の看板の前で記念写真を撮りました。撮っていただいたのは見学会の講師の郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんです。
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印旛沼が見えます。ただし陣内砦の周囲はきが多く生えているので印旛沼がよく見える場所は少なかったです。水田の干拓が行われる前の当時の印旛沼は現在よりも臼井城や宿内砦を囲むように広がって防御しやすい地形だったのかもしれません・
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印旛沼がよく見えるように拡大いたしました。
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この場所からも印旛沼が見えやすかったです。
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宿内砦の広いⅠ郭(主郭)には長源寺が建っていました。驚いたことに臼井城が廃城になってからではなく、廃城なる34年前の現役の砦の時に長源寺が創建されたのです。臼井城が上杉・里見勢に攻められ、これを退けた1566年(永禄09年)から4年後のことだそうです。戦時下でありながら寺を主郭に建てたのは、沢山の人が住むことで見張りの役目になったのかもしれないと説明されていました。1772年(安永元年)の火災で焼失していなければ、今もこの場所に立派な寺が建っていたのかもしれません。
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こちらも広いⅠ郭(主郭)の一部です。
臼井城と長源寺にかかわる歴史を記載いたします。
 12世紀中頃    臼井常康が築いたと伝わるが定かではない
 14世紀中頃    本格的城郭として整備される
 1479年(文明11年)太田道灌の率いる上杉方に攻められ篭城(7ケ月)の後落城
 1557年(弘治03年)臼井久胤の後見として原胤貞が入り原氏の支配下となる
          1551年(天文19年12月 旧暦)とする説もある
 1561年(永禄09年)上杉謙信に呼応した里見側の正木信茂に攻められ落城
 1564年(永禄07年)原胤貞が臼井城を奪還
 1566年(永禄09年)臼井城の戦いで上杉・里見勢に攻められるが、これを退ける
 1570年(元亀01年)宿内砦の主郭に長源寺が創建される。
 1574年(天正02年)生実城が里見氏の手に落ち臼井城は原氏の本拠となる
 1590年(天正18年)小田原征伐により原氏が滅び臼井城は豊臣側に接収された
 1604年(慶長09年)酒井家次の高崎移封に伴い臼井城は廃城となった
 1610年(慶長15年)佐倉城が完成するに至って臼井城の役目を終えた
 1772年(安永元年)長源寺が火災で全てを焼失する
 1781年(天明元年)宿内砦跡の丘の麓(現在地)に長源寺が再建される
 1997年(平成09年)長源寺がの現在の伽藍が完成
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ここはⅡ郭があったあたりです。Ⅱ郭はⅢ郭あたりからⅠ郭の西側回り込むエリアですが、ここはⅠ郭の西側のところです。
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Ⅱ郭やⅢ郭とは段差が付けられていました。Ⅱ郭やⅢ郭の間の段差の部分から東方向にⅠ郭を見た景色です。宿内砦に関するネットの記事を探してみました。→記事1 記事2 記事3 記事4 記事5  
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臼井城のⅠ郭から撮った宿内砦の台地の写真です。臼井城とは平地を挟んで別の台地になっていることがわかっていただけると思います。
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宿内砦からは、この道を下りて行きました。この場所もⅡ郭です。
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みんなで下りているところです。
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宿内砦の一部と言ってもおかしくないほど隣接して墓地がありました。この腰曲輪の墓地に1570年(元亀元年12月)に長源寺を開山した道誉上人の墓(五輪塔)があるのです。
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こちらが宿内遺跡のⅡ郭から墓地に降りて来た道です。旬内遺跡内にある墓地と言ってもおかしくないほど隣接した墓地です。
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こちらが道誉貞把上人の墓塔です。
道誉貞把は永正12年(1515年)に和泉国日根郡鳥取庄(大阪府)でに生まれ、13歳で出家して1531年には関東へ下り、武蔵国の三縁山増上寺で修行しましたたそうです。その後、故郷での説法に失敗し再び関東に下り、その途中、かねてから霊験あらたかであることを知っていた成田山不動尊で21日間の断食をしたそうです。1551年になると下総国生実城主原胤清の招きにより龍沢山玄忠院大厳寺の開山となり、さらに1555年に増上寺9世の貫主となったそうです。1570年(元亀元年12月)には臼井城下に龍沢山玄忠院新大厳寺(長源寺)を開山し、1574年(天正2年12月7日)に60歳で死去したそうです。
五輪塔は戦国時代末期の造立だそうです。無縫塔は江戸時代の1832年(天保3年)に造立されたそうです。道誉上人墓は、戦国時代末期の臼井地方の寺院史を考える上で貴重だそうです。墓の傍らに大きな杉があり、長源寺山の大杉といわれていたそうです。
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郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんにより説明を受けているところです。
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道誉貞把上人の墓塔の横に野球の長嶋茂雄選手の実家の墓がありました。ご利用心とお兄さんが眠られています。
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こちらは長嶋家代々の墓です。
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次に長源寺に行くためのこちらの階段を下りました。
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階段を下りたところです。
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完全におり切りました。右側が宿内砦です。この場所の標高は3mに対して宿内砦や臼井城の標高はこのことからも臼井城と宿内砦は近い距離であるけれども急な斜面で囲まれた独立した丘(台地)にあることが分かっていただけると思います。城を攻める側からすれば、一方を攻める時に、23m前後です。クリックすると拡大もう一方から背後を攻められることを考えながらの攻防になるのだと思います。
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長源寺と思われる建物が見えてきました。
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長源寺への標識が立てられていました。右に行くと阿多津の碑があると書かれています。阿多津(阿辰)は臼井城主の佑胤(すけたね)の子の竹若丸の乳母でです。正和3年(1314年)に臼井城主佑胤が死に臨んで、幼児竹若丸の後見を弟の志津城主志津次郎胤氏に 託したが、胤氏は竹若丸を殺害し、臼井を乗っ取ろうと企てたそうです。これを知った阿多津は、岩戸城主岩戸五郎胤安に告げ、竹若丸を鎌倉 の建長寺に逃したそうです。怒った胤氏に阿多津は追われて城を逃れ芦原に 潜んだが、咳が出て発見され殺されてしまったそうです。村人はこれを憐れみ 後に石の祠を建ててまつったのが阿多津の碑です。竹若丸は阿多津のおかげで立派に成人したそうです。
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こちらが長源寺です。宿内砦の主郭(Ⅰ郭)に1570年(元亀01年)に建てられていた長源寺は1772年(安永元年)に火災で全てを焼失し、1781年(天明元年)に、この場所に再建されました。現在の建物は1997年(平成09年)に建てられたものです。
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建物に近づきました。
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来た道をふり返って撮った写真です。
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正面から撮った写真です。ここの住所は佐倉市臼井田818番地の2です・
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本殿に架かっていた扁額です。龍澤山と書かれています。長源寺の正式名は龍澤山長源寺だそうです。
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この場所には明治6年1月16日に臼井小学校が置かれて、明治17年8月25日には臼井村役場が置かれたそうです。つまり長源寺が臼井村の人達に深く関わっていたことの証だと思われます。
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石塔や石仏は左から双体石仏、百万遍供養塔、地蔵尊です。
双体石仏は舟形浮彫となっていて、観世音と阿弥陀如来像二体が蓮華台の上に並んで立っています。百万遍供養塔は天和2年(1682年)に集落の人の念仏が百万回に達したことを記念し建てられたそうです。この地蔵尊の台石正面に「享保十六年辛亥夭七月十八日 秀誉宗秋比丘」台石右側面に「臼井村紀伊国屋 施主 船津太郎兵衛」台石左側面に「寛保元辛酉歳四月日」最下段の台石裏面に「江戸本所石工和泉屋」 の文字があることから、1741年に施主が、1731年に若くして亡くなった人の供養のために、建てたものと思われているそうです。
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長源寺は下記の「うすい花の八ヶ寺」の一つのようなので枝垂れ梅が咲くころに行ってみたいと思います。
 光勝寺 桜        長源寺 枝垂れ梅
 妙傳寺 梅        常楽寺 藤
 円応寺 もみじ      実蔵院 牡丹
 妙覚寺 さるすべり    宗徳寺 あじさい
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京成臼井駅から長源寺までの見学ルートが分かりやすい尺度のGoogleマップの航空写真を紹介いたします。
  臼井駅(集合)→宿内砦→道誉上人の墓塔→長源寺
  長源寺→太田図書の墓→臼井城→稲荷神社→御伊勢公園(解散)

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