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本佐倉城のマスコットキャラクター「勝っタネ!くん」 [千葉]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。


2023年2月21日再掲載 タイトル:本佐倉城のマジを再掲載
クリックすると拡大先日、臼井城の記事を掲載した機会に本佐倉城の記事をブラシュアップして再掲載いたしました。大きな城でありながらあまり知られていない城です。
右の図は臼井城の配置図です。臼井城も本佐倉城も佐倉城より前からあった城です。

2015年11月29日掲載
タイトル:本佐倉城のマスコットキャラクター「勝っタネ!くん」
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クリックすると拡大2015年11月24日に、地元産の新ソバが11月下旬から食べれる蕎麦屋「みなもと」で新蕎麦をいただきました。蕎麦屋の場所は千葉県印旛郡酒々井町尾上123-25で、その帰り道の近くに本佐倉城があります。そこで本佐倉城に行ってみることにいたしました。千葉県には沢山の城跡が残されていますが、佐倉周辺の城跡の中で大きなものが次の3つです。その中の本佐倉城は上の図のように規模が大きいにも関わらず、一般には知られていないようなので、今回、紹介したいと思い記事にいたしました。本佐倉城に来て写真を撮ったのは下記の3度目です。家内と来たのは今回が初めてでした。家内も、これだけの規模で国の史跡にも関わらず、あまり知られていないのはもったいないとの感想でした。
クリックすると記事を表示クリックすると記事を表示 2013年11月06日 14時ごろ EOS 5D
 2015年09月28日 09時ごろ EOS 5D
 2015年11月24日 13時ごろ G7X

3つの城の場所と年代を紹介いたします。ちなみに江戸時代は1603年~1868年で、戦国時代は1467年~1590年です。つまり本佐倉城は戦国時代の城なのです。しいて言えば、臼井城は鎌倉時代、佐倉城は江戸時代の城なのです。戦国時代(1493~1590年)は、日本の総人口が800~1200万人の世界でした。着色文字をクリックすると過去に掲載した記事を表示します。
 臼井城  1114年ごろ~1604年 490年間 平安時代~安土桃山時代 
 本佐倉城 1479年ごろ~1615年 136年間 戦国時代~安土桃山時代 
 佐倉城  1544年ごろ~1873年 329年間 戦国時代~江戸時代
 下高野館 先崎城  井野城  小竹城  中世(臼井城の傘下)
 蕎麦屋「地蕎麦 みなもと」+ そば畑(約8000㎡)
 酒々井プレミアムアウトレット


印旛沼の水田干拓前の地図に3つ城をプロットしました。昔は本佐倉城の脇に印旛沼があったことがわかります。本佐倉城と臼井城は印旛沼に突き出した半島状の地形に造られました。
   臼井城    佐倉城    本佐倉城


本佐倉城には10台程度の駐車場が用意されていていますが、周辺の道は細く道が判りにくいので、下記の住所をナビに入力することをお勧めします。駐車場の近くまで行けると思います。
徒歩で行く場合は最寄駅の京成本線の大佐倉駅が便利です。大佐倉駅から本佐倉城の入口まで約1㎞です。主格があった城山までは約1.3㎞です。地図をクリックすると広範囲を表示します。
 住所 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉823
   徒歩 大佐倉駅から本佐倉城
   車  京成佐倉駅から本佐倉城
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地形がわかりやすい図に名称を追加させてもらいました。
  城名   本佐倉城 もとさくらじょう
  別名   将門山城 根古谷城
  城郭構造 連郭式平山城
  天守   なし
クリックすると拡大  築城主  千葉介 輔胤 ( 千葉 輔胤 )
  築城年  文明年間
  主改修者 千葉氏
  主な城主 千葉氏、小笠原吉次、土井利勝
  廃城年  1615年(元和元年)
  遺構   堀、土塁
  文化財  国の史跡


現在の周辺は水田や畑で囲まれていますが、城があったころは沼および湿地帯で囲まれており堅牢な要塞であったことがうかがえます。この図は右下の方向が北になります。
城域は内郭と外郭に分かれており、内郭は南方に谷が刻まれた半島状の丘陵上に占地し、往時は三方を沼および湿地帯で囲まれた要害でした。一方の外郭は内郭から繋がる丘陵上を自然地形と空堀で分断した広大な地積を持ち、千葉氏の勢力が伸張したのち、家臣団の屋敷地として整備されたと考えられています。現在でも城の土塁や空堀などの遺構が、ほぼ完全な姿で残っており、1998年9月11日に「本佐倉城跡」として国の史跡に指定されました。


城はⅠ郭からⅦ郭で構成されています。Ⅳ郭以外は名前で呼ばれていますが、Ⅳ郭は城ノ内ではなくⅣ郭と呼ばれることが多いようです。内郭であるⅠ郭~Ⅶ郭の外側にも荒山、向根古谷、佐倉根小屋などの3つの外郭群が存在していました。Ⅰ郭の城山以外の郭の性格は確認調査による成果からの推測のため、調査が進むにしたがって性格が変わってくることもありうるそうです。
クリックすると拡大  Ⅰ郭 城山 
  Ⅱ郭 奥ノ山
  Ⅲ郭 倉跡
  Ⅳ郭 城ノ内
  Ⅴ郭 東山馬場
  Ⅵ郭 東光寺ビョウ
  Ⅶ郭 セッテイ山
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本佐倉城の航空写真です。水田部分が昔は印旛沼および湿地帯でした。上の地図と比較するとそれぞれの郭の現在の状況が分かってもらえると思います。


本佐倉城の北側の入口である東山虎口あたりを遠くから撮った写真です。本佐倉城(もとさくらじょう)は、千葉県印旛郡酒々井町本佐倉と佐倉市大佐倉にまたがる将門山に築かれた千葉氏後期の本拠地となった城です。文明年間(1469年-1486年)の築城と考えられており、国の史跡に指定されています。城があったころは写真を撮っている位置は印旛沼の上でした。虎口(こぐち)とは中世以降の城郭における出入口のことで、守るために狭い通路になっています。
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上と同じ写真で東山虎口あたりを拡大いたしました。本佐倉城の文字が読み取れると思います。
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クリックすると拡大城のビューポイントからの景色です。東山虎口の近くです。目の前を京成本線が走っています。城があったころには水田部分が一面、印旛沼だったことを想像願います。天気が良ければ右の写真のように筑波山を見ることが出来ます。
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東山虎口に近づきました。右下の方に説明が立てられています。
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東山虎口の説明です。東山虎口にはに二重に門が建てられて敵の侵入を守っていました。
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東山虎口に向かって登っていきます。
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説明の通り道が曲がりくねっていました。蛇行した狭い通路と二つの門と内枡形の長方形の空間によって非常に厳重守られていたことが伝わってきました。
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登り詰めると城内の雰囲気になっていました。城の雰囲気を感じてもらうためか、Ⅳ郭と呼ばれているあたりに木製の盾が並べられていました。左側には東山馬場が広がっています。
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この上がⅣ郭部分です。Ⅳ郭は城ノ内と呼ばれることもあり、段々状に家臣団屋敷などがある兵站地であったのではないかと思われています。
この写真をGoogle地図に登録してみました。→ポチッ
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城の内側から東山虎口を見た景色です。右の高くなっている部分が東山と呼ばれているところです。ここにも説明が立てられていました。
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こちらの説明板には、東山虎口の門と、東光寺ビョウと、南奥虎口の説明がが書かれていました。
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Ⅳ郭から東山馬場方向を見た景色です。
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こちらが東山馬場です。名前の通り馬場考えられています。建物跡は見つかっていないそうです。
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東山馬場からさらに下りていくと車で来るルートに出ます。その入口から見た本佐倉城です。
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その入口には国史跡「本佐倉城跡」の石碑が立っていました。


石碑は2002年(平成14年)に建てられたものでした。


東山馬場から登っていく方向の写真です。
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こちらがⅣ郭虎口です。この奥に昔は門がありました。道には堀底道と名前が付けられていました。
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Ⅳ郭虎口の説明板です。
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堀底道を登っていき左に曲がると大堀切があります。ここで城山に向かうために左に曲がりました。
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左がⅠ郭である城山で右がⅡ郭である奥ノ山です。城山と奥ノ山は木橋がかけられていたと推測されています。
ここお登って向側に下りていくと分かれ道になっていて、それぞれ城山への道と奥ノ山への道になっています。
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大堀切の説明板には大堀切を登りきったところに木戸があったことが書かれています。
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ここが分かれ道です。右に行くと奥ノ山で、左に行くと城山です。ここも厳重な守りであったことが想像できました。
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左に曲がると城山への道が続いていました。右側は空堀です。ここは城山虎口です。
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城山への道を登の切ったところらも門があったことが書かれていました。
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このあたりに城山の門があったわけです。
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城山門跡の説明板です。2006年の発掘調査で門跡が見つかったそうです。門をくぐると主殿がありました。
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ここが城山です。右側から登ってきました。
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城山には沢山の建物があったことが発掘でわかりました。
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初めて本佐倉城に来た家内は興味深く見て回っていました。
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発掘により城山(Ⅰ郭)で、下記の遺構が見つかりました。
クリックすると拡大 主殿 11.45m x 15.14m
 遠侍 10.1m x 5.7m
 会所 11.2m x 13.5m
 園池 11m x 8m
 築山 8m x 5m
 建物4棟(台所・倉庫・便所など)
 櫓2棟(平櫓・井楼櫓)
 門2棟
 塀(門連結・土塁上)
 通路
 木橋(城山と奥ノ山を連結)
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城山にあった主殿(上)と会所(下)に類似した建物の写真です。
主殿の写真は青森県の根城で復元されたものです。会所の写真は岐阜県の江馬氏館の復元された会所です。このような建物が城山郭に建てられていた想像するだけでロマンを感じます。
500年前の城は城砦としての性格が強く、外から城内の地形が知られないように低い建物で構成されていたと想像されます。当然ですが、主殿の位置を特定されるような天守閣は設けなかったと感じました。



城山から分かれ道まで下りてきて、今度は奥ノ山の方に向かいました。
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こちらがⅡ郭の奥ノ山です。
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妙見郭とも呼ばれることがあるように発掘で15mx15mの基壇が見つかっており妙見宮の跡と考えられています。
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奥ノ山はかなり広いスペースでした。奥ノ山には本佐倉城(根古谷城)に関する,ステンレスの説明版が設置されたてました。本佐倉城は文明年間に千葉氏21代当主の千葉輔胤により築城されて、1590年(天正18年)に姻戚関係にあった小田原の北条氏と共に滅亡するまで、戦国大名千葉氏宗家の本拠地として9代続きました。その後は徳川氏に接収されて軍事上の必要から佐倉藩の藩庁が置かれました。1615年(元和元年)に藩庁の佐倉城への移転と一国一城制により廃城となりました。本佐倉の城下町は酒々井宿に移設されて成田街道の宿場町になったと考えられています。本佐倉城の前の千葉氏の居城は現在の千葉市の中心にあった亥鼻城(千葉城 1126年築城)でした。千葉輔胤が古河公方足利成氏と結んで下総国を平定したことから1455年に亥鼻城から佐倉に本拠地を移し、その後に本佐倉城を築城したようです。史実から少なくとも1479年には完全には完成していなかったようです。
クリックすると拡大本佐倉城で一番驚いたのは1615年に廃城になり、400年間という長い年月があったにも関わらず、ほとんどの広い土地が畑などにされることもなく昔のままに遺構(空堀、土塁)が残されていたことです。これは周辺の印旛沼や湿地帯が江戸時代から始まった干拓事業により右の写真のような広くて便利な水田や畑が身近なところに、あったことが影響している気がします。
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本佐倉城の城主は妙見宮で元服しており、千葉氏の守護神とされていたと説明されていました。
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Ⅲ郭となる倉跡です。確認調査によって掘立柱建物が広範囲に分布していること分かったことから
その名の通り倉庫群が存在したと考えられています。炭化した米も沢山見つかりました。供膳具や調理具や貯蔵具なども沢山見つかったことから、倉庫だけでなく人の生活するための空間も存在したと考えられています。
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倉跡の上にはⅦ郭のセッテイ山がありました。セッテイ山へ登っていく道です。
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こちらの竹林には節と節の間に緑と薄い黄色の縞模様が表れる金明竹が沢山あることでも有名であることが散策マップに書かれていました。上のセッテイ山へ登っていく道の写真にも金明竹が写っています。金明竹は真竹の突然変異だそうです。


セッテイ山は、その名から接侍郭、あるいは場所的なイメージから人質郭と考えられています。人質郭と考えられているのは主殿から遠く離れており厳重な虎口の形態や大規模な空堀や郭の形状などからです。確認調査において、建物跡の存在がが分かっており、供膳具や調理具や貯蔵具なども沢山見つかっています。また他の郭ではあまり見られない墓石、茶壺、火箸なども見つかっているそうです。本佐倉城で倉跡だけは畑として利用されていました。
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倉跡とセッテイ山の間には高さ10mの空堀があります。堀底道はⅥ郭の東光寺ビョウにつながっています。
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倉跡と奥ノ山の間から南に下りていく細い道です。
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下りて行ったところに妙見神社(妙見社)がありました。
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社には妙見神社と書かれていました。


Ⅵ郭の東光寺ビョウです。本佐倉城で最も広い郭でしたが、その性格に関してはまだ不明だそうです。2つの物見台に守られた空間です。
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南奥虎口は東光寺ビョウから城に登っていく玄関口です。発掘調査によって木戸跡や柵列跡や通路跡が見つかっています。現在は見通しが良い場所ですが、当時は木戸や柵などで虎口内部は見えない状態でした。本城には東山虎口、Ⅳ郭虎口、城山虎口、南奥虎口などの虎口がありました。
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南奥虎口にも詳しい説明板が設置されていました。
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東山虎口の東側が名前の通り東山で険しい自然の尾根がつづいていました。
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東山虎口の西側の土手には諏訪神社(諏訪社)がありました。Ⅳ郭と倉跡の間から行くことが出来ます。
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諏訪神社の社です。
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諏訪神社と書かれていました。


諏訪神社の社の中です。小さな社が祭られていました。
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諏訪神社の周りには小さな社や安産祈願の石像が祭られていました。
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ここは立派な史跡にも関わらず訪問者が少ない場所ではありますが、3回来て初めて多人数で来ている人を見かけました。車数台で来られていました。
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本佐倉城内に沢山の説明板が建てられていましたが、そこには甲冑姿のキャラクターが描かれていました。本佐倉城のマスコットキャラクター「勝っタネ!くん」です。「勝っタネ!くん」は、本佐倉城跡の第3代城主である千葉勝胤(ちば かつたね) をモデルとして作られそうです。
千葉勝胤は1514年に編さんされた連歌集「雲玉和歌集」の中で、「武に優れ、大和歌にも通じ、地に幸草の種をまいた。」 とうたわれた文武に優れたお殿様でした。その幸草のと千葉氏の継名のの字をかけて誕生したのが、文武両道と勝利の神様「勝っタネ!くん」だそうです。体は 幸草の種で作られていて、 手足は、台地にしっかりと根を張る根っこでできています。
 身長155cm、体重130kg、胴回り300cm
 1471年11月16日(文明3年10月5日)生まれの544歳
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クリックすると拡大今回のキャラクターのモデルとなった千葉勝胤は、室町幕府の下総権守で、本佐倉城の城主としては三代目ですが、千葉氏の当主としては二十三代目になります。
 城主     【 当主 】
 初代 千葉輔胤【二十一代】
 二代 千葉孝胤【二十二代】
 三代 千葉勝胤【二十三代】
 四代 千葉昌胤【二十四代】
 五代 千葉利胤【二十五代】
 六代 千葉親胤【二十六代】
 七代 千葉胤富【二十七代】
 八代 千葉良胤【二十八代】
 九代 千葉邦胤【二十九代】

クリヤーな「勝っタネ!くん」を紹介したくて酒々井町のホームページから画像を転用させていただきました。
画像をクリックするとオリジナルを表示します。
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クリックすると拡大最近、家内が佐倉城のイメージキャラクターである右の写真の「カムロちゃん」のぬいぐるみ(700円)を買ったので、「勝っタネ!くん」のぬいぐるみもほしくなりました。以前に酒々井のアウトレットで「勝っタネ!くん」と思われる着ぐるみを見かけた気がしたので、本佐倉城を見た後に、酒々井のプレミアムアウトレットに行き、以前に見かけたフ-ドコ-ト(Food Court)の中にある酒々井コミュニケーションセンターに行ってみました。やはり記憶は正しく、着ぐるみが来たことがあったとのことでした。でも、残念ながら、ぬいぐるみは作っていないとのことでしたが、写真のしおりを無料でいただきました。
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クリックすると拡大家に帰って「勝っタネ!くん」の着ぐるみの写真を探してみました。見つけたので紹介します。写真を撮ったのは2014年7月6日に家内と娘と姪っ子たちとアウトレットに行った時でした。残念ながら今は、着ぐるみがアウトレットに来ることは無いそうです。また、再開してほしいものです。
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クリックすると拡大酒々井町には2つのマスコットキャラクターがあります。右がもう一つのマスコットキャラクターである井戸っこ(しすいちゃん)です。町名の由来となった「酒の井伝説」の井戸の妖精です。特技は井戸座りで、見てのとおりのポッチャリ体系で運動は苦手だそうです。でも、徳利の魔法の水(お酒)を飲みすぎると、たまにダンスを踊っちゃうそうです。