広島での初めての従妹夫婦との食事会 活きウマヅラハギ 海の幸・磯の坊 [広島]
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2024年の3月に関西から関東の自宅に帰る時に、お彼岸(3月17日~3月23日)には少し早かったけれども山口県の周防久保の墓参りをしてから帰ることにいたしました。すでに紹介したように、いつもならば、徳山まで新幹線で行き、そこから周防久保駅の近くの墓参に行くにはバスかタクシーかJR岩徳線で行っていました。それ以前、母が長時間歩ける場合は新岩国まで行き、叔父さん(母の弟)の車で周防久保の墓まで往復してもらっていました。今回は広島に住んでいる従妹が車で広島と周防久保を往復していただくことになり、墓参りをして広島に戻って昼食で一緒に広島のお好み焼きを食べて、原爆ドームや平和記念資料館や縮景園を案内してもらいました。そして前々から約束していた「広島で一緒にお酒を飲む」を実現させてもらいました。タイトルで「広島での初めての」と入れさせていただいたのは、今までに従妹夫婦とお酒を主体とした夕食を一緒にしたことがあったのは下関で1度だけだったからです。昼食では、法事などで下関や岩国や徳山や周防久保などで数回ありました。上の写真はこの日のメインデッシュは、水槽か生簀で泳いでいたウマヅラハギ(フグ目カワハギ科)です。
従妹夫婦は広島駅から歩いて10分の最高の場所に住んでいて、美味しいお店も沢山あると思いますが、この日は日曜日でオフィス街の飲食店の多くはお休みの中で選んでもらったのが、下記の海の幸・磯の坊でした。お店の写真を撮り忘れてしまったのでGoogleマップのストリートビュー(SV)で紹介します。このお店は広島駅にも従妹夫婦の家にも近い場ででもありました。
写真を撮る前に乾杯して飲んでしまいました。
こちらがお店の生簀と水槽です。水槽にはウマヅラハギが沢山泳いでいます。生簀には平目や鯛などが入れられていました。かなり大きな魚も入っていました。生簀があるお店に入ったのは久しぶりでした。右の生簀の写真をクリックすると特別に大きく拡大するので、中の魚が判ると思います。
こちらがお通しです。
こちらのじゃこ天は絶品でした。従妹夫婦は良く知っているので美味しいものを選んでくれました。おろし生姜ではなく、辛子なのが印象的でした。
広島と言えば牡蠣です。牡蠣フライも出てきました。やはり美味しかったです。
こちらは私が希望したものです。活きアジがあるのでつい注文してしまいました。さすが瀬戸内海です。
そして、ついにウマズラハギが出てきました。やはり活きカワハギ系の刺身は美味しいです。魚を捌くのに時間がかかるので私が着く前に最初に注文したそうです。そのほかは私が着いてから注文しましたが、それでも付出し(お通し)を除いてウマズラハギの前に3品出てきました。
お魚の上に乗っているのは肝だと思われます。さすが水槽か生簀で泳いでいただけのことはあり新鮮でした。ウマズラハギの分類を紹介します。
ウマズラハギは地方によっていろんな呼び方があります。カングリ(秋田県男鹿半島付近)、ゲンパ(千葉県)、コウグリ(新潟県)、コウゴリ/バクチコキ(富山県)、ウマヌスト(三重県)、ウマヅラハゲ/だいなんはげ(和歌山県)、オキアジ(鳥取県)、こきめんぼう(島根県浜田市・山口県下関市)、ツノギ(岡山県)、ハゲ(広島県)などです。右下の写真はフリー百科事典のWikipediaから転用させていただいたウマズラハギとカワハギです。
界 動物界 Animalia
門 脊索動物門 Chordata
亜門 脊椎動物亜門 Vertebrata
綱 条鰭綱 Actinopterygii
亜綱 新鰭亜綱 Neopterygii
上目 棘鰭上目 Acanthopterygii
目 フグ目 Tetraodontiformes
科 カワハギ科 Monacanthidae
属 ウマヅラハギ属 Thamnaconus
種 ウマヅラハギ Thamnaconus modestus
漢字 馬面剥
別名 鑢魚/ヤスリウオ(皮膚をヤスリとして利用)
英名 Black scraper
いろんな部位が楽しめます。表面をあぶってたたきに下のではないかと思います。さすがカワハギの種類で活魚なので歯ごたえがありました。
薄造りの身の上に乗っているのは白子だと思います。
薄造りの美味しさを感じていただけるでしょうか。数十分前には泳いでいたウマヅラハギです。
水槽はカワハギが主に入れられていました。
もちろんビールは追加しました。今度は飲む前に写真を撮りました。
こちらは追加で頼んだイワシの天婦羅でしょうか。新鮮な魚の熱々の天婦羅はやっぱり美味しかったです。
日本酒も飲みました。広島の亀齢酒造のお酒なまちょです。地元の冷酒はやっぱりよかったです。広島はどちらかと言えば「柔らかな甘口」が多いそうですが、このお酒は「すっきり辛口」でした。
名前 亀齢酒造株式会社
住所 東広島市西条本町8番18号
電話 082-422-2171
杜氏 西垣 昌弘
創業 1898年(明治31年)
屋号 吉田屋
商号 亀齢(キレイ)
SV https://maps.app.goo.gl/HwMeSD39hNt96cWZA
つい玉子焼きも頼んでしまいました。
お店を紹介します。広島駅の北口から海の幸・磯の坊( )まで徒歩で402mです。海の幸・磯の坊から泊まったホテル( )までは558mで、泊まったホテルから駅の北口まで324mでした。
名前 海の幸 磯の坊
住所 広島県広島市東区光町1-8-11
電話 082-263-6220
営業 11:30〜13:50 17:00〜23:00
定休 無休
位置 海外も含めて食事したレストランの地図で表示→ポチッ
参考に食事したレストランの地図を紹介します。レストランのアイコンをクリックすると掲載した記事のURLを表示します。食事した話題性のあるレストラン国内320店、海外188店の、合計508店をプロットしています。
縮景園 [広島]
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広島の平和公園で原爆ドームや平和記念資料館の次に従妹夫婦に案内してもらったのが、下記のように今年で404年の歴史がある縮景園(しゅっけいえん)でした。現在は日本庭園として有名ですが、起源は元和6年(1620年)に広島藩浅野氏初代藩主(大名)である浅野長晟が命じて作らせた藩主の別邸でした。1940年(昭和15年)に浅野家が広島県に寄贈したことで現在に至っているそうです。
正式名が縮景園となったのは1951年ですが、Wikipediaによれば、1700年代初頭には庭園を縮景園と呼んでいたと推測されているようです。上の写真は園内の超然居(ちょうぜんきょ)から跨虹橋(ここうきょう 俗称:太鼓橋)方向を撮った景色です。記念写真を撮っている家族の光景がほほえましいです。
歴史 1620年(元和6年) 藩邸(別邸)として着工 名称:泉水屋敷
1758年(宝暦8年) 宝暦の大火(広島大火災)で建物の多くが消失
1783年(天明3年) 京都の庭師清水七郎右衛門を呼び寄せ大改修
1913年(大正2年) 一般公開
1940年(昭和15年) 浅野家から広島県に寄付 県の公園となる
1945年(昭和45年) 原爆により壊滅的被害(爆心地から約1.35km)
1949年(昭和24年) 復旧開始
1951年(昭和24年) 縮景園と改称され再開園
1970年代 復旧工事完了
縮景園入口の門です。平和公園近くの駐車場から従妹夫婦の車でこの写真を撮った縮景園の駐車場に移動しました。写真の縮景園の入口の門は冠木門(かぶきもん)と呼ばれる形式です。両側の2つの門柱に冠木といわれる横木(梁)を渡した屋根がない門です。
形式 池泉回遊式庭園 大名庭園
面積 4.76ha(47600㎡/14399坪)
住所 広島市中区上幟町2-11
電話 082-221-3620
管理 広島県
開園 3月16日~9月15日 9:00~18:00
9月16日~3月15日 9:00~17:00
入園 一般:260円 高・大学生:150円 小・中学生:100円
HP https://shukkeien.jp/
こちらが入園券売場でいただいた縮景園の案内図です。参考に4種類の散策コースが書かれていました。
━━ じっくりコース 基本順路50分
━━ 西回りショートコース 西回り・30分
━━ 東回りショートコース 東回り・30分
━━ 車椅子コース
上の案内図には散策の4種類の推奨コースが書かれていますが、我々が歩いたのは下記の地図の臙脂色ライン(━━)です。
泉水屋敷(縮景園)の文字が確認出来る、寛永年間(1624年~1644年)の広島城下絵図を紹介します。赤色ラインで囲ったところが泉水屋敷です。絵図には御泉水屋敷と書かれています。泉水屋敷が着工したのは1620年なので泉水屋敷の最も初期の状態と思われます。作庭した当初の庭は御泉水と称し、池の中央に長い欄干橋を架け、橋の対岸には山を築き、橋の左右に一対の島を配し、橋の袂に数寄屋設けていたそうです。現在と違い植え込みは少なく、人の侵入が判るように築山のほとんどが芝生の山だったそうです。ほぼ現在の姿になったのは天明3年12月(1783年)~天明8年8月(1788年)の「天明の大改修」だそうです。
絵図はWikipediaから転用させていただきました。
こちらが入口の門くぐってところから見える景色です。まっすぐの道の突き当りに清風館が見えます。
上の写真のまっすぐな道の途中から右に入って芝生広場の方を見た景色です。
こちらは清風池だと思われます。
3月だったので植木の防寒対策の「こも巻き」が残っていました。
こちらが清風館(せいふうかん)です。数寄屋書院造りで屋根は杮葺き(こけらぶき)なっています。
池を挟々亭(ゆうゆうてい)が見える景色です。挟々亭は茅葺きの四阿(あずまや)で古くは歌会や納涼茶会などが行われていたそうです。池の名前は濯纓池(たくえいち)です。
天明の頃(1783年~1788年)に7代藩主の浅野重晟が庭師の清水七郎右衛門に造らせた跨虹橋(ここうきょう)です。地上と天上を結ぶ虹に例えられているため、橋が大きく反っている構えになっているそうです。右の反対サイドの写真は旅行+フォトウエデングのサイトから転用させていただきました。
幼稚園時代に、私と従妹がこちらの構図で写真を撮ったそうなので、同じ構図で記念写真を撮ってみました。
跨虹橋(ここうきょう)の頂上から撮った景色です。松が2本植わった小さな島にも水心島(すいしんとう)という名前が付けられています。濯纓池(たくえいち)に橋や沢山の島島が作られているのは、浅野藩は参勤交代で大阪までは船を用いたことから、船上より眺めた瀬戸の景色を7代藩主の浅野重晟の大改修時に反映されたようです。
跨虹橋から降りた場所から撮った池の景色を3枚紹介します。四阿(あずまや)がある景色です。
松と水が美しい景色です。右端の松の影に東屋らしいものが写っています。 椅子に座って景色をゆっくり眺めることが出来る駐杖榻(ちゅうじょうとう)だと思われます。縮景園には少なくとも4,826本の樹木があると言われているそうです。被爆樹木つまり戦前からある樹木が3本でその他は戦後に植えられたものだそうです。主要樹木は、クロマツ6.9%、ヤマモミジ2.7%、クスノキ2.5%、ソメイヨシノ2.0%だそうです。
松のはえている浮島を拡大しました。このような鶴島や亀島が12余り造られているそうです。ネットなどによると西池には超然居(ちょうぜんきょ)、積翆島(せきすいがん)、緑蘋洲(りょくひんしゅう)、蒼雪島(そうせつとう)、蘭舟嶼、滴翆島(てきすいとう)、水心島(すいしんとう)で、東池には清漣島(せいれんとう)、小蓬莱(しょうほうらい)、緑亀島、烟霞島、昇仙島、望春島です。
島の位置が分かる案内図をネットから転用させていただきました。画面をクリックして拡大すると島の名前が読み取れると思います。超然居、積翆島、緑蘋洲、蒼雪島、蘭舟嶼、滴翆島、水心島、清漣島、小蓬莱、緑亀島、烟霞島、昇仙島、望春島と13の島が確認できます。
池には沢山の錦鯉が泳いでいました。
驚いたことに池には海(汽水域)に住む魚も泳いでいました。写真の魚はボラのようでした。チヌ(黒鯛)に似た魚も見かけました。池は汽水域の川とつながっているそうなのです。Wikipediaで調べてみるとチヌ(黒鯛)は淡水域まで遡上することもあり、川鯛と呼ばれる地域もあるそうです。
これが京橋川(太田川水系の分流)とつながっている水門と思われます。
原爆により園内で命を落とした被爆者の遺体の大部分は火葬されましたが、火葬されず園内の丘に埋葬され遺体もあったと伝えられていたことから発掘が行われたけれども見つかりませんでしたが、被爆直後に縮景園を訪れた朝日新聞の松本栄一カメラマンが被爆して枯れた木の根元に遺体が埋葬された旨を記した立札を撮影した写真が見つかったことからことから1987年に再度発掘調査が実施され64柱の遺骨が発見され、その場所に下の写真の慰霊碑が建立されたそうです。慰霊碑の背景は京橋川です。右の写真は原爆で被害を受けた1945年11月頃の縮景園です。
慰霊碑から明月亭方向を撮りました。
こちらが明月亭です。
別の角度から見た明月亭です。内部には茶室、控之間、水屋之間、玄関之間あり、数寄屋造りで、一部書院造りの様式を持っているそうです。屋根は茅葺で、庇は杮葺きです。窓枠に牛車の車輪を用いたデザインで数寄を凝らしています。
明月亭あたりからの景色です。
先ほど川側の水門を紹介しましたが、こちらは池側の水門です。
白龍泉の説明書きがありました。これによると1807年(文化4年)に牛田山の清水谷から取水管で白龍泉や超然居に水が湧き出るようにしたそうです。ただし現在は井戸水を使用しているそうです。
こちらが白龍泉の水だと思われます。
水の流れを追ってみました。
「御腰掛なば石」の説明板がありました。茸に似た自然石を腰掛石としたもので、江戸時代に土佐国から持ち帰ったものと伝えられているそうです。肝心の「御腰掛なば石」の写真を撮り損ねたので右にネットから転用させていただきました。中国・九州地方では茸のことを「なば」と言うそうです。
最も北西方向から池を見た景色です。左側が古松渓(こしょうけい)です。
こちらが夕照庵(せきしょうあん)です。東方向から見た夕照庵です。
上の写真の反対側(西方向)から見た夕照庵です。茶室です。
馬の調教訓練に用いた調馬場の跡の横には梅林が広がっていました。
縮景園の中で最も人が集まっているように感じた場所です。写真の中の四阿(あづまや)があるところが超然居(ちょうぜんきょ)です。そこは園内最大の島で、園内の池が広く見渡せる場所でもあります。
超然居からの景色を4つ紹介します。こちらは跨虹橋(ここうきょう)がある方向の景色です。
上の写真の少し左側の景色です。第7代藩主の浅野重晟(1743年~1814年)は隠居後に頼春水(1746年~1816年)や梅園大嶺に縮景園名勝と縮景園八勝の計38ケ所の景観を選定させたそうです。縮景園八勝は岡岷山(1734年~1806年)が描いた縮景園八勝図が残っているそうです。縮景園八勝図は長汀桃花/長堤桃花(右の写真)、池亭納涼、松間明月、連峰積雪、前川行舟、隴畝烟雨、晴窓眺望、宮岳彩雲です。
さらに左側の景色で、池の最も西側の景色です。
こちらは跨虹橋から右側の景色で、大きな建物が清風館(せいふうかん)です。
右の写真の跨虹橋(ここうきょう)から撮った写真から切り取って露出調整した超然居(ちょうぜんきょ)です。この超然居(ちょうぜんきょ)から上の4枚の写真を撮りました。右の跨虹橋は超然居から撮った写真(冒頭の写真&4枚上の写真)から切り取りました。
左端に超然居(ちょうぜんきょ)の四阿(あづまや)の一部が写っています。観瀾・洗心の両橋で結ばれ人里離れた静寂な場所を表しているそうです。周辺の模様は、上田宗箇の代表的な作意であると言われており、清水七郎右衛門は上田宗箇の意思を尊重して縮景園の大改修でも、ここは手を加えなかったと言われているそうです。
小舟も景色の一部になっているようでした。
変わった形の石灯籠がありました。楊貴妃型石灯籠です。右の説明板には「形が唐の楊貴妃(ようきひ)が付けた冠に似ていることから、この名が付きました。同じ形のものには、京都市大徳寺内の聚光院(じゅこういん)にある千利休の墓があります。この二つが楊貴妃型と言われる貴重なものとされています。」書かれていました。
清風館(せいふうかん)に戻ってきました。
清風館の正面側に来ました。
後ろを見ると入口の冠木門(かぶきもん)がありました。ここを出て広島駅前のホテルに送ってもらい、いったん休憩して18時20分から海の幸・磯の坊で一緒に夕食を楽しみました。
入園券売場でいただいた縮景園の案内を紹介します。
詳しい説明も書かれていて参考になりました。いろんな外国語の案内が用意されていました。
母の日プレゼントのマーガレット・バブルガム・ブラスト(Margaret Bubblegum Blast)を地植えにしてみました。 [植物]
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上の写真は昨年(2023年)に私の家内が、私の母に送った母の日(2023年5月14日)のプレゼントとして送ったマーガレットの鉢植えです。家内からの母の日のプレゼントとして花の鉢植えは良く送っていましたが、マーガレットは初めてでした。今まではカーネーションやアジサイやランでした。ちなみに今年に家内が送った母の日(2024年5月12日)のプレゼントは右の写真のカーネーションでした。ランに関しては鉢植えのまま飾っていますが、カーネーションやアジサイは母の日が過ぎると庭に地植えにしてきました。したがって実家の庭には今までの母の日のプレゼントの花が植わっています。
はじめてのマーガレットも母の日が過ぎたので、実家の庭に植えてみることにしたのです。マーガレットの分類を紹介します。マーガレットの原産地はカナリア諸島で、17世紀末にヨーロッパへ渡り、日本には明治時代末期に伝わり、大正時代から幅広く栽培されるようになったそうです。マーガレットの和名は木春菊(モクシュンギク)だそうです。今回のマーガレットの栽培品種名は「マーガレット バブルガム ブラスト(Margaret Bubblegum Blast)」でした。2020年2月の時点においてモクシュンギク属(Argyranthemum)には23の種が登録されています。その中の一つの品種であるマーガレット(モクシュンギク)だけでも、黄色やピンクのもの、八重咲き、丁字咲きなど多くの栽培品種があるそうです。
界 植物界 Plantae
門 被子植物門 Magnoliophyta
綱 双子葉植物綱 Magnoliopsida
亜綱 キク亜綱 Asteridae
目 キク目 Asterales
科 キク科 Asteraceae
亜科 キク亜科 Asteroideae
連 キク連 Anthemideae
属 モクシュンギク属 Argyranthemum
種 モクシュンギク Argyranthemum frutescens
英名 Marguerite(マーガレット) Marguerite daisy
和名 木春菊(モクシュンギク)
これが2023年5月15日に植えた母の日のプレゼントのマーガレットです。
そして今年(2024年)に見事に花を咲かせてくれました。こちらの写真は2024年4月15日に撮ったものです。
それも見事に大きな株に育って沢山の蕾を付けてくれました。写真は2024年4月19日です。
5月に入ると満開に近くなりました。写真は2024年5月06日です。4月に咲いた花も枯れていないのには驚かされました。
そして母の日の前日の2024年5月11日には全ての花が咲いて満開になりました。つまり満開になる日が'母の日'だったのです。まさに母の日のための花と言えるのかもしれません。咲き始めは赤紫色に近いローズピンク色で、濃いピンク色→淡いピンク色に変化しました。
別の角度から撮った写真です。花数はざっと見て400以上だと思います。時間をかけて満開なになったのに個々の花の寿命は長いようで、枯れた花はほとんどありません。したがって満開時は白っぽい花が比較的多くなりました。
母の日から18日目の5月30日のマーガレットです。植えた場所(実家)は兵庫県宝塚市です。
来年のために剪定した写真です。驚いたことに株が広がったのではなく枝が大きく育っていただけなのです。茎が太くなり木質化しているのが判っていただけると思います。これが和名の木春菊の由来なのかもしれません。
来年の形も考えてさらに強く刈り込んでみました。来年が楽しみです、
今までに母の日のプレゼントとして送った紫陽花の写真も紹介します。その時に地植して、今年咲いた紫陽花です。
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広島平和記念資料館 [広島]
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広島駅から歩いて5分ほどのところに住んでいる従妹と山口県の墓参りに行き、広島で昼食に広島のお好み焼きを食べた後に従妹夫婦に広島市内を案内してもらいました。案内してもらったのは原爆ドームを含めた平和公園と縮景園でした。原爆ドームから原爆死没者慰霊碑あたりまでは、記事「原爆ドーム」で紹介させていただいたので本記事では広島平和記念資料館を紹介したいと思います。沢山の人が見学されていながら、会話している人もほとんどおられないほど、静かな雰囲気のため、私も限られたところしか写真が撮れない気分だったので、紹介も限られたものになっております。そんな中でこれだけは紹介したいと撮った動画が、原爆投下の瞬間をプロジェクションマッピング映像で表現したものでした。是非ともプレーボタン( ► )クリックしてみてください。最後まで行くと頭から永遠に繰り返すように設定しています。
先ずは広島平和記念資料館の場所を紹介したいと思います。
紫色に着色した建物が広島平和記念資料館です。緑の線の最も北に原爆ドームがある配置です。一直線上の途中に右の写真の原爆死没者慰霊碑があることは有名です。
写真中央の中2階の建物が広島平和資料館で、見えているのは一部です。写真の左側に資料館東館があり、そこに目玉展示の「ホワイトパノラマ」があります。そこに資料館の入口があるのでとりあえず行ってみました。とりあえず行くと書いたのは予約がないと入れないのではないかと思っていたためでした。入口で確認すると予約なしで見れることが分かって、見学することが出来ました。
最初は壁いっぱいの原爆投下前の広島の景観でした。一番左端の立派な建物が、現在は原爆ドームと呼ばれている右の写真の広島県産業奨励館です。
この建物の左奥(南東)方向160mの位置の真上600メートルの空中で原爆が爆発し0.2秒後には日光の数千倍という熱線に包まれ、この辺りの地表温度は3,000℃になったそうです。右の写真はWikipediaから転用させていただきました。
次に進むと、壁いっぱいの原爆投下後の様子のでした。山が写っていることから上の写真とは角度は違いますが、原爆ドームの周辺には沢山の建物や住宅がありましたが、原爆投下で消えてしまったのです。右の原爆ドームは今回の訪問で撮った現在の写真です。
さらに進むと、上の場所とは位置が違いますが、同じように沢山の建物があり沢山の人が生活していたのだと感じてしまいます。
展示室は暗くフラッシュは使えないので、写真は手振れしてしまっていますが、雰囲気を感じていただきたいので掲載しました。みなさんゆっくり見られているので行列になっていますが、順番ではないので早く進んでもいいと、係員の方から説明されました。入口まで行列になっていて、入るのに待たされるほどだったのです。
亡くなった人たちの衣服も何かを訴えているようでした。
貴重な資料も沢山展示されていました。外人の方も含めて、皆さん静かに見学されているので、雰囲気的に沢山の写真は撮れませんでした。
沢山の人が無言で見学されていました。
原爆投下前の広島の中島地区の航空写真です。
上の写真と同じ中島地区の原爆投下後の航空写真です。右方向が南で、現在のこの場所は平和公園です。平和記念資料館は右端に縦に通っている道路の左側に建っていて、原爆死没者慰霊碑が写真の真中あたりに建てられました。
上の2枚の航空写真は真上からではなく西北西方向から撮ったものなので、現在のGoogleマップの真上からの航空写真を回転して縦横比を調整しました。こうすると同じ場所だと分かっていただけると思います。紫色に着色した建物が平和記念資料館です。
右の小さな航空写真は縦横比は1:1、つまり縦方向を圧縮していない真上から航空写真です。画面をクリックするとGoogleマップのオリジナルを表示します。
戦争や原爆開発などの展示もありました。クリックすると書かれている内容が読める大きさに拡大いたします。
原爆によって廃墟となった広島の写真とともに、同じく原爆によって廃墟となった長崎の写真も展示されていました。
こちらが広島です。クリックすると特別に大きく拡大するので悲惨な破壊をより感じていただけると思います。中央あたりに原爆ド--ムがあります。10枚上で紹介した右の写真と比べていただくと原爆による破壊のすごさが判ると思います。右の写真の襞の端が原爆トーム(広島県産業奨励館)です。
長崎の原爆で廃墟になった写真も正面から紹介します。こちらもクリックすると特別に拡大するので悲惨な破壊がより感じていただけると思います。
冒頭で紹介したプロジェクションマッピング映像の動画をあらためて紹介します。本投影はこれまでの実績や経験を活かして2022年2月21日から稼働開始した新しい投影システムだそうです。資料館入口のあった広島平和記念資料館東館にありました。
上の動画のプロジェクションマッピング映像での原爆投下前と投下後を8秒ごとに表示させています。黄色の矢印(↓)が原爆ドームの位置です。明るい画面が原爆投下前で、暗い画面が原爆投下後の映像です。
原爆投下後の市内の様子の映像(Wikipedia)→動画
CRTモニターで世界の核弾頭数の表示がありました。左下に2023と書かれているので、2023年の時点だと思います。気になっていた北朝鮮は30の核弾頭を保有していると表示されていました。
広島平和記念資料館の2階から原爆ドーム方向を撮った写真です。原爆ドーム、平和の灯、原爆死没者慰霊碑などが一直線に並んでいます。