映画「四月になれば彼女は」のロケ地になった「うのしまヴィラ」 おしゃれに並ぶ朝食 [茨城]
前記事「太田尻海岸 「うのしまヴィラ」での夕食」で紹介したように2024年7月6日に茨城県日立市の太田尻海岸にある 「うのしまヴィラ」に泊まりました。前記事で夕食を紹介したので本記事では朝食を中心に紹介したいと思います。上の写真が夕食や朝食を食べたフロント棟の入口です。入口の上のシンボルマークにあるように、うのしまヴィラ(UNOSHIMA VILLA)は1959年に祖父が創業した鵜の島温泉旅館をリニューアルしたそうです。きっかけは2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震で、旅館の売りであった木造の白い土壁に修繕不能なほどの被害を受けたことだったそうです。3年の月日をかけて名前も新たに再起したのが今の「うのしまヴィラ」だそうです。現在の宿泊棟は鉄筋コンクリート製だったことから内装をリニューアルして使えるようにしたそうです。
上の建物がフロントやレストラン&カフェ(Sea・ne/海音)があるフロント棟で、我々が泊まった宿泊棟は右にあります。朝食はここからフロント棟の中に入っていきました。
入口を入って正面に掛けてあったのがこちらのパネルでした。ネットによれば太田尻海岸と宿泊施設「うのしまヴィラ」でロケが行われたそうです。映画のタイトルは四月になれば彼女はでした。パネルに入口が反射して写っています。
夕食を食べた同じ席に用意されていました。ホームページなどでも写真が使われている海が見えるコーナー席は一番の席だと思います。赤ちゃん連れパワーのおかげだと思います。
右の写真が夕食時に撮っていただいた写真です。
タイトルのように、おしゃれに並べられていました。朝食我々が席に付いたら、温かい料理つまり、ご飯や味噌汁や焼き魚が並べられるのだと感じました。
最初に焼鮭が並べられました。
次にお椀が置かれました。たぶん味噌汁だと思いましたが、それにしては大きなお椀でした。後ろ立っている方が館主(代表取締役)の原田実能さんです。
最後にご飯が並べられました。ただし、飲み物は飲んでしまっていました。写真のために待てばよかったと記事を書き始めてから後悔しました。
飲む前に撮った飲み物の写真を掲載します。
味噌汁の具はシメジでした。ほんとボリュームがありました。
小鉢も紹介します。一番右にあった温泉玉子です。
いろんな味と食感が楽しめました。
最近は知りませんが、茨城県と言えば納豆です。
漬物も紹介します。
もちろん食後のデザートがありました。いろいろチョイスできました。飲み物はコーヒーにいたしました。
デザートも拡大いたしました。デザートはブルーベリーのソースがかかっていました。
宿泊客以外も受け入れているのでレストラン&カフェとしての名前のCAFE & DINING 海音(Sea・ne)の名前が付けられていました。
日本野菜ソムリエ協会の認定書が飾られていました。
宿とレストランの館主(代表取締役)には茨城県知事から、いばらき観光マイスターS級が認定されていました。
旅行新聞社からは、日本の小宿として「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100撰」にもうのしまヴィラが選ばれていることも知りました。
そして最初に書いたように映画「四月になれば彼女は」のロケ地になっていたのです。3人のサイン色紙が飾られていました。左から長澤まさみさん、佐藤健さん、森七菜さんの色紙だと思います。顔写真はネットから転用させていただきました。
と言うことでタイトルに、映画「四月になれば彼女は」のロケ地になった「うのしまヴィラ」 と入れさせていただきました。
右の3枚の写真は日立市の公式X(旧Twitter)から撮影風景を転用させていただきました。一番右の写真はフロント棟内です。
四月になれば彼女はは2024年3月22日に公開された映画です。山田智和監督にとって長編映画初監督作だそうです。
それでは予告編の動画を紹介します。予告編の中には「うのしまヴィラ」が写っていないようですが、動画の頭から1分11秒と1分15秒(確実)と1分18秒~1分19秒に太田尻海岸が一瞬ですが出来ているようです。1分15秒の画像は岬が同じなので太田尻海岸であることは確かです。プレーボタンをクリックすると1分10秒から動画を再生し、終わった後は頭から永遠に繰り返すように設定しております。
太田尻海岸と思われる3画面をハードコピー画面で紹介します。
頭から1分11秒後の画面です。元は暗い画面の動画ですが、画像処理で明るくしてみました。撮った写真の中にこの位置からの写真はありませんが、歩いて散策した時の記憶から太田尻海岸であると思われました。
頭から1分15秒後の画面です。右の写真が私が撮った太田尻海岸の北東方向の岬の写真です。映画の背景の岬の形から太田尻海岸であることが分かるりました。
1分18秒~1分19秒の画面の背景に上と同じ岬があると思われることから太田尻海岸と思われます。短い予告編の中に太田尻海岸が入っているのに感激いたしました。
ここからは前記事で紹介し尽くせなかった太田尻海岸の景色を紹介したいと思います。先ずは海岸の右端の岩山です。
岩山は不思議な空間を岩が囲うように浸食されていました。
砂浜と岩山の間には小さな小川が流れていました。簡単にまたげるほどの小川でした。これだけなら記事には書きませんが、実は海岸の左側も岩山と砂浜の間に小川が流れていたので気になったのです。そちらの方は濡れずには渡れないほどの幅の小川でした。
南西方向の海岸沿いの岩は不思議な光景を見せてくれていました。
左側(北東方向)の岩山の方に行ったのは、岩山に登って朝日を撮るためでした。
ところが、濡れずには渡れないほどの小川があったのです。水はきれいでした。
小川沿いもなかなかの奇岩でした。
陸の方に大きく廻りこんで岩山の向こうに出て朝日を撮ろうとも思いましたが、道がぬかるんでいて完全に断念いたしました。
朝食後に明るくなって外に出てみると西行法師(元永元年[1118年]~文治6年2月16日[1190年3月23日])の歌碑が建っているのに気が付きました。西行歌碑には下の緑色文字のように書かれていました。この歌碑は前身は「鵜の島温泉旅館」の初代館主の島崎二三男さんによって昭和四六年四月吉日に建立されたそうです。右の写真の茶色の屋根の建物が全て鵜の島温泉旅館の施設です。
西行法師
大田尻 衣は難幾何
波た可し万
沖吹く加世耳
三に八志萬ぬ駕
秀峰書
ネットの裸島と西行歌碑によれば「この歌は、平安時代末期頃、栄蔵という修験僧が、田尻海岸の小島(ぐみ島。今は海中に没してない)に小屋(栄蔵小屋)を建て住んでいたのを、 尋ねてきた西行が栄蔵の貧しい生活ぶりを裸島と結びつけて詠んだものである。」そうです。
後ろにある木造の建物が「うのしまヴィラ」の食事を食べたフロント棟です。
10時前にチェックアウトして近くのショッピングモールSEA MARK SQUAREで買い物をして娘たちの車で日立駅まで送ってもらいJR特急ひたち10号に乗り、上野で京成電鉄に乗り換えました。
太田尻海岸 「うのしまヴィラ」での夕食 [茨城]
先日、2024年7月6日に茨城県日立市の太田尻海岸にある 「うのしまヴィラ」に泊まりました。本記事では施設と夕食を紹介したいと思います。この建物にはフロントカウンターと食事エリア「Cafe & Dining 海音(Sea-ne)」があり、宿泊エリアは隣接した別棟になっています。右の写真のように、2024年3月26日に生まれた娘夫婦の赤ちゃんの百日祝い(お食いはじめ)で、茨木県に来たので、日帰りするのはもったいないので、今回紹介の 「うのしまヴィラ」に泊まって夕食を楽しんだわけです。百日祝い(お食いはじめ)は娘の旦那の実家で行われました。
こちらは太田尻海岸の右方向の景色です。うのしまヴィラのプールが右端に少し写っています。
こちらが正面の景色で太平洋です。太平洋に面していることが実感されます。
こちらが左方向の景色です。まさにプライベートビーチのような雰囲気です。
岬の先の海の中の岩(小さな島)の名前は裸島で、鵜をよく見かけることから鵜の島(うのしま)とも呼ばれているそうです。どうやらヴィラの名前の由来のようです。前身は「鵜の島温泉旅館」でした。全国12ケ所の鵜飼の中の11ケ所の鵜は、近く(約6km)の日立市十王町の鵜の岬のウミウ捕獲場で捕獲されているそうです。
Googleマップの航空写真で場所の雰囲気を紹介します。ビーチのプライベート感が判っていただけると思います。SV
ドローンで海の方から撮った画像も紹介します。360°回転させてみてください。いろんな方向の景色が判ります。近くに無料の温泉スタンドもあります。
白い建物が宿泊棟です。右の建物の2階も宿泊エリアだと思います。その建物の1階はイベントエリアのようです。ネットで調べてみるとユズリハハウスと名前がついていました。左の建物(フロント棟)が冒頭で紹介したフロントカウンターと食事エリア「Cafe & Dining 海音(Sea-be)」があります。
我々が宿泊した部屋です。隣り合わせの2タイプを借りました。左のの部屋は海が下側で右の部屋は海が上側です。本図は「うのしまヴィラ」さんのホームページから転用させていただきました。写真は左側の洋室です。
レストランの屋外テラスです。最も奥(海側)の室内側が、我々が夕食を食べた場所です。
夕食を食べた席がこちらです。前菜が出たところで写真を撮っていただきました。
テーブルの上を拡大いたしました。テーブル上は最初の海音(シーネ)の前菜盛り合わせです。
こちらが最初の海音(シーネ)の前菜盛り合わせです。
右の写真のディナーメニューがあったので、この日の料理を紹介します。
1.海音(シーネ)の前菜盛り合わせ
ごぼうのたたき・アジにぎり・えだ豆
イクラとほうれん草のおひたし・翡翠梅
2.スズキのお椀
3.ひしおの和風カルパッチョ(カツオ)
4.青柚子のそうめん
5.メヒカリの唐揚げ 帆立みの揚げ
万願寺唐辛子 きゅうりのポン酢
6.常陸牛のしぐれ煮
7.もろこしごはん と お味噌汁
8.デザート
ごぼうのたたき
アジにぎり
イクラとほうれん草のおひたし
翡翠梅(ひすい梅)
飲物は男性陣が茨城県那珂市にあるビール醸造所のビール(NEST BEER)で、女性陣がジンジャエールにいたしました。
次がスズキのお椀でした。
その次は、ひしおの和風カルパッチョ(カツオ)でした。
青柚子のそうめんも美味しかったです。青柚子の上に乗っているのは赤貝の刺身です。
メヒカリの唐揚げと帆立みの揚げと万願寺唐辛子を、きゅうりのポン酢につけて食べました。
きゅうりのポン酢につけて食べるのが斬新でした。
常陸牛のしぐれ煮も美味しかったです。
〆は、もろこしごはん と お味噌汁 です。常陸牛のしぐれ煮はご飯に合いました。
冷たいデザートと飲物は何種類の中から選びます。
さらに焼き菓子のデザートもついていました。
ここに来るのは、先ずは京成電鉄で上野まで行き、上野からJRの特急ひたち7号に乗りました。
茨木県に入った途端にレンコン(はす)畑が続いていました。レンコン用のハスの花は全て白でした。
うのしまヴィラ(Cafe & Dining 海音)をGoogle地図でマップで紹介します。右の写真はネットの太田尻の裸島から転用させていただいた鵜の島(うのしま)です。この島の名前が、うのしまヴィラの名前の由来になっているようです。全国12ケ所の鵜飼の内、地元で捕獲した海鵜を使用している和歌山県の有田川の鵜飼以外の11ケ所で使われている海鵜(ウミウ)を捕獲しているウミウ捕獲場( )もプロットしました。航空写真の中にJR常磐線の十王駅と小木津駅と日立駅があり、特急の停まる日立駅から帰りました。
宿泊施設の情報
名前 うのしまヴィラ
住所 茨城県日立市東滑川町5-10-1
創業 1959年(鵜の島温泉旅館)
電話 0294-42-4404
HP https://unoshima-villa.com/
レストラン&カフェの情報
名前 Cafe & Dining 海音
住所 茨城県日立市東滑川町5-10-1
電話 0294-42-4404 今は右のように形が変わってしまいました。
営業 ランチ 11:30~15:00
カフェ 13:30〜15:00
ディナー18:30〜(要予約)
定休 火曜日・水曜日
参考に山口県の錦帯橋に行った時の記事に掲載した12ケ所の鵜飼の場所を西方向から紹介します。
日本の鵜飼に使われるウミウは、下で紹介している12ケ所の鵜飼のうち11ケ所には茨城県の鵜の岬のウミウ捕獲場で捕獲されたウミウが供給されているそうです。右の浮世絵は渓斎英泉作の「河渡 長柄川鵜飼(木曽街道六十九次)」です。右の下段の小さな写真は全国で唯一船を使わず徒歩で鵜飼が行われている有田川の鵜飼です。現在においては和歌山県有田市(ありだし)の有田川(ありだがわ)の鵜飼は地元で捕獲したウミウが使われている唯一の鵜飼でもあります。
筑後川の鵜飼 福岡県朝倉市
日田の鵜飼 大分県日田市
大洲のうかい 愛媛県大洲市
錦帯橋のう飼 山口県岩国市
三次の鵜飼 広島県三次市
有田川の鵜飼 和歌山県有田市
嵐山の鵜飼 京都府京都市
宇治川の鵜飼 京都府宇治市
ぎふ長良川鵜飼 岐阜県岐阜市
木曽川うかい 愛知県犬山市
小瀬鵜飼 岐阜県関市
笛吹川石和鵜飼 山梨県笛吹市
六甲山の行者山 [宝塚]
宝塚の実家近くの岩倉山反射板を紹介したので、少し古い写真ですが、近くにある行者山(ぎょうじゃやま)も紹介したいと思います。上の写真は、実家近くから撮った行者山です。写真の中央の高い山が行者山です。行者山は六甲山系の山の中の一つで東の端に位置します。行者山に登ったのは2015年12月28日でした。
写真の中央より少し右側のピークが行者山の山頂です。左側の山は行者山ハイキングコースより奥の山だと思われます。例えば樫ケ峰(457m)が候補です。
本写真は歩いたコースの最初の写真で白瀬橋( )から撮りました。コース順に写真を紹介していきます。実家から逆瀬川の支流となる写真の中の白瀬川の横を歩きました。今は大きな住宅地になっていますが、私の学生時代は山林で実家の犬(ジョン)と走り回っていた場所でした。今はありませんが、犬が泳いだ右の写真の池もありました。ジョンの記事はこちらです。→ポチッ
六甲山の湿地には今でも食中植物のイシモチソウやモウセンゴケやミミカキグサ類数種が生えています。今は見えなくなりましたが、この辺りには六甲山では珍しいコモウセンゴケ(右の写真)が生えている貴重な場所でもありました。六甲山の池の食虫植物としてはタヌキモ類2種を特定の池で見ることが出来ます。
歩いた全コースをGoogleマップの航空写真で紹介します。ただし実家の正確な位置が特定されないように実家の近くだけルートを少しずらしております。航空写真の中の白瀬橋( )から右回りに順番に紹介していきます。白瀬橋( )は上の写真を撮った場所です。
ルートは━━ ━━ Ⓑ ━ ━━ ━━━ ━━━ Ⓐ━━です。
ちなみに六甲山最高峰は931.25mで、甲山は309.2mです。逆瀬川駅の標高は51mのため登リ口である西逆瀬台口までの標高差は約100mあります。
行者山の住所は 兵庫県宝塚市 小林西山 (34°47'49.1"N 135°19'21.0"E)になります。緯度と経度の情報はGoogle地図の等高線の頂点の位置から判断いたしました。北東方向には譲葉山(514m)と岩倉山(488.4m)もあります。
━━ 歩いたハイキングコース
━━ 住宅地内を歩いたコース
124m 白瀬橋(本記事紹介の出発地点)
160m 西逆瀬台口
234m ゆずり葉ピーク
383m 行者山東観峰 34.796308, 135.325828
400m 行者山東展望台 34.796703, 135.323437
415m 行者山 34.796964, 135.322511
226m 光ガ丘口
198m 青葉台口 ━━ 別ルートハイキングコース
213m 北逆瀬川口 ━━ 別ルートハイキングコース
川沿いの太い道が途切れました。川の右側の黒い車の奥に道がありそうなのでそちらに進んでみることにいたしました。SV
こちらが車の奥の部分を拡大した写真です。
やはり細い道がありました。この辺りはワンコの散歩道になっているようでした。
進んでいくとハイキングコースの大きな案内板がありました。実は、実家を出るときから行者山に登るつもりではなく、この案内板を見るまでは甲山の方に登り、仁川駅に出るつもりでした。この案内板を見て、とりあえずは行者山東観峰に登ってみることにいたしました。
結果的には3秒間隔で点滅させている太い赤いラインを歩きました。親切なことに黒い丸の部分に、その場所の現在位置を書いた地図付きの案内板がありました。歩いたルートの地図付きの案内板の写真も順番に紹介したいと思います。地図内の現在地と書かれているところに、この案内板がありました。
右の地図をクリックすると拡大地図を別画面で表示するので、出てきた地図を見ながら記事を見ていただくとわかりやすいと思います。
最初は、ゆずり葉散策路と名付けられた道を歩きました。
不思議なことに大きな南天の木が生えていました。南天の木は庭木だと思っていたので不思議に思ったわれです。考えてみるに人家が全くなかった学生時代にも、この辺りで南天の木を見た記憶がありました。元々は渡来した栽培種の実を鳥などが運んで野生化したものと考えられているようです。
道を歩きやすいように、石が組まれているのに驚きました。きっとボランティアの人が整備してくれたと思うのですが大変な作業だったと思います。
六甲山でよく見かけるシダが生えている小道になってきました。
登りきったところに行先を示す標識がありました。東観峰・行者山と書かれた方向に進みました。
まさに雑木林の中を進む感じでした。ところどころにイノシシなのか掘り返した後もありました。
このような大谷と書かれた石の標識が小道の真ん中に埋められていたので、後で調べるつもりで写真に納めました。ネットで調べてみると裏六甲にある蓬莱峡に抜ける道筋に大谷や大谷乗越があることから、その大谷の方向を示す道しるべのように感じました。
開けたところに出ると砂防ダムがありました。
川を渡ると、階段のように整備された小道もありました。ここの左側には砂防ダムがありました。
よく見ると、単なる板ではなく滑り止めが付けられた板が使われていました。ここにも整備に力が入っていることが伝わってきました。
最初の現在地を示す地図付き案内板です。ここからは東観峰までは概ね山の尾根伝いに登っていきます。ここは 現在地 と書かれた場所で、ゆずり葉ピークの少し西側です。つまり上の階段のように整備されていたところの反対の東側をを登りきったところが、ゆずり葉ピークだったようで、知らずに通り過ぎていました。宝塚高校と宝塚西高校の間にあります。
山の尾根なので道の両側が険しい崖のところもありました。
危険な部分には虎テープが張られている上に、きつい登りの部分にはロープが設置されていました。道の右側のロープが判るでしょうか。このロープを使って登りました。
雑木が多く枯葉で道が判りにくいところには標識も建てられていました。
石が動かないように鉄杭も打ち込まれていました。これなら安心して石を使って踏ん張れます。
急なところはロープだけではなく梯子も設置されていました。これには驚かされました。見た目よりは急阪で確かに梯子が無かったら大変だと思いました。
少し見晴らしがいいところに出たので六甲山の山頂方向(西方向)の写真を撮りました。まだ東方向の眺望は見れませんでした。
また梯子とロープが設置されていました。
甲山が見える場所に出ました。左端の丸い山が甲山です。岩質は輝石安山岩からなり、隣接した花崗岩からなる六甲山とは違う形成過程であると考えられています。六甲山の大部分は約1億年前に地下深くに出来た花崗岩が六甲変動(約100万年前)と呼ばれる地殻変動によって隆起した大きな山ですが、そんな中で甲山は火山だそうです。甲山は1200万年前の火山活動期には大きく広がる山体を持っていましたが、約200万年間の活動が終息した後、侵食によりわずかに火口付近の火道周囲の溶岩のみが塊状に残り現在のドーム状になったそうです。山の形から長く昭和新山のような溶岩ドーム(旧分類:トロイデ式火山)の典型と思われていましたが、研究が進み上記の生成過程があきらかになりました。
上の写真を撮った場所の写真付き案内板です。
こんな感じで写真付き案内板が立てられていました。
さらに尾根伝いに小道を進みます。
開けた場所に出ました。甲山をバックに現在地を示す地図付き案内板が立てられています。
こちらが案内板の地図です。今まで出てきた案内板は上が北でしたが、この地図は上が南です。つまり案内板の地図は立てられている方向や見る方向によって地図を変えているのです。心憎い配慮です。
宝塚南口の高層マンション群です。
宝塚歌劇の大劇場も写真の中央から少し左下に写っています。
宝塚歌劇の大劇場をズームアップいたしました。正式名「宝塚大劇場」は1992年完成で毎年100万人以上の観客を動員しているそうです。
上の2枚の写真はズームしたもので、目で見た感じの写真を紹介します。この写真はクリックすると特別に大きく表示するように設定いたしました。
少し東方向です。逆瀬川駅や実家があるあたりも写っています。
行者山東観峰に着きました。
ここには登頂記念箱が設置されていました。
このノートに記念の言葉を書くのです。
行者山東観峰に設置されていた現在地わ示す地図付き案内板です。
行者山東観峰からの宝塚駅および宝塚南口方向の眺望です。
大阪方向の眺望です。行者山は全国に沢山あるようです。少し調べただけでも兵庫県宝塚市以外に、京都府亀岡市、大阪府豊能郡能勢町、広島県大竹市、鳥取健米子市、徳島県那賀郡那賀町と高知県香美市の境界にありました。
ここには基準点が設置されていました。
2級基準点で西宮土木事務所が設置したようです。ネットで調べた標高は383mでした。361.18mmと書かれていサイトもありましたがGoogle地図の等高線から判断して383mの方が正しそうでした。
行者山東観峰からは一旦は西方向に下ってから行者山に登ります。
目の前の小高い山が行者山(415m)です。
東観峰(383m)と行者山の標高差は32mとなります。
東観峰から行者山に向かいました。
行者山の少し手前にも地図付き案内板が設置されていました。名前は行者山東展望台(400m)です。
これが地図です。現在地が判ってもらえると思います。
行者山東展望台から見た甲山です。写真に写っている池は宝塚ゴルフ倶楽部(ゴルフ場)内にある深谷貯水池です。右の方には西宮カントリー倶楽部が広がっていて、リゾートホテルのような建物は、阪急逆瀬台マンション・アヴェルデの1番館~5番館だと思います。
この建物の中に、以前に紹介した出石そばのそば義があります。
こちらにも基準点が設置されていました。
行者山東展望台から見た東観峰です。
行者山東展望台と行者山を結ぶ道です。距離はわずかです。
行者山に着きました。標高は415mです。このあたりの最高峰です。
名前 行者山(ぎょうじゃやま)
標高 415m(412mや413mの記述もあり)
住所 兵庫県宝塚市小林西山
こちらが現在地の地図です。
ただし周囲が木でおおわれているため景色が見えません。だから行者山東展望台があるのだと感じました。
場所を特定した等高線の入ったGoogle地図を紹介します。等高線は10mごとです。残念ながら2024年の時点では下のような細かい等高線は出なくなりました。クリックすると標高を書き込んだオリジナルのGoogle地図を表示します。
行者山を離れました。
下り始めました。
下っていく途中に不思議な石の配置がありました。
枯葉をどけてみると基準点でした。
こちらの基準点は兵庫県の3級基準点でした。
六甲山から降りてくる道に出ました。分岐点に例の案内板が立っています。
奥の方から降りてきました。
現在地を示している地図です。こちらは上が南です。
こちらが六甲山の方向です。
こちらが光ガ丘の方向です。こちらの方向に降りていきました。ここが支多々川の源流です。道そのものが川なのです。ここからが、前記事岩倉山反射板で紹介した光ガ丘に出るまでと同じルートです。
水は流れていませんが、湿っており苔などの胞子植物が沢山生えていました。
シダ植物も多かったです。
大雨の時は、ここを水が流れるのだと思います。
ここで川と別れました。左に川が下っていき、道は右に進みます。
道の部分です。
東観峰からの道に合流いたしました。
もうすぐ光ガ丘口です。
尾根を進んだ後に、また支多々川に出てきました。見えているのは砂防ダムです。
水が流れているのが判ると思います。
流れているところが実感してもらえるように動画を掲載いたしました。
もうすぐ住宅地です。
写した中の最後の案内板です。
そして、これが案内板の地図です。
道路が見えてきました。
住宅地に見えてきました。川は支多々川です。実家の近くまで流れていきます。
昔からの町並みを流れる支多々川です。
この先は武庫川につながっています。
実家の近くまで戻ってきました。正面が行者山で、その左が行者山東観峰です。
あらためて広い範囲の航空写真で歩いた全コースを紹介します。岩倉山反射板との位置関係も分かると思います。
━━ 歩いたハイキングコース
━━ 住宅地内を歩いたコース
124m 白瀬橋
160m 西逆瀬台口
234m ゆずり葉ピーク
383m 行者山東観峰 34.796308, 135.325828
400m 行者山東展望台 34.796703, 135.323437
415m 行者山 34.796964, 135.322511
471m 岩倉山反射板
488m 岩倉山
526m 譲葉山P1 514m 譲葉山P2
457m 樫ケ峰
226m 光ガ丘口
198m 青葉台口 ━━ 別ルートハイキングコース
213m 北逆瀬川口 ━━ 別ルートハイキングコース
岩倉山反射板 [宝塚]
2024年7月04日再掲載 タイトル : 岩倉山反射板
1年前の本記事に宝塚の光ガ丘に住んでおられるみけねこさんからコメントをいただいたのを機会にブログのトップに再掲載いたしました。光ガ丘は岩倉山反射板から最短コースで下りて来た場所の住宅地です。記事の中で光が丘中学校の停留所が出てくるので分かると思います。
2023年02月24日 掲載
2024年07月04日 再掲載 閲覧数:1,295 nice!:102 CMT :34
2024年07月05日 閲覧数:1,480 nice!:120 CMT :40
2024年07月06日 閲覧数:1,570 nice!:127 CMT :46
2024年07月08日 閲覧数:1,788 nice!:161 CMT :47
2024年07月09日 閲覧数:1,823 nice!:164 CMT :48
2024年07月10日 閲覧数:1,857 nice!:165 CMT :48
2023年2月24日掲載 タイトル : 岩倉山反射板
兵庫県宝塚市の逆瀬川駅付近から西にある岩倉山の稜線に四角の物が昔から見えていて前々から気になっていました。上の写真の黄色の下向きの矢印のところです。写真をクリックすると拡大するのでわかっていただけると思います。上の写真の空き地は少し前までは古い建物が立っていましたが、解体されて今は山の稜線がよく見えます。もうすぐ8軒の家が建てられて売り出されるようなので、今だから見れる風景です。この写真を撮った位置から四角の物までの距離は1.99kmです。
上の写真では見えにくいのでズームした写真を紹介します。クリックして拡大写真を表示させると茶色の四角の物があることが判っていただけると思います。
写真を撮ったカメラはコンデジなので解像度は良くありませんが四角の茶色が判ってもらえると思います。
野上4丁目公園からも四角い板を見ることが出来ました。ここからの距離は2.02kmです。下の写真から反射板部分を切り取ったのが右の写真です。クリックするともう少し広い範囲を表示しますが解像度はもう一つです。
以前に次の2つの記事で紹介したことがありました。その時に四角の板は阪急電車の岩倉山反射板と紹介させていただいていました。この写真は上の写真とは別の場所から撮ったものです。この写真を撮った場所から岩倉山反射板までの距離は2.11kmです。本写真をクリックして表示される拡大写真は2021年6月24日にYahoo知恵袋のベストアンサーに引用されています。
2021年6月08日 宝塚の聖天さん 七宝山 了徳密院
2021年6月24日 宝塚聖天からの塩尾寺への山越えの道
その岩倉山反射板のところに行って写真を撮ることにいたしました。その写真を上の2つの記事で紹介したいと思ったからです。そしてすでに撮った写真を小さな写真ですが紹介いたしました。本来ならば黄色のラインが最短なのですが、地図もないし、いろんな道があり迷いやすいことを知っているので、遠回りになりますが以前に紹介した塩尾寺(えんぺいじ)まで行き六甲山縦走路を歩いて目的の岩倉山反射板( )に行くことにしました。目的の場所は比較的縦走路に近いところにあります。縦走路から目的の岩倉山反射板に行く分かれ道のところがⒷです。出発地点Ⓐは実家の家が特定されないように野上4丁目の代表的な十字路にしています。行き(Ⓐ→Ⓑ→反射板)の登りの標高図を右下に紹介します。クリックするとGoogleのオリジナルを表示します。水色ラインは阪急今津線の逆瀬川駅近くのコープの駐車場から見た方向です。距離は2.49kmです。岩倉山反射板がある住所は宝塚市小林西山になります。行きに関しては近道しようとして宝塚市宝松苑27辺りに入り込み道に迷って約1kmロスしました。Ⓐは野上4丁目公園の近くでもあります。今はありませんが、有名な建築家の村野藤吾(1891~1984)が設計した東京銀行宝塚クラブハウス( )の近くも通りました。
Ⓑから西方向(左方向)に伸びている白い道が六甲山縦走路です。
実家を出で最初は住宅地を歩きます。ここは桜並木で有名な 「寿楽荘の桜並木(桜とんねる)」です。昨年の春に紹介させていただきました。→ポチッ
ここは宝塚市武庫山の住宅地です。この近くには建築家の村野藤吾が設計した東京銀行宝塚クラブハウス(上の地図の )が建っていました。右の小さな写真が東京銀行宝塚クラブハウスですが写っているのは私の両親と姉と私です。私は1月生まれなので6~7ケ月目ぐらいだと思います。郵便ポストのところを右に曲がってすぐに左の道に入って突き当りに宝塚クラブハウスが建っていましたが、今はありません。
上の写真の右上の写真は小さくて見えにくいので一部分を拡大いたしました。クリックすると全体を表示するので、建築家の村野藤吾が設計した建物がもう少しわかると思います。写っているのは私の両親と姉と私です。私の小さいときの記事にも記載しています。この場所は長く探せなかったのですが、宝塚市の職員の方などの協力を得て探すことが出来ました。そんな経緯から母と姉とは別々ですが、この場所に行って記念写真を撮りました。この写真を撮って1~2年後に父の転勤で広島に移り、私が小学4年の時にやはり父の転勤で関西に戻ってきて、一旦神戸市東灘区の岡本駅近くの社宅に住むことになりました。
急な上り坂になってきました。場所は宝塚市紅葉ガ丘3で、近くに甲子園大学がある場所です。すでに230m手前から宝塚駅からの六甲山縦走コースに合流しています。
少し歩くと山道になってきました。ただし塩尾寺(えんぺいじ)までは車が登れる道です。
山道の途中に広い広場がありました。広場の名前は塩尾寺休憩所で、白鳥大神が祀られていました。他にも祠がいくつかありました。急な上り坂になって塩尾寺までの中間地点でしょうか。ここから塩尾寺までは750mくらいです。
塩尾寺休憩所から撮った写真です。右の道を登ってきて左の道を登りました。少し行ったところに塩尾寺まで700mと書かれた石柱が立てられています。
塩尾寺までの間に展望台がありました。ここから先の岩倉山までは日が当たらない林の中を歩くことになります。今回は、それが少し問題でした。
塩尾寺の入口に着きました。左の塩尾寺と書かれている前を左に上ると六甲山頂の方向ですが、境内に入って少し休憩いたしました。
こちらが塩尾寺です。鐘楼の前の椅子に座って持ってきたお茶とチョコレートを食べました。
六甲縦走路の登山道に入ります。塩尾寺のより先のこの細い道を歩くのは数十年ぶりです。走破距離56kmの六甲全山縦走大会に参加して以来のことなのです。塩屋を5時05分に出発して宝塚駅に14時15分に到着したので、56kmを9時間10分で歩いたことになります。ただし、年々競争がエスカレートして6時間で走る人が出てきたことから、予定より早く着く人にはチェックポイントの休憩が義務付けられていることから実質は8時間20分でした。
上の写真の案内標識の部分を拡大しました。六甲山最高峰まで10.5kmと書かれています。
上り坂は岩だらけの道や
すり鉢のような道が続きました。この辺りから、ちょっと失敗したことに気が付きました。ダウンのチョッキにダウンのジャケットを着てきたのですが、ものすごく空気が冷たいのです。失敗は手袋を持ってこなかったことと、魔法瓶は持ってきたのですが、熱いお茶ではなく冷たいお茶を入れてきたことでした。仕方がないのでチョコレートを食べながら歩きました。
塩尾寺を出発してから最初の目標値の砂山権現に着きました。鳥居と石の祠ずありましたが、境内がきれいに掃かれていたのに驚きました。これほどきれいと言うことは、ここまで歩いてきて頻繁に掃除に来られているのだと感じました。
石の祠も少し変わった形の趣のある立派なものでした。ヘリコブターを使わないで、これを持ってくるのは、歩いて来るしかないので大変だったと思います。
六甲山縦走路を進みました。道は平坦になってきたので岩倉山の山頂に近くなってきたことを感じました。
ところが雪が残っているほどの寒さでした。
標識は充実していました。
さらに進むと「←この先展望良」と書かれた標識がありました。歩いた距離の感じでは目的地の岩倉山反射板があるところではないかと感じました。標識の下に手書きで「→岩倉山山頂」と書かれていたので、確信して左に曲がって進むことにしました。右に曲がって少し登ると岩倉山山頂のようです。いつもだったら岩倉山山頂に行ってから、岩倉山反射板の方に行くのですが、寒かったので岩倉山反射板に直行することにしました。標識の右側をまっすぐに伸びている道は六甲山縦走路です。
標識の別の面を見ると「↑岩倉山反射板を経て猪谷、ゆずり・・」と書かれていました。石のために「ゆずり・・」の「・・」は確認できませんが近くの地名の「ゆずり葉台」と思われました。これで岩倉山反射板から下りれる道があることが判りました。標識の矢印(↑)方向の道を進みました。
岩倉山反射板とは反対方向へは岩倉山山頂へ登る道がありました。写真の右上辺りが岩倉山山頂だと思います。
これが岩倉山反射板に行く道です。
反射板が見えてきました。四角の反射面は左奥方向に向いています。
表側に回り込みました。
確かに素晴らしい景色でした。こちら方向に通信用の電波を反射させているのだと実感しました。温かい太陽の日差しが当たっているので寒さの件も解決しました。暑いくらいでした。
せっかく、この反射板の写真を撮りに来たのでいろんな角度からの写真を紹介したいと思います。ただし、周りには木が沢山生えているので、全体が写る角度は限られています。
これが岩倉山反射板の全景です。全体にこげ茶色の錆止め塗装が塗られていました。岩倉山反射板は阪急電鉄が所有しているもので独自の通信網の中の無線通信の設備の1つだそうです。駅同士の連絡のように陸上の設備同士の場合は有線の設備で出来ますが、動いている電車との連絡は無線になります。地上からの電波をこの反射板で反射させて通信を行うことから反射板と名前がついているのだと思います。電波の発信設備と違い電源もメンテもほとんど不要なことから反射板が採用されているようです。
上の写真では鉄塔の一部が木に隠れているので、すべてが見れる角度からの写真も紹介します。
木が周囲に沢山あるので、離れて撮れないために全体がすべて見えている横長の写真は撮れませんでした。上の半分の横長写真です。
反射板の部分だけの写真です。スマホのように公共の通信を活用する方法もあり得ることですが、スマホで頻繁に通信障害を起こしている現状や、災害時に予想される通信障害から、昔からの独自の通信網を維持しているようです。
下から見上げた写真です。
上野写真と似たアングルですが、反射板の真横から撮りました。
少しで全体が入った横長の写真を撮ったつもりです。
離れると木で隠れる部分が増えます。
帰る方向の最後の写真です。つまり南側から登ってきた場合に見える最初の岩倉山反射板です。
ここから帰る道を紹介していきたいと思います。
雑木林の中を下りていきます。
突然左右に同じ程度の道で分かれるところがありました。そこにテープ道しるべが書かれていたので、この行者山への矢印の方向の道を選びました。
十字路になったところに下りてきました。まっすぐに進むと行者山で。右に登っていくと、ゆずり葉台か、上で分かれた道に戻るようです。左方向の道が、私が目指す光ガ丘です。
行者山方向のところにハイキングコースの地図が立てられていました。私が目指す光ガ丘の方向も柱に書かれていました。
ボールの先の地図を紹介します。行者山をハイキングする人達のために整備されているようです。
私が下りてきた道は現在地から右下に伸びている破線だったのです。私は現在地から左に進んで光ガ丘に向かうので、正規の道よりもかなり短くなったようです。行者山には2015年に行ったことがあり正月の記事で報告させていただきました。その時も同じ十字路から光ガ丘に帰りました。
2015年に逆瀬川の支流の白瀬川辺りから行者山に登って、今回のように光ガ丘に下りた時のルートを紹介します。上の案内板とは上下が反対の地図です。赤色で点滅しているところがその時に歩いたルートです。この地図の左上から光ガ丘口までのルートが今回と同じです。案内板の左上端の上方向(北方向)、正確には行者山の真北に岩倉山反射板があります。
光ガ丘方向の道は谷を歩いて下りる感じでした。雨が沢山降ると水が流れるのだと思います。ネットでの記載の中で「②光が丘コース:光が丘住宅北西(行者山光が丘口標柱)→猪谷→行者山下→岩倉山西方の縦走路」と書かれていたことから、この谷が岩倉山の標識に書かれていた猪谷ではないかと想像しています。さらに「支多々川源流の猪谷」と書かれているサイトもあったので間違いなさそうです。
しばらく行くと谷から離れます。
両側が谷になった尾根を歩きました。
大きな砂防ダムのところに出ました。下流側を鉄砲水から守る設備です。
砂防ダムの名前は西山堰堤となっていました。兵庫県が木島組に施工させたようです。設備工事の種類は通常砂防工事と書かれていました。
上の方の猪谷は水は全くありませんでしたが、住宅地に近くなったところでは水が染み出てきていました。
住宅地の支多々川の最も上流になります。
光ガ丘に出てきました。近くに光が丘中学校がありました。
実家に帰る途中には宝塚聖天さんがあるので寄ってから帰りました。
今回は一部だけですが懐かしい六甲山縦走路を歩いたので、参考に私が歩いた時の六甲全山縦走のコースを紹介します。岩倉山反射板は⓫と⓬の間にあります。山の部分に深緑色のマーク( )をプロットいたしました。時々表示される深緑色マーク( )群の最も右側(宝塚寄り)が岩倉山です。マークの数は25個になりました。プロットしてみることで、沢山の山を登り下りしたことを実感いたしました。25個の内訳は16個が上で紹介の名前が分かっている山で、9個が等高線から山と判断していますが、名前が分からない山 1 ~ 山 9です。画面内の❶~⓬は私が歩いた時の市民大会の右の参加証のチェックポイントです。本画像は10枚のGoogle地図のハードコピーを3秒間隔で表示させています。このコースを8時間20分で歩いたわけです。私が六甲山縦走路を歩いた時代の出発地点は塩屋駅でコースは56kmの距離でしたが、現在は須磨浦公園駅が出発の44.9kmになりました。その44.9kmの場合の上りの累積高さは3165mになるそうです。クリックするとGoogle地図で表示します。
上の六甲山縦走路(━━)の地図を拡大して今回の辺りを表示させました。岩倉山の下(南)すこし右(東)の空色の点が岩倉山反射板が建っている場所です。
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