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一発勝負の0.1%の神技(神業) 1000g指定に対し999g [新年]

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年末年始は家族が集まります。大晦日の夕食は神戸牛(山垣畜産)のステーキで、元旦の夕食は北海道の蟹が恒例になり、今回も私が実家の宝塚に帰省(2016年12月22日~12月29日)している時に山垣畜産で大晦日用のヘレ肉(ヒレ肉)を買ってきました。上の写真が、関西で買ってきたステーキ用の肉です。

注文は1kg(1000g)で致しました。驚いたことに塊から切り分けた重さは999gだったのです。切り直しが出来ない一発勝負の作業で1g差は神業(かみわざ)としか思えませんでした。その誤差は0.1%でした。もしかして偶然なのかもしれませんが、それも神のみが出来る業(わざ)、つまり神業なのかもしれません。
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神業(かみわざ)を調べてみると「神にしかできないような高度な技術」で、神技(しんぎ、かみわざ)とも書かれるようです。
1歳の孫にはステーキは早いので、おなじ山垣畜産で、しゃぶしゃぶ用の肉で脂がもっとも少ない肉を300g買いました。こちらは300gÎ対して313gでした。ただし枚数で決まるので4%差は仕方がないと思います。しゃぶしゃぶを少し食べさせてもらいましたが、これも美味しかったです。
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厚み25mmに切ると7枚のステーキと3個の切れ端がとれました。これを同時に焼きました。焼く前の調味料は胡椒(こしょう)だけで塩は使いません。ニンニクを焼いた牛脂で、さっそくステーキを焼きました。焼き方はクリスマスイブに実家で焼いた時の記事を参考にしてください。→ポチッ
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料理が並びました。ビールと赤ワインをいただきました。赤ワインは2本ほど空けてしまいました。子供用の椅子は無いので高さ調整が出来るピアノの椅子を使いました。
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ステーキ以外にも料理を用意いたしました。アボガトが入ったサラダです。
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モッツァレラチーズとトマトで作ったカプレーゼも用意してくれていました。
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和風になりますが広島菜の漬物も出しました。こちらは12月25日に墓参で山口県に行った時に広島駅で買いました。
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我家のワンコ(ムサシ)も肉となると、気になってテーブルを何度も覗き込んでいました。ムサシも16歳9ケ月になりました。2ケ月前に右前足を痛めて、なかなか治りませんが、その点以外は元気です。
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タグ:正月 年末

あけましておめでとうございます。2017年 元旦 [新年]

満潮時のモンサンミッシェル
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新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
今年は皆さんにとって良い年となることを祈念いたします。

So-netブログをはじめて今回の正月は8回目になります。2009年5月5日に最初の記事を掲載して7年8ケ月(92ケ月)が経ちました。沢山のアクセスをしていただき、沢山のnice!を頂き、沢山のコメントを頂き、ありがとうございました。
私にとって、昨年の最大のイベントは5月に行ったフランス旅行だと思います。そして偶然ですが大潮の時期にモンサンミッシェル訪れることが出来ました。その満潮時の写真を今年最初の挨拶に使わさせていただきました。
モンサンミッシェル滞在中(2016年5月9日12時15分~5月10日16時20分)の満潮と干潮が赤色です。上の写真を撮った時刻は2016年5月9日22時50分です。
満潮時刻(潮位)         干潮時刻(推測)
 2016年5月08日 09:04(12.95m) 21:22(13.00m)  02:51 15:45
 2016年5月09日 09:48(12.70m) 22:04(12.65m)  03:35 14:01
 2016年5月10日 10:31(12.15m) 22:45(12.00m)  04:17 13:44
2017年元旦

フランス旅行での滞在中に訪れた主な場所は下記の通りです。2016年中にすべての記事を掲載したかったのですが、6日目のロワールの城めぐりの一部と7日目に関しての年を越してしまいました。ここでは1日目から6日目までの写真を1枚づつ掲載させていただきます。
     JL415移動 CDG空港16時50分到着
 1日目 セーヌ川散策 ノートルダム寺院 ルーブル美術館周辺
 2日目 モンサンミッシェル オンフルール
 3日目 モンサンミッシェル
 4日目 ルーブル美術館 ノートルダム寺院 凱旋門 シャンゼリゼ通り
 5日目 ヴェルサイユ宮殿
 6日目 ロワールの城めぐり
 7日目 オルセー美術館 サント・シャペル セーヌ川クルーズ 他
     JL416移動 成田空港16時30分到着
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フランス旅行中の記事は下記のタイトルを記載すると表示します。
クリックすると拡大 モンサンミッシェル(21)
 ルーブル美術館(10)
 ヴェルサイユ宮殿(22)
 ロワール(16)
 オンフルール(3)     木造教会 →
 パリ(29)
生まれてから11ケ所( )に住んだことがあります。2016年12月22日から12月29日まで母が住んでいる宝塚市逆瀬川にある実家に帰省していました。いろんな場所に行ってみるつもりでしたが雨模様の天気が続いたために山口県に12月25日に日帰で行った墓参以外は友人たちとの飲み会ばかりとなってしまいました。従った新年のあいさつの記事はフランス旅行の時の写真にさせてもらったわけです。
    0歳 兵庫県伊丹市に生まれる
    1歳 兵庫県西宮市夙川に引越
    2歳 広島県広島市平野町に引越
    3歳 広島県広島市井口に引越 → 記事
   10歳 兵庫県神戸市東灘区岡本に引越
   14歳 兵庫県神戸市東灘区本山に引越
   16歳 兵庫県宝塚市に引越 (今の実家の場所)
   28歳 結婚して大阪府茨木市に引越
   29歳 家を買って神戸市須磨区に引越
 1988年 転勤で千葉県船橋市に引越
 1993年 家を買って千葉県佐倉市に引越


タグ:年賀

正月元旦の晩餐は北海道から長男夫婦に送ってもらった蟹をみんなで食べました。 [新年]

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クリックすると拡大正月に初孫を連れて来た長男夫婦は一昨年(2014年)の4月に関西から北海道に転勤になりました。その長男夫婦が年末年始を我が家で過ごすにあたり出発前の年末ぎりぎりに蟹を送ってもらいました。北海道から我家まで来るだけでも大変なので、蟹代は我々が支払うという条件です。
北海道で実際に見て買ってもらうと肉質がよく立派で美味しい蟹が手に入るからです。候補としてはタラバ蟹か毛ガニです。肉の味やミソを楽しむのであれば毛ガニですが、先ずはたっぷり食べたいので大型のタラバ蟹にいたしました。毛ガニも食べたいので毛ガニも一匹頼みました。

タラバ蟹も毛ガニも大型のものだったので、カニ以外ではサラダが2品だけでしたが、十分満足出来る量がありました。おせち料理は朝に食べ切っりました。
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こちらはもう一皿のブロッコリーと生ハムサラダです。生ハムはまだ沢山あったので減ってきたら追加いたしました。
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これがタラバ蟹です。写真なので大きさが分かりにくいとは思いますが、子供たちが4人が脚の太い順に取り、私は5番目の太さの脚をいただきましたが1本で十分にお腹を満たす量でした。参考ですが、タラバ蟹は生物学上はカニではなくヤドカリのため、足の数が1対(2本)少ないのです。タラバガニ科にはタラバガニ属、メンコが二属、イバラガ二属、フサイバラガ二属、ニホンイバラガニ属、エゾイバラガニ属、エリタラバガニ属の7属(22種以上)があります。タラバガニ属にはハナサキガニ、タラバガニなど4種があります。
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これが蟹の身です。これ一本で十分だったのです。酢醤油でいただきました。
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身の味わいを感じてもらうために拡大いたしました。クリックするとさらに特大に拡大いたします。
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毛ガニはこちらです。我が家でも大きな方の皿に乗せたのですがこの大きさでした。こちらでタラバ蟹と毛蟹を比較してみました。タラバ蟹は生物学上はヤドカリに分類されますが、味においても食材上においても立派な蟹です。花咲蟹もタラバガニ属になります。毛蟹は生物学上も食材上も、文句なしに立派なカニです。
タラバカニ 鱈場蟹 ケガニ 毛蟹
動物界 動物界
節足動物門 節足動物門
亜門 甲殻亜門 甲殻亜門
軟甲綱 軟甲綱
亜綱 真軟甲亜綱 真軟甲亜綱
上目 ホンエビ上目 ホンエビ上目
エビ目(十脚目)  エビ目(十脚目) 
亜目 エビ亜目(抱卵亜目) エビ亜目(抱卵亜目)
下目 ヤドカリ下目(異尾下目) カニ下目(短尾下目)
上科 ヤドカリ上科 イチョウガニ上科
タラバガニ科 クリガニ科
タラバガニ属 ケガニ属
タラバガニ ケガニ
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甲羅を外して中の味噌を甲羅に移しているところです。手と大きさを比べてもらうと毛ガニの大きさが分かってもらえると思います。
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これが毛ガニの蟹ミソです。みんなでいただきました。この日だけで買ってあった日本酒の一升瓶をほぼ飲み干してしまいました。もちろんビールも沢山いただきました。いつもはお酒類の写真も掲載するのですが、蟹を食べるのに一生懸命でお酒とビールの写真は撮り損ねてしまいました。
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毛ガニの身の部分も拡大いたしました。毛ガニの身はワンと美味しかったです。大満足の正月となりました。ちなみに1月2日はしゃぶしゃぶで、大晦日の晩餐は、すでに紹介したように関西から持つ帰った神戸牛のステーキでした。ステーキの記事はこちらです。→ポチッ
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初孫の56枚の連写写真をアニメーションGIFにしてみました。 [新年]

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2015年12月31日から2016年1月3日まで初孫が家に来ていました。赤ちゃんの顔の表情は一瞬で変わるので連写で撮るようにしていました。
クリックすると拡大右の写真は連写の一枚目ですが、この時は一番長くシャッターポタンを押した結果、連続で56枚の写真が撮れました。食べているのは赤ちゃん用せんべいです。
写真を撮ったのは2016年1月3日なので赤ちゃんの年歳は0歳6ケ月22日です。
せっかくの連続写真なのでアニメーションGIFにしてみました。ただし、私が最近よく使うサイズ477x318ピクセルではファイルサイズは4.61MBになってしまいました。ブログでのアップロードは2MBに制限されているので56枚のアニメーションGIFは掲載できないので24枚のアニメーションGIFにして上に掲載いたしました。ファイルサイズは1.97MBです。表示は0.2秒間隔です。
アニメーションGIF(Animated GIF)はGIFアニメーション(GIF animation)ともいわれています。複数のGIFで構成されたものです。
GIFはGraphics Interchange Formatの略で画像ファイル形式です。アニメーションGIFをクリックするとそれぞれ違う静止画を表示します。

クリックすると拡大56枚のアニメーションGIFを紹介したかったので300x200ピクセルで作りました。ファイルサイズは1.95MB(<2MB)です。
動画ほどスムーズな動きではありませんが見た目は動画のように感じてもらえるのではないでしょうか。
表示は0.18秒間隔です。

クリックすると拡大1枚1枚の表情が変わっていくので、皆さんに紹介したくて1枚の表示を1秒に設定いたしました。したがってすべての画像を見るのに56秒ほど必要です。ファイルサイズは表示間隔には関係ないので上の画像と同じ1.95MBです。
表示は1.0秒間隔です。
今回のアニメーションGIFは、ダウンロードした無料ソフトGiamで作成いたしました。単純作業ではありますが、さすがに56枚は縮小するのも結合するのにも手間がかかりました。

クリックすると記事を表示長男夫婦が住んでいるのは北海道のため頻繁には会えなくて初孫が家に来たのは初めてのことでした。正月のおかげで私の次男や長女とも会えることが出来ました。みんなで初詣に行き記念写真も撮ることが出来ました。右の写真は1月1日に初詣で行った八社大神での記念写真です。
すでに紹介したした写真ではありますが初孫(女の子)もお参りいたしました。
お参りの仕方が書かれていたので二礼二拍一礼で行いました。
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我家のワンコ(名前:ムサシ)とも初の対面をすることが出来ました。
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タグ:連写 gif 初孫

2016年の「おせち」 [新年]

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2016年元旦は初めて初孫も来たおめでたいお正月でした。1月1日の朝は長男夫婦と次男と長女と我々の6人で、おせち料理をいただきました。おせち料理はかまぼこと漬物以外はすべて家内の手作りです。ただし、おせち料理は1月1日の朝に食べきってしまうことを目標に作っています。朝食ではありますが元旦なので日本酒を飲みました。2本の白い出石焼の銚子にお燗した日本酒が入っています。

お正月らしい雰囲気にするため、漆塗りの半月膳に庭の南天と万両を飾りました。もちろん半月膳は朱塗り側を上にしました。裏は黒塗りです。「おせち」の由来は中国から伝わった五節供にあるそうで、御節供(おせちく、おせつく)や節会(せちえ)の略だそうです。奈良時代には朝廷内で節会として行われ、そこで供される供御を節供(せちく)と言といわれたそうです。そのころは現在のような料理ではなく、高盛りになったご飯であったそうです。この五節会の儀を一般庶民がならって御節供を行うようになったものと考えられているそうです。もともとは五節句の祝儀料理の全てを言っていたそうですが、のちに最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになったそうです。正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたそうです。
現在の人日の節句(1月7日)の行事料理と言えば七草粥ですが昔は違っていたということになります。
江戸時代、関西では「蓬莱飾り」、江戸では「食積(くいつみ)」、九州の佐賀・長崎などでは「蓬莱台・手懸け盛り」と称し歳神様に三方などでめでたい食べ物などを床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振舞ったり家族も食べたりしたとのことです。
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お屠蘇(おとそ)がわりに日本酒を、昔からの錫製の銚子に入れました。本来のお屠蘇は、数種の薬草を組み合わせた屠蘇散(とそさん)を日本酒などに浸して作るそうです。
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御節は一食で食べきるために少なめにしているので、お重は一段のみを使いました。海老、ごまめ、きんとん、かまぼこ、焼き豚です。
昔の正月料理の御節は飾るだけでしたが、天明(1781~1789年)の頃以降は食べるようになり、重箱に御節料理を詰めるようになったのは明治時代以降で、手法として完全に確立したのはは第二次世界大戦後だそうです。
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こちらは、なます、千枚漬け、数の子、黒豆です。なますに使われている大根は、年末に近所でもらったものです。最近では重箱に入れた御節料理が食卓に並ぶことが多くなってきた一方で、重箱にこだわらない形での自由な発想の御節料理も将来は増えてくる気がします。
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煮しめとしては家内の自慢の筑前煮を作りました。人気で、お鍋に残っていたもの食べきってしまいました。おかげでお酒も進みました。
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お雑煮が出てきました。取り皿を2つ並べると半月膳がいっぱいとなりました。
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こちらは澄ましのお雑煮です。お雑煮のお餅は"kazu"さんにいただいたものです。12月30日につきたての伸餅をいただき市販のものよりも少し大きめに切りました。自家製のお餅でおいしかったです。6人の内3人はおかわりいたしました。
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こんがりと焼けたお餅を拡大いたしました。
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今回初めて来た6ケ月の初孫は御節料理を食べるのは無理なので離乳食を食べました。


ムサシも参加したかったみたいです。何度も前足を机に乗せて覗き込んでいました。


我が家では澄ましのお雑煮なのですが、1月2日の朝食では味噌仕立てのお雑煮にしました。おそらく約20年間の内で、初めての味噌仕立てのお雑煮だと思います。雑煮の由来は諸説あり、定かではないそうですが、餅が食べられるようになった段階から存在したと想像されます。つまり呼び名は別として、米文化の日本では古来から存在した料理ではないでしょうか。
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初対面 ムサシと初孫 [新年]



初孫が北海道から2016年12月31日に来て正月を過ごしました。長男夫婦以外の子供たちも集まりました。私の長女はお宮参りの時に会いましたが、次男は赤ちゃんとは初対面でした。そして我が家のワンコ(名前 : ムサシ)も初対面となりました。すでに紹介の通り赤ちゃんは2015年6月12日に生まれたので6ケ月と19日です。
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ペロッと舐めて挨拶です。我が家のムサシは舐めることはほとんどしないのですが、この日は不思議と舐めてくれました。


ちょっとムサシに興味を持ったようでした。到着した12月31日の写真です。


冒頭で説明の通り、初対面だったのはムサシだけではありませんでした。私の次男とも初対面でした。ぎこちない抱っこです。姪っ子ちゃんになります。こちらも到着した12月31日の写真です。次男の顔が写っていない写真にさせてもらいました。


ムサシは本来、子供が好きなのですが、家の中で会うのは初めてなので赤ちゃんだけでなくムサシも緊張気味でした。1月1日の写真です。下の写真は右の写真から切り取りました。元旦の記念の動画をお嫁さんがスマホで撮っているところです。動画を見てみたいものです。


クリックすると拡大3つ目のご対面は、こんな感じでした。二人ともにカメラ目線です。ムサシが脾臓の摘出手術を受けたのが2015年6月8日でした。その4日後の6月12日に初孫が生まれたのでした。ムサシが大病を乗り越えて元気になってくれたおかげで初対面が実現出来たのだと思います。


ムサシが耳を振っているところです。耳がおおきいでしょう。
初対面の写真は、きっといい思い出になると思います。1月3日に羽田空港16時30分発のフライトで北海道に帰りました。
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初孫と一緒に初詣に行きました。 八社大神と千手院 [新年]

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2016年の正月は子供達全員が集まりました。2015年6月12日に生まれた、北海道に住んでいる長男夫婦の子供(女の子)は今回が初めて家に来ました。我々の初孫になります。2016年1月1日の朝のおせちを食べた後に、皆で初詣に行きました。子供が小さいこともあり、歩いて行ける神社と寺院の2ケ所に行きました。上の写真が最初に詣でた八社大神(はっしゃだいじん)です。八社大神は15~16世紀頃にあったと伝えられる井野城の跡にある神社です。

八社大神(八社神社 / 八社大明神 / 八社大神神社)には下の八柱の神々が祀られていました。もともとは十二柱の神々が祀られており十二杜大神と称されていましたが四杜は他村(小竹)に分祀(ぶんし)されて八杜大紳になったと伝えられているそうです。ここで持って行った三脚で記念写真を撮りました。小竹の四社大神の祭神は經津主命と大己貴命と伊弉諾命と伊弉再命です。
 ① 別雷命   わけいかづちのみこと
 ② 天兒屋根命 あめまこやねのみこと
 ③ 伊弉冉命   いざなみのみこと
 ④ 大己貴命   おおなむちのみこと
 ⑤ 比咩神   ひめのかみ
 ⑥ 大山祗神   おおやまづみのかみ
 ⑦ 保食神   うけもちのかみ
 ⑧ 表筒男命   うわつつのおのみこと
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普段は無人の神社ですが、神主さんがおられて拝殿でお祓いをしてもらった後に裏にある本殿でお参りをいたしました。写真は神主さんにお祓いをしてもらっているところです。


本殿側に廻ってみんな参拝いたしました。八杜大紳祭神のごりやくは、①厄除け・災難除け・落雷除け等、②立身出世等、③国家安泰・子孫繁栄・五穀豊穣等、④福徳円満・縁結び等、⑤縁結び・安産等、⑥航海安全・商売繁盛等、⑦五穀豊穣・養蚕と畜産守護等、⑧家内安全・学問成就・交通安全等、です。



ちゃんと初孫(女の子)もお参りいたしました。お参りの仕方が書かれていたので二礼二拍一礼(二拝二拍手一拝)で行いました。


こちらが八杜大紳の本殿です。
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井野城の土塁の上から八杜大紳の本殿と拝殿をみた景観です。
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見事な彫刻が施された本殿でした。奥側から撮っているので拝殿が向こう側に見えます。
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拝殿の中にも明治時代と思われる資料が飾られていました。右の絵では日本人と思われる軍隊(左側)と戦っている相手(右側)の顔つきが欧米人のようなので日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)の絵なのかもしれません。日露戦争では日本が勝ちましたが戦没者は日本が圧倒的に多かった戦争でした。戦没は戦死+戦傷死+病死です。病死が多いのにも驚かされます。
 ロシア 戦没42,628人 病死11,170人 負傷146,032人 捕虜79,000人
 日本  戦没88,429人 病死27,192人 負傷153,584人 捕虜 1,800人
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睦仁と書かれた書類も飾られていました。明治天皇が明治二十三年十月三十日(1890年10月30日)に書かれた書類のようです。1890年10月30日は教育勅語が発布された日なので、それに関したの書類のようです。確かに「教育」の言葉が見受けられます。教育勅語は、正式には教育ニ関スル勅語と言われ、第2次世界大戦前の日本の教育の根幹となった勅語だそうです。
原文をネットで探した結果、一致したので、やはり教育ニ関スル勅語でした。
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス 爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無 窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ 是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所 之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日   御名御璽
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御名御璽は「ぎょめいぎょじ」と呼び、君主の署名と公印のことです。クリックすると拡大日本においては、現在も天皇の署名・公印をさして公的に用いられる呼称だそうです。右の写真は明治天皇の御名御璽です。官報において公布される法令の天皇の署名・捺印部については「御名 御璽」と表記されるそうです。その際、「御名 御璽」は当該文書の題名と同程度の高さに置かれるそうです。その後につづく首相と閣僚の副署は通常のように各行の最下部に署名どおりの実名をもって表記されるそうです。官報以外の公文書および民間で出版される法令集においても公布された形式の通り、同様に表記されるそうです。

この井野城跡の鎮守の森の中に主格跡と八杜大紳があります。
以前に掲載の井野城の記事→ポチッ
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航空写真と模式図で八杜大紳と井野城を紹介いたします。航空写真の中の井野城と書かれているところに主格跡と八杜大紳があります。1971年以前は、このあたり一帯が林で覆われていました。井野城の特徴は土塁の内側の主郭の建っていた部分が深く掘りこまれていることでした。主郭が平屋であったならば、周辺から建物が見えなかったと思えるほど土塁の内側は深くなっていました。
実は井野城の近くにあった先崎城下高野館も、これほどの深さではありませんが、同じように主郭の部分は深く掘りこまれていました。同じ考え方で作られた城で臼井城を守っていた出城(支城 砦)であったようです。
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八杜大紳に参拝した後は千手院(せんじゅいん)に向かいました。


ここでも持ってきた三脚で記念写真を撮りました。千手院は、千葉県佐倉市井野にある真言宗豊山派の寺院で山号は稲野山です。本尊は千手観音です。この寺は、729~749年の天平年間に下総国印旛郡臼井荘臼井石神に創建された蓮華王院に始まり、1392年に僧澄秀が兵乱に遭うことを恐れ、小竹城主で大壇那でもあった千葉一族の小竹高胤に願って井野村へ移し千手院と改めたと伝えられている由緒ある寺院です。
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八社大神と千手院の場所を航空写真で紹介します。八社大神と千住院に参拝した後は、ツタヤ(TSUTAYA)に寄ってDVDを4本借りて家に戻りました。歩いたコースでは右の写真の井野の辻切りを3ケ所で見ることが出来ました。
地図内の千手院卍の文字の位置は間違いで の位置が正しいのです。
クリックすると拡大 ━━ 八社大神 → 千手院 → ツタヤ へのルート
  八社大神
  千手院
  ツタヤ(TSUTAYA)
  井野の辻切り → 記事-1 記事-2

出発から帰って来るまでを紹介します。
写真の11枚目と12枚目の間でDVD屋さんのツタヤに寄りました。
初めて初孫にあったときの記事はこちらです。→ポチッ




タグ:神社 初詣 寺院

非常階段に行列が出来る超人気肉店のお肉1.7kgでステーキ [新年]

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上の写真は宝塚の実家に帰ったときに超人気店で買った特上ヘレ肉のステーキです。今回の年末年始では諸般の事情により実家ではなく、クリックすると拡大2015年12月31日から千葉県佐倉市の私の家に子供たちが集まるので12月23日から30日まで私が兵庫県の宝塚の実家に帰省していました。そこで、今回は兵庫県にある超人気の牛肉店(本店は神戸)でステーキ用のヘレ肉(ヒレ肉)を買って帰ることにいたしました。

12月24日にお店を下見に行った結果、営業の最終日が12月29日でした。12月29日はタイミングよく帰宅する前日でした。そこで12月29日に開店の30分前に来ましたが、下の写真のように、すでに沢山の人が並んでいました。ガードマンの持っている案内板には「ココは最後尾では御座いません。非常階段の方へお廻りください。」と書かれていました。店の前に行列が出来ると周囲のお店に迷惑が掛かるので非常用通路に並ぶようにしているようでした。
 店名 山垣畜産 アクタ西宮店
 住所 兵庫県西宮市北口町1番2号
     アクタ西宮東館1階118号
 電話 0798-66-5929
 営業 10:00~20:00
 定休 第1・第3火曜日
 本店 神戸市北区八多町吉尾819番地
 地図 http://goo.gl/maps/82xyr ポチッ
 掲載 記事-1 記事-2 記事-3
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非常用通路の入口に行列の場所が書かれていました。


非常用通路の方に廻ってみるとすでに沢山の人が並んでいました。列に沿って歩いて最後尾まで来ました。ここが行列の最後尾です。お店は1階にあるのですが最後尾は2階まで上がっていました。


階段を下りたところです。思わず、声を出して驚かれる方が何人もおられました。開店時間を過ぎると少しづつ動き始めて少し安心いたしました。これだけの行列が出来るのは年末だけで、普段は店の前だけなので安心してください。


ここの一番前が非常用通路の行列の一番前です。ここら3人づつガードマンの人がお店のところに案内してくれます。3人づつにしているのは割り込みを防ぐために並んでいる3人の人の顔を覚えるためだそうです。3人と書きましたが正確には3組です。夫婦で来られている方が1組入ると4人になるのです。
お店の前まで行くとお店の前に張られたロープの中に入ります。このロープの中に入ると一安心です。お店の中では20人近い人が働いていますが注文を受けるのは一人だけです。混乱をされるために一人が先頭から順番に注文を受けているのだと思います。注文内容を伝えると整理番号札を渡されてレジに肉が届くと呼ばれます。


これが購入した特上ヘレ肉(ヒレ肉/フィレ肉)1.7kgです。いろんな肉を食べた経験から、この肉はデパートなどで買うと100gが約3000円の肉質なのです。でも、こちらのお店では行列が出来るだけのことがあり安く買えるのです。このお店でサーロイン(特上ロース)とランプも試してみましたが、やはり特上ヘレ肉が格別でした。       
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千葉の家のために買うのが目的ではありますが、実家でもお袋と食べるので少し多めに買ったわけです。残りは家に持って帰って家に集まった子供たちと食べました。
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実家ではブロッコリーをも、つけ合わせにいたしました。
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ステーキの上に乗せているのはニンニクです。
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肉の断面も紹介します。
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写真を拡大いたしました。
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やっぱりビールが飲みたくなります。


千葉の家に持ち帰ったのは、こちらの1.45kgの肉です。つまり1.7kg-0.25kg=1.45kgなのです。
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一番おいしく焼ける約28mmの厚みに切り分けました。ここの特上ヒレ肉はサーロインと違い脂は目立ちませんが、味も美味しく、非常に柔らかな肉なのです。ヘレは主に近畿地方の呼び方で、一般的にはヒレ、フィレ、テンダーロインと呼ばれます。骨盤の内側にあり、脊椎骨(背骨)と大腿骨(太ももの骨)を結ぶ2本の棒状の結合組織が少ない筋肉(大腰筋/だいようきん)で、非常に柔らかい赤身肉です。一頭の牛から採れる量がわずかなので最高級の部位とされています。骨盤と大腿骨をつないでいる筋肉は中臀筋で部位の呼び方はランプのようです。
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お店でもらった香辛料をふりかけました。
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最初に牛脂で薄くスライスしたニンニクを焼きます。焼きあがった順番にニンニクを取り出します。焦がさないのが重要です。ニンニクの香りが移った油でステーキを焼くのが目的なのです。
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全て同時に仕上げたいので鉄のフライパンと鉄の天ぷら鍋で肉を焼きました。
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ステーキ完成が完成しました。我が家ではクレソンをつけ合わせにいたしました。
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ソースは赤ワインとウスターソースを事前に煮詰めたものをステーキを取り出した肉汁の中に入れて、さらに過熱したものです。
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ビールが美味しかったです。


さらに別のお皿の写真を紹介します。
息子夫婦が5ケ月目の赤ちゃんを連れて実家に行ったときは山垣畜産の肉を使ったすき焼きを食べたそうです。
右はその時に撮った写真です。
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さらに別の皿の写真です。1.45kgを6人で食べたので一人平均は242gでした。9個に切り分けたのは厚み28mmを優先したためでした。つまり一人が1.5個のステーキを食べたのでした。このステーキは2015年12月31日の大晦日にいただきました。
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タグ:神戸牛

あけましておめでとうございます。2016年 元旦 六甲山の行者山 [新年]

2016年の我家の年賀状

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
今年は皆さんにとって良い年となることを祈念いたします。
クリックすると拡大So-netブログをはじめて今回の正月は7回目になります。2009年5月5日に最初の記事を掲載して6年8ケ月(80ケ月)が経ちました。沢山のアクセスをしていただき、沢山のnice!を頂き、沢山のコメントを頂き、ありがとうございました。
写真は昨年の6月12日に生まれた初孫です。
2016年元旦

今年の新年最初の記事としては、宝塚の実家近くの行者山(ぎょうじゃやま)を紹介したいと思います。上の写真は、実家近くから撮った行者山です。写真の中央の高い山が行者山です。行者山は六甲山系の山の中の一つで東の端に位置します。
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生まれてから11ケ所( )に住んだことがあります。2015年12月23日から12月30日まで母と犬が住んでいる宝塚市逆瀬川にある実家に帰省していました。その実家は六甲山の東側にあり、学生時代から関東に引っ越すまでの間は、よく六甲山を歩きまわっていましたが、不思議なことに実家に一番近い行者山には登ったことがなかったのです。今回、2015年12月28日に、その行者山に初めて登ってみました。
    0歳 兵庫県伊丹市に生まれる
    1歳 兵庫県西宮市夙川に引越
    2歳 広島県広島市平野町に引越
    3歳 広島県広島市井口に引越 → 記事
   10歳 兵庫県神戸市東灘区岡本に引越
   14歳 兵庫県神戸市東灘区本山に引越
   16歳 兵庫県宝塚市に引越 今の実家の場所
 1988年 千葉県船橋市に引越
 1993年 千葉県佐倉市に引越
      大阪府茨木市と神戸市須磨区にも住んでいたことがあります。



クリックすると拡大実家から逆瀬川の支流となる白瀬川の横を歩きました。今は大きな住宅地になっていますが、私の学生時代は山林で実家の犬(ジョン)と走り回っていた場所でした。今はありませんが、犬が泳いだ右の写真の池もありました。
六甲山の湿地には今でも食中植物のイシモチソウやモウセンゴケやミミカキグサ類が生えています。この辺りには、住宅地が出来るまでは六甲山では珍しいコモウセンゴケが生えている貴重な場所でもありました。六甲山の池の食虫植物としてはタヌキモを特定の池で見ることが出来ます。
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川沿いの太い道が途切れました。川の右側の黒い車の奥に道がありそうなのでそちらに進んでみることにいたしました。
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こちらが車の奥の部分を拡大した写真です。
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やはり細い道がありました。この辺りはワンコの散歩道になっているようでした。
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進んでいくとハイキングコースの大きな案内板がありました。実は、実家を出るときから行者山に登るつもりではなく、この案内板を見るまでは甲山の方に登り、仁川駅に出るつもりでした。この案内板を見て、とりあえずは行者山東観峰に登ってみることにいたしました。
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IMG_17545-475.jpg結果的には3秒間隔で点滅させている太い赤いラインを歩きました。親切なことに黒い丸の部分に、その場所の現在位置を書いた地図付きの案内板がありました。歩いたルートの地図付きの案内板の写真も順番に紹介したいと思います。地図内の現在地と書かれているところに、この案内板がありました。
右の地図をクリックすると拡大地図を別画面で表示するので、出てきた地図を見ながら記事を見ていただくとわかりやすいと思います。

最初は、ゆずり葉散策路と名付けられた道を歩きました。
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不思議なことに大きな南天の木が生えていました。南天の木は庭木だと思っていたので不思議に思ったわれです。考えてみるに人家が全くなかった学生時代にも、この辺りで南天の木を見た記憶がありました。元々は渡来した栽培種の実を鳥などが運んで野生化したものと考えられているようです。
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道を歩きやすいように、石が組まれているのに驚きました。きっとボランティアの人が整備してくれたと思うのですが大変な作業だったと思います。
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六甲山でよく見かけるシダが生えている小道になってきました。
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登りきったところに行先を示す標識がありました。東観峰・行者山と書かれた方向に進みました。


まさに雑木林の中を進む感じでした。ところどころにイノシシなのか掘り返した後もありました。
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このような大谷と書かれた石の標識が小道の真ん中に埋められていたので、後で調べるつもりで写真に納めました。


開けたところに出ると砂防ダムがありました。
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川を渡ると、階段のように整備された小道もありました。ここの左側には砂防ダムがありました。
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よく見ると、単なる板ではなく滑り止めが付けられた板が使われていました。ここにも整備に力が入っていることが伝わってきました。
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最初の現在地を示す地図付き案内板です。ここからは東観峰までは概ね山の尾根伝いに登っていきます。
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山の尾根なので道の両側が険しい崖のところもありました。
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危険な部分には虎テープが張られている上に、きつい登りの部分にはロープが設置されていました。道の右側のロープが判るでしょうか。このロープを使って登りました。
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雑木が多く枯葉で道が判りにくいところには標識も建てられていました。
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石が動かないように鉄杭も打ち込まれていました。これなら安心して石を使って踏ん張れます。
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急なところはロープだけではなく梯子も設置されていました。これには驚かされました。見た目よりは急阪で確かに梯子が無かったら大変だと思いました。
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少し見晴らしがいいところに出たので六甲山の山頂方向(西方向)の写真を撮りました。まだ東方向の眺望は見れませんでした。
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また梯子とロープが設置されていました。
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甲山が見える場所に出ました。左の丸い山が甲山です。甲山は火山の痕跡である山で、1200万年前に噴火したとされています。岩質は輝石安山岩からなり、隣接した花崗岩からなる六甲山とは違う形成過程であると考えられています。
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上の写真を撮った場所の写真付き案内板です。
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こんな感じで写真付き案内板が立てられていました。
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さらに尾根伝いに小道を進みます。
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開けた場所に出ました。甲山をバックに現在地を示す地図付き案内板が立てられています。
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こちらが案内板の地図です。今まで出てきた案内板は上が北でしたが、この地図は上が南です。つまり案内板の地図は立てられている方向や見る方向によって地図を変えているのです。心憎い配慮です。
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宝塚南口の高層マンション群です。宝塚歌劇の大劇場も写っています。
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宝塚歌劇の大劇場をズームアップいたしました。正式名「宝塚大劇場」は1992年完成で毎年100万人以上の観客を動員しているそうです。
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上の2枚の写真はズームしたもので、目で見た感じはの写真を紹介します。この写真はクリックすると特別に大きく表示するように設定いたしました。
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少し東方向です。逆瀬川駅や実家があるあたりも写っています。
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行者山東観峰に着きました。
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ここには登頂記念箱が設置されていました。


このノートに記念の言葉を書くのです。


行者山東観峰に設置されていた現在地わ示す地図付き案内板です。
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行者山東観峰からの宝塚駅および宝塚南口方向の眺望です。
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大阪方向の眺望です。
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ここには基準点が設置されていました。
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2級基準点で西宮土木事務所が設置したようです。ネットで調べた標高は383mでした。361.18mmと書かれていサイトもありましたがGoogle地図の等高線から判断して383mの方が正しそうでした。


行者山東観峰からは一旦は西方向に下ってから行者山に登ります。
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目の前の小高い山が行者山(415m)です。
東観峰(383m)と行者山の標高差は32mとなります。
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東観峰から行者山に向かいました。
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行者山の少し手前にも地図付き案内板が設置されていました。名前は行者山東展望台(400m)です。
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これが地図です。現在地が判ってもらえると思います。
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行者山東展望台から見た甲山です。池は西宮カントリー倶楽部(ゴルフ場)内にある深谷貯水池です。リゾートホテルのような建物は、阪急逆瀬台マンション・アヴェルデの1番館~5番館だと思います。
この建物の中に、以前に紹介した出石そばのそば義があります。
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こちらにも基準点が設置されていました。


行者山東展望台から見た東観峰です。
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行者山東展望台と行者山を結ぶ道です。距離はわずかです。
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行者山に着きました。標高は415mです。このあたりの最高峰です。
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こちらが現在地の地図です。
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ただし周囲が木でおおわれているため景色が見えません。だから行者山東展望台があるのだと感じました。


行者山を離れました。
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下り始めました。
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下っていく途中に不思議な石の配置がありました。
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枯葉をどけてみると基準点でした。
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こちらの基準点は兵庫県の3級基準点でした。


六甲山から降りてくる道に出ました。分岐点に例の案内板が立っています。
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奥の方から降りてきました。
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現在地を示している地図です。こちらは上が南です。
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こちらが六甲山の方向です。
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こちらが光ガ丘の方向です。こちらの方向に降りていきました。ここが支多々川の源流です。道そのものが川なのです。
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水は流れていませんが、湿っており苔などの胞子植物が沢山生えていました。
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シダ植物も多かったです。
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大雨の時は、ここを水が流れるのだと思います。
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ここで川と別れました。左に川が下っていき、道は右に進みます。
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道の部分です。
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東観峰からの道に合流いたしました。
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もうすぐ光ガ丘口です。
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尾根を進んだ後に、また支多々川に出てきました。見えているのは砂防ダムです。
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水が流れているのが判ると思います。
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流れているところが実感してもらえるように動画を掲載いたしました。


もうすぐ住宅地です。
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写した中の最後の案内板です。
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そして、これが案内板の地図です。
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道路が見えてきました。
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住宅地に見えてきました。川は支多々川です。実家の近くまで流れていきます。
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昔からの町並みを流れる支多々川です。
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この先は武庫川につながっています。
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実家の近くまで戻ってきました。正面が行者山で、その左が行者山東観峰です。
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歩いた全コースを紹介します。ただし実家の正確な位置が特定されないように実家の近くだけルートを少しずらしております。
ちなみに六甲山最高峰は931.25mで、甲山は309.2mです。逆瀬川駅の標高は51mのため登リ口である西逆瀬台口までの標高差は約100mあります。
行者山の住所は 兵庫県宝塚市 小林西山 (34°47'49.1"N 135°19'21.0"E)になります。緯度と経度の情報はGoogle地図の等高線の頂点の位置から判断いたしました。北東方向には譲葉山(514m)と岩倉山(488.4m)もあります。
 ━━ 歩いたハイキングコース
 ━━ 住宅地内を歩いたコース
   150m 西逆瀬台口
   383m 行者山東観峰  34.796308, 135.325828
   400m 行者山東展望台 34.796703, 135.323437
   415m 行者山     34.796964, 135.322511
   230m 光ガ丘口


場所を特定した等高線の入った地図を紹介します。等高線は10mごとです。クリックすると標高を書き込んだオリジナルのGoogle地図を表示します。
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タグ:新年

久しぶりの手作り御節 [新年]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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最近、我家の御節(おせち)はセットを買うことが多かったけれども、今回、2015年はセットを買わなかったので久しぶりに自家製の御節となりました。白い徳利とお猪口は出石焼きで、銚子は錫製の昔からのものです。お猪口の数で判るように6人分です。

我家の御雑煮はお澄まし系です。これさえあれば私としては十分です。
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煮豆などは市販品を買いましたが、ほとんどを家で作りました。写真の漬物はカボチャです。これは12月30日に宝塚から帰ってくるときに伊丹空港で私が買ってきました。京漬物です。
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こちらの3種類の海老料理は家内の創作料理です。いつもはシンプルに茹でることが多いので正月らしい華やかな料理となりました。食べる寸前にオーブントースターで温めました。
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こちらはガスオーブンで焼いた焼豚です。
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カズノコですが塩抜きから皮むきなど意外と時間と手間がかかります。
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伊達巻も自家製です。
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こちらも伊丹空港で買ってきた京都の千枚漬けです。漬物は合わせて4種類ほど買いました。
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テーブルに並ぶと意外と豪華になります。
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自慢の筑前煮です。まだ湯気が立っています。鶏肉の味が効いて美味しいです。今回紹介の料理は2015年1月1日の朝食で基本的に全て食べきりました。食事が終わると近くの鷲神社に皆で歩いて初詣に行きました。
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こちらが鷲神社です。歩いて行く途中で近所の知り合いに会いましたが、神社では我々だけでした。6人とワンコ1匹でお参りいたしました。すぐそばに一度紹介したことのある先崎城跡があります。


静かな神社ですが本殿は見事な彫り物のある佐倉市指定文化財です。見事な彫刻は幕府彫刻師である星野理三郎政一の作で、建物は地元のとなり村(下高野村)の大工棟梁である立石菊右衛門元隆の作です。星野理三郎政一は上州勢田郡花輪(現群馬県勢多郡東村)の彫刻師です。彫刻の題材は大江山鬼退治だそうです。
鷲神社は1078年前の承平7年(937年)に朱雀天皇の勅命に より慈恵僧正が創建されたとされており、今の建物は天保15年(1844年)に再建された由緒ある神社です。祭神は天乃日鷲命(アメノヒワシノミコト)です。鷲神社は近いうちに詳しく掲載したいと思います。千葉県印旛郡栄町安食にある大鷲神社にも似た感じの彫刻のある本殿があり、祭神として同じ天乃日鷲命が祀られているそうです。

あけましておめでとうございます。 2015年 元旦  中山寺奥之院 [新年]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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新年あけましておめでとうございます。
本年もどうかよろしくお願い致します。
今年は皆さんにとって良い年となることを祈念いたします。
So-netブログをはじめて今回の正月は6回目になります。2009年5月5日に最初の記事を掲載して5年8ケ月(68ケ月)が経ちました。沢山のアクセスをしていただき、沢山のnice!を頂き、沢山のコメントを頂き、ありがとうございました。
2015年元旦
正月は実家で迎えることが多かったけれども、今年は自分の家で正月を迎えることにいたしました。そこで年末に兵庫県宝塚市の実家に帰省し12月30日に帰ってきました。帰省中に初詣で宝塚市で最も沢山の人が訪れる清荒神清澄寺(約36万人)に行って来ました。ちなみに2番目が中山寺(約20万人)です。上の写真はその時の拝殿(天堂)の写真です。ここに来た一番大きな目的は清荒神の真北の山の中に奥之院があるのですが、そこに登ることでした。2つ目の目的は、さん志ょうや本家の佃煮のお土産を買いに来ることでした。本記事には169枚の写真を使っています。

高校時代から宝塚に住んでおり地図で奥之院の表示があることは知っていたのですが、一度も行ったことがなかったのです。今まで行けなかった理由は清荒神に来た時は何度も登り口を探したけれども見つけられなかったのです。
   奥之院             清荒神清澄寺
    奥之院に登ったコース    清荒神参道
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こちらが正面にある本堂です。ここでも奥之院への登り口を探しましたがありませんでした。


実は清荒神の隣の大林寺から奥之院(奥の院)へ行く登り口があることを今回初めて探し当てることが出来ました。参道ではなくハイキング道入口と書かれていました。


こちらが大林寺の敷地内にある奥之院への道の入口です。


シダが生い茂る道に入りました。


次は尾根伝いの日当りの良い道でした。


確かに参道ではなくハイキングコースでした。


林の中を歩く道もありました。やはりハイキングコースです。


歩きやすく整備されていました。


渓流沿いの道もありました。ハイキングコースは、しっかりした橋が作られるなど、かなり整備されていました。


橋の向こう側の細い木の形から左右は同じ場所であることが判ります。右の古い橋の写真はネットで見つけました。新しい橋はネットで出てこないので、橋は最近新しくされたものと思われます。クリックすると両方ともに拡大するので比較できると思います。


道沿いの切り株にはすべて番号が着けられていました。しっかりと木を管理されているのだと感じました。むやみに木をきってはいけないのだと思います。


開けた場所に出ました。そこは管理道路があり、間伐材で作られた治山ダムがありました。普段は乾燥していますが、大雨などで土砂が流失するのを防いでいるようです。
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近くに説明版があったので紹介します。クリックすると読める大きさに拡大します。
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またハイキングコースが続きました。


奥之院まであと0.4kmの表示のところまで来ました。清荒神から奥之院までは3.3km(0.4km+2.9km)の距離になることがわかりました。


奥之院に近づくと、車も通れるほどの道に出ました。後でわかったことですが、この道路は奥之院の解体改修工事のために最近作られたそうです。やすらぎ広場につながっているようです。


最高峰への入口です。左の道の奥が奥之院です。


奥之院は、中山寺の奥之院だったのです。清荒神からの道が参道ではなくハイキングコースであることを納得いたしました。中山寺は宝塚では初詣の人も清荒神に次ぐほどの有名なお寺です。特に安産祈願は近畿圏の人がみなさん来るほどの有名なお寺なのです。


奥之院は予想していたと違い朱塗りの新しい建物でした。調べてみると一昨年から解体修理がおこなわれて2014/年7月19日 奥之院落慶法要がおこなわれたそうです。中山寺は寺伝では聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場です。
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奥之院には厄神明王が祀られています。


2012年の時点の奥之院の写真をネットから拝借させていただきました。屋根の河原の先端の形が違うので上の写真が新しくなった奥之院であることが伺われました。


さらに別の時期の奥之院です。こちらはWikimediaに掲載されている写真です。前の部分の柱だけ朱塗りになっています。
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ご神体は大きな岩でした。
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横の大きな石がまつられており、石の正面からの湧水は大悲水と呼ばれています。
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境内には沢山の祠がありました。こちらは石の祠です。鳥居には五天龍王と書かれています。
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こちらも石の祠(ほこら)です。吾孫子水神(あびこすいじん)と書かれています。比較的新しいものようです。


赤い前掛けが着けられた石仏も沢山ありりました。
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お地蔵さんらしきものもありました。古いものや大正時代物や現代の物と思われるもの祀られていました。
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石で組まれた不思議なものもありました。
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いたるところに祠が祀られていました。


こちらには吾孫子弁財天(あびこべんざいてん)と書かれていました。


奥の院の正面の写真です。
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奥之院からは本来の参道である中山寺への道を降りましたが、ここでは中山寺から登ってきたイメージで下から順番に紹介したいと思います。阪急中山観音駅から歩いてくると最初に目に入ってくるのが天保3年(1646年)に徳川家光によって再建された大門です。
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こちらが中山寺の本堂です。中山寺の正式名は大本山中山寺ですが、一般的には中山観音の呼び名が使われています。本尊は十一面観世音菩薩です。上でも説明した通り聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場といわれており、「極楽中心仲山寺」と称されていたそうです。
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大願塔のあたりを通って奥之院への入り口に向かいます。
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こちらが奥之院への入り口です。石碑には「すく おくのゐん道 是より十八丁」と書かれており奥之院への入り口であることを表しています。
石碑に書かれている丁は、1丁(町)=360尺=109.09091mなので18丁は1963mなので、奥の院までの距離は約2kmということになります
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参道には一丁(109m)ごとに石の道標が立てられていました。その道標をすべて紹介します。
 壱丁               弐丁               三丁


 四丁               五丁               六丁


 七丁               八丁               九丁


 十丁               十一丁              十二丁


 十三丁              十四丁              十五丁


 十六丁              十七丁              十八丁


中山寺から中山寺奥之院への参道の景観を順番に紹介いたします。

クリックすると拡大入口 ~ 壱丁 クリックすると拡大の景観を紹介します。
入口を入るとすぐに中山観音公園になります。


ここには霊園が広がっています。


左の道を降りていく方向が奥之院への参道です。


参道脇には沢山の石像が置かれていました。台座には先祖代々を弔っている個人名が書かれています。この台座には八木福と書かれていました。赤い前掛けが新しいことから最近取り換えられたのだと思います。石像の種類は判りませんが、とりあえずお地蔵さんと呼ばせていただきます。奥之院までのすべてのお地蔵さんを紹介させていただきます。
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お地蔵さんの横に最初の道標「一丁」が見えます。この距離を示す石碑はすべて享保十九年十一月と書かれており、西暦では1734年になることから、280年前の石碑であることがわかりました。
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クリックすると拡大壱丁 ~ 弐丁 クリックすると拡大 の景観です。
一丁の石碑から下に降りていくと足洗川に沿に登り始めました。


ここにも沢山のお地蔵さんがありました。
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五輪石塔の墓がありました。
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これは「ト部左近の墓」の詳しい説明がありました。
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先に進むと公園がありました。公園を通って右の方に進むと新道のコースで奥之院に行けるようですが弐丁~九丁の道標は見ることが出来ないと思われます。十丁の道標のところで旧道と合流します。


公園の脇には標識がありました。中山山頂への表示から、この標識は宝塚市と神戸営林署がハイキングをする人のために建てたものだと思われました。参道はハイキングコースでもあるようでした。ほとんどの歩いている人はリュックを担いでいました。ここから中山山頂まで3.1kmであれば、奥之院から山頂までは1.3kmという計算になります。


こちらにもお地蔵さんが祀られていました。この後に紹介するお地蔵さんも、ほとんどがこの二種類でした
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クリックすると拡大弐丁 ~ 三丁 クリックすると拡大 の景観です。
弐丁の道標の脇にもお地蔵さんが祀られていました。台座には「吉田コト」さんと「吉田敬徳」さんの名前が彫られていました。真新しい赤い前掛けから、大切に先祖を祀っていることが伝わってきました。
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この石の道標にも享保十九年十一月と書かれていました。一番上の文字はよく判りませんが、左本山道と書かれているのではないでしょうか。
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住宅地の横を登っていきました。左下の白い木の柱には国有林界と書かれています。この辺りは国有林でもあるようです。
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もともとのお地蔵さんが亡くなったのかもしれません。でも今でもお参りに来られているようです。


こちらは沢山のお地蔵さんが祀られていました。
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クリックすると拡大三丁 ~ 四丁 クリックすると拡大 の景観です。
お地蔵さんは、このように石の上においたり、石をくみ上げで祀られていました。
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ここを登りきると住宅地から離れて、山になっていきます。


ここには3体のお地蔵さんが祀られていました。
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このあたりの参道の雰囲気を紹介いたします。


標準的な2体のお地蔵さんがありました。


こちらは3体でした。



クリックすると拡大四丁 ~ 五丁 クリックすると拡大 の景観です。
1体は無くなったようです。でも今でもお参りに来られているようです。


台座だけになってしまったものもありました。クリックすると台座の文字が読めますが、岡山市のお地蔵さんだったようです。
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こちらは間人の上に石が積み上げられていました。


このあたりの参道の景観です。


2体のお地蔵さんです。



クリックすると拡大五丁 ~ 六丁 クリックすると拡大 の景観です。
五丁の道標と上で紹介したお地蔵さんです。石碑の近くにお地蔵さんが祀られるケースが多い気がします。


石が積み上げられたものもありました。


五丁~六丁の間にはお地蔵さんはありませんでした。



クリックすると拡大六丁 ~ 七丁 クリックすると拡大 の景観です。
大きな石の上にお地蔵さんが2体、祀られていました。
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こちらもお地蔵さんでしょうか。


こちらの赤い前掛けには沢山の文字が書かれていたので拡大写真を紹介します。クリックするとさらに拡大するので読みやすいと思います。
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ここにも石が積み上げられたものがありました。


丁寧に維持積み上げられています。毛糸の帽子が可愛らしいです。
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クリックすると拡大七丁 ~ 八丁 クリックすると拡大 の景観です。
こちらのお地蔵さんは1体でした。


こちらの参道の景観です。


丁寧な石組みを見ていると大切に祀られてることが伝わってきました。
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こちらは4体です。
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クリックすると拡大八丁 ~ 九丁 クリックすると拡大 の景観です。
参道で、唯一、道の真ん中に祀られたお地蔵さんです。


上から見た景観です。
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こちらも立派に石組みがされていました。



クリックすると拡大九丁 ~ 十丁 クリックすると拡大 の景観です。
一体のお地蔵さんが大切に祀られていました。


中間地点となる夫婦岩展望所まで300mまで来ました。


参道には沢山の石で石段のようになっていました。


左側のお地蔵さんの光琳の上部は欠けていますが大切に拝まれてきたのだと思います。


シンプルなお地蔵さんもいいですね。趣があります。クリックすると拡大します。
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ここにも2体のお地蔵さんがありました。


こちらは3体のお地蔵さんです。九丁~十丁の間には沢山のお地蔵さんがありました。



クリックすると拡大十丁 ~ 十一丁 クリックすると拡大 の景観です。
十丁の道標(石柱)は裏面に道案内が書かれていました。上から降りてくるときに、この道案内を見ることができます。右側の道も左側の道も中山寺に行きます。左側には「左 新道」と書かれておりました。右側は判りにくいのですが「右 島道」と書かれているように見えました。左が新道なので右は旧道と考えて、私は右側を行きました。この後も道標が続いたので正解でした。この道標にも享保十九年十一月と書かれていたことから右の道でも280年前の新道ということになります。
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十丁をすこし登ったところに夫婦岩がありました。いくつか岩があるので大きい方からお父さん、お母さん、子供さんでしょうか。
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夫婦岩の囲いの中にもお地蔵さんがありました。


何かの記念碑も建てられていました。中山・XX・道路新設記念碑と書かれていました。XXの部分は読めませんでした。


夫婦岩のところからは、奥之院までは1.2kmです。



クリックすると拡大十一丁 ~ 十二丁 クリックすると拡大 の景観です。
参道脇に大きな石碑が建てられていました。


これが、その石碑です。


夫婦岩を過ぎたあたりから日当りがよくなってきました。岩の上のお地蔵さんにも日が当たっていました。


新しい南無阿弥陀佛の石碑もお地蔵さんと一緒に祀られていました。きっとお地蔵さんが無くなって代わりに建てたのだと思います。


ひらけてきたので六甲山の麓にある甲山や宝塚の街並みもよく見えました。


十二丁の石碑が見えてきました。



クリックすると拡大十二丁 ~ 十三丁 クリックすると拡大 の景観です。
十二丁~十三丁の間にはお地蔵さんはありませんでした。


途中で参道が保安管理道路とクロスするところがありました。金網の扉で仕切られていました。



クリックすると拡大十三丁 ~ 十四丁 クリックすると拡大の の景観です。
この間の一か所にお地蔵さんが祀られていました。
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クリックすると拡大十四丁 ~ 十五丁 クリックすると拡大 の景観です。
このもお地蔵さんは一か所だけに祀られていました。
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十五丁の道標は享保十九年 甲寅 十一月が読みやすく文字が黒く強調されていたので紹介いたします。甲寅(きのえとら、こういん)は、干支の一つで享保十九年が甲寅に当るのです。干支の組み合わせで60ある中の51番目で、前は癸丑、次は乙卯です。陰陽五行では、十干の甲は陽の木、十二支の寅は陽の木で、比和だそうです。直近の甲寅の年は1974年と2034年です。



クリックすると拡大十五丁 ~ 十六丁 クリックすると拡大 の景観です。
奥の院まで、あと300mです。


この間にもお地蔵さんはありませんでしたが、趣のある景観を見せてくれました。



クリックすると拡大十六丁 ~ 十七丁 クリックすると拡大 の景観です。
ここからお地蔵さんが増えてきました。ここまで頻繁にお参り来るのは大変だと思います。でも健康的でもあります。


印象的な石碑がありました。石碑には「従是 南東 放生地」と書かれていました。これより南東は放生地であることを示しているのでしょうか。調べてみると境界石であることがかかれた資料がありました。元禄11年(1698年)に建てられたもののようです。生類を放す境界を示す碑に属するそうです。

大きな岩は特別な意味があるようです。たくさんのお地蔵さんが祀られていました。
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その中の一体の前掛けを拡大いたしました。
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石碑が置かれていました。これもいわれがあるのでしょう。


参道を紹介します。


十七丁の道標が見えてきました。
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クリックすると拡大十七丁 ~ 十八丁 クリックすると拡大 の景観です。
清流の横に「厄神明王聖徳太子御修行の地」と書かれた木柱が立てられていました。この清流は五段の滝となって落ちてきているそうです。滝の中段には石像(厄神明王)と碑が建っているそうですが気が付きませんでした。


お地蔵さんが石の真ん中に鎮座していました。


岩の斜面の棚の部分を利用してお地蔵さんが祀られていました。


石が沢山並べられた参道も趣がありました。


大きな岩を囲うように石の柵が作られており入口には灯籠も建てられています。
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その岩です。由緒ある岩のようです。中山寺奥之院は各所で大きな岩が祀られており、岩が特別のものであるようでした。
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岩の周りにはお地蔵さんが沢山祀られていました。


参道の先に最後の十八丁の道標が見えてきました。そこまでの間にお地蔵さんも見えます。
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そのお地蔵さんです。



クリックすると拡大十八丁 ~ 奥之院 クリックすると拡大 の景観です。
十八丁の道標を過ぎたところにもお地蔵さんがありました。2体のお地蔵さんです。
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中山連山の最高峰、中山山頂への入口がありました。左の道の奥に奥之院の境内が見えてきました。中山の標高は478mで、愛宕山(335m)と長尾山(302m)と合わせて長尾連山(別名:中山連山)と称されています。
山頂まではここから、さらに高さで108m、距離で約1.3km登ります。


祠が3つありました。一番手前の祠の前の狛犬は以前の奥之院の前に置かれていたものだと思われます。今の奥の院の前の狛犬は新しいものになっていました。左の奥の方が中山最高峰の道です。
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お地蔵さんが並べられたところがありました。写真を撮っている私の背中の後ろにも沢山並んでいました。参道のお地蔵さんをすべて紹介すると最初に説明しましたが、ここだけは抜けてしまいました。
新しいお地蔵さんではないので、ここは、倒れてしまったお地蔵さんなどを集められたのかもしれません。
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奥之院に着きました。狛犬が新しくなっていることが判ってもらえると思います。奥之院のある場所の標高は約370mだそうです。
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中山寺奥之院への参道を紹介いたします。
この日、2014年12月25日はを登って、中山寺奥之院に行き、を下りました。航空写真をクリックするとオリジナルのGoogle航空写真で中山山頂や売布神社や宝塚大劇場なども表示します。
    中山寺奥之院参道
    清荒神から中山寺奥之院に登ったコース
    清荒神参道
   中山寺奥之院
   中山寺  正式 : 大本山中山寺  別名 : 中山観音
   夫婦岩
   清荒神清澄寺
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和服で初めての初詣 成田山新勝寺 [新年]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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長く千葉県に住んでいながら初詣のランキングが2位の成田山に、初詣として行ったことがありませんでした。いつも歩いて行ける近所にある神社に初詣していましたが家族が全員集まったこともに2014年1月2日に成田山新勝寺に初詣に行ってきました。千葉県警が発表している正月の初詣客数は2003年が289万人、2004年が260万人、2005年が265万人、2006年が275万人、2007年が290万人、2011年が298万人、2013年が300万人です。次の表は正月三が日の1位~10位の人出です。右の写真はネットから拝借した明治神宮(1位)と川崎大師(3位)の写真です。
           2013年  2011年
明治神宮  明治神宮     313万人 320万人 東京都
  成田山 新勝寺  300万人 298万人 千葉県
  川崎大師 平間寺 298万人 296万人 神奈川県
  浅草寺      281万人 254万人 東京都
  伏見稲荷大社   270万人 270万人 京都府
川崎大師  鶴岡八幡宮    255万人 250万人 神奈川県
  住吉大社     235万人 260万人 大阪府
  熱田神宮     230万人 230万人 愛知県
  武蔵一宮 氷川神社 207万人 206万人 埼玉県
  大宰府天満宮   200万人 200万人 福岡県

成田山への初詣は和服で参りましたが、実は初めて和服を着たのでした。この和服は結婚した時に頂いたものでした。やっと和服での初詣を実現させることが出来ました。


元旦(2014年1月1日)にも近所の神社に和服で初詣をいたしました。左が鷲神社(八千代市先崎)で、右が菅原神社(天満宮 八千代市下高野)です。


普段であれば京成成田駅から15分で到着するのですがこの時は1時間以上かかったので京成成田駅から順番に時刻も含めて紹介いたします。紹介いたします。
駅を出発したのが12時8分(0分)でした。


最初に陸橋を渡ります。この時12時11分(3分)でした。( )内の時間は京成成田駅を出発してからの所要時間を示しています。


12時14分(6分)です。参道の駅に近いところは沢山の屋台が並んでいました。この辺りはゆっくりですが立ち止まることはなく比較的スムーズに歩けました。


12時24分(16分)です。面白そうなイベントも行われていました。


12時25分(17分)です。徐々に混んできました。


12時26分(18分)に最後尾の表示が現れました。ここからは、立ち止まる方が多くなってきました。ここからは行列の状態になりました。


白線の内側(普段は車道)の部分成田山新勝寺に向かう人で、白線の外側の歩道の部分が戻ってくる人の通路となっていました。帰る道は別ルートがあるので参道で帰る人は少なかったです。ここから初めて成田山の三重塔が見えました。


12時28分(20分)です。カメラを頭の上にあげて撮りました。
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12時32分(24分)です。参道脇には沢山のお店がありました。こちらは漬物屋さんです。


12時34分(26分)です。近づくほど立ち止まる頻度が増えてきました。
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12時38分(30分)です。参道で最も多いのが鰻屋さんでした。昼食でもありどこの鰻屋さんも行列が出来ていました。


12時41分(33分)です。このあたりの参道は古い建物が立ち並んだ最も趣のある場所でした。
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12時43分(35分)です。重要文化財の建物が並んでいました。
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12時50分(42分)です。塔のある建物は登録有形文化財となっている大野屋旅館です。大野屋は300年の歴史があるそうです。
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13時02分(54分)には総欅造りの高さ15m、桁行14.2m、梁行6.3mの総門が見えてきました。2階部には不動明王、千手観音、大日如来など8体の木製仏像が奉安されているそうです。


13時09分(61分)です。総門まであとわずかです。
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13時12分(64分)に、やっと総門の正面につきました。
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13時14分(66分)です。1830年(文政13年)に建立の国指定重要文化財の仁王門が見えてきました。仁王門には左右に、「密迹金剛と「那羅延金剛の尊像」が奉安されています。さらに仁王門裏側には「広目天」と「多聞天」が奉安されており計4体の像があります。
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13時15分(67分)に仁王門につきました。
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13時15分(67分)です。最後の階段が見えてきました。階段を上ると正面に大本堂があります。階段の上に見える屋根が大本堂です。
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13時16分(68分)です。大本堂の全景が見えてきました。大本堂は成田山新勝寺の中心となる堂です。広い階段に沢山の人が並んでいるのに圧倒されました。入母屋造り二重屋根の間口95.4m、奥行59.9m、棟高32.6mの鉄筋コンクリート造です。
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右側には三重塔が建っていました。三重塔は1712年(正徳2年)に建てられた国の重要文化財です。上の写真と同じ13時16分(68分)に撮りました。
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13時16分(68分)にやっと大本堂の前に、たどり着きました。冒頭の写真です。成田山新勝寺は、千葉県成田市にある真言宗智山派の寺であり、クリックすると拡大同派の大本山のひとつでもあります。本尊は不動明王で家内安全、交通安全などを祈る護摩祈祷のために訪れる人も多い寺院です。成田山新勝寺ではネットから拝借した右の写真の御護摩祈祷に特徴があり見ごたえがあります。不動明王信仰の寺院のひとつであり、寺名は一般には「成田不動」あるいは単に「成田山」と呼ばれることが多いようです。
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13時18分(70分) です。建物への入場を制限しながら右側、中央、左側と順番に入っていきます。沢山の人のわりにスムーズに進むことが出来ました。
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13時20分(72分) です。すこし進みました。拡大すると圧倒されます。
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13時24分(76分)には階段を登り始めました。振り返ると圧倒されます。
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13時25分(77分)には階段の一番上に到達で来ました。
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同じ13時25分(77分)です。迫力感じてもらうために拡大いたしました。
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13時28分(80分)にやっと参拝できました。三が日でも明治神宮などと違い本堂の内部に入って参拝できます。
京成成田駅を出発してから1時間20分でした。


大本堂に参拝の後は大本堂の裏側に回りました。こちらはおみくじのための行列です。いろんなところで行列が出来ていますが、大本堂に比べると気になる長さではありませんでした。


大本堂脇から三重塔の方向をみた景色です。境内は広く、大本堂を参拝した後はゆっくりと散策できます。
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本堂を横から撮った写真です。
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大本堂への階段の横からの写真も紹介いたします。
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こちらは釈迦堂です。釈迦堂は1858年(安政5年)に完成し、現在の大本堂が建てられるまでの本堂でした。江戸時代後期の雰囲気を残した総欅(けやき)作りの国の重要文化財に指定されたお堂です。
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御守りなどを買って13時59分(111分)に帰ることにしました。早く帰るために来た時の参道ではなく別の三つを帰りました。その道の途中に人気スポットがあります。それが写真の出世開運稲荷として有名な吒枳尼天堂(だきにてんどう)です。出世稲荷と呼ばれているだけのことがあり長い行列が出来ていました。吒枳尼天堂にお祀りされている御本尊は佐倉城主であった稲葉丹後守より寄進された古来出世稲荷大明神と称せられているそうです。
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14時05分(117分)には来た時の参道に出ました。そこには写真の酒屋があり甘酒が売られていました。さっそくみんなで飲むことにいたしました。この辺りから参拝の行列が始まる場所でもあります。


甘酒は中々の人気で沢山の人が周囲で甘酒を飲まれていました。


この鍋で温められていました。一杯が200円でした。さすが酒屋の甘酒で特徴があり美味しかったです。


14分39分(121分)には昼食といたしました。昼食は鰻にしたかったところですが、どこも行列が出来ており、鵜ナビは別の機会に食べることにしてお寿司にいたしました。店名は「江戸っ子寿司」です。全員、特選(2415円)+おわん(210円)を注文いたしました。
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江戸っ子寿司は大きなネタが特徴のお寿司屋さんです。
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こちらが「おわん」です。海老のダシが効いたお味噌汁でした。


今年2014年は順位の変動が発生しました。3日17時の時点ではありますが靖国神社の初詣の人数が例年の8倍となり神社の中では5位となりました。寺院の順位は発表されてはいませんが、例年の人数から想定して下記の順位になったと思われます。靖国神社の写真はWikipediaから転用させてもらいました。
*2014年の数値は1月3日17時の時点です。
              2014年* 2013年
靖国神社 神社 明治神宮      319万人 313万人
 寺院 成田山 新勝寺   300万人
 寺院 川崎大師 平間寺  298万人
 寺院 浅草寺       281万人
 神社 伏見稲荷大社    277万人 270万人
 神社 鶴岡八幡宮     260万人 255万人
 神社 住吉大社      251万人 235万人
 神社 靖国神社      245万人  27万8千人
 神社 熱田神宮      235万人 230万人
 神社 武蔵一宮 氷川神社 205万人 207万人
 神社 大宰府天満宮    204万人 200万人

あけましておめでとうございます。 2014年元旦 [新年]

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新年あけましておめでとうございます。
毎年、正月は実家で迎えることが多かったけれども、昨年の暮れに実家に帰省したこともあり、今年は自分の家で正月を迎えることにいたしました。
So-netブログをはじめて今回の正月は5回目になります。2009年5月5日に最初の記事を掲載して4年8ケ月(56ケ月)が経ちました。沢山のアクセスをしていただき、沢山のnice!を頂き、沢山のコメントを頂き、ありがとうございました。
本年もどうかよろしくお願い致します。
今年は皆さんにとって良い年となることを祈念いたします。
2014年元旦
昨年の12月25日に京都の貴船神社を訪れましたが、ここは「絵馬発祥の社」と書かれており2頭の馬の像が建てられていました。今年は馬の年です。そこで今年最初の記事は貴船神社とし、最初の写真は貴船神社の馬の像にさせていただきました。
立派な黒馬と白馬の絵馬が南久美子さんより奉納されていました。「ウマく行く絵馬」だそうです。実は黒馬と白馬は後で説明させていただいているように意味がありました。上の馬の像も黒馬と白馬と思われます。
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貴船神社の入口です。赤い鳥居をくぐって石段を上ると貴船神社の本宮(本殿)があります。
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貴船神社本宮への参道です。石段の先に門が見えます。
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門に近づきました。門の向こうに見えるのは本宮です。
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こちらが貴船神社本宮の門です。この貴船神社(きふねじんじゃ)は全国に約450社ある貴船神社の総本社だそうです。
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門をくぐると目の前に本宮が現れました。左側から参拝いたします。写真の中央に冒頭の2頭の馬の像があるのが判ってもらえると思います。
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本宮本殿の正面です。
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本宮の内部です。
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本宮正面の広場の石垣からは水(神水)が湧き出ており、ここは水占齋庭(みずうえゆにわ)と呼ばれており、水占いを行うのです。おみくじを浮かべる水占斎庭に浮かべると、おみくじに「大吉」などの文字が浮き出てきます。右の水占いの動画はネットから拝借させていただきました。
恋愛、商売、学問などの10項目に対する占いの文字も出てきます。
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ここから水が湧きでて水占齋庭に導かれます。
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クリックすると拡大冒頭の写真の馬の像です。横に建てられていた案内板(右の写真)には、貴船神社は古来より雨乞の社として名高く歴代天皇より馬が奉納されて祈願が行われたそうです。晴れを願うときには白馬が、雨を願うときには黒馬が奉納されたが、時には生馬に換えて板立馬を奉納されたそうです。その板立馬こそが、今日の絵馬の原型とされたそうです。そのことからも、この馬の像は白馬と黒馬と想像されます。
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もちろん絵馬もありました。まさに絵馬の発祥の地で祈願を書いた絵馬を奉納すると特別な御利益(ごりやく)がありそうな気になってきます。


本宮の裏には沢山の社(やしろ)がありまし。本宮の敷地内にあるのは白髭社(猿田彦命)、牛一社(木花開耶姫命)、川尾社(罔象女命)、鈴鹿社(大比古命)、祖霊社(氏子の祖霊)です。
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貴船神社は本宮と中宮(結社)と奥宮があります。川沿いに数百m登ると奥宮があると書かれていたことから奥宮に向かうことにいたしました。このような料理旅館が立ち並ぶ中を歩き始めました。歩き始めた時には、まだ中宮があることは知りませんでした。
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趣のある茶屋もありました。
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川は整備されており夏には川床が作られて、涼みながら食事が出来るそうです。
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奥宮に行く途中に中宮(結社)がありました。結社(ゆいのやしろ)は本宮と奥宮の中間にあることから中宮(なかみや)とも呼ばれているそうです。磐長姫命を祭神とし、縁結びの神として信仰されています。磐長姫命が縁結びの神とされることになったのは天孫瓊瓊杵尊が磐長姫命の妹の木花開耶姫と結婚しようとしたとき、姉妹の父の大山祇命は、磐長姫命も共に奉った。しかし、瓊瓊杵尊は木花開耶姫とだけ結婚したので、磐長姫命はそれを恥じ、「縁結びの神として良縁を授けん」と言って当地に鎮まったという伝承があるためです。
以前は、境内の細長い草の葉を結び合わせて縁結びを願っていましたが、現在は植物保護のため本宮で授与される「結び文」に願文を書いて、特別に作られた指定場所に結ぶようになっていました。それぞれの宮の御利益(ごりやく)は次の通りです。
   本宮 諸願成就
   中宮 えんむすび
   奥宮 心願成就
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中宮境内には貴船の山奥より船形をした自然石が出土したことから、「磐長姫命の御料船」として1996年に奉納された船形の自然石「天の磐船」が置かれていました。
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別の角度から見た「天の磐船」です。
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クリックすると拡大中宮かせ奥宮に向かう途中に「相生の杉」がありました。一つの幹から二本の大木が育っています。
樹齢は約千年の御神木だそうです。相生は相老いに通じることから夫婦共々長生きの象徴として親しまれているとのことでした。 相生とは、一つの根から二本の幹が相接して生え出ること。 二つのものがともどもに生れ育つこと。
ほんとうに高い木でした。全体を撮るために広角レンズを使って遠くまで離れて撮りました
右の写真は是非ともクリックしてみてください。。


やっと奥宮に着きました。こちらが奥宮の表門です。
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表門をくぐると広い敷地の中に奥宮がありました。建物自体は古いものではないように感じましたが、井是の貴船神社の本宮であった場所でした。闇龗神(くらおかみのかみ)を祭神とされていますが、現在の本宮の祭神である高龗神と同じ神であるとされています。
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奥宮境内にも「連理の杉」という御神木の杉の木がありました。2本の枝が連なった杉と楓の木が夫婦や男女の仲がよいことにも例えられているそうです。
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奥宮のすぐ近くに「御船形石」がありました。昔、玉依姫命(たまよりひめ)が乗ってきた黄色い船とされています。小岩を 積み重ねたもので、高さ1.5m、長さ10m、幅3mの大きさです。貴船神社の不思議な魅力を感じさせてくれる一つです。
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こちらが奥宮の本殿です。
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本殿を正面から見ました。
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本殿正面の建物です。建物の名前は確定していませんが拝殿と書かれた記事がありました。
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本殿の横には権地と書かれた場所がありました。権地は「ごんち」と呼ぶそうです。権地とは、お社の建て替えなどをする時に神様を移す場所のことだそうです。本殿の下の龍穴に入ることは許されないため、長い間建て替えはしていないそうです。
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奥宮には3つの小さな社がありました。3つの小さな社を紹介いたします。こちらは「連理の杉」の脇になった日吉社(大山咋神)です。


こちらが吸葛社(味耜高彦根命)です。


そして、こちらが鈴市社(五十鈴姫命)です。


Goofle地図で位置関係を紹介いたします。緑色マークが貴船神社・本宮でその上の黄色マークが中宮で、その上の空色マークが相生の杉で赤色マークが奥の院です。臙脂色マークが鞍馬寺の奥の院である魔王殿です。
紫色マークが鞍馬寺・本殿金堂の場所です。貴船神社には鞍馬寺から奥の院を経由して歩いて入りました。

より大きな地図で 貴船神社 を表示


タグ:神社 新年

息子が送ってくれた おせち料理 [新年]



いつもは実家に帰省して、お袋の手作りのおせち料理を食べていましたが、年末にみんなが実家に集まる機会があったことから、今年は自宅で正月を迎えることになりました。さらに一番上の息子が関西の私の実家の近くに住んでいて正月は実家に行くとのことで、こちらには帰ってきませんでした。その息子が御節料理(おせち料理)を送ってくれて、初めて市販の御節料理を食べました。記念のために、その御節料理を記事にいたしました。事前に送るとの連絡をもらっていたので御節料理は作らずに待っていると12月31日に宅急便で届きました。

沢山の種類があるオーソドックスな御節料理で、実家の味に負けない美味しい料理でした。一つ一つの料理を見て、若干市販の方が多いいけれど、ほとんどの料理が実家の御節料理にも入っていました。今になって、年末の母親の、がんばりに感心させられてしまいました。
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セットの名称は「特製おせち二段重」でした。
驚いたことにすべての材料の種類や産地が書かれていました。例えば、まだら(三陸産)、片口イワシ(山口産)、黒大豆(丹波産)、車えび(沖縄県)、帆立貝(北海道)、ごぼう(青森県)、栗(愛媛県)、大根(国内産)、金時人参(国内産)、鰤(長崎県)、蓮根(国内産)、魚肉(国内産)、豚肉(国内産)、牛蒡(国内産)、鶏肉(国内産)、いくら(北海道)、金柑(宮崎県)、にしん(北海道)、昆布(北海道)、れんこん(岡山県)、里芋(宮崎県)、椎茸(大分県)、ふき(兵庫県)、人参(愛知県)、蒟蒻(国内産)、たこ(兵庫県明石)など国内産にこだわっているようです。
知らないお店の名前なので検索してみました。→菜なや
さらに、もう少し調べてみると百貨店などにお店をだしている味富士(みふじ)で、販売していたようです。 →味富士
場所的には西宮阪急百貨店の中の新しいくオープンしたお店「菜なやプラス」で買った可能性が高いです。説明書きは小さくて読みにくいと思いますがクリックすると拡大いたします。
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せっかく息子が初めて送ってきた、おせち料理なので記念に一段づつ撮りました。こちらが上の段の料理です。
テレビによると最初に食べるおせち料理は祝い肴三種である「数の子」と「ごまめ」と「黒豆」の3っだそうです。この3っさえ揃っていると御節料理になるそうです。ちゃんと入っていました。ネットで祝い肴三種を調べてみました。
 ごまめ(田作り)
  ごまめ(片口イワシの稚魚)を醤油風味の飴炊きにしたもの。田畑の高
  級肥料としてイワシが使われていた事から豊作を願って食べられた。
 数の子
  卵の数が多いことから子孫繁栄を願って食べられた。
 黒豆
  黒には魔よけの力が有るとされていたので、まめ(勤勉)に働き、まめ(
  健康)に暮らせることを願って食べられた。
関西ではごまめに代わり、牛蒡(ごぼう)が入って祝い肴三種と言われることがあるそうです。
 敲き牛蒡
  形や色が豊作のときに飛んでくると伝えられている黒い瑞鳥を連想さ
  せる事から豊作を願って食べられた。 
すなわち祝い肴三種(三つ肴)とは、関東は黒豆、数の子、五万米(ごまめ)で、関西は黒豆、数の子、敲き牛蒡(たたきごぼう)を言いようです。今回のおせちには敲き牛蒡も入っていました。関東でも関西でもOKのようです。


こちらが下の段の料理です。その息子は私の実家と家内の実家にも、すこし小さい御節料理だけれども正月に持っていったそうです。


料理の上には、この抗菌シートが置かれていました。なかなかの心くばりでした。

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印旛沼の初日の出 [新年]



2013年1月1日の記事「あけましておめでとうございます。」で紹介した上の幻想的な印旛沼の初日の出はいくつかの幸運によって撮ることが出来ました。もちろん最大の幸運は天気でした。

上の写真がオリジナルですが、周りの景色も紹介したいので露出調整した写真も紹介いたします。人間の目で見た印象を表現するならば、太陽は辺りは上の写真で、周りの景色は下の写真でした。


ワンコの散歩を兼ねて家から歩いて20分の場所で初日の出を撮るために家を6時15分に出発いたしました。この場所は2013年の最初の記事に掲載するために年末に日出を撮った場所ですが着いたときは下記の写真のように地平線には雲がかかっていたためにすぐに日出を撮ることが出来ませんでした。日出時刻は6時49分でこのときの時間が6時37でした。
雲の上に太陽が覗くのは30~40分後と予想したため寒い中でじっとして待つのは耐えられないので印旛沼のよく見える場所まで足を延ばして初日の出の写真を撮ることにいたしました。


黄色いマーク( )から青いマーク( )までの赤いライン(━━)が移動したルートです。この道は有名な印旛沼サイクリングロードなのです。赤いラインをクリックすると分ると思いますが片道2.16kmありました。中間地点のエンジ色のマーク( )は後で紹介する新先崎橋です。

より大きな地図を表示
サイクリングロード横ではサギも羽を休めていました。


半分くらい歩いたところでの東の空です。ワンコは歩きながら臭いを嗅いだりするので意外と手間取りました。こちらの雲の色から、時間的にちょっと厳しくなったのを感じたので、この辺りから小走りとなりました。


歩いては走り、歩いては走りで、なんとか目的地に着きました。驚いたことに沢山の車が停まっていたのです。


この辺りは臼井八景舟戸夜雨と呼ばれている場所です。印旛沼側にも沢山の車が停まっていました。


まだ太陽が覗いていませんが、ここからは1~2分で太陽が昇ってくる雰囲気です。


舟戸夜雨から、臼井八景のもう一つの場所である師戸帰帆までの間にも沢山の人が初日の出を見に来ていました。


こちらが師戸帰帆のあたりです。


その師戸帰帆からの初日の出の写真です。なんとか初日の出の時間に臼井八景の場所まで来れたのも幸運でしたが、最初の場所で地平線に雲が無かったら、この景色が見れなかったことを思うと雲があったことも幸運だったと言えます。


初日の出の拡大写真をを掲載いたします。


来るときは写真を撮る余裕がありませんでしたので帰り道で印旛沼サイクリングロードを歩くワンコを紹介します。ここは中間地点にあった新先崎橋(しんまっさきばし)です。


こちらが出発地点に近いサンクリングロードです。
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あけましておめでとうございます。 [新年]



新年あけましておめでとうございます。
先ずは記事を手違いで表示できなくなってしまいご心配をおかけしたことお詫び申し上げます。記事を完全に消してしまっていたと思っていたのですが、再度表示できることを年末には気がつきました。新年から新しい記事を掲載するとともに古い記事も徐々に復活させて行きたいと思っていますので、今後ともよろしくお願いいたします。よい機会なので初心の気持ちで、これからも根気よく掲載を続けていきたいと思います。
今年の最初の記事は家から歩いて20分のところにある印旛沼の朝の景色です。朝日の景色は元旦に似合います。ワンコの散歩を兼ねて行ってみました。
本年もどうかよろしくお願い致します。
皆様にとって良い年になりますように願っております。
2013年元旦


家に帰る途中の景色です。刈り取られた稲に朝日があたった景観です。刈り取られた株から、また新芽が伸びて稲穂を実のらせていました。刈り取られた株から出た稲穂を「ひつじ(穭)」と言うそうです。その穭が出ることを「穭生え(ひつじばえ・ひこばえ)」と言うそうです。この写真のように沢山の穭(ひつじ)が出た田んぼのことを「穭田(ひつじだ)」と呼ぶのだそうです。


穭(ひつじ)には沢山の稲穂が実っていました。人間にとっての田んぼは来年の田起こしまではお休みですがスズメなどの野鳥たちにとっては、うれしい実りではないでしょうか。


帰り道にあった「どんどれえ塚」です。毎年、1月14日に近い日曜日または祝日の夕方(18時ごろから)に、正月の門松やしめ縄を集めて「どんどれえ」と呼ばれる伝統行事が行われる場所です。今年は是非とも「どんどれえ」を見に来たいと思います。


カラスウリがまだ真赤な実を見せてくれていました。


クリックすると拡大こちらが2013年1月1日の印旛沼の初日の出です。冒頭の写真は元旦の天気が分らないので年末に撮った日の出ですが、今日、同じ場所にワンコの散歩を兼ねて撮りに行きました。でも右の写真のように地平線には雲がかかっていたために地表からの初日の出は見れませんでした。そこで時間に余裕が出来たことから印旛沼のよく見える場所まで足を延ばして撮ったのが下の初日の出の写真です。おかげで幻想的な写真を撮ることが出来ました。時間は7時5分でした。

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明けましておめでとうございます。 [新年]



新年あけましておめでとうございます。
先ほど実家の近くの宝塚聖天さんと売布神社に初詣に行ってきました。上の写真は宝塚聖天さんです。
昨年は大きな津波に放射能被害と、本当に多くの不幸があった年でした。
おめでとうと言う言葉を使うことには抵抗感はありますが、不幸を乗り越えて正月を迎えることが出来たことは、素晴らしいことだと思います。そんな意味でいつも通りのあいさつとさせていただきました。今年は皆さんにとって良い年となることを祈念いたします。
So-netブログをはじめて今回の正月は3回目になります。2009年5月5日に最初の記事を掲載して2年8ケ月(32ケ月)が経ちました。沢山のアクセスをしていただき、沢山のnice!を頂き、沢山のコメントを頂き、ありがとうございました。
本年もどうかよろしくお願い致します。
2012年元旦

こちらが売布神社(めふじんじゃ)です。売布神社は、兵庫県宝塚市にある神社です。式内社で、旧社格は郷社。旧川辺郡米谷村(まいたにむら)の産土神だそうです。正式には旧字体を用い「賣布神社」と記すそうです。
創建は意外と古くて推古天皇18年(605年)によるものと伝えられています。本殿は桧皮葺流造で、文化13年(1816年)に建てられたそうです。


2012年の最初の記事はカザフスタンの記事にいたします。昨年2011年はロシアに2回、カザフスタンに2回とウクライナに1回と旧ソ連圏に多く行った年でした。2011年以前では旧ソ連圏の国への訪問はロシアが1回だけと考えると昨年は特に旧ソ連圏出かけた回数が多かったと言えます。フライトごとに数えるとロシアの空港に到着した回数は4回でした。カザフスタンが7回になりウクライナが3回になりました。旧ソ連圏以外で昨年訪問したのは中国、ベトナム、インドネシアでした。現在は最近行ったカザフスタンの記事を書いています。今回は帰国の日の前日の夕食で行った中央アジアの料理のレストランを紹介いたします。場所はカザフスタンの首都アスタナのレストランです。


建物のドームの部分を下から撮りました。有名なレストランの感じがしました。


やっぱり最初はビールですね。右が無濾過のビールです。左は濾過されたクリヤーなビールですが、女性だと不思議なことにストローが入れられてきました。


この日は肉料理が中心になることから、先ずは野菜を頼みました。ハーブ類も入った野菜の盛り合わせです。


このパンも特徴のある有名なものだそうです。


さっそく肉のオードブルが出されてきました。どれもビールに合うおいしい一品ばかりでした。


こちらのお店の名物に「うどん」があるということなので頼んでみました。スープは日本のうどんとは違うものでしたが、正式名はわかりませんが確かに日本人がウドンと呼ぶにふさわしい料理でした。


中に入っている麺はこれでした。讃岐うどんのような強いコシはありませんが、確かに麺の味はうどんでした。


これがメインデッシュのリブロースと串焼きの肉です。


特徴的な焼き飯もありました。各自のお皿に民族衣装着た人が取り分けてくれました。


肉も焼き飯もおいしかったです。


やはり肉の国です。しっかりと焼くのがカザフスタン流ですが牛肉の高級な部位は柔らかくておいしかったです。


この肉料理もおいしかったです。結局はウォッカを2本あけてしまいました。もちろんウォッカは一本9200円位のベルーガです。


こちらのお店ではステージがあって中央アジア風の踊りを楽しみながら食事をいたしました。


お詫び及び追伸
今まで年初めのブログは元旦の0時00分に掲載いたしましたが、今年は帰省している実家でネットが使えないことから遅れての掲載となりました。お詫び申し上げます。
今回の記事はネットカフェからの投稿となりました。こちらのネットカフェは1月1日でも営業してもらえたおかげで、なんとか元旦のあいさつが出来ました。そのネットカフェを紹介させてもらいます。
 名前 L@cNet(ラックネット)宝塚店
 住所 宝塚市逆瀬川1丁目11-1 アピア2-2F
 電話 0797-72-6969
 営業 10時~24時
 料金 最初の30分 280円
     15分ごと    95円 ただし
     3時間で    780円
     5時間で    980円          
次にネットが使えるのは家内の実家に行った時なので明日(1月2日)の夕方となります。それでコメントなどが出来ないことお許しください。


宝塚聖天( )と売布神社( )とネットカフェ( )の関係は下記の地図の通りです。赤のラインが売布神社から宝塚聖天さんへ車で走る時の道順です。実家に住んでいたころに、よく行ったのが清荒神と中山観音に神呪寺と門戸厄神でした。

より大きな地図で 2012年初詣 を表示

あけましておめでとうございます。 ルーブル美術館 [新年]

新年あけましておめでとうございます。
2009年5月5日にso-netで最初に記事を掲載して1年8ケ月(20ケ月)が経ち沢山のアクセスをしていただき、沢山のnice!を頂き、沢山のコメントを頂き、ありがとうございました。
本年もどうかよろしくお願い致します。

2011年元旦 0時0分
今年はルーブル美術館の写真からはじめさせていただきます。
パリには有名な場所がたくさんあります。凱旋門、シャンゼリゼ大通り、セーヌ川、ノートルダム寺院、オペラ座、モンマルトの丘、等々知っている名前ばかりのはずです。
ルーブル美術館も知らない人がいないはずです。ミロのビーナスやモナリザの微笑みが有名ですが建物がすばらしい上、スケールの大きさに驚かされます。さすがは、もと宮殿だっただけのことはありました。
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写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
なぜか絵を模写している人も絵になります。
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これは、かなりの大作です。正面の絵ではなく右の壁の絵を模写しています。
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絵の勉強をしているのでしょうね。 
コーナーに近いところの小さな絵を模写されています。
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オリエントの飛牛のように昔、教科書でみたことのあるものも沢山ありました。これはサルゴン2世宮殿の飛牛とよばれています。
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写真が許可されて物と禁止の物があり、モナリザの微笑みのような有名な絵画は禁止されています。
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彫像に関してはミロのビーナスのような有名なものでも撮影は許可されていました。
当然記念撮影の人でいっぱいです。 でも一人づつ記念撮影できる余裕がありました。絵画には写真撮影が許可されているものと禁止されているものとがありましたが、彫像に関しては、ほとんどのものが写真撮影OKでした。彫像はフラッシュなどで劣化することがないと考えているのではないかと感じられました。
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これも教科書によく出てくる古代ギリシアの傑作《サモトラケのニケ》です。
サモトラキ島に存在する偉大な神々を祀った神殿の上方に、女神像が立っていました。この女神像は、船の前部のような形をした奇妙な石の土台の上に置かれていました。クリックすると奇妙な石の土台が表示されます。
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世界遺産 クトゥブ・ミナール (Qutab Minar) [新年]


寒さ厳しき折、皆様いかがお過ごしでしょうか。
残念ながら喪中につき新年の挨拶が出来ません。
失礼があろうかと思いますが、なにとぞご理解を、お願い申し上げます。
昨年2009年5月5日にso-netで最初に記事を掲載して8ケ月が経ち沢山のアクセスをしていただき、沢山のnice!を頂き、沢山のコメントを頂き、ありがとうございました。
本年もどうかよろしくお願いいたします。
今年の最初のレポートは「インドで最も高い石造りの塔」です。
2010年元旦
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

「インドで最も高い石造りの塔」のクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)です。そのデリーのクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)への2度目の訪問の機会を得ました。初めて来た時は世界遺産であることは知らないで見学をさせてもらいましたが、その迫力に驚いたものです。

そして帰国後に世界遺産であることを知り、なるほどと納得したものです。残念ながら初めて来たときは塔の表面の文様がこんなにすばらしいとは気が付きませんでした。是非、もう一度、訪れたいと思っていましたが、今回、実現しました。この写真はクリックして見てください。表面の模様に驚かれると思います。
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上の写真は見上げたものですが同じ場所を遠くから写してみました。手すりの模様がよく判ると思います。
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近くに行くとその迫力に圧倒されます。1993年にデリーで初めて世界遺産に登録されました。
同じデリーにあるフマユーン廟も1993年に同時に世界遺産に登録されました。
同じ街で同じ年に2つの世界遺産が登録されたことはすばらしいです。デリーには歴史的なすばらしい建物や遺跡が沢山あることの証明であるような気がします。2007年に赤い砦レッド・フォートが世界遺産に登録されてデリーの世界遺産は3っになりました。
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遠くから全景を撮りました。デリーの3ケ所の世界遺産の中でここが最も気に入りました。この高い石造りの塔の受ける印象からかもしれません。建物の形からここがモスクであったことがうかがわせます。
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はじめて、この高い石造りの塔を見たのは2004年9月15日でした。その時と同じ角度の写真を掲載します。その時は、じっくり見れなかったので、また来たいと思っていました。クトゥブ・ミナールに来て目を引くのは巨大な石造りの塔です。高さは72.5mでインドでは最も高い石造りの塔です。そしてインドで1番古いイスラムのミナール(塔)でもあるそうです。さらに世界で最も高い石造りのミナレットでもあるそうです。ちなみに世界第二位の石造りのミナレットはアフガニスタンのジャームのミナレット(60m)です。
是非、拡大して見てください。昔、撮った写真と同じ角度のものを最新の写真から探しました。
建設当初は約100m(7層)の高さがあったそうですが落雷・地震などの天災により被害にあったが、その時代の権力者により修復が行われ現在の高さ72.5m(5層)になったそうです。3層までは赤砂岩でその上は大理石で出来ています。
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ここは塔だけでなくて廻りの建造物も必見です。これはインド最古のモスクです。


クトゥブ・ミナールには今は登ることは出来ませんが、その入口の上の飾りを撮りました。
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世界遺産として登録されている名前は「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」です。建築群とあるように塔だけでなく廻りには沢山の建築物があります。その建築物の壁は文字のような文様で飾られています。その壁の文様は印象的でした。
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アーチの部分にも沢山の彫刻が施されていました。


建物の中も文字の文様で埋め尽くされていました。
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特に沢山の彫刻をされた柱が目を引きます。柱は同じ形のものが使われているのが普通と思いますがここでは違います。よく見ると柱の形や彫刻がすべて違っているのに気がつかれると思います。ここの遺跡の一つの特徴が柱です。これらの建築群はインドではじめてのイスラム教のモスクとして建てられました。いろんな時代のいろんな宗教の寺院(ヒンドゥー教寺院やジャイナ教寺院)を解体して集められたためにいろんな文様の柱が使われているとのことです。
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すばらしい柱ばかりです。イスラム教では偶像崇拝は禁止されていましたが、写真をクリックすると女神の像の入った柱も見つけることが出来ます。こちらの角度から見るとよく判ると思います。これがここの遺跡の特徴なんです。
インドに攻め込んだトルコ人のアイバク将軍によってイスラムのモスクとして建てられたものでヒンドゥー教・ジャイナ教の沢山寺院(一説によると27の寺院)などを破壊し、その石材を転用して制作されたものと推測されています。そのためヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっていると説明されていました。それもいろんな時代の様式だそうです。でもイスラムの雰囲気は今は塔だけで全般的にはヒンドゥー様式のような気がします。写真をクリックしてみてください。柱の彫刻がよく判ります。


インドでは赤砂岩がよく使われますがシンプルな花崗岩のような柱もありました。


文様もいろいろありました。


柱の前で記念撮影です。真中のインドの女性と子供さんは依頼されて一緒に撮っているのだと思います。
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日本のお坊さんも見学にこられていました。


この鉄柱が有名なんです。1600年前の鉄柱だそうです。鉄柱のネットの説明は以下のとおりです。
モスクの中庭に、4世紀に鍛造されたという高さ 7.2メートル・重さ6トンの鉄柱(チャンドラヴァルマンの鉄柱)が立っている。
鉄柱は極めて良質の鉄鉱石を木炭で還元し、少しずつ作り出した古代鉄を集めてつくったもの。鉄柱の純度は98%である。鉄柱の頂点部分には穴があいており、ヒンドゥ教ヴィシュヌ神を乗せたガルーダの彫像が奉られていた、と考えられている。鉄柱の基部には「偉大な王チャンドラ」と刻まれた碑文がある。チャンドラとは、ヒンドゥ教を奉じていたグプタ朝(320~550頃)チャンドラグプタ 2世(在375~413頃)と考えられている。
この鉄柱だが雨ざらしにもかかわらず、錆びずに約1600年経つ今も現存しており、世界七不思議にあげている人もいる。インド人の間では、背中に鉄柱をあて鉄柱越しに腕を回して、自分の手を掴めると幸せになる、と言われている。
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鉄柱には文字が書かれていました。


遺跡の雰囲気が高い建物も沢山ありました。


寺院と言うよりは遺跡の雰囲気です。


無造作に石の柱などが転がっています。広い敷地内に点在しているのです。


この横に倍の高さを目指した塔(アライ・ミナール)の底部の残骸が残っています。
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芝生の上では沢山の人がくつろいでいました。ゆっくりすることで、より雰囲気を味わえるような気がします。


クリックすると拡大クリックすると拡大デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
  レッド・フォート Red Fort
  フマーユーン廟 Humayun's Tomb
クリックすると拡大  クトゥブ・ミナール Qutab Minar
地図上のアイコンマイナスを何度もクリックすると訪問した他の世界遺産の場所もわかると思います。

より大きな地図でデリーの世界遺産を表示