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北近畿で一番人気のケーキ店 カタシマ(KATASHIMA) [出石]

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以前に紹介したように、関西に勤めていた長男夫婦2人は2014年3月に北海道に転勤になり、子どもたちが生まれて、家族4人なって、2022年3月末に北海道から兵庫県の日本海に近い場所に転勤になりました。長男が兵庫県に転勤になってから初めて会ったのがあったのが2022年6月25日でした。2022年6月25日は私が兵庫県の宝塚に滞在している時でした。クリックすると拡大
その時にお土産として持ってきたくれたのが上の写真のカタシマ(KATASHIMA)という名のケーキ店のケーキでした。一口食べてみて東京や神戸の有名店の美味しさに負けていない味に驚いたのです。
聞くと周辺で大事なところに持って行くお土産と言えば、ほとんどがカタシマ(KATASHIMA)のケーキと言われるほどの存在だったのです。

昨年の末に宝塚の実家から関東の自宅に帰る時に初めて兵庫県の日本海に近い場所にある長男家族の家に行くために福知山線に乘って出石城酒蔵出石皿そば店などを訪れた時に、そのカタシマの本店にケーキを買いに長男家族と行ったので本記事で報告したいと思います。
お店の写真を撮ったのですが、右下の写真のようにブレてしまったのでGoogleマップのストリートビューSV)でお店を紹介します。お店は国道9号線沿いにあり周辺に他のお店は無いような場所でしたが、すごい人気で併設されている86席ある広いティールームは満席で順番待ちの人が沢山おられたのに驚かされました。日曜日の14時10分でした。この場所に、54年前の1970年7月11日に「洋菓子・喫茶カタシマ」として創業したのが始まりだそうです。今の会社名になったのは7年後の1977年7月1日だそうです。クリックすると拡大
 名前 カタシマ(KATASHIMA)養父本店
 住所 兵庫県養父市上野1156-1
 電話 079-664-0351
 定休 第2・4 水曜日
 営業 9:00~19:00
 創業 1970年7月11日 洋菓子・喫茶カタシマ


こちらがこの日に売られていたケーキです。最近は高級ケーキが1個1000円近くになっている中で450円のケーキも沢山ありました。
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こちらが我々が今回買ったケーキです。
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これは蜜芋のモンブランです。520円
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孫が選んだストロベリーショートです。450円
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こちらも孫が選んだフルーツトルテです。450円
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こちらは名前が分からないのですが、モンブラン系だと思います。
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これは私が選んだケーキです。名前は「抹茶とほうじ茶」です。460円
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コーヒーでいただきました。
私の感想ではあり、ケーキの種類にもよりますが、東京や神戸でも、これだけ美味しいケーキを提供するところは多くはないと思います。特に甘酸っぱい味系のケーキはクリックすると拡大トップレベルのように感じました。北近畿の他のお店のケーキは食べたことはないので、北近畿で一番美味しいとは言えないけれど、一番人気があるのは間違いないと感じました。私が初めて食べたケーキは冒頭の写真の中の右の写真のケーキでした。
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こちらは今年の正月に持ってきてくれた日持ちのするケーキやクッキーです。
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お店の場所を航空写真で紹介します。
 カタシマ(KATASHIMA)本店
 支店(豊岡店 福知山店 丹波店)

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辰鼓楼(しんころう) [出石]

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かつて但馬国出石郡出石にあった出石城の城下町であった兵庫県豊岡市出石町(2005年まで兵庫県出石郡出石町)のシンボル的存在なのが上の写真の辰鼓楼(しんころう)です。本記事では辰鼓楼を撮った写真や、出石で撮った写真の中に偶々辰鼓楼が映り込んでいたものや、過去(数十年前)に撮った写真を紹介したいと思います。辰鼓楼は出石城が廃城となった1871年(明治4年)の同じ年の1871年6月1日(明治4年4月14日)に鼓楼(ころう)あるいは太鼓楼(たいころう)として建てられ、太鼓で時を告げていたそうです。今から152年9ケ月前のことです。辰鼓楼が建てられる以前は、山上にあった寺院が出石藩から給金をもらって鐘をつき、城下に時刻を知らせていたけれども、廃藩置県で寺への給付が途絶えたため、太鼓を鳴らして時を知らせる楼閣として辰鼓楼が建てられたと言われてるそうです。辰鼓楼の高さは、高さ約5mの石垣を含めて19.6mだそうです。辰鼓楼本体は木造4層だそうです。掲載した全ての写真に辰鼓楼が写っています。

こちらが142年6ケ月前に取り付けられた時計です。
現在のように時計が取り付けられたのは、辰鼓楼が建てられて10年後の1881年9月8日だそうです。その経緯は前記事でも紹介したように1881年に地元の旧藩医の池口忠恕が大病を患った際に、地元民から御見舞いや全快祝いを受けたことへの御礼として機械式大時計を寄贈し、同年9月8日から時計台としてクリックすると拡大稼働し始めたそうです。同年8月12日には北海道の右の写真の札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)が稼働していることから日本国内で二番目に古い時計台になったそうです。勝手な解釈として、和式の時計台としては日本最古と言えるのかもしれません。建物の一部ではなく塔形式の時計台としても日本最古と言えるのだと思います。右の札幌市時計台の写真は北海道観光支援サイトから転用させていただきました。
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出石城側から見れば時計台になる前の辰鼓楼の姿です。こちらは三の丸から見た辰鼓楼を紹介したいと思います。
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2枚前の写真のように一番上の部分を拡大いたしました。
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大時計と大時計を寄贈した旧藩医の池口忠恕(いけぐち ちゅうじょ)の説明板が建てられていました。内容を枠内に転写する形で紹介します。池口忠恕は西洋医学を勉強する中で西洋の時計台のことを知ったのだと感じました。そして遠方から来診があるほどの名医だったそうです。出石藩の弘道館(こうどうかん)は6代藩主・仙石政辰が作った学問所から始まった藩校で、天下三弘道館(水戸藩佐賀藩出石藩)の中で最も古いと言われています。適塾は福澤諭吉、大村益次郎などの多くの名士を輩出した蘭学の私塾です。クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
 池口忠恕  1851年~1908年
 福澤諭吉  1835年~1901年
 大村益次郎 1825年~1869年
大時計と池口忠恕
辰鼓楼(しんころう)は明治4年の建設当初、太鼓櫓(たいこやぐら)とも呼ばれ太鼓により時刻を知らせていました。この建物に明治14年、大時計を寄贈したのが池口忠恕です。彼は嘉永4年(1981)に出石藩のご典医の家系に生まれ、藩校「弘道館」に学び、明治4年には大阪に出て緒方供庵の「適塾」で西洋医学を習得しました。明治13年に帰郷し開業医となった池口は、翌14年に病気の全快祝いとしてこの大時計を寄贈しました。まだ時計などあのりなかったこの時代、この大時計の寄贈のために池口は、職人2人に時計技術の習得もさせました。
池口はまた名医としても知られた人物で、遠方からも来診があり、さらに貧困家庭からは薬代をとらぬなど慈悲深い人物でもありました。
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三の丸の遠くから撮った写真です。時計が取り付けられている反対側には観光客の人が沢山いますが、こちら側は少なかったです。逆光にならないのできれいな写真が撮れます。
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拡大いたしました。
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出石城の本丸の西隅櫓の中からの辰鼓楼の写真を3枚か紹介します。中央辺りに松の木の上に辰鼓楼の頭の部分が出ています。
辰鼓楼の辺りに大手門があったことから江戸時代にも本丸から同じように大手門と城下町が見えていたのだと思います。
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西隅櫓の別の場所からは辰鼓楼がよく見えていました。
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辰鼓楼の部分を拡大いたしました。
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冒頭の写真に戻ります。
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少し遠くからの写真ですが上の写真と冒頭の写真は、この写真から切り取ったものです。
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近くから撮りました。
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辰鼓楼の下は堀状の池になっていました。
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下が辰鼓楼( )を中心としたGoogleマップでの航空写真です。クリックすると拡大江戸時代には辰鼓楼のところに出石城の入口の大手門がありました。
赤色ライン(━━)で囲った範囲が右の出石城想像図から推測される概ねの出石城の範囲です。黄色のライン(━━)が今回の出石の町の散策ルートです。
  辰鼓楼
 ━━ 大手前通り


出石城の大手門があった場所から真っすぐに伸びる大手前通りから見た景色です、小さく辰鼓楼が写っています。
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上の写真から辰鼓楼辺りを拡大しました。
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こちらの大手前通りからの写真にも辰鼓楼が写っていました。
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もう一枚、大手前通りからの辰鼓楼の写真を紹介します。大手前通りには土産物屋さんが沢山ありました。
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今回の長男家族の記念写真です。
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長女(末っ子)が7歳の時に出石に行った時の記念写真です。この写真と同じ場所で撮ろうと思ったのが上の写真です。右側2人が私の両親で、左端が私がその右隣りが長女(末っ子)です。
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結婚した翌年の1月に家内の両親と雪の残った出石に行った時の写真です。左側の写真は、辰鼓楼の前で三脚を使って家内の両親と4人で撮った記念写真です。この時、皿そばは永楽そば(出石町宵田119)で食べました。この写真は記事を書く時に見つけたので、お店の前を通ったのにお店の写真は撮りませんでした。ちょっと残念です。上の写真はこの時から14年9ケ月後に撮りました。
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昔の辰鼓楼の写真ヒョーゴアーカイブスさんから転用させていただきました。坂本書店發行の出石辰皷樓です。辰鼓楼は辰皷樓と書かれていました。この時代は辰鼓楼の横に電柱や電線がありましたが、今はありません。
書かれている文字は右横書きなので太平洋戦争以前の写真と思われますが、写っている車の形から100年より少し前(時計が取り付けられて約40年後)の写真だと思われます。
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タグ:時計台 出石
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ジンギス・カンの墓 [内蒙古]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年03月09日再掲載 タイトル:ジンギス・カンの墓
内モンゴルの記事「内モンゴルの大草原」を再掲載して同じ内モンゴルの本記事も紹介したくなって再掲載することにいたしました。
元々の記事に掲載していた動画「ジンギス・カンの歌」が見れなくなったので、今回3つの動画を追加掲載いたしました。クリックすると拡大
前記時の「内モンゴルの大草原」の記事は呼和浩特(フフホト)に行った時に書いたものですが、今回の「ジンギス・カンの墓」は包頭(パオトウ)に行った時に書きました。
  2010年08月15日掲載
  2013年10月14日ブラシュアップ
  2024年03月09日再掲載 閲覧数 6,990 nice! 192 CMT 36
  2024年03月12日    閲覧数 7,296 nice! 267 CMT 48
  2024年03月14日    閲覧数 7,413 nice! 280 CMT 52
  2024年03月18日    閲覧数 7,522 nice! 288 CMT 52

2010年08月15日掲載 タイトル:ジンギス・カンの墓
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今年の高校野球の吹奏楽部の演奏は宇宙戦艦ヤマトが多かったです。
以前の高校野球ですが不思議な軽快な音楽が流れていました。聞き覚えがあるのですが、なかなか思い出すことが出来ませんでした。フレーズから、やっと思い出せました。ジンギスカンの歌でした。そこで、ジンギスカンの墓の写真を紹介いたします。内モンゴルに行ったときに行く機会がありましたが、おそらく日本人でこの場所に行かれた方は少ないと思います。

ジンギスカンの墓(Genghis Khan's Mausoleum 成吉思汗陵)の建物の中央部分を拡大してみました。
チンギス・カン(1162年頃? ~1227年8月18日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)で在位は1206年~1227年です。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服して、人類史上最強と言われている世界帝国「モンゴル帝国」を築き上げた人で、いろいろと謎につつまれています。
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大きな建物なので、少し斜めから建物を撮りました。
紹介の墓は記念として1956年に作られました。チンギスカン陵(成吉思汗陵)と呼ばれており観光目的が大きいと思いますが、地元の人たちのよりどころになっているのも確かでした。地図で見ると場所はオルドスの高原の中南部で内モンゴル最大の町の包頭(パオトウ)から南に175kmの位置にありました。辺鄙な場所の上、新しい物なのに訪問者が多かったのが不思議でした。調べてみると中国の重要文化保護財に指定されていました。陵墓は敷地面積が5平方キロあるそうで、雄壮な感じがありました。
本当の成吉思汗(ジンギスカン)のお墓は見つかっていません。ジンギスカン(チンギス・カン)の死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰ったそうです。場所は分かっていませんが地名は起輦谷で、いくつかある説の中ではモンゴル高原の中にあるヘンティー山脈の丘陵地が有力なようです。「元史」などの記述からチンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたと見られていますが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺されたといわれています。また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされています。チンギスは死の間際、自分の死が世間に知られれば敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないように家臣達へ遺言したとされたそうです。右下のチンギスカン肖像画はWikimediaから拝借いたしました。
建物はパオ式建築物が三つ連なり、正殿、寝殿、東殿、西殿などに分かれています。モンゴル族にとっては聖地で年に4回祭りが行われるそうです。特に3月21日は、伝統の祭祀日とされ、クリックすると拡大盛大な弔いの儀式が行われるそうです。成吉思汗の呼び方も微妙に沢山あります。
下の縦書き文字はモンゴル文字のジンギス・カンです。モンゴル文字は行が左から右へ綴られる左縦書きです。昔の日本語や中国語は右縦書きでした。
クリックすると拡大 ジンギス・カン ジンギスカン 
 チンギス・カン
 チンギス・ハーン
 Cenghis Khan 
 Čingγis Qan
 Чингис Хаан
 成吉思汗  
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こちらの人にとっては聖地ですね。建物の中では伝統的な儀式が行われていました。聞いてみると観光のためではなくて親戚が集まった記念の式だそうです。真中に積み上げられているのは羊の肉です。
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座った角度からの写真です。これらの設備が建物の中にあるのがすごいです。


建物の中ですが大事なものは四角いパオのような建物に入っていました。博物館も兼ねているようです。


謎のものが一つ! 入口からこのお墓までの道の両側にどう見ても日本の形の真新しい灯篭が並べられているのです。
ガイドの人も使われた経緯やこれが日本の形の灯篭であるとは知りませんでした。
日本向けに作られているものを、ここの建設担当者が見てこれが良いと思ったのではないでしょうか。
明らかに階段は新しいです。
       
このような旗を見るとジンギスカンの聖地と感じられてきます。
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男性が帽子をかぶっているのが印象的でした。


ジンギスカンの墓の脇には、いわくありげな塚もありました。この塚はオボーと呼ばれるようです。オボー(овоо)はモンゴルで建てられる、一種のケルン(標柱)だそうです。モンゴルの平原や平原にある小高い丘、クリックすると拡大あるいは山頂や峠のような高所に建てられることが多いそうです。オボーは主にチベット仏教の祭礼が行われる場所であるとともに、山岳信仰、テングリといった宗教的意味を示す役割もを持つそうです。右の写真は撮っている方向の角度は違いますがWikipediaに掲載されていた同じものと思われる写真です。


航空写真をやっと見つけました。4kmの一直線の道が印象的です。地図内のアイコンを数回クリックすると、この位置が判ってくると思います。
地図には成吉思汗陵と書かれており住所は内蒙古自治区鄂尔多斯市伊金霍洛旗布拉格路とありました。近くに大伊金霍洛遺址と書かれた場所がありました。そこの住所は内蒙古自治区鄂尔多斯市伊金霍洛旗でした。
一直線に4km延びる道の左上が成吉思汗陵で左下が大伊金霍洛遺址です。遺跡に対して何らかの関係で作られたものと思われます。大伊金霍洛遺址の伊金霍洛(エジンホロ)はモンゴル語で「君主の聖地」を意味するそうです。

ジンギスカンの墓(成吉思汗陵)から大伊金霍洛遺址の方向を見た景色です。クリックすると道が真っ直ぐに4km伸びていることを感じてもらえると思います。
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真っ直ぐに延びた道から反対にジンギスカンの墓(成吉思汗陵)の方向の写真です。ただし500m離れた場所に建つ東門の内側なので墓までは300~400mの距離だと思います。
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それではネットから拝借したジンギス・カンの歌を紹介いたします。是非とも、プレーボタンを押して歌を聴いてみてください。
歌っているグループ名はジンギスカン(ドイツ語: Dschinghis Khan)で1979年から1985年にかけて世界的に活躍した西ドイツの音楽グループです。
 名前 Dschinghis Khan
 結成 1979年(6人)
 出身 西ドイツ ミュンヘン
 活動 1979年~1985年 2005年 2007年~ 4人~7人
右下の写真の6名が結成時のメンバーで、写真の左から
クリックすると拡大 Wolfgang Heichel
 Henriette Pauline Strobel-Heichel
 Louis Hendrik Potgieter ダンサー
 Leslie Mandoki
 Edina Pop
 Steve Bender      です。


上の動画が見れなくなったので、別のサイトの動画を掲載しました。
Der Auftritt von Dschinghis Khan zu „Dschinghis Khan“ bei der Starparade 14.06.1979


こちらの方が3ケ月ほど古い動画です。
Der Auftritt von Dschinghis Khan zu „Dschinghis Khan“ bei der ZDF-Disco 26.03.1979


原文はドイツ語ですが歌詞を日本語に訳したサイトがありました。 その中のジンギスカンの歌詞の日本語訳を紹介いたします。ただし日本で歌われている日本語の歌詞とは、まったく違います。SMAPの日本語の歌はこちらです。→
1000人もの男たちが草原の風をめぐって賭けをした。 そのとき、ある男が馬で前を走りぬけ、皆盲目のように それについていった。それがジンギスカンだった。 馬のひづめが砂を叩き付け、あらゆる国々に不安と恐れをもたらした。 稲妻も雷も彼らを引き止めることはできなかった。
ジン、ジン、ジンギスカン 騎手よ、皆の衆よ、騎手よ、どんどん行け ジン、ジン、ジンギスカン、さあ同士よ、さあ飲め、喧嘩せい、どんどん。
ヴォッカを取ってこい、ホホホホー だっておいらはモンゴル人だ ハハハハー 悪魔だってへっちゃらさ
ジン、ジン、ジンギスカン、男達よ、男達よ いつものように踊れよ、そして彼の笑い声が聞こえる。 ホホホホー ますます大きな声で笑う ハハハハー そして彼は壷を一気に飲み干す。
そしてなんでも気に入ったものは 自分のテントに持って入った。 世界で彼を愛さない女はいなかった。 一夜で7人の子供をもうけた。 そして彼の敵については笑うだけだった。 なぜなら彼の権力に立ち向かう人はいなかったから。
ジン、ジン、ジンギスカン 騎手よ、人々よ、騎手よ、どんどん行け ジン、ジン、ジンギスカン、さあ同士よ、さあ飲め、喧嘩せい、どんどん。 ヴォッカを取ってこい、ホホホホー だっておいらはモンゴル人だ ハハハハー 悪魔だってへっちゃらさ ジン、ジン、ジンギスカン、男達よ、男達よ いつものように踊れよ、そして彼の笑い声が聞こえる。 ホホホホー ますます大声で笑う ハハハハー そして彼は壷を一気に飲み干す。

クリックすると拡大もう一つジンギス・カンの歌(日本語)の動画を紹介します。歌っているグループは2004年1月14日~2015年3月3日に活動したBerryz工房です。
右の写真はフリー百科事典Wikipediaから転用させていただきました。
歌の歌詞はこちらです。→ポチッ


日本語のジンギスカンの歌の歌詞を紹介します。上で紹介した原文のドイツ語の歌詞を日本語に翻訳したのとは全く違います。上のBerryz工房の動画を見ながら、この歌詞を目で追ってみてください。SMAPもこちらの歌詞の歌です。
チャンスを待つよじゃ あいつに負ける ウッハ ウッハ 二度とは燃えない 嵐が吹くぜ ウッハ ウッハ
キラキラ輝く御殿 ひとめぼれしたあの女 黄金(こがね)をつかむのさ ウッハ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー 一緒に手をかざせ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー お前も手をかざせ
打ったら攻めろ むかえ撃ちつぶせ ウッハ ウッハ あとにはひかない 突撃ジンギスカン ウッハ ウッハ
骨までしゃぶる悪玉を 右や左で切りきざみ 勝利をつかむのさ ウッハ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー 一緒に手をかざせ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー お前も手をかざせ

クリックすると拡大内モンゴルの代表的な都市の一つである包頭市(包头市)からジンギス・カンの墓への道を青色ラインで紹介します。五當召(五当召)はすでに紹介したラマ教の聖地です。
 ジンギス・カンの墓
 包頭市
 五當召(五当召)

より大きな地図で ジンギス・カンの墓 を表示
冒頭の内モンゴルとモンゴル国の小さな地図のフルサイズを掲載します。
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内モンゴルの大草原 呼和浩特 [内蒙古]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年3月3日再掲載 タイトル:内モンゴルの大草原 呼和浩特
3月に入って、14年8ケ月前に掲載した過去記事の内モンゴルの記事にアクセスがあったので、内モンゴル(内蒙古)の記事の中で代表的な本記事を再掲載させていただきました。ちなみに内モンゴル(内蒙古)とは、中国の内陸部にあるクリックすると拡大モンゴル族の自治区で、国であるモンゴル国(外蒙古)に接しています。面積と人口密度を比較しました。
 内モンゴル   1,183,000km² 23人/km²
 モンゴル国   1,566,500km² 2.1人/km²
 両モンゴル合計 2,749,500km² 9.9人/km²
 日本       377,974km² 334人/km²
今までに内モンゴルの記事は本記事を入れて6つ掲載しました。着色タイトルをクリックすると記事を表示するので興味のある方はクリックしてみてください。
クリックすると拡大クリックすると拡大 内モンゴルの馬
 ジンギス・カンの墓
 ラマ教の聖地「五當召(五当召)」
 本場 内モンゴルの しゃぶしゃぶ 写真
クリックすると拡大 内モンゴルで「ゆう麺(莜面)」を食べる
 内モンゴルの大草原 呼和浩特
  2009年06月30日掲載
  2015年08月02日ブラシュアップ
  2024年03月03日再掲載 閲覧数 5,895 nice! 102 CMT 30 再掲載直前
  2024年03月04日    閲覧数 6,099 nice! 134 CMT 37
  2024年03月05日    閲覧数 6,236 nice! 154 CMT 46
  2024年03月06日    閲覧数 6,455 nice! 176 CMT 60
  2024年03月07日    閲覧数 6,655 nice! 209 CMT 62
  2024年03月08日    閲覧数 6,742 nice! 222 CMT 62
  2024年03月09日    閲覧数 6,823 nice! 237 CMT 62

2009年06月30日掲載 タイトル:内モンゴルの大草原 呼和浩特 
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IMG_7337-400.JPG内モンゴルの大草原に行った時の写真です。
馬や遊牧民の住居の パオ が点在しています。ここは本当に広さを感じます。この写真だけは是非クリックしてみてください。馬たちも雰囲気を盛り上げてくれるはずです。

特に下の写真は「地面の上雲の影が散らばっている」感覚は実際に来て味わってほしいですね。地面の黒いところが雲の影です。大草原の、この場所は紅格爾敖包(ホンゲル アオバオ)というところのようです。海抜1065 m呼和浩特(フフホト)からさらに1000m上った広大な大地がこの場所なのです。→ポチッ
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標高2000mを感じさせない平原でした。地平線の向こう側から車でやってきました。
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クリックすると拡大真直ぐの道でした
呼和浩特を朝早く出発した上に、緑の草原になる前の季節だったので観光客の人は少なかったです。
右の写真はネットから拝借しましたが、観光シーズンには、この門のようなところで、踊りなども披露されているようでした。
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クリックすると拡大石を積みあげられたものを「敖包」と言うようです。つまりこれが「紅格爾敖包」と呼ぶものかもしれません。PM2.5は無縁の世界でした。
敖包の前に仔羊がいたので記念撮影をさせてもらいました。飾られている青と白の布は大草原の空の色と同じでした。 2016年9月SV 2017年6月SV
クリックすると拡大

上の写真の石の積まれた紅格爾敖包のGoogleマップの航空写真です。プラスのアイコンをクリックすると拡大します。マイナスのアイコンを数回クリックすると広範囲を表示します。


パオが並んでいるあたりにも歩いて行ってみました。
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村の人とも話をいたしました。家の中も見せてもらいました。驚いたことに携帯がつながりました。


地面に映った雲の影が広さを感じさせてくれました。この辺りは希拉穆仁草原(シラムレン草原)のようです。
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ゆったりとした丘にも登ってみました。
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呼和浩特から大草原に登って行く時の景色です。山の上が平らな大草原となって北に広がっているのです。
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これが登って行く道でした。


ひたすら登るだけなので途中で乗っている車がオーバーヒートしました。幸いにもエンジンが冷えたら走ることが出来ました。
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大草原から呼和浩特に戻ってきて夕食にいたしました。街が見渡せる丘の上のレストラン(右下の写真)で歌手の人が歌ってくれたときの写真です。歌い終わると男性が持っている酒を3杯飲ませれる習慣で、きっちり飲まされました。
クリックすると拡大酒の種類は白酒(パイチュウ)ですが、ここに来たら馬乳酒を飲みたいですね。
なんと、馬乳酒=カルピスハイ でした!!
やっぱり、ここに来たら羊の肉ですね。
ここは日本人に似た人の比率も多い気がします。
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Googleマップでのレストランの航空写真です。場所は青少年生態公園内の蒙古大营クリックすると拡大呼ばれるレストランのようです。左端に沢山並んでいる丸いものは、上の方でも紹介したパオ(モンゴル族の移動式住居)で、この中でも食事が出来るのだと思います。右はネットから4枚を転用させていただき8秒ごとに表示するようにいたしました。


航空写真で場所を紹介します。紅格爾敖包はいろんな場所にあるので特定の地名ではないようです。今回行った紅格爾敖包が赤色マーク( )のところです。
呼和浩特(フフホト)の町中( )から紅格爾敖包( )までの車での走行距離は93.7km(88km)です。
 紅格爾敖包 大草原  食事をしたレストラン  呼和浩特
 五當召(五当召) ラマ教の聖地


冒頭の内モンゴルとモンゴル国の小さな地図のフルサイズを掲載します。
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本場の出石で「出石皿そば」を食べました。正覚田中屋 [出石]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
長男家族との兵庫県の出石訪問記事の続きです。クリックすると拡大右の写真は長男がもうすぐ一才の時の写真です。この時、結婚してすぐに買った神戸市須磨区の私の自宅に住んでいました。その下の写真は娘(長女)が生まれた時の長男長女次男です。長女が生まれて0歳の時に東京に転勤になり今は千葉県に住んでいます。クリックすると拡大
今回紹介する「出石そば」は上の写真のように沢山の皿に乗せられて出てくるのが特徴です。一人前は5皿に盛られ出てくるのが通常ですが、男性なら10皿程度を食べるのが普通だと思います。このような食べ方が「出石そば」なので、「出石皿そば」と呼ばれています。我々が入ったお店の「出石皿そば」は地元・出石産のそば粉を使った二八そばでした。メニューを見ると皿そば以外のそばは産地や配合に、いろんな使い分けをされていました。出石には沢山の「出石皿そば」のお店ありますが、出来る限り美味しいお店で食べたいと思いました。大行列のお店もあり迷ったので、先に酒蔵に行ってそこで美味しいお店を聞くことにしました。元々、出石で日本酒を買うつもりだったのです。
クリックすると拡大前記事で紹介した右の写真の出石酒造で「近くで美味しい出石そばのお店を3軒教えてほしい」とお願いして推薦してもらった出石そばのお店が次の3つでした。
 正覚田中屋 出石町本町97
 官兵衛   出石町八木68
 そば庄   出石町鉄砲27-13

出石の町の中でGoogle地図に登録されている出石皿そばのお店の数を数えてみました。見落としはあると思いますが37軒でした。それをプロットしたのが下記のGoogle地図の航空写真です。ネットで検索すると出石町内に40数店あり、出石皿そば協同組合に登録されている店数は39軒(紹介一覧33軒)でした。今森製麺所( )は長男家族が父の日のプレゼントとして出石そばを私に送ってくれたお店で、今回は長男が蕎麦を打つためにそば粉を買いました。
 出石皿そば店 そば庄    正覚田中屋   官兵衛
 出石酒造   今森製麺所  兼業 or 臨時休業


紹介されたお店は遠くにはないと思いクリックすると拡大とりあえず蕎麦店を探しながら、数十年前に辰鼓楼をバックにして撮った右の写真と同じ構図の記念写真を撮るために辰鼓楼まで行くことにしました。右側2人が私の両親で、左端が端が私がその右隣りがです。その娘も結婚して3月中旬が初出産の予定日です。この写真は家内が撮ってくれているのだと思います。先ずは出石酒造の土蔵の酒蔵の前から辰鼓楼が見える右の写真の位置までの道沿いの景観を紹介したいと思います。
左側が出石酒造の土蔵の酒蔵で、右側が同じ位置から土蔵の向かい側(北側)の景色です。浄土宗の昌念寺が見えます。山号は済船山です。1864年7月に禁門の変で長州が敗れて桂小五郎が京都を逃れて最初に隠れたのが出石の昌念寺だそうです。出石の町の中には桂小五郎居住跡(荒物屋跡)も残されています。SV1 SV2
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出石酒造の土蔵の酒蔵と昌念寺の間から進んで行く方向を撮ったのが左の写真で、その道を進んで行って最初の十字路が右の写真です。
右の写真のお寺の名前は高福寺で、浄土真宗本願寺派のお寺です。元々は約650年前に豊岡市奈佐地区矢次山中腹に建立され、その後戦乱等で移転して今の場所に落ち着いたそうです。SV3 SV4
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上の写真の右側の十字路の場所から出石城方向を見た写真です。出石城の大手門があった場所から真っすぐに伸びる大手前通りです。大手門があった場所の横に建っている辰鼓楼(しんころう)が見えます。右の写真は左の写真から切り取ったものです。SV5 SV6
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辰鼓楼との記念写真を撮る場所に来ましたが、まだ逆光だったために出石皿蕎麦を食べた後に撮りに戻ってくることにしました。そして横を見ると出石酒造で推薦してもらった3軒の蕎麦店(正覚田中屋、官兵衛、そば庄)の中の1軒があったのです。幸いなことに人が並んでいなかったので、迷わずお店に入りました。入ったお店が下の写真の正覚田中屋でした。クリックすると拡大
 店名 正覚田中屋
 住所 兵庫県豊岡市出石町本町97
 電話 0796-52-2048
 創業 1992年4月29日
 営業 10:00~17:00(売切れ仕舞い)
    夜料理の予約可(事前確認要)
 定休 毎週木曜日 第3水曜日 (祝日の時は営業)
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お店の前に置かれていた品書きです。品書きに書かれていたのは、出石皿そば、十割蕎麦、とろろ蕎麦、鴨汁蕎麦、おろし蕎麦、すだち蕎麦、で、通品して、厚焼玉子、そばずし、そより・いか....、そば団子、わらび....でした。
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お店に入ると興味深い空間がありました。井戸があるようでした。
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水が湧き出していました。美味しい水があるからこそ、美味しい蕎麦が作れるのかもしれません。
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2階の席に案内されました。左の引き戸から入ってきました。
味は大切ですが、食べる部屋の雰囲気も大切です。そういう意味でもゆったりとした個室だし、いい雰囲気で食べれました。
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壁に貼られていた書です。さとる書とありました。店長の田中覚(たなか さとる)さんが書かれたようです。今回対応していただいたのも田中覚さんでした。
生きている
生きているということは 誰かに借りをつくること 生きてゆくということは 借りを返してゆくということ 誰かに借りたら 誰かにかえそう 誰かにそうして貰ったように 誰かにそうしてあげよう   さとる 書
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クリックすると拡大食べたのは、店のレイアウト図の「食べた部屋」と書き込んだ部屋で、そこには6人掛けのテーブルが2つ置かれていて入口から奥側のテーブルに座りました。右の写真のテーブルに座りました。レイアウト図と右の写真はホームページから転用させていただきました。
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お品書きです。出石皿そば990円、十割蕎麦生古粉1320円、とろろ蕎麦1265円、鴨汁蕎麦1485円、おろし蕎麦1265円、すだち蕎麦1265円で、厚焼玉子850円、かまぼこ550円、そばずし750円、焼き以下いか770円、そば団子(そば茶付)660円
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出石皿そばの部分を紹介します。三百年の伝統 出石産(にじゆたか) 石臼挽き粉使用 ◇出石皿そば(五皿) 990円
石臼挽き粉で打った二八そばは黒く そば本来の味と香り・・・ 出石焼の小皿にもり、山芋、卵などの薬味で食すのが特徴。
◇追加一皿につき180円
※オリジナルそば通手形がもらえる条件は 男性 20皿 女性 15皿 小人 10皿
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通しで揚げた蕎麦が出てきました。
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大人3人の内、帰りに運転しない2人はビールを飲むことにしました。こちらが飲物のメニューです。  日本酒の部分に我々が試飲した3本が書かれていました。出石と言えばやっぱり出石酒造の楽々鶴(ささづる)のようです。我々が試飲した原酒と上撰と純米酒でした。我々は帰ってから飲むのでここでは、やっぱりビールにしました。
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やっぱりビールはいいですね。ビールには昆布の佃煮が付いていました。
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出石皿そば用の薬味が出てきました。左上から山芋、卵、ネギ、わさび、です。
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皿そばが並び始めました。先ずは5皿×5人前を頼んだので25皿を店長の田中覚さん自らが運んでくれました。出石そばの歴史をWikipediaから転用する形で記載させていただくと、江戸時代中期にあたる宝永3年(1706年)に信濃国上田藩から国替えで但馬国出石藩の藩主になった仙石政明(仙石公)が、蕎麦職人を信州から連れてきたことが始まりとそれているそうです。皿そば形式(割り子そばの形態)で食べられるようになったのは幕末の頃で、屋台で供される際に持ち運びが便利な手塩皿(てしょうざら)に蕎麦を盛って提供したことに始まるとされています。現在の「出石皿そば」の形態が確立したのは約65年前の昭和30年代(1955年~1964年)だそうです。
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久しく食べていなかった蕎麦寿司もお願いしました。
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これが待望の出石皿蕎麦です。
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記念写真を撮ってもらいました。いい記念になります。
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テーブルの部分を紹介します。使われているお皿やその他の器は全て出石焼です。出石焼は出石町一帯で焼かれる磁器です。厚みがありますが陶器ではなく硬くて丈夫な時期で白色(白磁)が出石焼の特徴で、1784年(天明4年)に伊豆屋弥左衛門が出石郡細見村に土焼の窯を築いたことが始まりとする説が史料の信憑性の高さから一番有力とされていますが、諸説あるそうです。1801年(享和元年)の藩窯開設以降は本格的に生産されるようになったそうです。いずれにしても240年近い歴史のある焼きものです。
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蕎麦の乗った皿が2段積みになっているのも特徴の一つだと思います。
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お皿ごとに違った絵柄や文字が書かれていて楽しめました。
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これを見て頑張って食べる人もいると思います。
20皿食べると990円+180円×15=3690円です。
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結局、追加も入れて50皿食べました。長男が20皿食べたので、そば通手形をもらいました。
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こちらがいただいたオリジナル通行手形(そば通手形)です。
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お店を出てて辰鼓楼を背景に記念写真を撮ろうと思しましたが、まだ逆光が強いので蕎麦粉を買う目的で町を散策した後に記念写真を撮ることにいたしました。
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辰鼓楼から離れる方向に歩いて振り返って写真を撮りました。土産物屋さんが沢山ありました。
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人が少ないあたりにまで来ました。蕎麦粉を売っているお店は見つかりませんでした。
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出石酒造で推薦してもらった「そば庄」もありました。遠くに「皿そば」と書かれているところは「出石そば処 桂」と思われます。
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辰鼓楼(しんころう)のところまで帰ってきました。これなら記念写真が撮れそうです。辰鼓楼は1871年に建てられ、当初は太鼓で時を告げていたそうです。10年後の1881年に地元の旧藩医の池口忠恕が大病を患った際に、地元民から御見舞いや全快祝いを受けたことへの御礼として機械式大時計を寄贈し、同年9月8日から時計台として稼働し始めたそうです。同年8月12日には北海道の札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)が稼働していることから日本国内で二番目に古い時計台になります。
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やっと記念写真を撮ることが出来ました。
数十年前に撮った右の写真とほぼ同じ場所で撮れたと思います。
辰鼓楼のところが出石城の大手門があったところです。立っているこの道は大手前通りです。
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結婚した翌年の雪のころの1月に家内の両親と出石に来た時は「永楽そば」で出石皿そばを食べました。雪を投げている相手は家内のお父さんです。ストリートビュー(SV)を見ると永楽そば(永楽蕎麦)は今も昔のままでした。ただし昔の看板は「永楽皿そば」で今の看板は「永楽そば」です。クリックすると拡大
 店名 永楽そば
 住所 兵庫県豊岡市出石町宵田119
 電話 0796-52-2540
 営業 10:00~15:30
 定休 毎週金曜日
 SV ポチッ
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タグ:蕎麦 そば 出石
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出石酒造 楽々鶴(ささづる)  [出石]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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出石城の次は出石皿そばを食べることですが、その前に夕食用の冷酒を買うために酒蔵に行くことにしました。出石皿そばを食べる前に酒蔵に行くことにした理由は、地元の酒蔵で出石皿そばの推奨するお店の名前を聞くことでした。目指した酒蔵は316年前の宝永5年(1708年)に創業した出石酒造でした。宝永3年(1706年)にお国替え(移封)で信州上田藩の仙石政明(仙谷公)が出石藩の藩主になりましたが、その仙石政明が宝永5年(1708年)に酒の献上を命じたという史実から創業年を宝永5年(1708年)としたそうです。したがってそれ以前から出石酒造はあったことになります。当時の酒蔵の名前は「かずかや門垣屋」だったそうです。
仙石政明は仙石氏の4代当主で出石藩の11代目の藩主になります。上の写真の左側の敷地はすべて出石酒造です。

この航空写真の下方向(南方向)にある出石城から出石のシンボルの辰鼓楼( )の横を通って本町通りのところを右に曲がって3/4程度少し進んだところが上の写真の場所です。緑色に着色したエリアが出石酒造の敷地だと思われます。右は辰鼓楼での昔の記念写真と昔に買った出石焼の写真です。クリックすると拡大
 辰鼓楼   明治初期(1881年)の時計台
 出石酒造
クリックすると拡大 正覚田中屋 出石皿そば
 虹洋陶苑  出石焼窯元
 土産物店街+家老屋敷
  散策ルート


突き当りを左に曲がると出石酒造の販売場所の入口です。左側の敷地が全て出石酒造です。
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上の写真の突き当りを左に曲がってすぐの景色です。左側の建物が全て出石酒造です。販売場所のところに楽々鶴と書かれています。
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入口に近づきました。
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クリックすると拡大ここが入口です。
 名前 出石酒造(有)
 住所 兵庫県豊岡市出石町魚屋114-1
 電話 0796-52-2222
 営業 9:30〜18:30
 定休 不定休
 創業 宝永5年(1708年)
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のれんの正面から撮りました。
出石酒造から850mの距離にある石部神社(豊岡市出石町下谷62)の総代をされているようです。Wikipediaによると石部神社の創建は不詳ですが、社伝では坪井村(現:出石町坪井)に鎮座していて、文禄4年(1595年)には毘沙門町の丘上に遷座、寛永3年11月に現在地に遷座したと伝えられている歴史のある神社です。
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大きな釜が印象的でした。酒米を蒸すための釜でしょうか。
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酒の入れ物が並べられていました。
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さっそく冷酒を3本買いました。中易酒造と書かれたのれんも印象的でした。中易(なかやす)は出石酒造の社長(14代目/中易裕明)の名前で、中易酒店は今でもあって楽々鶴を売っているそうです。
出石酒造さんの推薦出石そば店は→ 正覚田中屋 官兵衛 そば庄 でした。
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この3種類を試飲させてもらって上撰1本と上撰原酒2本を買いました。上撰原酒の1本は私の自宅に持ち帰り、残りの上撰1本と上撰原酒1本は長男宅用でした。
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出石酒造はこの赤色の土壁づくりの酒蔵が有名です。270年程前に造られたとされているそうです。
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土壁の酒蔵の写真をもう1枚紹介します。明治9年の出石大火で出石城下町の7割が火に飲まれ、こちらでも母屋などは焼け落ちたけれど、この土壁の酒蔵の一部は無事だったそうです。この土壁の酒蔵のおかげで酒造りが今に残ったのかもしれません。記録に残っている出石の大火は下記の通りです。
 1823年5月15日 裏町大火  全焼269戸
 1866年3月20日 初午大火  全焼68戸
 1876年3月26日 出石大火  全焼966戸、半焼5戸、焼死5人、負傷14人
 1926年6月22日 寺町の火災
 1929年6月08日 寺町の火災
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途中で夕食のベニズワイガニ(香住ガニ)や魚を買って、長男宅に着いてすぐに冷蔵庫に入れて冷やしました。夕食の前にみんなで「よふど温泉」に行き戻ってから、夕食の準備をしたのでお酒はよく冷えていました。
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やっぱり美味しかったです。お酒の銘柄が楽々鶴(ささづる)になったのは、城崎温泉の近くに楽々浦(ささうら)という地名があり、出石城の藩主の仙谷公の別荘の名前が楽々園(らくらくえん)で、お酒のことを楽々(ささ)と呼ぶことから、これらをかけて楽々鶴(ささづる)となったそうです。Wkipediaには酒を意味する「笹の露」と仙谷公の別荘「楽々園」に由来していると書かれていました。
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自宅で飲んだ時の写真を紹介します。この時はタラ鍋でした。
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美味しくいただきました。日本酒はやっぱり鍋料理にぴったりでした。
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タグ:日本酒 出石
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新幹線からの富士山 2月9日(東京→大阪)と2月10日(大阪→東京) [日本]

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2024年2月9日に1泊で関西に行きました。早朝移動のため、自由席特急券を事前に買っていたので、船橋から乘った快速が品川に6時23分に着いて最初の新幹線に乗りました。富士山を見ようと富士山側の2人席に座って最初に撮ったのが上の写真です。新幹線が富士市に入って最初に見え始めた瞬間の富士山です。空は薄曇りで、部分的に雲がかかった富士山でした。越前岳(愛鷹山系)の斜面から富士山が見え始めた時の写真です。時刻は7時16分04秒でした。

日本製紙の富士工場がある辺りの富士山です。富士山全体がよく見える場所です。気温が低いので煙突からの水蒸気は白く目立っています。撮影位置は昨年4月に掲載した記事「新幹線からの富士山」を見ていただくと判ると思います。上の写真の40秒後の7時16分46秒の写真です。
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富士山の前にかかっている雲の形は刻々と変わっていきました。上の写真の1分40秒後の7時18分26秒の写真です。今回の記事の富士山の写真はクリックすると全て面積で16倍に拡大いたします。
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上の写真の1分4秒後の7時19分30秒の写真です。短時間の間に見ている角度が変わるのが新幹線からの富士山です。
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翌日の2月10日に関西から帰りの新幹線からの富士山の写真も紹介します。時間帯が昼であることも富士山はきれいに見えました。富士川を渡っている時の写真です。時刻は13時55分21秒でした。SV1 SV2
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上の写真の4秒後の13時55分25秒の写真です。
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上の写真の24秒後の13時55分49秒の写真です。
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上の写真の48秒後の13時56分37秒の写真です。
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上の写真の38秒後の13時57分15秒の写真です。
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上の写真の11秒後の13時57分26秒の写真です。
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上の写真の22秒後の13時57分48秒の写真です。越前岳の斜面に富士山が隠れつつある時の写真です。クリックすると拡大
越前岳はwikipediaから転用させていただいた右の写真の愛鷹山(あしたかやま)の最高峰(1504.2m)で火山だそうです。愛鷹山(別の呼び方である愛鷹山系)には北から黒岳(1087m)、前岳(1336m)、大岳(1262m)、鋸岳(1296m)、袴腰岳(1248m)、越前岳(1504.2m)、呼子岳(1310m)、愛鷹山(1187.5m)、位牌岳(1458m)があるそうです。
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越前岳の西の斜面に富士山が隠れてた後、越前岳の東から富士山が出てきた時の写真です。上の写真の3分48秒後の14時01分46秒でした。
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今回の11日前の2024年1月28日にも1泊で関西に行き、クリックすると拡大往復共に富士山側の2人席に座りましたが、2日間ともに雲が多く、1月28日の朝は富士山は完全に雲に覆われていて、1月29日は下の写真のように富士山の裾野が見える程度でした。時刻は15時30分38秒でした。右の写真は下の写真の2分23秒後の15時33分01秒で越前岳の斜面に富士山が隠れつつある時の写真です。
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Wikipediaネットに掲載されていた富士山構造図を紹介します。富士山は最近10万年で急に大きくなったと考えられていることから「若い火山」に分類されているそうです。愛鷹火山(愛鷹山)の最高峰が越前岳です。下段の方は約数十万年前と約十万年前と約一万年前の3枚の図を切り替えて表示しています。
クリックすると拡大 新富士火山 約1万年前から噴火開始
 古富士火山 約10万年前~約1万年前に噴火
 小御岳火山 約70万年前から活動
 愛鷹火山  約40万年前~約10万年前に噴火
 周辺火山  数百年前から活動
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