六甲山の行者山 [宝塚]
宝塚の実家近くの岩倉山反射板を紹介したので、少し古い写真ですが、近くにある行者山(ぎょうじゃやま)も紹介したいと思います。上の写真は、実家近くから撮った行者山です。写真の中央の高い山が行者山です。行者山は六甲山系の山の中の一つで東の端に位置します。行者山に登ったのは2015年12月28日でした。
写真の中央より少し右側のピークが行者山の山頂です。左側の山は行者山ハイキングコースより奥の山だと思われます。例えば樫ケ峰(457m)が候補です。
本写真は歩いたコースの最初の写真で白瀬橋( )から撮りました。コース順に写真を紹介していきます。実家から逆瀬川の支流となる写真の中の白瀬川の横を歩きました。今は大きな住宅地になっていますが、私の学生時代は山林で実家の犬(ジョン)と走り回っていた場所でした。今はありませんが、犬が泳いだ右の写真の池もありました。ジョンの記事はこちらです。→ポチッ
六甲山の湿地には今でも食中植物のイシモチソウやモウセンゴケやミミカキグサ類数種が生えています。今は見えなくなりましたが、この辺りには六甲山では珍しいコモウセンゴケ(右の写真)が生えている貴重な場所でもありました。六甲山の池の食虫植物としてはタヌキモ類2種を特定の池で見ることが出来ます。
歩いた全コースをGoogleマップの航空写真で紹介します。ただし実家の正確な位置が特定されないように実家の近くだけルートを少しずらしております。航空写真の中の白瀬橋( )から右回りに順番に紹介していきます。白瀬橋( )は上の写真を撮った場所です。
ルートは━━ ━━ Ⓑ ━ ━━ ━━━ ━━━ Ⓐ━━です。
ちなみに六甲山最高峰は931.25mで、甲山は309.2mです。逆瀬川駅の標高は51mのため登リ口である西逆瀬台口までの標高差は約100mあります。
行者山の住所は 兵庫県宝塚市 小林西山 (34°47'49.1"N 135°19'21.0"E)になります。緯度と経度の情報はGoogle地図の等高線の頂点の位置から判断いたしました。北東方向には譲葉山(514m)と岩倉山(488.4m)もあります。
━━ 歩いたハイキングコース
━━ 住宅地内を歩いたコース
124m 白瀬橋(本記事紹介の出発地点)
160m 西逆瀬台口
234m ゆずり葉ピーク
383m 行者山東観峰 34.796308, 135.325828
400m 行者山東展望台 34.796703, 135.323437
415m 行者山 34.796964, 135.322511
226m 光ガ丘口
198m 青葉台口 ━━ 別ルートハイキングコース
213m 北逆瀬川口 ━━ 別ルートハイキングコース
川沿いの太い道が途切れました。川の右側の黒い車の奥に道がありそうなのでそちらに進んでみることにいたしました。SV
こちらが車の奥の部分を拡大した写真です。
やはり細い道がありました。この辺りはワンコの散歩道になっているようでした。
進んでいくとハイキングコースの大きな案内板がありました。実は、実家を出るときから行者山に登るつもりではなく、この案内板を見るまでは甲山の方に登り、仁川駅に出るつもりでした。この案内板を見て、とりあえずは行者山東観峰に登ってみることにいたしました。
結果的には3秒間隔で点滅させている太い赤いラインを歩きました。親切なことに黒い丸の部分に、その場所の現在位置を書いた地図付きの案内板がありました。歩いたルートの地図付きの案内板の写真も順番に紹介したいと思います。地図内の現在地と書かれているところに、この案内板がありました。
右の地図をクリックすると拡大地図を別画面で表示するので、出てきた地図を見ながら記事を見ていただくとわかりやすいと思います。
最初は、ゆずり葉散策路と名付けられた道を歩きました。
不思議なことに大きな南天の木が生えていました。南天の木は庭木だと思っていたので不思議に思ったわれです。考えてみるに人家が全くなかった学生時代にも、この辺りで南天の木を見た記憶がありました。元々は渡来した栽培種の実を鳥などが運んで野生化したものと考えられているようです。
道を歩きやすいように、石が組まれているのに驚きました。きっとボランティアの人が整備してくれたと思うのですが大変な作業だったと思います。
六甲山でよく見かけるシダが生えている小道になってきました。
登りきったところに行先を示す標識がありました。東観峰・行者山と書かれた方向に進みました。
まさに雑木林の中を進む感じでした。ところどころにイノシシなのか掘り返した後もありました。
このような大谷と書かれた石の標識が小道の真ん中に埋められていたので、後で調べるつもりで写真に納めました。ネットで調べてみると裏六甲にある蓬莱峡に抜ける道筋に大谷や大谷乗越があることから、その大谷の方向を示す道しるべのように感じました。
開けたところに出ると砂防ダムがありました。
川を渡ると、階段のように整備された小道もありました。ここの左側には砂防ダムがありました。
よく見ると、単なる板ではなく滑り止めが付けられた板が使われていました。ここにも整備に力が入っていることが伝わってきました。
最初の現在地を示す地図付き案内板です。ここからは東観峰までは概ね山の尾根伝いに登っていきます。ここは 現在地 と書かれた場所で、ゆずり葉ピークの少し西側です。つまり上の階段のように整備されていたところの反対の東側をを登りきったところが、ゆずり葉ピークだったようで、知らずに通り過ぎていました。宝塚高校と宝塚西高校の間にあります。
山の尾根なので道の両側が険しい崖のところもありました。
危険な部分には虎テープが張られている上に、きつい登りの部分にはロープが設置されていました。道の右側のロープが判るでしょうか。このロープを使って登りました。
雑木が多く枯葉で道が判りにくいところには標識も建てられていました。
石が動かないように鉄杭も打ち込まれていました。これなら安心して石を使って踏ん張れます。
急なところはロープだけではなく梯子も設置されていました。これには驚かされました。見た目よりは急阪で確かに梯子が無かったら大変だと思いました。
少し見晴らしがいいところに出たので六甲山の山頂方向(西方向)の写真を撮りました。まだ東方向の眺望は見れませんでした。
また梯子とロープが設置されていました。
甲山が見える場所に出ました。左端の丸い山が甲山です。岩質は輝石安山岩からなり、隣接した花崗岩からなる六甲山とは違う形成過程であると考えられています。六甲山の大部分は約1億年前に地下深くに出来た花崗岩が六甲変動(約100万年前)と呼ばれる地殻変動によって隆起した大きな山ですが、そんな中で甲山は火山だそうです。甲山は1200万年前の火山活動期には大きく広がる山体を持っていましたが、約200万年間の活動が終息した後、侵食によりわずかに火口付近の火道周囲の溶岩のみが塊状に残り現在のドーム状になったそうです。山の形から長く昭和新山のような溶岩ドーム(旧分類:トロイデ式火山)の典型と思われていましたが、研究が進み上記の生成過程があきらかになりました。
上の写真を撮った場所の写真付き案内板です。
こんな感じで写真付き案内板が立てられていました。
さらに尾根伝いに小道を進みます。
開けた場所に出ました。甲山をバックに現在地を示す地図付き案内板が立てられています。
こちらが案内板の地図です。今まで出てきた案内板は上が北でしたが、この地図は上が南です。つまり案内板の地図は立てられている方向や見る方向によって地図を変えているのです。心憎い配慮です。
宝塚南口の高層マンション群です。
宝塚歌劇の大劇場も写真の中央から少し左下に写っています。
宝塚歌劇の大劇場をズームアップいたしました。正式名「宝塚大劇場」は1992年完成で毎年100万人以上の観客を動員しているそうです。
上の2枚の写真はズームしたもので、目で見た感じの写真を紹介します。この写真はクリックすると特別に大きく表示するように設定いたしました。
少し東方向です。逆瀬川駅や実家があるあたりも写っています。
行者山東観峰に着きました。
ここには登頂記念箱が設置されていました。
このノートに記念の言葉を書くのです。
行者山東観峰に設置されていた現在地わ示す地図付き案内板です。
行者山東観峰からの宝塚駅および宝塚南口方向の眺望です。
大阪方向の眺望です。行者山は全国に沢山あるようです。少し調べただけでも兵庫県宝塚市以外に、京都府亀岡市、大阪府豊能郡能勢町、広島県大竹市、鳥取健米子市、徳島県那賀郡那賀町と高知県香美市の境界にありました。
ここには基準点が設置されていました。
2級基準点で西宮土木事務所が設置したようです。ネットで調べた標高は383mでした。361.18mmと書かれていサイトもありましたがGoogle地図の等高線から判断して383mの方が正しそうでした。
行者山東観峰からは一旦は西方向に下ってから行者山に登ります。
目の前の小高い山が行者山(415m)です。
東観峰(383m)と行者山の標高差は32mとなります。
東観峰から行者山に向かいました。
行者山の少し手前にも地図付き案内板が設置されていました。名前は行者山東展望台(400m)です。
これが地図です。現在地が判ってもらえると思います。
行者山東展望台から見た甲山です。写真に写っている池は宝塚ゴルフ倶楽部(ゴルフ場)内にある深谷貯水池です。右の方には西宮カントリー倶楽部が広がっていて、リゾートホテルのような建物は、阪急逆瀬台マンション・アヴェルデの1番館~5番館だと思います。
この建物の中に、以前に紹介した出石そばのそば義があります。
こちらにも基準点が設置されていました。
行者山東展望台から見た東観峰です。
行者山東展望台と行者山を結ぶ道です。距離はわずかです。
行者山に着きました。標高は415mです。このあたりの最高峰です。
名前 行者山(ぎょうじゃやま)
標高 415m(412mや413mの記述もあり)
住所 兵庫県宝塚市小林西山
こちらが現在地の地図です。
ただし周囲が木でおおわれているため景色が見えません。だから行者山東展望台があるのだと感じました。
場所を特定した等高線の入ったGoogle地図を紹介します。等高線は10mごとです。残念ながら2024年の時点では下のような細かい等高線は出なくなりました。クリックすると標高を書き込んだオリジナルのGoogle地図を表示します。
行者山を離れました。
下り始めました。
下っていく途中に不思議な石の配置がありました。
枯葉をどけてみると基準点でした。
こちらの基準点は兵庫県の3級基準点でした。
六甲山から降りてくる道に出ました。分岐点に例の案内板が立っています。
奥の方から降りてきました。
現在地を示している地図です。こちらは上が南です。
こちらが六甲山の方向です。
こちらが光ガ丘の方向です。こちらの方向に降りていきました。ここが支多々川の源流です。道そのものが川なのです。ここからが、前記事岩倉山反射板で紹介した光ガ丘に出るまでと同じルートです。
水は流れていませんが、湿っており苔などの胞子植物が沢山生えていました。
シダ植物も多かったです。
大雨の時は、ここを水が流れるのだと思います。
ここで川と別れました。左に川が下っていき、道は右に進みます。
道の部分です。
東観峰からの道に合流いたしました。
もうすぐ光ガ丘口です。
尾根を進んだ後に、また支多々川に出てきました。見えているのは砂防ダムです。
水が流れているのが判ると思います。
流れているところが実感してもらえるように動画を掲載いたしました。
もうすぐ住宅地です。
写した中の最後の案内板です。
そして、これが案内板の地図です。
道路が見えてきました。
住宅地に見えてきました。川は支多々川です。実家の近くまで流れていきます。
昔からの町並みを流れる支多々川です。
この先は武庫川につながっています。
実家の近くまで戻ってきました。正面が行者山で、その左が行者山東観峰です。
あらためて広い範囲の航空写真で歩いた全コースを紹介します。岩倉山反射板との位置関係も分かると思います。
━━ 歩いたハイキングコース
━━ 住宅地内を歩いたコース
124m 白瀬橋
160m 西逆瀬台口
234m ゆずり葉ピーク
383m 行者山東観峰 34.796308, 135.325828
400m 行者山東展望台 34.796703, 135.323437
415m 行者山 34.796964, 135.322511
471m 岩倉山反射板
488m 岩倉山
526m 譲葉山P1 514m 譲葉山P2
457m 樫ケ峰
226m 光ガ丘口
198m 青葉台口 ━━ 別ルートハイキングコース
213m 北逆瀬川口 ━━ 別ルートハイキングコース
岩倉山反射板 [宝塚]
2024年7月04日再掲載 タイトル : 岩倉山反射板
1年前の本記事に宝塚の光ガ丘に住んでおられるみけねこさんからコメントをいただいたのを機会にブログのトップに再掲載いたしました。光ガ丘は岩倉山反射板から最短コースで下りて来た場所の住宅地です。記事の中で光が丘中学校の停留所が出てくるので分かると思います。
2023年02月24日 掲載
2024年07月04日 再掲載 閲覧数:1,295 nice!:102 CMT :34
2024年07月05日 閲覧数:1,480 nice!:120 CMT :40
2024年07月06日 閲覧数:1,570 nice!:127 CMT :46
2024年07月08日 閲覧数:1,788 nice!:161 CMT :47
2024年07月09日 閲覧数:1,823 nice!:164 CMT :48
2024年07月10日 閲覧数:1,857 nice!:165 CMT :48
2023年2月24日掲載 タイトル : 岩倉山反射板
兵庫県宝塚市の逆瀬川駅付近から西にある岩倉山の稜線に四角の物が昔から見えていて前々から気になっていました。上の写真の黄色の下向きの矢印のところです。写真をクリックすると拡大するのでわかっていただけると思います。上の写真の空き地は少し前までは古い建物が立っていましたが、解体されて今は山の稜線がよく見えます。もうすぐ8軒の家が建てられて売り出されるようなので、今だから見れる風景です。この写真を撮った位置から四角の物までの距離は1.99kmです。
上の写真では見えにくいのでズームした写真を紹介します。クリックして拡大写真を表示させると茶色の四角の物があることが判っていただけると思います。
写真を撮ったカメラはコンデジなので解像度は良くありませんが四角の茶色が判ってもらえると思います。
野上4丁目公園からも四角い板を見ることが出来ました。ここからの距離は2.02kmです。下の写真から反射板部分を切り取ったのが右の写真です。クリックするともう少し広い範囲を表示しますが解像度はもう一つです。
以前に次の2つの記事で紹介したことがありました。その時に四角の板は阪急電車の岩倉山反射板と紹介させていただいていました。この写真は上の写真とは別の場所から撮ったものです。この写真を撮った場所から岩倉山反射板までの距離は2.11kmです。本写真をクリックして表示される拡大写真は2021年6月24日にYahoo知恵袋のベストアンサーに引用されています。
2021年6月08日 宝塚の聖天さん 七宝山 了徳密院
2021年6月24日 宝塚聖天からの塩尾寺への山越えの道
その岩倉山反射板のところに行って写真を撮ることにいたしました。その写真を上の2つの記事で紹介したいと思ったからです。そしてすでに撮った写真を小さな写真ですが紹介いたしました。本来ならば黄色のラインが最短なのですが、地図もないし、いろんな道があり迷いやすいことを知っているので、遠回りになりますが以前に紹介した塩尾寺(えんぺいじ)まで行き六甲山縦走路を歩いて目的の岩倉山反射板( )に行くことにしました。目的の場所は比較的縦走路に近いところにあります。縦走路から目的の岩倉山反射板に行く分かれ道のところがⒷです。出発地点Ⓐは実家の家が特定されないように野上4丁目の代表的な十字路にしています。行き(Ⓐ→Ⓑ→反射板)の登りの標高図を右下に紹介します。クリックするとGoogleのオリジナルを表示します。水色ラインは阪急今津線の逆瀬川駅近くのコープの駐車場から見た方向です。距離は2.49kmです。岩倉山反射板がある住所は宝塚市小林西山になります。行きに関しては近道しようとして宝塚市宝松苑27辺りに入り込み道に迷って約1kmロスしました。Ⓐは野上4丁目公園の近くでもあります。今はありませんが、有名な建築家の村野藤吾(1891~1984)が設計した東京銀行宝塚クラブハウス( )の近くも通りました。
Ⓑから西方向(左方向)に伸びている白い道が六甲山縦走路です。
実家を出で最初は住宅地を歩きます。ここは桜並木で有名な 「寿楽荘の桜並木(桜とんねる)」です。昨年の春に紹介させていただきました。→ポチッ
ここは宝塚市武庫山の住宅地です。この近くには建築家の村野藤吾が設計した東京銀行宝塚クラブハウス(上の地図の )が建っていました。右の小さな写真が東京銀行宝塚クラブハウスですが写っているのは私の両親と姉と私です。私は1月生まれなので6~7ケ月目ぐらいだと思います。郵便ポストのところを右に曲がってすぐに左の道に入って突き当りに宝塚クラブハウスが建っていましたが、今はありません。
上の写真の右上の写真は小さくて見えにくいので一部分を拡大いたしました。クリックすると全体を表示するので、建築家の村野藤吾が設計した建物がもう少しわかると思います。写っているのは私の両親と姉と私です。私の小さいときの記事にも記載しています。この場所は長く探せなかったのですが、宝塚市の職員の方などの協力を得て探すことが出来ました。そんな経緯から母と姉とは別々ですが、この場所に行って記念写真を撮りました。この写真を撮って1~2年後に父の転勤で広島に移り、私が小学4年の時にやはり父の転勤で関西に戻ってきて、一旦神戸市東灘区の岡本駅近くの社宅に住むことになりました。
急な上り坂になってきました。場所は宝塚市紅葉ガ丘3で、近くに甲子園大学がある場所です。すでに230m手前から宝塚駅からの六甲山縦走コースに合流しています。
少し歩くと山道になってきました。ただし塩尾寺(えんぺいじ)までは車が登れる道です。
山道の途中に広い広場がありました。広場の名前は塩尾寺休憩所で、白鳥大神が祀られていました。他にも祠がいくつかありました。急な上り坂になって塩尾寺までの中間地点でしょうか。ここから塩尾寺までは750mくらいです。
塩尾寺休憩所から撮った写真です。右の道を登ってきて左の道を登りました。少し行ったところに塩尾寺まで700mと書かれた石柱が立てられています。
塩尾寺までの間に展望台がありました。ここから先の岩倉山までは日が当たらない林の中を歩くことになります。今回は、それが少し問題でした。
塩尾寺の入口に着きました。左の塩尾寺と書かれている前を左に上ると六甲山頂の方向ですが、境内に入って少し休憩いたしました。
こちらが塩尾寺です。鐘楼の前の椅子に座って持ってきたお茶とチョコレートを食べました。
六甲縦走路の登山道に入ります。塩尾寺のより先のこの細い道を歩くのは数十年ぶりです。走破距離56kmの六甲全山縦走大会に参加して以来のことなのです。塩屋を5時05分に出発して宝塚駅に14時15分に到着したので、56kmを9時間10分で歩いたことになります。ただし、年々競争がエスカレートして6時間で走る人が出てきたことから、予定より早く着く人にはチェックポイントの休憩が義務付けられていることから実質は8時間20分でした。
上の写真の案内標識の部分を拡大しました。六甲山最高峰まで10.5kmと書かれています。
上り坂は岩だらけの道や
すり鉢のような道が続きました。この辺りから、ちょっと失敗したことに気が付きました。ダウンのチョッキにダウンのジャケットを着てきたのですが、ものすごく空気が冷たいのです。失敗は手袋を持ってこなかったことと、魔法瓶は持ってきたのですが、熱いお茶ではなく冷たいお茶を入れてきたことでした。仕方がないのでチョコレートを食べながら歩きました。
塩尾寺を出発してから最初の目標値の砂山権現に着きました。鳥居と石の祠ずありましたが、境内がきれいに掃かれていたのに驚きました。これほどきれいと言うことは、ここまで歩いてきて頻繁に掃除に来られているのだと感じました。
石の祠も少し変わった形の趣のある立派なものでした。ヘリコブターを使わないで、これを持ってくるのは、歩いて来るしかないので大変だったと思います。
六甲山縦走路を進みました。道は平坦になってきたので岩倉山の山頂に近くなってきたことを感じました。
ところが雪が残っているほどの寒さでした。
標識は充実していました。
さらに進むと「←この先展望良」と書かれた標識がありました。歩いた距離の感じでは目的地の岩倉山反射板があるところではないかと感じました。標識の下に手書きで「→岩倉山山頂」と書かれていたので、確信して左に曲がって進むことにしました。右に曲がって少し登ると岩倉山山頂のようです。いつもだったら岩倉山山頂に行ってから、岩倉山反射板の方に行くのですが、寒かったので岩倉山反射板に直行することにしました。標識の右側をまっすぐに伸びている道は六甲山縦走路です。
標識の別の面を見ると「↑岩倉山反射板を経て猪谷、ゆずり・・」と書かれていました。石のために「ゆずり・・」の「・・」は確認できませんが近くの地名の「ゆずり葉台」と思われました。これで岩倉山反射板から下りれる道があることが判りました。標識の矢印(↑)方向の道を進みました。
岩倉山反射板とは反対方向へは岩倉山山頂へ登る道がありました。写真の右上辺りが岩倉山山頂だと思います。
これが岩倉山反射板に行く道です。
反射板が見えてきました。四角の反射面は左奥方向に向いています。
表側に回り込みました。
確かに素晴らしい景色でした。こちら方向に通信用の電波を反射させているのだと実感しました。温かい太陽の日差しが当たっているので寒さの件も解決しました。暑いくらいでした。
せっかく、この反射板の写真を撮りに来たのでいろんな角度からの写真を紹介したいと思います。ただし、周りには木が沢山生えているので、全体が写る角度は限られています。
これが岩倉山反射板の全景です。全体にこげ茶色の錆止め塗装が塗られていました。岩倉山反射板は阪急電鉄が所有しているもので独自の通信網の中の無線通信の設備の1つだそうです。駅同士の連絡のように陸上の設備同士の場合は有線の設備で出来ますが、動いている電車との連絡は無線になります。地上からの電波をこの反射板で反射させて通信を行うことから反射板と名前がついているのだと思います。電波の発信設備と違い電源もメンテもほとんど不要なことから反射板が採用されているようです。
上の写真では鉄塔の一部が木に隠れているので、すべてが見れる角度からの写真も紹介します。
木が周囲に沢山あるので、離れて撮れないために全体がすべて見えている横長の写真は撮れませんでした。上の半分の横長写真です。
反射板の部分だけの写真です。スマホのように公共の通信を活用する方法もあり得ることですが、スマホで頻繁に通信障害を起こしている現状や、災害時に予想される通信障害から、昔からの独自の通信網を維持しているようです。
下から見上げた写真です。
上野写真と似たアングルですが、反射板の真横から撮りました。
少しで全体が入った横長の写真を撮ったつもりです。
離れると木で隠れる部分が増えます。
帰る方向の最後の写真です。つまり南側から登ってきた場合に見える最初の岩倉山反射板です。
ここから帰る道を紹介していきたいと思います。
雑木林の中を下りていきます。
突然左右に同じ程度の道で分かれるところがありました。そこにテープ道しるべが書かれていたので、この行者山への矢印の方向の道を選びました。
十字路になったところに下りてきました。まっすぐに進むと行者山で。右に登っていくと、ゆずり葉台か、上で分かれた道に戻るようです。左方向の道が、私が目指す光ガ丘です。
行者山方向のところにハイキングコースの地図が立てられていました。私が目指す光ガ丘の方向も柱に書かれていました。
ボールの先の地図を紹介します。行者山をハイキングする人達のために整備されているようです。
私が下りてきた道は現在地から右下に伸びている破線だったのです。私は現在地から左に進んで光ガ丘に向かうので、正規の道よりもかなり短くなったようです。行者山には2015年に行ったことがあり正月の記事で報告させていただきました。その時も同じ十字路から光ガ丘に帰りました。
2015年に逆瀬川の支流の白瀬川辺りから行者山に登って、今回のように光ガ丘に下りた時のルートを紹介します。上の案内板とは上下が反対の地図です。赤色で点滅しているところがその時に歩いたルートです。この地図の左上から光ガ丘口までのルートが今回と同じです。案内板の左上端の上方向(北方向)、正確には行者山の真北に岩倉山反射板があります。
光ガ丘方向の道は谷を歩いて下りる感じでした。雨が沢山降ると水が流れるのだと思います。ネットでの記載の中で「②光が丘コース:光が丘住宅北西(行者山光が丘口標柱)→猪谷→行者山下→岩倉山西方の縦走路」と書かれていたことから、この谷が岩倉山の標識に書かれていた猪谷ではないかと想像しています。さらに「支多々川源流の猪谷」と書かれているサイトもあったので間違いなさそうです。
しばらく行くと谷から離れます。
両側が谷になった尾根を歩きました。
大きな砂防ダムのところに出ました。下流側を鉄砲水から守る設備です。
砂防ダムの名前は西山堰堤となっていました。兵庫県が木島組に施工させたようです。設備工事の種類は通常砂防工事と書かれていました。
上の方の猪谷は水は全くありませんでしたが、住宅地に近くなったところでは水が染み出てきていました。
住宅地の支多々川の最も上流になります。
光ガ丘に出てきました。近くに光が丘中学校がありました。
実家に帰る途中には宝塚聖天さんがあるので寄ってから帰りました。
今回は一部だけですが懐かしい六甲山縦走路を歩いたので、参考に私が歩いた時の六甲全山縦走のコースを紹介します。岩倉山反射板は⓫と⓬の間にあります。山の部分に深緑色のマーク( )をプロットいたしました。時々表示される深緑色マーク( )群の最も右側(宝塚寄り)が岩倉山です。マークの数は25個になりました。プロットしてみることで、沢山の山を登り下りしたことを実感いたしました。25個の内訳は16個が上で紹介の名前が分かっている山で、9個が等高線から山と判断していますが、名前が分からない山 1 ~ 山 9です。画面内の❶~⓬は私が歩いた時の市民大会の右の参加証のチェックポイントです。本画像は10枚のGoogle地図のハードコピーを3秒間隔で表示させています。このコースを8時間20分で歩いたわけです。私が六甲山縦走路を歩いた時代の出発地点は塩屋駅でコースは56kmの距離でしたが、現在は須磨浦公園駅が出発の44.9kmになりました。その44.9kmの場合の上りの累積高さは3165mになるそうです。クリックするとGoogle地図で表示します。
上の六甲山縦走路(━━)の地図を拡大して今回の辺りを表示させました。岩倉山の下(南)すこし右(東)の空色の点が岩倉山反射板が建っている場所です。
タグ:六甲山
広島での初めての従妹夫婦との食事会 活きウマヅラハギ 海の幸・磯の坊 [広島]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2024年の3月に関西から関東の自宅に帰る時に、お彼岸(3月17日~3月23日)には少し早かったけれども山口県の周防久保の墓参りをしてから帰ることにいたしました。すでに紹介したように、いつもならば、徳山まで新幹線で行き、そこから周防久保駅の近くの墓参に行くにはバスかタクシーかJR岩徳線で行っていました。それ以前、母が長時間歩ける場合は新岩国まで行き、叔父さん(母の弟)の車で周防久保の墓まで往復してもらっていました。今回は広島に住んでいる従妹が車で広島と周防久保を往復していただくことになり、墓参りをして広島に戻って昼食で一緒に広島のお好み焼きを食べて、原爆ドームや平和記念資料館や縮景園を案内してもらいました。そして前々から約束していた「広島で一緒にお酒を飲む」を実現させてもらいました。タイトルで「広島での初めての」と入れさせていただいたのは、今までに従妹夫婦とお酒を主体とした夕食を一緒にしたことがあったのは下関で1度だけだったからです。昼食では、法事などで下関や岩国や徳山や周防久保などで数回ありました。上の写真はこの日のメインデッシュは、水槽か生簀で泳いでいたウマヅラハギ(フグ目カワハギ科)です。
従妹夫婦は広島駅から歩いて10分の最高の場所に住んでいて、美味しいお店も沢山あると思いますが、この日は日曜日でオフィス街の飲食店の多くはお休みの中で選んでもらったのが、下記の海の幸・磯の坊でした。お店の写真を撮り忘れてしまったのでGoogleマップのストリートビュー(SV)で紹介します。このお店は広島駅にも従妹夫婦の家にも近い場ででもありました。
写真を撮る前に乾杯して飲んでしまいました。
こちらがお店の生簀と水槽です。水槽にはウマヅラハギが沢山泳いでいます。生簀には平目や鯛などが入れられていました。かなり大きな魚も入っていました。生簀があるお店に入ったのは久しぶりでした。右の生簀の写真をクリックすると特別に大きく拡大するので、中の魚が判ると思います。
こちらがお通しです。
こちらのじゃこ天は絶品でした。従妹夫婦は良く知っているので美味しいものを選んでくれました。おろし生姜ではなく、辛子なのが印象的でした。
広島と言えば牡蠣です。牡蠣フライも出てきました。やはり美味しかったです。
こちらは私が希望したものです。活きアジがあるのでつい注文してしまいました。さすが瀬戸内海です。
そして、ついにウマズラハギが出てきました。やはり活きカワハギ系の刺身は美味しいです。魚を捌くのに時間がかかるので私が着く前に最初に注文したそうです。そのほかは私が着いてから注文しましたが、それでも付出し(お通し)を除いてウマズラハギの前に3品出てきました。
お魚の上に乗っているのは肝だと思われます。さすが水槽か生簀で泳いでいただけのことはあり新鮮でした。ウマズラハギの分類を紹介します。
ウマズラハギは地方によっていろんな呼び方があります。カングリ(秋田県男鹿半島付近)、ゲンパ(千葉県)、コウグリ(新潟県)、コウゴリ/バクチコキ(富山県)、ウマヌスト(三重県)、ウマヅラハゲ/だいなんはげ(和歌山県)、オキアジ(鳥取県)、こきめんぼう(島根県浜田市・山口県下関市)、ツノギ(岡山県)、ハゲ(広島県)などです。右下の写真はフリー百科事典のWikipediaから転用させていただいたウマズラハギとカワハギです。
界 動物界 Animalia
門 脊索動物門 Chordata
亜門 脊椎動物亜門 Vertebrata
綱 条鰭綱 Actinopterygii
亜綱 新鰭亜綱 Neopterygii
上目 棘鰭上目 Acanthopterygii
目 フグ目 Tetraodontiformes
科 カワハギ科 Monacanthidae
属 ウマヅラハギ属 Thamnaconus
種 ウマヅラハギ Thamnaconus modestus
漢字 馬面剥
別名 鑢魚/ヤスリウオ(皮膚をヤスリとして利用)
英名 Black scraper
いろんな部位が楽しめます。表面をあぶってたたきに下のではないかと思います。さすがカワハギの種類で活魚なので歯ごたえがありました。
薄造りの身の上に乗っているのは白子だと思います。
薄造りの美味しさを感じていただけるでしょうか。数十分前には泳いでいたウマヅラハギです。
水槽はカワハギが主に入れられていました。
もちろんビールは追加しました。今度は飲む前に写真を撮りました。
こちらは追加で頼んだイワシの天婦羅でしょうか。新鮮な魚の熱々の天婦羅はやっぱり美味しかったです。
日本酒も飲みました。広島の亀齢酒造のお酒なまちょです。地元の冷酒はやっぱりよかったです。広島はどちらかと言えば「柔らかな甘口」が多いそうですが、このお酒は「すっきり辛口」でした。
名前 亀齢酒造株式会社
住所 東広島市西条本町8番18号
電話 082-422-2171
杜氏 西垣 昌弘
創業 1898年(明治31年)
屋号 吉田屋
商号 亀齢(キレイ)
SV https://maps.app.goo.gl/HwMeSD39hNt96cWZA
つい玉子焼きも頼んでしまいました。
お店を紹介します。広島駅の北口から海の幸・磯の坊( )まで徒歩で402mです。海の幸・磯の坊から泊まったホテル( )までは558mで、泊まったホテルから駅の北口まで324mでした。
名前 海の幸 磯の坊
住所 広島県広島市東区光町1-8-11
電話 082-263-6220
営業 11:30〜13:50 17:00〜23:00
定休 無休
位置 海外も含めて食事したレストランの地図で表示→ポチッ
参考に食事したレストランの地図を紹介します。レストランのアイコンをクリックすると掲載した記事のURLを表示します。食事した話題性のあるレストラン国内320店、海外188店の、合計508店をプロットしています。
縮景園 [広島]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
広島の平和公園で原爆ドームや平和記念資料館の次に従妹夫婦に案内してもらったのが、下記のように今年で404年の歴史がある縮景園(しゅっけいえん)でした。現在は日本庭園として有名ですが、起源は元和6年(1620年)に広島藩浅野氏初代藩主(大名)である浅野長晟が命じて作らせた藩主の別邸でした。1940年(昭和15年)に浅野家が広島県に寄贈したことで現在に至っているそうです。
正式名が縮景園となったのは1951年ですが、Wikipediaによれば、1700年代初頭には庭園を縮景園と呼んでいたと推測されているようです。上の写真は園内の超然居(ちょうぜんきょ)から跨虹橋(ここうきょう 俗称:太鼓橋)方向を撮った景色です。記念写真を撮っている家族の光景がほほえましいです。
歴史 1620年(元和6年) 藩邸(別邸)として着工 名称:泉水屋敷
1758年(宝暦8年) 宝暦の大火(広島大火災)で建物の多くが消失
1783年(天明3年) 京都の庭師清水七郎右衛門を呼び寄せ大改修
1913年(大正2年) 一般公開
1940年(昭和15年) 浅野家から広島県に寄付 県の公園となる
1945年(昭和45年) 原爆により壊滅的被害(爆心地から約1.35km)
1949年(昭和24年) 復旧開始
1951年(昭和24年) 縮景園と改称され再開園
1970年代 復旧工事完了
縮景園入口の門です。平和公園近くの駐車場から従妹夫婦の車でこの写真を撮った縮景園の駐車場に移動しました。写真の縮景園の入口の門は冠木門(かぶきもん)と呼ばれる形式です。両側の2つの門柱に冠木といわれる横木(梁)を渡した屋根がない門です。
形式 池泉回遊式庭園 大名庭園
面積 4.76ha(47600㎡/14399坪)
住所 広島市中区上幟町2-11
電話 082-221-3620
管理 広島県
開園 3月16日~9月15日 9:00~18:00
9月16日~3月15日 9:00~17:00
入園 一般:260円 高・大学生:150円 小・中学生:100円
HP https://shukkeien.jp/
こちらが入園券売場でいただいた縮景園の案内図です。参考に4種類の散策コースが書かれていました。
━━ じっくりコース 基本順路50分
━━ 西回りショートコース 西回り・30分
━━ 東回りショートコース 東回り・30分
━━ 車椅子コース
上の案内図には散策の4種類の推奨コースが書かれていますが、我々が歩いたのは下記の地図の臙脂色ライン(━━)です。
泉水屋敷(縮景園)の文字が確認出来る、寛永年間(1624年~1644年)の広島城下絵図を紹介します。赤色ラインで囲ったところが泉水屋敷です。絵図には御泉水屋敷と書かれています。泉水屋敷が着工したのは1620年なので泉水屋敷の最も初期の状態と思われます。作庭した当初の庭は御泉水と称し、池の中央に長い欄干橋を架け、橋の対岸には山を築き、橋の左右に一対の島を配し、橋の袂に数寄屋設けていたそうです。現在と違い植え込みは少なく、人の侵入が判るように築山のほとんどが芝生の山だったそうです。ほぼ現在の姿になったのは天明3年12月(1783年)~天明8年8月(1788年)の「天明の大改修」だそうです。
絵図はWikipediaから転用させていただきました。
こちらが入口の門くぐってところから見える景色です。まっすぐの道の突き当りに清風館が見えます。
上の写真のまっすぐな道の途中から右に入って芝生広場の方を見た景色です。
こちらは清風池だと思われます。
3月だったので植木の防寒対策の「こも巻き」が残っていました。
こちらが清風館(せいふうかん)です。数寄屋書院造りで屋根は杮葺き(こけらぶき)なっています。
池を挟々亭(ゆうゆうてい)が見える景色です。挟々亭は茅葺きの四阿(あずまや)で古くは歌会や納涼茶会などが行われていたそうです。池の名前は濯纓池(たくえいち)です。
天明の頃(1783年~1788年)に7代藩主の浅野重晟が庭師の清水七郎右衛門に造らせた跨虹橋(ここうきょう)です。地上と天上を結ぶ虹に例えられているため、橋が大きく反っている構えになっているそうです。右の反対サイドの写真は旅行+フォトウエデングのサイトから転用させていただきました。
幼稚園時代に、私と従妹がこちらの構図で写真を撮ったそうなので、同じ構図で記念写真を撮ってみました。
跨虹橋(ここうきょう)の頂上から撮った景色です。松が2本植わった小さな島にも水心島(すいしんとう)という名前が付けられています。濯纓池(たくえいち)に橋や沢山の島島が作られているのは、浅野藩は参勤交代で大阪までは船を用いたことから、船上より眺めた瀬戸の景色を7代藩主の浅野重晟の大改修時に反映されたようです。
跨虹橋から降りた場所から撮った池の景色を3枚紹介します。四阿(あずまや)がある景色です。
松と水が美しい景色です。右端の松の影に東屋らしいものが写っています。 椅子に座って景色をゆっくり眺めることが出来る駐杖榻(ちゅうじょうとう)だと思われます。縮景園には少なくとも4,826本の樹木があると言われているそうです。被爆樹木つまり戦前からある樹木が3本でその他は戦後に植えられたものだそうです。主要樹木は、クロマツ6.9%、ヤマモミジ2.7%、クスノキ2.5%、ソメイヨシノ2.0%だそうです。
松のはえている浮島を拡大しました。このような鶴島や亀島が12余り造られているそうです。ネットなどによると西池には超然居(ちょうぜんきょ)、積翆島(せきすいがん)、緑蘋洲(りょくひんしゅう)、蒼雪島(そうせつとう)、蘭舟嶼、滴翆島(てきすいとう)、水心島(すいしんとう)で、東池には清漣島(せいれんとう)、小蓬莱(しょうほうらい)、緑亀島、烟霞島、昇仙島、望春島です。
島の位置が分かる案内図をネットから転用させていただきました。画面をクリックして拡大すると島の名前が読み取れると思います。超然居、積翆島、緑蘋洲、蒼雪島、蘭舟嶼、滴翆島、水心島、清漣島、小蓬莱、緑亀島、烟霞島、昇仙島、望春島と13の島が確認できます。
池には沢山の錦鯉が泳いでいました。
驚いたことに池には海(汽水域)に住む魚も泳いでいました。写真の魚はボラのようでした。チヌ(黒鯛)に似た魚も見かけました。池は汽水域の川とつながっているそうなのです。Wikipediaで調べてみるとチヌ(黒鯛)は淡水域まで遡上することもあり、川鯛と呼ばれる地域もあるそうです。
これが京橋川(太田川水系の分流)とつながっている水門と思われます。
原爆により園内で命を落とした被爆者の遺体の大部分は火葬されましたが、火葬されず園内の丘に埋葬され遺体もあったと伝えられていたことから発掘が行われたけれども見つかりませんでしたが、被爆直後に縮景園を訪れた朝日新聞の松本栄一カメラマンが被爆して枯れた木の根元に遺体が埋葬された旨を記した立札を撮影した写真が見つかったことからことから1987年に再度発掘調査が実施され64柱の遺骨が発見され、その場所に下の写真の慰霊碑が建立されたそうです。慰霊碑の背景は京橋川です。右の写真は原爆で被害を受けた1945年11月頃の縮景園です。
慰霊碑から明月亭方向を撮りました。
こちらが明月亭です。
別の角度から見た明月亭です。内部には茶室、控之間、水屋之間、玄関之間あり、数寄屋造りで、一部書院造りの様式を持っているそうです。屋根は茅葺で、庇は杮葺きです。窓枠に牛車の車輪を用いたデザインで数寄を凝らしています。
明月亭あたりからの景色です。
先ほど川側の水門を紹介しましたが、こちらは池側の水門です。
白龍泉の説明書きがありました。これによると1807年(文化4年)に牛田山の清水谷から取水管で白龍泉や超然居に水が湧き出るようにしたそうです。ただし現在は井戸水を使用しているそうです。
こちらが白龍泉の水だと思われます。
水の流れを追ってみました。
「御腰掛なば石」の説明板がありました。茸に似た自然石を腰掛石としたもので、江戸時代に土佐国から持ち帰ったものと伝えられているそうです。肝心の「御腰掛なば石」の写真を撮り損ねたので右にネットから転用させていただきました。中国・九州地方では茸のことを「なば」と言うそうです。
最も北西方向から池を見た景色です。左側が古松渓(こしょうけい)です。
こちらが夕照庵(せきしょうあん)です。東方向から見た夕照庵です。
上の写真の反対側(西方向)から見た夕照庵です。茶室です。
馬の調教訓練に用いた調馬場の跡の横には梅林が広がっていました。
縮景園の中で最も人が集まっているように感じた場所です。写真の中の四阿(あづまや)があるところが超然居(ちょうぜんきょ)です。そこは園内最大の島で、園内の池が広く見渡せる場所でもあります。
超然居からの景色を4つ紹介します。こちらは跨虹橋(ここうきょう)がある方向の景色です。
上の写真の少し左側の景色です。第7代藩主の浅野重晟(1743年~1814年)は隠居後に頼春水(1746年~1816年)や梅園大嶺に縮景園名勝と縮景園八勝の計38ケ所の景観を選定させたそうです。縮景園八勝は岡岷山(1734年~1806年)が描いた縮景園八勝図が残っているそうです。縮景園八勝図は長汀桃花/長堤桃花(右の写真)、池亭納涼、松間明月、連峰積雪、前川行舟、隴畝烟雨、晴窓眺望、宮岳彩雲です。
さらに左側の景色で、池の最も西側の景色です。
こちらは跨虹橋から右側の景色で、大きな建物が清風館(せいふうかん)です。
右の写真の跨虹橋(ここうきょう)から撮った写真から切り取って露出調整した超然居(ちょうぜんきょ)です。この超然居(ちょうぜんきょ)から上の4枚の写真を撮りました。右の跨虹橋は超然居から撮った写真(冒頭の写真&4枚上の写真)から切り取りました。
左端に超然居(ちょうぜんきょ)の四阿(あづまや)の一部が写っています。観瀾・洗心の両橋で結ばれ人里離れた静寂な場所を表しているそうです。周辺の模様は、上田宗箇の代表的な作意であると言われており、清水七郎右衛門は上田宗箇の意思を尊重して縮景園の大改修でも、ここは手を加えなかったと言われているそうです。
小舟も景色の一部になっているようでした。
変わった形の石灯籠がありました。楊貴妃型石灯籠です。右の説明板には「形が唐の楊貴妃(ようきひ)が付けた冠に似ていることから、この名が付きました。同じ形のものには、京都市大徳寺内の聚光院(じゅこういん)にある千利休の墓があります。この二つが楊貴妃型と言われる貴重なものとされています。」書かれていました。
清風館(せいふうかん)に戻ってきました。
清風館の正面側に来ました。
後ろを見ると入口の冠木門(かぶきもん)がありました。ここを出て広島駅前のホテルに送ってもらい、いったん休憩して18時20分から海の幸・磯の坊で一緒に夕食を楽しみました。
入園券売場でいただいた縮景園の案内を紹介します。
詳しい説明も書かれていて参考になりました。いろんな外国語の案内が用意されていました。
母の日プレゼントのマーガレット・バブルガム・ブラスト(Margaret Bubblegum Blast)を地植えにしてみました。 [植物]
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上の写真は昨年(2023年)に私の家内が、私の母に送った母の日(2023年5月14日)のプレゼントとして送ったマーガレットの鉢植えです。家内からの母の日のプレゼントとして花の鉢植えは良く送っていましたが、マーガレットは初めてでした。今まではカーネーションやアジサイやランでした。ちなみに今年に家内が送った母の日(2024年5月12日)のプレゼントは右の写真のカーネーションでした。ランに関しては鉢植えのまま飾っていますが、カーネーションやアジサイは母の日が過ぎると庭に地植えにしてきました。したがって実家の庭には今までの母の日のプレゼントの花が植わっています。
はじめてのマーガレットも母の日が過ぎたので、実家の庭に植えてみることにしたのです。マーガレットの分類を紹介します。マーガレットの原産地はカナリア諸島で、17世紀末にヨーロッパへ渡り、日本には明治時代末期に伝わり、大正時代から幅広く栽培されるようになったそうです。マーガレットの和名は木春菊(モクシュンギク)だそうです。今回のマーガレットの栽培品種名は「マーガレット バブルガム ブラスト(Margaret Bubblegum Blast)」でした。2020年2月の時点においてモクシュンギク属(Argyranthemum)には23の種が登録されています。その中の一つの品種であるマーガレット(モクシュンギク)だけでも、黄色やピンクのもの、八重咲き、丁字咲きなど多くの栽培品種があるそうです。
界 植物界 Plantae
門 被子植物門 Magnoliophyta
綱 双子葉植物綱 Magnoliopsida
亜綱 キク亜綱 Asteridae
目 キク目 Asterales
科 キク科 Asteraceae
亜科 キク亜科 Asteroideae
連 キク連 Anthemideae
属 モクシュンギク属 Argyranthemum
種 モクシュンギク Argyranthemum frutescens
英名 Marguerite(マーガレット) Marguerite daisy
和名 木春菊(モクシュンギク)
これが2023年5月15日に植えた母の日のプレゼントのマーガレットです。
そして今年(2024年)に見事に花を咲かせてくれました。こちらの写真は2024年4月15日に撮ったものです。
それも見事に大きな株に育って沢山の蕾を付けてくれました。写真は2024年4月19日です。
5月に入ると満開に近くなりました。写真は2024年5月06日です。4月に咲いた花も枯れていないのには驚かされました。
そして母の日の前日の2024年5月11日には全ての花が咲いて満開になりました。つまり満開になる日が'母の日'だったのです。まさに母の日のための花と言えるのかもしれません。咲き始めは赤紫色に近いローズピンク色で、濃いピンク色→淡いピンク色に変化しました。
別の角度から撮った写真です。花数はざっと見て400以上だと思います。時間をかけて満開なになったのに個々の花の寿命は長いようで、枯れた花はほとんどありません。したがって満開時は白っぽい花が比較的多くなりました。
母の日から18日目の5月30日のマーガレットです。植えた場所(実家)は兵庫県宝塚市です。
来年のために剪定した写真です。驚いたことに株が広がったのではなく枝が大きく育っていただけなのです。茎が太くなり木質化しているのが判っていただけると思います。これが和名の木春菊の由来なのかもしれません。
来年の形も考えてさらに強く刈り込んでみました。来年が楽しみです、
今までに母の日のプレゼントとして送った紫陽花の写真も紹介します。その時に地植して、今年咲いた紫陽花です。
タグ:花
広島平和記念資料館 [広島]
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広島駅から歩いて5分ほどのところに住んでいる従妹と山口県の墓参りに行き、広島で昼食に広島のお好み焼きを食べた後に従妹夫婦に広島市内を案内してもらいました。案内してもらったのは原爆ドームを含めた平和公園と縮景園でした。原爆ドームから原爆死没者慰霊碑あたりまでは、記事「原爆ドーム」で紹介させていただいたので本記事では広島平和記念資料館を紹介したいと思います。沢山の人が見学されていながら、会話している人もほとんどおられないほど、静かな雰囲気のため、私も限られたところしか写真が撮れない気分だったので、紹介も限られたものになっております。そんな中でこれだけは紹介したいと撮った動画が、原爆投下の瞬間をプロジェクションマッピング映像で表現したものでした。是非ともプレーボタン( ► )クリックしてみてください。最後まで行くと頭から永遠に繰り返すように設定しています。
先ずは広島平和記念資料館の場所を紹介したいと思います。
紫色に着色した建物が広島平和記念資料館です。緑の線の最も北に原爆ドームがある配置です。一直線上の途中に右の写真の原爆死没者慰霊碑があることは有名です。
写真中央の中2階の建物が広島平和資料館で、見えているのは一部です。写真の左側に資料館東館があり、そこに目玉展示の「ホワイトパノラマ」があります。そこに資料館の入口があるのでとりあえず行ってみました。とりあえず行くと書いたのは予約がないと入れないのではないかと思っていたためでした。入口で確認すると予約なしで見れることが分かって、見学することが出来ました。
最初は壁いっぱいの原爆投下前の広島の景観でした。一番左端の立派な建物が、現在は原爆ドームと呼ばれている右の写真の広島県産業奨励館です。
この建物の左奥(南東)方向160mの位置の真上600メートルの空中で原爆が爆発し0.2秒後には日光の数千倍という熱線に包まれ、この辺りの地表温度は3,000℃になったそうです。右の写真はWikipediaから転用させていただきました。
次に進むと、壁いっぱいの原爆投下後の様子のでした。山が写っていることから上の写真とは角度は違いますが、原爆ドームの周辺には沢山の建物や住宅がありましたが、原爆投下で消えてしまったのです。右の原爆ドームは今回の訪問で撮った現在の写真です。
さらに進むと、上の場所とは位置が違いますが、同じように沢山の建物があり沢山の人が生活していたのだと感じてしまいます。
展示室は暗くフラッシュは使えないので、写真は手振れしてしまっていますが、雰囲気を感じていただきたいので掲載しました。みなさんゆっくり見られているので行列になっていますが、順番ではないので早く進んでもいいと、係員の方から説明されました。入口まで行列になっていて、入るのに待たされるほどだったのです。
亡くなった人たちの衣服も何かを訴えているようでした。
貴重な資料も沢山展示されていました。外人の方も含めて、皆さん静かに見学されているので、雰囲気的に沢山の写真は撮れませんでした。
沢山の人が無言で見学されていました。
原爆投下前の広島の中島地区の航空写真です。
上の写真と同じ中島地区の原爆投下後の航空写真です。右方向が南で、現在のこの場所は平和公園です。平和記念資料館は右端に縦に通っている道路の左側に建っていて、原爆死没者慰霊碑が写真の真中あたりに建てられました。
上の2枚の航空写真は真上からではなく西北西方向から撮ったものなので、現在のGoogleマップの真上からの航空写真を回転して縦横比を調整しました。こうすると同じ場所だと分かっていただけると思います。紫色に着色した建物が平和記念資料館です。
右の小さな航空写真は縦横比は1:1、つまり縦方向を圧縮していない真上から航空写真です。画面をクリックするとGoogleマップのオリジナルを表示します。
戦争や原爆開発などの展示もありました。クリックすると書かれている内容が読める大きさに拡大いたします。
原爆によって廃墟となった広島の写真とともに、同じく原爆によって廃墟となった長崎の写真も展示されていました。
こちらが広島です。クリックすると特別に大きく拡大するので悲惨な破壊をより感じていただけると思います。中央あたりに原爆ド--ムがあります。10枚上で紹介した右の写真と比べていただくと原爆による破壊のすごさが判ると思います。右の写真の襞の端が原爆トーム(広島県産業奨励館)です。
長崎の原爆で廃墟になった写真も正面から紹介します。こちらもクリックすると特別に拡大するので悲惨な破壊がより感じていただけると思います。
冒頭で紹介したプロジェクションマッピング映像の動画をあらためて紹介します。本投影はこれまでの実績や経験を活かして2022年2月21日から稼働開始した新しい投影システムだそうです。資料館入口のあった広島平和記念資料館東館にありました。
上の動画のプロジェクションマッピング映像での原爆投下前と投下後を8秒ごとに表示させています。黄色の矢印(↓)が原爆ドームの位置です。明るい画面が原爆投下前で、暗い画面が原爆投下後の映像です。
原爆投下後の市内の様子の映像(Wikipedia)→動画
CRTモニターで世界の核弾頭数の表示がありました。左下に2023と書かれているので、2023年の時点だと思います。気になっていた北朝鮮は30の核弾頭を保有していると表示されていました。
広島平和記念資料館の2階から原爆ドーム方向を撮った写真です。原爆ドーム、平和の灯、原爆死没者慰霊碑などが一直線に並んでいます。
お宮参りの後の食事会 とうふ処 小川家 大山豆腐 [日々]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2024年5月9日(木)は、比々多神社(ひびたじんじゃ)でお宮参りを済ませた後は大山(おおやま)の参道(こま参道)にある「とうふ処小川家」で食事会をしました。大山には、とうふ参道(とうふ坂)と名付けられた道があるほど豆腐が有名で、そこで作られた豆腐は、大山とうふと呼ばれているようです。京都で言えば嵯峨とうふのような存在でしょうか。上の写真は7品の料理の中で3品目に出てきた湯葉ですが、私が長い人生で食べてきた湯葉の中で、味や食感において、最も美味しい湯葉だったので冒頭の写真に使わさせていただきました。それでは食事会の豆腐料理を紹介したいと思います。驚いたことに料理の7品が全て美味しかったのです。食べている時、いい料理人がおられるのだと感じました。
お宮参りをした比々多神社( )と食事会のとうふ処小川家( )の位置関係を紹介します。空色マーク( )の小出とうふ店には行っていませんが、とうふ処小川家では小出とうふ店の豆腐を使っているそうです。
とうふ処 小川家 食事会
比々多神社 お宮参り
小出とうふ店 とうふ処小川家で使われている豆腐
大山ケーブル駅バス停
大山ケーブル駅 バス停から約670m
━━ 比々多神社→とうふ処小川家6km(━部分は細い道300m)
━━ こま参道 ━━ 大山登山ケーブル(800m) 右の写真→
鈴川沿いに大山板戸線(県道611号)を上って行き、県道611号の起点である大山ケーブル駅バス停(北緯35度25分18.5秒 東経139度15分15.3秒)を過ぎて、「こま参道」との分かれ道で突然に細い道になります。右側の階段のある道が「こま参道」で、左側の道が我々が車で進んだ道です。この細い道の一番上に目的地のとうふ処小川家があるそうなのです。初めてなら、細い道に車で入っていくのは少し勇気がいるかもしれません。
この場所の写真を撮り損ねたのでストリートビュー(SV)で紹介しました。
少し進んだところに車同士がすれ違うための場所がありました。ここからは完全に細い道になりました。SV
このような無余地駐車違反の注意書きがあるように車同士はすれ違いが難しい細い道なのです。もし対向車があれば、元の場所までバックするか、どこかのお店か家の駐車場に待避してすれ違う必要があるほどなのです。
テレビ番組の「ナゼそこ?」や「ポツンと一軒家」の雰囲気がしたので、とうふ処小川家に到着するまでの写真を紹介させていただきます。
まだまだ続きます。縦長の黄色い看板のところがとうふ処小川家で、この道もそこで終わります。つまり車が走れる道の一番上にとうふ処小川家があるのです。
とうふ処小川家の駐車場に着きました。階段の上の建物群が、とうふ処小川家です。こま参道との分岐点から細い道の長さは300mでした。
途中の道は狭かったけれでも、とうふ処小川家の駐車場は意外と広かったです。右端に写っている白いガードレールの道から入ってきました。
参道からの、とうふ処小川家への入口です。参道の名前は「こま参道」です。左の階段がこま参道です。階段なのこれ以上は車では上がれません。この先に大山寺やケーブルカー乗り場があります。
こま参道を正面から撮りました。こま参道の名前の由来は参拝客の縁起物「大山こま」だそうです。職人の手によって作られる右の写真の「大山こま」は、江戸時代から続く伝統的な木工品で、子どものオモチャとしてだけでなく、芯が太くよく回ることから金回りが良くなり家内安全にも通じる縁起物として、昔から人気のお土産だったそうです。
下り方向の「こま参道」を紹介します。
参道の門から入って進むと建物の入口(玄関)が)がありました。
玄関を入ったところです。江戸時代初期に創業した宿坊がルーツだそうです。料亭にシフトしたのは1970年代だそうです。そして名物の大山とうふを取り入れるなどして今に至っているそうです。
廊下の右側一番手前のふすまが開いているところが我々が食事をした部屋です。
広い個室に案内していただきました。すでに1品目が準備されていました。
さっそく座りました。座るとお茶が出されてきました。赤ちゃんは一番窓側です。
興味深そうに見ています。この時、生後44日目でした。2024年3月26日17時39分に娘の家の近くの病院(神奈川県)で生まれて、下の写真を撮ったのは5月9日13時16分なので生後44日目でした。右の写真は生まれて1時間10分後の3月26日17時49分の写真です。
料理は7品コース(梅コース)でした。料理は1品づつ出てきます。最初の料理は鍋のようでした。
表面に湯葉ができるとのせつめいだったので、豆乳鍋でした。湯豆の湯豆腐
2品目は胡麻豆腐でした。
3品目は湯葉の刺身でした。
湯葉を拡大いたしました。冒頭で書かせていただいたように、私の長い人生で食べてきた湯葉の中で、味や食感において、最も美味しいと思った湯葉です。湯葉の味がしっかりと出ていました。自家製ポン酢も良かったです。
別の角度からの写真も紹介します。
湯葉の刺身が出た時に撮ってもらった記念写真を掲載します。
右の写真も記念になります。
下の写真をクリックすると料理を拡大表示いたします。
クリックが面倒な方のためにテーブルの拡大写真を掲載しました。クリックするとさらに拡大します。車の運転者がいるので、運転者以外もノンアルコールビールとジンジャーエールです。
4品目が出てきました。お宮参りにふさわしいおめでたい器でした。
料理は、ちり蒸し豆腐でした。豆腐、海老、温泉たまご、舞茸、ゆり根などが入っていました。この料理もなかなかのものでした。
5品目は筍の白和えでした。高度があるこの場所ではこの時が筍の旬なのだと思います。今年は竹の子を食べる機会がなかったので、残念に思っていましたが、思わぬところで竹の子を食べることが出来ました。
6品目は豆腐のグラタンでした。和風を想像していて意表を突かれましたが、これは美味しかったです。ここでも料理人の腕を感じてしまいました。
豆腐が見えるように少し持ち上げました。
7品目には黄緑とピンクと白と黄のあられが使われたきれいな揚げ出汁豆腐が出てきました。美味しい色で驚かされましたが、素晴らしい味に仕上がっているので驚かされました。ここでも料理人の味の確かさを感じました。
少し食べた揚げ出汁豆腐です。クリックすると表面のあられと豆腐の食感が判っていただけるかもしれません。
最後の〆は、小エビなどを散らしたご飯と味噌汁と漬物でした。不思議とすべて食べてしまいました。
そして最後の最後に出てきてデザートです。名前は豆腐のヨーグルトいちごソースのようです。
料理は常に温かいものを一品づつ出されるので、すべての料理が並んだ写真は撮れませんでした。そこで、ネット(SHUN GATE)から写真を転用させていただきました。ただし、季節によって料理は変わるので一部の料理は違います。今回の場合は5品目の筍の白和えが違うようです。