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先日の2013年10月28日に日光の東照宮に行きました。その時の記事を掲載するつもりですが、その前に2008年11月14日に訪問した時の東照宮の写真を紹介いたします。その理由は2013年10月28日訪問時の記事を書いた時に説明いたします。
日光の東照宮は1999年12月2日で開催されたユネスコ世界遺産委員会で文化遺産として登録されました。登録名は「日光の社寺」です。
世界遺産に登録されたのは東照宮だけでなく日光二社一寺と呼ばれている地域で下記で構成されています。
 日光東照宮   (正式名:東照宮)
 日光二荒山神社(正式名:二荒山神社)
 日光山輪王寺
103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く「遺跡(文化的景観)」が登録されているそうです。
今回は東照宮を中心に見学したため二荒山神社と日光山輪王寺の写真は少なくなってますが、もう一度行き、時間を取ってじっくり回ってみる価値があると感じました。

先ずは東照宮から紹介いたします。入口の金色の葵の御紋が印象的です。これは東照宮の入口の石鳥居(いしどりい 重文)です。
ご鎮座翌年の元和4年(1618)、九州筑前(福岡県)藩主黒田長政公によって奉納されました。石材は、まず九州から船で小山まで運ばれ、その後陸路人力でこの日光まで運ばれたそうです。鳥居の奥に表門(おもてもん 重文)が見えます。


石鳥居をくぐると左側に五重塔(ごじゅうのとう 重文) が建っています。
慶安3年(1648)若狭の国(福井県)小浜藩主酒井忠勝公によって奉納されたそうです。文化12年火災にあいましたが、その後文政元年(1818)に同藩主酒井忠進公によって再建たそうです。


入口側から紹介いたします。表門をくぐると三神庫(さんじんこ 重文)があります。上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫と言い、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収いるそうです。また、上神庫の屋根下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の大きな彫刻がほどこされています。


三神庫と同じ広場にある輪蔵(経蔵)です。
2層屋根で建物の形が12m四方の正方形をしているので、重層方形造りというそうです。仏教の経典を納める経蔵ですが、建物の真ん中に一切経1456部、6325巻を納めた8角形の回転式の書架が置かれていることから輪蔵の名がついたそうです。


階段の上の陽明門の手前の豪華な建物は左側が鼓楼で右側が鐘楼です。 写真をクリックすると日本で最初に造られた青銅製の高さ6メートルの唐銅鳥居を見ることが出来ます。この鳥居は3代将軍家光公が金2000両を費やして建てた。柱の足元には、神社としては珍しい仏教様式の蓮-はす-の花弁が刻まれています。


これが左側の鼓楼です。陽明門の前に並ぶ高さ12.6mの太鼓を納める建物・鼓楼です。どの建物を見ても絢爛豪華なのが驚きでした。
神様にお参りする前に、手を洗い、口をすすぎ、心身を清める為の御水舎(おみずや 重文)でさえも絢爛豪華なのでした。


東照宮で最も有名な建物なのが陽明門(ようめいもん 国宝)です。
日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられています。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされています。
高さ11.1mの2層造り、正面の長さが7m、奥行きが4.4m。胡粉を塗った12本の柱には、グリ紋と呼ばれる渦巻状の地紋が彫られています。有名な「魔除けの逆柱」は、門を潜り終わる左側の柱。グリ紋の向きがこの柱だけ上下逆になっています。
御所十二門の内の名称を朝廷から賜ったもので、後水尾天皇の御宸筆による「東照大権現」の勅額があるので勅額門、装飾彫刻が500余りもあり1日中見て居ても決して飽きないというところから、日暮門ともいわれています。また陽明門より奥は明治維新まで庶民は入ることができませんでした。


陽明門は2体の武将像で守っています。右側の武将像です。名前は謎です。


こちらは左側の武将像です。


廻廊(かいろう 国宝)です。
陽明門の左右に延びる建物で、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られています。いずれも一枚板の透かし彫りには、極彩色がほどこされていました。こちらは右側の廻廊です。


左側の廻廊も紹介いたします。もちろん、こちらも国宝です。装飾彫刻が隙間もないほどに埋め尽くしていました。奥の建物は鳴き竜で有名な本地堂です。


石灯篭 廻廊 陽明門などが入った風景です。鳴き竜(写真禁止)の本地堂の方から撮りました。


陽明門は豪華ですが思っていた以上に小さな門でした。全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」など細かい彫刻がほどこされている唐門(からもん 国宝)もこの広場にありましたが残念ながら補修中でした。


陽明門の内側には本殿・石の間・拝殿からなる御本社(ごほんしゃ 国宝)や祈祷殿(きとうでん重文)や神輿舎(しんよしゃ 重文)があります。 写真の神輿舎には春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる、三基の神輿(みこし)が納められていました。中央の神輿が家康公、右側が秀吉公、左側が頼朝卿でありいずれも重さ1120㎏あるそうです。
天上の絵が少し写っていますが狩野了琢の筆による天女舞楽の図だそうです。


拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神のお墓所である奥宮(おくみや 重文)に通じる坂下門には有名な眠り猫(ねむりねこ 国宝)が掘られていました。眠り猫が国宝に指定されているのは東照宮で唯一の左甚五郎作と伝えられているためだそうです。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで彫られたとも言われています。眠り猫以外では「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿 や眠り猫の裏の雀 などが有名な動物の彫り物です。


奥院廟塔の銅製の鋳抜門(いぬきもん)です。下に門とは雰囲気が違います。クリックすると奥宮の拝殿を表示します。拝殿の裏に鋳抜門と奥院廟塔(御宝塔)があります。


奥院廟塔(御宝塔)です。
元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は駿府(静岡)で死去して、遺骸は遺命により直ちに駿河国の久能山(久能山東照宮)へ葬られたが、翌元和3年に下野国日光へ改葬された。同年4月に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日に奥院廟塔に改葬され、4月17日に遷座祭が行われた。


最後に東照宮の地図を掲載しておきます。



二荒山神社です。
二荒山神社は(ふたらさんじんじゃ)と読みます。日光にある男体山(二荒山、2486メートル)、峯山(2464メートル)、太郎山(2368メートル)の三つの山の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神と称し、主祭神としているそうです。


日光の名前由来もいろんな説がありますが、その一つが二荒が日光になった説で、弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられております。「二荒(フタラ)→ニコウ(音読)→日光」
ニ荒山神社は大谷川北岸に766年に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建てられたのが始まりで東照宮より遥かに古い歴史があります。
左から本殿、 拝殿、社務所です。


ニ荒山神社の横には家光廟大猷院(いえみつびょうだいゆういん)があります。大猷院廟(だいゆういんびょう)ともいわれています。
こちらは東照宮の絢爛豪華に対して幽玄とサビが自然に溶け込む雰囲気です。



日光二社一寺の一寺である日光山輪王寺です。
創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。明治初年の神仏分離令によって寺院と神社が分離されてからは、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称されているが、近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていたそうです。写真は三仏堂(重要文化財)です。