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芝山鉄道で仲間3人と「空の湯」に行く [千葉]

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クリックすると拡大以前の記事「ちょっと話題の Dining Port 御料鶴 でランチしてきました。」で紹介した仲間3人での次の飲み会は成田空港近くにある温泉「成田空港温泉 空の湯」の中にある食事処・天の川で行いました。右の写真は前回のDining Port 御料鶴で撮った3人での記念写真です。真中が私で左がA氏で左がB氏です。
レストランがある空の湯は芝山鉄道線の芝山千代田駅にあります。芝山鉄道は東成田駅(京成電鉄)から芝山千代田駅までの1区間だけの鉄道会社です。1区間だけの鉄道会社ではありますが、線路と駅と車両(リース)など鉄道施設一式を保有し旅客運輸する鉄道会社において芝山鉄道は「日本一短い鉄道」です。ただし比較対象にケーブルカー(鋼索鉄道)などは含んでいません。

クリックすると拡大一番遠く東京寄りから来るA氏とは京成佐倉駅で待ち合わせるので、先ずは快速電車に乗って京成佐倉駅に向かいました。写真は臼井駅を出発して最初の踏切の写真です。この踏切は今年の2月に掲載した「臼井城 千葉県佐倉市」で紹介しました。右の写真がその時に踏切から撮った臼井駅です。
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臼井駅は京成佐倉駅の1つ手前の駅ですが、距離の長い区間でいろんな景色に出会えます。こちらの白い円筒形の物は北海道で同じようなものを見たことがあるので、おそらく牧草を家畜のために冬に備えて丸めたものと思われます。
名前はロールベールラップサイロと呼ぶそうです。昔はサイロを使ったサイレージ化(乳酸発酵を主とする嫌気的発酵)がクリックすると拡大行われてきましたが、ラップの複層構造やギ酸添加などの工夫を行ってサイレージ化を達成できるようになったようです。右の写真は北海道の高橋牧場に行った時に撮ったラップを巻く前の干し草ロールと長男家族です。
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クリックすると拡大こちらが佐倉市の風物で有名なオランダ風車です。
この風車があるのは佐倉ふるさと広場で、4月にはチューリップフェスタ、7月にはひまわりフェスタクリックすると拡大8月には花火大会、10月にはコスモスフェスタが行われます。自転車でよく行くところでもあります。
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こちらがA氏との待ち合わせの京成佐倉駅です。こちらが私が乗ってきた京成佐倉駅に着いた快速成田空港行です。ここで待ち合わせの京成成田行きの快速特急に追い抜かれます。
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待ち合わせと言っても私が乗ってきた快速成田空港行からA氏が乗ってくる快速特急京成成田行の1号車に乗り換えるだけです。写真が京成成田行き快速特急です。乗るとすぐに出会えました。快速特急は佐倉駅から京成成田駅までノンストップです。B氏との待ち合わせは京成成田駅です。
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クリックすると拡大京成成田駅に着きました。我々が乗ってきた電車は折り返して上野行になり、それが出発すると電光掲示板のように4両の芝山千代田行が入ってきます。
京成成田駅と言えば成田山新勝寺があることで有名な駅です。右は初めて和服で成田山新勝寺に初詣に来た時の写真です。
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こちらが芝山鉄道の芝山千代田行の電車です。3人全員が集まりました。話に夢中で車両の先頭の写真を撮り忘れてしまいました。
 京成成田→芝山千代田 時刻表 平日 土曜日 日祝日
 芝山千代田→京成成田 時刻表 平日 土曜日 日祝日
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撮り忘れたのは仕方がないので、現在使われている芝山鉄道3500形電車の写真をWikipediaから転用させていただきました。京成電鉄からのリース車両だそうです。形式は芝山鉄道3500形電車で、車体カラーは赤と緑の帯が特徴です。京成電鉄の車体カラーは赤と青の帯が特徴です。
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車内にあった路線図です。左上の部分の芝山千代田(SR01)~東成田(KS44)が芝山鉄道線です。東成田にKS44の駅番号が付けられていることから東成田は京成電鉄の駅であることが分かります。つまり芝山鉄道の駅は芝山千代田の1つだけと言うことが分かっていただけると思います。
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参考に京成電鉄を中心とした路線図を紹介します。右端に芝山鉄道線が書かれています。車内の路線図とは180度回転した配置です。
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京成成田駅を出発してすぐに右に大きくカーブします。車体がかなり傾いているのが判っていただけると思います。
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ここが成田空港駅行と芝山千代田行へ分かれるところです。不思議に思われるかもしれませんが、真っすぐに行く方がクリックすると拡大芝山千代田駅の線路で、左に急に曲がっている方が乗客の多い成田空港駅行の線路です。これは線路が作られた経緯と関係しているようです。それは用地買収が難航して最終的に工事を中断(右の写真)して断念することになった、東京と成田空港を結ぶ成田新幹線の計画でした。
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さらに分岐点まで来て撮った写真です。両方ともトンネルに入ります。トンネルは空港の地下を通ります。ここはまだ京成電鉄の東成田線ですが、地下にある東成田駅から先が芝山鉄道線になります。芝山鉄道線は芝山千代田駅付近を除き路線の大部分は成田国際空港の地下を走行します。
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京成本線と書かれているところが上の分岐点の写真の場所です。下記にあるように成田空港のために最初に出来た駅は東成田駅(京成電鉄)でした。ただし、東成田駅の右下の写真の場所からバスに乗り換えて空港に行ったのを覚えています。右下の写真はWikipediaから転用させていただきました。バスが空港の敷地内に入るところに検問所があり保安チェックをしていたことも覚えています。バス移動は1991年まで続いたことになります。東成田駅は開業~1991年03月19日前日までの名前は成田空港駅でした。クリックすると拡大
 成田国際空港  1978年05月20日開港
 東成田駅    1978年05月21日開業
 成田空港駅   1991年03月19日開業
 空港第2ビル駅 1992年12月03日開業 記事
 芝山千代田駅  2002年10月27日開業


空港の地下のトンネルから芝山鉄道線が出てくるところのストリートビュー(SV)です。


トンネルを抜けると空港でした。この辺りは貨物や整備エリアだと思われます。
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芝山千代田駅に近いところからの空港の景色です。
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芝山千代田駅に到着しました。この駅には来たのは初めてでした。それだけにここに来た値打ちがありました。
芝山鉄道の車体カラーの赤と緑の帯も確認できました。
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芝山千代田と書かれた駅名標の写真を撮りました。
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改札口に来て驚きました。SuicaやPASMO(パスモ)などのICカード乗車券をタッチする場所がないのです。東成田→芝山千代田までの200円を払って外に出ました。
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処理連絡票をもらったので私の場合は、来た時に入った京成の駅に戻った時に処理連絡票を渡して清算してもらいました。
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こちらが芝山千代田駅です。日本一短い鉄道とは思えない立派な駅でした。
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駅の出口から撮った周辺の風景です。REDWOODの倉庫(物流センター)らしき大きな建物があります。調べてみるとDistribution Center(DC)つまり在庫型物流センターでした。REDWOODは2016年にESRに社名変更したそうですですが、設備名は「REDWOOD 成田 DC」です。この辺り周辺にはいろんな会社の物流センターがあります。
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遠くから撮った芝山千代田駅です。将来的には芝山町中心部を経由して九十九里海岸方面への延伸も検討されていて、実現するまでの代替処置として芝山鉄道延伸連絡協議会(芝山町・山武市・横芝光町で構成)による空港シャトルバスが横芝屋形海岸まで運行されているそうです。
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クリックすると拡大成田空港周辺の航空写真で、芝山千代田駅と東成田駅と成田空港駅と空港第2ビル駅の位置関係を紹介します。鉄道や駅の出来た複雑な関係が伝わってきます。上で紹介したように開場した順は東成田駅(1978年)→成田空港駅(1991年)→空港第2ビル駅(1992年)→芝山千代田駅(2002年)です。
 芝山千代田駅 東成田駅
 成田空港駅  空港第2ビル駅
  京成電鉄
  芝山鉄道 


東葉高速鉄道との乗換駅の勝田台駅も入った縮尺の地図も紹介します。
 勝田台駅  京成佐倉駅
 京成成田駅


歩いて空の湯に向かっています。芝山千代田駅から「空の湯」の建物までの距離は約500mです。空の湯は深さ1013mまで掘削した温泉だそうです。
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空の湯の入口に来ました。次の記事で「空の湯」を紹介したいと思います。
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アームレスリング映画 マ・ドンソク主演 ファイティン! [話題]

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先日、テレビで偶然にも腕相撲(アームレスリング)を題材とした韓国映画「ファイティン!」を見ました。上の写真の左側が主人公マーク、で演じているのはマ・ドンソク(마동석/Ma Dong-seok)です。映画のストーリーは、韓国人ですが幼いころにアメリカに養子に出されアメリカで育ってアームレスリングでチャンプにも輝いた功績を持っていましたが、協会から除名され警備員をして過ごしているところに、自称スポーツエージェントという青年と出会い韓国へ帰国して、母国で最後のチャンスへと挑む物語です。
実は、私はアームレスリング世界チャンピオンに出会って写真も一緒に撮ってもらったことがあるので、この映画が目に留まったのかもしれません「。

こちらは決勝戦のシーンです。
別の主演映画「守護教師」では女子高の正義感のある体育教師の役で活躍していました。主演映画が多いのは、持ち前の体格だけではないのだと思います。
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見事に、チャンピオンになりました。
主役のマ・ドンソクの国籍は米国ですが、1971年に韓国に生まれ子供の頃に映画ロッキー(1976年)を観てボクシングを始め、俳優を目指すようになったそうです。その後、父親の事業がうまくいかなくなったことから米国在住の叔父を頼って1989年に18歳で家族とともに移住して米国国籍を取得し、コロンバス州立大学で体育学を学び、フィットネストレーナーやボディビルダーとして活動し、1994年に米国でミュージカル俳優としてデビューしたそうです。
米国に渡るなど映画の物語と類似している面があるのが面白いです。
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1分50秒の予告編の動画です。


もう一つ動画を紹介します。5分26秒の動画ですが、後半1分50秒は上の予告編と同じです。


私がアームレスリングの世界チャンピオンに出会った経緯を紹介します。
下の写真がアームレスリングの世界大会(47ケ国参加)出場された選手の方と関係者の人たちでした。写真の中の左側の一番手前が世界チャンピオンとなった塩月勝文さんです。その時の記事→ポチッ
今から12年前の2011年12月2日に偶然がいくつも重なって、カザフスタンの最大都市アルマトイの日本食店かぶとでアームレスリングの世界チャンピオンに出会ったのです。
アームレスリングの世界大会がカザフスタンのアルマトイで行われていたことも偶然ですが、12月2日にカザフスタンのアスタナ空港からアルマトイ空港とソウル空港を経由して成田に帰るフライトスケジュールだったので、普通ならば乗継時間をアルマトイ空港で過すのが普通ですが、クリックすると拡大17時20分に到着して出発が23時15分と5時間55分の乗継時間があったことから、カザフスタンに住んでいる方のご好意により往復の車(ランドクルーザー)を段取りしたもらってアルマトイの町まで出て日本食店で夕食を食べながらクリックすると拡大乗継時間を楽しむことにしたことが大きな偶然だったのです。
今回、写真をクリックすると拡大するように設定いたしました。
 2011年12月2日のフライト
  アスタナ→アルマトイ KC854
  アルマトイ→ソウル  OZ578
  ソウル→成田     OZ102
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私も入って記念写真を撮らせていただきました。塩月勝文が右端で私は右から2番目です。左側の2人が中野三千男さんと中原誠司さんで、60歳以上で好成績でした。皆さん半袖ですが、極寒の季節なのです。私だけ厚着なのが判っていただけると思います。塩月勝文さんは翌年2012年も優勝したそうです。
左腕か右腕かまではわからない場合は空欄にしております。
 優勝   右腕70キロ級 塩月勝文
 準優勝    90キロ級 中野三千男 60歳以上
 準優勝    75キロ級 中原誠司  60歳以上
 3位     60キロ級 小寺弘士
 5位   左腕70キロ級 塩月勝文
 6位   右腕90キロ級 伊藤和也  33人エントリー
 8位   左腕90キロ級 伊藤和也  37人エントリー
大会は11月30日から12月3日まで開催され47カ国から世界の猛者約400人が参加されたそうです。正式名はXXXIII World Armwrestling Championshipsで、日本語だと第33回世界アームレスリング選手権大会です。
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左端の赤色マーク( )のところがアルマトイ(Алматы)です。青色ライン(━━)が2011年12月2日のフライトルートです。成田に到着したのは12月3日でした。我々の飛行機(OZ578)はソウル(仁川国際空港)に到着するのが遅れたので、ソウルでの成田行きの飛行機(OZ102)は待ってくれていました。こんな時は同じ航空会社(OZ:アシアナ航空/아시아나항공)なのはいいですね。→ポチッ
ちなみにアスタナからアルマトイのフライトKC854はエア・アスタナ(Air Astana/Эйр Астана)でした。
この時の旅は成田(11/26)モスクワNovosibirsk(シベリア)モスクワアスタナアクトベアスタナアルマトイソウル成田(12/03)でした。航空写真内のマイナス(-)のアイコンをクリックすると旅全体のルートが表示します。



クリックすると拡大します。この時に2人で食べたお店の料理の写真も紹介します。お店の人に、カザフスタンでこのように本格的な日本料理が食べれることに感謝です。日本人が同じ日にアルマトイの町に来ていれば、こちらのお店で出会える可能性は高いと思います。
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クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。
クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。

クリックすると拡大します。実は3ケ月前にも同じお店に来る機会がありました。その時に食べた料理も紹介します。この時の訪問先はカザフスタンとウクライナでした。その時の旅のルートは成田(2011年7月7日)→ソウル→カザフスタン[アルマトイ→アクトベ→アルマトイ]クリックすると拡大します。ウクライナ[キ-ウ(キエフ)→ドニプロ→ニーコポリ→ドニプロ→キーウ(キエフ)]→ハンブルグ→成田(2011年7月14日)です。ウクライナのニーコポリは、ロシアの侵略戦争で占領された場所に非常に近いところです。
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tarouさんのコメントで「映画でアームレスリングを見た記憶がある」とのことだったので、主演のマ・ドンソクさんが子供のころに憧れたシルヴェスター・スタローン主演の1987年公開の映画「オーバー・ザ・トップ」の動画を追加しました。

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清盛塚 第85回ハイク参加 [神戸]

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3つ前の記事「兵庫大佛(兵庫大仏) 能福寺 第85回ハイク参加」で紹介した兵庫大佛の次の目的地は上の写真の石造十三重塔の清盛塚でした。
この清盛塚は、平清盛が亡くなって105年後の弘安9年(1286年)に建立された平清盛(1118年2月17日~1181年3月27日)の供養塔だそうです。鎌倉幕府9代執権の北条貞時(1271年~1311年)によって建立されたと言われているそうです。在職期間(1284年~1301年)から見て、執権となって2年目(14歳or15歳)に建立したことになります。鎌倉から遠く離れた場所ですが、平家に対するあつかい見かねたのかもしれません。

右側の航空写真の青色ライン(━━)が今回の第85回ハイクの散策ルートです。
クリックすると拡大本記事ではの兵庫大佛を出発してからの清盛塚までを紹介したいと思います。右が第85回ハイクの全ルート()で、左が本記事のの航空写真です。右の写真は清盛塚の横に建てられている平清盛像です。
クリックすると拡大  中央市場前駅(10:50集合)
  兵庫大佛
  清盛塚(昼食)
  兵庫津ミュージアム
  淡路屋(駄菓子)
  和田岬駅(15:16)


こちらが兵庫大佛があった能福寺を出発したところの写真です。写真の左隅の黄色のラインで囲ったところが能福寺の出入口です。
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クリックすると拡大道の街路樹が純和風に手入れされている珍しい道でした。兵庫大佛(能福寺)もこの通り沿いだったので和風街路樹でした。この通りは平清盛に縁(清盛塚と墓所)があるので特別な通りのかもしれません。平清盛はこれから向かう先にあり、右の写真の墓所は能福寺の中にありました。
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反対車線側の街路樹も同じでした。街路樹の種類はイヌマキです。神戸市兵庫区三河口町~御崎本町にかけて続く古湊線に植えられて玉造仕立ての樹形だそうです。イヌマキの分類を紹介します。クリックすると拡大
 界 植物界     Plantae
   裸子植物    gymnosperms
 綱 マツ綱     Coniferopsida
 目 ナンヨウスギ目 Araucariales
 科 マキ科     Podocarpaceae
 属 マキ属     Podocarpus
 種 イヌマキ(犬槇) Podocarpus macrophyllus
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車道(横断歩道)からのこのアングルの写真を撮っていなかったので、ストリートビュー(SV)で和風の街路樹を紹介させていただきました。


兵庫大佛(能福寺)の入口の近くでは写真を撮っていたので写真で紹介します。
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兵庫大佛があった能福寺から清盛塚がある兵庫住吉神社の前までの歩いている風景を紹介します。





左側が兵庫住吉神社です。少し先に入口があります。
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こちらが冒頭の写真の清盛塚の入口です。
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中に入って入口の方を振り返ったところです。入口の石の門柱には昭和四年十二月建立と書かれています。その下には寄進された思われる三人の名前が書かれています。その左側にある大きな石碑は神戸市役所が大正十二年十月に建てた、清盛塚十三重塔の移設に関する説明碑でした。
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さらに清盛塚のある高さのところまで上がったところです。
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これが石造十三重塔の清盛塚を正面から撮った写真です。冒頭の清盛塚の写真は、この写真から切り取りました。
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清盛塚の横には詳しい説明板がありました。クリックすると読める大きさに拡大します。内容を枠内に転記する形で紹介します。今から737年前の1286年に清盛塚として造立された高さ8.5mの石造十三重の塔だそうです。
県指定文化財 清盛塚石造十三重塔
   指定年月日    昭和35年5月12日
   所有者・管理者  神戸市
 この石塔は古くから清盛塚と呼ばれ、北条貞時の建立とも伝えられててます。当初は現在地より南西11mにあり、平清盛の墳墓とも言われていましたが、大正時代の道路拡張に伴う移設の際の調査で、墳墓でないことが確認され、現在地に移設されました。
 石塔は、高さが8.5m、初層は一辺145cm、最上層は一辺88cmを測り、基礎部台石東面の両脇に「弘安九」「二月日」の銘があり、弘安九年(1286年)に造立されたことがわかります。
 石塔の隣には、神戸出身の彫刻家である柳原義達の作になる平清盛像が建てられています。今なお清盛塚は、地域の人々によって敬われ、大切に守られています。
  平成23年12月
神戸市教育委員会 岡方協議会
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拡大した清盛塚石造十三重塔を紹介します。上の説明板にあるように高さは8.5mで見上げると高かったです。琵琶塚が写っています。クリックすると面積で16倍に拡大いたします。
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クリックすると拡大平清盛の墓所と伝えられている場所で最初に出てくるのが、3つ前の記事で紹介した能福寺(右の写真の兵庫大佛のある寺)です。今回の清盛塚から490mの場所にある平清盛廟(平相国廟)です。クリックすると拡大下の写真の真中が、その平清盛廟(平相国廟)で、左の九重塔が忠快法印塔(鎌倉時代)で、右の小さな石塔が圓實法眼宝篋印塔(鎌倉時代)です。このことからも平清盛が兵庫のこの地と縁が深いことを実感しました。
「能福寺 平相国廟」以外で、平清盛の墓所とされているのは 「切戸 清盛塚 石造十三重塔(今回の記事の清盛塚)」、「六波羅蜜寺 平清盛塚」、「祇王寺 平清盛の供養塔」、「彦島の清盛塚」です。平清盛は平家が大敗した一ノ谷の戦い(1184年3月20日)の3年前に鴨川東岸にある盛国の屋敷で病死(1181年3月27日)しました。
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平清盛像と琵琶塚が見える角度です。
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平清盛像と琵琶塚を拡大しました。琵琶塚は平清盛の甥になる平経正の塚と言われているそうです。平経正は平家一門の中でも俊才として知られ、歌人として活躍したそうです。さらに平安貴族が愛用した楽器の琵琶の名手としても知られていたそうです。
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クリックすると拡大平清盛像の顔の部分です。清盛塚の横に建つ清盛像を作った柳原義達さんは1910年3月21日に兵庫県神戸市に生まれ東京美術学校彫刻科を卒業した彫刻家だそうです。この平清盛像は58歳の1968年10月に建立したそうです。
六波羅蜜寺の鎌倉時代・13世紀に造られた平清盛像の顔を比べるために美術展ナビから右に六波羅蜜寺の平清盛像の顔を転用させていただきました。
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琵琶塚の単独の写真も掲載いたします。碑の裏には「明治三十五年十一月建之 参議正三位備中権守平朝臣経盛卿嫡子但馬守平経正卿 寿永三年二月戦死」と書かれていることから、今から121年前の1902年(明治35年)に建立されことになります。清盛塚と同様に大正時代に傍の道路拡張工事に伴い今の場所に移設されたそうです。元あった場所は前方後円式の古墳で、その古墳が無くなってしまったことから、平経正の墓所は琵琶塚と言うことになるようです。Wikipediaでも平経正の墓所は「兵庫県神戸市兵庫区切戸町1-3 琵琶塚」と書かれています。平経正は源平合戦での一ノ谷の戦いにおいて、河越重房の手勢に討ち取られて寿永3年2月7日(1184年3月20日)に戦死しました。戦死場所は不明ですが生田の森を守っていたので、ここに比較的近い場所だと想像されます。
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こちらが清盛塚のある兵庫住吉神社の拝殿です。
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その拝殿の横で昼食を食べさせていただきました。日本酒とコニャックをみんなで飲みながら持ってきたお弁当を食べました。写真の左端に朱色が写っていますが、兵庫住吉神社の敷地内にある橋本稲荷大明神の柵です。
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クリックすると拡大昼食を食べて話が弾んだところで次の目的地の兵庫津ミュージアムに向かいました。そこには右の写真の初代兵庫県庁を復元した初代県庁館がありました。
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ミラノのナヴィリオ・グランデ運河(Naviglio Grande) [イタリア]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2023年11月24日再掲載
タイトル:ミラノのナヴィリオ・グランデ運河(Naviglio Grande)
クリックすると拡大前記事「兵庫運河 第85回ハイク参加」で日本最大級の兵庫運河と日本一長い貞山運河を紹介したのを機会に、私が海外で見た運河の中で最も魅力的だったイタリアのミラノのナヴィリオ運河(Naviglio Grande)の13年前の過去記事をブラシュアップ(写真など18画面追加)して再掲載したいと思います。
 2010年09月09日 初掲載 全て 0
 2023年11月24日 閲覧数:2,886 nice!:129 CMT:22 再掲載時
 2023年11月25日 閲覧数:3,066 nice!:165 CMT:32
 2023年11月26日 閲覧数:3,229 nice!:191 CMT:34
 2023年11月27日 閲覧数:3,363 nice!:202 CMT:38
 2023年11月28日 閲覧数:3,484 nice!:205 CMT:42
 2023年11月29日 閲覧数:3,573 nice!:215 CMT:44
 2023年11月30日 閲覧数:3,610 nice!:217 CMT:44 次記事掲載
 2023年12月01日 閲覧数:3,632 nice!:218 CMT:44
 2023年12月02日 閲覧数:3,655 nice!:219 CMT:44

2010年09月09日掲載
タイトル:ミラノのナヴィリオ・グランデ運河(Naviglio Grande)
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観光客の人が、ほとんど来ない場所を紹介いたします。
以前にもNaviglio Grande(ナヴィリオ・グランデ運河/ナヴィリオ運河)に来たことがあるのですが、またナヴィリオ運河にやってきました。Grande(グランデ)は大きいと言う意味で運河の意味がないけれども、Naviglioは固有名詞ですが運河の意味も含まれているようなので、Naviglio Grandeの日本語訳はナヴィリオ・グランデ運河あるいはナヴィリオ運河としました。理にかなった日本語訳のグランデ運河と表現しているサイトもありました。グランデ運河と表現するとベネチアの運河のカナル・グランデ(Canal Grande)と間違われる可能性があります。Canalの日本語訳は運河です。冬と違い、天気もいいので景色も映えます。
以前にも来た冬の時(12月)の空の色とは対象的です。ヨーロッパを旅行をする時期の参考にしてください。今回は6月でした。クリックすると拡大

水底を撮るのは難しです。いかがでしょうか。水の深さは1mくらいでしょうか。右の写真の教会の影が水面に映っています。冒頭の写真の中にも、右の教会が確認できると思います。教会の名前はChiesa Parrocchiale di Santa Maria delle Grazie al Naviglio(聖マリア・ナヴィリオ教会)です。探してみてください。
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きれいな水の運河沿いの道はワンちゃんたちの散歩道でもありました。カメラを向けていると判ると、ちゃんとポーズをとってくれました。3枚の写真を6秒 or 12秒ごとに切り替えています。ミラノのワンちゃんたち→ポチッ
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建物には花が飾られています。
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ヨーロッパらしい明るい雰囲気です。
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雰囲気を感じていただくために花が飾られた窓をアップしました。
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橋は船が通れるように地面より高くなっているために階段を登って橋を渡るのです。
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Wikipediaに掲載されていたナヴィリオ・グランデ運河の昔の写真を紹介します。2枚目の写真のように1920年頃には水泳大会も行われていたようです。最初の写真には本記事の中の写真にある聖マリア・ナヴィリオ教会も写っています。
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3つ前の記事「ミラノの路面電車」の中のこの写真はナヴィリオ・グランデ運河(Naviglio Grande)の終点のポルタ・ティチネーゼ・ドックの傍で撮った写真でした。
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その場所のストリートビュー(SV)です。左の先がナヴィリオ・グランデ運河のミラノ側の終着地点であるドック(Porta Ticinese dock)です。


ここが長さ約50kmのナヴィリオ・グランデ運河のミラノ側の終着地点であるドック(Porta Ticinese dock)のストリートビュー(SV)です。もう一方の端(出発地点)はティチーノ川(Ticino river)との合流地点です。→SV



以前の冬(2005年12月8日)にグランデ・グランデ運河に来たときの写真も紹介いたします。つまりグランデ運河には2度も訪れました。この時も底が見えるほど水は透き通っています。以前は写真をクリックしても拡大しませんでしたが再掲載を機会に特別に拡大するようにいたしました。


魅力的な家もあります。El Brellinという名のレストランです。こちらも再掲載を機会に拡大するようにいたしました。


運河の横の教会です。名前はChiesa Parrocchiale di Santa Maria delle Grazie al Naviglio(聖マリア・ナヴィリオ教会)です。こちらの写真は再掲載で追加しました。
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ミラノの中心から郊外に離れていく方向の写真です。こちらも再掲載を機会に掲載いたしました。
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ここには郊外電車で来ました。 SV1 SV2
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航空写真です。右上から左下への直線的な線がナヴィリオ運河(Naviglio Grande)です。ミラノ観光の定番のドゥオモ、スフォルツェスコ城、教会、中心部の街並み、ガッレリア( アーケード 、夜景 )、美術館などとはまた違った下町が味わいがある場所です。右下の地図の赤色ラインが運河です。クリックすると拡大
ポルタ・ティチネーゼ・ドック(Porta Ticinese dock)から南方向への運河があります。名前はNaviglio Paveseです。ミラノから東方向にはNaviglio Martesanaと言う名の運河もあります。さらに、右の地図の左端にはNaviglio Bereguardo(Naviglio di Bereguardo)があり、右上端にはNaviglio di Padernoと言う名の運河もあります。Naviglioが運河ならば、正確な翻訳ではグランデ運河、パヴェーゼ運河、マルテザーナ運河、ベレグアルド運河、パデルノ運河になるのかもしれません。パナマ運河は英語はPanama Canalですが、イタリア語ではCanal di Panama(Canal Panama)となるわけです。ちなみにイタリア語と近い言語のスペイン語ではCanal de Panamáです。

クリックすると拡大Wikipediaから郊外のNaviglio Grande(ナヴィリオ運河)の写真を転用させていただきました。そのWikipediaによりナヴィリオ運河は95年をかけて1272年に完成した古い運河であることが分かりました。
 長さ 49.9 km  高低差 34m
 着工 1177年  完成 1272年
 始点 トルナベント近郊のティチーノ川
    Ticino river near Tornavento
 終点 ミラノのポルタ・ティチネーゼ・ドック
    Porta Ticinese dock in Milan
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ミラノのポルタ・ティチネーゼ・ドック(Porta Ticinese dock)からティチーノ川(Ticino rive)までのナヴィリオ運河(Naviglio Grande)の全体を紹介します。ミラノから西に伸びてさらに北のミラノ・マルペンサ国際空港近くまで行っている臙脂色ライン(━━)がナヴィリオ運河(Naviglio Grande)です。クリックすると拡大ティチーノ川の近くではVecchio Naviglio Grande(古いナヴィリオ運河)という表現もありました。運河沿いの道にはAlzaia Naviglio Grandeの名前も付いていました。Alzaiaは運河の船を曳く右の写真のような曳舟道(ひきふねみち)のことです。つまりナヴィーリオ運河・曳舟道と言う意味になるようです。右の写真は2頭の馬が船のマストの先端に結んだロープを曳いています。

兵庫運河 第85回ハイク参加 [神戸]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事「兵庫大佛(兵庫大仏) 能福寺」の中で兵庫運河のことを紹介しましたが、日本最大級の運河とネット内で書かれいてるだけあって立派な運河だったので、兵庫運河を単独の記事として掲載させていただきます。
この辺りは奈良時代以来、大輪田泊(平清盛時代の呼名)や務古水門(さらに古い呼名)や兵庫湊(中世の呼名)や兵庫津(近世の呼名)と呼ばれ兵庫港を中心に栄えてきましたが、動力船が普及していない明治以前は和田岬が船の難所で被害が多かったことから豪商・神田兵右衛門によって兵庫運河の築造が計画され、1874年に着工しましたが難航して新川運河が1875年に完成したところでとどまっていましたが、約20年後に実業家の八尾善四郎が中心になって1894年に兵庫運河株式会社を設立し1896年に工事に着手して1899年12月に兵庫運河全体が完成したそうです。上の写真は大輪田橋から北方向に撮った新川運河です。つまり兵庫運河の中で最初に完成した新川運河です。中央の兵庫区のゆるキャラ「ハートン」が描かれた大きな水門は大輪田水門で、左側の小さな水門の奥が大輪田ポンプ場です。

兵庫運河は下記の表のように5つの運河(兵庫運河・兵庫運河支線・新川運河・苅藻島運河・新湊川運河)で構成され総面積が34haとなる巨大な運河です。兵庫運河の5つの区分を色分けしてGoogle地図に書き込みました。上のGoogle地図は神戸市役所の都市局未来都市推進課の兵庫運河の今昔物語の中にあった右の兵庫運河の地図を参考に作りました。臙脂色ライン(━━)が今回のハイキングで歩いたルートで、青紫色マーク( )は運河の写真を撮った橋の場所です。赤色マーク( )は兵庫城跡です。クリックすると拡大
右の地図をクリックすると拡大するので下の地図と比べてみてください。
        長さ(km) 面積(㎡)
   新川運河   1.53   57,700
   兵庫運河   1.66 114,500
   兵庫運河支線 0.76   5,700
   苅藻島運河  2.20 150,000
   新湊川運河  0.32   9,400
       合計 6.47 337,300 


ハイキングで歩いて見ることが出来たのは兵庫運河の中の新川運河の一部だけだったので新川運河の辺りを拡大しました。表示は航空写真モードにしています。青紫色マーク( )の写真1と写真2と写真3の3ケ所で写真を撮ったので下で紹介していきたいと思います。過去の運河の記事→ポチックリックすると拡大
臙脂色ライン(━━)の最も左上の部分に前記事で紹介した右の写真の兵庫大佛(兵庫大仏)がありました。
 ━━━━  ハイキングでの散策ルート
 写真1 入江橋
 写真2 大輪田橋
 写真3 新川橋      兵庫城跡



写真1 入江橋からの写真 中央市場前駅→兵庫大仏
ハイキングの待ち合わせ場所である神戸市営地下鉄・海岸線の中央市場前駅から兵庫大佛(兵庫大仏)のある能福寺を目指している時に兵庫運河(新川運河)を渡った時の写真です。入江橋から北方向を撮った写真です。漁船と思われる船が沢山停泊していました。車道から同じ方向のストリートビュー(SV)です。→SV1
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新川運河を渡っている時のハイキングのメンバーの写真です。


こちらは神戸市役所の都市局未来都市推進課の兵庫運河の今昔物語の中に掲載されていた運河が出来たばかりの頃の運河の写真です。写真の左端の日本髪の女性が印象的です。位置は分かりませんが運河の渡し船の写真です。運河が出来たころはまだ橋がなく渡し船で渡っていたようです。新川運河以外の運河が完成するまでは船舶の避難地として使われていたそうです。時代が進むにしたがって動力船の進歩により本来の目的であった難所であった和田岬の迂回路から、兵庫港周辺の経済活動を活性化させる目的に変わったようです。そのために幅広い運河になったと推測しています。新川運河の最大幅は110m、クリックすると拡大兵庫運河の最大幅は130m、苅藻島運河の最大幅は140mと兵庫運河群は幅が広く、右の写真のように昭和初期からは原木で輸入した木材の保管場所としての活用が盛んになったようです。木材の輸入方法が原木から製材へ変化したことから2005年には貯木場としての水面利用が終了したそうです。現在は散策道やプロムナードやライトアップなど市民に親しまれる空間整備を進めているようです。
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写真2 大輪田橋からの写真 清盛塚(昼食)→兵庫津ミュージアム
兵庫大佛の次に清盛塚に行き、見学の後に昼食を食べて兵庫津ミュージアムを目指しました。その途中でも兵庫運河(新川運河)を渡りました。渡った橋は1924年6月に竣工した大輪田橋(おおわだばし)でした。
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大輪田橋のひらがな読みは「おおわだばし」ではなく「おほわだはし」と書かれていました。ここは西詰北側の親柱があった場所です。この上には石柱(親柱)が立っていましたが1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災震災で崩れ落ちたそうです。実は大輪田橋は1945年3月17日の神戸大空襲での悲劇の場所でもありました。大輪田橋に避難してきた市民を空襲の炎が包み多くの命が失われた場所でもあるそうです。
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大輪田橋から景色で印象的だったのが、この大輪田水門でした。設置されている役割は高潮対策だそうです。新川運河は南と北がつながっていて北のには築島水門があり、南にはこの大輪田水門があります。新川運河以外の4つの運河には水門は設置されていないので貴重な水門のある景色です。大輪田橋から北180mの位置に兵庫城がありました。もし今でも兵庫城が残っていたらこの写真の中に写っている写真でもあります。中央の茶色のビルの少し右側あたりが兵庫城跡の石碑があるあたりです。
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クリックすると拡大このGoogleマップで兵庫城跡( )と大輪田橋(写真2)の位置関係が判っていただけると思います。右の小さな写真がWikipediaから転用させていただいた兵庫城跡の石碑と説明板です。クリックすると拡大します。


東詰北側の親柱です。カタツムリの装飾が洒落ています。
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カタツムリの装飾を拡大しました。
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東詰北側の親柱(石柱)の横に大正十三年六月竣功と書かれていました。大輪田橋の4角(東詰北側東詰南側、西詰北側、西詰南側)があったと思われますが、東詰北側を除いて3本は無いので阪神・淡路大震災震災で崩れ落ちたものと思われます。その中の1本と思わリる石柱が右側に置かれたいました。
下記の着色文字をクリックすると4ケ所のストリートビュー(SV)を表示します。
 東詰北側 東詰南側 西詰北側 西詰南側
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上の写真の折れた親柱(石柱)に説明が書かれた青銅板が取り付けられていました。それが「大輪田橋戦災・震災復興モニュメント」でした。書かれていた内容を紹介します。
大輪田橋戦災・震災復興モニュメント
平清盛公ゆかりの地名にちなむこの大輪田橋は、1924年の竣工以来、二度の大きな災害に遭っています。1945年3月17日の神戸大空襲では、水を求め、この橋に避難した多数の市民が、炎にまかれ犠牲になりました。
橋にはその時の炎で黒く焼け焦げた跡が、今も残っています。そして50年後の1995年1月17日の阪神・淡路大震災により、この橋自体の親柱が崩れ落ちる被害を受けました。
ここに、戦災と震災を経験した「生き証人」でもある親柱をモニュメントとして再構成し、その時節の冬の星座をかたどった照明によって、私たちの記憶に永くとどめるとともに、鎮魂の意を示すものです。
1998年10月 神戸市
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東詰北側の親柱(石柱)と青銅板が取り付けられ石柱とモニュメントになっている折れた石柱を一緒に撮っていなかったのでストリートビューで紹介します。横たわった2つに折れた石柱の左側の上にモニュメントの青銅板が取り付けられています。プラス(+)のアイコンをクリックすると判ると思います。


大輪田橋戦災・震災復興モニュメントの辺りから運河を撮った写真です。写っていませんがこの下の辺りに戦災殉難者慰霊碑があります。
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大輪田橋を渡った後に入った初代県庁館(兵庫縣廰)でボランティアの方から初代県庁に関することだけでなくクリックすると拡大兵庫運河が日本最大級など地域の詳しい説明をしていただきました。右の写真が復元された初代県庁です。
クリックすると拡大1615年に兵庫城の敷地には兵庫津奉行所が置かれ、1769年に廃城となり兵庫津奉行所から兵庫勤番所に名前が変ったそうです。1868年5月23日には兵庫勤番所が初代兵庫県庁となり、初代知事として伊藤博文が赴任したそうです。
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清盛塚を出発した写真と大輪田橋での2枚の写真です。



写真3 新川橋からの写真 兵庫津ミュージアム→淡路屋(駄菓子)
新川橋からの兵庫運河(新川運河)からの写真を紹介します。南に進んで行く方向で右側が西方向です。車道からのストリートビュー→SV
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新川橋から西方向を撮りました。
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ここにも沢山の漁船が係留されていました。
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兵庫運河は面積が日本最大という表現が使われていることから、同等あるいはそれ以上の面積の運河あることになります。候補としては現在約44kmの長さの貞山運河群です。運河の平均の幅が7.66m以上あればクリックすると拡大兵庫運河の337,300㎡を越えるわけです。北上運河と東名運河を含めない貞山運河(貞山堀=御舟入堀+新堀+木曳堀)だけでも471,100㎡との記述のサイトもありました。日本最大の運河で検索するとほとんどが兵庫運河であり、最大幅140mで平均幅52.1mの兵庫運河は一つの町の中の運河に限れば日本最大の運河と言えるのかもしれません。かもという言い方になってしまうのは、日本の運河一覧などから検索しても運河の長さは書かれていますが、平均幅や面積はほとんど書かれていないためです。→ポチッ
参考に日本一長い約49km(仙台新港築造後は約44km)である貞山運河群(みやぎの運河群)を紹介します。右の写真がWikipediaから転用させていただいた貞山運河です。写真の上1/4のところの広浦(湖)の手前が木曳堀で、広浦の奥が新堀です。明治元年(1868年)の約250年前から1889年まで作り続けられた運河群です。
 貞山運河・木曳堀  元和年間(1615年から1624年)頃完成説が有力
 貞山運河・御舟入堀 寛文年間(1661年から1673年)頃完成
 北上運河      1878年着工 1881年航行開始 1882年完成
 東名運河      1883年着工 1884年竣工
 貞山運河・新堀   明治初め着工 1872年落成 1883年~1889年掘り直し


日本の運河のイメージを感じていただくためにWikipediakの日本の運河一覧を紹介します。右の写真は小樽運河です。IMG_6406-400.JPG
北海道
小樽運河 篠津中央篠津運河用水 幌向運河 馬追運河
東北地方
秋田運河 北上運河 東名運河 貞山運河
東京都
有明西運河 有明南運河 曙運河 曙北運河 北砂北運河 東雲運河 東雲北運河 東雲東運河 砂町運河 砂町南運河 汐浜運河 汐見運河 辰巳運河 豊洲運河 晴海運河 平久運河 朝潮運河 新月島運河 竹芝運河 芝浦運河 新芝運河 新芝南運河 新芝北運河 芝浦東運河 芝浦西運河 芝浦北運河 高浜西運河 高浜運河 天王州運河 天王州南運河 勝島運河 勝島南運河 平和島運河 ガスミオ運河 海老取運河 京浜南運河 花畑運河
神奈川県
恵比須運河 京浜運河 大黒運河 堀割川 浅野運河 池上運河 小田川 京浜運河 境運河 桜堀運河 塩浜運河 白石運河 新川堀 末広運河 大師運河 田辺運河 多摩運河 千鳥運河 水江運河 南渡田運河 夜光運河
関東地方(東京都と神奈川県以外)IMG_6406-400.JPG
見沼通船堀 利根運河 右の写真→
中部地方
富岩運河 住友運河 岩瀬運河 中川運河 半田運河
近畿地方
深谷水道 琵琶湖疏水 高瀬川 岩崎運河 城北川 道頓堀 木津川運河 天保山運河 敷津運河 兵庫運河 尼崎運河 長堀川 境川運河 大正運河
中国・四国地方
船引運河 音戸の瀬戸 細木運河 奥南運河
九州地方
万関瀬戸 堀川運河(宮崎県) 堀川運河(福岡県西部) 堀川運河(北九州市)
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上の写真は対馬にある運河万関瀬戸です。

世界三大運河はスエズ運河、パナマ運河、キール運河と言われています。選定の理由は運河本来の役割での世界経済の発展への貢献度のようです。ちなみに世界最長運河(& 世界最大運河)は2500kmの京杭大運河(Grand Canal)です。
 スエズ運河 167km 約2万1000隻/年 → 地図
 パナマ運河   80km 約1万4000隻/年 → 地図
 キール運河   98km 約4万2000隻/年 → 地図
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一方、日本三大運河小樽運河半田運河堀川運河(宮崎)が選ばれていることから、選定理由は美しさや成り立ちや人気にあるようです。
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兵庫大佛(兵庫大仏) 能福寺 第85回ハイク参加 [神戸]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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今までに何度か紹介したように新入社員で配属になったのが神戸事業所でそこの仕事仲間の人達の多くとは組織ごと東京に転勤になりました。その後、転勤や退職で神戸に帰った人たちが下記のようにハイキングなどを定期的に行っておられます。第85回ハイクで参加させていただいたのが兵庫大佛/清盛塚/兵庫津ミュージアムなどの散策でした。
上の写真はハイキングの中で最初に訪問した能福寺の兵庫大佛(兵庫大仏)です。蓮台(3m)と台座(4m)を含めた地上からの高さは18mだそうです。
    2018年12月26日(水) 冬の忘年会 権太
 第70回 2019年01月19日(土) 兵庫七福神巡りハイク
 第71回 2019年03月16日(土) 金比羅宮参拝と讃岐うどんを賞味するハイク
第72回 2019年04月20日(土) 神戸市北区の重要文化財巡りハイク
 第73回 2019年05月18日(土) 奈良斑鳩の里での散策ハイク
 第74回 2019年06月15日(土) 神戸にある世界の宗教寺院巡りハイク
    2019年07月16日(火) 夏の親睦会 燦(SUN)
 第75回 2019年09月20日(土) 神戸鶉野飛行場跡各種設備など散策ハイク
第76回 2019年10月19日(土) 京都洛西の竹林と古墳巡りハイク
第77回 2019年11月16日(土) 太陽の塔の内部見学(予約)と周辺散策ハイク
    2019年12月25日(水) 冬の忘年会 権太
 第78回 2020年01月16日(木) 神戸井植記念館と周辺散策ハイク
 第79回 2020年01月30日(木) 京都迎賓館と周辺散策ハイク
第80回 2020年02月15日(土) 丹波篠山ハイク
第81回 2020年03月21日(土) 神戸市立森林植物園の散策
第82回 2022年06月21日(火) 神戸市立森林植物園のアジサイ鑑賞、散策
第83回 2023年05月13日(火) 宝塚花のみち~文化芸術芸術センターなど散策
第84回 2023年06月20日(火) 鶴見緑地散策
    2023年07月21日(金) 夏の親睦会 燦(SUN) 16名参加
第85回 2023年10月13日(火) 兵庫大仏/清盛塚など散策
 第86回 2023年11月14日(火) 有馬温泉(瑞宝寺公園 路地裏散策 金の湯)散策
    2023年12月22日(金) 冬の忘年会 燦(SUN)
第87回 2024年02月20日(火) 須磨離宮公園での観梅
第88回 2024年03月29日(金) 明石公園での花見
第89回 2024年05月10日(金) 五月山公園の新緑散策&ラーメンミュージアム
:参加  :新型コロナを配慮して場所を選択  :予定

ハイキングは下記のようにに歩きました。私は小学校4年の時に広島から神戸市東灘区の岡本に引越してきて、その後、東京に転勤するまで長く神戸周辺に住んでいたにも関わらず今回のハイキングノで歩いた周辺は行ったことがありませんでした。本記事ではを紹介したいと思います。
  中央市場前駅(10:50集合)
  兵庫大仏
  清盛塚(昼食)
  兵庫津ミュージアム
  淡路屋(駄菓子)
  和田岬駅(15:16)


実家の最寄駅の阪急の逆瀬川駅を上のルート画面より10分早く乗りました。
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こちらが神戸市地下鉄・海岸線の車内です。始発駅の三宮・花時計前で乗車してすぐに乘って人が入って来る前に撮りました。神戸市出最初に出来た神戸市地下鉄である西神・山手線は結婚してすぐに買った家から通勤で使っていたので長く利用していましたが、海岸線は東京に転勤してから出来たので、神戸市地下鉄・海岸線は初めて乘りました。神戸市営地下鉄の路線開業の時期も紹介します。
 西神線    1977年3月13日開業 名谷~新長田      5.7km
 西神・山手線 1987年3月18日全通 西神中央~新神戸     22.7km
 北神急行電鉄 1988年4月02日開業 新神戸~谷上      7.5km
 北神線    2020年6月01日譲渡 新神戸~谷上      7.5km
 海岸線    2001年7月07日開業 三宮・花時計前~新長田 7.9km
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こちらが集合場所である神戸市地下鉄・海岸線の中央市場前駅の改札口です。
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改札口のところにはこの辺りをイメージした壁画がありました。
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大輪田泊(おおわだのとまり)や兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれた兵庫港は古く平安時代から日宋貿易など大陸との交易の拠点として栄えたそうです。今の神戸港の原点のような場所のようです。1868年(慶応4年)に初代県庁のあった場所でもあります。ちなみに初代県知事は伊藤博文出した。
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改札口のそばで待ち合せました。
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先ずは兵庫大佛(兵庫大仏)のある能福寺を目指しました。写真は明治になって作られた兵庫運河です。兵庫運河は5つの運河(兵庫運河・兵庫運河支線・新川運河・苅藻島運河・新湊川運河)で構成され総面積は34haとなる日本最大級の運河だそうです。貿易の拠点であったことが伺える場所でもあります。SV
ちなみに日本一長い運河は宮城県の仙台湾沿いにある約49km(仙台新港築造後は約44km)の貞山運河群(貞山運河東名運河3.6km北上運河12.8km)です。
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こちらが兵庫運河全体です。上の写真は入江橋を渡るときに新川運河の北東方向を撮った写真です。
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兵庫運河の5つの区分を色分けしてGoogle地図に掲載しました。
クリックすると拡大地図内のの間の新川運河の写真だと分かっていただけると思います。
        長さ(km) 面積(㎡)
   新川運河   1.53   57,700
   兵庫運河   1.66 114,500
   兵庫運河支線 0.76   5,700
   苅藻島運河  2.20 150,000
   新湊川運河  0.32   9,400
       合計 6.47 337,300 


中央市場前駅から兵庫大佛(能福寺)までの雰囲気を小さな写真で紹介します。



兵庫大佛(能福寺)の入口が左端に見えます。我々以外にも訪れている人が写っています。兵庫大佛を見た後に別の場所に向かっているのだと思います。
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こちらは能福寺の入口です。
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能福寺の入口の正面に大仏が見えました。
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能福寺の入口から見た兵庫大佛です。本殿は右奥にあります。
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左側には手前から滝善三郎供養碑、鐘楼堂、平清盛廟(平相国廟)、常勝稲荷大明神がありました。
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こちらが滝善三郎供養碑です。神戸事件の責任者として1868年2月9日切腹した滝善三郎(滝善三郎正信)の供養塔です。
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神戸事件(1868年2月4日)の説明板が能福寺の門の前に建てられていました。西宮警護を命令された備前藩兵が西国街道を大砲を運んでいる時に三宮神社前で行列の前を横切ろうとしたフランス水兵を槍で負傷させたことで、外国兵に神戸の町が一時占拠されるほどの事態に発展し、滝善三郎が全責任を負って永福寺で外国人代表者の立会いの下で切腹することで決着した事件でした。外国人に切腹を深く印象付けることになった事件でもあったようです。
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上の説明板の中の切腹の場面を拡大いたしました。
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1945年3月17日の神戸大空襲で唯一残った鐘楼堂でしたが、1995年の阪神・淡路大震災で倒壊しましたが、2018年秋に再建されたそうです。
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十三重石塔形式の平清盛供養塔である平清盛廟(平相国廟)です。平安末期(養和元年1181年)の平清盛の薨去によって能福寺寺領内に墓処として平相国廟が造立されたといわれていますが、しかし、平家滅亡と同時にことごとく破壊され、能福寺は灰燼に帰したそうです。以後、廟は再建されることなく、その存在を忘れ去られていたが、百余年後の弘安9年(1286年)に平家一門の栄枯盛衰を哀れんだ時の執権北条貞時公が、その近くに石塔を建て清盛公の霊を弔ったと伝わっているそうです。
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クリックすると拡大平清盛廟(平相国廟)の説明板が横に建てられていました。下および右の写真をクリックすると説明板の部分を文字が読める大きさに拡大いたします。
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真中が平清盛廟(平相国廟)で左の九重塔が忠快法印塔(鎌倉時代)で、右の小さな石塔が圓實法眼宝篋印塔(鎌倉時代)です。
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2016年12月に再建された當勝稲荷堂(常勝稲荷大明神)です。
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それでは兵庫大佛を紹介いたします。クリックすると拡大ネットでは兵庫大仏と書かれている数の方が多いけれでも能福寺の表現では兵庫大佛の方が多いので両方を使わさせていただきます。台座部分は能福寺のHPから転用させていただいた右の写真のビルシャナ殿で中は永代祠堂になっていて、中央正面には能福寺に伝わる木造十一面観世音菩薩立像(弘仁年間作・国指定重要文化財)が安置されているそうです。
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兵庫大佛を下から見上げた写真です。上に登ってみることにしました。兵庫大佛は1891年(明治24年)5月に豪商・南条荘兵衛の寄進により建立されそうです。その思いは明治維新で広まる異国文化や廃仏毀釈・神仏分離などで衰退した寺院と仏教への危機感だったようです。クリックすると拡大仏教界の全宗派も応援して作ったようです。Wikipediaから転用させていただいた右の写真が初代の青銅製の兵庫大佛です。しかしながら太平洋戦争により1944年(昭和19年)5月に金属類回収令で解体されて国に供出されてなくなりましたが47年後の1991年5月9日に再建されたのが現在の大佛だそうです。
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こちらが上で撮った兵庫大佛です。兵庫大佛は毘廬舎那仏(光明遍照)像で、像重量約60t、像高11m、蓮台と台座を含める高さ18mだそうです。ちなみに奈良大仏の像高は約14.7mで、鎌倉大仏の像高は約11.39mだそうです。
Wikipediaによれば日本三大大仏は下記のように変わったそうです。戦後以降の日本三大大仏の三番目の大仏は固定化された説はないそうです。座高を比べてみると高岡大仏7.43m、岐阜大仏13.63m(乾漆仏)、兵庫大仏11m、鹿野大仏12m、東京大仏8.2mとなります。
 江戸時代 奈良の大仏  鎌倉大仏  京の大仏(方広寺)
 戦前   奈良の大仏  鎌倉大仏  兵庫大仏(能福寺)
 戦後以降 奈良の大仏  鎌倉大仏  高岡大仏 or 岐阜大仏 or 兵庫大仏など
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みんなで記念写真を撮りました。今回のハイキングでは街中でもあり全員で撮ったのはこの1枚でした。私は座っている3人の一番右です。
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兵庫大佛の説明板を掲載します。文字は薄くなってきていますが、クリックすると大きく拡大するので何とか読むことが出来ると思います。
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成就したい願い後に関する説明板があったので掲載いたします。
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日本三大佛に関する説明板を紹介します。
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大仏の場所から入口方向を撮った写真です。
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兵庫大仏の場所から見た月輪影殿(本堂)です。
太平洋戦争中の1945年3月17日の神戸大空襲で能福寺は鐘楼堂を残して本堂も含めて全焼したそうです。京都東山の泉涌寺寺域の墓陵(月輪御陵)にあったものを1954年(昭和29年)に宮内省と九条家により移築されたそうです。1995年1月17日の阪神・淡路大震災で被災するが、1997年12月に復興したそうです。
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地上に降りて撮った月輪影殿(本堂)です。
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月輪影殿(本堂)を正面から撮った写真です。木が多くて正面からは全体が撮れませんでしたが雰囲気は中っていただけると思います。
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月輪影殿(本堂)を正面に建てられた柱には維時平成三十年十一月二十三日導師大僧都雄善敬白と書かれています。
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月輪影殿(本堂)の右奥には本坊と書かれた建物がありました。庫裏とも書かれていて寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の時食を調える台所も兼ねる場合のようですが、その多くは僧侶の居住する場所をいうことが多いそうです。
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「一葉舟中載大唐」と書かれた碑がありました。左側には「天台座主探題大僧?恵進」と書かれていて、台座には「當山創建一千二百年記念 天台座主恵進大僧正しご染筆」と書かれています。
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右の石碑がジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の英文碑です。ジョセフ・ヒコは本名が浜田彦蔵で、知人の船・栄力丸に乘って江戸に向かう航海中に紀伊半島の大王岬沖で難破し2ヶ月太平洋を漂流した後、1852年1月12日に南鳥島付近でアメリカの商船・オークランド号に発見され救助されアメリカに渡り、のちに幕末に活躍した通訳や貿易商として活躍した人物です。
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ジョセフ・ヒコの英文碑の左側には北風正造君碑がありました。写真の左端に写っている円筒滋養の碑です。この碑の文字は伊藤博文公揮毫で明治29年に兵庫県知事周布公平が建立したそうです。
北風正造は幕末・明治の豪商で姫路城(白鷺城)を戦乱の犠牲から救った人物だそうです。姫路藩が官軍の攻撃を受けて姫路城の城下町が戦場になろうとした時、北風正造が仲裁に入り、軍需金15万両(300億円相当)と引き替えに紛争を解決させ姫路城を救ったそうです。明治元年には戊辰戦争で有栖川宮が東征総督として征途につかれた際、駿馬と三千両を官軍に献上したことも有名なようです。明治元年3月、兵庫裁判所御用掛、商法司判事、権大属等を歴任し、同7年兵庫新川の開発事業に関係し、米商会所、第七十三国立銀行、神戸船橋会社等を創立し、実業界にも貢献した兵庫きっての豪商で、神戸発展の功労者と言われている人物だそうです。
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小さな社殿のようでもあり灯篭の用でもあるものが建っていました。
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能福寺が由緒あるで、京都五箇室門跡の一つで、粟田の青蓮院門跡の院家であったそうです。院家とは、幼少であることが多い門跡(住持となる皇族)に、礼儀作法や学問などを教授する師範役だそうです。能福寺は、院家職が明治維新に皇室典範の制定により廃止になるまで、江戸初期以来二百数十年にわたって要職を務めた京都以西ではただ一つの寺だそうです。
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クリックすると拡大このような小さな石像が銅像があったので掲載します。右の像の台座には傅教大師幼形像と書かれています。つまり傅教大師(最澄/伝教大師)の幼い時の像ということになります。
延暦23年(804年)に桓武天皇の勅命を受けて唐に留学した傅教大師最澄上人が、帰途に大輪田泊(現・兵庫港)に上陸したそうです。この地に堂宇を建立して佛教の教えを請うたところ、自作の像を御堂に安置し、国に安泰、庶民の幸福を祈願して自ら能福護国密寺と称されたとのことだそうです。これが能福寺の創建年である延暦24年(805年)6月であり、傅教大師の我が国最初の教化霊場であるとのことだそうです。
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能福寺の手水舎(てみずやorちょうずや)です。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。
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入口近くで古い墓石の頭のような石が置かれていました。左端の板に「平家源氏将兵戦没者五輪供養塔 境内出土 鎌倉時代」と書かれていました。
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今までに参加したハイキングの場所の地図も掲載しておきます。紫色マーク( )が今までに参加したハイキングです。

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ミラノの路面電車 [イタリア]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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イタリアのミラノ(Milano)には前記事「イタリア旅行最後の訪問地 ローマ」で紹介したクリックすると拡大家族旅行を含めて3回行っています。前記事の中で右のローマの路面電車の写真を紹介したので3回の訪問で撮ったミラノの路面電車の写真を全て紹介したいと思います。ただし、一番新しい写真でも2006年なので最新の情報ではありません。先ずは家族旅行の時に撮ったミラノの路面電車の写真6枚を紹介します。ミラノの路面電車は、このオレンジ色が使われていたようです。

細い道にも往復の線路が敷かれていました。
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上の写真はこちらの写真から切り取りました。
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立派な建物前を路面電車が走っている写真です。上で紹介の路面電車よりも古いタイプのようです。
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上の写真はこちらの写真から切り取りました。
クリックすると拡大245年前の1778年8月3日に開館したスカラ座の前を路面電車が通っている写真でした。スカラ広場の真中にはレオナルド・ダ・ヴィンチ像があります。右の写真はスカラ座の内部です。
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3両連結です。冒頭の路面電車と同じタイプと思われます。
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ここから9枚の路面電車の写真は2005年12月に撮った写真です。この写真は私の撮った中では最も古い形式の路面電車です。頭に書かれている番号は1714です。番号が若いほど古い形式なのだと思います。ドアが両開きののようです。
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こちらの番号は1742です。ドアは上と同じようです。
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カラフルな路面電車もありました。番号は4724です。ドアの部分は広いです。
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後ろの建物はミラノ中央駅です。クリックすると拡大クリックすると拡大
こちらも古いタイプの路面電車で番号は1521です。ミラノ中央駅は利用させていただいたし、見学もさせてさせてもらいました。日本と違ってホームには自由に入ることが出来ました。その時の写真が右上の2枚です。
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オレンジ色だけでなくグリーの新しいタイプの路面電車も走っていました。ここはスフォルツェスコ城の前の広場です。クリックすると拡大オレンジ色の車体番号は1926のようですが2文字目の9はハッキリしません。グリーンの車両の方の車体番号は全く読み取れません。
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上の写真はこちらの写真から切り取りました。デジタルカメラはまだまだ発展途上だったので、車体番号が読み取れないことをご理解いただきたいと思います。この場所のストリートビュー(SV)を紹介します。→SV1 SV2 SV3 SV4 SV5
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新しいタイプの単独写真です。車体番号は7501です。5両連結(5車体連接車)の路面電車で先頭の部分が丸い形です。クリックすると拡大ネットで検索した範囲では7000形7500形がありました。車体番号7514は見つけましたが、車体番号7500番台以上の車体番号を探した結果として7600形がありました。この路面電車は客室の床上高さが350 mmの段差がない100 %低床構造の車両です。名称はシリオ(Sirio)で、アンサルドブレーダ(イタリア)が1997年~2000年に開発して、日立製作所がアンサルドブレーダを2015年2月に買収して、日立レール(Hitachi Rail S.p.A.)が展開しているそうです。
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クリックすると拡大クリックすると拡大右の写真(ホテルの入口と外観)のミラノ駅の近くの泊まったホテルの部屋から撮った写真です。車体番号は画像が不鮮明で確かではありませんが1744のように読み取れます。
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こちらは1976とはっきり読み取れます。
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ここから7枚の写真が2006年6月に撮った写真です。道路脇に線路が付けられたところもありました。遠くにオレンジ色の路面電車が見えます。形式は冒頭の路面電車と同じように見えます。
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クリックすると拡大ここはスフォルツェスコ城の前の広場です。グリーンの車体で車体番号は7101です。上で紹介した同じグリーの車体番号7501の路面電車(右の写真)とは先頭部分の形が違います。新しい車両がどんどん投入されているようなので今はさらに新しいタイプを見ることが出来るのだと思います。
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塔のような建物がスフォルツェスコ城です。冒頭で紹介した車体と同じかもしれません。
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路面電車が沢山集まっているところがありました。ここだけは遠くに見えたので走って撮りに行きました。他の写真は歩いていて目に入ったものを撮っただけなのです。
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やっぱり石畳が似合います。車体番号は4843です。
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車体番号1899の古いタイプの路面電車の後ろに少し新しい冒頭の写真のタイプの路面電車が続いています。クリックして拡大するとさらに後ろに路面電車が続いているのが判ります。
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繁華街が似合います。車体番号4905の路面電車です。上に出てきていないタイプのようです。沢山の人が利用されているのが感じていただけると思います。
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