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世界遺産 タージマハール [インド]

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2024年10月01日再掲載 タイトル : 世界遺産 タージマハール
インドで訪問したことのある7つの世界遺産の内、6つ(新掲載1つ 再掲載5つ)紹介しました。最後に残しておいた最後のタージマハールを再掲載いたします。下記のリストが私が訪れたことがあるの世界遺産です。下の小さな写真か着色文字をクリックすると記事を表示します。8枚目の写真はインドの発電プラントの契約の調印式の写真です。
 登録年     世界遺産の名称
 1983年 アーグラ城塞                   
 1983年 タージマハール(Taj Mahal/タージ・マハル)                  
 1987年 エレファンタ石窟群                
 1993年 デリーのフマーユーン廟            
 1993年 デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群 
 2004年 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅  
 2007年 赤い城の建造物群 レッド・フォート 
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 2009年07月03日 掲載
 2024年10月02日 再掲載 閲覧数:7,091 nice!:118 CMT :34
 2024年10月03日     閲覧数:7,213 nice!:134 CMT :44
 2024年10月04日     閲覧数:7,308 nice!:151 CMT :44
 2024年10月05日     閲覧数:7,407 nice!:168 CMT :48

2009年07月03日掲載 タイトル : 世界遺産 タージマハール
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今までにインドには13回ほど行きましたが、クリックすると拡大その中で一度だけ世界資産のタージマハール(タージ・マハル/Taj Mahal)に行くチャンスが出来ました。デリーから右の写真のバスで日帰りツアーで行くと、上の写真のように広い庭園の中に大理石の真っ白なタージマハールが目の前に現れました。

中央の池に沿って庭園をタージマハールに近づいていきます。緑の中に沢山のリス達がいました。今でも沢山いるようです。タージマハールはデリーにあるフマユーン廟をモデルにしたとも言われています。形や色は違いますが全体的なアレンジは確かに参考にしているようです。
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近づいて正面から撮りました。この写真は是非ともクリックしてみてください。
クリックすると拡大タージマハールはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年6月17日に36歳で亡くなった妻・ムムターズ・マハルのためにペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人を集めて、22年の歳月をかけて建造させたと言われている総大理石の墓廟(霊廟)です。インド文化を代表する建築物と言えると思います。
36歳で妻・ムムターズ・マハルが亡くなった時、皇帝シャー・ジャハーンは39歳でした。タージマハールはインドのウッタル・プラデーシュ州最大の都市であるアーグラ(Agra)にあります。アーグラの人口は約157万5千人(2011年)で、アグラとも表記されます。世界遺産に登録されているアーグラ城も近くにあります。デリーからは南南東に約180キロで、すでに紹介したジャイプルからは東に約220キロの位置にあります。ここを訪れたのは1993年7月31日(土曜日)でした。
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上の写真はクリックすると拡大しますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。
ヒンドゥー教徒は墓を持たず、遺体は火葬され遺骨や灰は川に流されます。一方、霊魂は永遠と考えるイスラーム教徒は簡素な墓を建てます。ムガル王朝はイスラーム教国家建設を目指しており、専制君主の権勢を示す目的があって皇帝の大きな霊廟を建設しました。ただし、タージマハールのように権力を握っていない王妃に対し壮大な墓廟が建設された例は、ほとんど無いそうです。
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画像は悪くなりますが、さらに拡大いたしました。真白の大理石に宝石が模様のように埋め込まれているのが判ってもらえると思います。今、建設したら、いくらぐらいかかるのでしょうね。想像できないくらいの金額だと思います。


クリックすると拡大このときはアーグラ城にも行きました。アーグラ城からヤムナ川越しに望むタージマハールです。晩年に幽閉されたシャー・ジャハーンが見た景色です。
右下の水牛、絵になっています。
インドらしい風景かもしれません。
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航空写真で見ると、アーグラ城塞とタージマハールと黒大理石の霊廟の建設予定の位置関係が判りやすいと思います。黒大理石の霊廟は、幻の黒タージマハールで、シャー・ジャハーン皇帝自身の霊廟の予定と言われています。
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これはどこだったかな!ブログに載せる以上は知らないわけにもいかないし。でも観光地は2ケ所しか行かなかった記憶! 省略するにはリッパ過ぎる!と頭を悩まししていました。
最近は便利ですね。インターネットでいろいろ調べた結果 ⇒ タージマハールの入口(玄関)でした。2ケ所しか行かなかった記憶は正しかった。この門を通った瞬間、壮大なタージマハールが目の前に出現します。庭や池の感じからタジマハールから門を撮った写真であることがわかりました。SV
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門をあらためて近くで見てみました。この門は外側から2番目になります。この門をくぐるとタージマハールが見えます。でもみんないろんな言い方をします。 
タージ・マハル タージ・マハール タージマハール タジ・マハル タジマハール などなど
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門には沢山の装飾が行われていました。この門は大理石と赤砂岩が使われています。タージマハールの大理石はラージャスターン地方産であるといわれています。碧玉はパンジャーブ地方から、翡翠は遠く中国から、トルコ石はチベットから、ラピス・ラズリはアフガニスタンから、サファイアはスリランカから、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから持ち寄られ、全体で28種類もの宝石・鉱石がはめ込まれていたそうです。
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こちらが上の門の外側にある1番目の門です。このときも沢山歩いた記憶がありますが、ネットによると排ガスによる大理石の腐食を防止するために車の近くへの進入は禁止されて、遠くから歩かされると書かれていました。電気自動車は用意されているそうです。
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航空写真を掲載します。

別画面で 航空写真 を表示
Googlマップのストリートビューで360度を紹介します。上から北→東→南→西の順番です。今は世界中の景色をGoogleのストリートビューで見ることが出来ますが、やはり実際にそばに行って見た時の感動にはおよびません。
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タージマハールはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが1631年6月17日に亡くなった愛妃ムムターズ・マハルのため建設した霊廟で、1666年2月1日に亡くなったシャー・ジャハーンも埋葬されました。左がムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンで右が愛妃ムムターズ・マハルです。
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世界遺産 アーグラ城塞 [インド]

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2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 アーグラ城塞
インドの世界遺産の5つ(新掲載1つ 再掲載4つ)紹介しました。私が訪れたのは7ケ所のなので、残りの2ケ所も再掲載させていただきます。2ケ所ともに15年前の2009年7月に掲載した記事です。先ずはアーグラ(Agraआगराآگرا‎)にあるアーグラ城塞(Agra Fort)をクリックすると拡大紹介します。アーグラと言えば、同じ世界遺産の右の写真のタージマハールが有名ですが、タージマハールは最後に再掲載させていただきます。
 2009年07月04日 掲載
 2024年09月27日 再掲載 閲覧数:5,708 nice!:113 CMT :12
 2024年09月28日     閲覧数:5,904 nice!:134 CMT :25
 2024年09月30日     閲覧数:6,089 nice!:165 CMT :30

2009年07月04日掲載 タイトル : 世界遺産 アーグラ城塞
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日帰ツアーで世界遺産のタージマハールに行ったことを報告いたしましたが、タージマハールがあるアーグラの町の城も世界遺産に登録されています。クリックすると拡大この442年前の世界遺産の登録名は「アーグラ城塞」ですが、そのアーグラ城塞にも行き、何枚か写真を撮ったので紹介いたします。右の写真がツアーで使われたバスです。
この写真はアーグラ城の入口であるアマル・シング門です。アーグラ城塞はムガル帝国時代の城塞で、赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール・キラー, Lal Qila)の別名があります。外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されています。
ムガル帝国の皇帝アクバルが1565年に着工して1573年に完成しました。
その後ジャハーンギール、シャー・ジャハーンまで3代の居城となったそうです。
ムガル帝国は1526年4月21日~1858年5月10日までインド地域を支配したトルコ系イスラーム王朝です。皇帝は17代続きました。その内、アーグラ城塞に皇帝が住んだのは3代(肖像画 : 左から第3代~第5代)です。
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大 1. 1526年 バーブル
 2. 1530年 フマーユーン
 3. 1556年 アクバル
 4. 1605年 ジャハーンギール
 5. 1628年 シャー・ジャハーン
 6. 1658年 アウラングゼーブ
クリックすると拡大 7. 1707年 バハードゥル・シャー1世
 8. 1712年 ジャハーンダール・シャー
 9. 1713年 ファッルフシヤル
10. 1719年 ラフィー・ウッダラジャート
11. 1719年 ラフィー・ウッダウラ
12. 1719年 ムハンマド・シャー
13. 1748年 アフマド・シャー
14. 1754年 アーラムギール2世
15. 1759年 シャー・アーラム2世
16. 1806年 アクバル2世
17. 1837年 バハードゥル・シャー2世
  1858年 滅亡 イギリスに降伏 イギリスがインド全土を直接支配

アーグラ城塞を平面図で紹介いたします。見所は沢山ありました。Google航空写真でアーグラ城塞の大きさを確認すると東西670mで南北810mでした。
1. デリー門、 2. アマル・シング門 と アクバル門、 3. ジャハーンギル宮殿、
4. 寝殿とアングリー庭園、 5. 内謁殿、 6. 公謁殿、 7. 真珠モスク、 
8. バーザール街          北←810m→南

航空写真を掲載します。 上の図を90度右回転させると航空写真と一致します。
画面上の+をクリックすると拡大します。 -をクリックしていくとタジマハールとの位置関係がわかるはずです。


これはアマル・シング門の内側のアクバル門です。立派な門でよくネットにも写真が掲載されていました。
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こちらがジャハ-ンギル宮殿です。アーグラ城の中で最も大きな建物です。
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内謁殿から見たタージマハールです。川の名前はヤムナ川です。クリックすると拡大この内謁殿で右の記念写真を撮りました。クリックするとタージマハールが確認できると思うので是非ともクリックしてみてください。
タージマハールを建てたムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンもここから妻ムムターズ・マハルの墓であるタージマハールを眺めたのでしょうね。
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クリックすると拡大タージマハールの辺りを拡大いたしました。舌の写真の真ん中あたり(川の右側)に見える建物がタージマハールです。クリックするとさらに拡大いたします。
シャー・ジャハーンはヤムナー川の対岸(左側/北側)に対となる自分自身の黒大理石の廟の建設を構想していたと言われています。これは、タージ・マハルがイスラーム建築の原則である対称性に則していないことから発したもので、北岸に同じ形の黒い墓廟があれば南北の対称性は果たされるそうです。北岸の胸壁と望楼はその基礎工事の名残とも言われています。
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航空写真で見ると、アーグラ城塞とタージマハールと黒大理石の霊廟(幻の黒タジマハール)の建設予定の位置関係が判りやすいと思います。
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幻の黒タージマハールの建設予定だった位置からストリートビューで見たタージマハールです。この場所とタージマハールの間にヤムナー川(Yamuna River/जमुना)が流れています。


アグラ城の中にお猿さんが沢山いることが有名です。これもなかなか近づけないですね。場所はアングリー庭園だったような気がします。
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アーグラ城は高い城壁で囲まれていました。この景色は壮観さを感じさせてくれました。妻の霊廟としてタージマハールを建設したシャージャハン皇帝は、その晩年、息子達の権力争いに巻き込まれ、実権を握った三男のアウラングゼーブによってタージマハールの見えるアグラ城塞内のムサンマン・ブルジ(Musamman Burj 別名:囚われの塔)に幽閉されたそうです。その後、アウラングゼーブはデリーに移って第6代皇帝となったために、アグラ城塞の最後に住んだ皇帝はシャージャハンとなったわけです。こちらの城壁の写真はムサンマン・ブルジ(囚われの塔)から撮りました。
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クリックすると拡大長い間、この写真もアーグラ城の一部だと思っていましたが、今回、ネットで調べていると、これはアーグラ城ではないことが判りました。さらに調べた結果、アーグラの近郊のシカンドラにあるアーグラ城を建設したムガル帝国の第3代皇帝であるアクバルの霊廟でした。SV
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世界遺産になった駅 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅 [インド]


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2024年9月22日再掲載
タイトル : 世界遺産になった駅 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅
インドのムンバイ(旧名:ボンベイ)の世界遺産のエレファンタ島の石窟寺院を再掲載したのを機会に、ムンバイのもう一つの世界遺産チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(Chhatrapati Shivaji Terminus/Chhatrapati Shivaji Maharaj Terminus)を再掲載させていただきました。本記事を掲載したのは15年前の2009年11月17日でした。本ブログを始めた2009年5月5日なので、初期の記事ということになります。この駅に訪れたのは2008年2月20日でした。下の画像はGoogleマップのストリートビュー(SV)で見た2021年10月のチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅です。旧名はヴィクトリア駅(Victoria Terminus)です。写真が霞んでいるのは大気汚染のためかもしれません。

 2009年11月17日 掲載
 2024年09月22日 再掲載 閲覧数:6,927 nice!:122 CMT :48
 2024年09月23日     閲覧数:7,071 nice!:153 CMT :52
 2024年09月24日     閲覧数:7,161 nice!:165 CMT :58
 2024年09月25日     閲覧数:7,277 nice!:186 CMT :62
 2024年09月27日     閲覧数:7,357 nice!:194 CMT :62

2009年11月17 タイトル : 世界遺産になった駅
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世界遺産になった駅があるのをご存知ですか。それも現在も現役で使われている駅です。それが写真のムンバイの駅でインドで最も利用者の多い駅でもあります。その駅舎の中央部分を出来る限り遠くから撮りました。地上からではこれ以上遠くから撮ることはできません。残念ながら精一杯、遠くから撮っても全景が見せられないのです。本記事内の全ての建物の写真はクリックすると拡大します。

全体もすばらしいけれども細部もすばらしい建物です。中央の部分です。特にこの写真はクリックして拡大して見てもらいたい写真です。
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斜めから全景をなんとか撮りました。でも真中の部分が写っていないのが残念です。駅自体の工事は1878年に開始され1887年に完成しましたが、この見事な駅舎はイギリスの建築家Frederick William Stevensによって1887年~1888年に設計され、完成には10年かかったそうです。建物はベネチアゴシック建築様式で、壮麗で豪奢な建築物でヴィクトリア朝のゴシック・リヴァイヴァル建築とインドの伝統的建築の融合した傑作と思います。
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ここはムンバイ駅でチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(マラーティー語:छत्रपती शिवाजी टर्मिनस、英語:Chhatrapati Shivaji Terminus)と呼ばれています。旧名は「ヴィクトリア・ターミナス駅」(Victoria Terminus)。世界遺産には2004年に登録されました。
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CENTRAL RAILWAY(中央鉄道)と書かれています。これがライオン門です。この写真を撮るのに時間がかかりました。人通りが多いので人の切れ目が簡単には出来ませんでした。当然ですが現役の建物なので、他の観光施設のように入場料を取られることはありません。
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上の写真を撮っている反対側が多くの人が出入りする通路になっています。表側からも出入りできますが入口が狭いので、この写真の場所から出入りしています。SV


Googleマップの航空写真で駅を紹介します。緑マーク( )のところが冒頭の写真の建物です。緑マーク( )の右側(東側)のエリアがを南北(下上)に沢山の人が出入りしている上の写真のところです。


駅の中は沢山の人がいます。 あっ!ターバンの人がいました。長距離列車の近くでは、いろんな民族の人を見かけました。


キップ売り場です。 こちらで地元の人に入場券を買ってもらいました。ヨーロッパのように改札口はないのですが、マナーとして買わせていただきました。


食べ物の値段も庶民的な価格です。3倍すると日本円なので安いもので15円で高くても45円です。紹介したマクドナルドの値段とはかなり違います。


長距離列車です。長距離列車用ホーム群と近郊列車用ホーム群は完全に分かれていました。ヨーロッパのように改札がないため、ホームには自由に入れますがキップなしが見つかると罰金を払わされるので入場券を買いました。


近郊列車が入ってきたところです。まだ動いていますが、すでにドアは開いています。手動のようであけたまま走っているのかもしれません。


近郊列車が停車して、沢山人が降りて来たところです。


女性専用車があります。これは日本の満員電車の迷惑行為防止のための女性専用車ではないようです。必ずしもイスラムの服装の人ではないので宗教的なものだけではなさそうです。インドはレストランの給仕係も女性はほとんど見ないように習慣が我々とは違うようです。男性専用車はありません。一般車両は男性も女性も両方が乗れます。


車内も見せてもらいました。こちらに注目しているのはカメラではなく東洋人(日本人や中国人)が珍しいのです。自動車に乗っていても隣の車の人は必ずと言っていいほどこちらを覗き込みます。いつも注目されてしまいます。
青い袋を持って立っている人は髭剃りを売っているようです。なぜ髭剃りかは、判りませんが、なかなかいいものみたいです。
注目は天井の扇風機の数です。それに3人掛けの椅子が2列ゆったりとおかれています。こちらはクリックすると拡大します。
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運転席の写真も撮らせてもらいました。想像を超える古さです。建物だけでなく車両も世界遺産ものです。


道を挟んで駅の前にもすばらしい建物がある場所でした。
建物はBrihanmumbai Municipal Corporation(BMC) Head Officeです。1888年のボンベイ市営企業法に基づいて設立されたBMCはインドで最も裕福な地方自治体だったそうです。SV1 SV2 SV3
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世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院 [インド]

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2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院
インドのデリーの世界遺産の3つの世界遺産(クトゥブ・ミナール 掲載、フマユーン廟 再掲載、レッド・フォート 再掲載)を紹介したのを機会に13年前 2011年に掲載したムンバイ(旧名ボンベイ)の近くの島(エレファンタ島)にある世界遺産の石窟寺院を再掲載いたします。
インド全体では現在42の世界遺産が登録されていますが、この世界遺産「エレファンタ石窟群/Elephanta Cavesघारापुरीच्या लेण्या」は、今から37年前の1987年に登録されたインドで16番目の世界遺産です。

 2011年03月07日 掲載
 2024年09月14日 再掲載 閲覧数:3,048 nice!:229 CMT :42
 2024年09月15日     閲覧数:3,199 nice!:257 CMT :46
 2024年09月16日     閲覧数:3,307 nice!:276 CMT :51
 2024年09月19日     閲覧数:3,457 nice!:296 CMT :52
 2024年09月21日     閲覧数:3,530 nice!:299 CMT :57
 2024年09月22日     閲覧数:3,585 nice!:304 CMT :60

2011年03月07日掲載 タイトル : 世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院
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インドのムンバイから船で1時間のエレファンタ島のヤギさんです。
白黒模様の珍しいヤギさんだったので紹介いたします。ネットで調べてもこのような白黒ヤギさんは出てこなかったです。この島には世界遺産のヒンドゥー教のクリックすると拡大石窟寺院があります。緑の豊かな島で野生動物も沢山いそうな感じでした。この島には野生の猿もいました。お猿さんは、こちらがおとなしくしていたら自然に周りを歩き回っていました。

船の出発地点はインド門(Gateway of India)です。インド門は英国の支配下にあった1911年に、英国王ジョージ5世とメアリー王妃の訪問を記念して造られました。この門は玄武岩でできており、ムンバイ湾に面したアポロ埠頭の突端に建っています。クリックすると拡大
高さ26m、グジャラート様式のこの門は、パリの凱旋門をモデルにしてジョージ・ウィテットの設計により、1924年に完成しました。かつては、植民地であったインドを訪れる英国の要人たちの歓迎式典が行われる場所でしたが、現在は観光客で賑わいを見せる観光ポイントとなっています。ここには右上の写真の豪華なタージマハール・ホテルもありました。
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1時間15分の船旅ですがインド海軍の空母や潜水艦さらにトーチカ、さらにいろんな島が目を楽しませてくれました。左が空母の写真で右がトーチカの写真です。トーチカの名前はMiddle Ground Coastal Batteryです。このトーチカは1682年にイギリス東インド会社によって、地域の海賊行為を抑制するために、この島を要塞化したのが始まりだで、第二次世界大戦中に日本の攻撃から港を守のために大砲や高射砲を設置して要塞化を強化したそうです。
船のスピードは遅かった! 昼過から出発して帰ってくると夕方近かったです。
クリックするとインド海軍の記事クリックするとインド海軍の記事

クリックすると拡大船旅も楽しいですよ。エレファンタ島の船着場には船が沢山停泊しています。航路は13.6kmでした。結構訪れる人が多いことがわかります。右の写真は山の上から船着場を撮ったものです。右の写真はクリックしてみてほしいです。
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船着場から山の麓までは観光用の変わった乗り物が走っています。値段を聞いてビックリ! 船代とあまり変わらないということで乗らずに歩きました。
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途中には船の残骸が!この写真の森の中に石窟寺院があります。
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岩山の登りになると立派な階段になりました。階段から一歩はずれるとヤギや猿がいる森になっていました。
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石窟寺院には立派な石段を登っていきます。道の両側に沢山の土産物店が並んでいました。SV1
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急坂をを登ると世界遺産となった石窟洞窟がありました。それではエレファンタ島の世界遺産の石窟洞窟を紹介いたします。
下記の地図の①~⑤の番号は見ている方向を記載しています。
ここには7つのヒンドゥー教石窟寺院があり、巨大な第一窟は、破壊を免れ、多数のシヴァ神像が彫られている。ここが一番大きな石窟寺院である第一窟の入口です。SV2
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第一窟の岩をくりぬいた内部の地図です。赤い矢印は下の5枚の写真の撮影方向です。③だけはもう一つ自信がありませんでしたがネット内の写真から間違いないこと確認しました。石窟寺院の面積は約5,600平方メートルあり、東西の祠堂とメインの列柱ホールから構成される。エレファンタ島に残る多くの彫刻は17世紀に、ポルトガル人が銃の練習の標的として用いられてきたこともあり、往時の外観を損なっしまったそうです。クリックすると拡大古代インドの神は自然の岩窟の奥深くから信者の前に姿を現すと言われています。エレファンタ島の 7つの石窟寺院はヒンドゥ教のこうした考え方とシヴァ神への帰依の心からつくられたようです。エレファンタという島名は、この島にいくつも残されていた大きな象の彫刻に由来するそうです。インド名はガーラープリー島だそうです。 何世紀にもわたって風雨にさらされた石窟と内壁に刻まれた彫像の傷みは激しいけれどもすばらしさが伝わってきました。

下の写真はの方向から中庭を撮ったもので、この部分の写真が一番迫力がありました。 エレファンタ石窟寺院は6世紀のカラチュリ朝、あるいは600~635年のグプタ朝時代の造営されたといわれており、「創造の神」と「破壊の神」の両神格を持つ最高神シヴァ神を祀る寺院だそうです。
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こちらの写真は中庭からの方向を撮ったもので奥の方に最初の入口が内側から写っています。こちら写真もクリックすると拡大いたします。
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列柱ホール内の聖室の入口には、守門神が彫刻されています。内部には石像が沢山ありました。
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奥から撮った写真
あらためてエレファンタ石窟群(マラーティー語:घारापुरीच्या लेण्या)を紹介すると、ムンバイ近海のアラビア海に浮かぶエレファンタ島にある石窟寺院のことで、シヴァ信仰の中心地であり、グプタ朝時代に建設が始まったとされています。1987年にUNESCOの世界遺産に登録されました。
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部屋の入口
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内部にあった彫刻も紹介します。暗かったので画像を露出調整しています。手が沢山あるシヴァ神像です。
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列柱ホールの最深部の壁面にシヴァ神三面上半身像があります。3方にある有名なシヴァ神像で、高さ5.7メートルあります。
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崩れかけていますが立派な彫刻です。
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暗くてよく判りませんがなんとなくシヴァ神であることがわかります。
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岩山の裏側(南側)にも石窟洞窟がありました。その石窟洞窟も見逃さないように!
小さい石窟がいくつかありました。その中で3つほど紹介いたします。SV3
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こちらは部屋のようになった洞窟です。観光客で一番多いのはインドの人でした。こちらも岩山の裏側(南側)にありました。SV4
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作りかけて柱が折れて断念したような洞窟もありました。造りかけの洞窟はまだ柱は四角いだけだし壊れかけています。こちらも岩山の裏側(南側)にありました。SV5
この写真の中にも、お猿さんがいます。
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Google地図/航空写真でエレファンタ島の位置を紹介します。右の写真はチャトラパティ・シヴァージー駅です。クリックすると拡大
 世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院
 世界遺産 チャトラパティ・シヴァージー駅
 インド門   タージマハールホテル
 トーチカ   インド海軍基地
  ムンバイ・インド門からエレファンタ島までの航路

世界遺産 レッド・フォート ( Red Fort / Lal Qila ) [インド]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 レッド・フォート
インドのデリーの世界遺産のクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)を掲載し、同じ首都デリーにある世界遺産のフマユーン廟(Humayun's Tomb)を再掲載したことを機会に、同じデリーの3つ目の世界遺産レッド・フォートの記事を再掲載いたします。レッド・フォートはデリーでは最も新しく登録された世界遺産です。最も新しく登録されたと言っても、今から17年前の2007年に登録された世界遺産です。インド全体では現在42の世界遺産が登録されていますが、本記事を掲載した時点では32の世界遺産が登録されていてレッド・フォートは27番目に登録されたので、私が見学した時点では比較的新しい世界遺産でした。インドで最初に世界遺産が登録されたのは1983年で4つが登録されました。
クリックすると拡大クリックすると拡大その4つはアジャンター石窟群、エローラ石窟群、アーグラ城塞タージ・マハルでした。
 2012年10月18日 掲載
 2024年09月07日 再掲載 閲覧数:3,678 nice!:176 CMT :26
 2024年09月08日     閲覧数:3,835 nice!:200 CMT :32
 2024年09月09日     閲覧数:3,967 nice!:219 CMT :42
 2024年09月11日     閲覧数:4,093 nice!:234 CMT :48
 2024年09月12日     閲覧数:4,143 nice!:238 CMT :48
 2024年09月13日     閲覧数:4,179 nice!:240 CMT :50
 2024年09月14日     閲覧数:4,190 nice!:242 CMT :50

2012年10月18日掲載 タイトル : 世界遺産 レッド・フォート
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インドの首都デリーには1993年に登録されたフマユ-ン廟とクトゥブ・ミナールの2つの世界遺産にがありましたが2007年に赤い城の建造物群が世界遺産が登録されて、デリーの世界遺産は3ケ所になりました。それが今回紹介するレッド・フォートです。フマユ-ン廟クトゥブ・ミナールはすでに紹介させてもらっております。
世界遺産としての正式の登録名は"レッド・フォートの建造物群(The Red Fort Complex)"です。大きな城壁に囲われた中にいろんな建築物があります。しかし、なんといっても入口の城壁そのものが、すばらしい景観を見せてくれます。
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 現地語 ラール・キラー(Lal Qila)
 日本語 デリー城 赤い城の建造物群

門の部分を拡大いたしました。
インド全体では32個の世界遺産がありますがレッド・フォート(赤い城)は27番目の登録の世界遺産です。
昔はラリー・キラーで検索すると沢山でてきましたが今はレストラン名前がほとんどとなりました。これは世界遺産になる前はラリー・キラーとの呼び名が多かったのではないかと想像しています。
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ネットで調べても詳しく判りませんが調べた範囲で解説させてもらうとレッド・フォートは17世紀前半、ムガール帝国(1526~1858年)のシャージャハーン皇帝(在位1628~1658年)によって建設されましたそうです。そしてムガール帝国の都をアーグラからデリーに遷都し、このデリー城(ラールキラー)を建設したそうです。つまりムガール帝国の第5代皇帝から第17代皇帝までが住んだことになります。第3代皇帝~第5代皇帝までは、すでに紹介したアーグラ城塞に住んでいました。
レッド・フォートは長く壮観な姿を見せていましたが、19世紀半ばに反乱軍と英国軍の攻撃を受け、華麗な宮殿のほとんどが破壊されたそうです。総延長約2kmの赤砂岩の城壁に囲まれた内部には、高さ33mで八角形の門塔、一般謁見の間、貴賓謁見の間、真珠のモスクなどが残っており権勢を振るったムガール帝国の面影を今に残していました。写真は入口となっているラホール門です。
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城壁の外側は堀になっています。日本の世界史教科書ではデリー城と書かれているそうです。
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近くで見ると堅固な城塞であったことが伝わってきます。
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門の部分は芸術的でもあります。
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城の入口の最も有名な門の上の飾りの部分です。
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その有名な飾りの下の門を正面から撮りました。門の奥はアーケードのようになっていました。巨大さが判ります。
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そのアーケードの通路には沢山のお土産屋さんがありました。
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アーケードを過ぎると赤砂岩の門が目の前に現れます。写真はアーケードとは反対側から撮ったものです。名前はチャッタ・チョウクで内部は軍事博物館になっていました。
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その門の奥にインドの観光客の人が記念撮影する建物がありました。上の門の写真はその建物の方から撮ったものです。ここは一般謁見の間で名前はディワン・イ・アームです。
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その記念撮影の建物の奥に大理石の建物群がありました。これは貴賓謁見室ディワニ・カースです。
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さっそく貴賓謁見室ディワニ・カースにきてみました。大理石は宝石が埋め込まれて装飾されていました。
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その装飾された柱を拡大しました。宝石を大理石に埋め込んでいるのが判ってもらえると思います。
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見事な大理石の細工物もありました。これは是非ともクリックしてみてください。
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城の中にはイギリス風の建物群もありました。沢山の建物がありました。これらはインド人の独自の力によって建てられたことが意義があるように説明されていました。
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一般の観光客の人はあまり行かない裏側の道路からの景色です。車から降りて門の隙間から写真を撮りました。
大理石の建物が沢山並んでいました。真中の建物は「真珠のモスク」と呼ばれる美しい白大理石造りのモティ・マスジット(Moti Masjid) 右側が、先ほど説明した貴賓謁見室ディワニ・カースだと思います。このあたりは地盤沈下が激しくて数mに達します。入口が地面に埋もれているのが判ると思います。SV1 SV2
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この城の中は世界遺産登録前には軍関係の施設であったことから、他の観光地と違い警備が厳重でした。
すごく警備の人のターバンが雰囲気があったので下のように写真を撮らせてもらいました。さらに右の写真のように横に並んだ写真も撮らせてもらいました。真中が私です。
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これがレッド・フォートの航空写真です。Google航空写真でレッド・フォートの広さを測ってみると南北が1160mで、東西が570mでした。

上の航空写真と比べて見てください。Wikipediaから転用させてもらった1857年以前の城塞の中の配置図です。つまり反乱軍と英国軍の攻撃を受け前のレッド・フォートです。
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2015年時点のインドの世界遺産を紹介します。タイトルが着色のものは私が訪問した7ケ所の世界遺産です。タイトルまたは写真をクリックすると、その記事を表示します。
クリックすると拡大文化遺産
  1983年 アジャンター石窟群               
  1983年 エローラ石窟群                 
  1983年 アーグラ城塞                   
  1983年 タージ・マハル                  
クリックすると拡大  1984年 コナーラクのスーリヤ寺院
  1984年 マハーバリプラムの建造物群         
  1986年 ゴアの教会群と修道院群            
  1986年 カジュラーホーの建造物群           
  1986年 ハンピの建造物群                
クリックすると拡大  1986年 ファテープル・シークリー            
  1987年 パッタダカルの建造物群            
  1987年 エレファンタ石窟群                
  1987年 大チョーラ朝寺院群               
  1989年 サーンチーの仏教建造物群          
クリックすると拡大  1993年 デリーのフマーユーン廟            
  1993年 デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群 
  1999年 インドの山岳鉄道群               
  2002年 ブッダガヤの大菩提寺              
  2003年 ビンベットカの岩陰遺跡群            
クリックすると拡大  2004年 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅  
  2004年 チャンパネール=パーヴァガドゥ遺跡公園  
  2007年 赤い城の建造物群 レッド・フォート      
  2010年 ジャイプルのジャンタル・マンタル        
  2013年 ラージャスターン州の6つの丘陵城砦群
クリックすると拡大  2014年 グジャラート州パタンのラーニキ・ヴァヴ
自然遺産
  1985年 カジランガ(カージランガー)国立公園    
  1985年 マナス(マーナス)野生生物保護区      
  1985年 ケオラデオ(ケーオラーデーオ)国立公園  
クリックすると拡大  1987年 スンダルバンス国立公園            
  1988年 ナンダ・デヴィ(ナンダー・デーヴィー)    
  2012年 西ガーツ山脈
  2014年 大ヒマラヤ国立公園

クリックすると拡大クリックすると拡大デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
  レッド・フォート Red Fort
  フマーユーン廟 Humayun's Tomb
クリックすると拡大  クトゥブ・ミナール Qutab Minar
地図上のアイコンマイナスを何度もクリックすると訪問した他の世界遺産の場所もわかると思います。

より大きな地図でデリーの世界遺産を表示

世界遺産 フマユーン廟(Humayun's Tomb) [インド]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 フマユーン廟(Humayun's Tomb)
インドの世界遺産のクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)を掲載したことを機会に、同じ首都デリーにある世界遺産のフマユーン廟(Humayun's Tomb)を再掲載したいと思います。本記事はブログを始めた15年前の2009年に掲載したもので、私の最も古い記事に分類されます。ただし2015年に若干記事をブラシュアップさせていただきました。
 2009年12月31日 掲載
 2024年09月03日 再掲載 閲覧数:2,930 nice!:205 CMT :76
 2024年09月04日     閲覧数:3,052 nice!:228 CMT :80
 2024年09月05日     閲覧数:3,192 nice!:254 CMT :83
 2024年09月06日     閲覧数:3,260 nice!:261 CMT :89
 2024年09月07日     閲覧数:3,328 nice!:263 CMT :94
 2024年09月08日     閲覧数:3,348 nice!:264 CMT :94

2009年12月31日掲載 タイトル : 世界遺産 フマユーン廟(Humayun's Tomb)
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これはデリーにある3つの世界遺産の一つであるムガール帝国第2代皇帝フマユーン(همايون)の霊廟(墓)です。インドのデリーは帰国の日の飛行機に乗るまでの時間で、3つの世界遺産を全て廻ることが出来る、うれしい街なのです。

フマーユーン皇帝は1530年に即位しましたが、1540年にスール族のシェール・ハンに大敗し、インド北部の君主の座を奪われてペルシアに亡命しました。しかしながら1555年に、アーグラとデリーを奪回して、北インドの再征服に成功しました。ところが、翌1556年に47歳で、突然に事故で死んでしまいました。フマーユーン死後の1962年に、ムスリマを信仰していたハミーダ・バーヌー・ベーガム王妃がデリーのヤムナー川のほとりに、亡き夫の壮麗な墓廟を建設することを指示し、サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤートゥッディーンと父ミラーク・ギヤートゥッディーン二人の建築家によって8~9年の歳月をかけてフマユーン廟を完成させたそうです。ハミーダ王妃は、フマーユーンの王妃であるとともに第3代皇帝アクバルの母でもありました。ちなみフマーユーン皇帝が37歳で亡くなった時、ハミーダ王妃は29歳で、即位したアクバル皇帝は13歳でした。ハミーダ王妃は1604年8月29日に77歳で生涯を閉じて夫の眠るフマーユーン廟に埋葬されました。下の肖像画はWikipediaから転用させていただいたハミーダ王妃フマユーン皇帝です。
 フマユーン皇帝の即位から墓廟(霊廟)完成まで
    1530年~1540年 皇帝在位
    1540年~1555年 ペルシアに亡命
    1555年~1556年 皇帝復位
    1562年~1571年 フマユーン墓廟を建設
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フマユーン廟の拡大した写真を紹介します。
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さらに拡大した写真を紹介します。フマーユーン廟はムガル帝国の廟建築の原型を示すと言われ、その建築スタイルはタージマハールにも影響を与えたそうです。
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正面からだと大きすぎて全体が撮れないために斜め45度から撮った写真を紹介いたします。フマユーン廟の建設を指示したハミーダ王妃は、ムガール帝国初代皇帝バーブルの皇子ヒンダールの信仰上の導師でもあったシーア派のペルシア人のシャイフ・アリー・アクバル・ジャーミーの娘でした。ちなみにヒンダールは、長男フマーユーンの異母兄弟にあたります。
フマーユーンがハミーダに一目ぼれして求婚しました。ハミーダ本人や彼女を好いていた皇子ヒンダールに反対されましたが、40日間求婚するという涙ぐましい努力の末に彼女が応じたという経緯があるのです。
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別の角度からの全景も紹介しまい。同じように見えますが、椰子の木の形の違いで同じ角度ではないことが判ってもらえると思います。実は建物は4方向が対称なのです。
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航空写真で四方対称の建物であることを確認できます。


正方形の敷地全体も航空写真で紹介します。West Gate(左側の門)から中央までの道がメインルートです。我々もここから入りました。


フマユーン廟の門です。これをくぐると上の写真のフマユーン廟が目の前に現れます。このあたりが紹介したリスが寄ってくる場所でした。


フマユーン廟側から見た入口側の門です。


上の写真と似ていますが別の門です。フマユーン廟は正方形の建物ですが、そのフマユーン廟はさらに大きな正方形の敷地に立てられています。入口の門から見て右側の門です。


こちらの門は左側の門です。フマユーン廟の中からの景色です。


正方形の敷地の中にはこんな建物もありました。


上に上がる階段です。すごく急な階段でした。


内部を紹介します。フマユーン廟をお寺や宮殿と思われている方も多いと思います。以前にご紹介したとおり、実はお墓なのです。あの有名な総大理石の巨大な建物であるタージ・マハールも同じくお墓なのです。私も初めて、ここに来るまでは知りませんでした。そしてタージ・マハールは、このフマユーン廟をモデルにして作られたそうです。真ん中に墓石らしいものが置かれています。


別の角度から見た墓石です。
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天井は大理石できれいに飾られています。写真をクリックして拡大すると大変な細工であったことが感じてもらえるかもしれません。
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この廟には約150人もの死者が埋葬されたとされているそうで沢山の墓石(石棺)がありました。
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入口からフマーユーン廟の通路の右脇に古い廟が2~3っあります。これらも是非見てほしいです。
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崩れかけた入口が時代を感じさせてくれます。クリックすると中央の建物が表示します。
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更に、もうひとつ紹介いたします。これらは全てフマーユーン廟の敷地にあるので見過ごさないように!
インド観光で最大の障害の一つが暑さです。ちょうど2月だったので一番気温の低い時期で、一番すごし易い季節です。ただしホテル代は夏に比べると2倍に跳ね上がります。もしかして世界で、もっともホテル代の高い国かもしれません。物価が非常に安い国のひとつなのに、これには驚きでした。


クリックすると拡大クリックすると拡大デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
   レッド・フォート Red Fort
   フマーユーン廟 Humayun's Tomb
   クトゥブ・ミナール Qutab Minar
クリックすると拡大地図上のアイコンマイナスを何度もクリックするとインド全体からの位置関係が判ると思います。
フマーユーン廟はインドで最初に泊まったタジマハールホテル( )に比較的近い場所にありました。

世界遺産 クトゥブ・ミナール (Qutab Minar) [インド]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

「インドで最も高い石造りの塔」のクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)です。そのデリーのクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)への2度目の訪問の機会を得ました。初めて来た時は世界遺産であることは知らないで見学をさせてもらいましたが、その迫力に驚いたものです。
クトゥブ・ミナール(Qutub Minar, ヒンディー: क़ुतुब मीनार)は、インドのデリーにあるミナレットで、インド最古のミナレットとされるそうです。日本で言えば鎌倉時代の西暦1200年ごろに奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられたそうです。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっています。

そして帰国後に世界遺産であることを知り、なるほどと納得したものです。残念ながら初めて来たときは塔の表面の文様がこんなにすばらしいとは気が付きませんでした。是非、もう一度、訪れたいと思っていましたが、今回、実現しました。この写真はクリックして見てください。表面の模様に驚かれると思います。
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上の写真は見上げたものですが同じ場所を遠くから写してみました。手すりの模様がよく判ると思います。
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近くに行くとその迫力に圧倒されます。1993年にデリーで初めて世界遺産に登録されました。
同じデリーにあるフマユーン廟も1993年に同時に世界遺産に登録されました。
同じ街で同じ年に2つの世界遺産が登録されたことはすばらしいです。デリーには歴史的なすばらしい建物や遺跡が沢山あることの証明であるような気がします。2007年に赤い砦レッド・フォートが世界遺産に登録されてデリーの世界遺産は3っになりました。
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遠くから全景を撮りました。デリーの3ケ所の世界遺産の中でここが最も気に入りました。この高い石造りの塔の受ける印象からかもしれません。建物の形からここがモスクであったことがうかがわせます。
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はじめて、この高い石造りの塔を見たのは2004年9月15日でした。その時と同じ角度の写真を掲載します。その時は、じっくり見れなかったので、また来たいと思っていました。クトゥブ・ミナールに来て目を引くのは巨大な石造りの塔です。高さは72.5mでインドでは最も高い石造りの塔です。そしてインドで1番古いイスラムのミナール(塔)でもあるそうです。さらに世界で最も高い石造りのミナレットでもあるそうです。ちなみに世界第二位の石造りのミナレットはアフガニスタンのジャームのミナレット(60m)です。
是非、拡大して見てください。昔、撮った写真と同じ角度のものを最新の写真から探しました。
建設当初は約100m(7層)の高さがあったそうですが落雷・地震などの天災により被害にあったが、その時代の権力者により修復が行われ現在の高さ72.5m(5層)になったそうです。3層までは赤砂岩でその上は大理石で出来ています。
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ここは塔だけでなくて廻りの建造物も必見です。これはインド最古のモスクです。


クトゥブ・ミナールには今は登ることは出来ませんが、その入口の上の飾りを撮りました。
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世界遺産として登録されている名前は「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」です。建築群とあるように塔だけでなく廻りには沢山の建築物があります。その建築物の壁は文字のような文様で飾られています。その壁の文様は印象的でした。
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アーチの部分にも沢山の彫刻が施されていました。


建物の中も文字の文様で埋め尽くされていました。
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特に沢山の彫刻をされた柱が目を引きます。柱は同じ形のものが使われているのが普通と思いますがここでは違います。よく見ると柱の形や彫刻がすべて違っているのに気がつかれると思います。ここの遺跡の一つの特徴が柱です。これらの建築群はインドではじめてのイスラム教のモスクとして建てられました。いろんな時代のいろんな宗教の寺院(ヒンドゥー教寺院やジャイナ教寺院)を解体して集められたためにいろんな文様の柱が使われているとのことです。
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すばらしい柱ばかりです。イスラム教では偶像崇拝は禁止されていましたが、写真をクリックすると女神の像の入った柱も見つけることが出来ます。こちらの角度から見るとよく判ると思います。これがここの遺跡の特徴なんです。
インドに攻め込んだトルコ人のアイバク将軍によってイスラムのモスクとして建てられたものでヒンドゥー教・ジャイナ教の沢山寺院(一説によると27の寺院)などを破壊し、その石材を転用して制作されたものと推測されています。そのためヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっていると説明されていました。それもいろんな時代の様式だそうです。でもイスラムの雰囲気は今は塔だけで全般的にはヒンドゥー様式のような気がします。写真をクリックしてみてください。柱の彫刻がよく判ります。


インドでは赤砂岩がよく使われますがシンプルな花崗岩のような柱もありました。


文様もいろいろありました。


柱の前で記念撮影です。真中のインドの女性と子供さんは依頼されて一緒に撮っているのだと思います。
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日本のお坊さんも見学にこられていました。


この鉄柱が有名なんです。1600年前の鉄柱だそうです。鉄柱のネットの説明は以下のとおりです。
モスクの中庭に、4世紀に鍛造されたという高さ 7.2メートル・重さ6トンの鉄柱(チャンドラヴァルマンの鉄柱)が立っている。
鉄柱は極めて良質の鉄鉱石を木炭で還元し、少しずつ作り出した古代鉄を集めてつくったもの。鉄柱の純度は98%である。鉄柱の頂点部分には穴があいており、ヒンドゥ教ヴィシュヌ神を乗せたガルーダの彫像が奉られていた、と考えられている。鉄柱の基部には「偉大な王チャンドラ」と刻まれた碑文がある。チャンドラとは、ヒンドゥ教を奉じていたグプタ朝(320~550頃)チャンドラグプタ 2世(在375~413頃)と考えられている。
この鉄柱だが雨ざらしにもかかわらず、錆びずに約1600年経つ今も現存しており、世界七不思議にあげている人もいる。インド人の間では、背中に鉄柱をあて鉄柱越しに腕を回して、自分の手を掴めると幸せになる、と言われている。
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鉄柱には文字が書かれていました。


遺跡の雰囲気が高い建物も沢山ありました。


寺院と言うよりは遺跡の雰囲気です。


無造作に石の柱などが転がっています。広い敷地内に点在しているのです。


この横に倍の高さを目指した塔(アライ・ミナール/Alai Minar)の底部の残骸が残っています。
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芝生の上では沢山の人がくつろいでいました。ゆっくりすることで、より雰囲気を味わえるような気がします。


クリックすると拡大クリックすると拡大デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
  レッド・フォート Red Fort
  フマーユーン廟 Humayun's Tomb
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地図上のアイコンマイナスを何度もクリックすると訪問した他の世界遺産の場所もわかると思います。

より大きな地図でデリーの世界遺産を表示

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