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辰鼓楼(しんころう) [出石]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
かつて但馬国出石郡出石にあった出石城の城下町であった兵庫県豊岡市出石町(2005年まで兵庫県出石郡出石町)のシンボル的存在なのが上の写真の辰鼓楼(しんころう)です。本記事では辰鼓楼を撮った写真や、出石で撮った写真の中に偶々辰鼓楼が映り込んでいたものや、過去(数十年前)に撮った写真を紹介したいと思います。辰鼓楼は出石城が廃城となった1871年(明治4年)の同じ年の1871年6月1日(明治4年4月14日)に鼓楼(ころう)あるいは太鼓楼(たいころう)として建てられ、太鼓で時を告げていたそうです。今から152年9ケ月前のことです。辰鼓楼が建てられる以前は、山上にあった寺院が出石藩から給金をもらって鐘をつき、城下に時刻を知らせていたけれども、廃藩置県で寺への給付が途絶えたため、太鼓を鳴らして時を知らせる楼閣として辰鼓楼が建てられたと言われてるそうです。辰鼓楼の高さは、高さ約5mの石垣を含めて19.6mだそうです。辰鼓楼本体は木造4層だそうです。掲載した全ての写真に辰鼓楼が写っています。
こちらが142年6ケ月前に取り付けられた時計です。
現在のように時計が取り付けられたのは、辰鼓楼が建てられて10年後の1881年9月8日だそうです。その経緯は前記事でも紹介したように1881年に地元の旧藩医の池口忠恕が大病を患った際に、地元民から御見舞いや全快祝いを受けたことへの御礼として機械式大時計を寄贈し、同年9月8日から時計台として稼働し始めたそうです。同年8月12日には北海道の右の写真の札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)が稼働していることから日本国内で二番目に古い時計台になったそうです。勝手な解釈として、和式の時計台としては日本最古と言えるのかもしれません。建物の一部ではなく塔形式の時計台としても日本最古と言えるのだと思います。右の札幌市時計台の写真は北海道観光支援サイトから転用させていただきました。
出石城側から見れば時計台になる前の辰鼓楼の姿です。こちらは三の丸から見た辰鼓楼を紹介したいと思います。
2枚前の写真のように一番上の部分を拡大いたしました。
大時計と大時計を寄贈した旧藩医の池口忠恕(いけぐち ちゅうじょ)の説明板が建てられていました。内容を枠内に転写する形で紹介します。池口忠恕は西洋医学を勉強する中で西洋の時計台のことを知ったのだと感じました。そして遠方から来診があるほどの名医だったそうです。出石藩の弘道館(こうどうかん)は6代藩主・仙石政辰が作った学問所から始まった藩校で、天下三弘道館(水戸藩、佐賀藩、出石藩)の中で最も古いと言われています。適塾は福澤諭吉、大村益次郎などの多くの名士を輩出した蘭学の私塾です。
池口忠恕 1851年~1908年
福澤諭吉 1835年~1901年
大村益次郎 1825年~1869年
大時計と池口忠恕辰鼓楼(しんころう)は明治4年の建設当初、太鼓櫓(たいこやぐら)とも呼ばれ太鼓により時刻を知らせていました。この建物に明治14年、大時計を寄贈したのが池口忠恕です。彼は嘉永4年(1981)に出石藩のご典医の家系に生まれ、藩校「弘道館」に学び、明治4年には大阪に出て緒方供庵の「適塾」で西洋医学を習得しました。明治13年に帰郷し開業医となった池口は、翌14年に病気の全快祝いとしてこの大時計を寄贈しました。まだ時計などあのりなかったこの時代、この大時計の寄贈のために池口は、職人2人に時計技術の習得もさせました。
池口はまた名医としても知られた人物で、遠方からも来診があり、さらに貧困家庭からは薬代をとらぬなど慈悲深い人物でもありました。
三の丸の遠くから撮った写真です。時計が取り付けられている反対側には観光客の人が沢山いますが、こちら側は少なかったです。逆光にならないのできれいな写真が撮れます。
拡大いたしました。
出石城の本丸の西隅櫓の中からの辰鼓楼の写真を3枚か紹介します。中央辺りに松の木の上に辰鼓楼の頭の部分が出ています。
辰鼓楼の辺りに大手門があったことから江戸時代にも本丸から同じように大手門と城下町が見えていたのだと思います。
西隅櫓の別の場所からは辰鼓楼がよく見えていました。
辰鼓楼の部分を拡大いたしました。
冒頭の写真に戻ります。
少し遠くからの写真ですが上の写真と冒頭の写真は、この写真から切り取ったものです。
近くから撮りました。
辰鼓楼の下は堀状の池になっていました。
下が辰鼓楼( )を中心としたGoogleマップでの航空写真です。江戸時代には辰鼓楼のところに出石城の入口の大手門がありました。
赤色ライン(━━)で囲った範囲が右の出石城想像図から推測される概ねの出石城の範囲です。黄色のライン(━━)が今回の出石の町の散策ルートです。
辰鼓楼
━━ 大手前通り
出石城の大手門があった場所から真っすぐに伸びる大手前通りから見た景色です、小さく辰鼓楼が写っています。
上の写真から辰鼓楼辺りを拡大しました。
こちらの大手前通りからの写真にも辰鼓楼が写っていました。
もう一枚、大手前通りからの辰鼓楼の写真を紹介します。大手前通りには土産物屋さんが沢山ありました。
今回の長男家族の記念写真です。
長女(末っ子)が7歳の時に出石に行った時の記念写真です。この写真と同じ場所で撮ろうと思ったのが上の写真です。右側2人が私の両親で、左端が私がその右隣りが長女(末っ子)です。
結婚した翌年の1月に家内の両親と雪の残った出石に行った時の写真です。左側の写真は、辰鼓楼の前で三脚を使って家内の両親と4人で撮った記念写真です。この時、皿そばは永楽そば(出石町宵田119)で食べました。この写真は記事を書く時に見つけたので、お店の前を通ったのにお店の写真は撮りませんでした。ちょっと残念です。上の写真はこの時から14年9ケ月後に撮りました。
昔の辰鼓楼の写真をヒョーゴアーカイブスさんから転用させていただきました。坂本書店發行の出石辰皷樓です。辰鼓楼は辰皷樓と書かれていました。この時代は辰鼓楼の横に電柱や電線がありましたが、今はありません。
書かれている文字は右横書きなので太平洋戦争以前の写真と思われますが、写っている車の形から100年より少し前の写真だと思われます。
ジンギス・カンの墓 [内蒙古]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2024年03月09日再掲載 タイトル:ジンギス・カンの墓
内モンゴルの記事「内モンゴルの大草原」を再掲載して同じ内モンゴルの本記事も紹介したくなって再掲載することにいたしました。
元々の記事に掲載していた動画「ジンギス・カンの歌」が見れなくなったので、今回3つの動画を追加掲載いたしました。
前記時の「内モンゴルの大草原」の記事は呼和浩特(●フフホト)に行った時に書いたものですが、今回の「ジンギス・カンの墓」は包頭(●パオトウ)に行った時に書きました。
2010年08月15日掲載
2013年10月14日ブラシュアップ
2024年03月09日再掲載 閲覧数 6,990 nice! 192 CMT 36
2024年03月12日 閲覧数 7,296 nice! 267 CMT 48
2024年03月14日 閲覧数 7,413 nice! 280 CMT 52
2024年03月18日 閲覧数 7,522 nice! 288 CMT 52
2010年08月15日掲載 タイトル:ジンギス・カンの墓
今年の高校野球の吹奏楽部の演奏は宇宙戦艦ヤマトが多かったです。
以前の高校野球ですが不思議な軽快な音楽が流れていました。聞き覚えがあるのですが、なかなか思い出すことが出来ませんでした。フレーズから、やっと思い出せました。ジンギスカンの歌でした。そこで、ジンギスカンの墓の写真を紹介いたします。内モンゴルに行ったときに行く機会がありましたが、おそらく日本人でこの場所に行かれた方は少ないと思います。
ジンギスカンの墓(Genghis Khan's Mausoleum 成吉思汗陵)の建物の中央部分を拡大してみました。
チンギス・カン(1162年頃? ~1227年8月18日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)で在位は1206年~1227年です。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服して、人類史上最強と言われている世界帝国「モンゴル帝国」を築き上げた人で、いろいろと謎につつまれています。
大きな建物なので、少し斜めから建物を撮りました。
紹介の墓は記念として1956年に作られました。チンギスカン陵(成吉思汗陵)と呼ばれており観光目的が大きいと思いますが、地元の人たちのよりどころになっているのも確かでした。地図で見ると場所はオルドスの高原の中南部で内モンゴル最大の町の包頭(パオトウ)から南に175kmの位置にありました。辺鄙な場所の上、新しい物なのに訪問者が多かったのが不思議でした。調べてみると中国の重要文化保護財に指定されていました。陵墓は敷地面積が5平方キロあるそうで、雄壮な感じがありました。
本当の成吉思汗(ジンギスカン)のお墓は見つかっていません。ジンギスカン(チンギス・カン)の死後、その遺骸はモンゴル高原の故郷へと帰ったそうです。場所は分かっていませんが地名は起輦谷で、いくつかある説の中ではモンゴル高原の中にあるヘンティー山脈の丘陵地が有力なようです。「元史」などの記述からチンギスと歴代のハーンたちの埋葬地はある地域にまとまって営まれたと見られていますが、その位置は重要機密とされ、『東方見聞録』によればチンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は秘密保持のために全て殺されたといわれています。また、埋葬された後はその痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたとされています。チンギスは死の間際、自分の死が世間に知られれば敵国が攻めてくる恐れがあると考え、自分の死を決して公表しないように家臣達へ遺言したとされたそうです。右下のチンギスカン肖像画はWikimediaから拝借いたしました。
建物はパオ式建築物が三つ連なり、正殿、寝殿、東殿、西殿などに分かれています。モンゴル族にとっては聖地で年に4回祭りが行われるそうです。特に3月21日は、伝統の祭祀日とされ、盛大な弔いの儀式が行われるそうです。成吉思汗の呼び方も微妙に沢山あります。
下の縦書き文字はモンゴル文字のジンギス・カンです。モンゴル文字は行が左から右へ綴られる左縦書きです。昔の日本語や中国語は右縦書きでした。
ジンギス・カン ジンギスカン
チンギス・カン
チンギス・ハーン
Cenghis Khan
Čingγis Qan
Чингис Хаан
成吉思汗
こちらの人にとっては聖地ですね。建物の中では伝統的な儀式が行われていました。聞いてみると観光のためではなくて親戚が集まった記念の式だそうです。真中に積み上げられているのは羊の肉です。
座った角度からの写真です。これらの設備が建物の中にあるのがすごいです。
建物の中ですが大事なものは四角いパオのような建物に入っていました。博物館も兼ねているようです。
謎のものが一つ! 入口からこのお墓までの道の両側にどう見ても日本の形の真新しい灯篭が並べられているのです。
ガイドの人も使われた経緯やこれが日本の形の灯篭であるとは知りませんでした。
日本向けに作られているものを、ここの建設担当者が見てこれが良いと思ったのではないでしょうか。
明らかに階段は新しいです。
このような旗を見るとジンギスカンの聖地と感じられてきます。
男性が帽子をかぶっているのが印象的でした。
ジンギスカンの墓の脇には、いわくありげな塚もありました。この塚はオボーと呼ばれるようです。オボー(овоо)はモンゴルで建てられる、一種のケルン(標柱)だそうです。モンゴルの平原や平原にある小高い丘、あるいは山頂や峠のような高所に建てられることが多いそうです。オボーは主にチベット仏教の祭礼が行われる場所であるとともに、山岳信仰、テングリといった宗教的意味を示す役割もを持つそうです。右の写真は撮っている方向の角度は違いますがWikipediaに掲載されていた同じものと思われる写真です。
航空写真をやっと見つけました。4kmの一直線の道が印象的です。地図内のアイコンを数回クリックすると、この位置が判ってくると思います。
地図には成吉思汗陵と書かれており住所は内蒙古自治区鄂尔多斯市伊金霍洛旗布拉格路とありました。近くに大伊金霍洛遺址と書かれた場所がありました。そこの住所は内蒙古自治区鄂尔多斯市伊金霍洛旗でした。
一直線に4km延びる道の左上が成吉思汗陵で左下が大伊金霍洛遺址です。遺跡に対して何らかの関係で作られたものと思われます。大伊金霍洛遺址の伊金霍洛(エジンホロ)はモンゴル語で「君主の聖地」を意味するそうです。
ジンギスカンの墓(成吉思汗陵)から大伊金霍洛遺址の方向を見た景色です。クリックすると道が真っ直ぐに4km伸びていることを感じてもらえると思います。
真っ直ぐに延びた道から反対にジンギスカンの墓(成吉思汗陵)の方向の写真です。ただし500m離れた場所に建つ東門の内側なので墓までは300~400mの距離だと思います。
それではネットから拝借したジンギス・カンの歌を紹介いたします。是非とも、プレーボタンを押して歌を聴いてみてください。歌っているグループはジンギスカン(ドイツ語: Dschinghis Khan)で1979年から1985年にかけて世界的に活躍した西ドイツの音楽グループです。
上の動画が見れなくなったので、別のサイトの動画を掲載しました。
Der Auftritt von Dschinghis Khan zu „Dschinghis Khan“ bei der Starparade 14.06.1979
こちらの方が3ケ月ほど古い動画です。
Der Auftritt von Dschinghis Khan zu „Dschinghis Khan“ bei der ZDF-Disco 26.03.1979
原文はドイツ語ですが歌詞を日本語に訳したサイトがありました。 その中のジンギスカンの歌詞の日本語訳を紹介いたします。ただし日本で歌われている日本語の歌詞とは、まったく違います。SMAPの日本語の歌はこちらです。→❶ ❷
1000人もの男たちが草原の風をめぐって賭けをした。 そのとき、ある男が馬で前を走りぬけ、皆盲目のように それについていった。それがジンギスカンだった。 馬のひづめが砂を叩き付け、あらゆる国々に不安と恐れをもたらした。 稲妻も雷も彼らを引き止めることはできなかった。
ジン、ジン、ジンギスカン 騎手よ、皆の衆よ、騎手よ、どんどん行け ジン、ジン、ジンギスカン、さあ同士よ、さあ飲め、喧嘩せい、どんどん。
ヴォッカを取ってこい、ホホホホー だっておいらはモンゴル人だ ハハハハー 悪魔だってへっちゃらさ
ジン、ジン、ジンギスカン、男達よ、男達よ いつものように踊れよ、そして彼の笑い声が聞こえる。 ホホホホー ますます大きな声で笑う ハハハハー そして彼は壷を一気に飲み干す。
そしてなんでも気に入ったものは 自分のテントに持って入った。 世界で彼を愛さない女はいなかった。 一夜で7人の子供をもうけた。 そして彼の敵については笑うだけだった。 なぜなら彼の権力に立ち向かう人はいなかったから。
ジン、ジン、ジンギスカン 騎手よ、人々よ、騎手よ、どんどん行け ジン、ジン、ジンギスカン、さあ同士よ、さあ飲め、喧嘩せい、どんどん。 ヴォッカを取ってこい、ホホホホー だっておいらはモンゴル人だ ハハハハー 悪魔だってへっちゃらさ ジン、ジン、ジンギスカン、男達よ、男達よ いつものように踊れよ、そして彼の笑い声が聞こえる。 ホホホホー ますます大声で笑う ハハハハー そして彼は壷を一気に飲み干す。
もう一つジンギス・カンの歌(日本語)の動画を紹介します。歌っているグループは2004年1月14日~2015年3月3日に活動したBerryz工房です。
右の写真はフリー百科事典Wikipediaから転用させていただきました。
歌の歌詞はこちらです。→ポチッ
日本語のジンギスカンの歌の歌詞を紹介します。上で紹介した原文のドイツ語の歌詞を日本語に翻訳したのとは全く違います。上のBerryz工房の動画を見ながら、この歌詞を目で追ってみてください。
チャンスを待つよじゃ あいつに負ける ウッハ ウッハ 二度とは燃えない 嵐が吹くぜ ウッハ ウッハ
キラキラ輝く御殿 ひとめぼれしたあの女 黄金(こがね)をつかむのさ ウッハ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー 一緒に手をかざせ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー お前も手をかざせ
打ったら攻めろ むかえ撃ちつぶせ ウッハ ウッハ あとにはひかない 突撃ジンギスカン ウッハ ウッハ
骨までしゃぶる悪玉を 右や左で切りきざみ 勝利をつかむのさ ウッハ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー 一緒に手をかざせ
ジンジンジンギスカン ヘイ ブラザー ホー ブラザー ナイス ブラザー ゴー ブラザー ジンジンジンギスカン ヘイ ライダー ホー ライダー ナイス ライダー ゴー ライダー 若者ならワッハハハー チャンスだ今 ワッハハハー お前も手をかざせ
内モンゴルの代表的な都市の一つである包頭市(包头市)からジンギス・カンの墓への道を青色ラインで紹介します。五當召(五当召)はすでに紹介したラマ教の聖地です。
ジンギス・カンの墓
包頭市
五當召(五当召)
より大きな地図で ジンギス・カンの墓 を表示
冒頭の内モンゴルとモンゴル国の小さな地図のフルサイズを掲載します。内モンゴルの大草原 呼和浩特 [内蒙古]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2024年3月3日再掲載 タイトル:内モンゴルの大草原 呼和浩特
3月に入って、14年8ケ月前に掲載した過去記事の内モンゴルの記事にアクセスがあったので、内モンゴル(内蒙古)の記事の中で代表的な本記事を再掲載させていただきました。ちなみに内モンゴル(内蒙古)とは、中国の内陸部にあるモンゴル族の自治区で、国であるモンゴル国(外蒙古)に接しています。面積と人口密度を比較しました。
内モンゴル 1,183,000km² 23人/km²
モンゴル国 1,566,500km² 2.1人/km²
両モンゴル合計 2,749,500km² 9.9人/km²
日本 377,974km² 334人/km²
今までに内モンゴルの記事は本記事を入れて6つ掲載しました。着色タイトルをクリックすると記事を表示するので興味のある方はクリックしてみてください。
内モンゴルの馬
ジンギス・カンの墓
ラマ教の聖地「五當召(五当召)」
本場 内モンゴルの しゃぶしゃぶ 写真→
内モンゴルで「ゆう麺(莜面)」を食べる
内モンゴルの大草原 呼和浩特
2009年06月30日掲載
2015年08月02日ブラシュアップ
2024年03月03日再掲載 閲覧数 5,895 nice! 102 CMT 30 再掲載直前
2024年03月04日 閲覧数 6,099 nice! 134 CMT 37
2024年03月05日 閲覧数 6,236 nice! 154 CMT 46
2024年03月06日 閲覧数 6,455 nice! 176 CMT 60
2024年03月07日 閲覧数 6,655 nice! 209 CMT 62
2024年03月08日 閲覧数 6,742 nice! 222 CMT 62
2024年03月09日 閲覧数 6,823 nice! 237 CMT 62
2009年06月30日掲載 タイトル:内モンゴルの大草原 呼和浩特
内モンゴルの大草原に行った時の写真です。
馬や遊牧民の住居の パオ が点在しています。ここは本当に広さを感じます。この写真だけは是非クリックしてみてください。馬たちも雰囲気を盛り上げてくれるはずです。
特に下の写真は「地面の上雲の影が散らばっている」感覚は実際に来て味わってほしいですね。地面の黒いところが雲の影です。大草原の、この場所は紅格爾敖包(ホンゲル アオバオ)というところのようです。海抜1065 m呼和浩特(フフホト)からさらに1000m上った広大な大地がこの場所なのです。→ポチッ
標高2000mを感じさせない平原でした。地平線の向こう側から車でやってきました。
真直ぐの道でした
呼和浩特を朝早く出発した上に、緑の草原になる前の季節だったので観光客の人は少なかったです。
右の写真はネットから拝借しましたが、観光シーズンには、この門のようなところで、踊りなども披露されているようでした。
石を積みあげられたものを「敖包」と言うようです。つまりこれが「紅格爾敖包」と呼ぶものかもしれません。PM2.5は無縁の世界でした。
敖包の前に仔羊がいたので記念撮影をさせてもらいました。飾られている青と白の布は大草原の空の色と同じでした。 2016年9月SV 2017年6月SV
上の写真の石の積まれた紅格爾敖包のGoogleマップの航空写真です。のアイコンをクリックすると拡大します。のアイコンを数回クリックすると広範囲を表示します。
パオが並んでいるあたりにも歩いて行ってみました。
村の人とも話をいたしました。家の中も見せてもらいました。驚いたことに携帯がつながりました。
地面に映った雲の影が広さを感じさせてくれました。この辺りは希拉穆仁草原(シラムレン草原)のようです。
ゆったりとした丘にも登ってみました。
呼和浩特から大草原に登って行く時の景色です。山の上が平らな大草原となって北に広がっているのです。
これが登って行く道でした。
ひたすら登るだけなので途中で乗っている車がオーバーヒートしました。幸いにもエンジンが冷えたら走ることが出来ました。
大草原から呼和浩特に戻ってきて夕食にいたしました。街が見渡せる丘の上のレストラン(右下の写真)で歌手の人が歌ってくれたときの写真です。歌い終わると男性が持っている酒を3杯飲ませれる習慣で、きっちり飲まされました。
酒の種類は白酒(パイチュウ)ですが、ここに来たら馬乳酒を飲みたいですね。
なんと、馬乳酒=カルピスハイ でした!!
やっぱり、ここに来たら羊の肉ですね。
ここは日本人に似た人の比率も多い気がします。
Googleマップでのレストランの航空写真です。場所は青少年生態公園内の蒙古大营と呼ばれるレストランのようです。左端に沢山並んでいる丸いものは、上の方でも紹介したパオ(モンゴル族の移動式住居)で、この中でも食事が出来るのだと思います。右はネットから4枚を転用させていただき8秒ごとに表示するようにいたしました。
航空写真で場所を紹介します。紅格爾敖包はいろんな場所にあるので特定の地名ではないようです。今回行った紅格爾敖包が赤色マーク( )のところです。
呼和浩特(フフホト)の町中( )から紅格爾敖包( )までの車での走行距離は93.7km(88km)です。
紅格爾敖包 大草原 食事をしたレストラン 呼和浩特
五當召(五当召) ラマ教の聖地
冒頭の内モンゴルとモンゴル国の小さな地図のフルサイズを掲載します。
本場の出石で「出石皿そば」を食べました。正覚田中屋 [出石]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
長男家族との兵庫県の出石訪問記事の続きです。右の写真は長男がもうすぐ一才の時の写真です。この時、結婚してすぐに買った神戸市須磨区の私の自宅に住んでいました。その下の写真は娘(長女)が生まれた時の長男・長女・次男です。長女が生まれて0歳の時に東京に転勤になり今は千葉県に住んでいます。
今回紹介する「出石そば」は上の写真のように沢山の皿に乗せられて出てくるのが特徴です。一人前は5皿に盛られ出てくるのが通常ですが、男性なら10皿程度を食べるのが普通だと思います。このような食べ方が「出石そば」なので、「出石皿そば」と呼ばれています。我々が入ったお店の「出石皿そば」は地元・出石産のそば粉を使った二八そばでした。メニューを見ると皿そば以外のそばは産地や配合に、いろんな使い分けをされていました。出石には沢山の「出石皿そば」のお店ありますが、出来る限り美味しいお店で食べたいと思いました。大行列のお店もあり迷ったので、先に酒蔵に行ってそこで美味しいお店を聞くことにしました。元々、出石で日本酒を買うつもりだったのです。
前記事で紹介した右の写真の出石酒造で「近くで美味しい出石そばのお店を3軒教えてほしい」とお願いして推薦してもらった出石そばのお店が次の3つでした。
正覚田中屋 出石町本町97
官兵衛 出石町八木68
そば庄 出石町鉄砲27-13
出石の町の中でGoogle地図に登録されている出石皿そばのお店の数を数えてみました。見落としはあると思いますが37軒でした。それをプロットしたのが下記のGoogle地図の航空写真です。ネットで検索すると出石町内に40数店あり、出石皿そば協同組合に登録されている店数は39軒(紹介一覧33軒)でした。今森製麺所( )は長男家族が父の日のプレゼントとして出石そばを私に送ってくれたお店で、今回は長男が蕎麦を打つためにそば粉を買いました。
出石皿そば店 そば庄 正覚田中屋 官兵衛
出石酒造 今森製麺所 兼業 or 臨時休業
紹介されたお店は遠くにはないと思いとりあえず蕎麦店を探しながら、数十年前に辰鼓楼をバックにして撮った右の写真と同じ構図の記念写真を撮るために辰鼓楼まで行くことにしました。右側2人が私の両親で、左端が端が私がその右隣りが娘です。その娘も結婚して3月中旬が初出産の予定日です。この写真は家内が撮ってくれているのだと思います。先ずは出石酒造の土蔵の酒蔵の前から辰鼓楼が見える右の写真の位置までの道沿いの景観を紹介したいと思います。
左側が出石酒造の土蔵の酒蔵で、右側が同じ位置から土蔵の向かい側(北側)の景色です。浄土宗の昌念寺が見えます。山号は済船山です。1864年7月に禁門の変で長州が敗れて桂小五郎が京都を逃れて最初に隠れたのが出石の昌念寺だそうです。出石の町の中には桂小五郎居住跡(荒物屋跡)も残されています。SV1 SV2
出石酒造の土蔵の酒蔵と昌念寺の間から進んで行く方向を撮ったのが左の写真で、その道を進んで行って最初の十字路が右の写真です。
右の写真のお寺の名前は高福寺で、浄土真宗本願寺派のお寺です。元々は約650年前に豊岡市奈佐地区矢次山中腹に建立され、その後戦乱等で移転して今の場所に落ち着いたそうです。SV3 SV4
上の写真の右側の十字路の場所から出石城方向を見た写真です。出石城の大手門があった場所から真っすぐに伸びる大手前通りです。大手門があった場所の横に建っている辰鼓楼(しんころう)が見えます。右の写真は左の写真から切り取ったものです。SV5 SV6
辰鼓楼との記念写真を撮る場所に来ましたが、まだ逆光だったために出石皿蕎麦を食べた後に撮りに戻ってくることにしました。そして横を見ると出石酒造で推薦してもらった3軒の蕎麦店(正覚田中屋、官兵衛、そば庄)の中の1軒があったのです。幸いなことに人が並んでいなかったので、迷わずお店に入りました。入ったお店が下の写真の正覚田中屋でした。
店名 正覚田中屋
住所 兵庫県豊岡市出石町本町97
電話 0796-52-2048
創業 1992年4月29日
営業 10:00~17:00(売切れ仕舞い)
夜料理の予約可(事前確認要)
定休 毎週木曜日 第3水曜日 (祝日の時は営業)
お店の前に置かれていた品書きです。品書きに書かれていたのは、出石皿そば、十割蕎麦、とろろ蕎麦、鴨汁蕎麦、おろし蕎麦、すだち蕎麦、で、通品して、厚焼玉子、そばずし、そより・いか....、そば団子、わらび....でした。
お店に入ると興味深い空間がありました。井戸があるようでした。
水が湧き出していました。美味しい水があるからこそ、美味しい蕎麦が作れるのかもしれません。
2階の席に案内されました。左の引き戸から入ってきました。
味は大切ですが、食べる部屋の雰囲気も大切です。そういう意味でもゆったりとした個室だし、いい雰囲気で食べれました。
壁に貼られていた書です。さとる書とありました。店長の田中覚(たなか さとる)さんが書かれたようです。今回対応していただいたのも田中覚さんでした。
生きている
生きているということは 誰かに借りをつくること 生きてゆくということは 借りを返してゆくということ 誰かに借りたら 誰かにかえそう 誰かにそうして貰ったように 誰かにそうしてあげよう さとる 書
食べたのは、店のレイアウト図の「食べた部屋」と書き込んだ部屋で、そこには6人掛けのテーブルが2つ置かれていて入口から奥側のテーブルに座りました。右の写真のテーブルに座りました。レイアウト図と右の写真はホームページから転用させていただきました。
お品書きです。出石皿そば990円、十割蕎麦生古粉1320円、とろろ蕎麦1265円、鴨汁蕎麦1485円、おろし蕎麦1265円、すだち蕎麦1265円で、厚焼玉子850円、かまぼこ550円、そばずし750円、焼き以下いか770円、そば団子(そば茶付)660円
出石皿そばの部分を紹介します。三百年の伝統 出石産(にじゆたか) 石臼挽き粉使用 ◇出石皿そば(五皿) 990円
石臼挽き粉で打った二八そばは黒く そば本来の味と香り・・・ 出石焼の小皿にもり、山芋、卵などの薬味で食すのが特徴。
◇追加一皿につき180円
※オリジナルそば通手形がもらえる条件は 男性 20皿 女性 15皿 小人 10皿
通しで揚げた蕎麦が出てきました。
大人3人の内、帰りに運転しない2人はビールを飲むことにしました。こちらが飲物のメニューです。 日本酒の部分に我々が試飲した3本が書かれていました。出石と言えばやっぱり出石酒造の楽々鶴(ささづる)のようです。我々が試飲した原酒と上撰と純米酒でした。我々は帰ってから飲むのでここでは、やっぱりビールにしました。
やっぱりビールはいいですね。ビールには昆布の佃煮が付いていました。
出石皿そば用の薬味が出てきました。左上から山芋、卵、ネギ、わさび、です。
皿そばが並び始めました。先ずは5皿×5人前を頼んだので25皿を店長の田中覚さん自らが運んでくれました。出石そばの歴史をWikipediaから転用する形で記載させていただくと、江戸時代中期にあたる宝永3年(1706年)に信濃国上田藩から国替えで但馬国出石藩の藩主になった仙石政明(仙石公)が、蕎麦職人を信州から連れてきたことが始まりとそれているそうです。皿そば形式(割り子そばの形態)で食べられるようになったのは幕末の頃で、屋台で供される際に持ち運びが便利な手塩皿(てしょうざら)に蕎麦を盛って提供したことに始まるとされています。現在の「出石皿そば」の形態が確立したのは約65年前の昭和30年代(1955年~1964年)だそうです。
久しく食べていなかった蕎麦寿司もお願いしました。
これが待望の出石皿蕎麦です。
記念写真を撮ってもらいました。いい記念になります。
テーブルの部分を紹介します。使われているお皿やその他の器は全て出石焼です。出石焼は出石町一帯で焼かれる磁器です。厚みがありますが陶器ではなく硬くて丈夫な時期で白色(白磁)が出石焼の特徴で、1784年(天明4年)に伊豆屋弥左衛門が出石郡細見村に土焼の窯を築いたことが始まりとする説が史料の信憑性の高さから一番有力とされていますが、諸説あるそうです。1801年(享和元年)の藩窯開設以降は本格的に生産されるようになったそうです。いずれにしても240年近い歴史のある焼きものです。
蕎麦の乗った皿が2段積みになっているのも特徴の一つだと思います。
お皿ごとに違った絵柄や文字が書かれていて楽しめました。
これを見て頑張って食べる人もいると思います。
20皿食べると990円+180円×15=3690円です。
結局、追加も入れて50皿食べました。長男が20皿食べたので、そば通手形をもらいました。
こちらがいただいたオリジナル通行手形(そば通手形)です。
お店を出てて辰鼓楼を背景に記念写真を撮ろうと思しましたが、まだ逆光が強いので蕎麦粉を買う目的で町を散策した後に記念写真を撮ることにいたしました。
辰鼓楼から離れる方向に歩いて振り返って写真を撮りました。土産物屋さんが沢山ありました。
人が少ないあたりにまで来ました。蕎麦粉を売っているお店は見つかりませんでした。
出石酒造で推薦してもらった「そば庄」もありました。遠くに「皿そば」と書かれているところは「出石そば処 桂」と思われます。
辰鼓楼(しんころう)のところまで帰ってきました。これなら記念写真が撮れそうです。辰鼓楼は1871年に建てられ、当初は太鼓で時を告げていたそうです。10年後の1881年に地元の旧藩医の池口忠恕が大病を患った際に、地元民から御見舞いや全快祝いを受けたことへの御礼として機械式大時計を寄贈し、同年9月8日から時計台として稼働し始めたそうです。同年8月12日には北海道の札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)が稼働していることから日本国内で二番目に古い時計台になります。
やっと記念写真を撮ることが出来ました。
数十年前に撮った右の写真とほぼ同じ場所で撮れたと思います。
辰鼓楼のところが出石城の大手門があったところです。立っているこの道は大手前通りです。
結婚した翌年の雪のころの1月に家内の両親と出石に来た時は「永楽そば」で出石皿そばを食べました。雪を投げている相手は家内のお父さんです。ストリートビュー(SV)を見ると永楽そば(永楽蕎麦)は今も昔のままでした。ただし昔の看板は「永楽皿そば」で今の看板は「永楽そば」です。
店名 永楽そば
住所 兵庫県豊岡市出石町宵田119
電話 0796-52-2540
営業 10:00~15:30
定休 毎週金曜日
SV ポチッ
出石酒造 楽々鶴(ささづる) [出石]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
出石城の次は出石皿そばを食べることですが、その前に夕食用の冷酒を買うために酒蔵に行くことにしました。出石皿そばを食べる前に酒蔵に行くことにした理由は、地元の酒蔵で出石皿そばの推奨するお店の名前を聞くことでした。目指した酒蔵は316年前の宝永5年(1708年)に創業した出石酒造でした。宝永3年(1706年)にお国替え(移封)で信州上田藩の仙石政明(仙谷公)が出石藩の藩主になりましたが、その仙石政明が宝永5年(1708年)に酒の献上を命じたという史実から創業年を宝永5年(1708年)としたそうです。したがってそれ以前から出石酒造はあったことになります。当時の酒蔵の名前は「かずかや門垣屋」だったそうです。
仙石政明は仙石氏の4代当主で出石藩の11代目の藩主になります。上の写真の左側の敷地はすべて出石酒造です。
この航空写真の下方向(南方向)にある出石城から出石のシンボルの辰鼓楼( )の横を通って本町通りのところを右に曲がって3/4程度少し進んだところが上の写真の場所です。緑色に着色したエリアが出石酒造の敷地だと思われます。右は辰鼓楼での昔の記念写真と昔に買った出石焼の写真です。
辰鼓楼 明治初期(1881年)の時計台
出石酒造
正覚田中屋 出石皿そば
虹洋陶苑 出石焼窯元
土産物店街+家老屋敷
━ 散策ルート
突き当りを左に曲がると出石酒造の販売場所の入口です。左側の敷地が全て出石酒造です。
上の写真の突き当りを左に曲がってすぐの景色です。左側の建物が全て出石酒造です。販売場所のところに楽々鶴と書かれています。
入口に近づきました。
ここが入口です。
名前 出石酒造(有)
住所 兵庫県豊岡市出石町魚屋114-1
電話 0796-52-2222
営業 9:30〜18:30
定休 不定休
創業 宝永5年(1708年)
のれんの正面から撮りました。
出石酒造から850mの距離にある石部神社(豊岡市出石町下谷62)の総代をされているようです。Wikipediaによると石部神社の創建は不詳ですが、社伝では坪井村(現:出石町坪井)に鎮座していて、文禄4年(1595年)には毘沙門町の丘上に遷座、寛永3年11月に現在地に遷座したと伝えられている歴史のある神社です。
大きな釜が印象的でした。酒米を蒸すための釜でしょうか。
酒の入れ物が並べられていました。
さっそく冷酒を3本買いました。中易酒造と書かれたのれんも印象的でした。中易(なかやす)は出石酒造の社長(14代目/中易裕明)の名前で、中易酒店は今でもあって楽々鶴を売っているそうです。
出石酒造さんの推薦出石そば店は→ 正覚田中屋 官兵衛 そば庄 でした。
この3種類を試飲させてもらって上撰1本と上撰原酒2本を買いました。上撰原酒の1本は私の自宅に持ち帰り、残りの上撰1本と上撰原酒1本は長男宅用でした。
出石酒造はこの赤色の土壁づくりの酒蔵が有名です。270年程前に造られたとされているそうです。
土壁の酒蔵の写真をもう1枚紹介します。明治9年の出石大火で出石城下町の7割が火に飲まれ、こちらでも母屋などは焼け落ちたけれど、この土壁の酒蔵の一部は無事だったそうです。この土壁の酒蔵のおかげで酒造りが今に残ったのかもしれません。記録に残っている出石の大火は下記の通りです。
1823年5月15日 裏町大火 全焼269戸
1866年3月20日 初午大火 全焼68戸
1876年3月26日 出石大火 全焼966戸、半焼5戸、焼死5人、負傷14人
1926年6月22日 寺町の火災
1929年6月08日 寺町の火災
途中で夕食のベニズワイガニ(香住ガニ)や魚を買って、長男宅に着いてすぐに冷蔵庫に入れて冷やしました。夕食の前にみんなで「よふど温泉」に行き戻ってから、夕食の準備をしたのでお酒はよく冷えていました。
やっぱり美味しかったです。お酒の銘柄が楽々鶴(ささづる)になったのは、城崎温泉の近くに楽々浦(ささうら)という地名があり、出石城の藩主の仙谷公の別荘の名前が楽々園(らくらくえん)で、お酒のことを楽々(ささ)と呼ぶことから、これらをかけて楽々鶴(ささづる)となったそうです。Wkipediaには酒を意味する「笹の露」と仙谷公の別荘「楽々園」に由来していると書かれていました。
自宅で飲んだ時の写真を紹介します。この時はタラ鍋でした。
美味しくいただきました。日本酒はやっぱり鍋料理にぴったりでした。
新幹線からの富士山 2月9日(東京→大阪)と2月10日(大阪→東京) [日本]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2024年2月9日に1泊で関西に行きました。早朝移動のため、自由席特急券を事前に買っていたので、船橋から乘った快速が品川に6時23分に着いて最初の新幹線に乗りました。富士山を見ようと富士山側の2人席に座って最初に撮ったのが上の写真です。新幹線が富士市に入って最初に見え始めた瞬間の富士山です。空は薄曇りで、部分的に雲がかかった富士山でした。越前岳(愛鷹山系)の斜面から富士山が見え始めた時の写真です。時刻は7時16分04秒でした。
日本製紙の富士工場がある辺りの富士山です。富士山全体がよく見える場所です。気温が低いので煙突からの水蒸気は白く目立っています。撮影位置は昨年4月に掲載した記事「新幹線からの富士山」を見ていただくと判ると思います。上の写真の40秒後の7時16分46秒の写真です。
富士山の前にかかっている雲の形は刻々と変わっていきました。上の写真の1分40秒後の7時18分26秒の写真です。今回の記事の富士山の写真はクリックすると全て面積で16倍に拡大いたします。
上の写真の1分4秒後の7時19分30秒の写真です。短時間の間に見ている角度が変わるのが新幹線からの富士山です。
翌日の2月10日に関西から帰りの新幹線からの富士山の写真も紹介します。時間帯が昼であることも富士山はきれいに見えました。富士川を渡っている時の写真です。時刻は13時55分21秒でした。SV1 SV2
上の写真の4秒後の13時55分25秒の写真です。
上の写真の24秒後の13時55分49秒の写真です。
上の写真の48秒後の13時56分37秒の写真です。
上の写真の38秒後の13時57分15秒の写真です。
上の写真の11秒後の13時57分26秒の写真です。
上の写真の22秒後の13時57分48秒の写真です。越前岳の斜面に富士山が隠れつつある時の写真です。
越前岳はwikipediaから転用させていただいた右の写真の愛鷹山(あしたかやま)の最高峰(1504.2m)で火山だそうです。愛鷹山(別の呼び方である愛鷹山系)には北から黒岳(1087m)、前岳(1336m)、大岳(1262m)、鋸岳(1296m)、袴腰岳(1248m)、越前岳(1504.2m)、呼子岳(1310m)、愛鷹山(1187.5m)、位牌岳(1458m)があるそうです。
越前岳の西の斜面に富士山が隠れてた後、越前岳の東から富士山が出てきた時の写真です。上の写真の3分48秒後の14時01分46秒でした。
今回の11日前の2024年1月28日にも1泊で関西に行き、往復共に富士山側の2人席に座りましたが、2日間ともに雲が多く、1月28日の朝は富士山は完全に雲に覆われていて、1月29日は下の写真のように富士山の裾野が見える程度でした。時刻は15時30分38秒でした。右の写真は下の写真の2分23秒後の15時33分01秒で越前岳の斜面に富士山が隠れつつある時の写真です。
Wikipediaやネットに掲載されていた富士山の構造図を紹介します。富士山は最近10万年で急に大きくなったと考えられていることから「若い火山」に分類されているそうです。愛鷹火山(愛鷹山)の最高峰が越前岳です。下段の方は約数十万年前と約十万年前と約一万年前の3枚の図を切り替えて表示しています。
新富士火山 約1万年前から噴火開始
古富士火山 約10万年前~約1万年前に噴火
小御岳火山 約70万年前から活動
愛鷹火山 約40万年前~約10万年前に噴火
周辺火山 数百年前から活動
江戸時代の「出石城」 と 安土桃山時代の「有子山城」 [出石]
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前記事で紹介したように長男の家に訪問した後、みんなで最初に行ったのが出石城でした。上の写真の場所が出石城の御殿が建っていた本丸です。城の本丸と言えば普通は天守閣が建てられますが、出石城には天守閣は建てられなく広い御殿が建っていたそうです。上の写真の左端の建物が復元された本丸の東隅櫓で左端の石垣の上が稲荷曲輪で神社が建っています。最初に見た時は稲荷曲輪が本丸で天守閣が建っていたのだと思いました。右下の写真が復元された本丸の西隅櫓です。今回紹介する出石城は、標高321mの有子山山頂に天守のあった安土桃山時代の防御のための山城の有子山城の麓の居館と郭を改築する方法で造られた平和な江戸時代(1603年~1868年)の城です。
名称 出石城 別名:高城
城郭構造 梯郭式平山城
天守 建設されず
築城主 小出吉英
築城年 1604年
時代 江戸時代
廃城年 1871年
主な城主 小出氏、松平忠周、仙石氏
遺構 櫓、石垣、堀
住所 兵庫県豊岡市出石町内町
それでは順番に紹介していきたいと思います。福知山線と山陰本線を乗り継いで、長男の家の最寄駅に着いた後、迎えに来てくれた車で一旦長男の家に行って全員で出石城を目指しました。目的地の出石に近づいて来て出石の文字が増えてきました。
この有子橋の前の駐車場に車を停めて出石城を目指しました。この道からも出石城には登れますが、登城橋を渡ったところにある登城門から登りました。
駐車場の辺りから見た登城門と橋です。
門の正面まで来ました。橋には登城橋と名前が付けられていました。
こちらが登城門です。江戸期には石垣の中の下の部分がトンネルになった形式の埋門(うずみもん)でした。
上の写真の登城門は沢山の人の寄付で作られたようです。500人近い人が寄付をされていて、最も高額の寄付は300万円です。
長男の子供たちが案内してくれました。
昔の絵図に登城門のあたりに黄色の矢印を書き込みました。本丸や曲輪なども赤色文字を書き込んでみました。車を停めた辺りは昔は三の丸だったことになります。上方向が南です。
ネットにあった想像図にも赤色文字で本丸や曲輪など書き込んでみました。こちらも山頂方向(右上方向)が南です。出石城は山頂に天守のあった有子山城の麓にあった居館と郭(但馬守護所)のみを改築して出石城とし、山頂部分を廃城(江戸幕府に届出)にして出来たものでした。出石城の築城年も有子山城の廃城年も同じ1604年(慶長9年)なのです。江戸幕府(1603~1867年)が出来た翌年のことでした。登城門は下曲輪の文字の右側で三の丸から下曲輪に上がるところです。
有子山城:1574年~1604年 出石城:1604年~1871年
登城門から二の丸に上っていく登り坂です。進んで行く方が南側なので逆光の写真になっています。
こちらは本丸の西北隅に建てられた西隅櫓(にしすみやぐら)です。1968年に東隅櫓(ひがしすみやぐら)と共に復元(模擬復元)されました。
ここを上ると二の丸です。
ここが二の丸です。赤い鳥居が並んだところを登ると本丸です。
二の丸から見た出石の町です。出石の町のシンボルの辰鼓楼が見えます。辰鼓楼の楼閣本体は1871年6月1日に完成し、辰の刻の城主登城を知らせる太鼓を叩く楼閣であったそうです。その後、地元の医師が機械式大時計を寄贈し1881年9月8日に時計台として稼働し始めたそうです。同年1881年8月12日には北海道の札幌市時計台が27日早く稼働していることから、僅か27日差で日本で2番目に古い時計台となったそうです。
この道が本丸に上る道です。稲荷曲輪まで真直ぐに伸びています。一番上から有子山城への登山道になっています。
ここが本丸です。当時は、塀の内側に大きな御殿が建てられていました。奥に建っているのは復元された西隅櫓です。
本丸である石碑も立てられていました。
石が置かれている辺りは庭園があったと思われます。左の柵の皿に左側には池がありました。
こちらが本丸御殿の絵図です。
左端に池がある庭園がありますが、上の写真の石が置かれている辺りです。二の丸と本丸とはかなりの高低差がありますが、二の丸の建物(役所)と本丸の御殿は渡り廊下でつながっていたそうです。下の絵図をクリックすると右の絵図のように、二の丸も含めた大きな絵図を表示します。この絵図は特別公開されていた西隅櫓(にしすみやぐら)の中に展示されていました。
上の絵図の中の左端の池が、この池の場所になります。
後ろの石垣の上が、本丸の上にある稲荷曲輪です。ネットでは出石城の標高は54m(比高40m)と書かれています。標高54mは本丸の標高なのか稲荷曲輪の標高なのかは見つけられていません。稲荷曲輪の石垣の高さは但馬地域の城の石垣として最大級の高さの13.5mとの記載があることから、類推できる標高は下記のようになります。写真で見る限り二の丸と本丸の標高差は26mもあるように見えない(10m前後に見える)ので稲荷曲輪の標高が54mのように感じます。
麓 標高14m(=54m-40m)
辰鼓楼の前 標高14m(Googleマップ)
二の丸 標高28m(Googleマップ)
本丸 標高40.5m or 標高54m
稲荷曲輪 標高54m or 標高67.5m
こちらが東隅櫓です。
こちらが西隅櫓です。
西隅櫓と東隅櫓は姫路城に関わりのある姫路の職人によって建てられたと書かれていました。
本丸の中にあった神社です。奉納と書かれた幟には仙石科野御神木奉納と書かれていました。この社殿は感応殿と言うそうです。横に感応殿の由来の説明板があったので内容を枠内に転記いたしました。
感応殿(かんのうでん)この社殿は、感応殿といい、出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っています。公は美濃(岐阜県)の人で、豊臣秀吉に仕えて功があり洲本、高松の城主となり一時勘気を受けて浪人しましたが、小田原攻めで奮戦し小諸城主に返り咲きました。その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捕らえた豪傑として伝説化されています。仙石氏は、公のあと子の忠政が信州上田に移り玄孫政明が宝永三年(一七〇六)に出石に移封されて五万八千石を領し以来廃藩まで七代百六十三年間続きました。明治に入って旧家臣らによって本丸跡に公を祀る感応殿が建立され今日に至っています。以後町の人々は本丸を権兵衛さんと愛称をもって呼び、例祭は五月の祥月命日に行われています。仙石科野大宮社御神木奉賛会
普段は、西隅櫓は非公開ですが、特別公開されていたので入ってみました。
西隅櫓の内部を紹介します。
格子の間から見える景色です。
西隅櫓の別の格子の間から撮った出石の町です。
2階に上がってみました。
2階に上る階段です。
太い木が使われていました。
ここでも長男家族の記念写真を撮りました。
西隅櫓の中には貴重な絵図や説明がありました。上で紹介した本丸と二の丸の御殿の絵図は左上のものです。説明内容を紹介します。
稲荷曲輪
稲荷曲輪は高さ13.5mという但馬地域でも最大級の高さを誇る石垣の上にあります。出石城築城当初から今の場所に鎮座していたと伝わり、現在の社殿は江戸時代後期に建設されたものです。
本丸
本丸にはかつては御殿があり、城主の生活の場として使われていました。かつては西側には多門櫓、東側に隅櫓が備え付けられていて、本丸庭園も現在残る庭園の倍の大きさがありました。
現在は仙石氏の祖である仙石護兵衛秀久をまつる観応伝や姫路城の改修工事を手掛けている大工により復元された模擬建築東西隅櫓があります。
二の丸
二の丸は政治を執り行う役所が建てられていました。江戸時代には西に二層の隅櫓、東に一層の隅櫓が立っていました。二の丸下の曲輪とは枡形虎口で結ばれており今もその跡が残っています。かつては本丸と二の丸を結ぶ渡り廊下のようなものが存在しており、現在でも石垣に当時の面影を見ることができます。
西の曲輪
西の曲輪には1815年に仙石久道が自分の隠居所を建設した西御殿が存在していました。また、ここでは久道の趣味でコウノトリが飼われていたそうです。
山里丸
山田丸の石垣は城内で最も新しい年代のものであるといわれており、江戸時代にはおもてなしの場として利用されていたと考えられています。今は何もありませんが、かつてこの場所には小さな動物園があったそうです。
三の丸
三の丸には上級武士の屋敷などが立っていました。また、松平氏以降は現在の振興局が立っている場所に御対面所が建てられ本丸と二の丸の機能がすべてここに移されました。現在でも江戸時代の遺構として辰鼓楼の場所にある大手門の石垣跡や内堀、家老屋敷や西門跡の石垣などを見ることができます。
西隅櫓を出たところからの本丸の景色です。左端に移っている東隅櫓のところから、右方向に稲荷曲輪に上がる階段があります。
これが稲荷曲輪(稲荷郭/稲荷丸)に上がれる階段です。稲荷曲輪に上がってみることにしました。この鳥居の道を上がりきると稲荷曲輪です。城の麓から数えると鳥居は37基並び、石段は157段だそうです。
階段を登り切って稲荷曲輪方向を見ると神社がありました。
こちらが有子山稲荷神社(別銘:城山稲荷)の本殿です。創建は出石城と同じ1604年です。城郭内にありながら、江戸時代から身分を問わず参詣が許可されていたそうです。 主祭神は稲荷神です。狛狐が印象的です。狐は神の使いだそうです。
狛狐には1円が沢山乗せられていました。
稲荷曲輪の真中にある井戸は印象的でした。
井戸のアップです。有子山城の時代のものか、出石城の時代のものかによって用途(有事の備え 生活のため等)が変わってきますが、今のところ井戸がいつの時代に作られたのかはネットで見つけられていません。かなりの深さがあるように感じましたが、右の写真のように深いところは暗くて底は見えませんでした。
稲荷曲輪から見た本丸です。こちらは東隅櫓側です。
西隅櫓側の本丸です。
麓からの157段の石段を登りきったころには恵方稲荷が祀られていました。
そこには有子山への登山口です。木に隠れた石柱には「史跡 有子山城跡」と書かれています。
麓までは157段の石段を真直ぐに下りることにしました。37基の鳥居も全て潜ることになります。
石段の麓に近いところに稲荷神社の拝殿がありました。上まで登るのが難しい人のために作られたのかもしれません。
拝殿のすぐ下に出石城の説明板がありました。
出発地点の車の近くの鳥居のところまで降りて記念写真を撮りました。
黄色のラインが散策ルートです。上で紹介した昔の出石城の絵図や想像図は上方向が南でしたが、この航空写真は上方向が北になります。
ここまでに書いているように出石城と有子山城は大きなつながりがあるので有子山城を少し紹介します。
こちらすでに上の方で紹介した写真ですが、こちらが有子山への登山口です。木に隠れた石柱には「史跡 有子山城跡」と書かれています。
有子山城の説明板です。内容を枠内に転記する形で紹介します。
国指定文化財 山名氏城跡(有子山城跡) 平成8年11月13日指定城史
この城は天正2年(1574)、山名祐豊がそれまで本城であった此隅山城にかわって築城しました。その名は落城した「子盗」(此隅)の名前を嫌って「有子」と命名したといわれています。しかし、わずか6年後の天正8年(1580)、天下統一をねらう織田軍によって城は陥落、城主は因幡へと逃亡し山名氏による但馬支配は終わりました。その後、織田系の大名が城主となりましたが、江戸時代にはふもとに出石城が築かれ廃城となりました。
現状
標高321mの有子山山頂には主郭があり、その西側には5段の曲輪が階段状に築かれています。また、主郭の南東には千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。石垣は織田軍の大名によって作られたもので、中世城郭が近世城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく残しています。
山名氏
山名氏は室町幕府において侍所の長官に任じられた、有力な大名の一人です。最盛期には全国66か国のうち11国を守護として領国支配をしていたことから「六文の一衆」と呼ばれ、後の応仁の乱では西軍の総大将として参戦しました。但馬では、南北朝時代から戦国時代までの約200年間、一貫して山名氏が守護の地位にありました。この山名氏の最後の本城が有子山城です。豊岡市教育委員会
上の説明板の地形図部分に赤色文字を書き込みました。地形図をクリックすると全体を表示します。右のSVは有子山全景です。安土桃山時代は1573年~1603年であることから、まさに安土桃山時代の山城であったと言えると思います。
城名 有子山城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 不明
築城主 山名祐豊
築城年 1574年(天正2年)
時代 安土桃山時代
廃城年 1604年(慶長9年)
主な城主 山名氏、前野長康、小出氏
遺構 石垣、曲輪、堀切、竪堀、土橋
文化財 国の史跡
住所 兵庫県豊岡市出石町伊木1
説明板の中に掲載されていた地形図への赤色文字の記入はタクジローの日本全国お城めぐりやこにるのお城訪問記を参考にさせていただきました。
有子山城の主郭あたりの航空写真も紹介します。
有子山城の主郭からのストリートビュー(SV)を紹介します。
有子山の等高線の入ったGoogle地図を紹介します。クリックするとオリジナルを表示します。
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