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メキシコ料理のタコスを皆で食べました。 [料理]

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クリックすると拡大前記事「パティシエ横山のケーキ」で紹介した時の昼食はメキシコ料理のタコスにしてもらいました。タコス(スペイン語:Tacos)はメキシコの主食であるトウモロコシのトルティーヤ(Tortilla)で様々な具を包んで食べる料理で、メキシコを代表する料理の一つだそうです。Tacoは「軽食」を意味し、クリックすると拡大タコスの専門店はタケリア(taqueria)と言うそうです。
前記事で紹介した右の写真のパティシエ横山のケーキを食べる前に昼食のタコスを食べたのです。

こちらが包む具です。
炒めたミンチとチーズに、キャベツとタマネギとトマトです。
タコス・ソース(Taco Sauce)のサルサ(Salsa)はサルサ・ロハ(Salsa Roja=赤いサルサ)と言う種類のようです。
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これをトルティーヤに包んで食べました。包むと言ってもトルティーヤはハードタイプのため少しでも曲げると割れてしまうので曲がったトルティーヤに具を入れると言う感じでした。
我家ではタコスは偶にしか食べないけれども包むトルティーヤは常備されているのです。チリベースのソースのサルサ(Salsa)も常備に近い状態です。でも賞味期限は切れていないので普通の家よりは食べているのかもしれません。
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クリックすると拡大ミケシマさんのコメントで飲み物のことが書かれていたのでビールが写った写真からビールの部分を切り取って追加掲載させていただきました。下の写真は冒頭の元の写真から切り取り、右の写真は3枚目の元の写真から切り取りました。
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パティシエ横山のケーキ ル・パティシエ ヨコヤマ [話題]

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娘夫婦が2024年3月26日に生まれた赤ちゃんを連れてきてくれました。
自宅に家族が集まるのも久しぶりだったので長男と次男もクリックすると拡大右下の写真のように家に集まってくれました。
娘夫婦は車で神奈川県から来るのですが、我々の最寄りのインターから高速を下りるのではなく、この日は手前のインターで下りて習志野市大久保にあるケーキ店「ル・パティシエ ヨコヤマ」に寄って上のケーキを買ってきてくれました。

こちらが私が食べたパティシエ横山のモンブランです。
フランスでは菓子職人を表す言葉、パティシエ(pâtissier)は約600年前の1440年にはありましたが、日本で使われ始めたのは2000年頃だそうです。テレビ東京テレビチャンピオンケーキ職人選手権で1998年、1999年、2000年と3年連続優勝したパティシエ横山知之の存在は大きかったのだと思います。千葉県習志野市で2001年に谷津店、2005年に大久保店がル・パティシエ ヨコヤマの名でオープンしました。関西から東京に組織ごと転勤になり住んでいた社宅から大久保店は歩いて行けるほどの距離であったこともありパティシエという言葉を知るきっかけにもなりました。
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紅茶でいたた堰きました。久しぶりにパティシエ横山のケーキを堪能させていただきました。
ル・パティシエ ヨコヤマ大久保店は開店当初から約20年間も大人気がつづいていて、この日も大人気で、駐車場から溢れるほどの車だったそうです。沢山の人のわりにはスムーズに買えたそうです。
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長男と次男も美味しいスイーツを持ってきてくれました。
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昔の写真ですがお店の建物を紹介します。昔の記事→ポチッ
  店名 ル・パティシエ ヨコヤマ 京成大久保店
      Le Pathissier Yokoyama
      Le Pâtissier Yokoyama ( LE PÂTISSIER Yokoyama )
  住所 千葉県習志野市大久保1-1-34
  最寄 京成大久保駅から徒歩5分
  電話 047-403-8886
  定休 火曜日
  営業 10:00~19:30 ※水曜日のみ 10:00~18:00
  担当 横山知之(オーナーパティシエ)
  URL http://www.p-yokoyama.jp/cake/index.html
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ル・パティシエ ヨコヤマの大久保店の場所を紹介します。
昔、住んでいた場所には、今はマルエツ船橋三山店などが建っています。
  ル・パティシエ ヨコヤマ 京成大久保店
  ル・パティシエ ヨコヤマ 谷津店

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巨大な梨・愛宕 と 6L幸水 設楽農園 [日々]

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今年からよく梨を買いに行っている梨園(設楽農園)に2024年10月13日に梨を買いに行くと、巨大な梨が売られていたので3個買いました。梨の品種は愛宕(あたご)でした。愛宕は大きな梨で今までも秋の時期に果物店やスーパーで見かけて何度か買ったことがありましたが、それとは比べ物にならないほど大きかったので紹介させていただきました。大きさを実感してもらいたいので、私のお気に入りの時計を並べて撮りました。特に左側の愛宕は多きなったです。重さを計っていればよかったと食べ切ってから気がつきました。

丁度、長男が来て泊まったので朝食は昔よく食べたホットドックにしてもらい、その大きな梨も食べました。ホットドックと比べてもらうと梨の大きなが判ってもらうと思います。大きさだけでなく味にも驚かされました。前に食べた愛宕と比べて格段に甘かったのです。ネットに書かれている範囲で愛宕の交配親の来歴ははっきりしません。書かれているものを列記すると、交配親は「天の川×長十郎」「二十世紀×今村秋」「天の川×(不明)」で、来歴は「自然交配」「菊池秋雄が育成」です。ネット上の記載数が多いのが赤色着色です。年代的には1915年の文字が書かれていましたが、いずれにしてもはっきりはしていないようです。
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頂いた愛宕の説明カードです。ネットで確認すると、私が梨を買った2日後の10月15日に梨の直売所が終了したそうです。やっぱり人気なのだと感じました。
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せっかくなので、梨と比べた時計を紹介したいと思います。
メーカーはスイスのIWC(International Watch Company)です。私が社会人になって始めた買った時計でもあります。機械式の自動巻きの時計ですが会社に行く時に付けていくだけで数年間一度も止まりませんでした。そして買ってから2年間の誤差が2or3秒だった驚異の時計だったのです。遅れたのか進んだのかは今となっては覚えていませんが2秒か3秒だったことだけは今でも覚えています。
クリックすると拡大2年を過ぎると誤差が出るようになりましたが、それでも1年間に十数秒でした。当時IWCは機械式自動巻きで正確なことで有名でした。右の写真は私が今までに買う(8本)か貰った時計(4本)です。貰った4本内3本は父の遺品です。
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こちらが梨がなっている梨園(設楽農園)の写真です。ただし愛宕を買った時ではなく幸水を4ケ所に送るために事前に申し込みに行った2024年8月9日に撮った写真です。写っている梨は幸水だと思います。木上で熟れた梨をうたい文句にしている梨園なので、最もおいしくなった時に送ってくれるのです。そして申し込んだサイズは6Lと最大の大きさなので、大きくなるのにも時間がかかるとのことでした。神奈川県の娘のところに梨が届いたのは8月19日だったので、梨園から送られたのは8月18日だと思います。後は兵庫県と大阪府と熊本県に送りました。
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実は設楽農園から梨を送ったのは最近では初めてだったのです。ただし20年以上前に1度だけ送った記憶はあります。実は長く梨(幸水)を送っていたのが地図の左上の米井梨園でした。家内の弓道仲間の人から紹介されて、食べて美味しかったのでそれ以来、米井梨園から送っていたのです。家からは米井梨園までは車で30分(往復1時間)かかっていました。家から比較的近い設楽農園が最近ネットで評判なこともあり、梨の送付を申し込むのでは、先ずは味見のために8月8日に梨を買いに行きました。石川農園は、2012年6月末に閉店した超人気の蕎麦屋さんの隣りあり、蕎麦屋さんで味見で梨が出されてことがあって美味しかったので利用させてもらいました。
 設楽農園 佐倉市青菅400
 米井梨園 船橋市小室町2471-2
 石川農園 佐倉市上志津原244-2


味見のために梨を買いに8月8日に開店5分前の9時05分に設楽農園に行くと沢山の人がすでに並んでいました。お店が開店した10時の時点で32人が並んでいました。
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行列から梨園を撮りました。梨園全体をネットで覆っているのです。鳥から梨を守のためだと思います。
千葉と言えは梨と落花生(ピーナッツ)ですが、いずれも都道府県別で千葉県が生産量1位です。その梨と落花生を旬の時に送るのが恒例になっているわけです。
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もうすぐお店の入口です。結局、お店の中に入れたのは11時でした。これほど人気ならば4ケ所に送るのを申し込んでもよかったのですが、残念ながら住所録を持ってきていなかったので、味見用の梨を買うだけにして翌朝に申し込みに来ることにしました。まだ幸水は売られていなかったので、別の梨(ひらがな名)でした。名前ははっきりとは覚えていませんが、極早生品種の「はつまる(登録年2015年 筑水×筑波43号)」だと思います。翌朝は幸水が売られていたので8月8日に売られていた品種は半日で完売したようです。
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翌朝は早く来てみると私が1番でした。皆さん10時が近づくとどっと来られました。前日の32人ほどではありませんが、十数人並ばれました。おそらく売り切れを恐れて皆さん早く来られるのだと感じました。前日(32人行列日)は売り出し初日だったのです。私は売り出し初日とは知らないで偶然買いに行った日が売り出し初日だったのです。すごく運がよかったようです。
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予約したのは幸水の最も大きいサイズ6Lを4箱です。
 6L:8個  5L:10個  4L:12個  3L:14個  2L:16個  L:18個
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梨の実が生っている写真です。こちらは袋がかけられているのが多いです。
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袋が外されている方向も撮りました。クリックすると特別に大きく拡大します。
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そして神奈川県に住んでいる娘から8月19日に写真が届きました。こちらは愛宕ではありません。娘に送った6Lの幸水です。こちらも幸水としては巨大です。
お宮参りの記事で紹介したようにクリックすると拡大娘の子供は今年の3月26日生まれなので、もうすぐ5ケ月の写真です。右の写真は、生まれて2日目の3月28日の赤ちゃんです。6Lの幸水も大きいと判ってもらえると思います。梨は美味しかったそうです。豊水も買ってみましたが、驚くほど水分が多くて、みずみずしくて幸水とは別の美味しさだったので、次に送るのは豊水にするのもいいかもしれないと思います。ただし届くのは9月になると思うので、次に送る時に幸水にするか豊水にするかを、みんなに希望を聞いてみます。
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2024年11月8日から11月12日まで関西に行っていました。そのためにコメントの返信が出来なくて申し訳ありませんでした。
関西に行っていた主な目的は、神戸市立本山中学校の同窓会(右の写真)に参加するためでした。特定のクラスの同窓会ではなく、参加いただいた先生(数学)に教えてもらった人たちが集まった同窓会なので、クラスはいろいろでした。クラスは3年生の時、全部で13組あり私は6組(下の写真)でした。先生が担任をしていたのは8組だったので8組の人が多かったです。下の写真で上から2列目の左端が私です。
それ以外に関西から東京に組織ごと転勤になり東京で課(全員関西からの転勤者)に最初に配属になった新入社員の人と飲むのも目的の1つでした。その人とはいつも神戸駅の近くで飲んでいますが、この時は西明石駅の近くの居酒屋でした。
中学時代の梨と言えば二十世で、少し長十郎があるくらいでした。
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東洋のピサの斜塔 虎丘斜塔 [江蘇省]

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2024年10月30日再掲載 タイトル : 東洋のピサの斜塔 虎丘斜塔
アクセス解析で昨日(2024年10月29日)の記事へのアクセス(閲覧数)を確認していると過去記事で最も多く閲覧されていたのが、本記事「東洋のピサの斜塔 虎丘斜塔」でした。クリックすると拡大過去記事が突然沢山閲覧されることは、よくあることなのですが、珍しい記事だったので再掲載させていただくことにいたしました。この記事で紹介した斜塔は、右の写真のピサの斜塔より681年も前に建てられた虎丘斜塔です。クリックすると拡大この時は陽澄湖で上海蟹を食べるのが主な目的のツアーでした。右のGifアニメーションに出てくる11の全ての料理に上海蟹が使われていました。
 2015年12月25日 掲載
 2024年10月30日 再掲載 閲覧数:2,641 nice!:74   CMT :8
 2024年10月31日     閲覧数:2,779 nice!:92   CMT :13
 2024年11月01日     閲覧数:3,000 nice!:124 CMT :30
 2024年11月02日     閲覧数:3,132 nice!:131 CMT :36
 2024年11月03日     閲覧数:3,195 nice!:134 CMT :38
 2024年11月05日     閲覧数:3,269 nice!:144 CMT :38

2015年12月25日掲載 タイトル : モロッコ料理

蘇州の小山の頂上に東洋のピサの斜塔と言われている塔があります。小山の名前は虎丘なので虎丘斜塔あるいは雲岩寺の斜塔と言われています。

下の地図の薄緑色の部分が虎丘山風景区のエリアです。入口は南と北にありますが、南から入ることをお勧めします。我々も南の虎丘南大門広場あたりでバスを降りて赤色ラインを歩いて北の駐車場に待っていたバスに乗りました。
歩いて通った順番のポイントを下に説明しています。
 ━━ 歩いたルート
 バス降車場所
 1番目門
 2番目門
 3番目門
 4番目門
 虎丘斜塔
 記念写真撮影場所

 北大門
 北の駐車場
地図の右上の四角の枠をクリックすると別画面で大きな地図を表示します。地図内のマイナスのアイコンマイナスを数回クリックするとこの虎丘(雲岩寺)の場所がわかってくると思います。

南大門のあたりにバスを停めて北に向かって歩きました。歩いた順番に紹介します。こちらが1番目の門の頭山門です。
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参道の奥に斜塔が見えます。イチョウの並木がきれいでした。
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写真をズームいたしました。こちらからだと塔は傾いているようには見えませんでした。どうやら主に南北方向に傾いているのでまっすぐに見えているようです。
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2番目の門です。 呉中第一山と書かれた扁額がかかっていました。


2番目の門で入場券のチェックがあります。門を入って振り返って写真を撮りました。
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3番目の門の断梁殿です。黄色い門はお寺であることを感じさせてくれます。大きな海涌橋を渡って虎丘に入ります。
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海涌橋を渡って、3番目の門である断梁殿を近くから見ました。
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屋根は趣がありました。
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参道が続きます。
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試剣石。春秋時代に呉王闔閭が剣の切れ味を試しに切った石だと言われてます。
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登り切ると千人岩がある広場です。
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岩の広場です。 千人岩です。
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岩の広場を上から見ました。
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写真撮影スポットです。名前は虎丘剣池だそうです。
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奥の虎丘剣池です。呉王闔閭を葬った時、3000本の剣を埋めたと言われています。それを探して秦の始皇帝や呉の孫権が掘った址です。剣が出たのか、出なかったのかはわかりません。
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橋の上から写真撮影スポットの方を見ました。
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これが橋です。


写真を拡大すると穴があることが判ります。井戸のように水くみとして使われたそうです。
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こちらが4番目の門です。
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その門をくぐると目の前に斜塔が表れます。
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虎丘(こきゅう)は標高34m小高い丘を指します。太古の時代には海中の小島であったそうです。虎丘の歴史は長く、歴史ロマンをかきたてる遺跡も少なくないそうです。春秋時代の呉王の闔閭(コウリョ)がここに葬られ、三日後には白虎がここに臥していたという伝説から虎丘と名づけられたそうです。剣を愛した父・闔閭のために息子の夫差(フサ)は3000本の剣を埋めたそうです。他に、唐妓・女真娘の高潔を偲ぶ「真娘の墓」、闔閭の墓を建造した千人の工匠達を殺戮し、鮮血に染まったと伝えられる巨岩の「千人石」など、歴史にまつわる見所が沢山あるそうです。
丘の上には蘇州のシンボルの雲岩寺塔(別称:虎丘塔)が建っています。傾いたことから塔→斜塔となりました。
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この塔は北宋年間の961年に創建されたそうで、八角七層の古塔は中国で最も古い塔の一つで、全国重点保護文物に指定されています。たびたびの火災にも見舞われました。地盤沈下で傾いたために中国のピサの斜塔あるいは東洋のピサの斜塔とも言われています。


一番、傾いて見える角度からの写真です。ここを訪問したのは2015年11月15日でした。
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レンガ造りの塔は拡大すると趣がありました。
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さらに拡大いたしました。
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別の場所も拡大いたしました。
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クリックすると拡大記念写真を撮ってもらいました。
塔の北側です。標高34mの丘の上からこちら側に降りました。
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北側も趣のある建物がありました。
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降りたところに牌坊が建てられていました。


北側から撮った虎丘斜塔です。


クリックすると拡大北大門が見える橋の上で記念撮影をいたしました。バスツアーのメンバーは、私が副董事長(日本での仕事と兼任)をしていた合弁会社に、日本の本社から赴任(出向)された沢山の人達です。合弁会社のある町から斜塔までの距離は約300㎞です。ここに来たのは2015年11月14日(土曜)でした。


北大門前の広場でも撮影会が行われました。


もう一枚、虎丘斜塔の写真を撮りました。
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虎丘の石碑の前から最後の斜塔の写真を撮りました。
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斜塔と言えばピサの斜塔です。以前に家族旅行で撮ったピサの斜塔と比べてみました。虎丘斜塔は斜塔はピサの斜塔よりも681年も前で造られたことが判りました。虎丘斜塔は傾きの進行を食い止める工事が行われました。一方、ピサの斜塔では傾きを改善するため10年にもわたり北側の地盤を掘削するという工法が採られました。その結果、傾きは5.5度→3.99度に改善されました。
項目虎丘斜塔ピサの斜塔
着工年1173年
完成年691年1372年
高さ47.5 m55.86 m
現在の傾き約 3度3.99度
過去最大傾き約 3度5.5度
傾斜原因地盤沈下地盤の不均一
素材レンガ大理石
重量14453トン
頂部ずれ(参考)2.34 m3.89 m
計算傾き(参考)2.82度3.99度
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虎丘斜塔ま傾いている角度が気になります。傾斜角度はサイトによりまちまちで、数値としては3度と3.5度と3.59度と15度が出てきます。特に15度の記述が最も多く出てくるのですが、クリックすると拡大見た目でも信じがたいので、写真で計測してみることにいたしました。
最も傾斜していると思われる方向の写真で目線高さで水平線をオレンジ色で書き込みそれに対して垂直線に対しての塔の傾きを測った結果としては3~3.2度というのが結論でした。15度というのはどうやら間違いのようです。
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ピサの斜塔で最も大きくなった時が5.5度で、倒壊の危険があったことから元に戻す大工事を行った結果として、現在ピサの斜塔が3.99度ということからも、見た目においても虎丘斜塔が3度前後という数値は正しい気がします。

Googleマップに登録されているストリートビュー(SV)です。熘蒗菡熘駹さんが2016年3月に登録したピンポイントのSVなので移動は出来ませんが360°回転させることは出来ます。Hao Niさんが2014年1月に登録したSVや、YC Ongさんが2016年5月に登録したSVや、Maksim Siniukovさんが2016年11月に登録したSVもありました。(2024年11月3日追記)

タグ:斜塔 蘇州

モロッコ料理 [モロッコ]

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2024年10月19日再掲載 タイトル : モロッコ料理
ミケシマさんがタジン鍋の記事をみて昔にタジン鍋を使ったモロッコ料理の記事を書いていたことを思い出しました。クリックすると拡大
調べてみるとブログを始めた15年前の2009年07月06日でした。読み直してみると捨てがたい内容だったので再掲載することにいたしました。驚いたことに伝票を見ると食事をしたのは私の誕生日(1月22日)でした。
 2009年07月06日 掲載
 2024年10月19日 再掲載 閲覧数:5,467 nice!:197 CMT :38
 2024年10月21日     閲覧数:5,813 nice!:259 CMT :57
 2024年10月22日     閲覧数:5,920 nice!:272 CMT :59
 2024年10月23日     閲覧数:6,020 nice!:283 CMT :67
 2024年10月24日     閲覧数:6,067 nice!:286 CMT :67
 2024年10月29日     閲覧数:6,244 nice!:297 CMT :71

2009年07月06日掲載 タイトル : モロッコ料理
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この時はパリからモロッコのカサブランカに入りました。飛行機はほとんどスペインの上を飛ぶために風力発電の風車を沢山見ることが出来ました。その風力発電には驚きました。でもモロッコに入った以上は、やはり本場のモロッコ料理を紹介する必要がありますね。実は、この器がモロッコ料理の特徴です。後半で紹介している料理はこのタジン鍋に入って出てきました。
モロッコのカサブランカで食べた本場のモロッコ料理です。

香辛料の器もタジン鍋を意識したモロッコ的なものでした。


暗くて写真はぶれてしまいましたがお店の雰囲気を紹介したいので店内の写真を掲載します。
IMG_4977-400.JPG

地中海です。オリーブの実です。若いオリーブ(左)と熟したオリーブ(右)です。
モロッコはアフリカ大陸にありますが、アフリカ大陸の中で最もヨーロッパ的な国と言われておりヨーロッパの一部と言ってもおかしくないことを実感しました。フランス語圏だし


モロッコのビール 名前はカサブランカ


最初の料理です。モロッコ料理と言えばタジンやクスクスが有名ですが、モロッコ的なのが沢山並んだ、これらの料理です。周りに並んでいるのが野菜が中心の家庭料理といえます。特に豆料理が有名です。
この写真の料理も、いろんな種類があるので是非、写真をクリックして拡大された写真を見てください。中央のお皿に乗っている春巻きの様なのがブリワット(Birwatts)で、これもモロッコ料理の一つです。ネットで調べると丸いパンのように見える料理はモロッコではワラカと呼ぶパイ皮包み料理のパセラ (パスティラ/Pastilla)です
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この壷のような入れ物でスープが出てきました。ここから取分けてもらえたのです。後で掲載しているメニューの写真から読み取ると、このスープはハリラ(Harira)のようです。
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まさにモロッコのスープです。器にスープを取り分けてもらいました。


羊肉の煮込み料理Tajine(タジン)です。モロッコ料理の2大料理の一つと言えます。モロッコはイスラム教の国なので、やはり羊料理は多いです。
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冒頭の器で出てきたのは羊肉のクスクス(CousCous)です。クスクスの上に肉と野菜が乗ったのがクスクス料理です。クスクス料理がタジンと並ぶモロッコ料理の代表格です。こちらのクスクスは粟の粉のような穀物で作られた本場のクスクスと聞かされました。この料理は冒頭の写真のタジン鍋の蓋をとったら、この料理が現れました。上の羊肉の煮込み料理は土鍋のように深い形のタジン鍋でした。
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こちらは鶏肉のクスクスです。料理下に山盛りに盛られているのがクスクスです。日本だとご飯に相当するのでしょうか。イタリア料理だと小さなマカロニのようなものでしょうか。実はクスクスと言えば食べ物のクスクスではなくて動物のクスクスを思い浮かべてしまいました。でもクスクスで検索すると食べ物 のクスクス の方が多いですね。それにしても鶏肉と一緒に野菜が沢山乗っています。カボチャ、ニンジン、ジャガイモ、キャベツ、ズッキーニ、ピーマンに豆と細かく切って煮込んだタマネギも入っているようです。
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お茶を入れてくれています。モロッコ流の入れ方です。TVドラマ・相棒の杉山右京のお茶の入れ方に似ています。
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お茶のポットです。


お茶と一緒にデザートのクッキーを食べるのかモロッコ流です。
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この日に食べた料理の伝票です。 合計値段は1881DH(ディラハム)です。現在の為替レートだと10倍にすると日本円なので約19000円になります。したがって一人当たりは4000円弱です。メインデッシュが5~7行目のタジン(Tajine)のTanzia(130x2)とクススク(CousCous)のCouscous fassi(110)と Couscous chaoui(100)なので合計で260+110+100=470DHです。ビールが7本で350DHでワインが200DHでした。
その他、読み取れる文字の範囲で料理の名も書いてみました。
括弧内数値は値段です。10倍にすると日本円です。
 Salade(70) Poriwsttes(70) Pastilla(110x2) Marira(50) Porato(40)
デザート関係はこれです。
 Patisseries(50x2)


フランス語もモロッコ語もわかりませんがメニューを掲載しておきます。Tajines Agneau ou PouletT(ラムかチキンのタジン料理)が13種類で、Couscous(クスクス料理)が6種類がありました。メニューをクリックすると読める大きさに拡大します。
お店を紹介いたします。
   店名 Ryad Zitoun
   住所 31,Bd Rachidi - Casablanca
   電話 022-22-3927  Fax 022-27-2890


裏側です。スープ(Soupes)は2種類、スターター(Entrees)は5種類(Panache de salades/Birwatilla Ryad Zitoun/Pastilla tradititionnelle/Pastilla aux fruits de mer/Pastilla pigeons)、串料理(Brochettes)が4種類、魚のタジン料理が2種類、書かれています。


クリックすると拡大お店の場所をGoogleマップで紹介します。紫色のアイコン( )がRyad Zitounです。モロッコ王国の最大の都市カサブランカにありました。右の写真がレストランの北の海岸に建つハッサン 2 世モスクです。
 モロッコ料理店 Ryad Zitoun
 シーフード店  Restaurant du Port de Pêche

リカのパリ滞在記さんのモロッコ料理タジンにトラックバックしています。

久々の鶏のから揚げ [料理]

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2024年10月18日追記
2024年10月17日の夕食にも鶏の唐揚げ作ってもらえました。
先日の連休(10月12日~14日)に子供達(長男、次男、娘)が来てくれました。クリックすると拡大クリックすると拡大宝塚の実家には正月やお盆に集まってくれていますが、私の家に集まるのは、ほんと久しぶりでした。娘は2024年3月26日17時39分に出産した子供(右上の写真)を連れてきてくれました。クリックすると拡大長男と次男は仕事もありすぐに帰りましたが、娘は1年間の育児休暇である上に旦那の出張が重なったので娘は約10日ほど家に滞在するそうなのです。そして10月17日の夕食は偶然にも鶏の唐揚げだったのです。右の写真は生まれた日(今年3月26日)の写真です。
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こちらが、2024年10月17日の夕食です。
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一皿づつ紹介します。先ずは唐揚げです。
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市販の厚揚げ豆腐ですが、豆腐が滑らかで美味しかったです。
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南瓜の煮物も良かったです。
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この日のサラダです。
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もちろん味噌汁もありました。
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ビールを切らしていたので、姪っ子たちが来た時に買ってあったグレープフルーツのサワーを飲みました。アルコール濃度は5%とビールと同じですが、果汁は29%とジュースに近い感じでした。
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赤ちゃんの生まれた時の写真も紹介します。お宮参りの記事で紹介した写真です。クリックすると拡大下の赤ちゃんの写真は3月26日18時49分なので生まれて1時間10分後の写真です。看護師の方がガラス越しに抱いてくださっている写真です。赤ちゃんは女の子です。
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2024年10月12日掲載
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鶏料理はよく作ってもらいます。その中の一つが唐揚げですが、少し間隔あいていました。そんな中で久しぶりに唐揚げを作ってもらえました。

唐揚げだけでも十分な量がありましたが、サラダを作ってもらいました。
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カブの漬物も作ってもらいました。
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唐揚げを拡大しました。
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唐揚げと言えば、やっぱりビールです。
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お味噌汁もし食ってもらいました。
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タグ: 唐揚げ
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世界遺産 タージマハール [インド]

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2024年10月01日再掲載 タイトル : 世界遺産 タージマハール
インドで訪問したことのある7つの世界遺産の内、6つ(新掲載1つ 再掲載5つ)紹介しました。最後に残しておいた最後のタージマハールを再掲載いたします。下記のリストが私が訪れたことがあるの世界遺産です。下の小さな写真か着色文字をクリックすると記事を表示します。8枚目の写真はインドの発電プラントの契約の調印式の写真です。
 登録年     世界遺産の名称
 1983年 アーグラ城塞                   
 1983年 タージマハール(Taj Mahal/タージ・マハル)                  
 1987年 エレファンタ石窟群                
 1993年 デリーのフマーユーン廟            
 1993年 デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群 
 2004年 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅  
 2007年 赤い城の建造物群 レッド・フォート 
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 2009年07月03日 掲載
 2024年10月02日 再掲載 閲覧数:7,091 nice!:118 CMT :34
 2024年10月03日     閲覧数:7,213 nice!:134 CMT :44
 2024年10月04日     閲覧数:7,308 nice!:151 CMT :44
 2024年10月05日     閲覧数:7,407 nice!:168 CMT :48

2009年07月03日掲載 タイトル : 世界遺産 タージマハール
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今までにインドには13回ほど行きましたが、クリックすると拡大その中で一度だけ世界資産のタージマハール(タージ・マハル/Taj Mahal)に行くチャンスが出来ました。デリーから右の写真のバスで日帰りツアーで行くと、上の写真のように広い庭園の中に大理石の真っ白なタージマハールが目の前に現れました。

中央の池に沿って庭園をタージマハールに近づいていきます。緑の中に沢山のリス達がいました。今でも沢山いるようです。タージマハールはデリーにあるフマユーン廟をモデルにしたとも言われています。形や色は違いますが全体的なアレンジは確かに参考にしているようです。
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近づいて正面から撮りました。この写真は是非ともクリックしてみてください。
クリックすると拡大タージマハールはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年6月17日に36歳で亡くなった妻・ムムターズ・マハルのためにペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人を集めて、22年の歳月をかけて建造させたと言われている総大理石の墓廟(霊廟)です。インド文化を代表する建築物と言えると思います。
36歳で妻・ムムターズ・マハルが亡くなった時、皇帝シャー・ジャハーンは39歳でした。タージマハールはインドのウッタル・プラデーシュ州最大の都市であるアーグラ(Agra)にあります。アーグラの人口は約157万5千人(2011年)で、アグラとも表記されます。世界遺産に登録されているアーグラ城も近くにあります。デリーからは南南東に約180キロで、すでに紹介したジャイプルからは東に約220キロの位置にあります。ここを訪れたのは1993年7月31日(土曜日)でした。
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上の写真はクリックすると拡大しますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。
ヒンドゥー教徒は墓を持たず、遺体は火葬され遺骨や灰は川に流されます。一方、霊魂は永遠と考えるイスラーム教徒は簡素な墓を建てます。ムガル王朝はイスラーム教国家建設を目指しており、専制君主の権勢を示す目的があって皇帝の大きな霊廟を建設しました。ただし、タージマハールのように権力を握っていない王妃に対し壮大な墓廟が建設された例は、ほとんど無いそうです。
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画像は悪くなりますが、さらに拡大いたしました。真白の大理石に宝石が模様のように埋め込まれているのが判ってもらえると思います。今、建設したら、いくらぐらいかかるのでしょうね。想像できないくらいの金額だと思います。


クリックすると拡大このときはアーグラ城にも行きました。アーグラ城からヤムナ川越しに望むタージマハールです。晩年に幽閉されたシャー・ジャハーンが見た景色です。
右下の水牛、絵になっています。
インドらしい風景かもしれません。
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航空写真で見ると、アーグラ城塞とタージマハールと黒大理石の霊廟の建設予定の位置関係が判りやすいと思います。黒大理石の霊廟は、幻の黒タージマハールで、シャー・ジャハーン皇帝自身の霊廟の予定と言われています。
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これはどこだったかな!ブログに載せる以上は知らないわけにもいかないし。でも観光地は2ケ所しか行かなかった記憶! 省略するにはリッパ過ぎる!と頭を悩まししていました。
最近は便利ですね。インターネットでいろいろ調べた結果 ⇒ タージマハールの入口(玄関)でした。2ケ所しか行かなかった記憶は正しかった。この門を通った瞬間、壮大なタージマハールが目の前に出現します。庭や池の感じからタジマハールから門を撮った写真であることがわかりました。SV
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門をあらためて近くで見てみました。この門は外側から2番目になります。この門をくぐるとタージマハールが見えます。でもみんないろんな言い方をします。 
タージ・マハル タージ・マハール タージマハール タジ・マハル タジマハール などなど
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門には沢山の装飾が行われていました。この門は大理石と赤砂岩が使われています。タージマハールの大理石はラージャスターン地方産であるといわれています。碧玉はパンジャーブ地方から、翡翠は遠く中国から、トルコ石はチベットから、ラピス・ラズリはアフガニスタンから、サファイアはスリランカから、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから持ち寄られ、全体で28種類もの宝石・鉱石がはめ込まれていたそうです。
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こちらが上の門の外側にある1番目の門です。このときも沢山歩いた記憶がありますが、ネットによると排ガスによる大理石の腐食を防止するために車の近くへの進入は禁止されて、遠くから歩かされると書かれていました。電気自動車は用意されているそうです。
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航空写真を掲載します。

別画面で 航空写真 を表示
Googlマップのストリートビューで360度を紹介します。上から北→東→南→西の順番です。今は世界中の景色をGoogleのストリートビューで見ることが出来ますが、やはり実際にそばに行って見た時の感動にはおよびません。
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タージマハールはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが1631年6月17日に亡くなった愛妃ムムターズ・マハルのため建設した霊廟で、1666年2月1日に亡くなったシャー・ジャハーンも埋葬されました。左がムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンで右が愛妃ムムターズ・マハルです。
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世界遺産 アーグラ城塞 [インド]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 アーグラ城塞
インドの世界遺産の5つ(新掲載1つ 再掲載4つ)紹介しました。私が訪れたのは7ケ所のなので、残りの2ケ所も再掲載させていただきます。2ケ所ともに15年前の2009年7月に掲載した記事です。先ずはアーグラ(Agraआगराآگرا‎)にあるアーグラ城塞(Agra Fort)をクリックすると拡大紹介します。アーグラと言えば、同じ世界遺産の右の写真のタージマハールが有名ですが、タージマハールは最後に再掲載させていただきます。
 2009年07月04日 掲載
 2024年09月27日 再掲載 閲覧数:5,708 nice!:113 CMT :12
 2024年09月28日     閲覧数:5,904 nice!:134 CMT :25
 2024年09月30日     閲覧数:6,089 nice!:165 CMT :30

2009年07月04日掲載 タイトル : 世界遺産 アーグラ城塞
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日帰ツアーで世界遺産のタージマハールに行ったことを報告いたしましたが、タージマハールがあるアーグラの町の城も世界遺産に登録されています。クリックすると拡大この442年前の世界遺産の登録名は「アーグラ城塞」ですが、そのアーグラ城塞にも行き、何枚か写真を撮ったので紹介いたします。右の写真がツアーで使われたバスです。
この写真はアーグラ城の入口であるアマル・シング門です。アーグラ城塞はムガル帝国時代の城塞で、赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール・キラー, Lal Qila)の別名があります。外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されています。
ムガル帝国の皇帝アクバルが1565年に着工して1573年に完成しました。
その後ジャハーンギール、シャー・ジャハーンまで3代の居城となったそうです。
ムガル帝国は1526年4月21日~1858年5月10日までインド地域を支配したトルコ系イスラーム王朝です。皇帝は17代続きました。その内、アーグラ城塞に皇帝が住んだのは3代(肖像画 : 左から第3代~第5代)です。
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大 1. 1526年 バーブル
 2. 1530年 フマーユーン
 3. 1556年 アクバル
 4. 1605年 ジャハーンギール
 5. 1628年 シャー・ジャハーン
 6. 1658年 アウラングゼーブ
クリックすると拡大 7. 1707年 バハードゥル・シャー1世
 8. 1712年 ジャハーンダール・シャー
 9. 1713年 ファッルフシヤル
10. 1719年 ラフィー・ウッダラジャート
11. 1719年 ラフィー・ウッダウラ
12. 1719年 ムハンマド・シャー
13. 1748年 アフマド・シャー
14. 1754年 アーラムギール2世
15. 1759年 シャー・アーラム2世
16. 1806年 アクバル2世
17. 1837年 バハードゥル・シャー2世
  1858年 滅亡 イギリスに降伏 イギリスがインド全土を直接支配

アーグラ城塞を平面図で紹介いたします。見所は沢山ありました。Google航空写真でアーグラ城塞の大きさを確認すると東西670mで南北810mでした。
1. デリー門、 2. アマル・シング門 と アクバル門、 3. ジャハーンギル宮殿、
4. 寝殿とアングリー庭園、 5. 内謁殿、 6. 公謁殿、 7. 真珠モスク、 
8. バーザール街          北←810m→南

航空写真を掲載します。 上の図を90度右回転させると航空写真と一致します。
画面上の+をクリックすると拡大します。 -をクリックしていくとタジマハールとの位置関係がわかるはずです。


これはアマル・シング門の内側のアクバル門です。立派な門でよくネットにも写真が掲載されていました。
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こちらがジャハ-ンギル宮殿です。アーグラ城の中で最も大きな建物です。
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内謁殿から見たタージマハールです。川の名前はヤムナ川です。クリックすると拡大この内謁殿で右の記念写真を撮りました。クリックするとタージマハールが確認できると思うので是非ともクリックしてみてください。
タージマハールを建てたムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンもここから妻ムムターズ・マハルの墓であるタージマハールを眺めたのでしょうね。
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クリックすると拡大タージマハールの辺りを拡大いたしました。舌の写真の真ん中あたり(川の右側)に見える建物がタージマハールです。クリックするとさらに拡大いたします。
シャー・ジャハーンはヤムナー川の対岸(左側/北側)に対となる自分自身の黒大理石の廟の建設を構想していたと言われています。これは、タージ・マハルがイスラーム建築の原則である対称性に則していないことから発したもので、北岸に同じ形の黒い墓廟があれば南北の対称性は果たされるそうです。北岸の胸壁と望楼はその基礎工事の名残とも言われています。
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航空写真で見ると、アーグラ城塞とタージマハールと黒大理石の霊廟(幻の黒タジマハール)の建設予定の位置関係が判りやすいと思います。
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幻の黒タージマハールの建設予定だった位置からストリートビューで見たタージマハールです。この場所とタージマハールの間にヤムナー川(Yamuna River/जमुना)が流れています。


アグラ城の中にお猿さんが沢山いることが有名です。これもなかなか近づけないですね。場所はアングリー庭園だったような気がします。
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アーグラ城は高い城壁で囲まれていました。この景色は壮観さを感じさせてくれました。妻の霊廟としてタージマハールを建設したシャージャハン皇帝は、その晩年、息子達の権力争いに巻き込まれ、実権を握った三男のアウラングゼーブによってタージマハールの見えるアグラ城塞内のムサンマン・ブルジ(Musamman Burj 別名:囚われの塔)に幽閉されたそうです。その後、アウラングゼーブはデリーに移って第6代皇帝となったために、アグラ城塞の最後に住んだ皇帝はシャージャハンとなったわけです。こちらの城壁の写真はムサンマン・ブルジ(囚われの塔)から撮りました。
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クリックすると拡大長い間、この写真もアーグラ城の一部だと思っていましたが、今回、ネットで調べていると、これはアーグラ城ではないことが判りました。さらに調べた結果、アーグラの近郊のシカンドラにあるアーグラ城を建設したムガル帝国の第3代皇帝であるアクバルの霊廟でした。SV
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世界遺産になった駅 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅 [インド]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年9月22日再掲載
タイトル : 世界遺産になった駅 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅
インドのムンバイ(旧名:ボンベイ)の世界遺産のエレファンタ島の石窟寺院を再掲載したのを機会に、ムンバイのもう一つの世界遺産チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(Chhatrapati Shivaji Terminus/Chhatrapati Shivaji Maharaj Terminus)を再掲載させていただきました。本記事を掲載したのは15年前の2009年11月17日でした。本ブログを始めた2009年5月5日なので、初期の記事ということになります。この駅に訪れたのは2008年2月20日でした。下の画像はGoogleマップのストリートビュー(SV)で見た2021年10月のチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅です。旧名はヴィクトリア駅(Victoria Terminus)です。写真が霞んでいるのは大気汚染のためかもしれません。

 2009年11月17日 掲載
 2024年09月22日 再掲載 閲覧数:6,927 nice!:122 CMT :48
 2024年09月23日     閲覧数:7,071 nice!:153 CMT :52
 2024年09月24日     閲覧数:7,161 nice!:165 CMT :58
 2024年09月25日     閲覧数:7,277 nice!:186 CMT :62
 2024年09月27日     閲覧数:7,357 nice!:194 CMT :62

2009年11月17 タイトル : 世界遺産になった駅
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世界遺産になった駅があるのをご存知ですか。それも現在も現役で使われている駅です。それが写真のムンバイの駅でインドで最も利用者の多い駅でもあります。その駅舎の中央部分を出来る限り遠くから撮りました。地上からではこれ以上遠くから撮ることはできません。残念ながら精一杯、遠くから撮っても全景が見せられないのです。本記事内の全ての建物の写真はクリックすると拡大します。

全体もすばらしいけれども細部もすばらしい建物です。中央の部分です。特にこの写真はクリックして拡大して見てもらいたい写真です。
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斜めから全景をなんとか撮りました。でも真中の部分が写っていないのが残念です。駅自体の工事は1878年に開始され1887年に完成しましたが、この見事な駅舎はイギリスの建築家Frederick William Stevensによって1887年~1888年に設計され、完成には10年かかったそうです。建物はベネチアゴシック建築様式で、壮麗で豪奢な建築物でヴィクトリア朝のゴシック・リヴァイヴァル建築とインドの伝統的建築の融合した傑作と思います。
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ここはムンバイ駅でチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(マラーティー語:छत्रपती शिवाजी टर्मिनस、英語:Chhatrapati Shivaji Terminus)と呼ばれています。旧名は「ヴィクトリア・ターミナス駅」(Victoria Terminus)。世界遺産には2004年に登録されました。
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CENTRAL RAILWAY(中央鉄道)と書かれています。これがライオン門です。この写真を撮るのに時間がかかりました。人通りが多いので人の切れ目が簡単には出来ませんでした。当然ですが現役の建物なので、他の観光施設のように入場料を取られることはありません。
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上の写真を撮っている反対側が多くの人が出入りする通路になっています。表側からも出入りできますが入口が狭いので、この写真の場所から出入りしています。SV


Googleマップの航空写真で駅を紹介します。緑マーク( )のところが冒頭の写真の建物です。緑マーク( )の右側(東側)のエリアがを南北(下上)に沢山の人が出入りしている上の写真のところです。


駅の中は沢山の人がいます。 あっ!ターバンの人がいました。長距離列車の近くでは、いろんな民族の人を見かけました。


キップ売り場です。 こちらで地元の人に入場券を買ってもらいました。ヨーロッパのように改札口はないのですが、マナーとして買わせていただきました。


食べ物の値段も庶民的な価格です。3倍すると日本円なので安いもので15円で高くても45円です。紹介したマクドナルドの値段とはかなり違います。


長距離列車です。長距離列車用ホーム群と近郊列車用ホーム群は完全に分かれていました。ヨーロッパのように改札がないため、ホームには自由に入れますがキップなしが見つかると罰金を払わされるので入場券を買いました。


近郊列車が入ってきたところです。まだ動いていますが、すでにドアは開いています。手動のようであけたまま走っているのかもしれません。


近郊列車が停車して、沢山人が降りて来たところです。


女性専用車があります。これは日本の満員電車の迷惑行為防止のための女性専用車ではないようです。必ずしもイスラムの服装の人ではないので宗教的なものだけではなさそうです。インドはレストランの給仕係も女性はほとんど見ないように習慣が我々とは違うようです。男性専用車はありません。一般車両は男性も女性も両方が乗れます。


車内も見せてもらいました。こちらに注目しているのはカメラではなく東洋人(日本人や中国人)が珍しいのです。自動車に乗っていても隣の車の人は必ずと言っていいほどこちらを覗き込みます。いつも注目されてしまいます。
青い袋を持って立っている人は髭剃りを売っているようです。なぜ髭剃りかは、判りませんが、なかなかいいものみたいです。
注目は天井の扇風機の数です。それに3人掛けの椅子が2列ゆったりとおかれています。こちらはクリックすると拡大します。
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運転席の写真も撮らせてもらいました。想像を超える古さです。建物だけでなく車両も世界遺産ものです。


道を挟んで駅の前にもすばらしい建物がある場所でした。
建物はBrihanmumbai Municipal Corporation(BMC) Head Officeです。1888年のボンベイ市営企業法に基づいて設立されたBMCはインドで最も裕福な地方自治体だったそうです。SV1 SV2 SV3
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世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院 [インド]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院
インドのデリーの世界遺産の3つの世界遺産(クトゥブ・ミナール 掲載、フマユーン廟 再掲載、レッド・フォート 再掲載)を紹介したのを機会に13年前 2011年に掲載したムンバイ(旧名ボンベイ)の近くの島(エレファンタ島)にある世界遺産の石窟寺院を再掲載いたします。
インド全体では現在42の世界遺産が登録されていますが、この世界遺産「エレファンタ石窟群/Elephanta Cavesघारापुरीच्या लेण्या」は、今から37年前の1987年に登録されたインドで16番目の世界遺産です。

 2011年03月07日 掲載
 2024年09月14日 再掲載 閲覧数:3,048 nice!:229 CMT :42
 2024年09月15日     閲覧数:3,199 nice!:257 CMT :46
 2024年09月16日     閲覧数:3,307 nice!:276 CMT :51
 2024年09月19日     閲覧数:3,457 nice!:296 CMT :52
 2024年09月21日     閲覧数:3,530 nice!:299 CMT :57
 2024年09月22日     閲覧数:3,585 nice!:304 CMT :60

2011年03月07日掲載 タイトル : 世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院
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インドのムンバイから船で1時間のエレファンタ島のヤギさんです。
白黒模様の珍しいヤギさんだったので紹介いたします。ネットで調べてもこのような白黒ヤギさんは出てこなかったです。この島には世界遺産のヒンドゥー教のクリックすると拡大石窟寺院があります。緑の豊かな島で野生動物も沢山いそうな感じでした。この島には野生の猿もいました。お猿さんは、こちらがおとなしくしていたら自然に周りを歩き回っていました。

船の出発地点はインド門(Gateway of India)です。インド門は英国の支配下にあった1911年に、英国王ジョージ5世とメアリー王妃の訪問を記念して造られました。この門は玄武岩でできており、ムンバイ湾に面したアポロ埠頭の突端に建っています。クリックすると拡大
高さ26m、グジャラート様式のこの門は、パリの凱旋門をモデルにしてジョージ・ウィテットの設計により、1924年に完成しました。かつては、植民地であったインドを訪れる英国の要人たちの歓迎式典が行われる場所でしたが、現在は観光客で賑わいを見せる観光ポイントとなっています。ここには右上の写真の豪華なタージマハール・ホテルもありました。
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1時間15分の船旅ですがインド海軍の空母や潜水艦さらにトーチカ、さらにいろんな島が目を楽しませてくれました。左が空母の写真で右がトーチカの写真です。トーチカの名前はMiddle Ground Coastal Batteryです。このトーチカは1682年にイギリス東インド会社によって、地域の海賊行為を抑制するために、この島を要塞化したのが始まりだで、第二次世界大戦中に日本の攻撃から港を守のために大砲や高射砲を設置して要塞化を強化したそうです。
船のスピードは遅かった! 昼過から出発して帰ってくると夕方近かったです。
クリックするとインド海軍の記事クリックするとインド海軍の記事

クリックすると拡大船旅も楽しいですよ。エレファンタ島の船着場には船が沢山停泊しています。航路は13.6kmでした。結構訪れる人が多いことがわかります。右の写真は山の上から船着場を撮ったものです。右の写真はクリックしてみてほしいです。
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船着場から山の麓までは観光用の変わった乗り物が走っています。値段を聞いてビックリ! 船代とあまり変わらないということで乗らずに歩きました。
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途中には船の残骸が!この写真の森の中に石窟寺院があります。
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岩山の登りになると立派な階段になりました。階段から一歩はずれるとヤギや猿がいる森になっていました。
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石窟寺院には立派な石段を登っていきます。道の両側に沢山の土産物店が並んでいました。SV1
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急坂をを登ると世界遺産となった石窟洞窟がありました。それではエレファンタ島の世界遺産の石窟洞窟を紹介いたします。
下記の地図の①~⑤の番号は見ている方向を記載しています。
ここには7つのヒンドゥー教石窟寺院があり、巨大な第一窟は、破壊を免れ、多数のシヴァ神像が彫られている。ここが一番大きな石窟寺院である第一窟の入口です。SV2
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第一窟の岩をくりぬいた内部の地図です。赤い矢印は下の5枚の写真の撮影方向です。③だけはもう一つ自信がありませんでしたがネット内の写真から間違いないこと確認しました。石窟寺院の面積は約5,600平方メートルあり、東西の祠堂とメインの列柱ホールから構成される。エレファンタ島に残る多くの彫刻は17世紀に、ポルトガル人が銃の練習の標的として用いられてきたこともあり、往時の外観を損なっしまったそうです。クリックすると拡大古代インドの神は自然の岩窟の奥深くから信者の前に姿を現すと言われています。エレファンタ島の 7つの石窟寺院はヒンドゥ教のこうした考え方とシヴァ神への帰依の心からつくられたようです。エレファンタという島名は、この島にいくつも残されていた大きな象の彫刻に由来するそうです。インド名はガーラープリー島だそうです。 何世紀にもわたって風雨にさらされた石窟と内壁に刻まれた彫像の傷みは激しいけれどもすばらしさが伝わってきました。

下の写真はの方向から中庭を撮ったもので、この部分の写真が一番迫力がありました。 エレファンタ石窟寺院は6世紀のカラチュリ朝、あるいは600~635年のグプタ朝時代の造営されたといわれており、「創造の神」と「破壊の神」の両神格を持つ最高神シヴァ神を祀る寺院だそうです。
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こちらの写真は中庭からの方向を撮ったもので奥の方に最初の入口が内側から写っています。こちら写真もクリックすると拡大いたします。
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列柱ホール内の聖室の入口には、守門神が彫刻されています。内部には石像が沢山ありました。
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奥から撮った写真
あらためてエレファンタ石窟群(マラーティー語:घारापुरीच्या लेण्या)を紹介すると、ムンバイ近海のアラビア海に浮かぶエレファンタ島にある石窟寺院のことで、シヴァ信仰の中心地であり、グプタ朝時代に建設が始まったとされています。1987年にUNESCOの世界遺産に登録されました。
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部屋の入口
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内部にあった彫刻も紹介します。暗かったので画像を露出調整しています。手が沢山あるシヴァ神像です。
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列柱ホールの最深部の壁面にシヴァ神三面上半身像があります。3方にある有名なシヴァ神像で、高さ5.7メートルあります。
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崩れかけていますが立派な彫刻です。
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暗くてよく判りませんがなんとなくシヴァ神であることがわかります。
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岩山の裏側(南側)にも石窟洞窟がありました。その石窟洞窟も見逃さないように!
小さい石窟がいくつかありました。その中で3つほど紹介いたします。SV3
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こちらは部屋のようになった洞窟です。観光客で一番多いのはインドの人でした。こちらも岩山の裏側(南側)にありました。SV4
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作りかけて柱が折れて断念したような洞窟もありました。造りかけの洞窟はまだ柱は四角いだけだし壊れかけています。こちらも岩山の裏側(南側)にありました。SV5
この写真の中にも、お猿さんがいます。
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Google地図/航空写真でエレファンタ島の位置を紹介します。右の写真はチャトラパティ・シヴァージー駅です。クリックすると拡大
 世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院
 世界遺産 チャトラパティ・シヴァージー駅
 インド門   タージマハールホテル
 トーチカ   インド海軍基地
  ムンバイ・インド門からエレファンタ島までの航路

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