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戦闘の回廊 Galerie des Batailles [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2020年2月07日修正 タイトル:紹介の絵画のタイトルを修正
コメント頂いたじみさんの指摘により掲載した絵画のタイトルが間違えていた(別の絵のタイトルを記載)ことが分かりました。クリックすると拡大修正のために再掲載させていただきます。間違いが出ないように絵画の下に額縁の下の説明板(右の写真)を3枚の絵画の下に追加させていただきました。
1,365/62/14
追伸
2020年2月7日~2月18日まで関西に行きます。ネット事情の関係で皆様の所に訪問出来ないことをお許しください。

2016年9月20日掲載 タイトル:戦闘の回廊 Galerie des Batailles
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この写真は「王子の階段」から小さな入口から入って最初に目に入って来る「戦闘の回廊」です。

今回紹介する「戦闘の回廊」はヴェルサイユ宮殿の中で最も大きな部屋です。この回廊は、下の航空写真でも判るように、南翼の2階全体を占めていて、1837年にルイ=フィリップ王によって作られました。ちなみにルイ=フィリップ王の在位は1830年8月9日から1848年2月24日です。ヴェルサイユ宮殿自体は1624年にルイ13世の狩猟の館として建てられたのが始まりで、その後に増築が行われて1682年にルーブル宮殿から、政府と宮廷が移されて宮殿となり、その後も増改築が行われました。
  ヴェルサイユ宮殿    1682年建設 Château de Versailles 本館
  鏡の回廊  長さ 73m 1687年完成 Galerie des Glaces
  戦闘の回廊 長さ120m 1837年完成 Galerie des Batailles


ヴェルサイユ宮殿で最も大きな部屋の大きさは
 長さ 120 m
 幅   13 m   です。
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壁に掛けられた35点の絵画は、トルビアックの戦い(496年)からワグラムの戦い(1809年)まで、フランス軍の歴史における最も重要な出来事を描いたもので、ウジェーヌ・ドラクロワ作の「タイユブールの戦いの聖王ルイ」、フランソワ・ジェラール作の「アンリ4世のパリ入城」、オラス・ヴェルネ作の「フォントノワの戦い」などがあります。
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上の写真と似ていますが見ている方向が違います。こちらの写真は窓が左にあり、上の写真は右にあります。つまりこの写真は南から北方向を撮った写真なのです。この部屋では600人から800人までのディナーパーティーを開催することができます。
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こちらの写真も窓が左にあるので南から北方向を撮った写真です。「戦闘の回廊」では北端と中央と南端にそれぞれ8本(北端)、32本(中央)、8本(南端)の柱が建てられており、それが回廊のアクセントになっていました。写真に写っているのは中央と北端の柱群です。
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中央の32本の柱群からの「戦闘の回廊」の景観です。ここが回廊の中心部になります。片側が60mで総長さが120mになります。
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天井は天窓になっていました。
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天窓と梁の間の天井の装飾です。
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中央の32本の柱群と天井の飾りです。
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その柱群の部分の天井の装飾を拡大いたしました。
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35点の絵画はいずれも大きかったです。
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絵画をいくつか紹介したいと思います。こちらは1807年6月14日の戦闘を描いたもののようです。額の下の説明板の拡大写真を追加いたしました。
BATAILLE DE FRIEDLAND
GAGNÉE PAR L'EMPEREUR NAPOLEON.
14 Juin 1807.
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絵画と絵画の間には沢山の石像が飾られていました。
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こちらの絵画は1242年7月21日の戦闘を1837年に描いた作品のようです。こちらも額の下の説明板の拡大写真を追加いたしました。タイユブールの戦いで1242年7月21日にセントルイスで勝利した瞬間のようです。コメント頂いたじみさんによれば、ウジェーヌ・ドラクロワ(Fedinand Victor Eugene Delacroix 1798年~1863年)の作品だそうです。クリックするときれいな飾りも含めた拡大写真を表示します。(2020年2月6日追記)
BATAILLE DE TAILLEBOURG
GAGNÉE PAR SAINT LOUIS
21 Juillet 1242.
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こちらの絵も大作です。こちらは1214年7月27日の戦いのようです。こちらも額縁の下の説明板の拡大写真を追加いたしました。
BATAILLE DE BOUVLNES
GAGNÉE PAR PHILIPPE AUGUSTE
27 Juillet 1214.
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回廊の一番北側の部分です。
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その北側の壁の絵がこちらです。
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そして、こちらが南の端です。
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南の端の壁の絵を拡大いたしました。
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回廊の南端に近い場所から見た外の庭園の景色です。
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回廊の南端からは元の場所に戻る細い廊下がありました。その廊下の写真を紹介したいと思います。
  戦闘の回廊
  廊下


戦闘の回廊の南端の出口を出てすぐの通路(廊下 )です。突き当りを左に曲がるとまっすぐな廊下を見ることが出来ます。
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こちらが、その長い廊下です。回廊と呼んでもいいかもしれません。石像が沢山並んでいました。
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途中で窓がなく暗くなる所かせありました。
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暗いところを過ぎるとまた明るくなりました。
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外には煙突が沢山見えました。
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出発地点である「王子の階段」に戻ってきました。
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下から見上げた「王子の階段」です。ここから1階に下りました。
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追伸
今日2016年9月20日から9月27日まで関西に行っています。その間はネット事情の関係で皆様のところに訪問できないことお許しください。


2016年9月20日 14時10分追伸 タイトル:飛行機が欠航になりました。
成田空港11時55分発で関西空港行きのフライトに乗るつもりで成田空港まで行きました。台風16号のために、結局12時20分に欠航との結論になりました。今日の新幹線に乗るつもりで、搭乗口を一番で離れて駅に向かいましたが、念のため航空会社のチェックインカウンターの一部に欠航扱いカウンターが開かれたので、話を聞いてみようと行ってみると、先頭に並ぶことが出来ました。今日のフライトは満席だったので、明日の朝一のフライトを聞くと空いていたので、そちらに変更してもらい、先ほど家に帰ってきました。幸いにも台風16号は9月20日21時ごろに、静岡県沖で温帯低気圧に変わりました。
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王の散歩道 L’Allée royale(ロイヤル通り) [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大ヴェルサイユ宮殿の庭園の中でランチを食べた後は宮殿に戻りました。上の写真は大運河(Grand Canal)の湖畔から宮殿を見た景色です。
一番手前にある噴水は「アポロンの泉水(Bassin d’Apollon)」です。右の写真は宮殿から大運河の方向を見た景色です。この景色の中を歩いて宮殿に戻りました。その景色を順に紹介したいと思います。
大運河から宮殿前のラトナの階段までを「王の散歩道」と呼ばれています。あるいは「ロイヤル通り」とも言われています。「王の散歩道」は中央に緑の芝生が帯状に広がっていることから別名「 緑の絨毯」とも呼ばれ、全長335m、幅40mあります。設計はルイ13世の時代で、後にル・ノートルが大々的な整備を行って拡張し、12体の彫像と12の壷を対称的に配置したそうです。
両側には、それぞれの木立ちが配置され、歩を進めるにしたがって人々が異なった木立ちを発見できる仕組みになっているそうです。

航空写真で歩いたルートを紹介します。航空写真の中の橙色のライン(━━)がランチを食べたレストランから歩いた「王の散歩道」です。
  ━━ 散策ルート
  ━━ ミニ・トレインのルート
   ランチを食べたレストラン La Flottille
   ヴェルサイユ宮殿 


こちらの写真も冒頭の写真と同じ場所から撮ったものです。カメラのレンズのズームの倍率が違うだけなのです。冒頭の写真は拡大されていることが判ってもらえると思います。
この写真はレンズの焦点距離が24mmに対して、冒頭の写真のレンズの焦点距離は105mmなので4.375倍に拡大されていたのです。
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同じ場所から大運河の方向も撮りました。大きな十字架の形をした湖である大運河(Grand Canal)は日本語では大水路とも訳されています。フランス語の Grand Canal は Le Grand Canal とも書かれます。
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大運河の湖畔を歩いて最も右側(南側)まで来たところからの宮殿方向の景色です。木々に隠れて宮殿は見ることは出来ません。
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さらに進んで「アポロンの泉水」の真横まで来て撮った写真です。
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「アポロンの泉水」と反対側の景色です。緑の中の小道がきれいでした。
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庭園の中央まで移動して宮殿を撮りました。撮影は105mm(4.375倍)なのでズームレンズ24-105mmで精一杯拡大した写真です。
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王の散歩道は右側(南側)を進むことにいたしました。焦点距離24mm(1.0倍)での景色です。
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こちらは105mm(4.375倍)で撮ったので、進んでいるように見えますが、上の写真とほぼ同じ場所からの景色です。
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道の脇には素敵な雰囲気の場所がいくつもありました。
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こちらも105mm(4.375倍)で撮った写真です。2枚上の見比べてもらうと少し進んだことが判ると思います。
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このような小道がいくつもありました。上で写っていた女性は右に曲がって、その小道の方に進みました。焦点距離は67mm(2.79倍)です。
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大運河の方向に振り返った景色です。105mm(4.375倍)での景色です。
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同じ場所から24mm(1.0倍)で撮った大運河方向の写真です。
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同じく24mm(1.0倍)で撮った宮殿方向です。まだ宮殿まで距離があります。
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宮殿前のラトナの階段(Escaliers de Latone)下の広場まで来ました。見えている大噴水は「ラトナの泉水(Bassin de Latone)」です。こちらの焦点距離は47mm(1.958倍)です。
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同じ場所から大運河方向を撮りました。焦点距離は105mm(4.375倍)です。
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ラトナの泉水の頂部の女神と思われる彫像です。女神にとまっているカラスが気になりました。
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頂部の彫像以外の彫像は金色に飾られていました。彫像のカエルとカメが大部分を占めていました。こちらが北側です。特にカエル(蛙)の数は多かったです。
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そしてこちらが南側です。
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こちらがラトナの泉水(噴水)の全体です。ラトナの泉水はオヴィデウスの変身物語の中の一場面で、アポロンの母とディアナの伝説を描いたものだそうです。カエルたちは変身させられた農民たちのようです。
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宮殿が建っている高さまで上って王の散歩道の方を振り返った写真です。
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ラトナの伝説を枠内に転記いたしました。
ラトナの伝説
アポロンとディアナの母でジュピターの愛人であるラトナは、ライバルのユーノーから生涯追放の宣告を受けます。ある日、現在のトルコ南部に到着し、喉の渇きを癒そうと沼に近づきます。しかし地元の農民に愚弄され、それに腹を立てたラトナは、農民に呪いの言葉を浴びせ、蛙に変身させてしまいます。ラトナの泉水は、オヴィデウスの『変身物語』の第6巻に語られたエピソードに由来しています。

ラトナとジュピターのライバル関係
ギリシャ神話のレト神と同一視されるラトナ神は、コイオス神とフォイベ神の娘。ジュピターの愛人となり、アポロとディアナの二子をもうけます
ジュピターの妻ユーノーは、ラトナの妊娠を知って激怒します。ユーノーはライバルを国外に追放し、いかなる土地も彼女の出産を受け入れてはいけないという命令を発します。生涯追放の不遇に見舞われたラトナは、東西を放浪し、デロス島に一時的な隠れ場を見つけてアポロンとディアナを出産します。
ラトナは双子を出産するや、ユーノーの憤怒から逃れるために再び逃亡を始めなければなりませんでした。ラトナの旅はリュキア国境まで続き、そこでおきたエピソードがヴェルサイユの庭園の物語の由来となっているのです。

ラトナとリュキアの農民との遭遇
逃走中のある時、ラトナは現在のトルコ南部にあたる小アジアのリュキアに到着します。くたくたで喉もからからの彼女がその地に足を止めると、谷底に池があり、その周りで農民達がイグサや海藻を採っているのを発見します。澄み切った沼の水に引かれ、喉の渇きを潤そうと近づきます。水面に顔を傾けると、農民達がそれをはばみ、水を飲ませてくれません。驚いたラトナは農民達をなだめてこのように答えます。
「どうして私にこの水を拒むのですか? 水は皆のものです。善良で賢い自然は、万人に空気、光、水を与えました。皆に等しく与えられた恵みに私もあずかりたいのです。ですが、私はあえてあなたたちに懇願します。私が望むのは、疲れたはてたこの体を冷やすためではなく、喉の渇きを潤すだけなのです。口の中がカラカラで声を出すのもままなりません。私にとってこの水は美酒に相当します。一生のお願いです。どうかこの水を飲ませて下さい。ああ! この胸にもたれているわが子2人が差しのべるひ弱な腕に、どうか触れてあげてくださいませ。」
こうした哀願にも耳を貸さず、農民達は拒み続けます。命令に従ってこの場を去りなさいととラトナを脅します。ラトナに水を飲ませまいと、農民達は沼に飛び込み、水の底で足踏みをし腕で水をかき混ぜ、水面に厚い泥を浮き上がらせます。

ラトナの怒りと変身
逆上したラトナは、喉の渇きも忘れ手を天に差しのべこう叫びます。「汝らよ、いつまでも池の淵で生きるがよい!」 やがて彼女の願いがかない、農民の体が変身していきます。
狂気に捕らわれた農民達は、たちまち池に飛び込みます。もぐっては浮かび、再びもぐっては水面に顔を出し、最後にはまた水中に消えていきます。潜水を繰りかえしながら、農民らはラトナを罵り続けます。罵倒の声は水中からも聞こえました。やがて農民達の声が変化し、喉が膨れ、口が大きくなり、首が肩に陥没し、背中が緑色にそしてお腹が丸く白くなっていきます。こうしてリュキアの農民の体は蛙となり、ラトナが誓った復讐どおり、蛙となって永遠に池の淵で生きることになったのです。

ヴェルサイユの庭園の逸話の意味
ヴェルサイユの庭園の中心であるラトナの泉水は、こうしたラトナとリュキアの農民の出会いの逸話がもとになっています。
最上段にある集合像は白い大理石で作られました。アポロンとディアナの2人の子供は哀願するように農民に手を差し延べています。レトナは空を見上げ、口を半ば開いて農民達に呪いの声をつぶやきます。壇上にある大理石のまばゆい白さが、下段に設置された鉛の像とのコントラストを印象づけています。
 半人半獸の像は、6人の農民の体が変身しているところです。ほぼ人間のままの者もいれば、手がシュロの葉の形に変わりすっかり蛙に変わっている者もいます。彼らの口から吐き出される水は、ラトナに浴びせるののしりを表しています。

追伸
今日(2016年10月23日)から10月28日まて中国に行ってきます。フライトは下記の通りですが、帰国までの間は、ネット事情から皆さんのところに訪問できないことをお許しください。最寄駅が7時21分の電車に乗る予定なので、7時10分には家を出る予定です。


涼みの間(Le salon Frais)の気圧・温度計 [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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先日掲載した大トリアノン宮殿の記事で一つ書き忘れていたものがありました。それが「涼みの間」にあった時計のようなものです。絵画の下の時計のようなものは、なにか判りますか。時計のようなものは?と質問しているので時計ではありません。

その時計のようなものを拡大したのがこちらです。やはり明らかに時計ではありません。下の方は、なんとなくわかります。
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下の部分を拡大したのがこちらです。見て判るように温度計(寒暖計)であることが判ります。温度を示す数字だけでなく記録のような内容が沢山書かれているのが印象的でした。
この時に表示している温度は17.5度どした。どうやら摂氏(℃)を表しているようです。もし17.5℉ならば-8.056℃になってしまうからです。240年前の温度計なのに正確な温度を表示しているように感じました。なんと-30℃から70℃まで測れる温度計でした。
目盛板に最低気温と思われる年が書かれていました。
  1749年:-30.0℃   1788年:-17.5℃   1795年:-17.0℃
  1776年:-16.5℃   1769年:-15.5℃   1740年:-10.5℃
地名と思われる文字も沢山、書かれていました。+50℃のところにはSyrie(フランス語:シリア)の文字が書かれています。-12℃のところにはParis(パリ)の文字が読み取れます。0℃のところにはGLAとCEが書かれていました。
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上の文字盤のようなところには、次のような文字が書かれていました。
 27 28 29
 BAROME TRE Três Sec   Beau Fixe  Beau Tems
 Variable    Pl.on Vent  Gr" Pluye  Tempêle
調べた結果、時計の文字盤のような部分は気圧計であることが判りました。文字盤に書かれているBAROMETREも気圧計を表しています。気圧計は、1769年頃に、小間物商のシモン・フィリップ・ポワリエが世に出したそうです。そして1769年から1770年にかけて流行しましたそうです。書かれている数字は27 / 28 / 29気圧を表していると思いますが単位は分かりません。ただし標準気圧が28の数値に近い単位であることは想像できます。
標準気圧1013.25hPa(ヘクトパスカル)をいろんな単位に換算すると次の通りです。28に近いのは水銀柱インチ(29.9212725inHg)ですが、それでも数値的には離れています。
 ヘクトパスカル           1013.25hPa
 メガパスカル            0.101325MPa
 キロパスカル            101.325kPa
 重量キログラム毎平方センチメートル 1.033515kgf/cm2
 重量ポンド毎平方インチ       146.92125lbf/in2
 気圧                0.999976425atm
 水銀柱メートル           0.760038825mHg
 水銀柱センチメートル        76.0038825cmHg
 水銀柱インチ            29.9212725inHg
 水柱メートル            10.33515mH2O
 水柱フート             33.903345ftH2O
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クリックすると拡大温度計と一体になった気圧計は珍しく残っているのは数点のみだと言われています。つまりこれは貴重な一体となった気圧計・温度計だったのです。一体なので気圧・温度計と呼ばせていただきます。ネットで調べた結果、この気圧・温度計はバイイによって製作されたことが判りました。製作年代の記述は見つかっていませんが、ルーブル美術館で所蔵している右の写真の気圧・温度計は1776年頃に制作されたとのことなので同年代の物と考えられます。つまり16世紀には精巧な気圧計と温度計がフランスには存在したことになります。右の写真はネットから転用させていただきました。今から240年前の1776年と言えば日本では江戸時代です。それも幕末(1868年)の92年前なので江戸中期です。
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クリックすると拡大右の文字盤はフランスのウジューヌ・ブルドンが1849年に発明した小型のブルドン管式の気圧計の文字盤です。数値以外は今回の気圧計の文字盤とそっくりです。数値は73~79が書かれていて中心が76であることから水銀柱センチメートル(76.0038825cmHg)で目盛られた気圧計であることが判りました。
上の気圧計はブルドン管式気圧計が発明されるより73年も前の1776年であることから、気圧の精度が高くないために水銀柱インチで27~29の数値を書いた可能性はあると感じました。
気圧計自体は1643年に「トリチェリの真空」を発見したエヴァンジェリスタ・トリチェリ(Evangelista Torricelli)によって発明されました。それは機械式ではなく水銀気圧計でした。水銀気圧計は原理上非常に精度の高い測定方法です。機械式の主なのはアネロイド型気圧計(1797年)とブルドン管気圧計(1849年)があります。両方ともにフランスで発明されました。アネロイド型気圧計に分類される重錘形気力計が、それ以前にもあったので、それに近いものなのかもしれません。

温度計の形式はガラス棒温度計です。ガラス棒温度計、液体を蓄える球部と毛細管部分の液柱で構成されています。このような毛細管を持つ液柱(アルコール)温度計が発明されたのは1650年頃と言われています。正確な年代ははっきりしていませんが遅くても1654年だそうです。今回の温度計が230年以上前の1776年頃であれば、液体には着色したアルコールか、アルコールと水の溶解液が使われていたと思われます。現在では水銀か着色した灯油が使われています。ただし灯油が使われた温度計でもアルコール温度計と呼ばれています。水の沸点が100℃に修正されたのは1742年で、それ以前は80℃がでした。今回の温度計が作られたのは1776年頃のため水の沸点は100℃で目盛りがつけられていると思われます。
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一番下の液体を蓄える球部が渦巻になっていました。沢山の液体を蓄えて目盛部の液柱を長くするのが目的だと思われます。これほど大きな渦巻きの球部は初めて見ました。
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マリー・アントワネットが暮らした村里(Le Hameau / ル・アモー) [ヴェルサイユ宮殿]

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マリー・アントワネットが住んでいた北側と東側には自然のままを特徴としたイギリス式庭園が広がっていました。そのイギリス式庭園を発展させて人間の住んでいる村を作り込んだのが、「王妃の村里」の呼ばれる空間です。日本では「王妃の村里」と呼ばれていますがフランスでは単に村里(Le Hameau または Hameau )と呼ばれています。ヴェルサイユ宮殿の中の村里と言えば、ここしかないのでわざわざ「王妃の村里」と呼ぶ必要がないのかもしれません。

その村里あたりの航空写真の建物を着色してマークを入れてみました。黄色のライン( ━━ )は村里の中を歩いたルートです。
離宮の庭園に大きな池を掘り、池のほとりには塔や納屋、はと小屋やニワトリ小屋、風車小屋などを作り、更には番人小屋や小さなわらぶき屋根の家まで作りました。
村落の周りには田園が広がり、住み込みで働く農夫婦、庭師、牛飼いなどもいて、ヤギや羊、うさぎや牛、ニワトリ、はとなども連れてこられたそうです。本物そっくりに作られたこの田舎を、のんびり散歩するのがマリー・アントワネットは好んだそうです。農夫が牛の乳を搾ったり、それでチーズを作ったりするのを見て満足していたそうです。まさに世界に一つしかない、究極のイギリス式庭園だったのです。建物の名前は撮った写真と、ネット上に掲載されている沢山の記事を比べて決めたました。もし間違いがある場合は指摘していただければ嬉しいです。ちなみに掲載している写真は全て私が撮った写真です。
名前の決定の参考にした記事の一例です。→記事1 記事2 記事3J 記事3F
 ① 水車小屋       Le Moulin
 ② 私室         Le Boudoir
 ③ 王妃の家       La maison de la Reine
 ③'  ビリヤードの家    La maison de la Reine
 ④ 料理保温室      Le Réchauffoir
 ⑤ マルボローの塔    La tour de Malborough
 ⑥ 酪農小屋       La Laiterie de propreté
 ⑦ 鳩舎         Le Colombier
 ⑧ 庭師の家       La Maison du Jardinier
  又は 衛兵の家       La Maison du Gardien
 ⑨ 建物跡(酪農仕込小屋) La Laiterie de préparation
 ⑩ 建物跡(納屋)     La Ggrange
 ⑪ 農場         La Ferme


より判りやすくするために配置図でも建物の位置を紹介します。
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小トリアノンの方から歩いて来て最初に目に入って来た景色です。この村里が作られたのはマリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿の生活から遠ざかりたいと思い始めたことが発端でした。親しい宮廷の女性たちに囲まれながら田園生活のひと時を求めて1783年に今回のような村里を欲したことから作られました。村里はノルマンディー地方の本当の村を真似て作られていて、大きな湖の周りに11軒の家が建てられて上の航空写真のように今でも残っています。
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大きな湖の畔に建っているのはマルルボローの塔(⑤)で、ボート遊びや釣り遊びに出かける時の出発点となっていたそうです。
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遠くには農場(⑪)が見えます。
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花が咲いた木のあたりには人が集まっていました。おそらくここが村里のベスト撮影ポイントなのだと思います。
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ベスト撮影ポイントに近い場所から撮った村里です。左端が上の花の咲いていた木が立っている場所です。この写真は、クリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
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それでは①の水車小屋から⑪の農場までを順番に紹介したいと思います。ネットから転用させていただいた、この航空写真には建物跡も含めた①~⑩の建物が写っています。写真クリックすると沢山の畑も確認できると思います。
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水車小屋(Le Moulin)
こちらが歩いて来た方向から最初に間近で見た水車小屋です。
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水車小屋は湖のほとりから流れる川岸に建てられていて、その水車によって、実際に穀物が挽かれたそうです。この小屋には共同洗濯場もあり、村里での生活に利用されたそうです。
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裏側から見た水車小屋です。
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私室(Le Boudoir)
ここは王妃の私室として利用されました。ブドワール(Boudoir)と呼ばれた王妃の小さい家は、広間と衣装部屋から構成され、周りを囲む庭は密閉されたものだったそうです。その建物は、葦葺きの屋根、屋根窓、庇、石階段などが特徴的です。
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別の角度から撮った私室(Le Boudoir)で広い畑に囲まれていました。
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Le Boudoirと書かれた案内板と一緒に撮った写真です。クリックすると判ると思いますが1783年と書かれています。広い畑の中に建っていることが判ってもらえると思います。
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王妃の家(La Maison de la Reine)
③'  ビリヤードの家(La maison de la Reine)
王妃の家は補修工事中でした。
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補修中の建物の横に写真が貼られていました。その写真がこちらです。
王妃の家は村里にある建物の中で最も大きな建造物で、2つの建物から構成されています。2つの建物はマリー・アントワネットのモノグラムが入った青や白の陶製植木鉢で飾られた木の回廊でつながれています。厳密に言えば右側奥に位置するのが王妃の家(La Maison de la Reine)で、その1階には食堂と遊戯の間、2階には大広間、小広間、中国様式小部屋があります。左側手前に位置するのがビリヤードの家(La Maison du billard)で、その1階にはビリヤード室、2階には小居室があります。
小トリアノンの女主人であるマリー・アントワネットは、麦藁帽子と質素な白モスリンのドレスに身を包み、回廊の上から畑仕事の模様を見晴らしていた想像されています。
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湖の対岸から撮った「王妃の家」です。シルエットのように建物の形が確認できると思います。
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料理保温室(Le Réchauffoir)
奥まった場所にあったので写真は遠くから撮ったこの一枚だけでした。
建物の中には大きな調理場、食料戸棚、小さな配膳室があるそうです。
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マルボローの塔(La tour de Malborough)
酪農小屋(La Laiterie de propreté)
マルボローの塔と呼ばれた漁場監視塔は、小舟で行く池の散歩コースの出発点であり、川カマスやコイなどの魚を捕らえるための釣り具も収容されていたそうです。上階は展望所の役割を果たし、そこからヴェルサイユ宮殿と信号の交信を行うこともできたそうです。塔の名前は、その当時流行した「英国びいき」を反映したもので、1722年のマールバラ公(フランス語の発音でマルボロー公)の死を悲しんで作られた曲からきているそうです。
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右の建物が酪農小屋(La Laiterie de propreté)と思われます。ただし100%の確証はありませんが、本建物を酪農小屋(La Laiterie de propreté)と書かれているネットでの記載がもっとも多かったのです。
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写真の一部から⑥の酪農小屋(La Laiterie de propreté)を切り取って拡大いたしました。この建物の向かいにあった酪農仕込小屋で作られて乳製品を、マリー・アントワネット王妃が、この酪農小屋で試食されていたそうです。そのために、この酪農小屋には大理石のテーブルや磁器食器類が備えられていたそうです。
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湖の対岸から見たマルボローの塔(La tour de Malborough)と酪農小屋(La Laiterie de propreté)です。絵になる景色でした。
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鳩舎(Le Colombier)
この小屋が鳩舎(Le Colombier)にはとても見えないので、これが鳩小屋であることは一番自信がなかったのですが、この建物をLe Colombierと記載した記事が沢山掲載されていました。さらにネットので鳩舎(Le Colombier)に対するHPの公式の記載内容の中の石橋や川の記述から、これが鳩小屋(鳩舎)である確証を得たのでした。そのネットでの記載内容を枠内に転記いたしました。
今ではなくなってしまった舞踏室、納屋、鶏小屋の横には、風情のある鳩舎が現在でも残っています。その傍らに流れる川にはコイが溢れ、石橋がかかっています。
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上の写真の裏側から撮った鳩舎(Le Colombier)です。確かに鳩(はと)が出入する穴とも思われる穴が9つ見えます。近くにあった酪農仕込小屋の跡地の⑨ の近くには⑥ と⑦ しかないので、この⑦が鳩舎であればれぱ、自信がなかった⑥も酪農小屋であるとの確信が持てたのでした。
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鳩の出入口と思われる穴がある部分を拡大いたしました。上に3つ、下に6つの穴を確認してもらえると思います。間違いなく鳩小屋/鳩舎(Le Colombier)でした。
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別の角度から見た鳩舎 / 鳩小屋です。
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庭師の家(La Maison du Jardinier) 又は、
    衛兵の家(La Maison du Gardien)
ネットで見るとこの建物のことを衛兵の家(La maison du Gardien)と書かれていましたが、小屋の前に建てられていた案内板にはLa Maison du Jardinierと書かれていたのです。La Maison du Jardinierを翻訳すると庭師の家だったのです。    
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こちらがLa Maison du Jardinierと書かれていた案内板です。1784年と書かれています。
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庭師の家(衛兵の家)にはかつてスイス人ジャン・ベルシーが住んでいたそうです。その囲いの一部は格子細工のアーチで覆われた小道に隣接し、そこでは球遊びが楽しまれました。正面に見えているのは鳩舎(Le Colombier)で、今は補修中ですが王妃の家も望めました。
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建物の中に入ることが出来ました。中は展示室になっていました。
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トイレもありました。トイレが少なかったので貴重な存在でした。
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建物跡(La Laiterie de préparation)
酪農小屋の向かいにあった酪農仕込小屋の跡です。第一帝政時代に壊されたそうです。
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案内板に書かれていたLa Laiterie de préparationから酪農仕込小屋の跡であることが判りました。ここではクリームやチーズが製造されていたそうです。牛乳からクリームを分離する作業やバターを作るための攪拌作業なども行われていたそうです。そこで仕込まれた乳製品は、すでに紹介した酪農小屋(La Laiterie de propreté)で王妃によって試食されていたそうです。案内板には1783年と書かれています。
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建物跡(納屋 La Ggrange)
酪農仕込小屋跡の横にも建物跡がありました。こちらは納屋(La Ggrange)の跡地です。奥の建物は⑧の庭師の家です。
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農場(La Ferme)
湖のエリアから離れた場所にも村がありました。それが農場でした。。
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農場は沢山の建物と広い敷地で構成されていました。
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突然に足元に座ったニワトリ(鶏)を見つけました。
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よく見ると沢山の鶏が放し飼いにされていました。
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建物の一部です。
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農場の建物も趣がありました。本格的な農場でした。
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少し離れた位置からの写真です。
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農場の門です。入口の門(ポーチ)は二つの石球で装飾されていました。
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門の辺りも、離れた位置からの写真を紹介します。
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豚さんも放し飼いになっていました。
農場では、王妃の要望に応えてスイスから持ち込まれた動物たちが飼育されていたそうです。その動物の中には雌牛、雄牛、子牛、雌山羊、ヤギ、ヒツジ、強暴でない白雄山羊 なども含まれていたそうです。
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離れると農場の広さが判ってもらえると思います。
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羊(ひつじ)や山羊(やぎ)達も幸せに暮らしているようでした。
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羊をアップいたしました。
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山羊は人なつっこくて手から草を食べてくれました。
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さらに遠くから撮りました。王宮の敷地の中にこのような場所があったのです。
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何度も紹介した地図ですが、王妃の村里( )の位置を紹介したくて地図を掲載いたしました。
   王妃の村里 マリー・アントワネットが暮らした村里
   ヴェルサイユ宮殿(Le Château de Versailles)
   大トリアノン宮殿(Le Grand Trianon)
   小トリアノン宮殿(Le Petit Trianon)
   ランチを食べたレストラン La Flottille
  ━━ 庭園内で乗ったミニ・トレインのルート
  ━━ 徒歩で歩いた散策ルート
  ━━ ヴェルサイユ宮殿敷地境界

ヴェルサイユ宮殿の緑の中を散策 [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ヴェルサイユ宮殿の庭園は幾何学的なフランス式庭園ばかりとだと思いましたが、自然な森のような庭園や自然豊かなイギリス式庭園が広がっていました。本記事では大トリアノン宮殿から出発して、小トリアノン宮殿や、王妃の村里(Hameau)を散策した景観を紹介したいと思います。王妃の村里(Hameau)内に関しては、特別にとりあげる値打ちがあると思いましたので、別途掲載したいと思います。

下記のGoogle地図で、散策したルート(━━)を紹介したいと思います。建物の部分はマークと同じ色で着色をいたしました。  
   大トリアノン宮殿 (Grand Trianon)
   小トリアノン宮殿 (Petit Trianon)
   フランス式あずま屋 (Pavillon Français)
   フランス式あずま屋 涼みの館 (Pavillon Frais)
   愛の殿堂(Temple del Amour) 
  ━━━━ 徒歩で歩いた散策ルート


大トリアノン宮殿を出発してすぐの景色です。広い道が真っすぐに北西方向に延びでいました。
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歩いている女の子たちがダンスしたくなるような雰囲気でした。道の突き当りに見えるのはBuffet d'eauと呼ばれている噴水です。ただし、時間の関係で途中で引き返したので噴水までは行きませんでした。
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途中にはこのような噴水もありました。
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この道は橋なのです。
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その橋の下には石畳の小道が通っていました。
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庭園の中に小さな建物が見えました。これが小トリアノン宮殿ではないかと思いましたが、庭園の中のフランス式あずま屋でした。
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そのフランス式あずま屋を拡大いたしました。このあずま屋は、当時流行し始めていたイギリス式庭園に対して、フランス式と呼ばれ始めた左右対称の庭園の中に位置しているために「フランス式あずま屋」と呼ばれています。1750年にガブリエルによって築かれたもので、トリアノンにおけるルイ15世の最初の建造物の一つだそうです。ルイ15世は幼少の頃からこの地所に強く惹かれていたそうです。ポンパドゥール侯爵夫人を連れたルイ15世は、植物庭園を散歩したり、あるいは隣の「涼みの間」で軽食を取った後にここで休息を取ったり音楽を鑑賞したりしたそうです。
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航空写真で上から見るとこのような四方向点対称の建物でした。
円形の大きな広間が中心にあり、周囲に私室、料理保温室、厨房、衣装部屋の4つの小さな部屋を配した構造です。


あずま屋の北側の庭園です。
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あずま屋の南側にも趣のある建物がありました。この建物は「涼みの館(Ppavillon Frais)
」です。これはフランス式あずま屋の第2の別館として建てられて、酪農小屋と菜園の産物を味わうための食堂として使われたそうです。
この建物を修復した時の動画があったので紹介します。→ポチッ
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小トリアノン宮殿から東側には広いイギリス式の庭園が広がっていました。遠くに見える丸い建物は「愛の殿堂(Temple del Amour)」と呼ばれています。マリー・アントワネットの自室(2階)から見えた景色でもあります。ただし写真は1階から撮った景色です。
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こちらが近くで撮った「愛の殿堂(Temple del Amour)」です。
この愛の殿堂は1778年にリシャール・ ミックにより建設されました。この建物には新古典主義様式が採用されています。全体が大理石で出来ていて、コリント式柱頭、 浮彫装飾、そして内部にデシャンの彫刻が彫られた円屋根を特徴としています。中央にはフランスの彫刻の傑作として知られるブーシャルドンの作品「ヘラクレスの棍棒で弓を作るキューピッド」が飾られています。ただし現在はレプリカで、オリジナルの彫像はルーブル美術館にあります。レプリカと言えども18世紀のもう一人の偉大な彫刻家、ムシーによって作られたレプリカです。
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広い庭園には細い道が沢山あり、迷ってしまうほどでした。
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鳥さえも庭園の一部の景色になっていました。
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庭園の散策をした小トリアノン宮殿に戻ってきました。
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小トリアノン宮殿(Petit Trianon) マリー・アントワネットが住んだ家 [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

前々記事でヴェルサイユ宮殿の敷地内の離宮である大トリアノン宮殿(Grand Trianon)を紹介いたしましたので、ここでは、同じくヴェルサイユ宮殿敷地内にある小トリアノン宮殿(Petit Trianon)を紹介いたします。フランス語ではLe Petit Trianonと書かれていますが、日本語ではは小トリアノン宮殿あるいは単に小トリアノンあるいはプティ・トリアノン離宮と訳されています。その小トリアノン宮殿は新古典主義建築で、建物は2階建ての正方形です。内装はロココ様式の最高峰とも評されるそうです。1762年から1768年に、ルイ15世の公妾のポンパドゥール夫人のために建てられたものでアンジュ=ジャック・ガブリエル(Ange-Jacques Gabriel)の設計によるものです。しかしながら、本宮殿が完成した時には、ポンパドゥール夫人はすでに亡くなっていました。その後1774年に、国王のルイ16世により彼の王妃であるマリー・アントワネットに与えられることで、マリー・アントワネットの専用の住居となりました。そのためにマリー・アントワネットと言えば「小トリアノン宮殿」と、周辺のイギリス式庭園である「王妃の村里」と連想されるようになったのです。

小トリアノン宮殿(Petit Trianon / プティ・トリアノン)はヴェルサイユ宮殿の北西方向の直線距離で1.4kmの位置にあります。
下記の地図のが小トリアノン宮殿です。
   ヴェルサイユ宮殿 紫色で囲った部分
   小トリアノン宮殿 臙脂で囲った部分
   大トリアノン宮殿 緑色で囲った部分
   マリー・アントワネットが暮らした村里
   ランチを食べたレストラン La Flottille
  ━━ ヴェルサイユ宮殿の敷地境界
  ━━ 徒歩で歩いた散策ルート
  ━━ 乗ったミニ・トレイン


周辺のフランス式庭園とイギリス庭園を散策した後、イギリス式庭園方向から小トリアノン宮殿が見えてきました。
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西に広がるフランス式庭園の方向から見た小トリアノン宮殿です。
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南方向から見た小トリアノン宮殿です。右奥に小さく見える小さな丸い建物はイギリス式庭園の中にある「愛の殿堂」と呼ばれているあずま屋です。
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小トリアノン宮殿から南側の石畳の広場を見た写真です。
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こちらは小トリアノン宮殿から西方向のフランス庭園の景観です。見えている建物はフランス式あずま屋です。
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そして、こちらが北方向の自然豊かな庭園の景観です。
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小トリアノン宮殿脇から見た東方向の景観です。左の建物が小トリアノン宮殿です。見えている丸い建物は「愛の殿堂」と呼ばれています。
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建物に入ると、最初に階段が目に飛び込んできました。豪華なヴェルサイユ宮殿や大トリアノン宮殿に対して、小トリアノン宮殿の内装は簡素さに特徴がありました。簡素さの中にも整然とした豪華さ、秩序、完璧さにあると書かれていました。
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見事な食器が飾られている部屋がありました。壁はシンプルで知らないで来ると王妃が住んでいたとは思えない内装でした。
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建物の石材がそのままの部屋もありました。
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通路も石材が直接見えました。ただし滑らかに仕上げられていました。
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一番印象に残ったのはこちらの部屋でした。装飾はありませんが壁の曲線と暖炉の曲線が美しかったです。
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右の壁際のレンガのテーブル状のように見える物は竈(かまど)で6つの焚口がありました。それぞれの火力を調整できたのだと思います。現代で言えばコンロである竈(かまど)の後ろの壁には鍋やフライパンが並べられていました。つまりここは小トリアノンの厨房だったのです。
お陰で16世紀のコンロである竈(かまど)の構造を勉強することが出来ました。写真をクリックすると拡大するので竈(かまど)の構造がわかると思います。
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次に2階を見学するために階段を登りました。
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2階に上がりました。
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クリックすると拡大階段や窓のの手摺は、錠前職人フランソワ・ブロショワによって作られたマリー・アントワネットの頭文字「MA」と王家のユリの紋章で装飾されていました。右の写真は玄関ホールから見た階段の写真です。このことからも小トリアノンがマリー・アントワネット王妃のための宮殿であったことが覗えました。
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階段ホールも石材がそのままの壁でしたが、見事な彫刻が施されていました。
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こちらの壁の彫刻は髪の毛が蛇で有名なメドゥーサです。直接に見ると石になってしまうことで有名です。メドゥーサ(Μέδουσα / Medoūsa)はギリシア神話に登場する怪物で、ゴルゴーン3姉妹の一番下の三女でした。姉はステンノー(強い女)とエウリュアレー(広く彷徨う)です。メドゥーサ(Medousa)の語源は女支配者、王妃、女王だそうです。
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クリックすると拡大2階に上がると金色の装飾がが使われていて、王妃の宮殿であったことが実感されてきました。最初の部屋に入ると、マリー・アントワネットの肖像画の中でもネット上で最もよく使われている1枚が飾られていました。この肖像画は、マリー・アントワネットが最もお気に入りだった女流画家ヴィジェ・ブランによる作品で、1783年に描かれたそうです。右の肖像画はWikimediaから転用させていただきました。
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次の居間も見事でした。大きなシャンデリアがありました。
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次の部屋は、また違った雰囲気でした。部屋の中央が見学通路になっていて、こちらの写真は通路の右側です。
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こちらの写真は通路の左側です。
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次の小部屋も女性の部屋らしい華麗さがありました。徐々にプライベートの空間に入ってきたように関しました。
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次の部屋がマリー・アントワネット王妃の寝室でした。見事なベット(寝台)が印象的でした。
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不思議な椅子状の物もありました。写っている説明書きには「Garde-robe à chaise Salle de bainsl」と書かれていました。Garde-robeはロードローブ(クロゼット/衣装ダンス)です。Garde-robeの部分は不鮮明で読み間違いがあるかもしれません。à chaiseは椅子で、Salle de bainslはバスルームです。全体的な意味は分かりません。ロードローブの意味がカギになって来るようです。今回の場合は収納箱的な意味の可能性が高いです。
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2階の見学が終り、階段を降りました。
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最初に見ていない1階の空間を見学いたしました。石の廊下です。
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芸術的に曲がった廊下も印象的でした。ここでフランス最高権力者の王妃(マリー・アントワネット)が住んでいたと思うと、感慨深いものがありました。
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大トリアノン宮殿(Grand Trianon) [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

ヴェルサイユ宮殿から循環トレイン(ミニトレイン)に乗って最初に向かったのがヴェルサイユ宮殿敷地内にある大トリアノン宮殿(Grand Trianon)です。大トリアノン宮殿は1670年にルイ14世が宮廷の目を逃れモンテスパン夫人と会う隠れ家として中国風の小宮殿「磁器のトリアノン 」を建造し、1687年ジュール・アルドゥアン=マンサールの設計により改築したものだそうです。大トリアノン宮殿はリンダーホーフ城のデザインにも影響を与えたそうです。ここでは戦勝国によるハンガリー分割を行うトリアノン条約の調印が行われました。1963年から1966年に改修が行われ、その後は迎賓館として用いられました。上はGoogle航空写真の3D機能で表示させた大トリアノン宮殿です。

ルイ14世の時代の大トリアノン宮殿には義妹の パラティーヌ王女、娘婿のシャルトル公爵、娘のブルボン公爵夫人が居住し、またマリー・レクザンスカもこの宮殿を好み、気候が良い時期に滞在していたそうです。マリー・アントワネットは、この宮殿で時々芝居を上演していましたが、住まいとしては、ルイ16世から贈られた小トリアノン宮殿(Petit Trianon)のほうを好んでいました。
ナポレオン・ボナパルトは、この宮殿の修復を命じ、その後は妻のマリー・ルイーズ皇后とともに何度も滞在したそうです。
ド・ゴール将軍は1963年に大トリアノンの改築を指示して共和国の迎賓館として利用できるようにするとともに、森のトリアノンと呼ばれる北翼に大統領の邸宅を設置させたそうです。
下記の地図のが大トリアノン宮殿です。
   ヴェルサイユ宮殿 紫色で囲った部分
   大トリアノン宮殿 緑色で囲った部分
   小トリアノン宮殿 臙脂で囲った部分
   マリー・アントワネットが暮らした村里
   ランチを食べたレストラン La Flottille
  ━━ ヴェルサイユ宮殿の敷地境界


東方向から見た大トリアノン宮殿です。この宮殿の奥に大トリアノン宮殿のための広い庭園が広がっています。
大トリアノン宮殿は薔薇色の大理石と斑岩でできた小さな宮殿はイタリアの建築様式の影響を受けた1階建ての建物です。
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こちらが南側です。
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こちらが北側です。
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南側の奥に入口がありました。ここから入りました。
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我々も入口に向かいました。
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入口を入ると中庭になっていました。列から離れて写真を撮らせてもらいました。
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その中庭の写真です。
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薔薇色の大理石が使われていることが判ってもらえると思います。
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中庭から建物の中へ入りました。
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緑色で囲った部分()が大トリアノン宮殿です。建物の中には沢山の部屋がありましたので紹介したいと思います。
 ① 居間-1(名前は不明)
 ② 居間-2(名前は不明)
 ③ 鏡の間(Le salon des Glaces)
 ④ 皇后の寝室(La chambre de l’Impératrice)
 ⑤ 礼拝堂の間(Le salon de la Chapelle)
 ⑥ 柱廊(Le Péristyle)
 ⑦ 円形の間( Le salon Rond)
 ⑧ 控えの間(L’Antichambre)
 ⑨ 音楽の間(Le salon de Musique)
 ⑩ ルイ・フィリップの家族の間(Le salon de famille de Louis-Philippe)
 ⑪ 孔雀石の間(Le salon des Malachites)
 ⑫ 皇帝の地図の間(Le cabinet topographique de l’Empereur)
 ⑬ 涼みの間(Le salon Frais)
 ⑭ コテルの回廊(La galerie des Cotelle)
 ⑮ 森のトリアノン翼棟(L'aile de Trianon-sous-bois)
 ⑯ トリアノンの庭園(Les jardins de Trianon)



居間-1(名前は不明)
宮殿の中に入って最初に入った部屋です。赤色の椅子と黄金色の脚のテーブルが印象的でした。
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シャンデリアが宮殿の部屋であることを感じさせてくれました。
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長い廊下を通って次の部屋に向かいました。
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居間-2(名前は不明)
2番目に入った部屋がこちらです。こちらも調べてみましたが部屋の名前は分かりませんでした。窓からの光は制限されていて暗かったけれども、やはり宮殿部屋だと感じられました。
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部屋ごとにソファーや椅子の色が違うのが印象的でした。部屋の中では色は統一されていました。
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鏡の間(Le salon des Glaces)
こちらの部屋が沢山の部屋の中で最も美しい部屋であったと思います。ネットで検索しても南棟で最も美しい部屋と書かれていました。こちらの部屋も窓からの光を制限されていました。目で見ると写真ほどは暗く感じませんでした。
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少し露出調整して明るくしてみました。美しい部屋だと実感してもらえるのではないでしょうか。
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角度を変えて撮った写真です。この部屋は1691年から1703年までルイ14世が使用し、閣議もここで行われたそうです。トリアノン宮殿のほとんどの部屋と同じく、装飾は元のままに保存されていますが、家具調度品は革命時に売却され、ナポレオンによって他の家具と入れ替えらたそうです。
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シャンデリアも見事でした。1810年から1814年までは、マリー=アントワネーットの姪の娘にあたるマリー=ルイーゼ皇女が大客間として使用していたそうです。
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鏡の間の窓からの庭の景色です。
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皇后の寝室(La chambre de l’Impératrice)
帝政期には皇后マリー=ルイーズが使用し現在の状態に家具調度品が整えられました。
元はルイ14世の寝室で、部屋を区分しているコリント式の柱と、モザイク式に彫刻された素晴らしい木工細工の装飾が特徴的です。
調度品のほとんどは皇后が使用して時代のものですが、ベッドだけは、ナポレオンがチュイルリーで使用していたものだそうです。ルイ16世の兄弟のルイ18世が1824年に亡くなった時のベッドでもあります。
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こちらの部屋の椅子やソファーはシックな赤色に統一されていました。
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ベッドを正面から撮りました。
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ベッド部分を拡大いたしました。さすが王室の人達が使ったベッドです。
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柱で仕切られた小部屋も紹介します。
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小部屋の方から見た寝室です。
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礼拝堂の間(Le salon de la Chapelle)
こちらが南棟で最後に紹介する部屋です。元々、この部屋は礼拝堂でした。
1691年にルイ14世が、ここに居を構えた時に、控えの間に改造されましたが、当初の目的を維持していたそうです。奥の扉から祭壇の奥まった部分に通じており、ミサが終了すると扉を閉めて部屋として使ったようです。
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絵画は福音の伝道師である聖マルコと聖ルカが描かれています。
ジャン=バティスト・ヴァン・ローの描いたルイ15世とマリー・レクザンスカの肖像画が、トリアノンの王妃の滞在を象徴しているそうです。
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礼拝堂の間にふさわしく十字架も部屋に飾られていました。
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柱廊(Le Péristyle)
柱廊は部屋ではなく南棟と北棟の間の屋根のある屋外の空間です。
ただし1810年にナポレオンは、自分の居室と皇后の居室の行き来を容易にするために、ペリスタイルの両側をガラス張りにさせて部屋の回廊になったそうです。ただし、1910年にガラス張りは取り払われて現在形になったそうです。この柱回廊が大トリアノン宮殿の特徴になったと言えます。南棟側から北棟方向を見た景観です。
東側が四角い太い柱で、西側が丸い柱です。
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こちらが東側の四角い太い柱です。薔薇色の大理石がふんだんに使われています。
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こちらが北棟から南棟方向を撮った景観です。丸い柱にも薔薇色の大理石が使われていました。
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庭園から見た大トリアノン宮殿です。中央の柱が並んだ部分が柱廊です。
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東の石畳の広場から見た大トリアノン宮殿です。中央が柱廊です。この写真はクリックすると特別に大きく拡大します。是非とも宮殿の雰囲気を感じてください。
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円形の間( Le salon Rond)
柱廊から北棟に入ったところが円形の間です。円形の間というよりはホールと言った感じです。このホールから1688年から1691年までルイ14世が3年間だけ使用した最初の居室に入ることができます。
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こちらがルイ14世が3年間だけ使用した居室ではないかと思います。
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比較的広い部屋でした。
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控えの間(L’Antichambre)
元々はルヴァンの書斎でしたが、マントノン夫人の大客間になったそうです。1812年、中二階へ通ずる階段を作ったために奥行きが浅くなり、皇帝の秘書の書斎になったそうです。
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音楽の間(Le salon de Musique)
この部屋に入って最初に目に入ってきたのはビリヤードの台です。今のビリヤードの台のような穴はありませんでした。ナポレオン時代に入れられたために、その時代のビリヤードの台のようです。
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見事な装飾品でした。ルイ14世の最初の居室の控えの間で、王の夕食が出された部屋だったそうです。王の食事中に演奏家が音楽を奏でたことから音楽の間と呼ばれているようです。
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ビリヤードの台をアップいたしました。穴が無いように見えましたが、コーナーには穴があるようです。クリックすると判ると思います。
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ルイ・フィリップの家族の間(Le salon de famille de Louis-Philippe)
広い部屋でした。この広い部屋はルイ・フィリップが、2つの部屋を合わせて作らせたそうです。黄色を基調にした椅子が印象的な部屋でした。
トリアノンに滞在することを好んだ王と家族は、夜になると、この広間でまれてひと時を過ごしたそうです。
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椅子やソファーだけでなく壁も黄色にそろえられていました。
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黄色基調の家具は当時流行した家具だったそうです。
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見事なな部屋で南棟の鏡の間と美しさを争う部屋だと思います。
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孔雀石の間(Le salon des Malachites)
ロシア皇帝アレクサンドル1世がナポレオンに贈った孔雀石の台が、この部屋の名前になっているそうです。
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宝石で出来た台と言えるのかもしれません。
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孔雀石は存在感がありました。
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皇帝の地図の間(Le cabinet topographique de l’Empereur)
元々は書斎で、泉の木立ちに向かって開かれた部屋でした。ル・ノートルの最後の設計で、小川が小さい森を縫って流れていたこの木立ちは、ルイ16世の時に取り払われたそうです。この部屋はマントノン夫人の居室に通じ、木工細工の装飾は1713年の製作でその中にヴェルサイユの庭園の眺めがはめ込まれていました。
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1810年にナポレオンはこの部屋を地図の間にし、隣の部屋を小居室にしたそうです。
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涼みの間(Le salon Frais)
この部屋が北棟の北に端にあることから、涼みの間の名前がつけられたようです。この部屋はナポレオンの閣議の間として使用され、シャルル10世がここで1830年7月31日、大臣たちに別れを告げた場所でもあるそうです。
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時計のように見えるのは気圧・温度計でバイイの作品だそうです。
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コテルの回廊(La galerie des Cotelle)
この回廊はトリアノンの花壇を冬の寒さから保護するために建造されたそうです。この回廊は南側(左側)には12の両開きのフランス窓があるのに対して、北側(左側)には5つしかありません。
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この回廊は24の絵画で飾られています。そのうちの21枚がジャン・コテルの作品です。これらの絵画には1687年の造園当時のヴェルサイユとトリアノンの木立ちが描かれており、17世紀の庭園の貴重な資料にもなっているそうです。
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第一次世界大戦の ハンガリーとの講和条約が1920年6月4日に調印されたのもこの回廊だったそうです。
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長椅子が置かれている部分にはルイ=フィリップが、ルイ15世のラングドック産大理石の氷入れが入った食器戸棚が置かれていました。
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正面の建物の中がコテルの回廊です。
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森のトリアノン翼棟(L'aile de Trianon-sous-bois)
単にトリアノン・スー・ボワとも呼ばれている棟です。
宮殿建設から20年が経過してルイ14世の家族全員が住むには狭すぎるものになりました。王の願いを満足させるために、ジュール・アルドゥアン=マンサールが、この「森のトリアノン翼棟」を建設したそうです。今までの建物が1階建なのにたいして、こちらは2階建でした。最初は王の義妹パラティーヌ夫人が、その後はその子供たちが住んだそうです。
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トリアノンの庭園(Les jardins de Trianon)
庭に面したすべての部屋から多くの種類の花を見ることが出来るそうです。特に宮殿中央の柱廊からの庭園は圧巻でした。こちらは柱廊から見たその庭園です。
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こちらは柱廊の中央からの庭園の景色です。
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コテルの回廊のある建物から南方向を見た景色です。
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次の小トリアノン宮殿方向に歩いていくときの景観です。建物の中はコテルの回廊です。北側は窓が少ないことが判ってもらえると思います。
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緑の中に白い小さな花が咲いていました。
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ピンクの花も咲いていました。
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循環トレインに乗りました。 Le Château de Versailles en Petit Train [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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すでに紹介している通りヴェルサイユ宮殿の敷地は非常に広いので、効率的に見学するために敷地内を走っている上の循環トレイン(ミニトレイン)に乗ることにいたしました。目的としている行先は下記の地図で位置を紹介している次の場所です。
  庭園
  大トリアノン宮殿
  プティ・トリアノン離宮
  マリー・アントワネットが暮らした村里

先ずは動画を見てください。
写真を撮りながら動画を撮りました。その飛び飛びの動画をつなぎ合わせました。是非ともプレーボタン( )をクリックして、ヴェルサイユ宮殿の前の乗場から最初に降りた大トリアノン宮殿までの動画を見ていただきたいです。
約2kmの走行でした。写真を撮りながら動画も撮ったので忙しかったです。動画を見ていただくと乗った気分になってただけると思います。また、この後に合間に撮った写真を掲載していますので比較していただくと、より分かりやすいと思います。


左端がチケット売り場とトレイン乗場で、右端にミニトレインが写っています。バックはヴェルサイユ宮殿です。
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こちらは上の写真に写っていた庭園内を周回するミニトレインの部分を拡大したものです。
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周回したルートを紹介します。空色ライン(━━)が乗ったミニトレインのルートです。
  公式面積 10.7k㎡(1070ha)
  着色面積 10.8k㎡
  緩衝地域 94.7k㎡(9467ha) 
   ヴェルサイユ宮殿 紫色で囲った部分
   大トリアノン宮殿(Grand Trianon)
   プティ・トリアノン離宮(小トリアノン宮殿 / Petit Trianon)
   マリー・アントワネットが暮らした村里
   ランチを食べたレストラン La Flottille
  ━━ 庭園内で乗ったミニ・トレインのルート
  ━━ 徒歩で歩いた散策ルート
  ━━ ヴェルサイユ宮殿敷地境界


チケット売り場の写真です。
フランス語ではPetit Trainと書かれており、英語では Mini Trainです。
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こちらが買ったチケットで途中の乗降場で自由に乗り降りできる上、途中では何度でも乗ることが出来ます。チケットにはLe Château de Versailles en Petit Trainと書かれていました。値段は7.5€でした。


車内から前を撮りました。
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すぐに満席になりました。
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ただし隣の席が空いていたおかげで左側の景色も撮れました。
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建物の横を通りました。
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ヴェルサイユ宮殿の北翼の部分の横を抜けていきました。
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建物を過ぎたあたりの景色です。
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ここから左にカーブして白い車が走っているところを抜けていきます。
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上の写真で白い車が走っていたあたりです。大きな池がありました。
池はネプチューンの泉水(Le bassin de Neptune)だと思われます。
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有料範囲と無料範囲を仕切っている門を出ます。
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緑豊かな並木道を走りました。
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見事な並木道でした。
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本当に、緑豊かでした。
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ルイ16世により王妃マリー・アントワネットに与えられた小トリアノン宮殿(Petit Trianon)の入口前を通りました。
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ヴェルサイユ宮殿の庭園にある離宮の一つである大トリアノン宮殿(Grand Trianon)に到着いたしました。
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大トリアノン宮殿を見た後、マリー・アントワネットが暮らした村里を見て、小トリアノン宮殿を見た後に、又ミニトレインに乗りました。写真は小トリアノン宮殿前の乗場です。
大トリアノン宮殿などを見学するためには、ヴェルサイユ宮殿に入った時のチケットが必要なので捨ててしまわないようにしてください。ここから空から見ると大きな十字架の形をした大運河と呼ばれている池のほとりに向かいました。
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また並木道が続きました。
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もうすぐ到着です。歩いている人も多かったです。
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こちらで降りて池のほとりのレストランで昼食にいたしました。レストランからヴェルサイユ宮殿まではミニトレインには乗らないで、王の散歩道を歩いて戻りました。
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宮殿正面からの庭園  [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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上の写真がヴェルサイユ宮殿の正面の庭園です。この庭園の景色を見るために、宮殿内を見学した後に外に出て庭園を見ました。

航空写真で紫色に着色したヴェルサイユ宮殿の西側(左側)に庭園が広がっています。航空写真上のアイコンマイナスをクリックするとヴェルサイユ宮殿の敷地(領地)全体に庭園が広がっていることが判ってもらえると思います。巨大な十字架の形をした池が敷地全体に広がっています。ちなみに東京ドーム敷地面積は0.046755k㎡(4.6755ha)なので何個分となるか計算してみてください。
  敷地面積 10.7k㎡(1070ha)  323万坪 答:東京ドーム229個分
  緩衝地域 94.7k㎡(9467ha) 2864万坪


建物から出て最初に目にする景色です。
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空から見るために作られているような庭園でした。


フランスらしい庭園でした。
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宮殿の正面に大きな池が2つありました。その1つです。
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池の周囲には沢山の銅像が飾られていました。どれも見事な芸術作品に思われました。
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広い庭園が見渡せる撮影スポットです。真っすぐに池が延びています。冒頭の航空写真で紹介しているように池は十字架の形をしています。
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拡大すると大きさが伝わってきます。噴水は「ラトナの泉水」とよばれているようです。ラトナの泉水,王の散歩道,大運河へと至る庭園の主軸となっています。庭園内には「ラトナの泉水」以外に「バッカスの泉水」「ケレースの泉水」「アポロンの泉水」「ドラゴンの泉水」「フローラの泉水」「サトゥルヌスの泉水」「エンケラドス泉水」「鏡の泉水」などの沢山の泉水(Les Bassins)があります。遠くに「アポロンの泉水」を見ることが出来ます。
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さらに拡大してみました。クリックするとさらに拡大いたします。
ヴェルサイユの庭園は宮殿と同じほど重要であると考えていたルイ14世は、1661年、その設計と整備をアンドレ・ル・ノートルに命じたそうです。庭園の工事は宮殿の建設と同時期に進められ、完成までに40年ほどかかるほどの大規模なものだったことが写真からも伝わってきます。
造園に携わったのはアンドレ・ル・ノートルだけではなく1664年~1683年は王室建築物監督官のジャン=バティスト・コルベールが指揮したそうです。それだけではなく国王の主席画家のシャルル・ル・ブランは彫刻と噴水に関わったそうです。建築家のジュール・アルドゥアン=マンサールも庭園の設計に関わりました。
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ここは記念撮影の場所でもありました。
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我々も記念写真を撮りました。我々の記念写真を撮っている時に興味深く見ている人もおられました。

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中央が上の写真に写っている噴水(ラトナの泉水)です。Googleの航空写真の中でEscaliers de Latone(ラトナの階段)と書かれているところが記念写真の撮影スポットです。左方向に庭園が広がっています。西北西方向になります。


記念撮影の場所から振り返るとヴェルサイユ宮殿の建物でが、このように見えました。
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宮殿の歴史回廊と3D画像 [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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1階の「王女たちの部屋」や「大階段」を見た後に来たのがこちらの部屋でした。こちらの部屋の名前は分かりませんが展示物が多くあったことから歴史回廊と呼ばれて場所近くの一室だと思います。

部屋の中央にはヴェルサイユ宮殿の模型が置かれていました。壁の天井近くには歴史的訪問者を描いた絵が飾られていました。また大きな絵もすべてヴェルサイユ宮殿内を描いている絵と思われました。
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これがその模型です。こちらの部屋を見た後は、庭園を目指しました。
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ヴェルサイユ宮殿の公式の歴史回廊ページに3Dの画像動画が公開されていましたので紹介します。


こちらは3D動画を作る作業や撮影現場などが入った動画です。それ以外にも3つの動画が登録されていました。タイトルをクリックすると表示します。
 Chaos to perfection
 From Louis XIII to the French Revolution
 From gardens to Trianon palaces

ヴェルサイユ宮殿の大時計 [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ヴェルサイユ宮殿の建物を外から見て一番気になるのが、建物の中央、王の寝室の真上にある大時計です。今回は、その大時計の写真を紹介したいと思います。2階の中央の3つ窓の部屋が王の寝室です。地面で少し高くなっている部分は「大理石の中庭」と呼ばれているところです。

王の寝室より上の部分を拡大いたしました。
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3階より上の部分を拡大いたしのした。
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大時計の周囲は石像で飾られていました。左右の像は神話に出てくる神なのでしょう。時間は丁度、11時でした。
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大時計を一番拡大した写真です。青空と黄金の太陽をモチーフとした時計です。フランスの王室によって時計が格段に進歩したそうです。確かに展示されていた懐中時計や置時計はすばらしかったです。この大時計も、その時代の最先端の技術が駆使されたのだと思います。
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王の寝室の前の欄干が見事なので拡大してみました。
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周囲の屋根の部分の金の装飾が見事なので2枚の写真で紹介します。こちらは「大理石の中庭」から見て左側コーナーの部分です。
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こちらは右側コーナーの部分です。
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王女たちの部屋 [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

前記事で紹介した2階の戦闘の回廊を見た後は、1階に降りて王女たちの部屋のエリアに行きました。上の配置図はヴェルサイユ宮殿中央部の1階の間取りを示しており、緑色で塗られている部分が、王女たちの部屋(居室)として公開されている部分です。その部分の部屋の名前を紹介いたします。部屋はヴィクトワール王女関係とアデライド王女関係とその他で分類いたしました。
ヴィクトワール王女 アデライド王女 その他
 ② 第1控えの間  ⑧ 奥の間  ① 下の回廊
 ③ 貴人の間  ⑨ 寝室  ⑪ オクトンの間
 ④ 大広間  ⑩ 大広間  
 ⑤ 寝室    
 ⑥ 奥の間    
 ⑦ 読書の間    

アデライード王女とヴィクトワール王女は1歳違いの姉妹で、二人共にヴェルサイユ宮殿で誕生いたしました。2人はフランス国王ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの四女と五女です。下の絵は二枚ともにWikipediaから転用させていただきました。
 左の絵 アデライド王女   1732年3月23年~1800年2月27日
 右の絵 ヴィクトワール王女 1733年5月11日~1799年6月07日
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王女たちの部屋の場所をGoogle地図で表示しました。
  ヴェルサイユ宮殿
  王女たちの部屋 1階  
  戦闘の回廊   2階


それでは①~⑪の部屋の写真を紹介したいと思います。

① 下の回廊
2階にある「鏡の回廊」の真下にあります。鏡の回廊ほどの長さはありませんが約40mの長さがある回廊です。
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こちらは回廊の南端の壁です。この壁の奥には王子たちの部屋があります。ただし、入口は閉鎖されているので行くことは出来ません。
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こちらが回廊の北の端の壁です。左側の通路を進むと王女たちの部屋に進むことが出来ます。
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回廊の中にあった石像です。
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② ヴィクトワール王女の第1控えの間
(Première antichambre de Madame Victoire)
ここは元はルイ14世の浴室の間でした。当初は壁と床には多色の大理石のはめ込みの装飾と、ランス産大理石でできた八角形の大きな浴槽がありました。この浴槽は現在はオランジュリーにあるそうです。その後、執務室として、トゥールーズ伯爵が1692年から1724まで、トゥールーズ伯爵夫人が1724年から1750年まで、またアデライド王女が1752年から1753年まで使用したそうです。1755年から1767年までソフィー王女が寝室にした後、同王女の第一の控え間、その後1769年にはヴィクトワール王女の第一の控え間となったそうです。
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③ ヴィクトワール王女の貴人の間(第2控えの間)
(Seconde antichambre de Madame Victoire)
もとは浴室の部屋だった場所だったそうです。その後、トゥールーズ伯爵、伯爵夫人、その後アデライド夫人の第二の控えの間、そしてヴィクトワール王女がこのアパルトマンを姉妹のソフィーとルイーズと共に使用していた時の彼女の寝室になります。1767年、第二の控えの間になりました。
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木工細工は、ヴィクトワール王女の時に作られたと思われています。ブラン・ド・フォントネによるサヴォヌリー製の屏風と、鏡に取り付けられたマルタン製ワニス塗りの掛け時計が印象的でした。
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④ ヴィクトワール王女の大広間(Grand cabinet de Madame Victoire)
この部屋も、もともと浴室の居室の八角形の間だったそうです。こちらの部屋には沢山の調度品がありました。
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丸いテーブルと椅子も印象的でした。
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別の角度から見た部屋の景観です。見事な調度品がならんてせいるのかわかってもらえると思います。日々の、彼女たちの華麗な生活が伝わってきます。
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⑤ ヴィクトワール王女の寝室(Chambre de Madame Victoire)
この部屋がヴィクトワール王女の寝室として使われるようになったのは1769年からです。それまではトゥールーズ伯爵、伯爵夫人、その後アデライド王女、そして最後に末の王女たちの第二の控えの間として使われ、1767年にソフィー王女の寝室として使われました。
見事なベッドが印象的でした。
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別の角度からの写真です。
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⑥ ヴィクトワール王女の奥の間(Cabinet intérieur de Madame Victoire)
この華麗な小部屋と図書室はもともとは1つの部屋で、トゥールーズ伯爵夫人の控えの間でしたが1767年に分割され、この小広間(ヴィクトワール王女の奥の間)と図書室になったそうです。
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沢山のテーブルと椅子が置かれていました。
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⑦ ヴィクトワール王女の読書の間(Bibliothèque de Madame Victoire)
戸棚には王女たちの紋章の入った製本が所蔵され、王女たちの姪に当たるエリザベット王女の所有であった地図コレクションの入った手箱、アデライド王女のために1775年に納品されたセーヴル製の中国的装飾モチーフの磁器製コーヒーセット、数字とヴォクトワール王女の紋章入りのテーブル用の真紅の鐘があります。
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傾斜のある机は、ソフィー王女とルイーズ王女がフォントヴローの修道院から戻ってきた1760年に、彼女たちのために納品されたものだそうです。椅子は、ベルヴュー城でのヴィクトワール王女の家具調度品の一部として使われていたそうです。
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⑧ アデライド王女の奥の間(Cabinet intérieur de Madame Adélaïde)
この小部屋は、 ポンパドゥール夫人の赤い漆の小部屋として当時は有名だったそうです。
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緑色の椅子が印象的でした。
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⑨ アデライド王女の寝室(Chambre de Madame Adélaïde)
この部屋は、1769年から1789年までアデライド王女の寝室でした。
こちらも見事なベッドが置かれており、木工細工の装飾は王女のために1766年に製作されたものと考えらているそうです。
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こちらの寝室も別の角度からの景観を紹介します。
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暖炉周辺もきれいな調度品で飾られていました。
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⑩ アデライド王女のの大広間(Grand cabinet de Madame Adélaïde)
アデライド王女の所有していた小さなパイプオルガンが印象的でした。
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この部屋を現在の形にしたのも、サランコリン製の大理石の暖炉を取り付けたのもポンパドゥール夫人だったそうです。
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こちらの部屋の調度品も見事でした。
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⑪ 射手の間(Salle des Hoquetons オクトンの間)
ここの部屋が「射手」と呼ばれたのは、宮殿内の治安を司っていた館の衛兵の着ていたチュニックが「射手の胴衣」であったところに由来しているそうです。この部屋は通常その衛兵が控えていた部屋で、1672年、武具を表した装飾がだまし絵で描かれ、 みせかけの奥まった部分に彫像が置かれました。
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こちらは「射手の間」の横にある階段です。上に上がると「王の寝室」や「鏡の回廊」がありますが、見学者は階段を通ることは出来ませんでした。
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追伸
今日2016年9月21日から9月27日まで関西に行っています。その間はネット事情の関係で皆様のところに訪問できないことお許しください。昨日9月20日は空港まで行きましたがフライトが台風16号のために欠航となったために、今日に移動します。

ヴェルサイユ宮殿の大階段 [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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今まで、「国王の居間群」と「王の寝室」の記事で、沢山の部屋を紹介いたしましたが、の「大階段」は紹介し忘れていました。この「大階段」の写真も撮っていたので紹介します。
① ヘラクレスの間 ② 豊饒の間 ③ ヴィーナスの間
④ ディアナの間 ⑤ マルスの間 ⑥ メルクリウスの間
⑦ アポロンの間 ⑧ 戦争の間   ⑨ 平和の間
⑩ 王の寝室   ⑪ 王妃の寝室 ⑫ 閣議の間
⑬ 牛眼の間 第2控 ⑭ 大会食の間 第1控 ⑮ 貴人の間
⑯ 大会食の間 ⑰ 王妃の衛兵の間 ⑱ 戴冠式の間
⑲ 1792年の間 ⑳ 王子の階段 ㉑ 石像のあった廊下
㉒ 大階段 ㉓ 王妃の階段 ㉔ 浴室
㉕ 図書の間 ㉖ 黄金の間 ㉗ 図書の間
㉘ 午睡の間 ㉙ 衛兵の間 ㉚ ルイ15世の寝室

名前の通り巨大な階段でした。これは1階から撮った写真です。真中を上がって行き、突き当りから戻る形で両側に階段が配置されていました。
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正面の石像です。
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中階からの景観です。両側の階段がよく見えます。
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正面の石像を拡大いたしました。
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ヴェルサイユ宮殿には「王妃の階段」や「王子の階段」など見事な階段が沢山ありましたが、最大の規模なのが、今回紹介の「大階段」でした。
クリックすると拡大1752年まで、右の模型の「大使の階段」と呼ばれる大階段もあったそうです。「大使の階段」はルイ・ル・ヴォーが構想し、その後継者であるフランソワ・ドルベと画家シャルル・ル・ブランが1672年から1679年に完成させたそうで多色の大理石と、金色に塗られたブロンズと絵画で美しく飾られたこの階段は、窓ガラスがはめ込まれたヴォールトから光を取り込んでいたそうですがルイ15世の時代には明かりが乏しく荒れていたことから内殿の拡大を希望した王の求めにより1752年に解体されたそうです。
王妃の階段           王子の階段
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王の寝室 と 周辺の部屋 [ヴェルサイユ宮殿]

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ヴェルサイユ宮殿の国王の寝室を紹介します。鏡の回廊の中央の東側に「王の寝室」がありました。部屋の奥にアルコーブと呼ばれる凹ました空間を作り、そこに豪華なベットが置かれていました。この寝室で、ルイ14世は「プチ・クヴェール」と呼ばれる軽い晩餐をとったそうです。さらに、王の「朝の引見」と「夜の引見」も毎日ここで行われたそうです。72年間の治世の後、1715年9月1日にルイ14世が亡くなったのもこの寝室だったそうです。深紅を基調としたベッドには金と銀を使った豪華な錦織の装飾が飾られていました。

アルコーブと呼ばれる空間と部屋との間には金メッキの木製の欄干が設けられていました。このようなベットが置かれた空間と部屋を隔てる欄干があるのは「王の寝室」と「王妃の寝室」だけのようです。
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さすが王の寝室で、部屋の中は沢山の見学者で埋まっていました。
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いろんな部屋にあった天井画は、こちらの寝室には無く真白な天井でした。寝室だから落ち着いた空間を目指したのかもしれません。
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天井以外は金を基調とした豪華な装飾で飾られていました。
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見事な時計も置かれていました。
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宮殿の外から「王の寝室」を紹介します。2階の中央の3つの窓がある部屋が「王の寝室」です。そして右側が「閣議の間」で、左側が「牛眼の間」と呼ばれている第二控えの間です。
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「王の寝室」から外を見ることが出来ませんが、隣の部屋の窓からは外を見ることが出来ました。こちらは「閣議の間」の窓からの景色です。内庭の白黒模様の部分は大理石でできています。
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こちらは、もう一つの隣の部屋である「牛眼の間」の窓からの景色です。この2枚の景色からちゃう王から見た景色を想像してみてください。
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金色の門のあたりを拡大いたしました。庭園とは反対の東の方向で駅や町がある方向です。
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今回紹介の「王の寝室」の場所は下記の配置図の中のです。周辺らは沢山の部屋が判ってもらえると思います。鏡の回廊①~⑧の部屋はすでに紹介いたしました。クリックすると別画面で表示するので配置を見ながら説明を読むことが出来ると思います。
① ヘラクレスの間 ② 豊饒の間 ③ ヴィーナスの間
④ ディアナの間 ⑤ マルスの間 ⑥ メルクリウスの間
⑦ アポロンの間 ⑧ 戦争の間   ⑨ 平和の間
⑩ 王の寝室   ⑪ 王妃の寝室 ⑫ 閣議の間
⑬ 牛眼の間 第2控 ⑭ 大会食の間 第1控 ⑮ 貴人の間
⑯ 大会食の間 ⑰ 王妃の衛兵の間 ⑱ 戴冠式の間
⑲ 1792年の間 ⑳ 王子の階段 ㉑ 石像のあった廊下
㉒ 大階段 ㉓ 王妃の階段 ㉔ 浴室
㉕ 図書の間 ㉖ 黄金の間 ㉗ 図書の間
㉘ 午睡の間 ㉙ 衛兵の間 ㉚ ルイ15世の寝室
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⑩の「王の寝室」を紹介したので、⑪の「王妃の寝室」も紹介したいところなのですが、不思議なことに撮った写真の中に「王妃の寝室」はありませんでした。クリックすると拡大宮殿内を見学している時は明確な場所が判らなかったのでベッドの置かれている部屋は全て撮ったつもりでしたが、「王妃の寝室」の写真はありませんでした。見落としたこともありうるのですが、「王妃の寝室」の隣の部屋である⑨の「平和の間」の写真も1枚も撮られていませんでした。「平和の間」は下の写真の「鏡の回廊」の正面の入口を入ったところにあるのですが、見ての通り入口は閉鎖されていることから、「平和の間」と「王妃の寝室」は修理などのために公開されていなかったとも考えられます。⑮の「貴人の間」と⑯の「大会食の間」も撮っていませんでした。右上の写真はネットから転用させてもらった「王妃の寝室」です。
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せっかくなので王の寝室の周りの部屋を紹介したいと思います。紹介するのは上の配置図で ⑫ ⑬ ⑰ ⑲ ⑳ ㉓ ㉙ ㉚ です。今回、見学出来なかった中の ⑨ ⑪ ⑱ に関しては2008年11月の写真を掲載いたしました。

⑫ 閣議の間
「閣議の間」は「王の寝室」の隣にあり「鏡の回廊」に通じていて、我々が最初に「王の寝室」に入ったのは「鏡の回廊」から「閣議の間」を通って入りました。この部屋が現在の形となったのは、ルイ15世治世下の1755年だそうです。ルイ14世が諮問(財務諮問と国務諮問)を召集した閣議室と、ルイ14世が夕食の後家族や近しい者と共に過ごした私的な場所である「胸像柱」の小部屋が結合してこの部屋が生まれたそうです。見事な装飾品で飾られていました。
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右の入口を入ると「王の寝室」です。
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角部屋も付属していました。
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このドアの向こうが「王の寝室」です。
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㉚ ルイ15世の寝室
閣議の間の別の方向の隣の部屋です。部屋の名前は調べ切れていません。
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窓がある場所で3つの部屋が連なっていることが判ります。写真を撮った順番から見て、おそらく⑫の「閣議の間」から中庭に沿って東側に3つ連なった部屋だと思われます。
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⑬ 牛眼の間
この「牛眼の間」は「第二控えの間」とも呼ばれており、「王の寝室」の隣の部屋です。それだけに見事の部屋でした。王の就寝・起床の儀式に備えて従者が控える待合室だそうです。
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右のドアのある入口を入ると「王の寝室」です。
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⑰ 王妃の衛兵の間
この「衛兵の間」には昼夜12人の衛兵が王妃の護衛に当たっていたそうです。ヴェルサイユ宮殿では、王と王妃と王子のみが自分の衛兵を持つことが出来て、その衛兵は王のもつ4中隊の精鋭部隊に属していたそうです。「衛兵の間」には王妃が訪問することがなかったことから修復されることがなかったことから17世紀の装飾がそのまま保存されている唯一の部屋でもあるそうです。
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当時と物と思われる食器がテーブルに展示されていました。
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部屋の中には我々が座れる椅子が置かれており休憩できる場所でもありました。
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㉙ 衛兵の間
装飾品が無い部屋もありました。
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ただし暖炉の上には絵画が1枚飾られていました。
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㉓ 王妃の階段
右のアーチの奥が「王妃の階段」です。つまり階段上のホールです。
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大理石で作られた巨大な階段でした。この階段は「大理石の階段」とも呼ばれています。
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上から見ると重厚さが判ってもらえると思います。
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階段を登って一番上に、紋章のような金の飾りがありました。
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階段の中段から撮った写真です。上の金も紋章のような飾りが判ってもらえると思います。
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1階から階段を見た景観です。
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⑲ 1792年の間
ここは「商人の間」とも呼ばれているようです。沢山の人物像が飾られていました。
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これはナポレオンの絵のようです。
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ナポレオンの絵の下は細い通路になっていました。我々はこの通路から、この部屋に入ってきました。ただし、一方通行なので戻れません。
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この写真でも沢山の肖像画が飾られていることが判ってもらえると思います。奥の入口を進むと⑳の「王子の階段」です。
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⑳ 王子の階段
この「王子の階段」も広い空間にありました。
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2階の彫刻群が印象的な空間でした。
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正面の入口を入るとヴェルサイユ宮殿最大の回廊 / 部屋である「戦闘の回廊」です。
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今回、工事などで写真を撮れなかった部屋を8年前の2008年11月6日に訪れた時の写真で紹介します。紹介するのは⑨の「平和の間」と⑪の「王妃の寝室」と⑱の「戴冠式の間」です。
⑨ 平和の間
平和の間は、鏡の回廊を挟んで戦争の間と対象に配置されている重要な部屋で、大理石と彫刻細工された金箔青銅の武具で装飾されています。しかしながら、丸天井には平和の恩恵が描かれています。ルイ15世の治世下では毎週日曜日に音楽会が行われ、次のルイ16世治世下にはマリー・アントワネットがその後を引き継いだそうです。
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⑪ 王妃の寝室
王妃の寝室は居室の中心をなす部屋で、王妃はその部屋で大半の時間を過ごし、ここで眠り、たびたび王が訪れたそうです。朝は、ここで身づくろいが行われたそうです。その身づくろいは王の起床と同じくらい礼儀作法に乗っ取って行われたそうです。またこの部屋で、公開の出産が行われました。公開で行われたのは、ほんとうに王妃の子であることを沢山の人に証明するためだったそうです。
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⑱ 戴冠式の間
この「戴冠式の間」は「祭典の間」とも呼ばれていて3方の壁にはそれぞれに巨大絵画が掲げられています。ダビィッド作の「ナポレオンとジョセフィーヌの戴冠式」と「シャン・ド・マルスにおける鷲章旗の授与」、そしてグロ作の「アブキールの戦い」です。部屋の中心には塔が立てられているのが特徴です。
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鏡の回廊 Galerie des Glaces [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

ヴェルサイユ宮殿の数ある部屋の中で最も中心的で、最も有名な部屋が「鏡の間」だと思います。そのことがヴェルサイユ宮殿の中の「鏡の間」の場所にも表れています。広大な庭園が正面に見える建物の中心位置にあるのです。その部屋は長さ73m、幅10m、高さ12.5mと「鏡の間」と言うよりは、もう一つの呼名である「鏡の回廊」と言った方がイメージに合う部屋です。日本では「鏡の間」が多く使われていますがフランス語のGalerie des Glacesから「鏡の回廊」と呼ぶべきと思われるのでこの後では「鏡の回廊」といたします。
  ヴェルサイユ宮殿 Château de Versailles 本館
  鏡の回廊  Galerie des Glaces
  戦闘の回廊 Galerie des Batailles

国王の寝室の位置からも「鏡の回廊」が最も重要な部屋であることが判ってもらえると思います。
 ⑧ 戦争の間  Salon de la Guerre
 ⑨ 平和の間  Salon de la Paix
 ⑩ 国王の寝室 Chambre du Roi
 ⑪ 王妃の寝室 Chambre de la Reine


上の配置図の⑧の戦争の間から見た「鏡の回廊」です。この入口のを入ると「鏡の回廊」です。
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窓からの景色を見れば鏡の回廊が中心的な部屋であることが判ってもらえると思います。
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庭園の景色を拡大いたしました。
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宮殿前の広場から「鏡の回廊」のある建物を撮りました。2階以上の部分の中央73mが鏡の間です。左端の3つの窓の部分が「戦争の間」で、右端の3つの窓の部分が「平和の間」です。
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建物の中央の部分を拡大いたしました。左端の開いている窓から、2、3枚上の庭園の写真を撮りました。
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こちらが「戦争の間」から入って最初に目にする「鏡の回廊」です。17世紀には大回廊と呼ばれ、宮廷人や外部からの訪問者といった人々の通路、待ち合わせと出会いの場所として利用されていたそうです。右側に大きな窓があり、左側の壁は「鏡の回廊」の由来となった沢山の鏡が張られていました。
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丸天井を飾る天井画に沢山の豪華なシャンデリア印象的でした。外交使節接見で君主の威光を示すため使われたり、王族の結婚式や、舞踏会や遊戯など娯楽の場として使われたそうです。
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入口の方に振り返った景観です。
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沢山の鏡が窓のように配置されていました。17のアーケードには合計357枚の鏡が飾られているそうです。その大きさや数から、フランスの新しいガラス工場が、当時最高級の贅沢品であった鏡の専売元としての地位をヴェネツィアから奪い取るほどの力を持っていたことをしめしているそうです。
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丸天井にはル・ブランの作品が30点も飾られてルイ14世が戴冠以来18年の間に成し遂げた偉業を示しているそうです。
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大きな窓の飾りも、丸天井下の梁の飾りもすばらしかったです。
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その梁の部分の飾りを紹介します。
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天井画の一部も紹介します。こちらの絵にはLE ROY GOV VERNE PAR LVI MÊME 1661と書かれていました。
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そのLE ROY GOV VERNE PAR LVI MÊME. 1661.と書かれている部分を拡大いたしました。
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こちらの絵にはL'ORDRE BETABLI DANS LES FINANCES. 1662.と書かれていました。
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こちらの石像も印象的でした。
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「平和の間」方向からの写真も紹介します。
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回廊の壁側には沢山の装飾品が置かれていました。
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シャンデリアは天井から吊り下げられているだけでなく、金色の像が支える形で沢山のシャンデリアが床に置かれていました。
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シャンデリアを支えている金色の像を拡大いたしました。是非ともクリックして見てください。
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天井からのシャンデリアと床からのシャンデリアに照らされる夜の景色を見た見たいものです。
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あらためて天井画とシャンデリアの豪華さに圧倒されました。
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クリックすると拡大「戦争の間」から入ってきて「鏡の回廊」の一番奥の写真です。なんと「平和の間」への入口が閉鎖されていて入れませんでした。おそらく「平和の間」の修理のための工事が行われているのだと感じました。そのために行き止まりとなっていることから人も少なく静かな空間となっていました。右の写真はネットから転用させてもらった「平和の間」と「鏡の回廊」の間の通路を「平和の間」側から撮ったもので、この通路が閉鎖されていたのです。
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遠くから見てもヴェルサイユ宮殿は大きかったです。その中央の大部分を占めていたのが「鏡の回廊」でした。
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国王の居間群 (ヘラクレスの間 豊饒の間 ヴィーナスの間 ディアナの間 マルスの間 メルクリウスの間 アポロンの間)  [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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上の写真は、前記事でヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂の記事で最後に紹介した「ヘラクレスの間」です。ヘラクレスの間は現在の礼拝堂が出来る前に王室礼拝堂があった場所でこの部屋の1階と2階部分を礼拝堂が占めていたそうです。1710年に現在の礼拝堂が出来て、長い工事の末に国王の大きな居間に変身いたしました。
壁に飾られている大きな絵は「シモン家の宴」で、巨大な天井にフランソワ・ルモワンヌによって描かれてた「ヘラクレスの栄光」がありました。ヘラクレスの間と呼ばれているのは天井画に由来していると感じました。

こちらが「シモン家の宴」です。この絵は1570年にヴェネチアの セルヴィテス修道院の食堂にあったものだそうでが、1664年に総督がルイ14世に贈ったそうです。贈った目的は、対トルコへの支援を要請するためのものでした。
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冒頭の写真と反対側です。
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絵画の下に大きな暖炉がありました。
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絵画を拡大いたしました。
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暖炉も見事でした。ヘラクレスの間は国王の居室の一つで、連なった国王の居間の中の最大の居間でもあります。
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上で紹介した「ヘラクレスの間」から有名な「鏡の間(鏡の回廊)」までの間に連なって国王の居間などがあります。その部屋を順番に紹介したいと思います。戦争の間の次が有名な「鏡の間」です。①のヘラクレスの間から⑦のアポロンの間までが国王の居間と呼ばれている部分です。紹介の部屋以外に「第一控え室の間」、「第二控えの間」、「貴人の間」、「大会食の間」、「閣議の間」、「王妃の衛兵の間」、「戴冠式の間」などの沢山の部屋がありました。
右の航空写真の赤色ライン(━━)が今回紹介の国王の居間の見学ルートです。
 ① ヘラクレスの間  Salon d'Hercule
 ② 豊饒の間     Salon de l’Abondance
 ③ ヴィーナスの間  Salon de Vénus
 ④ ディアナの間   Salon de Diane
 ⑤ マルスの間    Salon de Mars
 ⑥ メルクリウスの間 Salon de Mercure
 ⑦ アポロンの間   Salon d’Apollon
 ⑧ 戦争の間   ⑨ 平和の間
 ⑩ 王の寝室   ⑪ 王妃の寝室


へラクレスの間から豊饒の間を見た写真です。
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② 豊饒の間 Salon de l’Abondance
この豊饒の間は夜になるとが軽い飲み物を提供する場所として、カフェ、ワイン、リキュールなどが供されたそうです。
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そして、この部屋はルイ14世の「好奇心または珍重の小部屋」とも呼ばれていたそうです。ルイ16世の時代には遊戯の間になったそうです。王は重要な訪問客に、ここに保管されている金銀細工の壷、宝石、メダルを見せることを好みました。ヴォールト(天井)の装飾もそれを反映しているそうです。
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船の形をしたマストのない貴重な王の大帆船は、重要な出来事の機会には王のテーブルの上か、あるいはビュッフェ・テーブルの上に置かれていたそうです。その前を通り過ぎるときに人々は敬礼する必要があった権力の象徴で、王のナプキンが入れてありました。
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③ ヴィーナスの間 Salon de Vénus
この部屋は、ディアナの間と同じく、大居室へ通ずる主な経路をなしています。というのも1752年に破壊された「大使の階段」の先が大居室だったからだそうです。居室の夕べでは、食卓の準備をして、花かご、オレンジやレモンといった新鮮で珍しい果物をピラミッド形に並べ、砂糖漬けの果物、マジパンなども取り揃えられていたそうです。
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他の続きの部屋と同様に、この部屋は惑星に名前を借りていますが、これはヴェルサイユ宮殿全体の装飾のインスピレーションが惑星としての太陽系に求められているからだそうです。このヴィーナスの間は、天井に愛の女神が描かれていますが、古代ギリシャでは金星(ヴィーナス)と関連付けられていたからだそうです。ヴォールト)天井)の下部(アーチ形)を装飾する絵画は、古代の英雄の行動を描き、それは同時にその部屋の惑星と、ルイ14世の偉業にも関連しているそうです。
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一連の部屋の中でも、ヴィーナスの間が最もバロック的な装飾だそうです。ここが、ル・ブランが建築と、彫刻、絵画を現実にあるいは見せ掛けとして対話させた唯一の部屋でもあるそうです。つまり、壁柱と大理石の柱が、ジャック・ルソーの描いた遠近の眺望に取り込まれ、窓側のだまし絵の2つの彫像が、ジャン・ヴァランの描いたルイ14世の人物に対応しているそうです。
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④ ディアナの間 Salon de Diane
ヴィーナスの間と同様に、ディアナの間は、大居室のホール、そしてルイ14世の頃には、夜は居室、ビリヤードの間として利用されていたそうです。拍手を送る夫人たちのためにふたつの壇が作られていて、上手だった王が素晴らしいプレイをするたびに拍手をしたので、「拍手の寝室」とも呼ばれていたそうです。古代ギリシャでは、狩の女神であるディアナは、その冷たい印象から月に譬えられていたそうです。彼女はまた太陽神アポロンの妹でした。ヴォールト(天井)の下のアーチ部分の装飾には、古代の英雄たちが狩をする姿が描かれています。これは暗喩ではなく、ルイ14世が立派な狩人だったという事実を示しているそうです。
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天井の中央部分の絵はガブリエル・ブランシャールの作品で、航海と狩をするディアナの絵です。暖炉の上には、イフィジェニーの犠牲を描いたシャルル・ド・ラ・フォスの作品、その向かいのコンソール(テーブル)の上にはディアナとエンディミオンが描かれたガブリエル・ブランシャールの作品があります。
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古代の胸像はマザラン枢機卿のコレクションで、彼がルイ14世に遺贈した物です。
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中央の胸像です。
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こちらが右側の胸像で男性です。
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こちらは左側で女性の胸像です。
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ディアナの間の窓からの景色です。北方向です。
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庭を手入れする庭師の人が沢山いるのが印象的でした。
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⑤ マルスの間 Salon de Mars
マルスは惑星の火星を表すと同時に戦争の神でもあります。この部屋は、元々は衛兵の間でしたがのちに夜は居室として使われ、音楽及び舞踊などに使用されたことから「舞踏の間」とも呼ばれるようになったそうです。宮廷バレエは厳格な基準があり、数多くのリハーサルが必要で、王太子たちがプロのダンサーに混じって参加することもあったそうです。暖炉の両側には高壇が設けられていましたが、これは音楽の奏者たちのためだったそうですが、その高壇は1750年に取り払われたそうです。天井の中央には、クロード・オードランにより、狼たちが引く戦車に乗ったマルスが描かれています。
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沢山の絵画で飾られていました。
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見事なシャンデリアと天井画と金色の装飾が印象的でした。
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こちらの絵の金色の額にはMARIE LECZINSKA 1747と書かれていました。
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額の飾りも見事でした。
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⑥ メルクリウスの間 Salon de Mercure
このメルクリウスの間はもともと大居室の装飾的な寝室で、それが起源となって「寝台の寝室」とも呼ばれていたそうです。しばらくするとその寝台は冬場は取り払われ、その代わりに遊戯の机が置かれていたそうです。
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このメリクリウスの間が寝室として利用されたのは、ルイ14世の孫、アンジュー公のスペイン国王即位の宣言の時で、アンジュー公はこの部屋を3週間寝室として使用したそうです。また、1715年9月2日から9月10日までルイ14世の遺体が安置されたのもこの部屋でした。
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こちらの部屋では、こちらの時計も印象的でした。
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こちらの部屋の天井画も見事でした。
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⑦ アポロンの間 Salon d’Apollon
ルイ14世が自ら同一視する太陽、芸術そして平和の神に捧げられたアポロンの間は、最も豪華な部屋といわれています。
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天井画の装飾やシャンデリアから、その豪華さが伝わってきました。
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中央の丸い天井画が印象的でした。
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⑧ 戦争の間 Salon de la Guerre
こちらが、7つの大居間と鏡の間の間にある「戦争の間」です。左に行くと「鏡の間」に行きます。楕円形の化粧漆喰朝浮き彫りは「敵を足下に踏み敷く馬上のルイ14世」の姿でコワズヴォクスの傑作だそうです。
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こちらの「戦争の間」も豪華な部屋でした。最も有名な「鏡の間」は「戦争の間」と「平和の間」に挟まれる形に配置されていました。
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ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂 Royal Chapel  [ヴェルサイユ宮殿]

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ヴェルサイユ宮殿の中に1699年から11年かけて1710年に完成した礼拝堂(王室礼拝堂)があります。この礼拝堂(Royal Chapel)が建てられる以前から、現在のヘラクレスの間の位置に礼拝堂がありました。その礼拝堂は1682年に建てられたのですが、完成してすぐに狭すぎることが判り、今回の礼拝堂の建設が決まったのでした。写真の中央の建物が、今回紹介する礼拝堂です。

こちらの写真は宮殿を東の正面から撮ったものです。礼拝堂の位置を矢印(↓)で紹介しています。この写真から礼拝堂はヴェルサイユ宮殿で最も高い建物であることも分かってもらえると思います。
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空からの礼拝堂の画像も紹介します。
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こちらが王室礼拝堂のの内部です。礼拝堂の中には入れないことから入口からの写真での紹介になります。入口部分の天井のために礼拝堂の天井部分は見ることが出来ませんでした。かろうじで祭壇の上の天井画のみ見ることが出来ました。正面の祭壇の上にはパイプオルガンが配置されていました。地上階には身廊や側廊や周歩廊、階上廊には王の特別席が設けられているそうです。ゴシック建築様式の名残りとバロック様式の美的感覚が共存する独特な礼拝堂でもあるそうです。白と金が印象的な礼拝堂でした。
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こちらが祭壇です。
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祭壇上の天井画を拡大いたしました。入口部分の天井があるために、これ以上見ることが出来ないと思っていましたが、見ることが出来る場所がありました。
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その場所から撮った写真がこちらです。少し角度が違うのが判ってもらえるでしょうか。
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その場所は2階だったのです。こちらの大きなドアを入ると礼拝堂の内部を見ることが出来たのです。
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ここからは見事な天井画をみることが出来ました。
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2階から見た礼拝堂です。2階にあった王の特別席にはここから入ったのかもしれません。
フランスの君主制では王は神により選ばれ、その聖別式により王は神の「代理人」となるそうです。宮殿の礼拝堂の絵画や彫刻は、聖なる王の考えを、教会の外陣から王の座る祭壇にかけての一連のサイクルで描いているそうです。
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精一杯、見上げてみました。
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天井画の一枚を拡大してみました。
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祭壇上のパイプオルガンです。
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周囲にステンドグラスが配置された窓は洒落ていました。
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今回の礼拝堂が建てられる前の礼拝堂があったヘラクレスの間を紹介します。以前の礼拝堂は、この部屋の1階と2階部分を占めていたそうです。1710年に現在の礼拝堂が出来て、この国王の大居間が作られました。この新しい部屋を装飾するために、1712年に巨大なヴェロネーゼの「シモン家の宴」がかけられました。この絵は1570年にヴェネチアの セルヴィテス修道院の食堂にあったものだそうでが、1664年に総督がルイ14世に贈ったそうです。贈った目的は、対トルコへの支援を要請するためのものでした。太陽王の死により10年間中断されていたヘラクレスの間の工事は1736年まで続き、フランソワ・ルモワンヌがヴォールト(天井)の部分にヘラクレスの栄光を描いたそうです。
ヘラクレスの間は国王の居室の一つで、7つの連なった国王の居間の中の最大の居間でもあります。巨大な天井画と壁を飾る大きな絵画が印象的でした。
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タグ:礼拝堂

ヴェルサイユ宮殿  [ヴェルサイユ宮殿]

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パリ市内からRER(パリ高速鉄道)でヴェルサイユ宮殿に到着するまでを、すでに紹介いたしました。いよいよヴェルサイユ宮殿を紹介したいと思います。上の写真が歩いて来た方向、つまり東側から見たヴェルサイユ宮殿です。両サイドの手前に建物があるために王や王妃などが住んだ本館と言えるヴェルサイユ宮殿の全景を見ることは出来ません。

そこで航空写真でヴェルサイユ宮殿を紹介したいと思います。ヴェルサイユ宮殿の敷地(領地)内には見事な建物が沢山ありますが、王や王妃などが住んだのが紫色に着色した建物です。この建物は巨大でした。


ヴェルサイユ宮殿のすごいところは、宮殿だけでなく領地と呼ばれた敷地です。その領地と思われる部分を橙色(━━)で囲ってみました。着色した面積は10.8k㎡とWikipediaに書かれていた公式敷地面積1070 haとほぼ一致することから、着色範囲がヴェルサイユ宮殿の敷地に間違いないと思います。今回は他のマークの部分も見学したので後日紹介したいと思います。ただし1070haの敷地全体がヴェルサイユ宮殿なので、ヴェルサイユ宮殿の一部を紹介することになります。
  公式面積 10.7k㎡(1070ha)
  着色面積 10.8k㎡
  緩衝地域 94.7k㎡(9467ha) 
   ヴェルサイユ宮殿 紫色で囲った部分
   大トリアノン宮殿
   プティ・トリアノン離宮
   マリー・アントワネットが暮らした村里
   ランチを食べたレストラン La Flottille
  ━━ 庭園内で乗ったミニ・トレインのルート


最も遠くから見たヴェルサイユ宮殿です。偶然ですが2016年9月3日22時からテレビ東京で放送された「美の巨人たち」でマリー・アントワネットが取り上げられヴェルサイユ宮殿が出来来ていました。来週はセーヌ川だそうです。
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宮殿の両脇手前の建物が気になったので、上の写真と同じ位置から右側の建物をズームで撮りました。
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近づいて同じ建物を撮りました。
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同じ場所から左側の建物も撮りました。
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正面も撮りました。金色の門の奥がヴェルサイユ宮殿の有料敷地内となります。
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中央の小さな扉の中にチケット売り場があります。
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これがチケット売り場の入口です。
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そしてこれが、これがチケットです。La chambre de la Reineと書かれていることからチケットに使われている写真は王妃の寝室だと思われます。入場料は18€でした。


Aと書かれたところを左方向に進むと有料エリアの入口があります。その前に金色の門などを見てみました。
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入口を入ると安全検査場がありました。
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金色の柵を通しての宮殿も見事でした。
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柵の上の飾りです。
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こちらは門の上部の飾りです。
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外から見た金色の門の全景です。
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有料エリアに入って内側から見た金色の門です。
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門に近づいて写真を撮りました。
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振向くと宮殿正面でした。
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少し前に進みました。
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見事な建物なので正面以外の写真も紹介します。
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上の部分を拡大いたしました。
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左側も紹介します。
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再び正面です。
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見事な飾りです。建物の内部も紹介したいのですが、沢山の写真がまだ整理できていないので、本記事ではヴェルサイユ宮殿の外部だけの紹介となりました。
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今までの写真は宮殿の東側からの写真ばかりでしたが、西側(庭園側)からの写真を紹介します。建物が大きいので宮殿前の広場からでは全景は撮れませんでした。
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遠く庭園の方からの写真でヴェルサイユ宮殿の全景を紹介します。クリックすると特別に拡大するようにいたしました。
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地上からの写真や航空写真だけでは建物の外観が判りにくいのでGoogleマップの3Dの画像を紹介します。西方向から見た画像です。
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反対方向(東方向)から見た3Dです。
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348年前である1668年のヴェルサイユ宮殿の絵です。この状態から建物、噴水、礼拝堂、オペラ劇場が追加されて現在の形になったものと思われます。画像はWikipediaから転用させてもらいました。
 1624年      ルイ13世の狩猟の館として建てられる
 1661年~1665年 ル・ヴォーによる増築
 1667年~1670年 ル・ノートルによる造園
 1668年~     ル・ヴォーおよびマンサールによる増築
 1675年~1682年 セーヌ川にダムを築き噴水工事
 1699年~1710年 礼拝堂建設
 1753年~1770年 オペラ劇場建設
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地下鉄とRERを乗継いでヴェルサイユ宮殿に行きました。  [ヴェルサイユ宮殿]

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今回のフランス旅行に関しては4日目までを47の記事で紹介いたしました。今日2016年9月1日から5日目の記事からを紹介したいと思います。5日目はヴェルサイユ宮殿に行きました。
 1日目 セーヌ川散策 ノートルダム寺院 ルーブル美術館周辺
 2日目 モンサンミッシェル
 3日目 モンサンミッシェル
 4日目 ルーブル美術館 ノートルダム寺院 凱旋門 シャンゼリゼ通り
 5日目 ヴェルサイユ宮殿 チョコレート店2ケ所
 6日目 ロワールの城めぐり
 7日目 オルセー美術館 サント・シャペル セーヌ川クルーズ 他

今回の記事ではパリ市内中心からヴェルサイユ宮殿(ベルサイユ宮殿)へ電車での行き方を紹介したいと思います。先ずは泊まっていたホテルの最寄駅であるOpera駅(オペラ駅)から地下鉄8号線に乗ります。郊外電車であるRER(パリ高速鉄道)との乗換駅であるInvalides駅で地下鉄を降りて、連絡通路を歩いてRERのInvalides駅に行き緑色ラインのRERに乗ってヴェルサイユ宮殿の最寄駅であるVersailles Chateau RG駅に向かいます。Versailles Chateau RG駅は終点なので地下鉄からの乗換さえうまくいけば安心して確実に行ける方法だと思います。
 ━━ 地下鉄8号線    1.76km
 ━━ RER(パリ高速鉄道) 17.5km
  泊まったホテル Opera駅の近く
  Opera駅 / Invalides駅 / Versailles Chateau RG駅
  ヴェルサイユ宮殿
  大トリアノン宮殿
  マリー・アントワネットが暮らした村里


ホテルから地下鉄に乗る前に必ず見る風景です。見事な建物はオペラ駅の名前の由来となっているオペラ・ガルニエ(Palais Garnier)です。ガルニエ宮あるいはオペラ座と呼ばれるパリ国立オペラの公演会場の一つです。
 敷地 11,237m2 m2
 階数 6階建
 高さ 82m(屋上アポロン像の先端)
 着工 1862年7月21日
 竣工 1875年1月15日
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オペラ駅駅でゾーン4までの一日券(11.5?)を買いました。片道で6.5?なので往復だけで元が取れます。このチケットは地下鉄やRERなどパリ近郊の列車および電車がすべて乗り放題のチケットです。この日はパリに戻って来てからも地下鉄で使って計8回利用したのでかなり得になりました。非常に有効でした。


こちらが地下鉄8番線のOpera駅のホームです。パリの地下鉄はホームドアがある駅も結構ありますが、Opera駅にはありませんでした。表示版の中のM⑧の表示が地下鉄8号線のホームであることを表しておりBalardが終点駅を示しているので、ホーム入口にある路線図と組み合わせると乗る方向の間違いを防ぐことが出来ます。間違えるのを防止するうえでホーム入口にある路線図を確認することが一番大切です。昔のことではありますが、よく知らないときには何度も反対方向の電車に乗ってしまいました。
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電車を待っていると反対方向に行く電車が来たので撮りました。Operaの文字が判ってもらえると思います。
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我々はこちらの電車に乗りました。この路線は比較的古い車両が走っていました。
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乗換駅であるInvalides駅に着くと連絡通路を歩いてRER(パリ高速鉄道)のInvalides駅に向かいます。途中には写真の動く歩道ががありました。
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ヴェルサイユ宮殿に向かうRERのホームに着いてVersailles Chateau RG駅行きに乗ります。最初の電車がVersailles Chateau RG行きが4分後に来ます。Versailles Chateau RG行きは頻繁に走っていて4分後の次は12分後と28分後がありました。RERのC線であることが判ります。
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終点のVersailles Chateau RGがヴェルサイユ宮殿の最寄駅です。駅名の最後のRGは省略文字なので正式名はVersailles Chateau Rive Gaucheです。地図にはGare de Versailles Chateau Rive Gaucheと書かれていました。Gareは駅を表す言葉です。つまり地図の記載はVersailles Chateau Rive Gauche駅と言うことになるようです。
こちらの写真は6分前に着くときに撮った写真です。途中駅が全て書かれているので判りやすかったです。我々は終点ですが途中で降りる人にとっては判りやすいと思います。「QUAI A voie 2」と書かれています。Versailles Chateau RG駅は出発して11番目の駅であることも分かりました。
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すぐに電車が来たので乗りました。列車は2階建電車でした。
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最初はセーヌ川沿いを走りますがビルの中を進みました。RERの正式名はイル=ド=フランス地域圏急行鉄道網(Reseau express regional d'Ile-de-France)です。私のイメージではは郊外電車という感じなので、今までの記事の中の所々で郊外電車という表現を使いました。
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少し進むとすぐに窓の景色が変わってきました。
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きれいなデザインの車内でした。我々は2階席に座りました。
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小さな町をいくつか通り過ぎました。
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Versailles Chateau RG駅に到着いたしました。沢山の人がヴェルサイユ宮殿に向かっているのだと思います。
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これが我々が乗って来た列車の先頭です。RERはフランス国鉄(SNCF)が運営しているので、先頭にSNCFの文字が書かれていました。
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反対側から見ると二階建電車であることがよくわかってもらえると思います。
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ヨーロッパの鉄道では改札が無いのが普通ですが、こちらでは改札機が設置されていました。


こちらが駅舎です。不思議なことに駅舎の中に石像が見えました。写真をみて初めて気がつきました。撮るときに気がついていたらもっとしっかり撮ったと思います。
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本物の石像か大きな写真パネルかは判りません。クリックした拡大した写真ではパネルではなく本物の石像に見えます。左の写真は上の写真から切り取ったものです。
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街路樹の向こうにヴェルサイユ宮殿が見えてきました。
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進むと、少し大きく見えてきました。一番ワクワクする時間帯です。
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横断歩道を渡るとヴェルサイユ宮殿です。本記事ではここまでとし、ヴェルサイユ宮殿の内部に関しては別途報告させていただきます。フランス語のChateau de Versaillesに対して日本語ではヴェルサイユ宮殿と、ベルサイユ宮殿が使われるので検索数を調べてみました。
 "ヴェルサイユ宮殿" 約400,000件
 "ベルサイユ宮殿"  約311,000件
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ヴェルサイユ宮殿 / ベルサイユ宮殿 [ヴェルサイユ宮殿]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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日本語でベルサイユ宮殿とヴェルサイユ宮殿のどちらが正しいのかとYahooで検索すると、ほぼ同数なので両方を使わしてもらいます。
前日にモロッコのカサブランカからリヨンを経由してパリに入りました。この日は日本に帰国する日でしたが午後便であったことから午前中にパリを見学したいと思っていました。何度かパリに来ているけれどベルサイユ宮殿はパリから離れていることもあり、まだ訪れたことはなかったために、思い切って行くことにしました。

ルーブル美術館近くのホテルを出発したあと、ベルサイユ宮殿に行くまでも含めて順に追って報告いたします。


ホテルの近くの地下鉄の駅に行ってベルサイユ宮殿い行きたいと乗り換え方とキップの買い方を駅員の人に尋ねました。一緒にいた人が学生時代にフランス語を専攻していたので、何とかこちらの意図は伝えることが出来ましたが聞き取りが難しいので乗り換え方を紙に書いてもらいました。親切なことに外に出てきてもらい一日券を自動販売機で買ってくれました。これは助かりました。9.6ユーロで地下鉄と郊外電車が一日乗り放題なのです。ベルサイユ宮殿までの往復の切符より、かなり安く行けました。
地下鉄を2本乗り継いで、更にベルサイユ宮殿行きの郊外電車に乗るので事前に調べていないと難しいと思います。
この写真はパリの街からベルサイユ宮殿のある駅に向かう郊外列車の窓からの景色です。


電車からの住宅街の景色です。セーヌ川に沿って走る部分もありました。


駅は終点なので電車を間違わなければ確実に行けます。地下鉄から郊外電車に乗り換えるときに行き先がいろいろ表示されていたので、ホームで女性の人に乗る電車を尋ねると丁寧に教えてくれました。その人は我々が間違いなく乗るまで見届けてくれました。お陰でベルサイユ宮殿への終点の駅に無事に着きました。


これは駅の看板です。
駅の名前はVERSAILLES RIVE GAUCHE(ヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ)です。下にヴェルサイユ宮殿(CHATEAU DE VERSAILLES)と書かれています。これを見ると着いた気になりました。


駅から道路に出たところです。大きな建物の向こう側を左に曲がるとベルサイユ宮殿に真っ直ぐに向かうメープル並木の2枚下の写真の道に出ます。


これはベルサイユ宮殿ではありません。駅前通りに立派な建物もあったので撮りました。


この道が真っ直ぐにベルサイユ宮殿に向かっています。メープル(カエデ)がきれいな季節でした。
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カエデの並木道を過ぎるとベルサイユ宮殿が見えてきました。しかし残念ながらベルサイユ宮殿は霧に霞んでいました。非常に大きな建物群なので全体を見て初めて実感出来ると思うと晴れた日にもう一度来てみたいような気がします。でも、ここに来れただけでも幸せなので満足です。


もう少し歩くと最初の門が見えてきました。やはり霧で霞んでいます。


これが最初の門です。次の金色の門が遠くに見えます。クリックすると反対側からの写真です。


最初の門と2番目の門との間の建物です。向かって右側の建物です。もちろん、これもベルサイユ宮殿の一部です。
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2番目の門の前では沢山の人が記念撮影をされていました。


門の上の飾りを拡大しました。ここまでがチケットなしで自由に入れる部分です。向かって左の建てもの中でチケットを売っていますが、すごい人でした。買うのにかなり時間がかかりました。チケットの種類いろいろありました。私の前に並んでいたフランス人が買ったのと同じチケットにしました。おそらく、すべての場所に入ることが出来るチケットだと思います。
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入場券を買って中に入って正面の建物です。艶やかな建物です。
IMG_9524-1094.jpg

すこし宮殿の中を紹介いたします。豪華なシャンデリアが沢山並んでいます。
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中は沢山の人たちでいっぱいでした。沢山の部屋に分かれている部分です。
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こちらも豪華な絵に装飾品で飾られています。どの部屋も特徴のある飾りが施されていました。


絵画が数多く飾られていました。まるで美術館のようでした。
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部屋の壁紙も我々の家のものとは大違いです。
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絵画だけでなく、いたるところに彫刻が置かれていました。特に廊下は数mおきに飾られていました。
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建物から庭に出ました。建物は非常に大きくて残念ながら全体を収めることが出来ません。次の空からの写真の左下の方から建物の中央を撮ったものです。
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ベルサイユ宮殿の中央の建物の航空写真をネットから拝借しました。


庭からの正面の写真です。上の航空写真の左上から撮ったものです。冒頭写真の彫刻と一緒に撮った部分でもあります。


建物の上には沢山の彫刻が飾られていました。


これも敷地内の建物です。宮殿とは少し雰囲気の違う建物も並んでいました。
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右側と左側の雰囲気が違うのがおわかりですか。
左側が中央部分と同じように彫刻で飾られています。
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ベルサイユ宮殿は建物もすばらしいし内部も豪華絢爛ですが、最も驚かされたのが広大な敷地の沢山の庭園でした。ここからいくつかの庭を紹介いたします。


中央の広場から南南西に広がる庭園です。この写真を含めて下の3枚を見て初めて全体がわかるほどの広さです。
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これが南南西に広がる庭園の中央部分です。
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同じ庭園を横方から見ました。
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庭園と庭園の間にある小道です。紅葉がきれいです。
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これがベルサイユ宮殿で最大の庭園です。西北西方向に広大な敷地に広がる庭園でベルサイユ宮殿に来られたら是非見てほしい場所です。参考のために東京ドームの面積を記載しましたが、その東京ドームの2000倍の敷地です。想像出来ないほどの広さには驚かされました。


この場所では盛んに記念撮影をされていました。憧れの場所と言えるかもしれないですね。こちらの3人の女性の方は中国の人でした。
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庭園に下りてベルサイユ宮殿を撮りました。遠くまで離れて撮りたかったけれど帰国の飛行機の時間も迫ってきたので、この程度で離れさせていただきます。
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ネットでヴェルサイユ宮殿を調べてみました。
ヴェルサイユ宮殿(フランス語:Château de Versailles) は、1682年、フランス王ルイ14世(1638年 - 1715年 在位1643年 - 1715年)が建てたフランスの宮殿。ベルサイユ宮殿とも表記される。 パリの南西22キロに位置する、イヴリーヌ県ヴェルサイユにある。主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。
 面積      核心地域 10,700,000㎡ 緩衝地域 94,670,000㎡
 世界遺産名 ヴェルサイユの宮殿と庭園
 建設の沿革
  1624年       ルイ13世の狩猟の館として建てられる
  1661年-1665年 ルイ14世が建築家ル・ヴォーを招き、増築
  1667年-1670年 ル・ノートルによる造園
  1675年-1682年 セーヌ川にダムを築き噴水工事
  1668年-       ル・ヴォーによる第二次の増築
  1699年-1710年 礼拝堂建設
  1753年-1770年 オペラ劇場建設
参考 東京ドーム
 建築面積   46,755㎡
 グランド面積 13,000㎡

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