SSブログ

赤飯を作りました。 [日々]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
すでに記事「北海道からの母の日のプレゼント 2017年」で紹介した通り、北海道の長男家族から送られてきた母の日のプレゼントの中の大納言小豆で赤飯を作ってみることにいたしました。もちろん作ったのは家内です。大納言小豆1kgは北海道恵庭産のアカネダイナゴンで吉田農場で作られたものでした。
レシピはネットに書かれていたものを参考にいたしました。もち米3合で書かれていたものを2合に読み替えて作りました。
 参考レシピ https://cookpad.com/recipe/1943493
クリックすると拡大  材料
   もち米 2合
   小豆  55g
   水-1 適量 (あく抜き下茹で用)
   水-2 550cc(小豆を茹でるための量)
   塩   小さじ1/3
   ごま塩 適量

もち米は家に置いてあったものを使いました。先ずは、もち米を洗いざるにあげて水気を切っておきます。
クリックすると拡大

写真は茹で上がった小豆です。この状態にするまでの手順は次の通りです。
先ずは、あく抜きのために小豆を洗い鍋に入れ、かぶるくらいの水を入れて火にかけます。沸騰してから2~3分煮てざるにあげ、茹で汁は捨てます。この時、水につけずにすぐ茹でることが大切です。
本茹でのために水550ccを加えて火にかけ、煮立ったら弱火にし蓋をして30分程煮ます。指でぎゅっとつまむとつぶれる程度まで煮たら、小豆と茹で汁に分けるます。この状態が下の写真です。
小豆は乾燥を防ぐためラップをかけておきます。
クリックすると拡大

茹で汁は想像以上に真っ赤でした。さらに色を増すために、茹で汁は空気に触れさせ酸化させます。数回おたまですくい上の方から落としました。
クリックすると拡大

茹で汁が冷めたら、炊飯器にもち米を入れ、茹で汁をおこわの目盛りに合わせて入れて、30分程浸水させて、炊飯器の説明書通りに焚きました。我家の炊飯器では「炊き込みご飯」を選択して焚きました。写真は赤飯が炊き上がったところです。
クリックすると拡大

こちらが赤飯です。
今回の赤飯に使った小豆の生産者である吉田農場を紹介します。住所欄の地図をクリックするとアズキ色のマーク( )が表示されます。そのマークのところが吉田農園です。
 名前 吉田農場
 住所 北海道恵庭市穂栄25番地 地図
 電話 0123-36-5456
クリックすると拡大

赤飯の拡大写真も掲載いたしました。1kgあった小豆は、ぜんざいと赤飯に使って残りが650gあります。赤飯に使う小豆は55gだけなので、またまだ、いろいろと試してみれそうです。
クリックすると拡大

他の料理も並べました。料理はお吸い物、キヌサヤと牛肉の炒め物、切り干し大根、サラダです。お吸い物にもキヌサヤが入っています。だしに使ったカツオ節はワンコのおやつにいたしました。
クリックすると拡大

もちろんビールも用意いたしました。


こちらが、キヌサヤと牛肉の炒め物です。実は親しくしている方から採りたてのキヌサヤをいただいたのです。やっぱり美味しかったです。キヌサヤだけでなく、スナップエンドウとルバーブとニンジンもいただきました。
我家のワンコ(名前:ムサシ 17歳)の夕食も牛肉でした。体調を崩してから食欲がないので、毎日、牛肉と青魚を買って両方あるいは片方を食べさせています。つまり我々とワンコの魚と肉の食材は共通化している状態です。幸い、波はありますが、ここ数日はよく食べてくれています。昨日は錦糸卵 卵4個、鯵 半身、ドッグフード 50g、かつお節 30g、牛肉 200gでした。
クリックすると拡大

こちらがいただいたキヌサヤとスナップエンドウとルバーブとニンジンです。右上がキヌサヤです。右下のスナップエンドウは茹ででマヨネーズでシンプルにいただきました。左端のルバーブはジャムにして、毎朝、ヨーグルトに入れていただいています。
クリックすると拡大

デザートは久しぶりにパイナップルにいたしました。美味しそうなパイナップルが店頭に並んでいたので買ってきたのでした。
クリックすると拡大

訪れた町 [話題]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

今までに訪れた町をプロットしています。プロットは海外に行く機会が多かったことから記録の意味で始めました。エリアごとに色分けしています。現在のプロット数は358都市です。日本以外は、ほぼ訪れた町をプロットしたつもりですが、気がついたら追加いたします。プロット数が多いので地図の表示に少し時間がかかるようです。
  アメリカ メキシコ
  インド パキスタン
  ヨーロッパおよびロシア周辺
  日本
  アジア オーストラリア
プロットしている基準は①~③で、単に通過した町や、訪問した町同士が近い場合の一方は含めていません。
 ①目的があって訪れた町
 ②泊まった町
 ③飛行機で発着した町

訪れた町の中でも馴染の薄い町の風景をいくつか紹介します。着色の文字「地図」をクリックするとその町の場所が判る地図を表示します。表示された地図の中の中央のマークが、その町の場所です。都市名をクリックすると記事を表示します。
ロシア・シベリア ノヴォシビルスク 地図
ノヴォシビルスクはシベリア最大の町で、極寒の地でもあります。その寒い時期に訪れて極寒の地の雰囲気を感じることが出来ました。この町で初めて本場のシベリアの餃子ペリメニにも出会いました。右の写真をクリックするとそのペリメニ(Pelmeni)の記事を表示します。


ガザフスタン カラガンダ 地図
首都カラガンダはアスタナから南東に車で220km走った場所にある町です。アスタナから日帰りだったのでこの日は約500km走ったたのでカザフスタンで初めて長距離を走った旅でもありました。この時も極寒の季節のため右のような気式にも出会えました。元々乾燥した地域であり、寒すぎて雪は吹き飛ばされてしまうことから積もらないとのことでした。この町ではロシア料理を食べました。


ウクライナ ドニプロペトロウシク 地図
クリックすると拡大ウクライナで撃墜されたマレーシア航空MH17便の墜落現場に近い町です。
ここには優雅に暮らす生活もありました。右の写真は町の湖畔のレストランで出会った光景でした。そのレストラン以外にも美味しい料理が食べれるリバーサイドレストランもありました。


トルコ チャナッカレ 地図
トルコは猫ちゃんが多いところでした。特に港町のチャナッカレは猫ちゃんが多かったです。右の写真をクリックするとその猫ちゃんたちを紹介します。
ここでは美味しいケバブ料理にも出会いました。チャナッカレはマルマラ海と地中海を結ぶチャナッカレ海峡の町で昔は軍事的に重要な拠点でもありました。トロイ遺跡も近くにあります。
クリックすると拡大

モロッコ カサブランカ 地図
クリックすると拡大カサブランカと言えば、イングリッド・バーグマンが主演した映画が有名です。映画が発表されたのは第二次世界大戦中(1939年9月1日~1945年9月2日)の1942年11月26日でした。そのことからも日本とアメリカの経済的な力の差は明らかでした。モロッコは元はフランス領でフランス語圏であることから町の中はフランスを思わせる雰囲気がありました。初めて本格的なモロッコ料理や、美味しいシーフード料理にも出会えました。


パキスタン イスラマバード 地図
クリックすると拡大パキスタンのイスラマバードはホテルで火事になった思い出深い場所です。今となっては思い出となりましたが、その時は一生の中で一番、命の危険を感じた体験でした。右の写真をクリックしてもらうとその時の記事を表示します。52℃の気温を体験したのもパキスタンでした。
クリックすると拡大

バハマ ナッソー 地図
クリックすると拡大バハマには2度訪問いたしました。右の写真のように一度に何隻も訪れる観光の島でした。散策するだけでても沢山の発見がありました。小さな島でしたが26の記事を紹介することになりました。その26の記事を紹介します。タイトルをクリックすると記事を表示します。
クリックすると拡大 往復ともに洋食にしました。 成田~シカゴ
 やっとコンク貝の刺身が食べれました。
 驚き! バハマの出国手続
 バハマの高級レストラン
 リゾート地の横断歩道の注意書
 WEST BAY STREET
クリックすると拡大 Wast bayのカジノ
 バハマ最大のカジノ アトランティス
 ブランコ
 バハマでも交通事故
 この写真、違和感がありませんか?
 バハマにも大砲の飾ってあるお家がありました。
クリックすると拡大 バハマの首都ナッソーの普通の景色
 バハマは胴長リムジンだらけ
 ビーチのカモメたち
 コンク貝レストラン
 プライベートビーチ
 007 カジノ・ロワイヤルのロケ地
クリックすると拡大 バハマの郵便ポストも赤でした。
 バハマにもマックがありました。
 日曜日は要注意
 バハマのビールはこれだ!
 ニュー・プロビデンス島
 観光名所 ストローマーケット
 映画のシーンのようです。
 行きと帰りで極端に違う機内食 成田~ダラス


こちらはヨーロッパ周辺です。他の地図も同じですがマークをクリックすると都市名を表示します。訪問した町の例を紹介します。
 フランス   パリ リヨン アヌシー マルセイユ ベサイユ ブロア
        シュノンソー アンボワーズ シャンポール オンフルール
        モンサンミッシェル
 ドイツ    フランクフルト マンハイム ハイデルベルグ ミュンヘン
        ローアドルフ デュッセルドルフ ケルン ボン ベルリン
 イタリア   ミラノ ベルガモ カサレモンヘラート ベローナ ピサ
        ベネチア フィレンツェ シエナ ローマ
 ロシア    モスクワ サンクトペテルブルグ ノヴォシビルスク 
        ミハイロフ スタールイオスコル スランツェ 
 カザフスタン アスタナ アルマトゥイ アクトベ カラガンダ
 ウクライナ  キエフ ドニエプロペトロフスク ニ-コポリ
 スイス    チューリッヒ レンツブルグ ビール
 トルコ    イスタンブル チャナッカレ トロイ
 イギリス   ロンドン ラグビー


こちらはアジアを中心とした地図です。
103回入国した中国の訪問都市をリストアップしました。
 北京 天津 唐山 大連 包頭 銀川 中衛 太原 済南 青島 安陽
 開封 鄭州 洛陽 黄龍 成都 宜昌 武漢 上海 南通 無錫 蘇州
 合肥 南京 蕪湖 寧国 宣城 杭州 銅陵 池州 樅陽 晋祠 黄山
 温州 長沙 邵阳 英徳 桂林 柳州 恵州 広州 南寧 宏村 西遞
 歙県 屯渓 呼和浩 秦皇島 九寨溝 都江堰 石嘴山 栖霞山 張家港
 朱家角 馬鞍山 九華山 喬家大院 平遥古城 王家大院 白馬山庄
 鄂爾多斯


台湾は37回訪問いたしました。その台湾で訪問した町を紹介します。
 台北 基隆 羅東 蘇澳 和平 花蓮 高雄 岡山 台南 台中 桃園


日本の地図も表示します。日本に関しては住んでいる場所なのですべての町ではなく、ある程度まとめてプロットしています。住んでいる周辺も省略しています。別画面の地図を表示→ポチッ
日本で足を地面についたことのない都道府県は
 鹿児島県 宮崎県 島根県 岩手県 です。
韓国で訪問した町は
 ソウル 江陵 三陟 浦項 釜山 丹陽 城南 金浦 仁川 です。


以前に紹介したことはありますが、今までに利用した空港の地図も紹介します。こちらもマークをクリックすると空港名を表示します。地図内のプラスをクリックすると拡大します。


こちらも以前に紹介した国別訪問回数のグラフです。
右の写真は約29年前、初めて海外に行った時の写真です。撮ったのは1988年3月1日で、場所は台湾の羅東です。
バチカン市国には2日間で3回入国しましたが、1回で集計しています。ローマの町の中にバチカン市国があって、何度でも簡単に入れるからです。同じ理由で、バチカン市国からイタリアへの入国は0回にしています。
初めての台湾訪問の記事 ポチッ
クリックすると拡大 103回 中国
  37回 台湾
  18回 アメリカ
  16回 ベトナム
  16回 韓国
  13回 インド
  10回 ドイツ
   8回 フランス

さらに海外の年別の訪問回数も掲載します。日本の出国回数ではなく、日本以外の国の入国回数を海外の訪問回数と定義して作ったグラフです。したがって縦軸のタイトルは海外入国回数としています。初めて海外に出たのは1988年2月29日(台湾)です。今から29年3ケ月前になります。その約29年間に29ケ国に272回訪問いたしました。グラフをクリックすると滞在日数のグラフを表示します。1冊目~6冊目はパスポートを示しています。
 海外入国回数 272回 / 29年間 平均 9.38回/年 初1988年2月29日
 最多入国回数 24回 / 2006年 10ケ国 / 2006年
 最多搭乗回数 83フライト / 2005年
 最長滞在日数 93日/回 2002年12月10日~2003年03月12日 メキシコ
 二位滞在日数 15日/回 2000年09月03日~2000年09月17日 タイ
 三位滞在日数 14日/回 2002年10月27日~2002年11月09日 中国
 合計海外滞在 1477日/272回/29年 平均5.43日/回 平均50.9日/年
 上位海外滞在 131日/2002年 118日/2007年 105日/2005年
 訪問国数   29ヶ国 / 29年間
クリックすると拡大

北半球だけですが、世界一周をしたことが2度あります。初めての世界一周は東廻りで、2度目は西廻りでした。東廻りは時差で苦しみます。特にアメリカからヨーロッパに移動した時が最悪でした。マーク( )は空港です。ラインは空港を最短で結んだ線です。
 1度目 1992年 東廻り 3ケ国 日本→アメリカ→ドイツ→インド→日本
 2度目 2005年 西廻り 5ケ国 日本→ヨーロッパ(4ケ国)→アメリカ→日本


タグ:都市 空港 海外

お気に入りの煎餅 長保堂 たがね焼 [日々]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
スーパーで買う煎餅の中で一番気に入っているのが、上の写真の煎餅です。手軽な値段でありながら、味や食感が気に入っています。周辺のスーパーの中で売られているのは1店舗だけです。
そのスーパーに行った時には必ず買ってきます。スーパーでは沢山の種類の煎餅が売られていますが、意外とぴったりくる煎餅が少ない中で、長く買い続けている煎餅でもあります。

普段は1~3袋程度を買うのですが、6袋をまとめて買ってみました。
この「たがね焼」は人気があるようで2つ記事に詳しく書かれています。内容に私も納得です。一部を枠内に転記させていただきました。→記事1 記事2
見た目に反して、とっても薄味な味付けでした。  でも、かみしめるごとに、じわじわとお醤油とお米の風味が感じられ、 なんとも味わい深いおせんべいです。 ちょっとお米のつぶつぶ感があって、これが歯ごたえのアクセントになっているのもいいですね^^ このいびつな丸っこい形も手作りっぽくてほっこりします。 ほんの少し、ぴりっとするのもおいしいポイントです。
たがね焼きとはあまり聞きなれないかもしれませんが、煎餅の生地をトンカチのようなものでべチャンと潰して香ばしく焼き上げたものです。
触っていびつ、掴んでいびつ、この歪さが味にアクセントを大きく加え煎餅を成長させる。たがね焼きは小ぶりながらも一枚一枚がガリっというしっかりとした食感を表現し、しっかりとした醤油の旨味と香り、そして何より単純な味を決して飽きさせないピリ辛の唐辛子だ何より嬉しい。 一口サイズのたがねは口の中に丁度よくハマり、勢い良く噛み砕くには絶好のサイズでした。案の定手が止まらなくなること間違いなしでしょう。
クリックすると拡大

表面にぶつぶつがあるのが特徴の煎餅で、たまり醤油の味も気に入っています。唐辛子がすこし入っていてピリ辛感があります。
クリックすると拡大

食感を感じてもらうために拡大いたしました。生地を叩いて平らにしているそうです。そのためか薄いけれども噛みごたえがあります。
クリックすると拡大

さらに拡大いたしました。クリックすると同じ縮尺ですが広範囲を表示します。このブツブツ感が気に入っています。
クリックすると広範囲表示

今回の煎餅を紹介します。

 名前 たがね焼 90g
 味付 たまり醤油
 材料 うるち米 もち米
 価格 158円~238円(税込)
 販売 ㈱長保堂
 電話 044-738-1070
 TF 神奈川県川崎市中原区上小田中6-45-5   Street View
 工場 山梨県甲州市勝沼町綿塚160-1 (勝沼工場) →Street View
タグ:煎餅

オルセー美術館でも模写が許されていました。 [オルセー美術館]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
以前にパリのルーブル美術館の模写している光景を紹介したことがあります。同じパリにあるオルセー美術館(Musée d'Orsay)でも模写されている方がおられました。ルーブル美術館では沢山の模写している人を見かけましたが、オルセー美術館で気が付いたのは1人だけでした。模写できる静かな場所はルーブル美術館に比べて少ないので、見学者の多い場所の作品は模写の許可が下りないのだと思います。

皆さん興味があるようで沢山の人が模写を見学されていました。
クリックすると拡大右の写真はルーブル美術館での模写の光景です。
イーゼル(画架)と椅子がルーブル美術館と同じでした。そのことから同じようなシステムだと感じたのでルーブル美術館での模写を行う手順を紹介します。
 ① 模写したい絵の希望を美術館に伝える。
クリックすると拡大 ② ダメな場合は美術館の提案の中から選択する。
 ③ 日本大使館の推薦書と無犯罪証明書を入手する。
 ④ 許可されたら模写の出来る時間帯に行って模写する。
   模写期間 一つの絵で3ケ月以内
   模写料金 無料
   その他  イーゼル(画架)と椅子は借用可
クリックすると拡大

見学の人がいなくなるまで待つことにいたしました。
クリックすると拡大

やっと、こちらの写真を撮ることが出来ました。
クリックすると拡大

こちらが模写していた絵です。こちらの絵はコローと言う画家の作品でした。調べてみると同じタイトルで同じ名前の作品が何枚も書いていました。女性が手に持っている楽器はマンドリンです。
クリックすると拡大下の5枚の作品の中で3枚の作品にマンドリンが描かれています。クリックすると判ると思いますが、左から2枚目と右端は服装は同じですが違う作品です。
 作家 カミーユ・コロー Camille Corot
 作品 L'Ateiier de I'artiste アーティストのスタジオ
 制作 1865年
クリックすると拡大
クリックすると拡大

下記の写真に写っている風景画と人物画の計3枚の絵がコローの作品です。
コロー(Corot)のフルネームはJean-Baptiste Camille Corot(ジャン=バティスト・カミーユ・コロー)です。コローは印象派の前の時代の画家で、日本では馴染は少ない気がしますが、コローの影響を受けた画家は、印象派・ポスト印象派のピサロ、モネ、セザンヌなど、野獣派のマティス、ドランなど、立体派のピカソ、ブラック、グリスなどが挙げられるほど次世代に影響を与えた画家として有名なようです。クリックすると拡大詩情あふれる森や湖の風景画で知られると同時に「真珠の女」のような人物画にも傑作があります。イタリアなどに旅して絵を描いてはいますが、パリの裕福な織物商人の子として生まれ、パリで育ち、パリで没した生粋のパリッ子の画家と言えると思います。
 名前 ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
    Jean-Baptiste Camille Corot
 生誕 1796年7月17日 バリ
 死没 1875年2月22日 パリ(満78歳没)
クリックすると拡大

コローの絵の周辺で気になった作品を紹介します。本記事内の5人の画家(作家)の写真は全てフリー百科事典のWikipediaから転用させていただきました。
クリックすると拡大こちらは牛が沢山書かれた大きな絵です。こちらの絵は、娘も気になったようで接写しています。
 作家 ローザ・ボヌール Rosa Bonheur
    1822年~1899年(満77歳没)
 作品 Labourage nivernais dit aussi Le Sombrage
 制作 1849年
クリックすると拡大

接写していたいた理由は、写真をクリックしていただくと判ると思います。大きな作品にも関わらず細部まで本物と間違えるほど詳細に書かれているのでした。牛の表情も豊かに描かれていました。ボヌールは、当時は珍しい女性画家でした。本名はマリー・ロザリー・ボヌール(Marie Rosalie Bonheur)で、フランスの写実主義画家です。動物の姿をありのままに捉えた作品を多数残したそうです。ジョルジュ・サンドやサラ・ベルナールなどと並び、フェミニズム初期を代表する人物の一人だそうです。
クリックすると拡大

クリックすると拡大同じ牛の絵ですが別の作者です。こちらの作品は見た記憶がありました。
 作家 コンスタン・トロワイヨン Constant Troyon
    1810年~1865年(満54歳没)
 作品 Boeufa allant au labour, effet de matin 
 制作 1855年
クリックすると拡大

こちらはÉdouard Sainの作品です。本絵はÉdouard SainのWikipediaクリックすると拡大中に入っているので代表作の中の一つだと思います。沢山の女性たちが描かれた作品です。
 作家 エドゥーアード・セイン Édouard Sain
    1830年~1910年(満80歳没)
 作品 Fouilles à Pompéi
 制作 1865年
クリックすると拡大

クリックすると拡大そして、こちらはErnest Meissonierの作品です。タイトルから判断してベネチア(ベニス)のサン・マルコ大聖堂で礼拝している女性を描いた作品です。
 作家 エルネスト・メソニエ Ernest Meissonier
    1815年~1891年(満75歳没)
 作品 Femme en prière à Saint-Marc de Venise
クリックすると拡大

北海道からの母の日のプレゼント 2017年 [日々]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
今年(2017年)も北海道の長男家族から、家内に母の日のプレゼントが届きました。上の写真はその中の一つです。届いてすぐに撮りました。

こちらは母の日の2017年5月14日(日曜日)に家に咲いていた5種類のバラと一緒に撮った写真です。バラの花は変わっていきますがプレゼントは鉢植えなので一週間が経った5月22日も元気に咲いています。
クリックすると拡大

実は、母の日のプレゼントの本命は鉢植えと一緒に送られてくる北海道の野菜たちなのです。つまり家内への母の日のプレゼントは「花と団子」なのです。一昨年(2015年)までの母の日のプレゼントは花だけでしたが、昨年(2016年)から「花と団子」になりました。昨年の母の日のプレゼントは右の写真のジャガイモ2種、うど、山わさび、アスパラガスでしたが、今年(2017年)は下記の野菜たちでした。アスパラガスは昨年の2倍ほど入っていました。
クリックすると拡大今年の新しい目玉は北海道千歳産の寅王(とらおう)と呼ばれている超極厚の椎茸でした。
 特選椎茸   北海道千歳産 寅王(とらおう)
 大納言小豆  北海道恵庭産 アカネダイナゴン
 アスパラガス 北海道産
クリックすると拡大

少しでも新鮮なものを食べたかったので、届いた当日にアスパラと椎茸を食べました。アスパラは肉巻きにいたしました。
クリックすると拡大

こちらが「アスパラ肉巻き」です。
クリックすると拡大

少し変わった形の皿に盛りつけたので、方向を換えた写真も紹介します。こちらの角度だと「アスパラ肉巻き」の断面がよく見えます。
クリックすると拡大

マスタードで食べてみました。ビールが進みました。
クリックすると拡大

大きなシイタケなので、シンプルに焼いていただくことにいたしました。
クリックすると拡大

椎茸は表側だけを焼いていただきました。
クリックすると拡大

シイタケは生姜醤油でいたただ来ました。
クリックすると拡大

一緒に用意したサラダです。
クリックすると拡大

ブロッコリーも一緒に食べました。
クリックすると拡大

翌日もアスパラガスと椎茸をいただきました。アスパラガスはシンプルに茹でてマヨネーズクリックすると拡大でいただきました。
アスパラガス(Asparagus spp.)はキジカクシ属植物の複数の食用種の総称だそうです。ただし食用の栽培作物として、一番多いのがアスパラガス(Asparagus officinalis)だそうです。クロンキスト体系ではユリ科になります。
 界:植物界      Plantae
 門:被子植物     Angiosperms
 綱:単子葉類     Monocots
 目:キジカクシ目   Asparagales
 科:キジカクシ科   Asparagaceae
 属:クサスギカズラ属 Asparagus
 種:アスパラガス   Asparagus officinalis クリックすると拡大

この時も椎茸はシンプルに焼いていただきました。今回の北海道千歳産の寅王(とらおう)は超極厚のシイタケなので、他の食べ方ではもったいないのです。
クリックすると拡大

3度目のアスパラもシンプルに茹ででマヨネーズでいただきました。
アスパラガスを日本で初めて1922年(大正11年)に作るすることに成功させたのが岩内町出身の下田喜久三・農学博士でした。寒冷地に適した新品種を開発することで可能になったそうです。翌年の1923年には40ヘクタールの直営農場を設けて大規模に作り始めたそうです。その岩内町に「日本のアスパラガス発祥の地」の記念碑があります。
クリックすると拡大

そのアスパラガスを、一緒に食べたカレーライスに乗せてアスパラ・カレーにもいたしました。これもなかなかおいしい食べ方でした。
クリックすると拡大

先ずは北海道産の大粒の小豆は、ぜんざいで食べてみることにいたしました。先ずはじっくりと茹でました。砂糖を入れたところで写真を撮りました。
クリックすると拡大

今回の小豆には大納言と書かれていました。品種はアカネダイナゴンです。今では一般的に普及しているようですが、大納言小豆の由来などを調べてみると枠内のように書かれていました。
あずきの中で特に大粒な特定の品種群に「大納言」となずけられています。流通・加工上、普通のあずき品種とは区別されているそうです。その名前の由来は、この品種群のあずきは、大粒なだけではなく、煮たときに皮が破れにくい特徴を持ち、いわゆる「腹切れ」が生じにくいことから、切腹の習慣がない公卿の官位である「大納言」と名付けられたと言われています。なお、円筒あるいは俵のような豆の形が大納言が被った烏帽子に似ているためという説もあります。江戸時代には「中納言」や「少納言」と名付けられた品種もあったそうです。
クリックすると拡大

完成した「ぜんざい」です。
クリックすると拡大

確かに大粒で美味しかったです。次は赤飯を作るつもりとのことなので、その時は本記事に追記したいと思います。
クリックすると拡大

追記 2017年5月30日
赤飯を作りましたので写真を追加します。記事はこちらです。→ポチッ
クリックすると拡大

生産場所の地図を掲載します。
 大納言小豆  吉田農場
 椎茸寅王   ファームTORAO
 アスパラガス ふらの農協

オルセー美術館 ファン・ゴッホ [オルセー美術館]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
オルセー美術館(Musée d'Orsay)で最上階の印象派展示室(Galerie des Impressionnistes)を見た後、地上階に下りて最初に行ったのがゴッホやゴーギャンなどのポスト印象派の作家の作品が展示されている場所でした。特にゴッホの作品は印象に残ったので、本記事ではゴッホの作品を紹介したいと思います。

その展示室がこちらです。5枚ともゴッホの作品です。左から順に日本名とフランス名を紹介します。下で詳しく大きな写真で紹介いたします。
 二人の少女          Deux fillettes
 医師ガシェの肖像       Le Docteur Paul Gachet
 ガシェ医師の庭で       Dans le jardin du docteur Gachet
 オヴェールの教会       L'église d'Auvers
 コードヴィルの藁葺き屋根の家 Chaumes de Cordeville
クリックすると拡大

それではゴッホの作品を紹介したいと思います。日本では姓(苗字)をゴッホと呼んでいますが、オランダ人名のVanはミドルネームではなく姓の一部であることから姓はVan Gogh(ファン・ゴッホ)なのです。
 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ Vincent Van Gogh
  姓 ファン・ゴッホ        Van Gogh
  名 フィンセント         Vincent
 作品 Portrait de I'artiste
 制作 1889年
クリックすると拡大

独特のゴッホの絵のタッチを紹介したくて拡大いたしました。
クリックすると拡大

上の拡大写真でも表面の凸凹は紹介しきれないので、さらに拡大いたしました。クリックすると特別に大きく拡大いたしまします。是非ともクリックしてほしいです。少しは表面の凸凹を感じてもらえるかもしれません。
クリックすると拡大

それではファン・ゴッホを紹介します。右の写真がファン・ゴッホの写真です。すでにお気づきのように上の絵はファン・ゴッホ自身の肖像画だったのです。作品のタイトルPortrait de I'artisteは「画家の肖像(自画像)」でした。ウィレム(Willem)がミドルネームで省略されてフィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)と書かれることが多いです。
 名前 フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ
    Vincent Willem Van Gogh
 出生 オランダ南部の北ブラバント州ブレダに近いズンデルト(Zundert )村
 生誕 1853年3月30日
 死没 1890年7月29日(満37歳没)
1886年2月末(32歳)にパリに夜行列車で来て始まったフランス居住時代に、主要な作品のほとんどが制作されました。フランス居住時代は次のように分けられます。
 1886年2月~1888年2月 パリ居住時代
 1888年2月~1889年5月 アルル時代
 1889年5月~1890年5月 サン=レミでの療養時代
 1890年5月~1890年7月 オーヴェル=シュル=オワーズ
1888年12月23日に発生したファン・ゴッホ自らの耳たぶを切り落とす事件は有名です。そのことによりアルル市立病院に収容されました。ファン・ゴッホは1890年7月29日にオーヴェル=シュル=オワーズ(Auvers sur Oise)で亡くなりましたが、拳銃による自殺と言われているにもかかわらず即死ではなく傷を受けてオーヴェルのラヴー旅館に、自ら帰り着いて2日後に亡くなっていることから、謎となっています。少年たちの拳銃暴発説などもありますが、拳銃による自殺が定説です。70年後の1960年に農地から発見された拳銃はアムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館にて展示されいるそうです。先ずは右の写真をクリックしてみてほしいです。
クリックすると拡大クリックすると拡大

ファン・ゴッホは短い期間に偉大な作品を沢山残しています。オルセー美術館にも沢山展示されていたので一部を紹介します。
 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
 作品 Tête de paysanne hollandaise オランダ人農婦の顔
 制作 1884年 オランダ時代
クリックすると拡大

 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
 作品 Paysanne prés de l'âtre 暖炉の前の農民
 制作 1885年 オランダ時代
クリックすると拡大

 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
 作品 L'Arlésienne アルルの女(ジヌー夫人)
 制作 1888年 フランス・アルル時代
クリックすると拡大

 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
 作品 La Nuit étoilée 星降る夜
 制作 1888年 フランス・アルル時代
クリックすると拡大

 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
 作品 La Méridienne 昼寝
 制作 1889年~1890年 サン=レミでの療養時代
クリックすると拡大

ファン・ゴッホが亡くなった年である1890年描かれた絵画を4枚紹介します。
 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
 作品 Mademoiselle gachet dans son jardin 庭のガシェ嬢
 制作 1890年(没年) 
クリックすると拡大

 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
 作品 Chaumes de Cordeville コードヴィルの藁葺き屋根の家
 制作 1890年(没年) 
クリックすると拡大

絵のモデルであるポール・ガシェ(Paul-Ferdinand Gachet)は、オーヴェル=シュル=オワーズ在住の精神科の医師で、美術愛好家であり、アマチュアの画家でもありました。ファン・ゴッホの晩年における主治医でありました。医師ガシェの肖像には第1バージョンと第2バージョンがあり、こちらの絵は第2バージョンです。
 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
 作品 Le Docteur Paul Gachet 医師ガシェの肖像
 制作 1890年(没年) 
クリックすると拡大

 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
 作品 Deux fillettes 二人の少女
 制作 1890年(没年) 
クリックすると拡大

 作家 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
 作品 左:ガシェ医師の庭で          右:オヴェールの教会
    左:Dans le jardin du docteur Gachet  右:L'église d'Auvers
 制作 左:1890年(没年)            左:1890年(没年) 
クリックすると拡大

娘も沢山の絵の写真を撮っていました。撮っているのは上の写真の右側の絵であるL'église d'Auvers(オヴェールの教会)です。これで本記事でファン・ゴッホの作品を12枚紹介したことになります。作品の日本名は2008年9月に訪問された方の記事を参考にさせていただきました。
クリックすると拡大

オルセー美術館の建物を紹介します。オルセー美術館の建物は1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅であったことは有名です。
 名前 オルセー美術館 (Musée d'Orsay)
 住所 1 rue de la Légion d’Honneur, 75007 Paris
 時間 9:30~18:00(木曜は21:45まで)
 休館 月曜日 1月1日(祝) 5月1日(祝) 12月25日(祝)
 最寄 Musée d’Orsay駅 Solférino駅 Assemblée Nationale駅
クリックすると拡大

オルセー美術館 印象派展示室 [オルセー美術館]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
クリックすると拡大フランス旅行の最終日(7日目)の最初に訪れたのがオルセー美術館(Musée d'Orsay)でした。朝の8時50分に到着するとすでに紹介したように1番でした。その時の記念写真が右です。
9時30分に開館して中に入って最初に見た景色がが上の写真です。この空間はオルセー美術館がオルレアン鉄道のオルセー駅だったころは蒸気機関車が入ってきた空間でした。
クリックすると拡大右の写真はオルセー駅時代のものですが、正面の時計の下が、今のオルセー美術館の入口です。その場所から撮った写真が冒頭の写真なのです。
元、ホームがあった場所の中央はゆっくりとした上り坂のスペースが作られてその両側に展示室が設けられていました。冒頭の写真で左側がセーヌ川がある方で、そちらに2つの時計のある建物があり、その最上階も展示室になっていました。
クリックすると拡大1階は軽く見た後、すぐに、その最上階の展示室に向かいました。右の写真がオルセー美術館の外観です。建物に関してはすでに建物編で紹介いたしました。

最上階に向かう前に最初に入った1階の展示室はジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)とオノレ・ドーミエ(Honoré Daumier)でした。こちらの部屋はMilletの作品の部屋です。教科書で見たことのある作品が沢山展示されていました。
クリックすると拡大

ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)の作品を3枚紹介します。
 作家 ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)
    1814年~1875年(60歳)
 作品 Des glaneuses 落穂拾い
 制作 1857年
クリックすると拡大

 作家 ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)
 作品 La Fileuse 糸紡ぎの女 (オーヴェルニュの山羊飼い)
 制作 1868年~1869年
クリックすると拡大

 作家 ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)
 作品 La Printemps 春
 制作 1868年~1873年
クリックすると拡大

オノレ・ドーミエ(Honoré Daumier) の作品も紹介します。
教科書で見たことがあるような気がします。
 作家 オノレ・ドーミエ(Honoré Daumier) 1808年~1879年(70歳)
 作品 Crispin et Scapin クリスパンとスカパン
 制作 1864年
クリックすると拡大

紹介した絵画以外にも下記の作者の絵画の写真を撮りましたが、最上階に上がることを優先したので、後でゆっくりと鑑賞いたしました。左側がJules BretonのLe Soirで、中央がErnst HébertのLa Mal'ariaで、右側がAchille BenouvilleのLe Colisee vu du Palatinです。中央と右側の写真はクリックすると拡大いたします。
クリックすると拡大クリックすると拡大 Jules Breton
 Ernst Hébert
 Achille Benouville
クリックすると拡大

最上階に上がって撮った写真です。
正面の時計のあるところから入ってきてここまで上ってきました。この高さのところに、今回紹介する展示室があります。この高さに展示されている作品だと想像しながら見てほしいです。
クリックすると拡大

我々が最初に目的をもって訪れた展示室です。
展示室の名前は印象派展示室(Galerie des Impressionnistes)で、主な作家として5人の巨匠、ルノアール(Renoir)、モネ(Monet)、マネ( Manet)、セザンヌ(Cézanne)、ドカ(Degas)が書かれていました。最初にここに来たかった理由が分かってもらえると思います。時計塔の展示室パヴィヨン・アモン(Pavillon amont)もこの5フロアーにあります。2009年より2年をかけて改装工事が行われて2011年10月末にリニューアルオープンした中でも最大の目玉が今回の展示室だそうです。


もちろん作品は5人だけではなく沢山の印象派の作品が集められた空間でした。
クリックすると拡大

チケットの当日買の人たちの中で一番で入館できた上に、最上階にすぐに上がったおかげで、人の少ない空間で絵を楽しむことが出来ました。
クリックすると拡大

最上階の印象派展示室は濃いグレーの壁で統一されていました。
クリックすると拡大

ロダンの作品も展示されていました。
 作家 オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin) 1840年~1917年(77歳)
 作品 L'Homme qui marche 歩く男
 制作 1907年~1910年
クリックすると拡大

先ずはマネの絵を2枚紹介したいと思います。
どこかで見た絵でした。
 作家 エドゥアール・マネ(Édouard Manet) 1832年~1883年(53歳)
 作品 Le Déjeuner sur l'herbe 草上の昼食
 制作 1863年
クリックすると拡大

こちらも見覚えがあります。
 作家 エドゥアール・マネ(Édouard Manet)
 作品 La Dame aux éventails 扇を持つ女性 
    Nina de Callias     ニーナ・ド・カリアスの肖像
 制作 1873年
クリックすると拡大

クリックすると拡大前記事のバラの花の名前となっているエドガー・ドガの作品を紹介したいと思います。
 作家 エドガー・ドガ(Edgar Degas)
    1834年~1917年(83歳)
 作品 La Classe de danse ダンス教室
 制作 1873年~1876年 (1874年頃)
クリックすると拡大

 作家 エドガー・ドガ(Edgar Degas)
 作品 Danseuses montant 階段を上がる踊り子
 制作 1886年~1890年
クリックすると拡大

この絵を描いていた1893年頃のドガは、ほとんど目が見えず、親指で絵の具を塗っていたそうです。それだけに印象的な色彩の絵になって、人気があるようです。
 作家 エドガー・ドガ(Edgar Degas)
 作品 Danseuses bleues 青い踊り子
 制作 1893年
クリックすると拡大

当然と言えば当然なのですが、踊り子以外のドガの絵も沢山ありました。
 作家 エドガー・ドガ(Edgar Degas)
 作品 Le Champ de courses
 制作 1876年~1887年
クリックすると拡大

ドガはこのような彫像も作っていました。これは話題のものです。ドガの生前に唯一発表された彫刻作品です。発表時はロウで作られていて死後に、ブロンズ像が鋳造されたそうです。ドガは、この彫像以外にも沢山の彫像を制作しましたが、すべて亡くなってから発表されたそうです。
 作家 エドガー・ドガ(Edgar Degas)
 作品 Petite Danseuse de Quatorze Ans 14歳の小さな踊り子
 制作 1881年
クリックすると拡大

こちらのブロンズ像の説明板は単独で撮っていないけれども作品と一緒に写ってい説明版の文字の雰囲気はEdgar Degasのようです。上の作品の近くに置かれていたことと、バレリーナのブロンズ像であることからエドガー・ドガと思われます。調べた結果、フランス語名は分かりませんでしたが英名は下記のとおりです。さらに後ろに並んでいるブロンズ像もドガの作品であることが分かりました。
 作家 エドガー・ドガ(Edgar Degas) 
 作品 Dressed Dancer at Rest(英名) 予想仏語名:Danseuse de Reste
 制作 1895年頃
クリックすると拡大

アルフレッド・シスレーの作品も沢山ありました。その中から3枚を紹介します。
 作家 アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley) 1839年~1899年(59歳)
 作品 La Neige à Marly-le Roi 
 制作 1875年
クリックすると拡大

 作家 アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley)  
 作品 Le Repos au bord du ruisseau 
 制作 1878年
クリックすると拡大

 作家 アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley)  
 作品 Canal du Loirg
 制作 1884年
クリックすると拡大

クロード・モネの作品を6枚紹介します。
 作家 クロード・モネ(Claude Monet)
 作品 Em norvégienne
 制作 1887年
クリックすると拡大

 作家 クロード・モネ(Claude Monet)
 作品 La Seine à Vétheuil
 制作 1879年
クリックすると拡大

こちらは2枚が並べて展示されていました。人物を風景画とした描いた「戸外の人物習作」で、この絵を描いた後は人物画を描かなくなったそうです。
1875年に描かれた有名な「日傘をさす女」と構図は似ていますが、11年後に描かれたこの2枚の作品は描き方は全く違うのです。クロード・モネによる最後の実験的人物画作品のひとつ「戸外の人物習作(Essai de figure en plein-air)」です。本作は画家の友人であり、印象派の有力な庇護者でもあったオシュデ夫妻の三女で、当時18歳であったシュザンヌ・オシュデをモデルにジヴェルニー近郊のオルティエ島の土手に立つ人物を描いた習作的な作品でした。
クリックすると拡大 作家 クロード・モネ(Claude Monet)
 作品 Essai de figure en plein-air
    戸外の人物習作(左向きの日傘の女) と
    戸外の人物習作(右向きの日傘の女
 制作 1886年
クリックすると拡大クリックすると拡大

2017年7月1日にテレビ東京の番組「美の巨人たち」で今日の一枚として「日傘をさす女」がテーマーになっていました。11年後に描かれた今回の2枚との関係を詳しく説明されていました。


2枚の「戸外の人物習作」が描かれた7年前の1879年に32歳の妻を病気で亡くしたことが新しい作風への変化になったようです。妻を戻るにして描いた左の絵に比べて、右の2枚の顔がはっきりしていないのは妻の面影ともいわれています。その後、完全な風景画と変わっていったようです。
 1875年 日傘をさす女       1886年 戸外の人物習作(2枚)


 作家 クロード・モネ(Claude Monet)
 作品 Meules
 制作 1890年
クリックすると拡大

 作家 クロード・モネ(Claude Monet)
 作品 Vétheuil
 制作 1900年
クリックすると拡大

ポール・セザンヌの絵を3枚紹介します。
 作家 ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)
 作品 Paysan assis 坐る農夫
 制作 1900年~1904年
クリックすると拡大

 作家 ポール・セザンヌ (Paul Cézanne)
 作品 Pont de Maincy
 制作 1879年
クリックすると拡大

 作家 ポール・セザンヌ (Paul Cézanne)
 作品 Montagne Sainte-Victoire
 制作 1890年
クリックすると拡大

ベルト・モリゾ(Berthe Morisot) の作品で、見た記憶があったので写真を撮りました。
 作家 ベルト・モリゾ(Berthe Morisot) 1841年~1895年(54歳)
 作品 Chasse aux papillons 
 制作 1874年
クリックすると拡大

1人の作家でも沢山の絵が所蔵されているようでした。娘が写真を撮っている壁面はカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro) の作品で、奥の壁面には後で紹介するアルマン・ギヨマン(Armand Guillaumin) の作品(イブリーの落陽)などが飾られていました。
クリックすると拡大

こちらがカミーユ・ピサロの作品です。
 作家 カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro) 1830年~1903年(73歳) 
 作品 Gelée blanche
 制作 1889年
クリックすると拡大

アルマン・ギヨマン(Armand Guillaumin)の作品を2枚紹介します。
 作家 アルマン・ギヨマン(Armand Guillaumin) 1841年~1927年(86歳)
 作品 Soleil couchant à lvry イブリーの落陽
 制作 1873年
クリックすると拡大

 作家 アルマン・ギヨマン(Armand Guillaumin)
 作品 Femme nue couchée
 制作 1877年
クリックすると拡大

こちらはギュスターヴ・クールベの作品です。
 作家 ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)
    1819年~1877年(58歳) 
 作品 La Mer orageuse 
 制作 1870年
クリックすると拡大

こちらは若くして亡くなった画家の作品です。モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガ、セザンヌらの作品を買うなどして、画家たちを経済的に助けていたそうです。印象派美術展開催の費用も提供し、自らも画家として作品を出展したそうです。
 作家 ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte)
    1848年~1894年(45歳)
 作品 Raboteurs de parquet 
 制作 1875年
クリックすると拡大

本記事で紹介した作品の作家は、ミレー、オノレ・ドーミエ、Jules Breton、Ernst Hébert、Achille Benouville、ロダン、マネ、エドガー・ドガ、アルフレッド・シスレー、モネ、セザンヌ、ベルト・モリゾ、ピサロ、アルマン・ギヨマン、ギュスターヴ・カイユボットでした。
周辺の航空写真を紹介します。航空写真内のマイナスのアイコン( マイナス)を2回クリックするとポンピドゥー・センター( )と、泊まったホテル( )の位置のアイコンが表示されます。
 オルセー美術館 (Musée d'Orsay)
 ルーヴル美術館 (ルーブル美術館 / Musée du Louvre)

我家のバラも咲き始めました。 [植物]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
我家のバラも2017年5月5日から咲き始めて母の日の5月14日時点で5種類のバラが咲きそろいました。昨年までは庭で咲かせたままにしていましたが、今年から家の中に飾ることにいたしました。いろんな場所に飾っているバラをリビングの出窓に並べて写真を撮りました。それぞれの種類で、最初の花が咲いた順番に左から並べてみました。咲いた順番は次の通りです。頭に開花と書いたのが5月14日までに咲いたバラです。未開は、これから咲くバラです。
 開花 ヘンリーフォンダ         Henry Fonda
 開花 エドガー・ドガ          Edgar Degas
 開花 キャサリン・モーリー       Kathryn Morley
 開花 ホワイトメイディランド      White Meidiland
 開花 ピエール・ドゥ・ロンサール    Pierre de Ronsard
 未開 キングローズ           King Rose
 未開 キューピッド・イン・ザ・ガーデン Cupid in the Garden
 未開 クニルプス            Knirps

上段が5月16日の朝の時点の、まだ咲いていない3種類のバラです。蕾の状態です。左からキングローズ、キューピッド・イン・ザ・ガーデン、クニルプスです。2段目は5月21日の朝の状態です。クニルプス以外は咲き始めました。3段目は5月25日の朝の状態です。クニルプスも咲き始めました。これで8種類のバラの花がそろったことになります。最下段は6月2日で、クニルプスは沢山の花をつけ始めましたが、他の花は終わりに近づきました。この12枚と最後の写真以外は5月14日に撮ったものです。
   King Rose     Cupid in the Garden     Knirps
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

5つのバラを紹介したいと思います。 
こちらが最初に咲いたヘンリーフォンダ(Henry Fonda)で鮮やかな黄色が特徴です。黄色のバラを愛した俳優のヘンリーフォンダさんにちなんで名前が付けられたバラです。
クリックすると拡大

クリックすると拡大こちらは2番目に咲いたエドガー・ドガ(Edgar Degas)です。花の模様がバレリーナのスカート(チュチュ)に似ていることからバレリーナの絵を得意とした画家のエドガー・ドガの名前がバラの名前に付けられたようです。こちらは娘が昔に母の日のプレゼントとして贈ったバラですが大きくなりました。右の絵はフランス旅行に行った時にパリのオルセー美術館で撮ったエドガー・ドガによって1873年~1876年に描かれたLa Classe de danseという作品です。
クリックすると拡大

こちらは3番目に咲いたキャサリン・モーリー(Kathryn Morley)です。きれいなピンクが特徴です。こちらのバラの名前も人名です。モーリー夫妻が亡き娘のために、命名権をオークションで入手して名前を付けました。
クリックすると拡大

4番目に咲いたのがホワイトメイディランド(White Meidiland)でした。沢山の花をつけています。我家のバラが見ごろになると車で20分くらいのところにある京成バラ園も見ごろになります。
クリックすると拡大

5番目に咲いたのが最も大きく育っているピエール・ドゥ・ロンサール(Pierre de Ronsard)です。5月5日にヘンリーフォンダ(Henry Fonda)が咲いてから9日間で5種類の花が咲きました。過去に掲載した記事によると5月末までに8種類のバラがすべて咲くようです。
クリックすると拡大

5種類のバラの写真を撮った2017年5月14日(日曜日)は母の日です。一番左の鉢は北海道に住んでいる長男家族から贈られてきた沢山の母の日のプレゼントの中の一つです。こちらは別途紹介したいと思っています。写真をクリックすると冒頭の写真とこの写真は特別に大きく拡大するように設定いたしました。
クリックすると拡大

花を入れ替えて撮ってみました。
クリックすると拡大

5月21日の午後にはキングローズとキューピッド・イン・ザ・ガーデンの花が開いたので、さっそく切り花にいたしました。左から順番に名前を紹介します。5月5日に最初に咲いた黄色い花のヘンリーフォンダ(Henry Fonda)は、現在、切り花にするほどの花は咲いていません。
 エドガー・ドガ          Edgar Degas
 キャサリン・モーリー       Kathryn Morley
 キングローズ           King Rose
 キューピッド・イン・ザ・ガーデン Cupid in the Garden
 柱
 ピエール・ドゥ・ロンサール    Pierre de Ronsard
 ホワイトメイディランド      White Meidiland
クリックすると拡大
タグ:バラ 薔薇

むさしの近況 [むさし]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
里芋の前記事でムサシの食欲が落ちていることに対して、ゲンママさんから心配のコメントをいただき、ありがとうございました。本記事でムサシの近況報告をさせていただきたいと思います。現在、ムサシは17歳と41日です。
2015年6月8日には脾臓の緊急摘出手術を受けるほどの大病となり、持病の肝臓障害などを患いながらも、おかげさまで2017年4月4日に無事に17歳の誕生日を迎えることが出来ました。右の動画のように4月4日も軽くですが元気に走っておりました。
ところが2017年4月4日に17歳を迎えて3日目の4月7日に、突然に動けない状態に陥りました。病院で診断してもらうと三半規管に障害が発生したとのことでした。我々が、その場でぐるぐる激しく回り続けると、しばらくは立てない状態になった症状が続いていると想像していただくとわかりやすいと思います。三半規管の今回の障害は目が回る症状で激しい水平の眼振に襲われて立つことは全く出来なくなり1週間は食事も水もほとんど取れない状態でした。毎日、ミネラルの入った水の点滴と吐き気止めの点滴をするために病院に通いました。1週間目に少し眼振がゆっくりとなり立つことが出来るようになりました。上の写真は障害が出てから10日目(4月17日)のムサシで、ゆっくりと1時間近くかけて200~300m歩けるようにはなりました。ただし地面は斜めに傾いているように感じているような体制で歩いているところです。ムサシの首が傾いているのが分かってもらえると思います。寝ている時は真直ぐなので立っている時に地面が斜めに感じている神経的な疾患なのだと推測されます。

薬は、従来の肝臓の薬に加えて、目まい防止と、ステロイド剤と、抗生物質の薬が加わり1日に10錠も飲ます必要がありました。とは言え食事も出来ない状態なので我々で成功したのは1ケ月で1度だけでした。つまり毎日病院に通っているので病院で飲ませてもらっていました。飲ます優先順位は眼振用の3錠で、その次が肝臓の薬の4錠で、最後は肝臓用サプレメントの3錠でした。
2週間でひどい眼振が治まりましたが、前葉疾患が出てしまい食欲がない状態は続いているわけです。ドックフードは缶詰も含めて10種類近くを試しましたが1種類以外は、受け付けません。その1種類も簡単には食べてくれないので、いろんな食材に挑戦しているのです。三半規管の障害や前葉疾患になった原因は分かりませんが、17歳ということから、加齢が原因の可能性が高いのです。元気にするためのステロイド剤に関しては肝臓によくないので10日程度だけの服用でした。
クリックすると拡大

幸いにも水だけは飲んでくれるので助かっています。写真のように自分で歩いて行って飲むこともありますが、大抵は連れて行って皿の前に立たせています。眼振がひどいときに病院でもらった注射器で、水を飲ませたことはありますが、1~2度だけでした。
ただし、前葉疾患は残ったままなので歩行は不便な状態が続いています。それでも歩けるので筋肉の衰えを防止するために、冒頭の写真のように方向を気にしないで進める広い公園に行って歩かせているのです。歩くときは、こけそうになるのをバランスをとって踏ん張りながら歩くので、疲れは普通の何倍だと思います。
クリックすると拡大

現在は食事を食べないことが最大の悩みです。そんな中で劇的に食べてくれた食材が3つあります。その一つが牛肉で、初めて食べさせた時の写真です。初めてなので食べるかどうかも判らないし、食べたとしてもどれだけ食べるかも判りませんでしたが、驚いたことに今までにないほどの食欲で食べてくれました。ただし、牛肉は初めて食べさせるのでどれだけ食べてくれるのか判らないので約500g焼いて我々と兼用としたのです。ムサシとの兼用のため塩コショウなどの味付けはなしです。
クリックすると拡大

驚いたことに牛肉を皿に入れるだけで、自分の足で食べに行き最終的に250gを食べました。自分の足で食べに行くのは4月7日に障害が出て以来初めてのことでした。最初は立って食べていましたが、最後は写真のように座り込んで食べていました。またリビングのフローリングは足が滑るので障害が出てすぐに厚み14mmのウレタンマットを81枚敷き詰めました。隅やコーナーなど完全に敷き詰められない部分は古いベッドカバーや布製のフロアマットを敷き詰めています。
この日の午前中は卵3個を錦糸卵にしたものをぺろりと平らげたので、この日だけは1日分のカロリーを補給することが出来ました。翌日も卵4個と牛肉260gを食べました。ただし、その翌日は食べませんでした。同じ食材は続かないようです。あるときはイワシで、あるときはサバで、あるときはアジでした。鶏肉は結構食べさせてきたので飽きてしまっているようですが日を置くと食べてくれることはあります。ドックフードは缶詰も含めてほぼ全滅です。劇的に食べてくれる食材(①~③)と、次のランクの食材(④~ )を紹介します。今は食べる量が少ないので、出来る限り高カロリーのものを選んでいます。少し前までは食べていたササミやブロッコリーや下記以外のドッグフードなども今は拒否します。缶詰のグックフードは、少し食べることがあるのですがカロリー(ドックフードの20%程度)が低いのでカロリー×量の意味では次のランクまでには入らない感じです。野菜不足が歴然としていますが今は高カロリーのものを食べてもらうことが優先です。5月15日に食べたのはアジとソラマメと牛肉でした。そして5月16日はモアソフトと牛肉でした。5月28日に合挽ミンチを炒めたものを上げると躊躇なく食べたので④にランクインさせました。
クリックすると拡大  牛肉の油炒め
  青魚の焼魚 イワシ サバ アジ (サンマ)
  錦糸卵
 ④ 合挽ミンチを炒めたもの
 ⑤ 鶏肉を茹でたもの もも肉 むね肉
 ⑥ 牛乳 カロリーを上げるために+砂糖
 ⑦ モアソフト(ドックフード) チキン(11歳以上用)
 ⑧ チキンジャーキー(市販品)
 ⑨ カツオブシ ⑩ ママボーロ ⑪ そらまめ・など
クリックすると拡大

体重は10.3kgまで減り続けましたが5月22日以降は体重が増え始めました。4月8日から5月22日までは体重を計るごとに減っていたので数値を控えていませんでしたが、体重が初めて上がってから記録を残し始めました。そのため4月8日から5月22日は直線で結んでいます。何度も危機がありましたがなんとか食べるものの工夫やムサシの頑張りによって体重を維持できたのが良かったです。水分の補給にもなる犬用の牛乳(無乳糖)は助かりました。

里芋をいただきました。 [料理]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
クリックすると拡大近所の親しい方から右の写真の竹の子と一緒に里芋もいただきました。我家では筑前煮の具としてよく里芋を食べています。特に家内が大好きな食材です。私も筑前煮をよく食べるようになってから里芋が好きになりました。意外と里芋が手に入りにくい時があるのでうれしいお裾分けでした。
いただいた竹の子の料理は前記事で紹介いたしました。

さっそく里芋と薄揚げの煮物を作りました。器は最近手に入れた砥部焼です。里芋の分類を調べてみました。右の写真はWikipediaから転用させていただきました。サトイモの日本への伝播はイネよりも早く縄文後期と考えられているそうです。山地に自生していたヤマイモに対し、里で栽培されることからサトイモという名が付いたと考えられているそうです。
クリックすると拡大  界:植物界   Plantae
  門:被子植物  Angiosperms
  綱:単子葉類  Monocots
  目:オモダカ目 Alismatales
  科:サトイモ科 Araceae
  属:サトイモ属 Colocasia
  種:サトイモ  Colocasia esculenta
 学名:      Colocasia esculenta
クリックすると拡大

保冷材の入ったビールジョッキをもらったので使ってみました。冷凍室で液体の保冷剤を凍らせて使います。
クリックすると拡大

ビールには、この栃尾揚げがぴったりです。栃尾揚げは分厚い薄揚げです。厚みは厚揚げとおなじです。厚揚げは表面のみが揚っているのに対して、栃尾揚げは中まで揚がっているのが違うところです。生姜醤油でいただきました。
クリックすると拡大

春菊の新タマネギのサラダです。
えごま油と醤油をかけると意外と美味しいのです。
クリックすると拡大

最近までアマニ油を同じように使って食べていたので使い切ったために生えごま油を使いました。アマニ油も、えごま油も、今話題のオメガ3に属する油ですが、我家では以前から使っていました。オメガ(ω)表現の油はω-3、ω-5、ω-6、ω-7、ω-9ですが、ω-3は体内で合成できない油のため食べ物からの摂取が必要ですが、最近の食生活で不足してきている油なのです。青魚の油もω-3に属します。
クリックすると拡大

この牛肉もたべました。最近、ドッグフードに見向きもしない我家のワンコ(名前:むさし 17歳)と、我々の兼用です。これを2皿焼きました。焼くための油は、パッケージに付いていた牛脂を使いました。牛肉は初めて食べさせるのでどれだけ食べてくれるのか判らないため約500g焼いて兼用としたのです。ムサシの食べ具合を見てから我々が食べるのです。結果的には驚くほど喜んで食べてくれて一皿分の250gほどムサシが食べました。兼用のため塩コショウなどの味付けはなしです。
クリックすると拡大

日を変えて牛蒡も入れた煮物にもいたしました。
クリックすると拡大

拡大写真も掲載いたしました。
クリックすると拡大

この時は鶏料理と一緒にいただきました。もちろんこの料理だとビールは必須です。
クリックすると拡大

サラダはほぼ毎日いただいています。この時は最近気に入っている柚子ドレッシングでいただきました。
クリックすると拡大
タグ:

タケノコのチヂミ と 竹の子ステーキ [筍]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
近くの野菜直売所にタケノコが並ばなくなりました。6月には淡竹や真竹が出てきますが、どうやら今年の孟宗竹の旬のタケノコ料理は終了のようです。今年(2017年)は、もらい物も含めて6本の竹の子を食べました。初めて作った料理もありますので、2017年のタケノコ料理を紹介したいと思います。今年は、成田(4月20日)、下高野(4月25日)、栗源(4月28日)、佐倉(5月3日)の産地の竹の子を食べました。

先ずは、初めて作った料理を紹介したいと思います。今回、新しい料理は2つ紹介しますが、1つ目が「タケノコのチヂミ」です。
クリックすると拡大

3種類のタレと大根おろしを用意いたしました。コチジャン入れた辛いタレと胡麻のタレと市販のチヂ専用のタレです。
クリックすると拡大

こちらが胡麻のタレです。ポン酢にたっぷりのすりごまを入れたタレです。
クリックすると拡大

大根おろし醤油を乗せたチヂミです。
クリックすると拡大

こちらが市販のチヂミ用タレで食べた竹の子チヂミです。
クリックすると拡大

辛いコチジャンを入れたタレも作ってもらいました。どれも竹の子チヂミに合いました。
クリックすると拡大

やっぱりビールが美味しかったです。


竹の子だけでなくニラのチヂミも作ってもらえました。
クリックすると拡大


もう一つの新しい料理が竹の子ステーキです。右上の皿にラデッシュと一緒に乗っているのが竹の子ステーキです。若竹煮と、筍の木の芽和えと竹の子のみそ汁と、すべて竹の子料理でした。厳密に言えば竹の子ステーキは2度目になります。竹の子カレーに乗せたのが竹の子ステーキでした。ただし、今回は醤油味の竹の子ステーキなので初めての料理であるともいえます。
クリックすると拡大

こちらが竹の子ステーキが乗った皿です。
クリックすると拡大

醤油味をつけてステーキにいたしました。孟宗竹の分類を記載します。
  界 : 植物界     Plantae
  門 : 被子植物門   Magnoliophyta
  綱 : 単子葉植物綱  Magnoliophyta
  目 : イネ目     Poales
  科 : イネ科     Poaceae
 亜科 : タケ亜科    Bambusoideae
  属 : マダケ属    Phyllostachys
  種 : モウソウチク  Phyllostachys heterocycla
クリックすると拡大

こちらが竹の子の木の芽和えです。目立たないけれども好きな一品です。
クリックすると拡大

風味を感じていただくために拡大いたしました。
クリックすると拡大

やっぱり竹の子料理と言えば若竹煮です。この大皿から小皿に取り分けていただきました。
クリックすると拡大

小皿に取り分けた若竹煮です。大皿に盛ってあるので沢山で沢山いただきました。
クリックすると拡大

みそ汁も作ってもらいました。
クリックすると拡大

この日は和洋折衷だったので梅酒にいたしました。以前紹介したパープルクイーンの梅酒です。
クリックすると拡大


この日もすべて竹の子料理でした。シンジャオロース(青椒肉絲)は竹の子料理との認識はあまり無いかと思いますが、具材としてタケノコが欠かせない料理であることは確かです。
クリックすると拡大

たっぷりと筍を入れたシンジャオロース(青椒肉絲)です。いつもは肉とピーマンが主体でしたが、この日はタケノコが主体のシンジャオロースでした。
クリックすると拡大

タケノコのみそ汁も作ってもらいました。
クリックすると拡大

やっぱりビールでした。


そして竹の子ごはんです。この日は人参をいろどりに入れたタケノコご飯でした。
クリックすると拡大


いただいた成田のブランド竹の子は定番の若竹にとお吸い物を作りました。
クリックすると拡大

汁ものは、おすましでした。
クリックすると拡大


5月3日は次男が来ました。夕食の希望を聞くとタケノコだったので近所の野菜直売所にタケノコを買いに行きました。
こちらは竹の子の天麩羅です。
クリックすると拡大

もちろん竹の子ご飯も作ってもらいました。
この日はビール4本に冷酒720mlを3人で飲みました。
クリックすると拡大

竹の子の汁ものは、お吸い物でした。
クリックすると拡大

竹の子の刺身も出してもらいました。
クリックすると拡大

この日はタケノコ料理以外も用意いたしました。平目とヒラマサの刺身です。竹の子の刺身と同じワサビ醤油でいただきました。
クリックすると拡大

サラダは、えごま油と醤油をぶっかけていただきました。
クリックすると拡大

焼き鳥は専門店に買いに行きました。これ以外に、ねぎ間を買ってきました。
クリックすると拡大


2017年4月20日~5月3日までに竹の子ご飯は4回食べました。みそ汁かお澄ましのいるものの合計は4回です。若竹煮も3回出てきたと思います。
クリックすると拡大

タケノコたっぷりのフーヨーハイ(芙蓉蛋)も作りました。俗にいうカニ玉で、タケノコ料理の認識はありませんが、タケノコがたっぷりと入った料理を作ってもらえました。
クリックすると拡大

タケノコの刺身は2度いただきました。
クリックすると拡大

タケノコの刺身はワサビ醤油でいただきました。
クリックすると拡大

ベビーズティアーズ(ソレイロリア・ソレイロリー) [植物]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
先日、980円のデンドロビウムを買った近くの野菜直売所で、家内が緑の葉の草を4株(3種類)ほど買ってきました。ベビーズティアーズという名の植物です。1株が150円(税込)でした。ベビーズティアーズの呼び名は、2~3mmの葉が、赤ちゃんの涙ほどの大きさであることに由来しているそうです。植物としての分類を記載します。門や網が複数書いているのは新エングラー体系か、クロンキスト体系か、APG体系によるものです。サイトによって「亜綱」や「目」が違っていました。
  界:植物界            Plantae
  門:被子植物門          Angiospermae 又は
                   Magnoliophyta 又は
                   Angiosperm
  綱:双子葉植物綱         Dicotyledoneae 又は
                   Magnoliopsida 又は
                   Eudicots
 亜綱:マンサク亜綱(-)      Hamamelidae(-)
  目:イラクサ目(バラ目)     Urticales(Rosales)
  科:イラクサ科          Urticaceae
  属:ソレイロリア属        Soleirolia
  種:ソレイロリア・ソレイロリー  Soleirolia soleirolii
 別名:ベビーズティアーズ/天使の涙 Babytears
 学名:               Soleirolia soleirolii
 
日本ではベビーズティアーズの名で呼ばれる方が多いようです。可憐な小さな葉を楽しむ植物のようですが、調べてみると我家にとっては育てるのは難物のようです。本来は日当たりを好む植物ですが、直射日光を当てて育てると、ガッチリとした感じになり、購入当初の繊細な可愛らしさが無くなって、緑色のタワシのようにゴツい感じになり、やる気がなくなってしまうそうです。人生のいろんな場面でありそうな"たとえ"が書かれていました。どうやら日弱な感じに育てるのがポイントようで、日の当たる室内で育てるようにと書かれていました。少なくとも日当たりのことで枯れることはなさそうです。
大問題なのが水やりです。水やりを忘れると、すぐに枯れしまうそうです。 いろんな植物の水やりでよく書かれている「土が乾いたら水をやる」では遅いそうです。毎日定期的に水やりが出来るかどうかで、勝負が決まりそうです。
クリックすると拡大

可憐な葉を拡大いたしました。なんとかこの感じを維持したいものです。BabyTearsの直訳は「赤ちゃんの涙」になりますが、赤ちゃんはみんなにとって天使なので「天使の涙」と呼ばれています。その「天使の涙」からか、エンジェルス・ティアーズ(Angeltears)と呼ばれることもあるようです。
クリックすると拡大

黄緑色の葉のベビーズティアーズです。斑入りなどいろんな種類があるようです。ベビーズティアーズの特徴は次の通りです。
  分類:常緑多年草
  背丈:3~5cm
  横幅:15~30cm
  見所:葉(周年)
  耐寒:-10℃程度
 原産地:コルシカ島(フランス) サルジニア島(イタリア) 地中海諸島
 育て方:http://yasashi.info/he_00018g.htm
クリックすると拡大

薄緑色のベビーズティアーズも買ってきました。頻繁に水をかけて鉢の下からの水の処理が大変なことから、育成方法として進められている室内は、我家では難しいので玄関の外のタイルの上で育てることにいたしました。ここならば置く場所によって光の当たり方を調整できるメリットもあります。
クリックすると拡大
タグ:植物

菊水の「まぜそば」シリーズ [拉麺]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大クリックすると拡大
クリックすると拡大クリックすると拡大
菊水のラーメンはよく食べています。よく食べているラーメンは、今回の紹介する汁のないタイプではなく袋入りの普通の生ラーメンです。最近、いろんな会社の出している生ラーメンの美味しさは目を見なるものがあります。その中で菊水のラーメンで気に入っているのが麺なのです。ラーメンは麺とスープで美味しさが決まりますが、その麺に限れば菊水が一番だと感じているのです。その麺の美味しさを活かした製品が次々と登場したので初めて食べてみたので紹介したいと思います。それが上の4つの、まぜそば(まぜ麺)シリーズです。近くのスーパー偶然に見つめたのが左上の「うま辛まぜそば」で、食べてみて美味しかったので、また買おうかと思って売り場を歩いて残りの3種類を見つけたので、すべて食べてみることにいたしました。菊水のラーメンに初めて出会ったのは、30年よりもっと前のことだった覚えています。北海道のお土産で菊水の生ラーメンをいただいて食べた時のことでした。あの頃は今のような美味しい生ラーメンは少なかったので、その美味しさに驚いたのを覚えています。そのあとは見つけるとよく買いました。最近は製品開発に力を入れているように感じました。会社の主な沿革を調べてみると次の通りでした。
 1946年 製麺のはじまり
 1949年 創業 委託製麺加工
 1963年 会社設立     株式会社菊水
 1973年 現本社工場竣工  北海道江別市工栄町 19番地6
 1986年 寒干しラーメン誕生 
 1991年 新工場竣工    北海道江別市工栄町 23番地3
 1995年 全国展開強化   伊藤ハムグループ傘下

それでは4種類の「まぜそば」を紹介します。
こちらが最初に食べた「うま辛まぜそば」です。パッケージに書かれているキャッチフレーズを列記いたします。
 まぜめん職人
 三段熟成 極太麺
 魚粉だしがきいた豚肉入り旨味だれ
 卵黄とラー油を加えてさらにおいしく!
 期間限定 麺20%増量中!!
クリックすると拡大

トッピングはパッケージと同じように長ネギとニラと海苔と卵黄を乗せました。
クリックすると拡大

こちらが、「うま辛まぜそば」を混ぜた状態です。この味が気に入って他の3種類を買ったわけです。
クリックすると拡大

こちらが「汁なし担々麺」です。今回の4種類に共通しているのが豚肉が入ったタレが付いていることでした。こちらもパッケージに書かれているキャッチフレーズを列記いたします。
 本場の札幌熟成麺
 豚肉入り坦々だれ 辛味調味油付き
 お好み野菜でさらにおいしく!
クリックすると拡大

担々麺のトッピングは、茹で玉子と貝割れと長ネギを乗せました。
クリックすると拡大

菊水の麺の特徴は縮れ麺なので、タレがよく絡みます。ジャージャー麺に近い雰囲気の汁なし担々麺でした。
クリックすると拡大

汁無しのまぜ麺と言えば自然と思いつくのはジャージャー麺だと思います。こちらもパッケージに書かれているキャッチフレーズを列記いたします。
 本場の札幌熟成麺
 豚肉入り味噌だれ 辛味調味油付き
 キュウリを加えてさらにおいしく!
クリックすると拡大

トッピングはキュウリと長ネギです。パッケージでは糸とうがらしが乗せてあったので、七味唐辛子を振りかけました。
クリックすると拡大

こちらがジャージャー麺を混ぜた状態でした。
クリックすると拡大

中国の汁なし坦々麺(担々面)とジャージャー麺(炸醤麺 / 炸酱面)を紹介します。いずれも中国が発祥の食べ物です。タレと麺だけで勝負する混ぜ麺でした。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 左 汁なし担々麺  四川省成都の龍抄手
 右 ジャージャー麺 北京郊外の紫玉鑫园
クリックすると拡大クリックすると拡大

最後に紹介するのが「キーマカレーまぜそば」です。こちらもパッケージに書かれているキャッチフレーズを列記いたします。
 まぜめん職人
 三段熟成 極太麺
 スパイスのきいた豚肉と野菜入りカレーだれ
 ゆで卵と野菜を加えてさらにおいしく!
 期間限定 麺20%増量中!!
クリックすると拡大

トッピングはパッケージを真似て茄子とブロッコリーと茹で玉子を乗せました。具の下にキーマカレーが乗っています。これは今までになかった独自の味です。カレー味はやっぱり美味しいです。スパゲッティーのミートソースも使えるかもしれません。
クリックすると拡大

混ぜた状態です。キーマカレーのまぜ麺はすばらしいアイデアでした。新鮮な味わいで気に入りました。トッピングとしては茄子があっていました。
ネットで調べてみると「うま辛まぜそば」と「 キーマカレーまぜそば 」は2017年3月1日より全国向けに新発売したそうです。麺は良質な小麦粉を使用し、麺粒 ・ 麺帯 ・ 麺線と三段階でしっかりと熟成させる札幌ラーメンの製法で作りあ げたそうです。コシと弾力のある“もっちり太麺”が自慢のようです。日本経済新聞の電子版ニュースにも枠内のような記事が書かれていました。
具入りだれを絡めて食べるまぜそば 菊水
2017/3/7 12:01
伊藤ハム米久ホールディングス傘下の菊水(北海道江別市)は、生ラーメンの新商品「まぜめん職人 うま辛まぜそば2人前」と「同 キーマカレーまぜそば2人前」を発売した。食べ応えのある極太めんに具入りのたれを絡めて食べるまぜそば。好みのトッピングを合わせてアレンジも楽しめる。
「うま辛まぜそば」はしょうゆベースにニンニクや唐辛子、ペッパーの辛みをきかせた豚肉入りのたれが特徴だ。「キーマカレーまぜそば」はスパイスや香味野菜の風味をきかせたカレーソースに大豆と豚肉のそぼろや刻み野菜を加えた。
価格は税別350円。全国のスーパーなどで販売している。
〔日経QUICKニュース(NQN)〕
クリックすると拡大

中国へのお土産でも菊水のラーメンはよく持っていきました。下記の写真は中国訪問99回目(2015年7月27日)の時の記事に掲載したお土産です。→ポチッ
この時も「まぜそば」としてジャージャー麺を持っていきました。そのことから2015年7月の時点でジャージャー麺が発売されていたことが分かりました。小さな写真で分かりにくいと思いますが写真をクリックすると拡大します。
中国に生ラーメンやレトルトカレーをお土産に持って行くようになったのは10年前の2007年3月12日からです。その時も菊水のラーメンが入っていますがパッケージは今と違います。右の文字をクリックすると10年前のパッケージを見ることが出来ます。→写真(10年前)
クリックすると拡大
クリックすると拡大クリックすると拡大
クリックすると拡大

スペーサー取り付け工事 4導体送電線 [送電線]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
2016年12月中頃から2017年3月23日まで東京電力の房総線で送電線の取替工事が行われていました。この間の工事は24号鉄塔から32号鉄塔の4.1㎞の送電線でした。すでに2017年3月11日に掲載した記事で送電線の取替工事は沢山の手順があることを紹介しましたが、上の写真は⑭の4導体用スペーサーを取り付けているところです。着色番号( or )はすでに過去記事で紹介した作業です。YouTube登録動画はこちらです。→ポチッ
クリックすると拡大 送電線取替工事手順
  スパイラルロッドの取外し
  4導体用スペーサーの取外し
  ジャンパ線取外し & 碍子の取替
  滑車の取付 
  2本送電線の連続化
クリックすると拡大  吊り下げ金具の取付
  4本の送電線の内2本の新旧交換
 ⑧ 2本送電線の連続化    と同じ
 ⑨ 滑車への送電線かけ換え と同じ
  4本の送電線の内2本の新旧交換
 ⑪ 吊り下げ金具の取外し
クリックすると拡大 ⑫ 碍子に送電線取り付け
 ⑬ 滑車の取外し
  4導体用スペーサーの取付
  スパイラルロッドの取付
  点検(スパイラルロッドとスペーサー)
 ⑰ ジャンパ線の設置(プレハブジャンパ)

クリックすると拡大これが新しく取り付けられた4本のケーブルを束ねているスペーサーです。ケーブルに巻き付けられているのは風騒音防止および雪害対策のためのスパイラルロッドです。下の写真をクリックすると拡大するので、新しく交換したスペーサーの構造がよくわかると思います。鮮明な写真が欲しかったので、地上から三脚を使って400mmのレンズで撮りました。
このように4本で構成された送電線を4導体送電線と呼ぶそうです。電圧が高くなるほどコロナ放電防止などの観点から導体数を増やします。スプリングは人間の作業に影響されずに一定の力でケーブルを拘束するためのものです。
クリックすると拡大

こちらが交換前の古いスペーサーです。錆が出てはいますが、同じものだと思われます。この古いスペーサーが房総線の建設当初(1966年)のままであれば、51年前のスペーサーということになります。1966年ならば、日本初の500KV設計となることから、今と同じスペーサが使われていたとも考えにくいので、途中で交換された可能性もあります。スパイラルロットはすでに外された状態でした。
クリックすると拡大

スペーサーを取り付けているところを拡大いたしました。この作業が地上60m~90mで行われていました。ぶら下げている網は取り付けている時の金具の落下防止です。工具に関しては全て紐でつながれていると思います。人が乗っている器具は宙乗器と言うです。
クリックすると拡大

クリックすると拡大154KV以上の超高圧送電線では、右の絵のイメージのようなコロナ放電によるコロナ損やコロナ雑音などを防止するために、電線を複数本に分割する方式が採用されています。下記のように電圧が高くなるほど電線(導体)の構成が多くしてコロナ放電が少なくなるようにしています。→ポチッ
クリックすると拡大海外では右の写真のような3導体送電線が使われていますが、日本での実用3導体送電線と思っていましたが、Pirokiさんから中国電力の北松江幹線と、中部電力の浜岡線が3導体送電線であると教えていただきました。調べると第二浜岡線も3導体送電線だそうです。いずれも500KVの送電線でした。三角形が日本のスペーサーです。
今回の房総線は50万ボルト(500KV)の超高圧送電線のため4本(4導体)の送電線ですが、参考に近くの2導体送電線の写真を下に紹介します。水平に2本並べられていることが分かってもらえると思います。右下の小さい写真は6導体送電線と8導体送電線です。
 単導体送電線 110KV以下送電線  
 2導体送電線 154~187KV送電線 200~275KV送電線 
 3導体送電線 海外 300KV送電線 400KV送電線
クリックすると拡大 4導体送電線 500KV送電線 275KV送電線 
 6導体送電線 実験線 500KV低インダクタンス送電線想定 
 8導体送電線 実験線 1000KV送電線想定
クリックすると拡大

スペーサーを取り付けている動画を紹介します。


送電線を移動している動画も紹介します。腕力だけで移動していることが分かってもらえると思います。こちらの動画は動きが大きいので是非ともプレーボタン( )クリックして見てもらいたいです。


こちらの動画では落下防止の網をぶら下げていません。こちらはスペーサーとスパイラルロッドを取り付けたあとの作業です。取り付けた状態の確認と修正を行っているものと思われました。日本人の丁寧な仕事の仕方が伝わってきました。


この写真は6本の送電線の最後のスペーサーを取り付ける作業です。この写真で左側の一番下が最後のスペーサーの取付作業中ではありますが、同時に3本の送電線に作業員がぶら下っています。これは仮止に取り付けられた上の2本の送電線のスペーサーと縦に一直線になるようにしているのです。
クリックすると拡大

別の角度から撮った写真です。作業員は3人のように見えますが、実は4人1組でした。1人は地上で錘の付いた糸をぶら下げて連絡をとりながら、スペーサーが縦一直線になるように指示をしている人でした。こちらの作業からも日本人の丁寧な仕事の仕方が感じられました。
クリックすると拡大

全ての送電線の取替工事が完了した送電線です。スペーサーの位置が分かりやすい角度で撮った写真です。3つスペーサーが垂直にきれいに並んでいることが分かってもらえると思います。クリックすると拡大するのでわかりやすいと思います。今回の工事部分(9基の鉄塔)の地図はこちらです。→ポチッ クリックすると拡大

言葉の説明
1.コロナ放電
空気は絶縁体ですが、送電電圧が非常に高くなると、送電線の周囲の空気の絶縁が部分的に破れ、わずかずつ放電を始めます。これがコロナ放電です。送電線の場合は、電線を太くしたり、電線を4本・8本などに分けたりして、コロナを出しにくくしています。コロナ放電は空気中だけでなく、油、ゴム、プラスチック材料などの絶縁物の中でも起こります。

オルセー美術館 建物編 [オルセー美術館]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
パリからの帰国は21時55分発の夜行便なので、フランス旅行の最終日(7日目)は盛りだくさんとなりました。最終日で最初に訪れたのが上の写真のオルセー美術館(Musée d'Orsay)でした。前を流れている川はセーヌ川です。
 1日目 セーヌ川散策 ノートルダム寺院 ルーブル美術館周辺
 2日目 モンサンミッシェル
 3日目 モンサンミッシェル
 4日目 ルーブル美術館 ノートルダム寺院 凱旋門 シャンゼリゼ通り
 5日目 ヴェルサイユ宮殿 チョコレート店2ケ所
 6日目 ロワールの城めぐり 
 7日目 オルセー美術館 サント・シャペル セーヌ川クルーズ 他 帰国

オルセー美術館の後も、いろんな場所に行きたかったことから開館と同時に入りたくて早く来てみたところ、本当に1番になりました。ホテルをチェックアウトして荷物を預けて8時10分に出発して美術館に着いたのは8時50分でした。開館時間の9時30分には長い行列が出来ましたが、9時を過ぎだ時点でも、まだ人は少なかったです。入口は下記の3種類ありましたが、我々はチケットを当日買うのでAの入口に並びました。フランス語と英語とスペイン語の説明が書かれていました。
クリックすると拡大右の写真は後ろに並んでいた日本人の方が9時4分に撮ってくれました。列は10名
 A   当日チケット購入
 C-1 車椅子利用者などの優待者
 C-2 チケット事前購入済み
  B   グループ専用入場(要予約)
  D   学校団体専用入場(要予約)
クリックすると拡大

オルセー美術館もパリの他の美術館と同様に絵画の写真撮影は自由なので、沢山の作品の写真を撮りました。それらの作品の写真の紹介は次回(作品編)に紹介するとして、本記事では建物を紹介したいと思います。
オルセー美術館の建物は1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅でした。この角度から見てもとても駅とは思えない立派な建物でした。見えている橋はロワイヤル橋です。写真を撮っている場所はレオポール・セダール・サンゴール橋(ソルフェリーノ橋)でコンコルド橋とロワイヤル橋の間にあります。
クリックすると拡大

レオポール・セダール・サンゴール橋(ソルフェリーノ橋)をセーヌ川の対岸まで渡って撮った写真です。1900年に出来たオルセー駅はパリからオルレアンやフランス南西部へ向かう長距離列車のターミナルで、かまぼこ状の大屋根(トレイン・シェッド)の下の地下に10線以上のホームを備えていたそうです。1939年に近距離列車専用駅となり、近代化に伴い駅としては狭いことから、一時は取り壊される可能性もありましたが、1970年代からフランス政府によって保存活用策が検討されはじめ、イタリアの女性建築家ガエ・アウレンティの改修により19世紀美術を展示する美術館として生まれ変わり1986年にオルセー美術館として開館したそうです。
クリックすると拡大

冒頭の写真とおなじですが、セーヌ川の対岸から見たオルセー美術館です。駅舎だった時の特徴を外観で最もよく残しているのが2つの大きな時計です。この写真はクリックすると特別に大きく拡大するので是非とも2つの時計を拡大して見てもらえればうれしいです。
クリックすると拡大

写真を撮っている時にセーヌ川のクルーズ船が通りました。オルセー美術館では、2月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品を展示することになっており、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品はポンピドゥー・センターという役割分担がなされているそうです。所蔵作品は約2万点で常設だけで約4000点が展示されているそうです。1848年~1914年は我々にとってなじみ深い作者や魅力的な作品が多いことから、年間344万人(2015年)の来館者がある人気の19世紀専門美術館です。
クリックすると拡大

建物の特徴である時計の部分を拡大いたしました。
クリックすると拡大

文字盤の部分を拡大いたしました。
クリックすると拡大

駅舎だったことを示しているのが「PARIS - ORLEANS」です。これも是非ともクリックしてもらいたい写真です。
クリックすると拡大

外から時計を見ていると、中からも見たくなります。こちらが中からの写真です。文字盤は透明ガラスでできていたのです。こちらの時計は2つの時計の東側の時計です。東側はセーヌ川の上流側になります。
クリックすると拡大

時計の文字盤を通してモンマルトルの丘が正面に見えました。
クリックすると拡大

さらに拡大いたします。クリックするとさらに拡大いたします。この時計が117年前の1900年に作られたとはすばらしいと思います。
クリックすると拡大

もう1つの西側の時計の内側は素敵なレストラン(カフェ)になっていました。名前はCafé Campanaでした。人が写っているので文字盤時計の大きさが分かってもらえると思います。人の身長の4~5倍の大きさがありそうです。上の時計とは大きさが同じですが、床の高さが違いました。
クリックすると拡大

最初に紹介した東側の時計の内側からの写真を露出調整しました。最初の時計の部屋は展示室で、ヒトデのような芸術的なソファーが置かれていました。
クリックすると拡大

大時計の機械部分を上の写真から切り取り拡大いたしました。時計が大きいので機械部分が小さく見えますが、全体の大きさと比較すると結構大きいのだと思います。
クリックすると拡大

大時計のある展示室に置かれていたヒトデのソファーです。右のドアから外に出ることが出来ました。
クリックすると拡大

そのヒトデのソファーが置かれていた展示室の横のドアから屋外に出て、もう一方(西側)の時計の方向を撮った写真です。
クリックすると拡大

駅舎だった雰囲気を残している室内の写真を紹介します。ここに線路が並んでいた沢山の列車が泊まっている光景を目に浮かびます。ホームは高さ32m、幅40mのドーム状の屋根(トレイン・シェッド)で覆われていました。蒸気機関車の使用する駅では切符売り場や待合室などはホームとは独立した駅舎に設けられるのが普通でしたが、オルセー駅では大きなドームによって一つの屋根の下に初めて納められたそうです。ドーム内部の壁画や装飾も以前の駅には見られなかったそうです。ドームの西端には大時計が掲げられています。
クリックすると拡大

その大時計です。直径は6mだそうです。
クリックすると拡大

地上からの景色です。
クリックすると拡大

地上からだと広さが実感できました。
クリックすると拡大

建物は、壁の装飾と鉄骨とガラスの芸術と言えると思います。
クリックすると拡大

エッフェル塔が作られた時代の最新の技術で作られた建物であることが感じられました。オルセー駅に使われた鉄骨の総量は12000トンにのぼり、エッフェル塔の7500トンを上回っています。ただし、鉄骨構造でありながら、オルセー駅はルーブル美術館やチュイルリー庭園の対岸に位置するため、鉄骨やガラスの目立つデザインは受け入れられず、セーヌ川に面した正面は化粧石で覆われて、今の景観になったそうです。
クリックすると拡大

絵画の紹介は次回の絵画編で行いたいと思いますが、今回は1枚だけ紹介したいと思います。2016年9月22日に神戸市立博物館で行われていた松方コレクション展で見た絵があったからです。フランスから返還されなかった18 or 19作品の内、オルセー美術館には11作品の松方コレクションが所蔵されています。その11作品の中の1枚です。もちろん日本では写真撮影は禁止されていましたので写真が撮れたのは貴重でした。
 松方コレクション
  洋画など    約2650点
   日本持ち込み 約1300点 世界恐慌により散逸(さんいつ)
   フランス保管 約 400点 19点を除き370点が日本に返還される
   イギリス保管 約 953点 1939年にロンドンでの火災で焼失
  日本の浮世絵  約8200点 現在は国立西洋美術館に保管
 オルセー美術館所蔵の松方コレクション → 記事
  ボンヴァン  チーズのある静物
  ボンヴァン  鴨のある静物
  ボンヴァン  野兎のある静物
  クールベ   フラジェの農夫たち
  マネ     ビール・ジョッキを持つ女
  ゴーギャン  シュフネッケルの家族
  ゴーギャン  扇のある静物
  ゴーギャン  ブルターニュの風景
  ゴーギャン  ヴァイルマティ
  ゴッホ    アルルの寝室
  ロートレック 庭に座る女 ジュスティーヌ・デュールの肖像 
 写真の作品
  題名 庭に座る女 ジュスティーヌ・デュールの肖像
  製作 1891年
  作家 トゥールーズ ロートレック
  分類 松方コレクション
クリックすると拡大

パリの三大美術館の場所を紹介します。
 オルセー美術館 (Musée d'Orsay)
 ルーヴル美術館 (ルーブル美術館 / Musée du Louvre) → 記事
 ポンピドゥー・センター (Pompidou Centre )の中の国立近代美術館
 泊まったホテル


航空写真に切り替えてオルセー美術館辺りを拡大してみました。


こちらは1920年のオルセー駅の絵ハガキです。Wikipediaから転用させていただきました。
クリックすると拡大

当時の内部の写真です。こちらはWikipediaからリンクされたサイトから転用させていただきました。
クリックすると拡大

加賀清水 小竹川(高野川)の源流 [生活風景]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
千葉県佐倉市井野の成田街道(国道296号)近くに、昔から湧き水が出ている加賀清水(かがしみず)と呼ばれる場所があります。前記事で紹介した鯉の産卵を見ることが出来た上小竹川の源流が加賀清水だったのです。そこで加賀清水に2017年5月1日と5月3日に来てみました。5月1日は加賀清水の場所の確認のために車で来ましたが、5月3日は加賀清水が源流となっている川のルートの写真を撮るのが目的だったので歩いて来てみました。

加賀清水の場所を紹介します。成田街道は、水戸街道の新宿(にいじゅく)から分岐して佐倉藩や成田山新勝寺に向かう街道です。水戸街道・新宿の現在の住所は東京都葛飾区新宿(にいじゅく)です。現在も成田街道の名前が使われていますが、江戸時代の庶民にとっても成田街道の名称が一般的でした。ただし江戸幕府の公式文書では佐倉街道と言われて、房総の諸大名の参勤交代の道でもありました。
  加賀清水 千葉県佐倉市井野1624
  成田街道脇の常夜灯と3基の道標 茶屋・林屋があった場所
  佐倉城 佐倉藩の城 天文年間(室町時代)~明治6年
 ━━ 成田街道 水戸街道・新宿    成田山・新勝寺 約53km
 


参考に成田街道、水戸街道、日光街道、中山道などの概略ルートを紹介します。地図をクリックすると広範囲を表示します。日本橋からは日光街道を通って千住に行き、千住からは水戸街道を通って成田街道の出発地点の新宿(にいじゅく)まで来ます。
クリックすると拡大

加賀清水の南側150mに成田街道があったことから加賀清水を示す石碑が残されていました。写真の道が成田街道で、国道296号線です。このあたりに林屋という名の茶屋があり、加賀清水で汲まれた清水が客に振舞われたそうです。
クリックすると拡大

クリックすると拡大中央奥の常夜灯は加賀清水の水で茶を振舞って繁盛していた茶屋の林屋の前に1827年(文政10年)に建てられていたそうです。この常夜灯の場所は昔のままだそうです。他の3基の石碑(道標)は、すぐ西側(左側)約13m離れた道路角(写真の左端)にあったものを移設したそうです。
クリックすると拡大

左側の道標は歌舞伎の名優であった7代目市川団十郎が1831年(天保2年)に建立したものです。その道標には加賀清水を「天はちち 地はかかさまの清水かな」と詠んだ句と成田山への信心が記されています。中央の道標は1894年(明治27年)に信集講社の岩田長兵衛によって建てられたもので、左の道標は1840年(天保11年)に江戸の豪商であった古帳庵夫妻が建てたものです。
七代目・市川団十郎が建てた右の大きな道標の文字を紹介します。
 (正面)成田山道 是れより北へ半丁 清水原中有
 (右面)天はちち 地はかかさまの 清水可那 七代目団十郎敬白
                      天保二辛卯年九月吉日
 (左面)成田山御参詣の御方様御信心被遊此清水御頂戴被成候
                      御夫人様方御懐胎被成候事
 (背面)無疑私御利益を蒙り候間御信心の御方様へ差上度
                      御子孫長久大願成就
左面には加賀清水の清水を飲めば子のいないご夫人も懐妊するという御利益があることが書かれていることから、ここの清水が大変な人気になったと想像されます。正面に清水までの半丁とあります。1丁(町)は109.09091mのため半丁は約50mということになります。現在は湧水の湧口までの距離は150mなので、今と昔の湧水の場所が少し違う可能性があります。あるいは半丁が単にすぐそばを意味しているのかもしれません。
クリックすると拡大

常夜灯や3基の道標の詳しい説明も書かれていました。記載内容を枠内に転記いたします。
    成田道道標と常夜燈
これらの石塔群は、成田山新勝寺に参拝する旅人のために建てられたもので、向かって右側の道標は、歌舞伎の名優である七代目市川団十郎が、天保二年(1831年)に建立し、ここから北150メートルに所在する加賀清水を「天はちち、地はかかさまの清水かな」と詠んだ句と成田山への信心が記されています。
中央の道標は、明治二十七年に信集講社の岩田長兵衛が建てたもので、成田街道沿いに五基確認されています。
左の道標は江戸の豪商・古帳庵夫妻が天保十一年(1840年)に大和田原(現・八千代市)の情景を詠んだ自作の句を刻んで建てられました。三基の道標は、当初は現在の場所から西側の道路角にあったものを移設しました。
中央奥の常夜燈は、文政十年(1827年)に加賀清水の水を汲み、茶を振舞って繁盛していた林屋の前に建てられ、今も当時と同じ場所にあります。林屋は『三峰山道中記図絵』(明治四年)にも描かれ、「御贔屓の恵も厚きはやしやと人にたてられ石の燈籠」と詠まれており、当時の賑わいがうかがえます。

平成二十五年十一月 佐倉市教育委員会
クリックすると拡大

成田街道側から加賀清水方向を見た道の景色です。江戸時代にはその時代の人口密度などから判断して、道路の左右の家はほとんどなかったと思われます。正面に赤い鳥居と祠が見えます。祠は厳島神社で古くからあったそうです。
クリックすると拡大

こちらが厳島神社です。加賀清水と書かれた石碑などが祀られています。
クリックすると拡大

ここが一番南側の湧き水の場所です。池から水が流れ出る一番北側から一番奥の湧き水の場所なのでここがまさに源流と言える場所です。
クリックすると拡大

動画を見ると小さい音ですが水音を聞くことが出来ると思います。


一番奥が上で紹介した湧き水のところです。
クリックすると拡大

水の道は広くなってきます。
クリックすると拡大

加賀清水は大きな池になっています。この池の水が源流となり一番奥(北側)から高野川/上小竹川/小竹川へ流れていきます。木の幹の太さからも歴史を感じます。
クリックすると拡大

北側から見たかが清水の池です。メダカが沢山住んでいました。浅い池ですが鯉も住んでいました。水草も生えていました。この湧水地は加賀殿清水、井野清水、加賀清水と呼称を変えながら現在まで残されてきたそうです。
クリックすると拡大

厳島神社と書かれた石碑が祀られていますが元は弁天様の石碑が祀られていましたが、1994~1995年ごろに子供のいたずらで弁天様の石碑が池に投げ込まれて、新しい厳島神社の石碑が祀られたそうです。最近弁天様の石碑が見つかって弁天様の石碑も祀られているそうです。
クリックすると拡大

加賀清水は、今は加賀清水公園になっています。加賀清水の説明版や加賀清水に説明用の掲示板が建てられていました。
クリックすると拡大

加賀清水に関する説明を枠内に記載します。
この清水は第八代佐倉城主 大久保加賀守忠朝(1676~1686年)が愛飲し、江戸への往来の時に必ず立ち寄ったところから加賀清水、または井野清水と呼ばれるようになったと伝えられる。 その後、成田街道脇の林屋という茶屋がこの清水を客に振舞った。現在、国道二九六号線脇に、加賀清水道路標があり、往来の林屋の繁昌振りが偲ばれる。
昭和五十七年三月 佐倉市


掲示板に貼られた説明を読むと皆さんの努力によって加賀清水が守られてきたかわかりました。この湧き水池の水は周辺地域にしみ込んだ雨水が湧き出たものだそうですが、周辺地域が住宅になって雨水が下水設備の方に流れてしまうとともに、舗装されて雨水の地面にしみ込む量が減ってしまったことから、湧き水が枯渇する日が多くなったそうです。その対策として取られたのが雨水浸透マスの設置だそうです。住宅の雨どいの雨水も地面にしみ込ます努力ともに、雨水浸透マスの設置により湧き水が復活したそうです。また歩道の透水性舗装化を推進するなどの試みも行われているそうです。
              1995年頃  2013年
  雨水浸透マスの設置数   9基  → 340基
  年間枯渇日数       43日  →   0日
クリックすると拡大

雨水浸透マスの図をネットから転用させていただきました。画像をクリックするとこの図が使われている印旛沼の情報広場を表示します。
クリックすると拡大

加賀清水の横には関係は分かりませんが稲荷神社がありました。井野新田の鎮守で、五穀豊穣もたらす稲荷神が祀られているそうです。
クリックすると拡大

この建物の奥に由緒のある古い本殿がありました。
クリックすると拡大

本殿は屋根で守られていました。
クリックすると拡大

横には奥州参りに行った参拝記念碑(三山碑)が沢山建てられていました。
クリックすると拡大


前記事で紹介した鯉の産卵を見ることが出来た上小竹川の源流の加賀清水から印旛沼(西印旛沼)までのルートをGoogle地図に書き込みました。
その川にかかる橋も紹介します。2017年5月1日には天神橋から印旛沼までの橋の名前を確認するために散策をし、5月3日には三号橋梁から加賀清水までを散策しました。5月3日の歩いた歩数は14285歩でした。源流(加賀清水)から印旛沼まで31の橋がありました。その中で名前が分かった橋が10で、21の橋の名前は特定できませんでした。川/水路の長さはGoogle地図で計測したものです。
 ① ━━━━ 加賀清水公園の小川 67m
 ② ━━━━ 地下水路(高野川) 192m
 ③ ━━━━ 高野川 3760m
      不明の橋 高野川  11橋 (源流~四号橋梁)
      四号橋梁 高野川  昭和44年02月28日施功 1969年
      不明の橋 高野川  2橋  (四号橋梁~三号橋梁) 
      三号橋梁 高野川  昭和44年02月28日施功 1969年
      不明の橋 高野川  4橋  (三号橋梁~天神橋)
      天神橋  高野川  昭和43年03月31日施功 1968年
      不明の橋 高野川  4橋  (天神橋~子ノ橋)
 ④ ━━━━ 上小竹川 1330m
      子ノ橋  上小竹川 昭和44年02月28日竣功 1969年
      根崎橋  上小竹川 平成01年03月竣工   1989年
      先崎橋  上小竹川 昭和62年03月施工   1987年
      下崎橋  上小竹川 平成03年03月施工   1991年
 ⑤ ━━━━ 小竹川 734m
      小崎橋  小竹川  銘板が外れていたため不明
      弁天橋  小竹川  昭和41年08月施工   1966年
 ⑥ ━━━━ 手繰川 269m
      新先崎橋 手繰川  昭和62年03月施工   1987年
: 小竹城 井野城 先崎城 下高野城(館)



━━━━ 加賀清水公園の小川 67m → 地図
加賀清水公園から水が流れ出るところです。ここに水量を図る三角堰(三角せき)が取り付けられています。
クリックすると拡大

その三角堰から水が流れ出る動画です。


水量計測している三角堰(三角せき)を拡大いたしました。
クリックすると拡大

小さな水路を水が流れてくるわけです。
クリックすると拡大

八重桜の花びらが流れる動画も趣があります。



━━━━ 地下水路(高野川) 192m → 地図
加賀清水は住宅地にあることから加賀清水の水はここから地下水路に入ります。プレーボタン( )をクリックすると動画で見ることが出来ます。


道路の左側に地下水路があります。
クリックすると拡大

道路の右側のコンクリート壁のあたりまで地下水路は続きます。コンクリート壁は清水公園にある調整池です。
クリックすると拡大

下流側から見た写真ですが、この部分で左側に道路を横断します。
クリックすると拡大

清水公園横の調整池の内部の写真を紹介します。地下水路はコンクリート壁の向こう側の左から流れてきて、コーナー部で90度曲がって右に流れていきます。驚いたことに調整池の名前は加賀清水調整池でした。 → 地図
クリックすると拡大


━━━━ 高野川(こうやがわ) 3760m → 地図
清水公園にある調整池脇から高野川になります。まだ川とは呼べない水路がこの緑の中にあります。右のコンクリートの壁の中が調整池です。近くには清水台公園や加賀公園があったことから加賀清水のゆかりが感じられました。
クリックすると拡大

住宅との横に緑地が続いていました。
クリックすると拡大

緑地の最後の部分です。小さな水路がありますが、これは単なる雨水用の溝のようです。この先で深い川が地面に現れるので緑地の地下に水路があるのではないかと感じました。
クリックすると拡大

突然に川が現れます。ここからが高野川と呼んでもいいのかもしれません。ここまでの緑地は高野川の痕跡のような存在です。
クリックすると拡大

突然に地上に高野川が現れる場所には大野調整池がありました。
クリックすると拡大

高野川は住宅地を進みます。
クリックすると拡大

水量は明らかに増えているのでいろんな方向から水が集まってきたのだと思われました。
クリックすると拡大

川の両側が開けてきました。
クリックすると拡大

同じ場所から上流側(加賀清水方向)を見た景色です。奥の住宅地が佐倉市井野で、空き地の部分は皮を挟んで右側(西側)が八千代市上高野で、左側(東側)が佐倉市井野です。加賀清水から印旛沼までの川が流れる場所は次のように変化します。2つ名前がある場合は上流から見て 左岸/右岸 となります。
下記の「⇒」の部分にA~Jのマーク( )を入れた地図を表示 → ポチッ
 井野 ⇒ 上高野/井野 ⇒ 上高野 ⇒ 上高野/下高野 ⇒ 下高野
  ⇒ 青菅 ⇒ 先崎/青菅 ⇒ 先崎/小竹 ⇒ 小竹 ⇒ 小竹干拓
  ⇒ 小竹干拓/臼井台 ⇒ 小竹干拓/臼井台干拓 
   八千代市: 上高野 下高野
   佐倉市 : 井野 青菅 先崎 小竹 小竹干拓 臼井台 臼井台干拓
クリックすると拡大

車が頻繁に通る道の下を川がくぐっていました。少し高くなった小さなカードレールの部分が橋です。ここの橋には名前が書かれた銘板があるのではないかと期待していましたがありませんでした。この道は八千代市から井野外山交差点にでる抜け道的な存在のため沢山の車が通ります。
クリックすると拡大

その道の端から下流側を見た景色です。
クリックすると拡大

このような景色が続きます。
クリックすると拡大

加賀清水から始まって最初に名前が書かれた橋がこちらです。ここまで名前が判らない橋が11続きました。
クリックすると拡大

橋の名前は「四号橋梁」で橋の後ろに「梁」が付いた珍しい橋でした。
橋梁(きょうりょう)の意味を調べると、橋のことで、道路・鉄道・水路などが障害物などの上空を通過するための架空構造物の総称だそうです。
クリックすると拡大

四号橋梁(よんごうきょうりょう)の上から下流側を見た景色です。両側は田植えの準備をしている田んぼです。
クリックすると拡大

このあと2つ、欄干も名前のない橋が続いた後に欄干のある橋がありました。
クリックすると拡大

こちらの橋の名前は三号橋梁(さんごうきょうりょう)でした。
クリックすると拡大

三号橋梁から見た下流側の景色です。
クリックすると拡大

こちらが天神橋(てんじんばし)です。こちらも頻繁に車が通ります。
三号橋梁から天神橋の間には4つの欄干のない橋がありました。
クリックすると拡大

天神橋から子ノ橋の間にも写真のような欄干もなく名前もない橋が4つありました。写真には3つの橋が写っています。
クリックすると拡大

もう一つの橋の写真です。この写真は下流側(子ノ橋の方)から撮った写真です。
クリックすると拡大


━━━━ 上小竹川(かみおだけがわ / かみこたけがわ) 1330m → 地図
こちらが子ノ橋(ねのばし?)です。八千代市の上高野地区と下高野地区を流れたきた高野川は子ノ橋で佐倉市に入り上小竹川に名前が変わります。同じ川が市境(しざかい)で名前が変わるのは珍しいのではないでしょうか。ここからの橋は全て欄干があり名前が付いています。
クリックすると拡大

鯉の産卵が見られた辺りの上小竹川の動画を紹介します。最後に写ってい橋が子ノ橋です。この動画は2017年5月1日に撮りました。


こちらが根崎橋(ねざきはし)です。前記事でkazuさんコメントいただいた内容によると昔は天神橋あたりから根崎橋あたりまでが根崎と呼ばれており、kazuさんの屋号も根崎だそうです。現在の地名は先崎です。
クリックすると拡大

根崎橋の一つ下流側の橋が先崎橋(まっさきはし)です。
クリックすると拡大

先崎橋の一つ下流側の橋が下崎橋(しもざきはし)です。上小竹川の呼名は「かみおだけがわ」が使われていますが、公式文書では「かみこたけがわ」が使われる可能性があるため2つの名前をタイトルに入れました。その可能性は次の小竹川で説明している内容と同じです。
クリックすると拡大

土手を進むと井野川との合流地点に架かっている小崎橋が見えてきました。橋の名前に「崎」が付いている名前が根崎→先崎→下崎→小崎と4つ続きました。
クリックすると拡大


━━━━ 小竹川(こたけがわ / おだけがわ) 734m → 地図
小崎橋(こさきばし)の上から上流側を見た景色です。
右が上小竹川で左が井野川です。合流して小竹川(こたけがわ / おだけがわ)となります。小崎橋の4枚の銘板は全て外れて無くなっていました。橋の名前だけはネットで検索出来ましたが施工年月は探せませんでした。
クリックすると拡大

小竹川の土手の道を進みます。佐倉市の小竹川は通称では「おだけがわ」と呼ばれています。地名の佐倉市小竹や小竹小学校や小竹幼稚園や小竹城や城を築城した小竹五郎高胤の小竹は全て「おだけ」と呼ばれているからです。
ところがWikipediaでは「こたけがわ」と書かれています。これは土木行政関係、河川管理関係などでは「こたけがわ」が使われている可能性が高いためだと思われます。
クリックすると拡大

こちにが昭和41年08月施工された弁天橋(べんてんばし)です。橋の名前が書かれた銘板は外れて無くなっていましたが施工年月が書かれた銘板のみ残っていました。橋名はネットで探し出しました。
クリックすると拡大

弁天橋の上から下流側を見た景色です。この先で手繰川と合流します。
クリックすると拡大


━━━━ 手繰川(てぐりがわ / たぐりがわ) 269m → 地図
小竹川と手繰川(てぐりがわ / たぐりがわ)の合流地点です。右が小竹川で左が手繰川で、合流した後は手繰川となって印旛沼に注ぎます。
クリックすると拡大

これが新先崎橋(しんまっさきばし)で上を自転車道路が通っています。自転車道路の名前は印旛沼サイクリングロードで全長は約27kmあります。花見川サイクリングロードや新川遊歩道も入れると約50kmになります。
クリックすると拡大

新先崎橋から見た手繰川です。
クリックすると拡大

新先崎橋の上から見た印旛沼(西印旛沼)です。
こちらが今回の報告の最終地点です。今回の記事に掲載した写真は下記の散策で撮りました。歩いた距離は合計で約23kmです。2017年5月3日が一番歩いた日で約11㎞になります。
 4月30日AM 徒歩 家~子ノ橋~根崎橋~家
 5月01日AM 徒歩 家~根崎橋~新先崎橋(印旛沼)~天神橋~家
 5月01日PM 車  加賀清水
 5月03日AM 徒歩 家~三号橋梁~加賀清水調整池~成田街道~林屋の燈篭
~加賀清水~調整池~高野川沿い~家
クリックすると拡大

朝の散歩で鯉の産卵に遭遇 2017年の写真を追加 [生活風景]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
2017年4月30日は穏やかな4月の最終日となりました。4月30日と言えは以前に近くの小川で鯉の産卵を見かけた日でした。その小川の名前を、その時の記事に追加したくて散策に出かけました。カエルの鳴き声がすごかったです。時々、キジの鳴き声も聞こえました。
上の写真が鯉の産卵を見かけた辺りの2017年4月30日の写真です。
見えているゴルフ練習場はユーカリゴルフプラザです。

この日は小川の近くでも家族総出の田植えが行われている光景にも出会えました。ほほえましい光景でした。いろんな場所で田植えの準備や田植えが行われていました。
クリックすると拡大

鯉の産卵を見ることが出来た小川の名前は上小竹川でした。名前が分かったことから地図などを追加して記事をブラシュアップいたしました。
クリックすると拡大

クリックすると拡大こちらが以前の4月30日の朝の散歩の時に珍しい光景に出合えた写真です。
小川で大きな水音がしたので覗いてみると鯉の産卵でした。この時期は右の写真のように鯉のぼりが見れる季節です。不思議な偶然です。
クリックすると拡大

下の航空写真の中央を左から右に流れる小川で、この小川は右の方向(東の方向)で印旛沼につながっています。小川の名前は上で紹介した通り上小竹川です。小竹と言えは以前に小竹城小竹の庚申塔と辻切り小竹のザンマタを紹介したことがあります。赤色マーク( )は以前に紹介した青菅の「どんどれえ塚」です。他のマークは次の通りです。
 佐倉市青菅   どんどれえ塚
 佐倉市先崎   庚申塔および先崎城主の墓
 八千代市下高野 辻切り(藁の大蛇)


鯉の産卵を撮った場所の上流側の橋の名前は子ノ橋で、下流側の橋の名前は根崎橋でした。川の名前の上小竹川は根崎橋の欄干に書かれていました。この写真は2017年4月30日に撮りました。面白いことに上小竹川は佐倉市内での呼び名で、八千代市内では高野川と呼ばれています。つまり子ノ橋より上流は高野川です。上小竹川は井野川が合流して小竹川となり、その小竹川は手繰川に合流して、手繰川となって西印旛沼に流れ込みます。上小竹川/高野川の源流は佐倉市井野の加賀清水と呼ばれる辺りです。 → 地図
子ノ橋(ねのばし?)は昭和44年2月28日竣功(1969年)で、根崎橋(ねざきはし)は平成元年3月竣工(1989年)でした。



根崎橋から見た上流側の景色です。川が細くなっているところで鯉の産卵に出会えました。この写真も2017年4月30日に撮りました。建物がある辺りに子ノ橋があります。子ノ橋から西印旛沼までの橋を紹介します。橋の名前を確認するために2017年5月1日にも散策いたしました。
 子ノ橋  上小竹川 昭和44年02月28日竣功 1969年
 根崎橋  上小竹川 平成01年03月竣工   1989年
 先崎橋  上小竹川 昭和62年03月施工   1987年
 下崎橋  上小竹川 平成03年03月施工   1991年
 小崎橋  小竹川  銘板が外れていたため施工日は不明
 弁天橋  小竹川  昭和41年08月施工   1966年
 新先崎橋 手繰川  昭和62年03月施工   1987年
クリックすると拡大

印旛沼につながる小さな小川で、どうしてこのような場所なのだろうかと驚かされました。そこで鯉の産卵を調べてみると産卵期は春から初夏にかけてで、大きなコイが浅瀬に集まり、バシャバシャと水音を立てながら水草に産卵・放精をおこなうそうです。
一度の産卵数は50万-60万ほどだそうです。卵は付着性で水草などに付着し、数日のうちに孵化するとのことでした。確かに水辺の水草への産卵でしたが、小さな小川に遡り産卵するとは書かれていませんでした。


不思議なのは小さな小川の中でも最も急な流れの場所だったことです。鯉のぼり(鯉幟)の季節と鯉の産卵の季節が一致しているのは偶然なのかどうかは不明です。
鯉のぼりは、江戸時代に武家で始まった日本の風習で、端午の節句に男児の出世を願って家庭の庭先で飾られた紙や布などの幟(のぼり)に鯉の絵柄を描き、吹流しのように風にはらませたのが始まりだそうです。皐幟(さつきのぼり)とも言われたそうです。鯉の絵が描かれたのは中国の正史、二十四史の一つである後漢書による故事で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴だったからだそうです。
クリックすると拡大

沢山の鯉たちが集まっていました。本当は連写で撮りたかったのですが、まだマニアルをまともに読んでいなかったために設定がわからなかったために単写となってしまいました。
クリックすると拡大

ここが産卵を見ることが出来たあたりです。普段は水が少ない小川なので、ここに鯉が住んでいるとは思えないことか、印旛沼から、この小川に沢山の鯉たちが遡ってきたのだと思います。まさに「鯉の川のぼり」です。
ブラックバスなどの外来種が沢山増えてきた中で、小さな小川での産卵が子孫が残していくためにの選択肢だったのかもしれません。見事に鯉たちは生き残っていることを実感させられる体験となりました。
クリックすると拡大

産卵のあった100m上流の同じ小川です。先ほどの狭いところをクリックすると拡大同じ水量が流れていると想像してもらうと産卵場所が急流になっていることがわかってもらえると思います。ここは八千代市下高野に入っているので川の名前は高野川です。欄干がある橋が1968年3月31日施功の天神橋です。
クリックすると拡大

鯉の産卵が見られた辺りの上小竹川の動画を紹介します。最後に写ってい橋が子ノ橋です。この動画は2017年5月1日に撮りました。