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初代県庁館(兵庫縣廰) 兵庫津ミュージアム 第85回ハイク参加 [神戸]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大前記事で紹介した兵庫津ミュージアムの本館「ひょうごはじまり館」の次に行ったのは初代県庁館でした。本記事ではその初代県庁館を紹介したいと思います。清盛塚の方から歩いてきたので元々の計画では初代県庁館を見学してから本館に行くつもりでしたが、クリックすると拡大入館券は本館でしか買えなかったことから、見学の順番が反対になりました。タイトルで初代県庁館を兵庫縣廰と書いたのは、入口の看板に右の写真のように兵庫縣廰と書かれていたためです。上の写真が周囲を土塀で囲まれた初代県庁館(兵庫縣廰)です。1868年(慶応4年)5月23日に兵庫県が出来て兵庫県庁と呼ばれる前は大坂町奉行所兵庫勤番所でした。初代県知事はクリックすると拡大内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)になった右上の写真の伊藤博文でした。伊藤博文は1841年10月16日生まれなので兵庫県知事なったのは26歳ということになります。若い時の写真も右に紹介します。現兵庫県知事の斎藤元彦さんも若いけれども、それでも20歳年上の46歳(就任時は44歳)です。初代県庁館がオープンしたのは2年前の2021年11月3日で、2022年11月24日にオープンしたひょうごはじまり館の1年前です。

2つの航空写真の青色ライン(━━)が今回の第85回ハイクの散策ルートです。
右側の航空写真が第85回ハイクの全ルート()で、左側の航空写真がの航空写真です。本記事ではの初代県庁館を紹介したいと思います。右写真は前記事(兵庫津ミュージアムの本館)で使わさせていただいた初代県庁館です。→SV1 SV2 SV3 クリックすると拡大
  中央市場前駅(10:50集合)
  兵庫大佛
  清盛塚(昼食)
  兵庫津ミュージアム
  初代兵庫県庁館
  淡路屋(駄菓子)
  和田岬駅(15:16)


こちらが初代県庁館の入口の門です。
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入口の門を拡大すると兵庫縣廰と書かれた看板を確認できます。
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入口の門をくぐってすぐの景観です。左側の建物の入口が県庁舎の玄関です。右側の門をくぐると県庁舎の庭が広がっています。
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兵庫県立兵庫津ミュージアムのホームページ(HP)からイメージ図をクリックすると拡大転用させていただきました。右側の大きな建物が兵庫県庁/県庁舎()で、左側の奥の2つの建物が勤番所時代に兵庫津に住んだ下級役人(地付同心)の官舎/同心屋敷()で、同心屋敷の手前の建物が取次役所()でカフェとして飲み物などを提供しています。一番手前の歩道に接した建物は和田岬沖を航行する船を見張る船見番小屋()で休憩処として利用できるようになっていました。兵庫県庁(県庁舎)の左奥の小さな建物が、クリックすると拡大犯罪人を短期間拘置するために使われていた仮牢()と牢番のいる番小屋です。中央の一番手前に初代県庁館への入口があり長屋門()になっています。神戸覧古(明治時代発刊)とにあった長屋門と東に続く土塀の右の勤番所の絵を元に再現したそうです。
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初代県庁館は下の2枚の上側の兵庫勤番所絵図と同じ配置で作られていることが判っていただけると思います。文字が読みにくいのでクリックすると比べてやすいと思います。
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Googleマップでも初代県庁館の配置を紹介します。


県庁舎()を紹介する前に取次役所()と船見番小屋()を紹介します。同心屋敷()と仮牢()の方にはいかなかったことを後で後悔いたしました。
こちらがの取次役所です。カフェとして利用されていました。
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カフェのメニューが入口の前に立てられていました。
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カフェのメニューの内容を紹介します。最寄り駅は中央市場前(神戸市営地下鉄)です。歩いて260mのきょりです。
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別の入口にもカフェのメニューが立てられていました。
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こちらがの船見番小屋です。こちらの建物は休憩所として利用されていました。
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昔風に条々が立てられていました。兵庫津街歩きの際の注意事項のようです。
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当時の大砲も展示されていました。
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ここからがの兵庫県庁/県庁舎/勤番所の説明です。1868年(慶応4年)5月23日に兵庫県が出来る前は同じ建物を勤番所と呼んでいたようです。こちらば県庁舎の玄関です。
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玄関の入口に近づきました。正面に説明板か置かれています。
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先ずは玄関を入ったところでボランティアの説明員の方から詳しい説明をしていただきました。
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説明してもらっている時に斜めから撮った説明板です。
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正面から撮った「初代県庁館について」の説明板です。左側が「兵庫城から勤番所へ」で、右側が「兵庫県庁の誕生」です。「勤番所(初代県庁舎)の復元」に関する説明も書かれています。クリックすると文字が読める大きさに拡大します。
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玄関の入口から建物の奥方向を撮った写真です。
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上の写真から縁側の方に出て、奥の方を撮った写真です。
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同じ位置から庭方向を撮った写真です。
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板間もありました。左の部分から仮牢を見ることが出来ました。
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近くで見なかった仮牢()と牢番小屋が県庁の建物の中から見れました。撮ったのは上の写真の左端からです。
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仮牢を撮った位置から建物の奥を撮った写真です。奥の方に家具が少し見えているところが県知事・伊藤博文の執務室の場所です。その左側の外が見えているところが罪人を裁く吟味場(お白洲)です。
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こちらが吟味場(お白洲)です。仮牢に入れられていた罪人がここに座らされたのだと思います。
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吟味場の場所の横には県知事執務室にも接していました。
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こちらが県知事の知事執務室です。
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知事執務室のテーブルです。もちろん当時の物ではありませんが、近いものを選んだのかもしれません。
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ボランティアの方から初代県庁に関することだけでなく兵庫運河が日本最大級など兵庫津の詳しい説明をしていただきました。
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知事執務室の端に「雪隠」の表示がありました。雪隠は便所のことです。
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縁側の左側が「雪隠」です。
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「湯殿」の表示もありました。
「雪隠」は知事執務室の東の縁側の端にあり、「湯殿」は知事執務室の南の縁側にありましたした。右の図が全体の配置図から「湯殿」と「雪隠」の部分を切り取り図です。
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こちらが湯殿です。
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知事執務室あたりから見た庭です。
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知事執務室の南側の縁側の西端から見た庭や建物の景色です。
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県庁舎を昔の図面通りに木材で作ると耐震性が問題となることから、鉄骨が中に入った木材が重要な部分に使われています。遠くから見ると見わけが付きませんが、この写真のように近づいてみると分かります。2本の接合面が判っていただけると思います。この柱は分かりやすかったけれども分かりにくい方が多かったです。
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庭越しに見た県庁舎の建物です。
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もう一枚庭越しの写真を紹介します。
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初代兵庫県庁は手狭であったことなどから、すぐに二代目県庁が坂本村(現在:神戸市中央区橘通)が作られ初代県庁は役目を終えたそうです。
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兵庫県が現在とほぼ同じ範囲(第3次兵庫県)になったのは明治9年8月からだったのです。明治4年11月~明治9年8月(第2次兵庫県)では飾磨県+豊岡県+兵庫県が現在の兵庫県に近い状態でした。慶応4年~明治4年11月(第1次兵庫県)に至っては兵庫県は着色された部分だけだったのです。初代県庁が出来たのは、その第1次兵庫県の時代でした。
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初代県庁(建てられた時は勤番所)は兵庫城跡に作られたことから、最後に兵庫城の復元図を紹介します。クリックすると拡大兵庫城が城として機能していたのは戦国時代の短い期間だけで江戸時代には城はなくなり、右の図の陣屋となったそうです。
 築城主 池田恒興
 築城年 1581年(天正9年)
 廃城年 1769年(明和6年) → その後は勤番所
1615年に大坂城落城後は兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれたそうです。1769年には上知令により兵庫津一帯は天領となり、大坂町奉行が支配することになり、兵庫勤番所と呼ばれたそうです。明治維新期に勤番所が初代の兵庫県庁となり、伊藤博文が初代知事として赴任したわけです。1873年までは、外郭となっていた土塁が残っていたそうですが、市街地発展のため取り除かれ、1874年に兵庫港が大幅に改修され、兵庫新川運河が出来て、兵庫城跡は完全になくなってしまったそうです。
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初代県庁館を見学した後は次の目的地の淡路屋(駄菓子店)に向かいました。我々の後ろの写真は兵庫津ミュージアムの本館です。
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2022年11月にオープンした兵庫津ミュージアム 第85回ハイク参加 [神戸]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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この写真が今回紹介する兵庫津ミュージアムです。手前の和風建築が兵庫県の初代県庁を復元した初代県庁館()で、奥の近代的建物が兵庫津ミュージアムの本館となる「ひょうごはじまり館」()です。本記事では博物館設備となる「ひょうごはじまり館」を紹介したいと思います。初代県庁館は次に紹介したいと思います。我々はこの写真の後ろ側から歩いてきたので初代県庁館に最初に入るつもりでしたが入館券は本館側でしか売られていないことから先に「ひょうごはじまり館」に入りました。「ひょうごはじまり館」がオープンしたのは2022年11月24日なので、1年しかたっていなかったのです。建物の竣工は2022年9月だそうです。
建物の名前にもなっている兵庫津は8世紀の初め頃に大輪田泊と呼ばれ、近畿から西に向かう航路の船泊りとして築かれたそうです。804年に第4回遣唐使として最澄空海が船出してたことは有名いきました。平安時代の終わりごろには平清盛が日宋貿易のために大きな港に修築して重要な国際貿易港になったそうです。鎌倉時代以降に兵庫津と呼ばれるようになり、室町時代には勘合貿易の国際港として栄えたそうです。江戸時代には北海道や東北の日本海沿岸と近畿を結ぶ北前船の発着港として使われ、町は発展し江戸中期には2万人を超える町になったそうです。兵庫県の最初の県庁が兵庫城跡に置かれ、初代県知事に伊藤博文が就任し、明治になっても国際貿易港として大きく発展すると共に兵庫運河も作られたそうです。

2つの航空写真の青色ライン(━━)が今回の第85回ハイクの散策ルートです。
右側の航空写真が第85回ハイクの全ルート()で、左側の航空写真がの航空写真です。本記事ではの清盛塚を出発してからの兵庫津ミュージアムまでを紹介したいと思います。右の写真は清盛塚()からクリックすると拡大兵庫津ミュージアム()に移動すると途中で渡った兵庫運河です。
  中央市場前駅(10:50集合)
  兵庫大佛
  清盛塚(昼食)
  兵庫津ミュージアム
  初代兵庫県庁館
  淡路屋(駄菓子店)
  和田岬駅(15:16)


初代県庁館の写真は沢山撮りましたが、兵庫県立兵庫津ミュージアムの本館()となる「ひょうごはじまり館」は撮っていなかったので、ハイキングに参加した人を撮った写真の背景に本館がクリックすると拡大写った写真を紹介します。次の淡路屋(駄菓子店)に向かって歩き始めた時の写真です。
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Googleマップのストリートビュー(SV)でも紹介します。中世〜近世の呼び方の兵庫津のは 「海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところ。船つき場。港。」の意味です。現代で言えば兵庫港になるのだと思います。兵庫津と呼ばれていた時代は兵庫関や兵庫島とも呼ばれていたことがあるようです。


こちらが兵庫津ミュージアム「ひょうごはじまり館」の博物館エリア(有料)の入口を入ったところです。
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奥の方から入口を撮った写真です。
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入口に入って最初の展示物です。
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応仁・文明の乱(1467年~1477年)などの戦乱の時代の兵庫津の展示です。
奈良時代(710年~794年)には、僧・行基が開いたとされる摂播五泊(室生泊、韓泊、魚住泊、大輪田泊、河尻泊)の一つ大輪田泊と呼ばれていました。1162年からは平清盛によって大修築も行われ1173年には、広さ37万㎡(37ha)と推定されている人工島・経が島も完成したそうです。さらに僧・重源による改修を経て鎌倉時代(1185年~1333年)に国内で第一の港として兵庫津と呼ばれるようになったそうです。人口島の経が島は地形変化等により場所が特定出来ないそうですが、神戸市兵庫区の阪神高速3号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地、あるいは兵庫区島上町の来迎寺(築島寺)周辺と想定されているそうです。
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兵庫津がにぎわった時代の展示です。今まで、これらの時代と兵庫との関りはほとんど知らなかったことを実感いたしました。兵庫津は今の神戸港より西になります。港としての中心的場所はコンテナ化などにより徐々に東の方に移っていたようです。クリックすると拡大安政5年6月19日(1858年7月29日)に結ばれた右の写真の日米修好通商条約で開港5港で選ばれた神戸は、当時は兵庫と言われていたようです。
第三條の原文 和文 英文
 下田箱館の港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くへし
 神奈川 午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日
 長崎  午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日
 新潟  午三月より凡二十箇月の後より 西洋紀元千八百六十年一月一日
 兵庫  午三月より凡五十六箇月後より 西洋紀元千八百六十三年一月一日
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立派な屏風の展示されていました。
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国際交流としての港の歴史の展示です。
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江戸時代になり北前船の発着港で発展と共に町が栄えたことが感じられます。北前船の模型も雰囲気を盛り上げてくれていました。
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北前船を拡大しました。
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横から撮った写真です。
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北前船を船尾から撮った写真です。
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江戸時代の庶民の生活の絵なども展示されていて、町が栄えた風景が実感できました。写真は当時有名だった兵庫生洲(ひょうごいけす)の様子の図で、寛政8(1796)年の「摂津名所図会」の中で、魚市のほか南浜の今出在家町にあった「兵庫生洲」を紹介した図のようです。クリックすると拡大長さ十三間×幅四間(24m×7m)ほどの屋根を持ったいけすに鯛、鱧、鱸など多彩な魚が飼われていたそうです。不漁時にはここから活魚を市場に出したり、京の御所にも献上したと伝えられているそうです。右がネットから転用させていただいたオリジナルの絵です。
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北前船の前の床には大きな地図が描かれていました。
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兵庫津の名所めぐりのすごろくでした。
クリックすると拡大右は摂陽山海古覧の神戸駅ができる前の神戸を描いた図です。湊川の右岸(右奥側)が兵庫津で、湊川の左岸(左手前)が神戸港側です。兵庫津が繁栄していたことが伝わってきます。右の図は神戸新聞のサイトから転用させていただきました。
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分かりやすくするために縦方向を拡大しました。左下端に和田岬があり、我々が訪問した清盛塚は左上にあります。戦国時代の短い期間に存在した兵庫城は、中央左側の勤番所と書かれていたところにありました。兵庫運河の記事の中で兵庫城跡と書いている辺りです。下方向が概ね東方向になります。
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兵庫大佛の記事で紹介した神戸事件もアニメを交えて詳しく書かれていました。このようなつらい事件や戦争を経験してきましたが、神戸港の歴史は古代から続いて来たことを実感しました。
 古代 摂播五泊(室生泊、韓泊、魚住泊、大輪田泊、河尻泊)の一つとして発展
 中世 遣隋使・遣唐使 日宋貿易の拠点 国内で第一の港 日明貿易の拠点
 近世 北前船などの国内輸送 日米修好通商条約による開港
 近代 日本や世界の経済発展と共に拡大
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昔の古い写真の中に自分たちが写り込む画面もありました。クリックして拡大すると4人が写り込んでいることが分かっていただけると思います。
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私が画面に写り込んでいる写真も紹介します。カメラを構えているのが私です。画像の中の建物は1874年(明治7年)に開業した初代の神戸駅です。
新橋駅~横浜駅間の鉄道開通(1872年)に続く2番目の鉄道の大阪駅~神戸駅の路線の終着駅です。
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明治時代のHiogo and Kobe Map(兵神市街之圖)も展示されていました。
真ん中あたりに日本で2番目の鉄道の大阪駅~神戸駅の路線の終着駅の神戸駅があります。
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神戸駅あたりを拡大しました。私が新入社員として配属になった神戸事業所(明治初期設立)は神戸駅の南に今でもあります。クリックすると同じ縮尺で広範囲を表示します。クリックすると拡大クリックすると拡大
明治21年に出版された右の地図でも神戸駅が確認出来ました。当時に会った会社や商店もその地図で確認出来ました。銀行だけでも、第一國立銀行第三十八國立銀行第五十八國立銀行第六十五國立銀行三井銀行横濱正金銀行クリックすると拡大神田銀行島田銀行と廣田銀行と第七十三国立銀行の10行が書かれていました。明治11年頃の右の横長の「兵庫幕下摂津國八部郡兵庫港市街地図」にも神戸駅や湊川砲台(湊川崎砲台/湊川崎台場)が書かれていました。この地図の存在は入社当時の方からLINEで教えていただきました。
クリックすると拡大右の地図の湊川(湊河)の西岸の星マーク( クリックすると広範囲を表示)が勝海舟が設計して幕府軍艦方が作った湊川砲台の位置だと思われます。明治以降は湊川砲台の砲台や石堡塔(雨覆)やその敷地は陸軍省の所管となりましたが明治24 年(1891年)火災で石堡塔の内部の木造部分が焼失したため解体されたそうです。近くの和田岬には同型の和田岬砲台の石堡塔が残されています。
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博物館エリアから出て来たロビーに置かれていたので、レストランのサンプルかと思ったら特産品を使った昔の料理のサンプルでした。
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Googleマップの航空写真で紹介しておきます。兵庫津ミュージアムを紹介します。右側が本館で左側が初代県庁館です。2023年12月の時点のGoogleマップでは本館の周囲には足場が組まれていて工事知友の時期に撮られた航空写真が使われているようでした。
初代県庁館が出来る前は納田商店さんの加工場(神戸市兵庫区中之島2丁目2-28)があったようです。納田商店さんは神戸市兵庫区出在家の3ケ所に第一加工場(2-2-21)と第二加工場(1-5-14)と冷蔵保管庫(1-4-20)があり、兵庫区中之島1丁目の神戸市中央卸売市場に営業所があるようです。

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成田空港温泉「空の湯」で飲み会 食事処・天の川 [千葉]

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前記事芝山鉄道で仲間3人と「空の湯」に行くのからの続きです。
日本一短い鉄道(普通鉄道における1事業者の保有総延長としては日本最短)の芝山鉄道の芝山千代田駅から一般道路を歩いてきて、「空の湯」および駐車場に入る専用道路の入口( )です。

Google地図の航空写真で芝山千代田駅から「空の湯」までの徒歩ルート()を紹介します。左の飛行機が写っていることが分かっていただけると思います。成田空港の飛行機の整備エリヤや貨物を扱うエリアです。
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 空の湯入口(上の写真の場所)
 空の湯(成田空港温泉 空の湯)
  芝山千代田駅~空の湯 徒歩約500m
  芝山鉄道線路 

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道を曲がろうとした時に「空の湯」の無料のシャトルバスが出てきました。成田空港第2ターミナルと第3ターミナルとの間でシャトルバスを走らせているそうです。無料シャトルバス時刻表を右に紹介しておきます。第2ターミナル発で5時15分~22時40分台に29往復ほど出ています。ただし第3ターミナル発は5時10分~8時40分の朝だけ7本になっています。画面をクリックすると文字が読める大きさに拡大します。
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道を進んで行くと成田空港温泉「空の湯」の建物が見えてきました。左寄りの大きな土色の建物です。入口は建物の右側にあるので、徒歩の場合は駐車場を突っ切る形で進むと最短になります。
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こちらが「空の湯」の建物です。
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入口に進んでいるところです。この時、12時40分でした。
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入口の看板です。扁額風でもあります。
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中に入って受付に行き利用のコースは温泉だけと告げると下足キーを登録してくれます。このゲートがお風呂エリアに入るお風呂ゲートです。下足キー(リストバンド)をゲートにタッチするとケートが開いて中に入れます。我々のコースは3時間以内です。
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ゲートを入ってから、入ってきた方向を撮った写真です。我々が飲み会をする予定の食事処天の川はゲートの外にあるので、3時間たっぷり温泉エリアを楽しむことが出来ます。ケートの正面が食事処天の川です。
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館内の案内の中でゲート内になるのが2階3階のすべての設備(温泉 脱衣所 ランドリー 岩盤浴 お休み処 エステ 貸切風呂 カプセルホテル)です。1階の設備(受付 食事処天の川 癒やし処 カラオケルーム 会議室)は全てゲートの外です。
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こちらが3階の温泉の入口です。 織姫(WOMEN) と書かれた赤いのれんのところが女性用です。男性用は青いのれんのところです。斜めからの写真なので文字は読めませんが 彦星(MEN) と書かれているのだと思います。
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成田空港温泉「空の湯」は1013mまで掘削した温泉だそうです。
クリックすると拡大クリックすると拡大その時に使った掘削ビットが上の写真の左端下に写っています。泉温は29.3℃なので法的にも温泉と表示することが出来ます。温泉法による温泉の定義では温度が25℃以上であれば温泉と言うことが出来ます。ただし、25℃以下でも規定された成分の1つでも設定された数値以上であれば温泉と言うことが出来ます。下記の数値は1kgあたりです。
は「空の湯」が成分で温泉も温泉条件を満たしているので、仮に泉源の温度が25℃未満でも温泉と表示できることになります。右の温泉分析書は空の湯の分析値で、画面をクリックするとオリジナルを表示します。温泉分析書による温泉の湧出量は266リットル/分なので29.3℃の水の比重で計算すると1時間当たり15.89トンの湧出量になります。
温泉定義成分 温泉条件 空の湯
溶存物質(ガス性のものを除く) 総量1,000mg以上 31160mg
遊離炭酸(CO2) 250mg以上 40.1mg
リチウムイオン(Li+) 1mg以上 0.6mg
ストロンチウムイオン(Sr2+) 10mg以上 11.7mg
バリウムイオン(Ba2+) 5mg以上 9.1mg
フェロ又はフェリイオン(Fe2+,Fe3+) 10mg以上 3.0mg
第一マンガンイオン(Mn2+) 10mg以上 0.2mg
水素イオン(H+) 1mg以上
臭素イオン(Br-) 5mg以上 123.5mg
沃素イオン(I-) 1mg以上 83.3mg
フッ素イオン(F-) 2mg以上 0.2mg
ヒ酸水素イオン(HAsO42-) 1.3mg以上
メタ亜ひ酸(HAsO2) 1mg以上
総硫黄(S) 1mg以上
メタホウ酸(HBO2) 5mg以上
メタけい酸(H2SiO3) 50mg以上
重炭酸ソーダ(NaHCO3) 340mg以上
ラドン(Rn) 20×10-10Ci以上
ラジウム塩(Raとして) 1億分の1mg以上 未計測
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こちらが脱衣場ロッカーエリアです。幸いにも誰もいなかったので写真を撮らせていただきました。浴場には沢山の人がいたので、残念ながら湯舟を撮ることは出来ないのでカメラはロッカーに入れました。
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ここから下の温泉の4枚の写真はホームページなどのネットから転用させていただきました。
こちらが室内の温泉です。高濃度炭酸泉などがあります。
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こちらは露天風呂風呂です。奥と手前に分かれていて奥の方が「源泉加温かけ流し温泉」で、手前側の温泉は奥からの、かけ流しと循環が混合した温泉ですが、我々が入った時は人が少ないためか、循環湯の温泉は止まっていたので、全体が「源泉加温かけ流し」状態でした。
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空の湯の露天風呂の売りは「かけ流し」と「飛行機の離着陸が見れる景色の中での入浴」だと感じました。
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「かけ流し湯」の表示板です。
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こちらが源泉の成分そのものの「かけ流し湯」と名がつけられた源泉加温かけ流し温泉です。
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温泉から上がって2階エリア下りてきました。
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風呂上りはアイスや冷たいドリンクが欲しくなりますが、我々は飲み会のビールが待っているので我慢いたしました・
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クリックすると拡大2階のエリアには岩盤浴もありました。我々は温泉だけの、お急ぎ入浴コース(ゲート通過より3時間以内)なので岩盤浴には入れません。
岩盤浴コースの場合は右の写真のような半纏(はんてん)のような服をを貸してくれるので一目でわかります。→料金表
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カプセルホテルの入口です。成田空港の利用者が使うのだと思います。宿泊しながら温泉に入ったりサウナや岩盤浴が出来るわけです。
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リラックスする空間もありました。
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泊まるほどではない人のための、休憩スペースです。薪ストーブコーナーと呼ばれています。成田空港からシャトルバスで10分ほどなので、空港の利用者が便利なのではないかと感じました。
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漫画本も沢山置かれていました。温泉と言えば漫画本なのでしょうか?
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飲み会予定場所の食事処天の川はお風呂エリアの外なのでゲートを出ました。
ただし、この写真は温泉に入る前に撮った写真です。
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こちらが食事処天の川です。こちらも温泉に入る前の写真です。
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さっそく大ジョッキを頼みました。飲み始めたのが13時40分ごろでした。
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先ずは刺身を頼みました。「漁師のいいとこ盛り3種」と名前が付いていました。
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こちらは大ぶりタコの唐揚げです。
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揚げ物をもう一つ、ガーリックシュリンプです。
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さらにフライドポテトも頼みました。
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最初に頼んだ4品が出てきたところで記念写真を撮ってもらいました。前記事でA氏とB氏と呼んだのでここでも使わさせていただきます。右がA氏で左がB氏で真ん中が私です。
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つまみ4品の写真も撮りました。
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最初の4品はこちらのメニューの揚げ物(FRIED)から3品を選びました。
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刺身はこちらの鮮魚(FISH)から1品選びました。
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最初の記念写真が逆光ぎみだったので窓側からの写真も撮ってもらいました。当然ながら左がA氏で右がB氏で真ん中が私です。
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私は大ジョッキを追加しました。
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次のつまみに頼んだのがこちらです。11月6日からの新メニューの豚モツと大地根菜にこんぶ醤油とニンニクを効かせた黒アヒージョを頼みました。千葉県で採れる新鮮な食材に、隠し味として千葉県名産の「醤油」を使用しているそうです。特に成田空港の近隣市町村(成田市、芝山町、多古町、冨里市、横芝光市)の食材にこだわっていると書かれていました。
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アヒージョの部分を紹介します。オリーブオイルとニンニクで食材を煮込んだ料理で、アヒージョはスペイン南部の伝統的な料理タパスのひとつだそうです。スペイン流に言えば豚モツと根菜アヒージョと言うことになるようです。
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食べるときはパンに乗せて食べました。
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1人席も人気でした。この写真の範囲に我々がいる間に2組(1人と2人)が座られました。
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さらにビールと「目玉おやじの鉄板つくね」を頼みました。鉄板に乗っていて熱々でした。
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玉子の黄身を乗せていただきました。
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ラーメンも美味しそうでした。そのほか食事のメニーとしては、丼ぶり、カレー類、蕎麦やうどん類、パスタ類、など充実していました。「空の湯」には宿泊施設があるので当然かもしれません。
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成田空港温泉「空の湯」に到着したのは12時40分でしたが、芝山千代田駅から乗ったのは16時発の電車でした。温泉が約1時間で飲み会が約2時間だったことになります。
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下側の臙脂色マーク( )が今回の空の湯の中にある食事処天の川です。上側の臙脂色マーク( )は同じ仲間3人で行ったDining Port 御料鶴です。以前の記事「ちょっと話題の Dining Port 御料鶴 でランチしてきました。」で紹介しました。

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芝山鉄道で仲間3人と「空の湯」に行く [千葉]

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クリックすると拡大以前の記事「ちょっと話題の Dining Port 御料鶴 でランチしてきました。」で紹介した仲間3人での次の飲み会は成田空港近くにある温泉「成田空港温泉 空の湯」の中にある食事処・天の川で行いました。右の写真は前回のDining Port 御料鶴で撮った3人での記念写真です。真中が私で左がA氏で左がB氏です。
レストランがある空の湯は芝山鉄道線の芝山千代田駅にあります。芝山鉄道は東成田駅(京成電鉄)から芝山千代田駅までの1区間だけの鉄道会社です。1区間だけの鉄道会社ではありますが、線路と駅と車両(リース)など鉄道施設一式を保有し旅客運輸する鉄道会社において芝山鉄道は「日本一短い鉄道」です。ただし比較対象にケーブルカー(鋼索鉄道)などは含んでいません。

クリックすると拡大一番遠く東京寄りから来るA氏とは京成佐倉駅で待ち合わせるので、先ずは快速電車に乗って京成佐倉駅に向かいました。写真は臼井駅を出発して最初の踏切の写真です。この踏切は今年の2月に掲載した「臼井城 千葉県佐倉市」で紹介しました。右の写真がその時に踏切から撮った臼井駅です。
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臼井駅は京成佐倉駅の1つ手前の駅ですが、距離の長い区間でいろんな景色に出会えます。こちらの白い円筒形の物は北海道で同じようなものを見たことがあるので、おそらく牧草を家畜のために冬に備えて丸めたものと思われます。
名前はロールベールラップサイロと呼ぶそうです。昔はサイロを使ったサイレージ化(乳酸発酵を主とする嫌気的発酵)がクリックすると拡大行われてきましたが、ラップの複層構造やギ酸添加などの工夫を行ってサイレージ化を達成できるようになったようです。右の写真は北海道の高橋牧場に行った時に撮ったラップを巻く前の干し草ロールと長男家族です。
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クリックすると拡大こちらが佐倉市の風物で有名なオランダ風車です。
この風車があるのは佐倉ふるさと広場で、4月にはチューリップフェスタ、7月にはひまわりフェスタクリックすると拡大8月には花火大会、10月にはコスモスフェスタが行われます。自転車でよく行くところでもあります。
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こちらがA氏との待ち合わせの京成佐倉駅です。こちらが私が乗ってきた京成佐倉駅に着いた快速成田空港行です。ここで待ち合わせの京成成田行きの快速特急に追い抜かれます。
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待ち合わせと言っても私が乗ってきた快速成田空港行からA氏が乗ってくる快速特急京成成田行の1号車に乗り換えるだけです。写真が京成成田行き快速特急です。乗るとすぐに出会えました。快速特急は佐倉駅から京成成田駅までノンストップです。B氏との待ち合わせは京成成田駅です。
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クリックすると拡大京成成田駅に着きました。我々が乗ってきた電車は折り返して上野行になり、それが出発すると電光掲示板のように4両の芝山千代田行が入ってきます。
京成成田駅と言えば成田山新勝寺があることで有名な駅です。右は初めて和服で成田山新勝寺に初詣に来た時の写真です。
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こちらが芝山鉄道の芝山千代田行の電車です。3人全員が集まりました。話に夢中で車両の先頭の写真を撮り忘れてしまいました。
 京成成田→芝山千代田 時刻表 平日 土曜日 日祝日
 芝山千代田→京成成田 時刻表 平日 土曜日 日祝日
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撮り忘れたのは仕方がないので、現在使われている芝山鉄道3500形電車の写真をWikipediaから転用させていただきました。京成電鉄からのリース車両だそうです。形式は芝山鉄道3500形電車で、車体カラーは赤と緑の帯が特徴です。京成電鉄の車体カラーは赤と青の帯が特徴です。
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車内にあった路線図です。左上の部分の芝山千代田(SR01)~東成田(KS44)が芝山鉄道線です。東成田にKS44の駅番号が付けられていることから東成田は京成電鉄の駅であることが分かります。つまり芝山鉄道の駅は芝山千代田の1つだけと言うことが分かっていただけると思います。
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参考に京成電鉄を中心とした路線図を紹介します。右端に芝山鉄道線が書かれています。車内の路線図とは180度回転した配置です。
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京成成田駅を出発してすぐに右に大きくカーブします。車体がかなり傾いているのが判っていただけると思います。
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ここが成田空港駅行と芝山千代田行へ分かれるところです。不思議に思われるかもしれませんが、真っすぐに行く方がクリックすると拡大芝山千代田駅の線路で、左に急に曲がっている方が乗客の多い成田空港駅行の線路です。これは線路が作られた経緯と関係しているようです。それは用地買収が難航して最終的に工事を中断(右の写真)して断念することになった、東京と成田空港を結ぶ成田新幹線の計画でした。
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さらに分岐点まで来て撮った写真です。両方ともトンネルに入ります。トンネルは空港の地下を通ります。ここはまだ京成電鉄の東成田線ですが、地下にある東成田駅から先が芝山鉄道線になります。芝山鉄道線は芝山千代田駅付近を除き路線の大部分は成田国際空港の地下を走行します。
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京成本線と書かれているところが上の分岐点の写真の場所です。下記にあるように成田空港のために最初に出来た駅は東成田駅(京成電鉄)でした。ただし、東成田駅の右下の写真の場所からバスに乗り換えて空港に行ったのを覚えています。右下の写真はWikipediaから転用させていただきました。バスが空港の敷地内に入るところに検問所があり保安チェックをしていたことも覚えています。バス移動は1991年まで続いたことになります。東成田駅は開業~1991年03月19日前日までの名前は成田空港駅でした。クリックすると拡大
 成田国際空港  1978年05月20日開港
 東成田駅    1978年05月21日開業
 成田空港駅   1991年03月19日開業
 空港第2ビル駅 1992年12月03日開業 記事
 芝山千代田駅  2002年10月27日開業


空港の地下のトンネルから芝山鉄道線が出てくるところのストリートビュー(SV)です。


トンネルを抜けると空港でした。この辺りは貨物や整備エリアだと思われます。
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芝山千代田駅に近いところからの空港の景色です。
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芝山千代田駅に到着しました。この駅には来たのは初めてでした。それだけにここに来た値打ちがありました。
芝山鉄道の車体カラーの赤と緑の帯も確認できました。
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芝山千代田と書かれた駅名標の写真を撮りました。
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改札口に来て驚きました。SuicaやPASMO(パスモ)などのICカード乗車券をタッチする場所がないのです。東成田→芝山千代田までの200円を払って外に出ました。
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処理連絡票をもらったので私の場合は、来た時に入った京成の駅に戻った時に処理連絡票を渡して清算してもらいました。
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こちらが芝山千代田駅です。日本一短い鉄道とは思えない立派な駅でした。
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駅の出口から撮った周辺の風景です。REDWOODの倉庫(物流センター)らしき大きな建物があります。調べてみるとDistribution Center(DC)つまり在庫型物流センターでした。REDWOODは2016年にESRに社名変更したそうですですが、設備名は「REDWOOD 成田 DC」です。この辺り周辺にはいろんな会社の物流センターがあります。
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遠くから撮った芝山千代田駅です。将来的には芝山町中心部を経由して九十九里海岸方面への延伸も検討されていて、実現するまでの代替処置として芝山鉄道延伸連絡協議会(芝山町・山武市・横芝光町で構成)による空港シャトルバスが横芝屋形海岸まで運行されているそうです。
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クリックすると拡大成田空港周辺の航空写真で、芝山千代田駅と東成田駅と成田空港駅と空港第2ビル駅の位置関係を紹介します。鉄道や駅の出来た複雑な関係が伝わってきます。上で紹介したように開場した順は東成田駅(1978年)→成田空港駅(1991年)→空港第2ビル駅(1992年)→芝山千代田駅(2002年)です。
 芝山千代田駅 東成田駅
 成田空港駅  空港第2ビル駅
  京成電鉄
  芝山鉄道 


東葉高速鉄道との乗換駅の勝田台駅も入った縮尺の地図も紹介します。
 勝田台駅  京成佐倉駅
 京成成田駅


歩いて空の湯に向かっています。芝山千代田駅から「空の湯」の建物までの距離は約500mです。空の湯は深さ1013mまで掘削した温泉だそうです。
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空の湯の入口に来ました。次の記事で「空の湯」を紹介したいと思います。
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アームレスリング映画 マ・ドンソク主演 ファイティン! [話題]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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先日、テレビで偶然にも腕相撲(アームレスリング)を題材とした韓国映画「ファイティン!」を見ました。上の写真の左側が主人公マーク、で演じているのはマ・ドンソク(마동석/Ma Dong-seok)です。映画のストーリーは、韓国人ですが幼いころにアメリカに養子に出されアメリカで育ってアームレスリングでチャンプにも輝いた功績を持っていましたが、協会から除名され警備員をして過ごしているところに、自称スポーツエージェントという青年と出会い韓国へ帰国して、母国で最後のチャンスへと挑む物語です。
実は、私はアームレスリング世界チャンピオンに出会って写真も一緒に撮ってもらったことがあるので、この映画が目に留まったのかもしれません「。

こちらは決勝戦のシーンです。
別の主演映画「守護教師」では女子高の正義感のある体育教師の役で活躍していました。主演映画が多いのは、持ち前の体格だけではないのだと思います。
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見事に、チャンピオンになりました。
主役のマ・ドンソクの国籍は米国ですが、1971年に韓国に生まれ子供の頃に映画ロッキー(1976年)を観てボクシングを始め、俳優を目指すようになったそうです。その後、父親の事業がうまくいかなくなったことから米国在住の叔父を頼って1989年に18歳で家族とともに移住して米国国籍を取得し、コロンバス州立大学で体育学を学び、フィットネストレーナーやボディビルダーとして活動し、1994年に米国でミュージカル俳優としてデビューしたそうです。
米国に渡るなど映画の物語と類似している面があるのが面白いです。
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1分50秒の予告編の動画です。


もう一つ動画を紹介します。5分26秒の動画ですが、後半1分50秒は上の予告編と同じです。


私がアームレスリングの世界チャンピオンに出会った経緯を紹介します。
下の写真がアームレスリングの世界大会(47ケ国参加)出場された選手の方と関係者の人たちでした。写真の中の左側の一番手前が世界チャンピオンとなった塩月勝文さんです。その時の記事→ポチッ
今から12年前の2011年12月2日に偶然がいくつも重なって、カザフスタンの最大都市アルマトイの日本食店かぶとでアームレスリングの世界チャンピオンに出会ったのです。
アームレスリングの世界大会がカザフスタンのアルマトイで行われていたことも偶然ですが、12月2日にカザフスタンのアスタナ空港からアルマトイ空港とソウル空港を経由して成田に帰るフライトスケジュールだったので、普通ならば乗継時間をアルマトイ空港で過すのが普通ですが、クリックすると拡大17時20分に到着して出発が23時15分と5時間55分の乗継時間があったことから、カザフスタンに住んでいる方のご好意により往復の車(ランドクルーザー)を段取りしたもらってアルマトイの町まで出て日本食店で夕食を食べながらクリックすると拡大乗継時間を楽しむことにしたことが大きな偶然だったのです。
今回、写真をクリックすると拡大するように設定いたしました。
 2011年12月2日のフライト
  アスタナ→アルマトイ KC854
  アルマトイ→ソウル  OZ578
  ソウル→成田     OZ102
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私も入って記念写真を撮らせていただきました。塩月勝文が右端で私は右から2番目です。左側の2人が中野三千男さんと中原誠司さんで、60歳以上で好成績でした。皆さん半袖ですが、極寒の季節なのです。私だけ厚着なのが判っていただけると思います。塩月勝文さんは翌年2012年も優勝したそうです。
左腕か右腕かまではわからない場合は空欄にしております。
 優勝   右腕70キロ級 塩月勝文
 準優勝    90キロ級 中野三千男 60歳以上
 準優勝    75キロ級 中原誠司  60歳以上
 3位     60キロ級 小寺弘士
 5位   左腕70キロ級 塩月勝文
 6位   右腕90キロ級 伊藤和也  33人エントリー
 8位   左腕90キロ級 伊藤和也  37人エントリー
大会は11月30日から12月3日まで開催され47カ国から世界の猛者約400人が参加されたそうです。正式名はXXXIII World Armwrestling Championshipsで、日本語だと第33回世界アームレスリング選手権大会です。
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左端の赤色マーク( )のところがアルマトイ(Алматы)です。青色ライン(━━)が2011年12月2日のフライトルートです。成田に到着したのは12月3日でした。我々の飛行機(OZ578)はソウル(仁川国際空港)に到着するのが遅れたので、ソウルでの成田行きの飛行機(OZ102)は待ってくれていました。こんな時は同じ航空会社(OZ:アシアナ航空/아시아나항공)なのはいいですね。→ポチッ
ちなみにアスタナからアルマトイのフライトKC854はエア・アスタナ(Air Astana/Эйр Астана)でした。
この時の旅は成田(11/26)モスクワNovosibirsk(シベリア)モスクワアスタナアクトベアスタナアルマトイソウル成田(12/03)でした。航空写真内のマイナス(-)のアイコンをクリックすると旅全体のルートが表示します。



クリックすると拡大します。この時に2人で食べたお店の料理の写真も紹介します。お店の人に、カザフスタンでこのように本格的な日本料理が食べれることに感謝です。日本人が同じ日にアルマトイの町に来ていれば、こちらのお店で出会える可能性は高いと思います。
クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。
クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。
クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。

クリックすると拡大します。実は3ケ月前にも同じお店に来る機会がありました。その時に食べた料理も紹介します。この時の訪問先はカザフスタンとウクライナでした。その時の旅のルートは成田(2011年7月7日)→ソウル→カザフスタン[アルマトイ→アクトベ→アルマトイ]クリックすると拡大します。ウクライナ[キ-ウ(キエフ)→ドニプロ→ニーコポリ→ドニプロ→キーウ(キエフ)]→ハンブルグ→成田(2011年7月14日)です。ウクライナのニーコポリは、ロシアの侵略戦争で占領された場所に非常に近いところです。
クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。
クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。
クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。
クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。クリックすると拡大します。

tarouさんのコメントで「映画でアームレスリングを見た記憶がある」とのことだったので、主演のマ・ドンソクさんが子供のころに憧れたシルヴェスター・スタローン主演の1987年公開の映画「オーバー・ザ・トップ」の動画を追加しました。

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清盛塚 第85回ハイク参加 [神戸]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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3つ前の記事「兵庫大佛(兵庫大仏) 能福寺 第85回ハイク参加」で紹介した兵庫大佛の次の目的地は上の写真の石造十三重塔の清盛塚でした。
この清盛塚は、平清盛が亡くなって105年後の弘安9年(1286年)に建立された平清盛(1118年2月17日~1181年3月27日)の供養塔だそうです。鎌倉幕府9代執権の北条貞時(1271年~1311年)によって建立されたと言われているそうです。在職期間(1284年~1301年)から見て、執権となって2年目(14歳or15歳)に建立したことになります。鎌倉から遠く離れた場所ですが、平家に対するあつかい見かねたのかもしれません。

2つの航空写真の青色ライン(━━)が今回の第85回ハイクの散策ルートです。
右側の航空写真が第85回ハイクの全ルート()で、クリックすると拡大左側の航空写真が本記事のの航空写真です。本記事ではの兵庫大佛を出発してからの清盛塚までを紹介したいと思います。右の写真は清盛塚の横に建てられている平清盛像です。
  中央市場前駅(10:50集合)
クリックすると拡大  兵庫大佛
  清盛塚(昼食)
  兵庫津ミュージアム
  初代県庁館
  淡路屋(駄菓子)
  和田岬駅(15:16)


こちらが兵庫大佛があった能福寺を出発したところの写真です。写真の左隅の黄色のラインで囲ったところが能福寺の出入口です。
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クリックすると拡大道の街路樹が純和風に手入れされている珍しい道でした。兵庫大佛(能福寺)もこの通り沿いだったので和風街路樹でした。この通りは平清盛に縁(清盛塚と墓所)があるので特別な通りのかもしれません。平清盛はこれから向かう先にあり、右の写真の墓所は能福寺の中にありました。
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反対車線側の街路樹も同じでした。街路樹の種類はイヌマキです。神戸市兵庫区三河口町~御崎本町にかけて続く古湊線に植えられて玉造仕立ての樹形だそうです。イヌマキの分類を紹介します。クリックすると拡大
 界 植物界     Plantae
   裸子植物    gymnosperms
 綱 マツ綱     Coniferopsida
 目 ナンヨウスギ目 Araucariales
 科 マキ科     Podocarpaceae
 属 マキ属     Podocarpus
 種 イヌマキ(犬槇) Podocarpus macrophyllus
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車道(横断歩道)からのこのアングルの写真を撮っていなかったので、ストリートビュー(SV)で和風の街路樹を紹介させていただきました。


兵庫大佛(能福寺)の入口の近くでは写真を撮っていたので写真で紹介します。
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兵庫大佛があった能福寺から清盛塚がある兵庫住吉神社の前までの歩いている風景を紹介します。





左側が兵庫住吉神社です。少し先に入口があります。
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こちらが冒頭の写真の清盛塚の入口です。
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中に入って入口の方を振り返ったところです。入口の石の門柱には昭和四年十二月建立と書かれています。その下には寄進された思われる三人の名前が書かれています。その左側にある大きな石碑は神戸市役所が大正十二年十月に建てた、清盛塚十三重塔の移設に関する説明碑でした。
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さらに清盛塚のある高さのところまで上がったところです。
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これが石造十三重塔の清盛塚を正面から撮った写真です。冒頭の清盛塚の写真は、この写真から切り取りました。
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清盛塚の横には詳しい説明板がありました。クリックすると読める大きさに拡大します。内容を枠内に転記する形で紹介します。今から737年前の1286年に清盛塚として造立された高さ8.5mの石造十三重の塔だそうです。
県指定文化財 清盛塚石造十三重塔
   指定年月日    昭和35年5月12日
   所有者・管理者  神戸市
 この石塔は古くから清盛塚と呼ばれ、北条貞時の建立とも伝えられててます。当初は現在地より南西11mにあり、平清盛の墳墓とも言われていましたが、大正時代の道路拡張に伴う移設の際の調査で、墳墓でないことが確認され、現在地に移設されました。
 石塔は、高さが8.5m、初層は一辺145cm、最上層は一辺88cmを測り、基礎部台石東面の両脇に「弘安九」「二月日」の銘があり、弘安九年(1286年)に造立されたことがわかります。
 石塔の隣には、神戸出身の彫刻家である柳原義達の作になる平清盛像が建てられています。今なお清盛塚は、地域の人々によって敬われ、大切に守られています。
  平成23年12月
神戸市教育委員会 岡方協議会
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拡大した清盛塚石造十三重塔を紹介します。上の説明板にあるように高さは8.5mで見上げると高かったです。琵琶塚が写っています。クリックすると面積で16倍に拡大いたします。
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クリックすると拡大平清盛の墓所と伝えられている場所で最初に出てくるのが、3つ前の記事で紹介した能福寺(右の写真の兵庫大佛のある寺)です。今回の清盛塚から490mの場所にある平清盛廟(平相国廟)です。クリックすると拡大下の写真の真中が、その平清盛廟(平相国廟)で、左の九重塔が忠快法印塔(鎌倉時代)で、右の小さな石塔が圓實法眼宝篋印塔(鎌倉時代)です。このことからも平清盛が兵庫のこの地と縁が深いことを実感しました。
「能福寺 平相国廟」以外で、平清盛の墓所とされているのは 「切戸 清盛塚 石造十三重塔(今回の記事の清盛塚)」、「六波羅蜜寺 平清盛塚」、「祇王寺 平清盛の供養塔」、「彦島の清盛塚」です。平清盛は平家が大敗した一ノ谷の戦い(1184年3月20日)の3年前に鴨川東岸にある盛国の屋敷で病死(1181年3月27日)しました。
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平清盛像と琵琶塚が見える角度です。
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平清盛像と琵琶塚を拡大しました。琵琶塚は平清盛の甥になる平経正の塚と言われているそうです。平経正は平家一門の中でも俊才として知られ、歌人として活躍したそうです。さらに平安貴族が愛用した楽器の琵琶の名手としても知られていたそうです。
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クリックすると拡大平清盛像の顔の部分です。清盛塚の横に建つ清盛像を作った柳原義達さんは1910年3月21日に兵庫県神戸市に生まれ東京美術学校彫刻科を卒業した彫刻家だそうです。この平清盛像は58歳の1968年10月に建立したそうです。
六波羅蜜寺の鎌倉時代・13世紀に造られた平清盛像の顔を比べるために美術展ナビから右に六波羅蜜寺の平清盛像の顔を転用させていただきました。
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琵琶塚の単独の写真も掲載いたします。碑の裏には「明治三十五年十一月建之 参議正三位備中権守平朝臣経盛卿嫡子但馬守平経正卿 寿永三年二月戦死」と書かれていることから、今から121年前の1902年(明治35年)に建立されことになります。清盛塚と同様に大正時代に傍の道路拡張工事に伴い今の場所に移設されたそうです。元あった場所は前方後円式の古墳で、その古墳が無くなってしまったことから、平経正の墓所は琵琶塚と言うことになるようです。Wikipediaでも平経正の墓所は「兵庫県神戸市兵庫区切戸町1-3 琵琶塚」と書かれています。平経正は源平合戦での一ノ谷の戦いにおいて、河越重房の手勢に討ち取られて寿永3年2月7日(1184年3月20日)に戦死しました。戦死場所は不明ですが生田の森を守っていたので、ここに比較的近い場所だと想像されます。
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こちらが清盛塚のある兵庫住吉神社の拝殿です。
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その拝殿の横で昼食を食べさせていただきました。日本酒とコニャックをみんなで飲みながら持ってきたお弁当を食べました。写真の左端に朱色が写っていますが、兵庫住吉神社の敷地内にある橋本稲荷大明神の柵です。
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クリックすると拡大昼食を食べて話が弾んだところで次の目的地の兵庫津ミュージアムに向かいました。そこには右の写真の初代兵庫県庁を復元した初代県庁館がありました。
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