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丹波篠山の御徒士町と武家屋敷 第80回ハイク [兵庫県]

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クリックすると拡大少し前の記事で紹介したデカンショ館の次は右の共通券の左上の武家屋敷(安間家住宅)を見に行きました。安間家住宅は下の航空写真で分るように篠山城の西側に南北に走る紫色ライン(━━)の御徒士町(おかちまち)通りにあります。江戸時代の篠山城の周囲には沢山の武家屋敷がありましたが、明治の廃藩置県によって、江戸詰めの家臣の多くは丹波篠山から引き払いましたが、安間家があった御徒士町の武士のほとんどは丹波篠山に留まったそうです。その後も御徒士町の人達は屋敷の手入れを怠らなかったことから、当時「御徒士町」と呼ばれた今の「御徒士町通り」には武家屋敷の面影を残す建物だ沢山残っています。

航空写真です。青紫マークのデカンショ館から紫色マークの安間家までを順番に紹介したいと思います。安間家の敷地の部分を赤枠で囲んでいます。御徒士町の武家屋敷の敷地の間口は平均で8間であったそうです。1間は6尺なので8間は14.545mになります。Google地図で安間家の間口を計ってみると21mなので平均より少し広い間口であったようです。1間が6尺と定義されたのは明治24年(1891年)で、織田信長の時代は6尺5寸で、豊臣秀吉の太閤検地で6尺3寸となり、江戸時代は6尺1分でした。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキング(2020年2月15日)での散策したルートです。


クリックすると拡大天保8年(1837年)に描かれ丹州篠山城郭之絵図から上の航空写真の部分を切り取りました。この絵図は明治2年に写された丹州篠山城郭之絵図です。紫色ライン(━━)が武家屋敷が並んでいる御徒士町通りです。赤枠の部分が安間家(あんまけ)の敷地です。クリックすると絵図全体を表示します。拡大すると安間の文字が読み取れます。クリックすると拡大安間の下に名前と思われる5文字が書かれていますが、そこまでは読み取れませんでした。拡大した全体図を見ると篠山城は沢山の武家屋敷で囲まれていたことも判ります。絵図を見ているとタイムスリップして、この時代を見てみたいと思ってしまいます。
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デカンショ館があった青山歴史村から武家屋敷の安間家住宅までを順番に紹介していきたいと思います。この写真は青山歴史村の入口となっている長屋門です。この長屋門は篠山藩藩士であった澤井家の門でした。
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青山歴史村から武家屋敷の方向である西方向に向かうと左側に篠山城の堀が見えます。石垣の上には大書院が見えます。ようこくんさんが篠山城の桜の記事を掲載されていました。篠山城に桜開花基準木があったのです。→ポチッ
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クリックすると拡大篠山城を撮った写真の中から桜開花基準木の表示板が写った写真を探して表示板の部分を拡大しました。写真をクリックすると周囲が写った写真を表示します。右の写真が下の写真を切り取ったオリジナルの写真です。
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篠山城の大書院の辺りを拡大いたしました。新型コロナの感染も小規模であった2月15日だったので観光バスも沢山駐車していました。
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案内標識が建てられていました。標識が建てられていたのは右下の絵図の橙色の丸印()のところです。篠山城跡や大手門跡方向から武家屋敷群や安間家資料館方向に歩きました。クリックすると拡大
上で紹介の丹州篠山城郭之絵図を見ると、武家屋敷長屋門と書かれている方向は現在の住所で西新町で、当時は郡代などの高五十石~高百五十石の武士が住んでいた西堀端で、その西堀端の通りの入口に左番小屋があり御徒士町の通りの入口には右番小屋(左番小屋とも読める)がありました。ちなみに大手馬出しの前あたりは大目付などの高百七十石~高二百石の武士が住んでいました。
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上で紹介した右番小屋(または左番小屋)があった場所に、御徒士町武家屋敷群(Okachimachi Samurai Residences)の大きな看板が建てられていました。ここから左に方向の道が御徒士町通りで、道の両側に武家屋敷や武家屋敷であった面影が残った今でも使われている住宅が沢山並んでいます。御徒士町通りは重要伝統的建造物群保存地区となっているようです。
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上の写真の看板の所を所を左に曲がって見える御徒士町通りの景観です。ここから武家屋敷の安間家住宅に到着するまでの間は御徒士町武家屋敷群を紹介したいと思います。
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萱葺の建物がいくつか見えます。江戸時代はこの道の両側は全て武家屋敷でした。その子孫の方々の住んでおられるのだと思います。
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古さが伝わってくる建物が並んでいました。
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御徒士町武家屋敷に関する説明板が立てられていました。慶長14年(1609年)に篠山城が徳川家康によって築かれて、その翌年から10年ほどかけて城下町の整備が行われたそうです。ちなみに江戸時代は417年前の1603年から1868年でした。武士と町人の住む場所は区分されて、城を取り囲むように武家町が配置されたそうです。武家町でも武士の身分によって住む場所が決められていたそうです。御徒士町は、戦時は徒歩で戦う徒士(かち)という身分の武士(下級武士)が住んだ武家町だあったそうです。平時は役人として藩に仕えたとのことです。2004年に御徒士町を含む篠山城下町の一部が国の重要伝統建造物郡保存地区に選定されて街並みの保存が行われているそうです。下級武士の徒士(かち)の人が住む町だから御徒士町(おかちまち)と名付けられたのでしょうか。下級武士と言えども屋敷を見る限り、庶民とは別格であったと思われます。馬上の資格がある武士が士官に相当し、徒士は下士官に相当します。徒士は士分に含まれ、士分格を持たない足軽とは峻別されていたそうです。徒士は藩や地域によっては小組(越後長岡藩)や歩行(飫肥藩)や御徒(柳河藩、江戸)とも呼ばれていて東京の御徒町(おかちまち)の地名の由来になっているそうです。調べ切れていませんが江戸(東京)以外の地方の城下町では御徒士町(おかちまち)が多く使われているように感じます。
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武家屋敷として残っている鈴木家の門です。
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上の写真の右上に写っている茅葺の屋根をです。
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天保元年(1830年)に大火があり御徒士町の大部分の武家屋敷も焼失したと伝えられています。復興に際して屋敷は道路より6尺後退させ、火徐地をつくって火災に備えたと言われています。今でも道路と土塀の間に犬走し(いぬばしり)の空き地があるのは、その時の火徐地に由来するそうです。犬走りは、垣と溝の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分で、犬が通れるくらいの幅しかない道という意味合いから呼ばれるようになったようです。
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古い建物も活用して今も使っている家もありました。手前が昔のままの屋敷で奥が新しい住居だと思いますが、昔の雰囲気を壊さないような配慮がうかがえるすばらしい住居です。
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立派な塀の屋敷も沢山ありました。
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武家屋敷が続いていました。
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門の前の説明板には「西07雄山家住宅主屋保存修理工事」と書かれています。
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ここに篠山城を中心とした城下町の地図がありました。ここから安間家の武家屋敷まで徒歩で2分と書かれていました。
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三社之宮跡の石碑が建てられた空間がありました。
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進んでいく方向の御徒士町通りの景色です。
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昔からの建物と住居ですが、武家屋敷通りの雰囲気を壊さない努力が伝わってきます。
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安間家武家屋敷(Anma-Family Samurai House)に到着到着しました。武家屋敷の建物は資料館(Samurai House Anma Historical Museum)にもなっています。ここからは武家屋敷の安間家住宅を紹介したいと思います。
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入口の門を正面から撮った写真です。
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敷地の内側から門を撮りました。井戸も印象的でした。
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屋敷の全景です。武家屋敷として多くみられる曲屋形式(L字型配置)の建物です。下級武士(徒士)の一家が住む標準的な武家屋敷です。
安間家の禄高は天保8年(1837年)時点で「高十ニ石三人扶持(ふち)」であったそうです。「高十ニ石三人扶持」が、どの程度の収入かは分かりませんが、あるネットでの記載では「三十石二人扶持」の年収が14両に相当すると書かれていたことから「高十ニ石三人扶持」の価値が想像されます。
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建物の間取り図を紹介します。上方向が北で書かれています。母屋は正面を東に向け、間口6間半(約13m)、奥行7間半( 約15m)あり、部屋割りは正面に向かって左に玄関、右奥に庭園に面した8畳の座敷を配置し、玄関奥には台所、座敷の奥には仏間、居間が続いています。建設当初の姿を今によく残していることから1994年に町指定文化財(:現市指定文化財)となり、半年かけて全面改修して公開したそうです。
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航空写真でも建物の形を紹介します。
安間家武家屋敷をGoogle地図でも紹介します。→GoogleのSV 拡大航空写真
現在の住所:兵庫県丹波篠山市西新町95


玄関から靴を脱いで「次の間」に上がって台所方向を撮った写真です。
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萱葺屋根の裏側です。
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「次の間」の隣りの「座敷」です。広さは8畳です。床の間には甲冑が飾られていました。
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訪れたのが2月15日だったためか雛人形が飾られていました。
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弓や槍や長刀も座敷に飾られていました。
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仏間で奥の部屋が居間です。
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仏間には漆器などが展示されていました。資料館になっているのです。
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仏間から見た庭の景色です。
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庭から見た縁側です。左側が仏間で奥に座敷があり、右側が台所です。
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天保8年(1837年)に描かれ丹州篠山城郭之絵図が飾られていました。もっと鮮明な写真を撮るチャンスでしたがその時は気が付きませんでした。鮮明な写真であれば安間家の所に書かれている文字も正確に分かったと思います。
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それでも何とか読みたくて90度回転して鮮明化を行ってみました。名前は「安間熊五郎重明」のように読み取れます。その横の文字は「???石三人扶持」と読み取れます。ネット内の説明資料には「高十ニ石三人扶持」と書かれているので「???」は「高十ニ」になるはずですが、文字の感じでは「高」ではなく「米」のように感じます。右隣の家には「米八石三人扶持」と書かれていることから「米?二石三人扶持」のように読み取れます。参考ですがクリックすると堀沿いの家も含めて表示しますが、その中では、郡代には「高百五十石」、表御用人には「高七十石三人扶持」、教導方の小林三郎次宋福には「十人扶持」の表現が使われています。教導方の小林家の場所には今でも古い茅葺の建物が建っています。→GoogleのSV 航空写真
禄高の「高」と「米」の違いは分かりませんが十二石相当の現金と三人扶持の玄米が支給されていたと読み取れます。一人扶持は1日にあたり玄米5合なので三人扶持は年間で一石七斗七升×3倍となります。安間家は禄高は十二石ですが、御徒士町の武家屋敷の禄高は絵図を見る限りでは四石~八石がほとんどなので、この辺りの下級武士の中では裕福だったのかもしれません。
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貴重な資料も展示されていました。上が鍵槍皆伝目録(かぎやり・かいでんもくろく)で、下が槍術皆伝目録(そうじゅつ・かいでんもくろく)です。
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こちらは松に折鶴亀甲蒔絵の四段重箱です。
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台所と書かれた部屋台所の間()には戸棚がありました。
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戸棚を拡大いたしました。
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別の角度から見た台所の間です。障子の向こう側が土間になっていて、竈(かまど)が見えます。
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こちらが土間で竈(かまど)などがあることから炊事場になっていたようです。
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こちらが竈(かまど)です。
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土間の所にはお土産用の丹波焼が並べられていました。比較的新しいものだと思いましたが、写真を見て売られていたお土産であることに気が付きました。じっくり見ればよかったと後悔しています。興味がある方は写真をクリックしてみてください。特別に大きく拡大いたします。
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右端の出入口が土間から庭に出る場所です。そこから庭に出てみました。石燈籠が置かれているところが水琴窟と呼ばれる仕掛けがあるところです。
建物自体は天保元年(1830年)の大火の後に建てられたそうなので、その前の建物は残念ながら大火によって焼失したと想像されます。
 1603年 江戸幕府の誕生
 1609年 篠山城の築城(徳川家康が大阪城の包囲網として築城)
 1610年 城下町の整備 ~1620年ごろまで
 1614年 大阪冬の陣
 1615年 大阪夏の陣
 1830年 篠山城下町で大火
      大火の後に安間家の現在の建物が建てられた
 1837年 丹州篠山城郭之絵図が描かれる(安間熊五郎重明 米十ニ石三人扶持)
 1868年 王政復古 江戸幕府終了
 1995年 安間家建物の全面的な改修(1994年10月~1995年3月)
 1995年 安間家建物が篠山市指定文化財に指定される(1995年5月20日)
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丹波・水琴窟と書かれています。水琴窟(すいきんくつ)は江戸時代に考案されたと言われている日本独特の庭園の仕掛けです。手水鉢の近くの地中に空洞を作り、そこにしたたり落ちる水の音色を楽しむものです。
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水琴窟の音を竹筒で聞いているところです。金属音がしました。
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ここの水琴窟の音を聞いていただきたくてネット内の動画を掲載いたしました。プレーボタン( )をクリックすると水琴窟の音が出る部分から開始するように設定いたしました。動画が終わると頭から表示し停止ボタンをクリックするまでは繰り返し永遠に表示し続けます。


武家屋敷を背景に10名全員で記念写真を撮りました。一番左が私です。
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庭には瓦葺の土蔵があり展示室になっていました。この土蔵も昔からのものだそうです。
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土蔵の中の展示室に飾ってあった丹波焼の大壺です。
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入口でもらった武家屋敷の説明書を掲載いたします。クリックすると面積で16倍に拡大いたします。クリックすると拡大
私の住んでいる千葉県佐倉市にも右の写真の武家屋敷があります。その中で建物の内部が公開されている武家屋敷が3つあるので見学したことがあります。その時の記事も書きました。右の写真をクリックするとその時の記事を表示いたします。
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裏側には沢山の説明が書かれていました。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するので、興味のある方はクリックしてみてください。
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癒しのぬいぐるみ [オーストラリア]

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新型コロナウイルスの拡大で一日中暗いニュースで溢れています。クリックすると拡大そこで、癒される思いを込めてコアラのぬいぐるみを身近な食卓の椅子に飾ることにいたしました。オーストラリアに行った時に買ってきたものですが、飾ることなく閉まっていたので新品状態です。お母さんコアラが2匹の子コアラを抱っことおんぶをしています。右のタグのように、もちろんオーストラリア製(AUSTRALIAN MADE)です。

抱っこされている子コアラです。
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こちらはおんぶされている子コアラです。こちらはお母さんコアラから離して単独のぬいぐるみとしても楽しむことができます。したがって単独でタグが付けられています。
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こちらのタグがお母さんコアラにも、おんぶされたコアラにもつけられています。今では珍しくなったMADE IN AUSTRALAが光っています。ALL NEW MATERIARS FILLED WITH POLYSTER FIBRES MACHINE WASHASLEと書かれていることからポリエステル繊維で作られていることが分かりました。
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家内に作ってもらった手作りマスクをつけて写真を撮りました。NHKからも取材を受けてニュースでもやっていた「堀越工房わたせい」さんの型紙で作りました。クリックすると拡大下記の着色文字をクリックすると型紙や作り方を表示します。型紙はA4サイズの紙にプリントすると原寸になります。
  女性用型紙 男性用型紙 子供用型紙 作り方
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市販のマスクをつけた写真も紹介します。上の私用の手作りマスクはこの市販のマスクよりは一回り大きくて周囲の隙間から吸い込む空気も少ない感じで安心感があります。いざというときは市販のマスクの上から手作りマスクをすることで、より感染リスクを少なくできます。1枚のマスクで感染を50%防げるとすれば25%(=50%×50%)になる計算です。出かける回数を10%にすればさらに感染確率は2.5%(=25%×10%)になります。さらに接触を減らし、距離を取り、屋内を避ける、などどの組み合わせによって感染確率を0%に近づけるようにしています。
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子コアラちゃんたちとお母さんコアラちゃん専用のマスクも作ってもらえたのでお披露目します。子コアラちゃん用は人間の子供用よりは小さなサイズなので、型紙を縮小して作ったそうです。右下の小さな写真に制作中のマスクと最近では貴重なマスク用ゴムひも(4m)が写っています。
名前を付けることにいたしました。我家のムサシ(わんこ)にちなんで母コアラにはムーちゃんと呼ぶことにいたしました。クリックすると拡大抱っこされているコアラはミーちゃんで、おんぶされているコアラはメイちゃんです。
 お母さんコアラ ムーちゃん
 抱っこ子コアラ ミーちゃん
 おんぶ子コアラ メイちゃん(メーちゃん)
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丹波篠山デカンショ館 第80回ハイク [兵庫県]

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クリックすると拡大入社時の神戸事業所の仲間との第80回ハイキングでは最初に篠山城を訪れました。その後は右の写真の共通券の残りの3ケ所を見ることにして、篠山城の次に向かったのは青山歴史村の中にある丹波篠山デカンショ館でした。篠山城の記事の中で紹介した二階町バス停から篠山城に向かう途中のお堀の傍に建っていたクリックすると拡大篠山藩地方役所門をくぐってデカンショ館に向かいました。篠山藩地方役所門は明治初期に置かれた篠山藩庁舎の遺構で、篠山城大手門から真っ直ぐ北に進んで篠山郵便局の手前にありましたが、丹波篠山デカンショ館周辺の整備を機会に現在の場所に移設したそうです。役所門が建っていた元の場所には右の写真の「伊能忠敬笹山計測の道」の碑が建てられていました。碑には篠山ではなく笹山の文字が使われています。

ネットで調べていると郵便局横の場所も元々の場所ではなく、下記写真のように昭和57~58年頃に南側(城方向)から解体せずにコロ引きで郵便局横の場所に移動している動画が掲載されていました。移動元の位置は判りませんが篠山藩庁舎の通用門であったとのことなので詳しく調べることが出来れは分かるのだと思います。5枚の写真を6秒ごとに表示していますが、4枚の写真には郵便局が写っているのが分かっていただけると思います。2枚は移動中の写真で1枚は郵便局の近くに設置され塀も新しく作られた写真で、1枚は門が撤去された後の写真で、1枚は現在の場所でのお披露目式の写真です。5枚の写真の内、2枚は動画から、1枚はGoogle地図のストリートビューから、2枚はネットから転用させていただきました。Google地図のストリートビューには上で紹介の「伊能忠敬笹山計測の道」の碑が写っています。
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篠山藩庁舎の場所を調べてみると、明治2年(1869年)には版籍奉還が行われ、 当時の藩主であった青山忠敏が改めて篠山藩知事に任命されて、明治3(1870年)に篠山藩庁舎は篠山城を出て大手馬出しの東に設けられたと丹波篠山市の資料の「2.2 社会環境 1)行政区の成り立ち」の部分に書かれていました。さらに別の資料には大手馬出しの東の地方役所を増改築し篠山藩庁舎が置かれ、その後、篠山県庁、豊岡県支庁、篠山区裁判所として明治 24 年まで使用したと詳しくかかれていました。現在の場所は昔は大手馬出の中に当たるので、もっと東にあったことが想像されます。現在の丹波篠山市役所の位置に篠山藩庁舎があったとの資料もあります。なお、本地図から判断して、今回の記事のデカンショ館は大手馬出し(北馬出し)の西端あたりに作られたことになります。下記の絵図は天保8年(1837年)に描かれ明治2年に写された丹州篠山城郭之絵図でクリックすると拡大図を表示します。丹州は丹波国の別称です。
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クリックすると拡大篠山藩地方役所門は切妻、本瓦葺、三間一戸、4本の親柱に2本の控え柱がある趣のある門でした。
本来は青山歴史村も見ることができるはずでしたが地方役所門に貼られている説明板(右に拡大)にあるように青山歴史村は改修工事のために、見ることは出来ないのでデカンショ館のみの見学となりました。青山歴史村の資料の一部はデカンショ館に移して展示されていると書かれています。
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青枠で囲ったところが青山歴史村です。紫色の枠の所がデカンショ館です。本来は青山歴史村の長屋門から入り、青山歴史村側からデカンショ館に入るのですが、我々は駐車場から直接にデカンショ館に入りました。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキングでの散策したルートです。


デカンショ館でもらった青山歴史村の資料に掲載されていた配置図です。この配置図を見ていると青山歴史村が見れなかったのが残念に思えてきました。
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こちらが駐車場側のデカンショ館の入口です。
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デカンショ館の説明資料です。3画面を8秒間隔で切り替えています。内容を読みたい方は画面をクリックすると1枚の大きな画面を表示するので読めると思います。
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こちらがシアター室です。
デカンショ節と言えば「デカンショデカンショで♪ 半年暮らす♪ あとの半年寝て暮らす♪」を思い出される方もおられると思います。全国的によく知られたフレーズですが、放映されているビデオによってデカンショ節が丹波篠山と大きな関りがあったことを知ることになりました。デカンショ館に入ると最初にシアター室でビデオを見ることをお薦めします。そうすることで展示されている資料を興味深く見ることができると思います。内容はデカンショ節の発祥と変遷です。
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バーチャルデカンショ踊りブースです。ここではAR(拡張現実)を活用してデカンショ踊りが再現されています。
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このコーナーには昔の写真やポスターが展示されていました。
デカンショ節は学生歌として広く歌われていることから、いろんな歌詞が創作されています。その中で最もポピュラーな歌詞を紹介します。
 デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ
  あとの半年寝て暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
 丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ
  花のお江戸で芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
 酒は飲め飲め茶釜でわかせ アヨイヨイ
  お神酒あがらぬ神はなし ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
 灘のお酒はどなたが造る アヨイヨイ
  おらが自慢の丹波杜氏 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
 雪がちらちら丹波の宿に アヨイヨイ
  猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
 丹波篠山鳳鳴の塾で アヨイヨイ
  文武きたえし美少年 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
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展示されていた昔の写真の写真を紹介します。
デカンショ節が全国に普及したの明治時代です。そのきっかけになったのが東京一高(現在の東京大学と千葉大学)の学生たちでした。明治になり廃藩置県により篠山藩も廃藩となりましたが、旧篠山藩青山家の奨励によって、郷土の秀才を年々東京に遊学され、多くの秀才を養成したことは有名な話ですが、遊学生たちは夏になると房州八幡の浜(現在の館山市)を銷夏地としてやってきていたそうです。明治31年(1898年)の夏にその江戸屋の2階で青山忠允他篠山町出身の若者達が蛮声を張り上げて郷土の盆踊りの唄を歌っているのを、ちょうど階下に居合わせた東京一高の水泳部員たちがこれを聞いて、気に入り篠山出身の若者たちに付添っていた亘理章三郎(後の東京高等師範学校の教授)らから唄の指導をうけ意気投合、そして彼らは東京に帰ってからも自由奔放に唄い多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、デカンショ節が全国に広まったと言われているそうです。そんなことからデカンショ節は学生歌として全国にひろまったようです。
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昔のデカンショ祭りの写真も展示されていました。デカンショの語源は諸説ありますが、篠山町七十五年史(1955年)では「デカルト・カント・ショーペンハーウェル」説を採用しているのに対して、篠山町百年史(1980年)では「はやし言葉にすぎず、特別の意味を持たない」と断言しているそうですが、みつ節の中に「デコンショ デコンショで半年暮らす あとの半年泣いて暮らす」のフレーズもあることから「出稼ぎしよう」も有力な語源だそうです。
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デカンショ祭りにはクイーン神戸も参加されていました。デカンショ節は明治大正時代に全国的に学生歌として広まりましたが、元は江戸時代から歌われていた篠山地域の盆踊りの民謡「みつ節」でした。
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デカンショ節の元となった三つ節(みつ節)の動画を紹介します。
前半は音声が無いのでプレーボタン( )をクリックすると音声が出る部分から開始するように設定いたしました。ただし動画が終わると頭から表示し停止ボタンをクリックするまでは繰り返し永遠に表示し続けます。
1979年に丹波篠山市後川新田原で撮影された「みつ節」の歌や踊りの映像で、唄っているのは小島健次郎さんです。


昔の写真をもう一枚紹介いたします。
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デカンショ祭の動画も紹介します。掲載しているのは2018年の第66回デカンショ祭です。毎年8月15日と16日の2日間行われていますが、第67回は台風10号の被害で8月16日の1日間だけの開催となったそうです。2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で第68回の開催は厳しいのかもしれません。第58回から67回の映像を紹介します。→第67回 第66回 第65回 第64回 第63回 第62回 第61回 第60回 第59回 第58回


丹波篠山の郷土品も置かれていました。
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外に出て次の武家屋敷方向に歩いていると、2017年4月25日にお披露目となったデカンショ節の踊り子人形がありました。白い繊維強化プラスチック製で、高さは165cmだそうです。青山歴史村の入口辺りです。
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見事な長屋門がありました。
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その長屋門が青山歴史村の入口でしたが、すでに紹介の通り整備中のために中に入ることは出来ませんでした。
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せっかくなので頂いた青山歴史村の説明資料を掲載します。クリックすると読める大きさに拡大いたします。
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こちらが説明し利用の裏側です。
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JR篠山口駅とデカンショ館や篠山城との位置関係が判る地図を掲載いたします。篠山口駅から二階町バス停までの距離は約5.9kmです。
オリジナル地図はこちらです。→Google地図
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秦皇島は万里の長城の東の基点 [長城]

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2020年3月30日追記 タイトル:入海石城の写真を追加しました。
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上の写真は中国河北省の秦皇島(しんこうとう)市にある万里の長城の関所にあたる山海関(山海关)と呼ばれている城砦都市の東の城門です。
この城門はGoogle地図上で東羅城あるいは東羅城門と記載されていました。住所は秦皇岛市秦皇岛市山海关区“天下第一关外”と書かれています。
アクセス解析を確認している時に10年以上前の本記事(2009年11月8日掲載)が検索されているのに気がつきました。最近はシステムが変わって検索ワードはほとんどクリックすると拡大表示されなくなったのですが、昨日(2020年3月29日)は古いバージョンのOSを使っている方と思われる検索ワードが右のように表示されました。そこでアクセスされている記事を下の画面で確認してみると255人の方が合計277回ほど「秦皇島は万里の長城の東の基点」という記事にアクセス(ページビュー)していたことが分かったので本記事を再掲載いたしました。きっとテレビで万里の長城の起点に関しての番組の放送があったのではないかと感じました。入海石城の写真も追加いたしました。検索ワードは「万里の長城 起点」と思われます。試しにGoogleやYahooで検索してみてください。もう一つ検索ワードは「ガスコンロ 交換 ブログ」と思われます。→ポチッ
記事初掲載 2009/11/08 閲覧   0 /nice  0 /コメント 0
記事再掲載 2020/03/30 閲覧 2,822 /nice 145 /コメント 28
2020/04/01 閲覧 3,278 /nice 208 /コメント 54
2020/04/05 閲覧 3,545 /nice 237 /コメント 54

こちらが2020年3月29日の24時間のアクセスの状況です。この時点のトップ記事の「新型コロナウイルス感染者の推移」のアクセスが134と多いのは当然ですが、10年前の過去記事がそれを越えて277件なのは驚きです。検索エンジンによる自動情報収集で検索数が多くなることはありますが、その時は訪問者数は少ないままなのです。アクセス数(ページビュー)に訪問者数が近いのは人が実際に検索してアクセスしていることなので、それだけ検索が3月29日にあったことになります。時間帯で見ると8時~17時のアクセスが130件/h(=1168件÷9h)に対して18時~21時のアクセスが235件/h(=704件÷3h)と1.8倍になっていることから2020年3月29日の17時~19時の間のTV放送が関係した可能性が高いと思われます。
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今までに掲載した万里の長城の記事を紹介します。着色文字のタイトルをクリックすると記事を表示します。右の私の写真はフィルム時代に初めて長城に行った時(1995年4月17日)の写真です。他は全てデジカメ時代の写真です。
クリックすると拡大 万里の長城は大渋滞
 断崖の上の長城 司馬台
 これぞ万里の長城
 南六楼では皆が友達
 万里の長城の雨樋
 入海石城
 秦皇島は万里の長城の東の基点
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
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2009年11月8日掲載 タイトル:秦皇島は万里の長城の東の基点
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クリックすると拡大この写真は万里の長城の東の基点(起点)が2009年11月3日に訪問した秦皇島の山海関(山海关)で最も大きな門の上に建っている建物(楼閣)です。その山海関(さんかいかん)は河北省遼寧省の省境に位置するクリックすると拡大万里の長城の東端にある要塞で、明代は北方民族である女真の侵入に対する防衛の要とされたそうです。大きな門に掲げてある「天下第一関」と称されていますが、クリックすると拡大これは山海関が、東から数えて最初の関所であったことを示しているそうです。ここから海の方に徒歩で6.8km行ったところで万里の長城は右の写真のように海に落ち込んでいます。そこは入海石城と呼ばれています。右の写真をクリックすると入海石城の記事を表示します。

門の強固さを感じていただくために再掲載を機会に写真を追加いたしました。これが東羅城あるいは東羅城門です。羅城門(らじょうもん)は、都市を取り囲む城壁である羅城(らじょう)の門の意味です。
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東羅城門のトンネルです。長さで城壁の厚みが分かっていただけると思います。こちらも追加した写真です。
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壁が大きいのでなかなか地上から全景がとれませんでした。こちらが地上から撮った写真の中でもっとも長城を実感できる写真だと思います。
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天下第一関の扁額が掲げられた建物(楼閣)がある城門の上に登っていく坂道から撮った景色です。要塞と呼ばれるだけのことはあって城壁は高く頑丈そうでした。城壁の上に建っている建物は牧菅楼です。山海関は明代の1381年将軍徐達が築いたとされ、北に燕山山脈を望み、東に渤海湾を望むところから山海関と名付けられたそうです。長城は、海に突き出している老龍頭から山海関を通り、燕山山脈の支脈角山へと続いています。大部分は1987年以降に修復されたものです。八達嶺長城の記事で紹介した、同じ形の雨樋がありました。
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城門の上に登る坂道です。城門の上の楼閣が見えていもす。この楼閣に天下第一関の扁額が掲げられいます。
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クリックすると拡大城壁の上に登って撮った景色です。遠くに見えている城壁の上の建物が上だも記載した牧菅楼です。城門の上は広くて右のような角度からの写真も撮れました。
万里の長城は、今まで国家文物局の発表(2009年4月18日)により東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8,851.8kmとされていたが、2012年6月5日に総延長は21,196.18kmと修正発表されたそうです。現存する人工壁の延長は6,259.6kmだそうです。
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こちらの写真も城壁の上を撮ったものですが、城壁の広さには驚かされました。いざと言う時は沢山の兵隊が守ったのでしょうね。
漢代は臨楡関と称され、明代に山海衛が設置された後に山海関と称されるようになったそうです。明末はヌルハチ、ホンタイジによる満洲族の侵入を阻止し、守将であった呉三桂が清朝に帰順するまで不落の要塞でした。再掲載を機会にクリックすると拡大するように設定いたしました。


城壁に作られたトンネルを見てもすごい要塞であったことがわかります。満州事変の舞台となった場所でもありました。その時に、初めて近代兵器によって陥落したとのことなので、単なる遺跡ではなく近年まで要塞として活躍した場所でもあったいうことになります。こちらの写真も拡大するようにいたしました。


この山海関は長城と城砦都市を囲む形でつくられていることが地図で表されています。城壁は、周囲は4.3km、高さ14m、厚さは7mあり、4つの城門とその上に楼閣が設けられた。「天下第一関」の額が掛けられている東の城門だけが現存していました。
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城砦都市の中心に鐘鼓楼がありました。
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山海関の航空写真を拝借いたしました。中央が上の写真の鐘鼓楼です。この写真を見ても山海関は要塞都市であったことがわかります。ここは皆さんが生活している場所でもありますが、2008年頃から街並みが復元され始めてたそうで観光にも力が入っている感じでした。これからは観光都市になっていくのでしょうね。