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秦皇島は万里の長城の東の基点 [長城]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2020年3月30日追記 タイトル:入海石城の写真を追加しました。
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上の写真は中国河北省の秦皇島(しんこうとう)市にある万里の長城の関所にあたる山海関(山海关)と呼ばれている城砦都市の東の城門です。
この城門はGoogle地図上で東羅城あるいは東羅城門と記載されていました。住所は秦皇岛市秦皇岛市山海关区“天下第一关外”と書かれています。
アクセス解析を確認している時に10年以上前の本記事(2009年11月8日掲載)が検索されているのに気がつきました。最近はシステムが変わって検索ワードはほとんどクリックすると拡大表示されなくなったのですが、昨日(2020年3月29日)は古いバージョンのOSを使っている方と思われる検索ワードが右のように表示されました。そこでアクセスされている記事を下の画面で確認してみると255人の方が合計277回ほど「秦皇島は万里の長城の東の基点」という記事にアクセス(ページビュー)していたことが分かったので本記事を再掲載いたしました。きっとテレビで万里の長城の起点に関しての番組の放送があったのではないかと感じました。入海石城の写真も追加いたしました。検索ワードは「万里の長城 起点」と思われます。試しにGoogleやYahooで検索してみてください。もう一つ検索ワードは「ガスコンロ 交換 ブログ」と思われます。→ポチッ
記事初掲載 2009/11/08 閲覧   0 /nice  0 /コメント 0
記事再掲載 2020/03/30 閲覧 2,822 /nice 145 /コメント 28
2020/04/01 閲覧 3,278 /nice 208 /コメント 54
2020/04/05 閲覧 3,545 /nice 237 /コメント 54

こちらが2020年3月29日の24時間のアクセスの状況です。この時点のトップ記事の「新型コロナウイルス感染者の推移」のアクセスが134と多いのは当然ですが、10年前の過去記事がそれを越えて277件なのは驚きです。検索エンジンによる自動情報収集で検索数が多くなることはありますが、その時は訪問者数は少ないままなのです。アクセス数(ページビュー)に訪問者数が近いのは人が実際に検索してアクセスしていることなので、それだけ検索が3月29日にあったことになります。時間帯で見ると8時~17時のアクセスが130件/h(=1168件÷9h)に対して18時~21時のアクセスが235件/h(=704件÷3h)と1.8倍になっていることから2020年3月29日の17時~19時の間のTV放送が関係した可能性が高いと思われます。
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今までに掲載した万里の長城の記事を紹介します。着色文字のタイトルをクリックすると記事を表示します。右の私の写真はフィルム時代に初めて長城に行った時(1995年4月17日)の写真です。他は全てデジカメ時代の写真です。
クリックすると拡大 万里の長城は大渋滞
 断崖の上の長城 司馬台
 これぞ万里の長城
 南六楼では皆が友達
 万里の長城の雨樋
 入海石城
 秦皇島は万里の長城の東の基点
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2009年11月8日掲載 タイトル:秦皇島は万里の長城の東の基点
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クリックすると拡大この写真は万里の長城の東の基点(起点)が2009年11月3日に訪問した秦皇島の山海関(山海关)で最も大きな門の上に建っている建物(楼閣)です。その山海関(さんかいかん)は河北省遼寧省の省境に位置するクリックすると拡大万里の長城の東端にある要塞で、明代は北方民族である女真の侵入に対する防衛の要とされたそうです。大きな門に掲げてある「天下第一関」と称されていますが、クリックすると拡大これは山海関が、東から数えて最初の関所であったことを示しているそうです。ここから海の方に徒歩で6.8km行ったところで万里の長城は右の写真のように海に落ち込んでいます。そこは入海石城と呼ばれています。右の写真をクリックすると入海石城の記事を表示します。

門の強固さを感じていただくために再掲載を機会に写真を追加いたしました。これが東羅城あるいは東羅城門です。羅城門(らじょうもん)は、都市を取り囲む城壁である羅城(らじょう)の門の意味です。
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東羅城門のトンネルです。長さで城壁の厚みが分かっていただけると思います。こちらも追加した写真です。
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壁が大きいのでなかなか地上から全景がとれませんでした。こちらが地上から撮った写真の中でもっとも長城を実感できる写真だと思います。
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天下第一関の扁額が掲げられた建物(楼閣)がある城門の上に登っていく坂道から撮った景色です。要塞と呼ばれるだけのことはあって城壁は高く頑丈そうでした。城壁の上に建っている建物は牧菅楼です。山海関は明代の1381年将軍徐達が築いたとされ、北に燕山山脈を望み、東に渤海湾を望むところから山海関と名付けられたそうです。長城は、海に突き出している老龍頭から山海関を通り、燕山山脈の支脈角山へと続いています。大部分は1987年以降に修復されたものです。八達嶺長城の記事で紹介した、同じ形の雨樋がありました。
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城門の上に登る坂道です。城門の上の楼閣が見えていもす。この楼閣に天下第一関の扁額が掲げられいます。
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クリックすると拡大城壁の上に登って撮った景色です。遠くに見えている城壁の上の建物が上だも記載した牧菅楼です。城門の上は広くて右のような角度からの写真も撮れました。
万里の長城は、今まで国家文物局の発表(2009年4月18日)により東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8,851.8kmとされていたが、2012年6月5日に総延長は21,196.18kmと修正発表されたそうです。現存する人工壁の延長は6,259.6kmだそうです。
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こちらの写真も城壁の上を撮ったものですが、城壁の広さには驚かされました。いざと言う時は沢山の兵隊が守ったのでしょうね。
漢代は臨楡関と称され、明代に山海衛が設置された後に山海関と称されるようになったそうです。明末はヌルハチ、ホンタイジによる満洲族の侵入を阻止し、守将であった呉三桂が清朝に帰順するまで不落の要塞でした。再掲載を機会にクリックすると拡大するように設定いたしました。


城壁に作られたトンネルを見てもすごい要塞であったことがわかります。満州事変の舞台となった場所でもありました。その時に、初めて近代兵器によって陥落したとのことなので、単なる遺跡ではなく近年まで要塞として活躍した場所でもあったいうことになります。こちらの写真も拡大するようにいたしました。


この山海関は長城と城砦都市を囲む形でつくられていることが地図で表されています。城壁は、周囲は4.3km、高さ14m、厚さは7mあり、4つの城門とその上に楼閣が設けられた。「天下第一関」の額が掛けられている東の城門だけが現存していました。
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城砦都市の中心に鐘鼓楼がありました。
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山海関の航空写真を拝借いたしました。中央が上の写真の鐘鼓楼です。この写真を見ても山海関は要塞都市であったことがわかります。ここは皆さんが生活している場所でもありますが、2008年頃から街並みが復元され始めてたそうで観光にも力が入っている感じでした。これからは観光都市になっていくのでしょうね。