入社当時の懐かしい仲間との神戸の飲み会 燦(SUN) [神戸]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
現在は関東に住んでいますが、私が会社に入社して新入社員として配属となったのが神戸の事業所でした。その後、東京に転勤になりましたが、神戸勤務時代(入社時)の職場の人達との飲み会(Ⓐ)が年に1回ほど10月に神戸の会社の施設で行っていて、昨年(2018年)の10月に参加した時に別の飲み会(Ⓑ)が年に2回、7月と12月に行われていることを知って、昨年の12月26月に参加させていただきました。その時の写真が右の小さな写真です。その時に年に数回ほどハイキング(Ⓒ)を行うことを聞いて、私が関西に行ったときにタイミングが合えば、そのハイキングに参加させていただくことになり、初めて2019年4月20日に参加させていただきました。と言うことで現在は入社時の神戸の人達との3種類のイベント(Ⓐ,Ⓑ,Ⓒ)に参加させていただいています。今回は7月と12月に行われる飲み会(Ⓑ)に参加させていただいたわけです。飲み会は2019年7月16日に三宮でありました。上の写真は飲み会の部屋から見えた六甲山の山肌に作られイルミネーションです。
下の写真が実家の最寄駅の阪急・逆瀬川駅です。橋の下を流れているのが逆瀬川です。この時、17時4分でした。
右の写真はⒶの飲み会の写真で、ほとんどが大先輩です。
神戸勤務時代(入社時)の人達とのイベント
Ⓐ 10月に会社施設で行われる飲み会 (長く参加している)
Ⓑ 7月と12月に行われている飲み会 (初参加:2018年12月26日)
Ⓒ 年に8回行われるハイキング (初参加:2019年04月20日)
2019年7月16日17時4分の逆瀬川です。橋の上から南西方向つまり上流方向を撮っています。遠くに見えている山は六甲山のすそ野です。逆瀬川は六甲山地東端部の小笠峠を源とし東および北東に流れて武庫川に注いでいます。
逆瀬川駅17時10分発の電車に乗って神戸三宮駅に17時37分に着きました。飲み会は18時からでした。逆瀬川駅は1921年9月2日に開業し、阪急の神戸三宮駅が開業したのは1936年4月1日でした。開業当初は神戸駅と命名されましたが、その後1968年4月7日に三宮駅へ改称され、さらに2013年12月21日に神戸三宮駅に改称されました。つまり私が小学校4年の時に広島から阪急・岡本駅の近くに引越して来た時は三宮駅でした。記事に記載のために調べて、神戸三宮駅(当初は神戸駅)より逆瀬川駅の方が古いことを今回初めて知りました。
レストランの場所をGoogle地図で紹介します。お店の場所は駅から歩いて1分の右下の写真の神戸交通センタービルの10階にある燦(SUN)という名のレストランでした。地図内のごん太・東店は2次会で行った居酒屋です。1965年10月に建てられた初代の神戸交通センタービルは1995年1月17日の阪神・淡路大震災で5階部分が右の写真のように座屈破壊したことから、1996年6月から復旧工事が行われました。3階より上を一旦取り壊して2階の上に8層を積み上げる工法を取って1997年7月に2代目の神戸交通センタービルが完成いたしました。
店名 燦(SUN)
住所 兵庫県神戸市中央区三宮町1-10-1
建物 神戸交通センタービル10F
電話 078-331-1233
定休 なし(年末年始除く)
営業 11:00~15:00 17:00~23:00(日・祝日:22:30)
最寄 JR・三ノ宮駅 阪急・神戸三宮駅 エレベーターまで徒歩1分
神戸交通センタービルの航空写真とフロアマップです。
阪急・神戸三宮駅は神戸交通センタービルとJR三ノ宮駅に2階部分でつながっていることから簡単に行けると思ったのですが、10階に上がるエレベーターが簡単に見つかりませんでした。迷路のような細い通路を進んでいってやっと見つけることが出しました。もちろんエレベーターの場所を示す表示はあるのですが、それでも簡単に見つからなかったのです。右の写真は神戸交通センタービルの1階に設置されている案内板の中のマップです。多くの人が通る通路から離れた場所にエレベーターがありました。★は我々が食事をした位置です。
阪急の神戸三宮駅を降りて、この写真の正面から歩いてきてエレベーター(EV)マークの方に曲がり少し進んで、最初の曲がり角を左に曲がって、突き当りを右に曲がると10階に上がるEVがあるのですが、初めての人だと行き着くのが難しい理由があるのです。駅から来てEV方向の表示の所に入って最初の曲がり角の所にEV方向の表示がない上に、目の前に業務用のEVがあるために、最初の表示は業務用のEVを示したものだと思ってしまうと、そこで行き先を見失って戻ってしまうのです。でもなんとか正規のEVを見つけることが出来ました。この下の写真はGoogle地図のストリートビューです。この写真の場所から駅とは反対(南方向)に行けば歩道橋(ペデストリアンデッキ)を通って神戸マルイに行けます。
こちらがエレベーターです。9階と10階がレストラン街のグルメプロムナードになっていて5つのレストランがありました。
9階 ステーキハウス ZEN
9階 日本料理 松迺家
9階 地産地食 ダイニング うたげ 農家
10階 炭火焼鳥 鶏料理 IPPO
10階 レストラン&BAR 燦 SUN
2階で少し迷いましたが17時45分に10階に着きました。左のお店がIPPOで右のお店が燦(SUN)です。お店の前の大きなホールも雰囲気を感じさせてくれました。
こちらが燦(SUN)の入口です。雰囲気のあるレストランでした。エレベーターの場所が分かりにくいのは短所であり長所でした。長所とは隠れ家的な雰囲気を出していることでした。
オープンキッチンタイプのレストランでした。想像していた以上に広くて雰囲気がありました。カウンターは間隔をあけて2人席が作られていました。食べログから転用させていただいた右のフロアマップによれば下のようにいろんなタイプの席があります。マップ内の★マークが我々が食事をした「山側の夜景が一望できる一番人気」の掘り炬燵の完全個室です。つまりマップの下方向が山側(北方向)で、上方向が南側です。
4名 x 13テープ(フロアー貸切可能)
4~8名 x 7半個室(18名個室化可能)
6~36名 x 4完全個室(掘り炬燵)
2名 x 8ペアカウンター
Bar 4名 x 6テーブル+ 6席
我々の飲み会は掘りごたつタイプの個室でした。下の写真が私の前のセッティングでした。右の写真は食べログから転用させていただいた部屋を奥から撮った写真です。この部屋は「最大16名様まで収容可能な山側の夜景が一望できる一番人気の完全個室!」と書かれていました。
コース料理の"おしながき"です。書いたお品書きがあると助かります。説明の場合は食べる時には分かっていますが、家に帰ってしまうと正確に思い出いのは難しいのです。特にお酒を沢山飲むときは後半の料理は覚えていないこともあるのです。
最初に出てきたのが「前菜四種盛り合わせ」です。今は鱧(はも)の季節で、こちらでもいただきました。偶然ですが前記事のタイトルが鱧の蒲焼と鱧鍋だったのです。右下の写真はお店の方に撮ってもらった記念写真です。今回の参加者は13名でした。私は右側の手前から3人目です。黒のスポーツシャツを着ています。この時期、関東は寒かったけれでも関西は暑かったので上着は着て行きませんでした。
左手前 生姜と木耳の薩摩揚げ
右手前 鱧の押し寿司
左奥 南瓜の胡麻クリーム掛け
右奥 冬瓜のそぼろ餡掛け
自分の皿に乗せた「生姜と木耳の薩摩揚げ」と「鱧の押し寿司」です。
自分の前に置いた「冬瓜のそぼろ餡掛け」と「南瓜の胡麻クリーム掛け」の写真も紹介します。
もちろんビールで乾杯いたしました。
こちらが「寄せ豆腐」です。京都の向日市の鹿島屋豆腐店の豆腐だそうです。
寄せ豆腐はダシ醤油と塩でいただきました。新鮮な大豆の味と香りが感じられるので私はほとんどを塩でいただきました。
次が「水蛸のタタキ」でした。
上の写真はクリックすると拡大いたしますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。
こちらの揚げ物は「アスパラとベーコンのクリームコロッケ」でした。
普段であれば必ず断面の写真を撮っているのですが、話が盛り上がったようで撮り忘れてしまいました。
記事を書いていて懐かしくなったので神戸時代に私が全体の設計を担当したプラントの写真を4枚掲載いたしました。
上段の2枚が入社2年目で初めて全体を設計担当して、関東に納めたプラントの写真です。このプラントを設計した時に指導してくださった先輩も飲み会に参加されていました。右の写真は、そのプラントで使われるバーナー(燃焼器)の前で撮った記念写真です。このプラントを担当するまでは、製品開発のための実験をしたり、プラントの一部を設計していました。そのプラントの一部を設計をさせていただいた岡山県の水島地区の案件をまとめておられた先輩も飲み会に参加されていました。
下段は入社して2つ目の全体を設計担当したプラントの写真です。左側は製作した神戸事業所から出荷するときの主反応器で、この中にハニカムタイプのプラチナの触媒が2段と熱交換器が納まっています。右の写真はプラント全体の写真で鉄骨の中に左の主反応器が設置されています。こちらは世界初のシステムで4年目に担当したと思います。このプラントは関西に納められました。こんな話をしながら盛り上がったのです。
sigさんから「重機類を扱う人たちを見て、これぞ男の世界、と感動しました。」とコメントを頂いたので、重機が写ったインドの建設現場の写真を紹介します。写っている大きなクレーンは、当時のインドで最大のクレーンで、最重量物の組み立に使われた数日のリース代が数千万円でした。右の小さな写真の中で私の後ろに写っている組みあがった塊の重さは2400トンです。その後ろにさらに2基が並んでいるので計7200トンになります。
いつもであれば最後までビールのことが多いのです。美味しい料理に懐かしい話で盛り上がったのでね途中から日本酒(冷酒)になりました。
やっぱり冷酒は美味しいです。沢山飲んでしまいました。
奥側が「姫とうもろこし鶏つくねの照り焼き」で手前が「青唐味噌漬け豚と夏野菜の鉄板焼き」です。
こちらが「姫とうもろこし鶏つくねの照り焼き」の拡大写真です。
そして、こちらが「青唐味噌漬け豚と夏野菜の鉄板焼き」でする
我々の部屋から見える六甲山の写真です。飲み会が始まって約1時間20分後の19時19分の景色です。ビルの左側に「KOBE」の文字のイルミネーションがあります。このようなイルミネーションが3ケ所にありました。
北側に窓があり、その前が開けたレストランは三宮では少ないと思います。そんな意味でも貴重な場所でした。
上段は北北西に見えた「KOBE」の文字のイルミネーションです。この「KOBE」のイルミネーションは時間と共に形を変わりました。19時19分にはKOBEの文字だけでしたが、19時37分に撮った時は正面から見た帆掛舟(or 帆船)でした。さらに20時42分には横向きの帆掛舟(or 帆船)になっていました。下段は北西方向の2つのイルミネーションです。錨(いかり)と神戸市の市章です。19時19分の時点では錨(いかり)は、薄っすらとしていましたが、19時37分にははっきりと見えるようになりました。
19時19分 19時19分 / 19時37分 / 20時42分
19時19分 19時37分
3つのイルミネーションの場所と、レストランからの方向をGoogle地図にプロットしてみました。錨(いかり)のイルミネーションが設置されている場所は錨山(いかりやま)と呼ばれています。その部分を拡大して見ると太陽光パネルが設置されているのが確認できます。→拡大
市章のイルミネーションが設置されている場所も市章山(ししょうざん)と呼ばれていることがGoogle地図から分かりました。市章のイルネネーションの起源は1907年に神戸港起工式を記念して市章の形に植樹したのが始まりで、市章形に初点灯したのは1933年だそうです。イカリ形のイルミネーションの起源は、明治天皇が親閲された1903年の神戸港での観艦式で、この山の南麓に錨形に人が並んで日の丸を振ったのが始まりだそうです。この場所に19007年にイカリ形に松を植樹したそうです。イルミネーションが行われたのは1981年で太陽光発電だけでなく風力発電の電力も使われているそうです。
3つのイルミネーション(電飾)の位置関係が判る写真を、撮った写真から探してみました。帆掛舟の電飾に関して調べてみると、帆掛舟は北前船でした。2種類の北前船とKOBEを20分間隔で切り替えているそうです。場所の名前は堂徳山(どうとくやま)だそうです。この電飾は1989年(平成元年)に市制100周年を記念して開催されたフェスピック神戸大会を機に点灯されたそうです。
最後の料理の「冷し御しうどん」です。終りに近い時間帯になると麺類は特に美味しく感じます。
コースには入っていませんでしたが、関西では珍しい新潟名物の「へぎそば」もありました。単独で注文すると1枚(片木)が1900円でした。
こちらが今回のデザート(甘味)です。
デザートが出てきましたが、話はまったく終わる感じではありませんでした。
幹事の方が右の写真のように追加料理を検討されていました。
こちらが追加料理の「行者菜と真蛸の塩焼きそば」です。幹事の方のご配慮により、美味しくいただきました。
沢山食べた後ですが大人気でした。この時、19時58分でしたが、宴会が終わったのは1時間後の20時55分頃でした。約3時間の宴会となりました。
やっぱり二次会に行ってしまいます。懐かしいJRのガード下の居酒屋にいくことにしました。入ったお店は看板が見えている「ごん太」です。50mほどの距離のところに本店もあるのですが、この写真から判断すると東店に入ったと思われます。
これがメニューです。クリックするとある程度読める大きさに拡大いたします。以前に紹介したカリチー(カリカリチーズ)もありました。
刺身3種盛り(680円)を頼みました。
もちろんビールを頼みました。
焼鳥盛り合わせ(8本 800円)です。
スルメの天ぷら(450円)と手羽先唐揚げ(380円)
お店の雰囲気を感じていただきたいので、ほかしを入れて掲載させていただきました。お店を出たのは22時5分頃でした。
店名 ごん太 東店
住所 兵庫県神戸市中央区北長狭通1-31-4
電話 078-332-1607
定休 なし
営業 12:00~23:30
最寄 JR・三ノ宮駅 阪急・神戸三宮駅 徒歩2分
帰りに乘った阪急電車はラッピングされていました。
鱧の蒲焼と鱧鍋 2019年7月18日追記 [料理]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2019年7年14日掲載 タイトル: 鱧の蒲焼と鱧鍋
2019年7月12日から関西に来ています。宝塚の実家に泊まるので飛行場から実家に行くときに逆瀬川の駅の近くのスーパーで夕食用の刺身を買ってから行きました。その時に生はも(鱧)の骨切りが売られていたので、翌日の7月13日の夕食は鱧鍋(はも鍋)をやってみることにいたしました。
そこで7月13日の朝10時に前日鱧を見たスーパーに行き、生の鱧を骨切りしたものを3パック買いました。丁度今が鱧の旬のようで沢山売られていました。朝一に行ったのはいい鱧を選ぶためでした。これは大正解でした。
左の山口県産を2パックと、大分県産を1パック買いましたが、それぞれの中で一番いいものを選びました。その時に、からし酢みそと、柚子ぽん酢醤油を買いました。これはお袋との2人前の量です。鰻の蒲焼のタレも写真に写っていますが、これは鱧鍋だけでなく鱧の蒲焼も作ってみたくなって夕方に鰻の蒲焼のタレを買いに行ったのです。結婚して神戸市須磨区に住んでいたころに板宿の市場で買ってきた生鱧の骨切が売られていて蒲焼にすると美味しかったことを思い出したのです。
こちらが山口県産の鱧です。鱧の分類を紹介します。
界 動物界 Animalia
門 脊索動物門 Chordata
亜門 脊椎動物亜門 Vertebrata
綱 条鰭綱 Actinopterygii
目 ウナギ目 Anguilliformes
科 ハモ科 Muraenesocidae
属 ハモ属 Muraenesox
種 ハモ Muraenesox cinereus
英名 Dagger-tooth pike conger Conger pike
鱧と言えば、みをつくし料理帖のハモが出てくる場面を思い出します。たしか、右の写真の「ふっくら鱧の葛叩き」だったと思います。その「ふっくら鱧の葛叩き」の入った動画の頭から39分のところが主人公の澪(みお)が鱧の骨切りをする場面です。その鱧の骨切りの場面を紹介します。
さらにネットにあった鱧(ハモ)の骨切りの動画も紹介します。
こちらが大分県の鱧です。今回の場合は大分県産の鱧は山口県産の鱧よりは厚肉で立派でした。同じ大分県産の鱧に比べも見事な鱧でした。朝一で来たからこそ手に入った鱧でした。上の山口県産の鱧も沢山の山口県産の鱧の中で、トップ1とトップ2なのです。いずれの鱧も刺身でも食べれると思われるほど新鮮なものでした。ただし穴子や鰻同様に血に毒性があるために加熱は必須です。その血液毒の名前はイクシオトキシン(ichthyotoxin)で、致死量は血液の量で約1リットル(1kg)だそうですが、フグの毒であるテトロドトキシンと違い、熱には弱く60℃で分解するため生で食べなければ問題ないわけです。したがって食べる段階での心配はありませんが、血液が目に付くと炎症を起こすので魚をさばいている時に最も気を付ける必要があるそうです。ちなみに血液をすべて抜いて、酢でしめれば刺し身で食べることは可能だそうですが、専門店で食べることをお薦めします。ichthyotoxinの「ichthyo」は「魚の」、「toxin」は「毒」の意味です。毒の致死量を参考に記載します。体重の8%が血液とすれば1kgの血液は約400gの鱧30匹(12.5kg)の全血液量に相当します。
テトロドトキシン 1~2mg 300℃でも分解しない(焼却処理)
イクシオトキシン 1kg(血液量) 60℃で分解
青酸カリ 150〜300mg
値段も他のスーパーと比べてもダントツに安かったです。山口県産も同程度の価格でした。3パック合計で1673円(税別)でした。関東だと湯引きした鱧は売っていますが、生の骨切りした鱧は簡単には手に入りません。手に入っても2~3倍はすると思います。鱧を買ったお店を紹介します。確認はしていませんが、骨切りはお店でおこなわれているようです。お店の板前さんはフグの調理免許も持っておられ高い技術を持っておられるようです。最近では年末のテッチリとテッサのフグもこちらのお店で買っています。
店舗 KOHYO(光洋) 逆瀬川店
住所 兵庫県宝塚市逆瀬川1-2-1 アピア1 B1F
電話 0797-71-5400
材料などを切って鍋の準備が出来たら蒲焼を作り始めました。先ずはレンジで鱧を白焼きにしました。大分産と山口産の半枚づつを蒲焼ように焼きました。つまり鍋用は大分産は半枚と山口県産が1.5枚でした。
焼きあがった白焼きに1回目のタレを付けたところです。
こちらは厚肉の大分県産の方の鱧に1回目のタレを付けたところです。
1回目のタレを付けて焼いて、さらに2回目のタレを付けて焼いて完成したところです。数分で出来ると思いましたが、意外と白焼きが焼きあがるまでに時間がかかることが判りました。次にやる時は早めに蒲焼を作り始めることにしたいと思います。
これが鱧の蒲焼を皿に乗せたところです。これが出来たところで鍋も食べ始めました。スーパーで売られているウナギの蒲焼よりは、今回の焼きたてのハモの蒲焼の方が美味しく感じました。
先ずはビールです。ビールの美味しさは鮮度が重要なので製造年月日は1ケ月以内のものを買うようにしています。日本のビールの場合は銘柄よりも製造年月日を優先しています。今回はキリン・クラシックにいたしました。
オクラの煮物はお袋が作ってくれました。
鱧は、このように短冊状に切りました。この切り方は大正解でした。
野菜は水菜とキノコ2種類を用意いたしました。
野菜と鱧を鍋に入れたところです。鍋と言っても、骨切りされているため火の通りがいいのでシャブシャブのように食べる時に湯通しするのです。
小さなお子様がおられる家庭では、うなぎ目の魚(鰻、穴子、ハモ、ウツボ)には血液毒(60℃で分解)があるので生の部分が残らないように大人がシャブシャブしてあげた方が無難だと思います。ただし、切り身に付着している血液成分は僅だし、生で沢山食べたとしても下痢程度なので、さほど神経質になる必要はないと思います。
そのやり方を動画紹介します。最初の鱧はからし酢みそで食べて、次の鱧は柚子ぽん酢醤油で食べました。右手に箸を持って、左手にカメラわ持って撮ったので被写体が真ん中からづれたりしていますが、ご愛嬌としてください。
こちらが柚子ぽん酢醤油です。野菜はこちらですべて食べました。
拡大写真も紹介します。
ビールも進み2缶目となりました。
鱧を鍋に入れると皮側を中心に丸くなります。水に昆布を入れただけですが、食べ終わると鱧から味が出たのか素晴らしいだしが出来ていました。今回は作りませんでしたが、次回からは〆にオジヤを作りたいと思います。
こちらが、からし酢味噌です。こちらも美味しかったです。湯引きされたものも売れらていますが、新鮮さが違う上に、温かいことが美味しかったのです。
こちらも拡大写真を掲載いたしました。ぽん酢と甲乙つけがたいおいしさでした。Wikipediaによると関西の鱧の消費量は、関東の鱧の消費量の10倍だそうです。フグやクエも関西が多いけれどもハモほどの差はないように感じます。関西に比べて関東が多いのは、やはりマグロだと感じています。
2019年7月18日追記 タイトル: 鱧鍋の後に”おじや”をしました。
7月13日に実家で鱧の蒲焼と鱧鍋を報告いたしましたが、美味しくて母にも好評だったので4日後の7月17日に2回目の鱧の蒲焼と鱧鍋(鱧しゃぶ)をやってみることにいたしました。せっかくなので1回目でやらなかった締めの”おじや”をやってみました。それが、この写真です。おじやは雑炊(ぞうすい)とも呼ばれています。つまり、はも雑炊なのです。
こちらが7月17日に用意した4パックの鱧(はも)です。
1回目と同じように最初に店頭に並ぶと思われる10時に買いに行きました。この日は兵庫県産の鱧でした。7月13日は山口県産と大分県産だったので、いろんな場所から仕入れられていることが判りました。4パック合計で1451円(=378円+433円+250円+390円)でした。合計の重さは365gで100g当りの単価は大分県産と同じ398円でした。
上の写真の左下の433円のパックのハモを蒲焼にすることにいたしました。先ずは15分焼いてタレに漬けて5分焼き、もう一度タレを漬けて5分焼きました。
これが出来上がった鱧の蒲焼です。
3パックの鱧は1回目と同じように切りました。野菜は1回目の時に半分残しておいたので同じ食材となりました。
もちろんビールは欠かせません。
1回目と同じく、柚子ぽん酢醤油と、からし酢味噌でいただきました。
〆の”おじや”を作り始めました。といた玉子を入れたところです。味付は塩だけです。
必要な汁を鍋に残して余分の汁は取り出しました。その汁がこちらですが濃厚な味になっているのが分かっていただけると思います。ダシとして入っているのは最初に入れた昆布と、鱧とキノコと水菜(京菜)です。醤油などの調味料は入っていません。
こちらが出来上がったおじやです。好みで醤油をたらせるように塩味は薄目にしています。少しだけ醤油をたらしました。
伊香保露天風呂から宿までの景色 [群馬県]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2019年7月9日掲載 タイトル : 伊香保露天風呂から宿までの景色
今回の伊香保温泉の最後は記事は、伊香保露天風呂(湧出口第二号源泉)から宿に帰るまでの散策です。左の屋根の下に湧出口第二号源泉があり、正面の建物が伊香保露天風呂の入口です。露天風呂の右側の道を登ってきましたが3本の道の合流地点までは同じ道を下りていきます。同じ道ではありますが、上ってくる時に見逃した景色を含めて紹介していきたいと思います。
左の壁が露天風呂です。右に濁った水が流れる小川があります。
途中に万葉歌碑がありました。右の屋根はすでに紹介した飲泉所ですが、この時点でも気が付いていませんでした。万葉集東歌の中に「伊香保」という語を含む歌が9首あり、その9首にはいずれも歌碑が作られているそうで、その中の一つが今回の歌碑でした。歌碑が設置されている9ケ所は、森林公園管理棟前、長峰公園(池の前)、ロープウェイ美晴駅横、ロープウェイ不如帰駅前、湯元飲泉所横、伊香保神社境内、旧ハワイ公使別邸隣、峠三叉路、水沢観音境内、水沢観音駐車場付近、水沢観音本堂裏山です。歌碑をクリックして文字化け下画面が出た場合は再表示アイコンをクリックすると正常になります。
歌は「上毛野 伊香保の沼に 植ゑ子水葱 かく恋ひむとや 種求めけむん」で、揮毫者は佐々木心華です。現代語訳を枠内に記載いたします。
上毛野の伊香保の沼に植えた子水葱の成長がこんなに待ち遠しくてたまらないものなら、いっそのこと子水葱など植えるのではなかった、という心にかけて、今の苦しみのもとになっている恋い焦れの種など、始めから求めるのではなかった・・・なんと苦しいことだろう。
河鹿橋(かじかばし)のところまで戻ってきました。
この道は「湯元通り」という名前でした。
道沿いには黄色い花も沢山咲いていました。
ツツジも咲いていました。
別の色のツツジの傍にバス停がありました。
本数は少ないけれども循環バスも走っていました。
路線図も紹介します。赤色ラインが伊香保タウンバス1号線です。前記事で紹介した史跡の湯元呑湯道標があったところに湯元バス停があるので、そこで降りると露天風呂(湯本源泉地)まで138mです。上のバス停を見つけたのは湯元通りバス停です。右の写真がネットから転用させていただいた伊香保タウンバス1号です。本路線図は上が南です。
伊香保タウンバス1号線のルート(路線)とバス停をGoogle地図にプロットいたしました。路線は時計回りに運行しているようです。Google地図に伊香保タウンバス1号線のバス停をプロットするためにストリートビューでルートを見ていると棒名口バス停の近くに伊香保旅運バスと書かれた同じサイズですが屋根色が違うバスが停まっていました。バックに伊香保タウンダス4号車と書かれていたので同様の循環バスだと感じました。調べてみると1号車~4号車があり、4号車は1日に5本で遠くまで行く(ゆうあいプール/渋川市行幸田)循環バスでした。棒名口は運行の合間の待機場所なのかもしれません。石段街の標高差は石段街口バス停(724m)と伊香保神社(804.5m)の差としています。石段街口バス停の標高はGoogle地図の表示です。本地図は上が北です。
━━ 石段街 365段 376m(水平距離) 標高差:81m
━━ 湯元バス停~露天風呂 138m
道沿いの山側のコンクリート壁に昭和56年度の県単治山事業の銘板が取り付けられていました。昭和56年(1981年)は今から38年前になります。県単治山事業という言葉が気になったので調べてみると国の補助対象とならない小規模な治山事業のようです。ここでは山崩れの防止のコンクリート壁を作った事業なのだと思います。この時代の住所は北群馬郡伊香保町でした。
当時の住所 群馬県北群馬郡伊香保町大字伊香保(香湯)地内
現在の住所 群馬県渋川市伊香保町伊香保591
伊香保町の名前の変遷は次の通りです。1878年以前は想定で記載している面があるため参考程度としてください。渋川市伊香保町になったのは意外と最近のことでした。
1603年ごろから 高崎藩安藤氏領・伊香保村(江戸時代初め~)
1632年(寛永09年) 高崎藩安藤氏領・伊香保村→幕府領・伊香保村
1868年(慶応04年) 幕府領・伊香保村 → 岩鼻県伊香保村(新政府管轄)
1871年(明治04年) 岩鼻県伊香保村 → 群馬県伊香保村 群馬県成立
1878年(明治11年) 西群馬郡が発足 → 西群馬郡伊香保村
1889年(明治22年) 西群馬郡伊香保村 → 西群馬郡伊香保町 3村合併
1896年(明治29年) 西群馬郡伊香保町 → 群馬郡伊香保町
1949年(昭和24年) 群馬郡伊香保町 → 北群馬郡伊香保町
1954年(昭和29年) 渋川市が発足(ただし伊香保町は含まず)
2006年(平成18年) 北群馬郡伊香保町 → 渋川市伊香保町
伊香保神社から露天風呂に向かうときの記事で紹介した3本の道路が合流るところまで下りてきました。ここは湯乃花饅頭のお店があるところです。
右の道が伊香保神社から来た道です。中央の道は石段街の勝明堂の前に出るルートです。私は左の道に進みました。
後でパソコンを見て分かったことですが中央の道が宿への最短ルートだったのですが、その時は下に降りれば着くだろうとスマホでのルート検索もしませんでした。左の道に進んだことが朝食時間(8:00)に遅刻する羽目になるとは思ってもいませんでした。時刻は余裕のある7時23分だったからです。宿からいろんな場所を見て石段街を登って伊香保神社に参拝して露天風呂まで標高差75mを登ってきて写真を撮って帰路につくまでが34分だったからです。
この場所のストリートビュー:https://goo.gl/maps/7Tdz5xgPyBCTiGoCA
前記事で紹介した温泉饅頭の発祥と言われている伊香保温泉の湯乃花饅頭の考案者の米田勝三の右の写真の撮影場所の候補の一つがこの場所のような気がします。もちろん直接に勝月堂に聞けば分かることなのですが、候補の一つとした理由はバックの街並みの雰囲気でした。今までに伊香保大火もあり大きな建物が出来ているので単なるイメージです。現在の左端の勝月堂の建物は下の谷から建てられており5階建以上ですが当時の建物は道路より低かったこともありうると感じだからです。
もちろん石段街脇の現在の勝月堂が建っている場所も候補の一つですが、敷地の奥行が狭いので昔の建物がこの場所に建っていたとは思えないのです。そんなことから上の場所を思いついたのです。この写真はGoogleストリートビュー(SV)から切り取ったものです。クリックするとSVを表示するので周囲が分かると思います。
こちらが横から見た勝明堂・叢明店( )です。ただし、の先頭の文字は現代ではないので似た文字の「叢」を当てています。下の谷の部分から建てられた少なくとも5階建の木造の建物は見事でした。上の販売店とは大違いです。ここは販売店兼住居なのではないでしょうか。この道沿いには山肌に合わせて建てられた同じような構造の建物が沢山ありました。ただし普通はモルタルなどで、このような板壁の建物は珍しかったです。
下りていくと本館と別館をつなぐような空中通路もありました。
この辺りはホテルや旅館などがいくつも建っていました。急坂はまだまだ続きました。
遠くには雪が残った2000m級の山が連なっていました。見えている方角から仙ノ倉山(2026m)と谷川岳(1977m)と思われます。谷川岳までの距離は37.6kmなので空気がきれいな証拠となりました。手前に見えている少し低い山は上州十二ヶ岳(1201m)の左にある山だと思われます。
伊香保関所(伊香保口留番所)がありました。建物などは新しいので、関所跡地に建物を復元したものだと思います。伊香保関所は寛永8年(1631年)に幕府の命により、三国街道の裏往還の要所であるこの地に設置されました。当時の関所は間口五間、奥行三間の約15坪の藁葺屋根の建物で、周囲に木棚が巡らされ、東西に門扉が設けられていたそうです。
見学は無料なので中に入って写真を撮らせてもらいました。
関所の横には有名な石段があったのですが、この時は有名とは知らないで写真を撮りませんでした。それよりも宿に早く帰る方が優先だったのです。ところが泊まった宿よりも標高が低い場所に来ていたのですが気が付かづに道を進んでいきました。その石段を登れは数分もかからないで宿につけたのです。
長く歩きましたが、やっと見覚えのあるところまで来ました。前日に車の中から見た景色でした。右側の道から来て左側の道を上がっていくことになりました。ここからかなり距離があることは分かっていました。ここから宿までの標高差も75(=769-694)mありました。
交差点の広場に設置してあった路面電車だけは写真に撮りました。この路面電車は伊香保軌道線を走っていた路面電車です。伊香保軌道線は渋川駅前駅を中心にして伊香保駅と前橋駅前駅と高崎駅前駅の3方向(前橋腺、高崎線、伊香保線)に延びる鉄道でした。前橋腺は1890年開業、高崎線は1893年開業、伊香保線は1910年開業でした。1910年以前は馬が引く馬車鉄道でしたが、1910年からは3路線共に電気で動く電車になりました。つまり伊香保線は馬車鉄道ではなく最初から電車が走る鉄道で、名前も伊香保電気軌道でした。ここから県道33号線をハワイ王国公使別邸方向(上の写真で右側の道)に200m進んだところが伊香保駅ずあった場所です。今は小さな看板があるだけだそうです。
当時の写真をWikipediaなどから転用させていただきました。
上段の右側の写真の電車には伊香保行と書かれています。
下段の左側の写真は当時の伊香保駅です。右側は同じ構図の現在の写真です。ストリートビューから切り取らせていただきました。前を走るトラックの位置が、左の写真の中央の電車の位置です。そのトラックの左の駐車スペースに駅舎が建っていました。1910年10月16日(明治43年)から1966年12月28日(昭和31年)まで、現在の県道33号線の場所を電車が走っていたのです。
伊香保駅の写真をもう一枚紹介します。
1955年(昭和30年)に撮影されたものだそうです。
後で地図で説明したいと思いますが、最短コースの2.5倍近い距離を歩くことになりました。その代り関所や路面電車を見ることが出来ました。散策も1時間36分(=8時15分-6時39分)程歩いたことからいい運動にもなりました。往路が34分に対して復路は1時間2分になりました。朝食も充実していました。7時30分と8時00分と8時30分の入れ替わり制でで我々は8時に予約していたので、私だけ15分の遅刻でした。他の16名は8時から食べていて私の席だけ空いていて無事に朝食を食べることが出来ました。
散策ルートをGoogel地図に書き込みました。
宿泊したオーモリから露天風呂(源泉噴出口)までの行のルートが橙色(━━)で、露天風呂から宿(オーモリ)までの帰りのルートが赤色(━━)です。見ての通り帰りが遠回りになったことが分かってもらえると思います。気が付いたら路面電車が展示されている交差点まで来てしまっていたのです。3つの道の合流地点からだと4倍は歩いたことになります。露天風呂からだと2.5倍の距離になります。距離だけではなく余分に標高差75mも下りてしまったのも時間がかかってしまった理由でした。行く時に石段を結構上った感じだった上に、下りは楽なので感覚以上に降りてしまったわけです。ちなみに緑色(━━)が石段街を示しています。伊香保軌道線の伊香保駅のあった場所もプロットしてみました。路面電車が展示されていた場所から西に200mの位置です。
本記事がゴルフ絡みの伊香保温泉の4つの記事は最後です。あらためて4つの記事を紹介します。下記の写真はわれわれのプレーの最終ホールである吾妻コースの9番ホールです。
タイトルをクリックすると記事を表示します。
伊香保温泉お泊りゴルフ
早朝の伊香保温泉の石段街
次に目指したのは湯元にある露天風呂
伊香保露天風呂から宿までの景色
2019年7月11日追記 タイトル : 榛名山とゴルフ場と伊香保温泉
ゴルフをした伊香保ゴルフ倶楽部と榛名山群と伊香保温泉の位置関係を地図で示します。榛名山(はるなさん)は中央にカルデラ湖と溶岩ドーム(榛名富士)を有する沢山の有名な山の集合体です。伊香保温泉はバス停が集まったところで、古墳時代の二ツ岳の爆裂をきっかけに温泉が湧きだしたと言われています。
榛名山のカラー地形図(Wikipedia掲載)を紹介します。上のGoogle地図と比較するとより分かりやすいと思います。
クリックすると広範囲の地形図を表示します。
榛名山は、約50万年前頃から約24万年前頃まで噴火活動があり、その後約20万年間の活動休止期を経て、約5万年前に新期火山活動に移行したそうです。約5万年前以前は古期火山活動と呼ばれています。
約5万年前の八崎降下軽石・白川火砕流の噴出で開始し、榛名カルデラを形成したそうです。その後、榛名富士、蛇ヶ岳、相馬山、水沢山、二ッ岳など少なくとも5個の安山岩溶岩ドームを形成し、いくつかが山体崩壊し榛名山東側及び南側山麓に扇状地状地形を形成したそうです。
5世紀に活動を再開しマグマ水蒸気噴火を起こす。これを二ッ岳有馬火山灰噴火とよばれています。489年に二ッ岳渋川噴火で大規模なマグマ水蒸気噴火と泥流が発生したそうです。525年から550年にも大規模マグマ噴火、マグマ水蒸気噴火、マグマ噴火泥流があったそうです。二ッ岳から東北東の方向の直線距離で8.7km離れた金井東裏遺跡で、この時の火砕流に巻き込まれた甲を着装した成人男性人骨1体と、乳児頭骨1点が発掘されたそうです。火砕流の規模が非常に大きかったことが想像できます。榛名山の中央にある榛名富士から金井東裏遺跡までの距離は11.2kmです。クリックすると発掘された甲冑の大きな写真を表示します。冒頭の地図でマイナスのアイコン( - )を1回クリックすると金井東裏遺跡の位置が分かると思います。画面を左方向に移動する方法でも金井東裏遺跡の位置を確認することが出来ます。
追伸
2019年7月12日から7月24日まで関西に行きます。さらに7月25日は東京で深酒飲み会が予定されていることから、皆様のところへの訪問はそれ以降になることをお許しください。
深酒飲み会は、今回のゴルフコンペでの優勝により次会コンペ(29回目 11月予定)の幹事役となったことから、もう一人の幹事役の人と18年前の第1回から出席されている発起人の方(28回出席)との調整会議を行うことが名目です。私は21回から6回しか出席していない新参者なのです。
伊香保神社から次に目指したのは湯元にある露天風呂 朝の散策 [群馬県]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
前日にゴルフをして伊香保温泉で泊まり、早朝の散策で石段街を登ってきて右の写真の伊香保神社に参拝しあと境内を散策していると「露天風呂 飲泉所」と書かれた上の写真の案内板を見つけたので散策を続けることにいたしました。この時、6時56分でした。
前日の記事はこちらです。 →ポチッ
石段街の記事はこちらです。→ポチッ
本航空写真で一番上に伊香保神社があります。一番下に緑色の文字で伊香保露天風呂と書かれているところが目的の露天風呂です。案内板では350mと書かれていましたがGoogle地図では620mでした。途中に伊香保飲泉所がありましたが、そこまででも525mありました。
━━ 私が歩いた伊香保温泉街散策ルート
冒頭の案内板と同じ場所で道路を挟んだ位置に同じ看板がありました。矢印は反対ですが道路を挟んでいるので進んでいくべき方向は同じなのです。
つまり河鹿橋(かじかばし)までが350mだったのです。冒頭の案内板は河鹿橋の文字の上に右のクリアシートに入れた写真を貼り付けてしまったために露天風呂までが350mだと思ってしまったのです。
写真を貼った担当者は河鹿橋も露天風呂も同じ程度と思ったか、近くにこの案内板があるので、分かってもらえるつもりだったのかもしれません。ただし、この案内板から河鹿橋までの距離は420mなので、下で紹介の合流地点に取り付けるつもりでつくった案内板だと感じました。
それでは露天風呂に着くまでの景観を紹介したいと思います。露天風呂は写真の左奥に進んだ方向にあり、緑豊かな場所に入っていきました。
進んでいくと3本の道が合流して1本になり露天風呂の方に延びていました。合流地点に黒い板張りの見事な建物が建っています。山の斜面に沿って建てられていました。上の道路からだと2階建てですが、下からだと5階建て以上の建物です。この合流地点からならば河鹿橋まで350mで通用すると思います。
大きな扁額に右側から湯乃花饅頭と書かれていることから、有名な右下の写真の「湯乃花まんじゅう」のお店のようでした。湯乃花饅頭の文字の下には右のように先頭が読めない文字で店名が描かれていました。とりあえず当て字で叢明店( )にしておきます。「湯の花まんじゅう」と言えば石段街の300段の表示版のところにある勝月堂が有名ですが、こちらの黒い建物の扁額の左端に勝月堂と書かれていたのです。どちらが本店か分かりませんが、本店と支店の関係のように思われました。Google地図のアイコンをクリックすると、どちらのお店の住所も「群馬県渋川市伊香保町伊香保591-7」と同じでした。さらに入口のガラス戸のところを見ると「湯乃花饅頭 考案の店 創業明治四十三年 勝月堂」と書かれていました。
現在では全国各地で見られる茶色の温泉饅頭の発祥は、勝月堂の創始者である米田勝三が考案して1910年(明治44年)に売り出された湯乃花饅頭と言われています。米田勝三は東京の風月堂(当時は米津風月堂)で修行し伊香保に帰郷した際に、地元の古老から「伊香保にこれといった名物がない。何か新しい土産物を!」と依頼を受けて伊香保温泉の茶色い湯花をイメージして黒砂糖を使った茶色の饅頭を作ったそうです。勝月堂の創業が1909年なので米津風月堂がパピヨットを考案(1907年)したころになります。右の写真は大正初期に撮られた米田勝三と当時の店舗です。クリックすると静止画を表示します。
参考に石段街の300段のところの勝月堂のお店の写真を掲載いたします。こちらの看板にも湯乃花饅頭の文字が使われていました。発売から24年目の昭和9年に昭和天皇が2円分の「湯乃花まんじゅう」を買われて、その時の買上書がお店に保管されている記事も書かれていました。
Googleストリートビューはこちら→ポチッ1 ポチッ2 ポチッ3
伊香保温泉の石段街のGoogleストリートビューの撮影機材は徒歩で撮影するためトレッカーが使用されました。本写真は2018年2月15日に投稿された渋川市のツイートに掲載されていた写真を転用させていただきました。撮影は2017年10月に行われたことがストリートビューの右下に書かれています。Googleの撮影機材は撮影車(自動車)、トライク(自転車)、トロリー(押し車)、トレッカー(徒歩)、専用スノーモービル、トレッカー(らくだ)などがあります。
ちなみにGoogleの撮影機材を初めて紹介させていただいたのは、フランスのアヌシーの旧市街地の記事の中でした。→ポチッ
道の合流地点に伊香保温泉観光案内図がありました。
趣きのある道が続いていました。
道沿いの家は山に沿って建てられているので、家と家の間には急な道が作られていました。
家の間からの谷の景色です。下にも道路があり、その道沿いに建物が建てられているのです。
露天風呂まで徒歩5分の案内板がありました。どうやら温泉噴出し口もあることが分かりました。時刻は7時01分でした。7時06分+αくらいには着ける計算となります。+αは写真を撮る時間です。
山深い道が続きました。
道沿いには白い花も咲いていました。
その花を拡大いたしました。
緑に囲まれた道は続いていました。
谷を挟んだ向かいの山です。中央に岩らしきものが見えたので写真を撮りました。
ズームでその岩を撮りました。よく見ると岩はV型になっていました。
道は続いていました。
道を横切る小さな谷の部分に橋がかけられていました。その先にも赤い欄干の端が見えます。おそらく案内板にも書かれていた河鹿橋だと思われます。
橋の下の川には水が流れていました。
見えていた橋はやはり河鹿橋(かじかばし)でした。
ここで谷から上がってきた道路と合流いたしました。私は右から歩いてきて、露天風呂を目指して左に進みました。
合流地点には古い「湯元呑湯道標」と呼ばれている石の道標が建てられていました。写真の左端の石柱が道標で、右は説明板です。道標には次のように書かれていました。左と書かれている湯元と呑湯の方に進みました。
道標の正面
右 棒名山 二ッ嶽
道
左 湯元 呑湯
道標の右側面
明治二十三年五月二十八日
高崎相生町 粕川 龍蔵 建之
説明板も紹介します。呑湯を示す道標は全国的にも珍しいことから、市指定の史跡になったようです。
正面の道が昔で言う「湯元と呑湯」方向です。今でいえば「温泉噴出口と飲泉所と露天風呂」です。道の左側に建っている小さな建物が飲泉所(呑湯)です。
木で出来た電話ボックスも趣きがありました。
こちらは飲泉所(呑湯)です。縦表札には伊香保温泉飲泉所と書かれています。ここを通るときは飲泉所は露天風呂の中にあると思っていて、この建物は単なる休憩所とばかり思っていたことから写真を撮っていませんでした。道路を撮った広い範囲の写真から切り取って掲載させていただいたので写真の鮮明度はもう一つなのはお許しください。右の温泉と水が流れ出ている写真はネットから転用させていただきました。
趣きのある煉瓦造りの入口がありましたが、閉鎖されていて、「伊香保露天風呂 この先26m」の張り紙が貼ってありました。おそらくこの建物の裏側の板塀の中に露天風呂があるのだと思います。
小川の水は茶色く濁っていました。我々がゴルフに来る前も晴れていたし、左からの湧水も茶色く濁っているは、温泉の「黄金の湯」が濁っているの関係しているのかもしれません。
源泉の湧き出し口に着きました。湧出口第二号源泉と書かれていました。昔の道標の湯元なのだと思います。時間は7時8分だったので徒歩5分の案内板の場所から7分で着いたことになります。写真を撮りながらだったので、徒歩5分は妥当な表示だったようです。
湧き出し口は透明のドームで覆われていました。Google地図の等高線より高さを読み取るとここの標高は約845mでした。
エルヴィン・フォン・ベルツ博士(1849年~1913年)の銅像と石碑が建てられていました。ベルツ博士はドイツ帝国の医師で、1876年(明治9年)に日本に招かれ1905年までの29年間にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くしたひとです。その功績が称えられて、1900年に勲一等瑞宝章、1905年に勲一等旭日大綬章を受章しました。ベルツ博士は日本温泉医学の父であり、伊香保温泉の大恩人だそうです。 ベルツ博士は日本各地の温泉の指導を行いましたが、第1番目が伊香保温泉だったそうです。伊香保のいろんな旅館のホームページにも大恩人と書かれていることから、温泉が見直されるきっかけになったのかもしれません。
ラドン発見の碑も建てられていました。写真をクリックすると建碑の意義の説明石碑を表示します。ラドンは怪獣の名前ではなく原子番号86の元素で、元素記号は Rnです。−61.85°C以上では気体で最も原子番号の大きな希ガス元素です。同位体はRn210、Rn211、Rn222、Rn224の4つがあり、最も半減期の長いRn222がラジウムエマナチオン(Radiumemanation)と呼ばれているようです。1909年に日本で初めて伊香保温泉でラドンが発見されたことを記念して建てられたそうです。
温泉湧き出し口敷地内に露天風呂の入口がありました。
残念ながら利用時間は9時からだったので中を見ることは出来ませんでした。
名称 伊香保露天風呂 or 伊香保温泉露天風呂
住所 群馬県渋川市伊香保町伊香保581
標高 約845m(Google地図の等高線より読取)
入口の説明板には標高810mと記載
泉質 硫酸塩泉(黄金の湯)
温度 44.3℃(源泉)
管理 源泉掛け流し
定休 第1・第3木曜日
時間 4月~9月: 9:00~19:00
10月~3月:10:00~18:00
料金 中学生以上:450円 小学生以下:200円
備考 1歳児未満は入浴不可 小学生未満は付添要 男女別
入浴の心得も紹介させていただきます。
温泉の中は撮れないので渋川伊香保温泉観光協会のホームページの写真を転用させていただきました。
宿への帰路についたのは7時13分でした。朝食は8時からでした。
宿を出てからだと34分(=7時13分-6時39分)で、伊香保神社を出てからここまで17分(=7時13分-6時56分)でした。17分間の中で伊香保温泉が日本初ことを3つも発見いたしました。1つ目が温泉饅頭、2つ目がベルツ博士の指導、3つ目がラドンの発見でした。前記事の石段街の記事の本格的な温泉街(含む石段街)の整備が約440年前に行われたのも日本初と言えると思います。つまり、34分間に日本初を4つも発見したわけです。伊香保温泉、恐るべし!
早朝の伊香保温泉の石段街 [群馬県]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
すでに前記事で紹介した通り2019年5月25日に伊香保ゴルフ倶楽部で16名参加したゴルフコンペがあり、ゴルフが終わったあとは伊香保温泉に泊まりました。夕食、二次会のカラオケ、三次会は全て宿のオーモリ内で行ったことから伊香保温泉の温泉街を見る機会がありませんでした。そのため翌日の5月26日の朝食前に温泉街を散策することにいたしました。上の写真はその時に撮った伊香保温泉の石段です。伊香保と言えば石段と言われるほど有名ですが、恥ずかしながら私は伊香保温泉の石段が有名であることは知らなかったのです。初めて知ったのが宿に戻ってきて朝食の時に石段があったことを話しをしたところ「伊香保温泉と言えば石段」ですよと言われてしまいました。
有名であることは知らなかったけれども独特の雰囲気を楽しめたので写真はたくさん撮ったので紹介したいと思います。
こちらが朝の散策で最初に撮った宿の前の写真です。写真の右端に宿のオーモリが写っています。この時、6時39分でした。
先ずは宿より少し低い場所に降りて景色を撮りました。先ずは宿より少し低い場所に降りて景色を撮りました。本来は部屋の窓からも同じような景色を撮ることが出来るのですが、我々が泊まった時は外装工事中のために、これほどの見晴らしの写真は撮れなかったのです。遠くに見えている雪が残った山は谷川岳で、手前の右端の山は上州十二ヶ岳(1201m)です。右の写真が泊まった部屋からの写真です。その写真の中央に写っているのが子持山(1296m)で、左端の山は上州十二ヶ岳(1201m)と思われます。
上の写真を撮った場所の近くから撮った我々が泊まった宿です。この後、写真の右方向に散策を始めました。
温泉街の風情を感じながら歩きました。右のお店の看板には「ボットル 射的」と書かれていました。ボットルの意味が分からないので調べてみるとボトル型の積み木にボールを投げで落とすと景品がもらえるケームだそうです。射的は動く景品をおもちゃの銃で落とすともらえるゲームだと思います。
手作りの「湯の花まんじゅう」のお店では、すでに作業されていました。お店の名前は「大黒屋 本店」と書かれていました。
土蔵の右側の細い路地を進みました。
進んでいった細い路地です。その路地のストリートビューです。→ポチッ
路地を進んでいくと驚く景観に出会えたのです。
その驚く景観がこちらでした。突然に石段のある道に出たのです。石段に出た瞬間の写真を撮っていなかったのでGoogleのストリートビューで再現いたしました。つまり、知らないで散策していたら伊香保温泉で有名な石段街に偶然にも出たのでした。別の方向に歩いていたら、この石段街には出会えなかったと思うと、偶然に石段街に出たのだと、後で実感いたしました。ビュー回転アイコンをクリックすると歩いてきた路地も表示します。
その石段街の場所を紹介します。緑色ライン(━━)が石段街です。右端に我々が泊まった宿「和心の宿 オーモリ」があるので方向が分かっていただけると思います。石段は南から北に登っています。
━━ 石段街
━━ 私が歩いた伊香保温泉街散策ルート
石段街マップをネットから転用させていただきました。利用させていただいたサイトはホテルきむらさんのホームページです。Googleマップで説明させていただいているように地図の上方向が南で、下方向が北になります。
石段部分に「小満口」の文字が4ケ所書かれています。400年前に石段が整備された時に作られた小満口(小間口)と呼ばれる温泉引湯口です。引湯権を持つ大屋の温泉宿に、決められた一定量の湯を流す分湯システムが400年続いてきた小満口制度で、現在も受け継がれているそうです。地図の中の小満口は流れる湯をガラス越しに見ることができ小満口観覧所です。右の写真は212段のところの小満口観覧所です。クリックする周辺も含めた大きな写真を表示します。昔は小満口を持っていた大屋が12軒あり、屋号に十二支をシンボルとして、そのプレートが旅館のあった場所の石段に残されているので探してみるのも石段の楽しみ方の一つだそうです。
先ずは見晴らしがよさそうな場所まで石段を下りてみることにいたしました。右側には「おみやげ処 いさごや」と「村松旅館」があります。
石段を下りて見晴らしのいい場所から撮った写真です。
Wikipediaに今から約130年前の明治20年代の写真が掲載されていたので転用させていただきました。すでに前記事で紹介させていただきましたが伊香保温泉は万葉集(759年~780年頃)に名前が出てくるほど歴史が古く、伊香保温泉の発見は1900年前(第11代垂仁天皇の時代)あるいは1300年前(僧侶・行基による発見)の2説があるようです。この地に温泉が湧くようになったのは榛名山の側火山である二ツ岳の古墳時代以前の爆裂によるものとされています。
そして、現在のような石段街や温泉街が形成されたのは戦国時代だそうです。泉質は硫酸塩泉(黄金の湯)やメタけい酸単純泉(白銀の湯)などがあるそうです。下の写真の右端に丸い2本の門柱が印象的ですが、その表札の一番上の文字が「千」のように見えます。現在もここに近いところに、今から517年前の1502年創業の千明仁泉亭があることから、もしかして明治20年代の千明仁泉亭なのかもしれません。
上の明治20年代の写真に近い今の写真を紹介します。少し広い範囲を撮った写真からバックの山の形をあわせて切り取った写真です。偶然ですが写真の右側の工事中の旅館の名前が千明仁泉亭なのです。
千明仁泉亭の表札を右に掲載いたしました。
上の写真はこの写真から切り取りました。日曜日の早朝6時47分の伊香保温泉の石段街の景色です。日にちは2019年5月26日でした。
もう一枚、ネットの中から、今と昔の写真を比較してみました。左の写真は米国の写真家バートン・ホームズが昭和初期に撮影した前橋市の製糸工場「群馬社」の女工たちの記念写真です。右側はその記念写真を再現するために伊香保温泉観光振興協議会が企画して県内から約1000人の女性が集まって2010年8月30日に撮られたものです。群馬社は昭和8年の時点で組合員数18,000人、供繭数量121万貫、生糸生産高10万4,000貫と、全国一の規模だったそうです。
昭和初期 2010年8月30日
ここからは写真を撮りながら石段を登っていきました。
群馬県の温泉と言えば草津温泉と伊香保温泉ではないでしょうか。温泉の人気は甲乙つけがたいと思います。湧出量に関しては下記のように草津温泉が群馬県の温泉の約半分と吐出していますが、伊香保温泉は東京から近いことや、この石段の雰囲気が人気になっているのかもしれません。
ちなみに日本一の湧出量は137トン/分の別府温泉(大分県:計279トン/分)で、単一湧出口日本一は9トン/分の玉川温泉(秋田県)です。
右の写真は伊香保温泉の温泉噴出口第二号源泉です。(朝の散策の到達地点)
草津温泉 37トン/分
伊香保温泉 5トン/分
四万温泉 3トン/分
万座温泉 1.6トン/分
尻焼温泉 1.3トン/分
嬬恋温泉 1.0トン/分
群馬県合計 70トン/分以上
テレビを見ているとジャン・レノが登場するCMで伊香保温泉の石段街が写っていたのでCMの動画を紹介します。タイトルは「ジャン・レノが縁日で!!("Jan Reno" but in a festival day!)」で、マルハン(MARUHAN)のCM(Commercial)でした。動画の最初が上の写真の「湯の花まんじゅう」の看板が写った石段街でした。是非ともクリックして見てください。
掲載した写真は全て早朝のために人は少ないので、人の多い夕刻の写真をネットから左側に転用させていただきました。右側の写真は同じ構図の今回の写真です。左をクリックするとオリジナルの記事を表示し、右をクリックすると拡大写真を表示します。
2017年10月夕刻 2019年6月26日早朝
与謝野明子のうたが石段に刻まれていました。多くの文豪が伊香保を訪れたようですが、その中でも与謝野晶子は特別だったのではないでしょうか。
「伊香保の街」 大正9年 与謝野晶子榛名山の一角に、段また段を成して、
羅馬時代の野外劇場の如く、
斜めに刻み附けられた 桟敷形の伊香保の街、
屋根の上に屋根、部屋の上に部屋、
すべてが温泉宿である、そして榛の若葉の光が
柔かい緑で 街全體を濡らしてゐる。
街を縦に貫く本道は 雑多の店に縁どられて、
長い長い石の階段を作り、伊香保神社の前にまで、
Hの字を無数に積み上げて、
殊更に建築家と繪師とを喜ばせる。
与謝野晶子の歌が刻まれた石段の一番上は204段でした。200段の部分には茶色の表示板が貼られていました。
上に行くほど石段は細くなっていきました。早朝なのでお店はまだ開いていないし、人通りも少なかったです。お店が開いていると違った趣があったと思います。人が多いと、顔が写らないようにする苦労もあったと思います。
この場所の石段の一番上は212段です。写真の中央付近に、上で説明させていただいた小満口観覧所が写っています。
上から見た石段の景色です。444年前の1575年6月29日(天正3年5月21日)の長篠の戦いで負傷した武田兵の療養場所として武田勝頼が上州を支配していた真田昌幸に命じて温泉街を整備した時に、この石段が作られたそうです。
この場所は下から232段でした。伊香保温泉の石段は400年前に作られたそうです。今の石段は1980年から5年をかけて御影石を使って大改修されたそうです。そして「温泉街が1年365日、にぎわうようになってほしい」という繁栄の願いを込め、2010年に石段を新設して365段になったそうです。
途中には昔の丸いポストもありました。
このポストがあった場所は266段でした。
284段の処にある「処々や」で石段は右に折れて、さらに折れ曲がって上に伸びていきます。「処々や」の名物は食べログから転用させていただいた右の写真の6ケが450円の伊香保焼だそうです。タコ焼きのように見えるので、タコの代わりにイカを使ったのかと思ったら材料はタコだそうです。ただし入口の看板を見ると生地に工夫をして他では味わえない美味しさだそうです。階段数の284段/365の表示がなければ、石段はここで終わりだと思ってしまいそうでした。右上の段数表示板をクリックすると特別に大きく拡大(1300x680)するように設定いたしました。
上の284段の小さな段数表示板をクリックすると拡大しますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
その284段の「処々や」の処から見下ろした石段の景色です。
ここから石段は伊香保神社にまっすぐにのびていました。
伊香保神社の鳥居がはっきりと見えてきました。記念の300段目の石段は、この階段の一番下から2段目です。
最後の登りです。
縣社伊香保神社の石柱が印象的でした。
伊香保温泉の石段街のGoogleストリートビューの撮影機材は徒歩で撮影するためトレッカーが使用されました。本写真は2018年2月15日に投稿された渋川市のツイートに掲載されていた写真を転用させていただきました。撮影は2017年10月に行われたことがストリートビューの右下に書かれています。Googleの撮影機材は撮影車(自動車)、トライク(自転車)、トロリー(押し車)、トレッカー(徒歩)、専用スノーモービル、トレッカー(らくだ)などがあります。
ちなみにGoogleの撮影機材を初めて紹介させていただいたのは、フランスのアヌシーの旧市街地の記事の中でした。→ポチッ
最後の365段目の石段です。
この石段の上面が伊香保神社の境内でした。→SV
境内に建っている鳥居です。
こちらが伊香保神社の本殿・拝殿です。1877年春の伊香保大火で焼失後に仮宮として建立されて現在に至ったそうです。この写真を撮ったのが宿を出発して16分後の6時55分でした。
伊香保神社の説明板です。クリックすると読める大きさに拡大いたします。
主祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)だそうです。
伊香保温泉お泊りゴルフ [群馬県]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2019年5月25日~26日は1泊で18年(28回)続いているプライベートのゴルフに行きました。ただし私は21回から参加させていただいています。この会の特徴は日帰りが出来る場所のゴルフ場であったも、ゴルフした後に1泊して飲むことなのです。ただし、今回は伊香保温泉のため、1泊に値するお泊りゴルフでした。今回の参加人数は右下の写真の16名=4名×4組でした。下記が私が参加してからのコンペで、着色文字をクリックすると、その時の記事を表示します。右端の数値は参加人数です。
21回 2015年11月27日(金)~28日 奥房総 11名
22回 2016年06月03日(金)~04日 木更津 11名
23回 2016年11月18日(金)~19日 那須 10名
24回 2017年06月09日(金)~10日 九十九里 10名
25回 2017年11月17日(金)~18日 参加できず 10名
26回 2018年06月16日(土)~17日 九十九里 9名
27回 2018年11月24日(土)~25日 参加できず 9名
28回 2019年05月25日(土)~26日 伊香保温泉 16名(宴会参加:17名)
よく飲み会やゴルフで一緒させていただいている方の車に乗せていただき、千葉北インターから高速に乗り外環を経由して渋川・伊香保インターを降りて、伊香保温泉方面に向かいました。
渋川・伊香保インターの料金所です。
伊香保温泉を通過していきます。右側の道がゴルフ場に続いています。左側の道を上がっていくと今晩泊まるホテルに行きます。
ゴルフ場と宿の場所を紹介します。住所や電話番号や最寄バス停は宿に関するものです。
場所 伊香保ゴルフ倶楽部
宿名 和心の宿 オーモリ
住所 群馬県渋川市伊香保町伊香保58
電話 0279-72-2611
SV https://goo.gl/maps/QLiDg1oYzXxYrt239
最寄 関越交通 渋川駅バス停→伊香保温泉バス停 徒歩1分
━━ 千葉北インター → 伊香保ゴルフ倶楽部
━━ 伊香保温泉街散策ルート
伊香保温泉を過ぎてからは趣のある道も通りました。
この場所のSV→https://goo.gl/maps/o6BSEtDAQsP5Sa4dA
ゴルフ場に到着しました。家からの距離は約200km(Google表示:195km)でした。
ゴルフ場から伊香保温泉が見えました。
我々が泊まった宿はゴルフ場のクラブハウスよりも標高が194(=770-576)m高いので、この写真より右側に登ったところに宿があるのだと思います。
パターの練習風景です。
伊香保ゴルフ倶楽部の標高は611mだそうです。雪が残った山が北東方向に見えました。下記のリストは私がプレーした標高の高いゴルフ場ですが、伊香保ゴルフ倶楽部は5番目の高さでした。ちなみに日本で最も高いところにあるゴルフ場は標高1564mの菅平グリーンゴルフ(4番ホール:1658m)だそうです。
フォレストカントリークラブ 1427m (12番ホール:1500m)
丘の公園清里ゴルフコース 1160m
水上高原ゴルフコース 1000m (ホテル 965m)
ボナリ高原ゴルフクラブ 850m
伊香保ゴルフ倶楽部 611m
西那須野カントリー倶楽部 480m
六甲国際ゴルフ倶楽部 250m
見えている方向から標高2157.96 mの武尊山(ほたかやま)と思われます。穂高岳と区別するために上州武尊山とも呼ばれているそうです。
北西方向にも雪のある山が見えました。長野・新潟・群馬の県境辺りにある標高2000m超える白砂山、苗場山、岩菅山などだと想像しています。
昼食はやっぱりビールです。
こちらの昼食はバイキングだったので、ビールのつまみになりそうなものを選んでしまいました。
伊香保の名物の花豆(はなまめ)もあると聞かされて花豆もいただきました。
デザートも沢山の種類が用意されていました。私はアイスコーヒーにアイスクリームを入れていただきました。
最終ホールが冒頭の写真の吾妻コースの9番ホールでした。前半が音羽コースで後半が吾妻コースでした。今回はプレーしませんでしたが、鳥帽子コースがあり全27ホール(=9ホールx3)のゴルフ場でした。普通はゴルフ場でお風呂に入りますが、今回の宿泊場所は温泉なので、ゴルフ場ではお風呂に入らずにすぐに宿に向かいました。
伊香保ゴルフ倶楽部のホールレイアウトを紹介します。
━━ 音羽コース 1~9 午前プレー
━━ 吾妻コース 1~9 午後プレー
━━ 鳥帽子コース 1~9
泊まった宿は伊香保温泉のオーモリでした。宿に到着して部屋に上がってすぐに温泉に入りました。見ての通り建物は外装工事中でした。
ホームページで調べてみると2019年10月の創業100年を迎えるために2019年5月7日~7月10日に外装工事を行っているそうです。
部屋に置かれていた茶菓子です。地元の人が選んだ茶菓子は間違いなく美味しいのでお土産の参考のために、いつも写真を撮っています。今回は「蒸しきんつば」でした。
こちらが夕食の会場です。ゴルフを廻った組の4人ごとに座りました。
この日のゴルフのスコアーは、前半(音羽コース)が50で、後半(吾妻コース)が47、合計が97でした。実は97はゴルフ人生の中で1番よいスコアーで、ハンディー28をいただいていたので優勝することもことが出来ました。固定ハンディー戦のコンペでの優勝は始めてだと思います。今回のゴルフコンペは私にとっては、嬉しい記念のゴルフとなりました。おかげで夕食の食事やお酒は美味しくいただけました。
それでは夕食の料理を紹介したいと思います。
こちらが御膳です。旅館によっては全ての料理が並べられているところもありますが、こちらでは食事の進み具合で順番に出されるタイプでした。最初に置かれていたのは先付&組肴とお造りと小鉢と鍋物でした。
こちらが先付と組肴をあわせて5品が乗せられていました。
小鉢はサーモンのサラダでした。名前は「スモークサーモンサラダ仕立キラキラ海藻」のようです。
お造りには群馬で有名な、刺身こんにゃくが入っていました。
こちらは鍋です。上州もち豚のしゃぶしゃぶです。
珍しくしゃぶしゃぶは玉子で食べました。クリックすると玉子の部分を拡大いたします。
どうやら玉子も有名なようです。雰囲気はすき焼きのようですが、確かに新鮮な玉子でした。
部屋の中で串に刺して焼かれていた山女魚も出されました。焼きたては美味しかったです。クリックすると特別に大きく拡大いたします。
順番に料理が出されてきました。これは肉の入った煮物です。
野菜のあんかけが乘った揚げ物です。
締めのごはんと一緒に出された漬物類です。ごはんは入賞米「花ゆかり」が使われていました。漬物以外に赤だしもついていました。
デザートです。花豆が乘ったパンナコッタのようです。プリンあるいはババロアということもあり得ます。
食事の後は宿で貸切ってあった右の写真のカラオケ部屋で二次会のカラオケがあり、その後は部屋で三次会の飲み会でした。二次会と三次会の間に、屋上にある露天風呂に行ってみました。その時に撮ったのが下の大きな写真です。
撮った写真は暗いのでHPから転用させていただいた写真を右に掲載します。屋上には「ほの香」と「浪漫」と「貸切露天風呂なごみ(有料)」の3種類の露天風呂がありました。その後に三次会に合流いたしました。三次会が終わったのが翌日の1時10分を過ぎていました。過ぎてと書いたのは、三次会の最後の写真が1時10分だったからで、このあといつまで続いたかは判らないからです。泊まった宿の泉源は無色透明な「白銀の湯」が使われていました。建物が建っている標高は約770mなので屋上露天風呂は、約800mからの景色を見ながらの癒しの空間ということになります。
伊香保温泉は万葉集(759年~780年頃)に名前が出てくるほど歴史が古く、発見は1900年前(第11代垂仁天皇の時代)あるいは1300年前(僧侶・行基による発見)の2説があるようです。温泉が出来たのは榛名山の側火山である二ツ岳の爆裂によるものとされています。現在の温泉街が形成されたのは戦国時代だそうです。泉質は硫酸塩泉(黄金の湯)やメタけい酸単純泉(白銀の湯)などがあるそうです。右の写真はWikipediaから転用させていただいた明治20年代の伊香保温泉石段街です。つまり約130年前の写真です。
朝食の前に伊香保温泉を散策してみました。伊香保温泉の朝の散策に関しては次の記事で紹介したいと思います。
朝食も充実していました。
どうやら、こちらの玉子は有名なようで美味しかったです。美味しいと気が付いてから写真を撮ったので、食べかけの写真になってしまいました。
海外に行った回数は多いけれどもゴルフは得意ではないので、海外でゴルフをしたのは下記の5ケ所だけです。
台湾 1991年 淡水ゴルフクラブ
インド 1995年 プライベートの公園
タイ 2000年 Laem Chabang International Country Club
ベトナム 2002年 Vietnam Golf & Country Club
中国 2015年 龍悦谷東盟高爾夫俱楽部
5ケ所の中で最も印象的だったのが、下の写真のインドでのゴルフでした。プライベートの非常に広い公園でゴルフが出来るように、公園内にティーグランドとグリーンが作られていたのです。途中は公園のままなので、フェアウェーはありません。ゴルフの原点のような雰囲気でプレーをいたしました。あるホールでは前方を高い木が覆っているので、木越のティーショットとなりました。何度もプレーをした人と廻っているので打つ方向だけは教えてもらえるのです。あるホールではクリケットの試合が行われていて、声をかけるとクリケットを中断してもらえて、クリケットをしている人たちは観客に変わるのです。さらに別のホールでは大型の猿がたむろしていて、そこに球が行ってしまうと、球をあきらめることになるのです。ウォーターハザード(池ポチャ)扱いのようなものです。大きさはチンパンジーほどの大きさですが、手足や体はチンパンジーより細い猿でした。あまりにも大きいので怖くて近づけなかったのです。写真からゴルフをしたのは1995年11月12日(日曜日)であることが分かりました。
ゴルフをしたのは設計担当の立場として70万KWの発電所の性能運転の立ち合いのためにインドのJhanor村(近くの町:Bharuch)に行った時でした。
つまり前々記事で紹介したスイスのお巡りさんと関係があったのです。この時、日本を1995年11月6日に出発、成田→デリー→アーメラバード→(車)→Jhanor村と行き、帰りはJhanor村→(車)→バローダ→ムンバイ→ソウル→成田と移動して11月16日に帰国しました。下の写真は左がプロジェクトのために作った宿舎で撮った写真で、右が発電所です。