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高野山の抜け道 [高野山]

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高野山では奥の院までバスで行き、そこから歩いていろんな寺などを31ほど回って最後に女人堂まで来ましたが、もらった地図で山越えの小さな道を見つけたのでそこを通ることにいたしました。その抜け道の入口が上の写真です。左の建物が親王院で右の建物が総持院です。この入口、なんとなくワクワクさせてくれる雰囲気でした。ストリートビューでも見ることが出来ます。→ポチッ

その抜け道がオレンジ色(橙色)のラインです。点が無い青色マークが本記事で紹介している寺院などです。抜け道から主道路に出た後は紫色のラインを歩いて女人堂まで行きました。

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抜け道に入って入口の方を振り返った写真です。つまり右の建物が親王院で左の建物が総持院です。ストリートビューでは総持院の内部にまで入ることが出来ます。→ポチッ
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クリックすると拡大道が細くなり「國寶 地蔵尊 納経所 成蓮院」と書かれた石碑がありました。地図の中で成蓮院と書かれている場所です。改装中でした。
右の写真は石碑の左側の面を横方向だけ拡大いたしました。石碑の左の面には女人堂の文字が読み取れることから道しるべにもなっていたと考えられることから、昔は主要な道だったのかもしれません。クリックすると石碑の文字が読めると思います。
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細い道となってきました。本当に正しい道なのか心配になってきました。
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さらに進むと山道になってきました。山越えです。
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クリックするとGoogle登録写真山を越えると民家の中を進む道に出ました。この抜け道を通らなければ金剛峯寺の東側の道を通る必要があるので、かなり近道になったようです。
趣のある山道や民家の間の散策路も体験することが出来ました。地元の人だけが知ってる抜け道だと思います。地図のおかげで探検気分にさせてもらいました。
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抜け道から主道路に出ると正面に立派な寺がありました。ここは別格本山の南院です。南院の裏には徳川家康の霊屋があります。上の地図の マークのところです。
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南院の本堂です。本尊の浪切不動明王(重文)は、空海が唐から帰国の際、荒波を鎮めたという伝承があるそうで、山外不出の秘仏だそうです。
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クリックすると拡大本堂の西隣にお趣のある門がありました。
門の奥には仏舎利塔がありました。この仏舎利塔はスリランカのジャワルダナヤ大統領から贈られた仏舎利を奉納する為のものだそうです。
仏舎利はスリランカ出身のシロガマ・ヴィマーラ大僧正が南院で修行をした縁により送られたそうです。仏舎利塔には、お釈迦様と弥勒菩薩とお大師様が祀られているそうです。
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南院の隣は西宝院で高野槇の記事ですでに紹介しています。
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西宝院と道を挟んで趣のある塔が建っていました。名前は金輪塔です。
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金輪塔を別の角度から撮った写真です。
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枯山水の庭を紹介した蓮華定院の前に巴陵院がありました。女人堂に一番近い宿坊になります。朝の護摩焚きを体験できるようです。
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巴陵院の前は蓮華定院の長い土塀が続いています。すでに紹介した大門は高野山の入口ですが、この道の先にある女人堂も、もう一つの高野山の入口です。右の写真の4人と私の5名で高野山を訪れました。女人堂まで歩いて行きバスでケーブルカー乗場まで行きました。これで高野山の記事の掲載は一応終了いたします。
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蓮華定院の長い土塀の脇の坂道を上り詰めると高野山の入口であることを示す「高野山」と書かれた見事な石碑がありました。今回の記事が高野山の最後の記事です。今までに掲載した高野山の記事を紹介いたします。
クリックすると拡大クリックすると拡大タイトルをクリックすると記事を表示します。興味のある記事を見てください。
 高野山の抜け道
 総本山と大本山
クリックすると拡大クリックすると拡大 お寺散策
 枯山水
 壇上伽藍
 高野山真言宗・総本山 金剛峯寺
クリックすると拡大クリックすると4倍に拡大 高野山の総門 名前は「大門」
 高野まき
 高野山のメインストリート
 高野山と言えば精進料理
クリックすると拡大クリックすると拡大 南峰堂本舗
 高野山の商店
 ちょっとした4つの配慮
 本屋さん
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 奥の院
 高野山の入口 女人堂
 高野山のケーブルカー
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Google航空写真に記事にした寺院と商店などにマークを付けました。
上側の航空写真が寺院で下側の航空写真が商店です。左端の赤色マークが大門です。右端の赤色マークが奥の院です。
赤色ライン→緑色ライン→青色ライン→橙色ライン→紫色ラインと歩き、31の寺を紹介いたしました。名前を知りたい方はマークをクリックしてみてください。



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総本山と大本山 [高野山]

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2015年(平成27年)には高野山は開創1200年を迎えます。その高野山に来て高野山の総門である大門の次に訪れたのが、お寺散策と言う記事で、すこし紹介した寳壽院です。
高野山真言宗・総本山は、すでに紹介した金剛峯寺ですが、高野山真言宗・大本山と呼ばれている寺院があることを偶然知りました。それが、この寳壽院(ほうじゅいん)なのです。不思議なことに地図に寳壽院が書かれていませんでした。不思議に思って門に書いてあった寳壽院で検索した結果、大本山があることを知りました。

寳壽院は、高野山真言宗総本山・金剛峯寺の建物を模して作られているそうです。これは金剛峯寺が災害などで、使えなくなった場合に復旧するまでの間、寳壽院に高野山真言宗の総本山を置くことになっているためだそうです。これは高野山真言宗の宗務が、一日たりとも滞(とどこお)らないようにするなどの理由があると書かれていました。院内には、高野山真言宗僧侶の育成を目的とする高野山専修学院(こうやさんせんしゅうがくいん)を置かれています。寳壽院は、もとは無量壽院と称されていた。無量壽院は、1016年(長和5年)に深覚僧正が開基となり創建されたそうです。
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1839年(天保10年)に本堂は焼失してからは再建されませんでしたが、1970年(昭和45年)には本堂が新築されました。
1973年(昭和48年)に大本山に昇格したそうです。
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本堂は右の写真の金剛峯寺ほどではありませんが、大本山だけクリックすると拡大のことはありました。全国に3554寺ある高野山真言宗の2番目の格式である大本山なのです。大本山の主殿(下)の形は総本山の主殿(右)の形に非常に似ていました。
高野山には118の寺院があります。格式順に言うと次の通りです。数値は高野山の各格式の寺の数です。
  総本山    1 金剛峯寺
  大本山    1 寳壽院
  遺跡本山   0 (京都:神護寺 大阪:観心寺)
  別格本山  27 総持院 親王院 龍光院 明王院 宝城院 西禅院 正智院など
  準別格本山  2 無量光院 大楽院
  別院     0 (全国に9寺+海外3寺)
  一般寺院  87 熊谷寺など
  合計    118 全国合計=3554寺
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お寺散策 [高野山]



高野山には118のお寺があり、道を歩くだけでも趣のある景観に出会えます。その道の景観で一番気に入ったのが今回紹介する金剛峰寺の西側の通りです。上の写真は総持院のあたりから西の通りを撮ったものです。
手前から総持院、親王院、龍光院です。趣のある風景なのは、この通りは商店はなく、人通りも少なく、お寺だけが立ち並んでいるのも影響していると思います。でも、この通りに格調高い雰囲気があるのには、それ以外の理由があるような気がしました。

場所を地図で紹介すると緑の楕円で囲ったあたりです。西から順番に紹介いたします。


クリックすると拡大Google地図でも場所を紹介します。今回紹介の寺の門の位置あたりに青色マークを配置いたしました。マークをクリックすると写真を表示します。大門から右の写真の深山隧道( )を通って青色ラインの道で、こちらのエリアに来ました。

より大きな地図で 高野山 寺院 を表示
これがこの通りの一番西の奥にある寳壽院(ほうじゅいん)です。このお寺は地図には載っていなかったので書き込ませていただきました。このお寺はちょっと、いわくのあるお寺なので後日、詳しく紹介いたします。
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正智院です。こちらのお寺は高野山の中でも格式の高い別格本山です。右の石柱には別格本山・正智院と書かれており、左の石柱には準別格本山・大楽院と書かれていました。


宝城院のあたりから東の方向を撮った写真です。宝城院も別格本山です。


となりの西禅院も別格本山です。この写真はクリックすると拡大します。
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こちらの道の奥にあるのが明王院です。こちらの明王院も別格本山でした。


こちらが龍光院です。龍光院も別格本山でした。


こちらが親王院で、こちらも別格本山でした。枯山水の庭を紹介した寺院です。
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こちらが、この通りの一番東にある総持院です。こちらも別格本山でした。
高野山には118の寺院があります。格式順に言うと次の通りです。驚いたことに、この通り沿いにある7つ寺院は、すべて格式の高い別格本山だったのです。そのことがこの通りが別の場所とは違う雰囲気の理由だったのだとネットで調べてわかりました。
  総本山    1 金剛峰寺
  大本山    1 寳壽院
  別格本山 27 総持院 親王院 龍光院 明王院 宝城院 西禅院 正智院など
  一般寺院 89 熊谷寺など



別格本山の27寺を紹介いたします。
下の地図はクリックすると拡大するので別格本山を、いくつか見つけることが出来ると思います。バス停の奥の院前から緑のラインを歩いて女人堂まで散策しました。
  宝亀院、桜池院、天徳院、正智院宝城院西禅院明王院龍光院親王院
  総持院、西室院、南院、金剛三昧院、龍泉院、光台院、福智院、本覚院、
  本王院、普門院、一乗院、普賢院、西門院、大円院、持明院、多聞院、三宝院、
  遍照光院、清浄心院、円通律寺

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さちこさんのちらっと高野山をみてきました・・・にトラックバックしています。

枯山水 [高野山]

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11月30日に高野山に行ったことは、すでにいくつかの記事で紹介しております。一番東にある奥の院までバスで行き、後は歩いた高野山を散策いたしました。
奥の院からは参道を歩いて一の橋の近くで精進料理を食べました。そこから高野山の西の端に当たる大門までお寺を中心に歩いて行き、その後も女人堂も歩いて沢山のお寺を散策いたしました。
お寺にはいろんな庭がありました。枯山水(かれさんすい)と呼ばれる水のない砂の文様のお庭もありました。その中から二つのお寺の庭を紹介いたします。

一つ目が真言宗総本山である金剛峰寺の少し西にある親王院です。上の地図で見ると場所がわかると思います。この門をくぐると枯山水の庭が広がっていました。


門をくぐると枯山水の庭が広がっていました。丁寧に手入れされていました。枯山水は水のない庭のことで、池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式です。例えば白砂や小石を敷いて水面に見立てることが多く、橋が架かっていればその下は水です。石の表面の紋様で水の流れを表現することもあるそうです。
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同じ庭ですが少し遠目からの写真です。建物がよくわかると思います。ちょっと気になるのが梯子です。どのお寺にも同じように、梯子がかけられていました。これから雪が多くなってくるので雪下ろしのためでしょうか。
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こちらは女人堂の近くにあった蓮華定院です。この門をくぐると枯山水が左右に広がっていました。
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これが蓮華定院の枯山水のお庭です。模様のつけ方が面白かったです。
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こちらの蓮華定院は、幾何学的な枯山水の文様が印象的でした。
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蓮華定院は比較的、大きなお寺で塀の文様も趣がありました。高野山の沢山のお寺は奥の院と金剛峰寺以外は宿坊をやっているのです。上の地図の赤い「宿」のマークが宿坊のマークなのです。今回、紹介の2つのお寺も宿坊をやっていました。


場所を紹介します。緑色マーク( )の寺院に枯山水の庭がありました。


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壇上伽藍 [高野山]


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高野山の真言宗総本山の金剛峯寺の近くに壇上伽藍(だんじょうがらん)という場所があり、そこには15以上の建物がありました。ここは総本山金剛峯寺が管理しており、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建ですが真言密教の道場としての高野山の中核となる部分でもあります。
その壇上伽藍の中のいくつかの建物を紹介いたします。上の写真は敷地の中にある蓮池です。池の中島に善女龍王を祀る祠があります。

こちらの建物は蓮池の横を上に上がっていたっ場所に建っていました。この建物は大会堂で、安元元年(1175年)に鳥羽法皇御追善のため、その皇女であった五辻斎院頌子内親王の御願で建立されたものです。
もとは奥之院に近い東別所上乗院内にあったものですが、まもなく西行法師が内親王と相談の上、長日談義の学堂としてこの地へ移築されたそうです。最初は蓮華乗院と呼ばれていたそうですが江戸期より伽藍において行われる一山の法要の際、ここが威儀を正す場となったことから大会堂」と呼ばれるようになったそうです。


これらは東塔と三味堂です。東塔は白河上皇の御願によって大治2年(1127年)に建立されたものですが、焼失再建を繰り返して、現在の建物は昭和59年(1984年)に残されていた図面を参考に再建されたものです。
三味堂は伽藍の中では、もっとも小さい堂で金剛界大日如来を本尊としています。1166年~1169年の間に延長6年(928年)に建立の堂を移築、理趣三昧を修したところから三昧堂と呼ばれるようになったそうです。
現在の建物は文化13年(1816)に再建されたものだそうです。
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この不動堂は建久9年(1198年)に鳥羽院皇女八条女院の御願により行勝上人が創建された一心院の本堂であったと伝えられています。現在の建物は鎌倉時代後期の再建と考えられています。この不動堂は国宝です。
本尊の不動明王坐像は平安時代後期の作で重要文化財、その脇侍である八大童子立像は運慶作で国宝に指定されています。(現在は霊宝館に収蔵)
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これは金堂です。この金堂は高野山一山の総本堂で、弘仁10年(819年)建立の伽藍諸堂のうちで最初に建設に着手されたそうです。もとは講堂、御願堂などと呼ばれていたそうです。金堂も幾度となく焼失しており、現在の建物は昭和9年(1934)に再建されたものだそうです。
後ろの真赤な塔は根本大塔で幾度となく落雷に合い消失の憂き目をみて、現在の大塔は昭和12年、過去の記録をもとに再建されたものだそうです。高さ48.5m、四方各25mの大きな塔です。
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Googleの航空写真で壇上伽藍を紹介します。



高野山真言宗・総本山 金剛峯寺 [高野山]

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高野山真言宗総本山が金剛峯寺(こんごうぶじ)です。
高野山に何度も来ているのですが、今までに金剛峯寺に2度しか来ていません。子供のころに祖母祖父と来た時と高校の遠足のときだけです。奥の院は必ず行ったのに自分でも不思議に思っていますが、ほとんどが自転車で来たので走る方が主体だったせいだと思います。今回(11月30日)は、じっくりと見ることが出来てよかったです。

高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置し、現在は118寺の寺院が密集する宗教都市です。
中国で行ったことのある九華山も同じような宗教都市でした。中国ではいくつかあるようですが、日本では宗教都市と言えるのは高野山だけではないでしょうか。
真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が京都の東寺とともに、宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地、また、弘法大師信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めています。2004年には高野山やかつての表参道である高野山町石道(こうやさんちょういしみち)などが、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録され観光客の人も沢山訪れています。
現在は金剛峯寺という寺号は1つの寺院の名称になっていますが、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であったそうです。

見ての通り総本山としての威厳のある門構えでした。高野山の中だけで高野山真言宗は118の寺がありますが、全国では3554の高野山真言宗の寺があるそうです。さすが総本山です。寺院の格付けは順に総本山→大本山→遺跡本山→別格本山→準別格本山→別院→一般寺院、だそうです。
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門の裏側です。名前の書かれたお札が沢山張られていました。これも、なかなか趣がありました。このお札は千社札(せんじゃふだ)と言うそうです。神社や仏閣に参拝をした記念として貼るものだそうですが長い年月が経過して紙の空白部分が腐食すると墨の印刷された部分のみが残り、これを「抜け」と言うそうです。この写真の千社札はほとんどが「抜け」の状態のようです。千社札に使われる文字の書体は江戸文字の「籠文字」が用いられるそうです。最近では見苦しくなるような迷惑行為になることもあるので貼る人は寺側の思いに配慮がいるようです。
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こちらが金剛峯寺の主殿です。全体を一枚の写真で撮りきれない大きさですが、目いっぱい後ろに下がって撮ったのが、この写真です。
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主殿は壮大な建物だけではなく美しい建物でもありました。
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屋根のカーブが見事でした。
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別の角度からも紹介します。
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入口の高い石垣にある鐘楼は六時の鐘(ろくじのかね)です。この鐘楼は豊臣家きっての勇将であった福島正則公が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立しました。寛永7年(1640年)に、正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘が、かなまじり文であることで有名です。現在でも午前6時より午後10時まで、偶数時に時刻を知らせています。
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入口で清めを行う手水舎(てみずやorちょうずや)です。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。


神戸市東灘区の岡本の家に住んでいた1962年頃(1961~1963年)に父方の祖母と祖父と祖母の妹さんが神戸の家を訪ねて来た時に高野山に行きました。その時の金剛峰寺での記念写真です。冒頭の写真の場所で撮りました。
祖父が左端です。祖母は真中で祖母の妹さんが右端です。祖父と祖母の間に立っているのが私の母です。2013年12月24日~28日に宝塚の実家に行くので、この記事を母に見せるつもりです。


その時の金剛峰寺の主殿の写真です。この時は冬の時期でした。


奥の院は、かなりの雪でした。左が祖母祖父で右が奥の院の参道を歩く祖父です。この時は白浜にも行きました。
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この時、奥の院では武田信玄の墓の写真(左)を撮っていました。右が今回、撮った武田信玄の墓です。両方ともにクリックすると拡大するので興味のある方はクリックして比較してみてください。
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航空写真でも金剛峯寺(金剛峰寺)を紹介いたします。

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高野山の総門 名前は「大門」 [高野山]

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この建物は高野山の大門と呼ばれています。下の地図のように高野山の町の中の西の端に静かに建っている、名前の通り大きな門です。
町はずれにあることから訪れる人も少なく静かな場所ですが、クリックして拡大してみるとわかるように歴史のある、すばらしい建物でした。五間三戸(柱間が5間で入口が3間)の二階二層門で、高さは25.1メートルあります。高野山は世界遺産に指定されている場所です。その高野山全体に対する門(総門)が、この大門なのです。つまり世界遺産に入っていくにふさわしい門だと言えます。
通常は写真をクリックすると2倍に拡大いたしますが、この上の写真だけは4倍(面積では16倍)に拡大します。是非ともクリックしてみてください。

こちらに来たのは11月30日で、泊まっていた大阪のホテルから日帰りで来ました。ケーブルカーで高野山駅に着いて、そこからバスで東の端(地図の右端)にある奥の院に行き一の橋近くの、お寺で精進料理を食べた後に高野山の町を徒歩で散策しながら縦断して西の端(地図の左端)にある、この大門まで来ました。
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Google地図です。上の地図と比較してみてください。左端の赤色マークが大門です。右端の赤色マークが奥の院です。他の色のマークは別の記事で紹介した寺院です。赤色ラインがお薦めの奥の院の参道です。奥の院から赤色ラインと緑色ラインを歩いて寺院など散策しながら大門まで来ました。まっすぐ歩けば3.9kmの距離ですが寺院に寄りながらなのでもう少し長くなったと思います。新しい記事を掲載した場合はマークを追加いたします。名前を知りたい方はマークをクリックしてみてください。

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町のはずれまで来ると大きな門が見えてきました。道の左側には、すでに紹介とした南峰堂本舗という名の饅頭屋さんがあります。  
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さらに進み石段に近づくと全景が見えてきました。
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石段を登ったところです。静かな場所でした。
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門の前には大きなたて看板がありました。それには平成27年4月2日~5月21日に高野山開創千二百年・記念大法会が行われることが書かれていました。
高野山の開創当時は現在の地より数百メートル下方の旧道の九十九折谷(「つづらおりだに」あるいは九折谷)に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。その門が現在の門の前身だといわれています。
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現在の位置に移された時期は、永治元年(1141年)ともいわれ、その際、鳥居から門の形式に変更されました。さらに寛喜2年(1230年)には五間二階の楼門に改められたと記録されています。
その後、天正5年(1577年)に焼失しましたが、慶長9年(1640年)、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)によって再建されました。
現在の大門は、元禄元年(1688年)に焼失したことにより、同13年(1700年)5月造営の釿始を行ない、同14年7月大門中柱を建て始め、同16年9月上棟、宝永2年(1705年)8月に至って落慶供養が行われました。
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高野山の文字が印象的でした。実は学生時代には自転車で何度も(6~7回)、ここに登ってきました。山道を登ってきて最初に目にするのが、こちらの大門だったので思い出深い建物なのです。
文政元年(1818年)に屋根、箱棟の修理が行われ、近年においては明治28年(1895年)に屋根の部分修理および二階の縁廻り、一階側柱の根継が行われており、昭和61年(1986年)には、全面解体修理が施されました。この時、白木の状態であった表面を丹塗りとし、昔の状態に戻したそうです。
現在は建設当時の朱色でしたが学生時代は白木の状態で、こげ茶色の門でした。
カラフルな文様が高野山の文字の上に描かれています。その中に魚が2匹います。写真をクリックすると探せると思います。果たしてどの文字の上に泳いでいるでしょうか。
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大門の仁王像(金剛力士立像)は、その大きさからすると、奈良の東大寺南大門の仁王像に次ぐ、我が国二番目の巨像となるようです。
右の阿形像の像高は 5m46cmあり、左の吽形像は5m58cmあります。
こちらが右の阿形像です。阿形像は、京都の仏師であり高野山大仏師をも名乗った康意が造立したそうです。
冒頭の写真をクリックするとわかると思いますが、両仁王像の前に、お花が立てかけられていたのが印象的です。


こちらが左の吽形像です。吽形像は同じく京都五条の仏師、運長が造立したことが胎内の背位置に留められていた銘札から判明しています。
両像の造立に関わる関連資料が別に伝わっており、それによると、元禄9年(1696年)から10年にかけて、康伝、康意、康敬、運長など、当時の著名仏師による仕様見積書等がそれぞれに提出されていたことがわかりました。当時の仁王像造立過程を知る上で貴重な資料ということから、重要文化財金剛力士立像の付属品として取り扱われることになりました。


大門に掲げられている柱聯(ちゅうれん)です。文字が読み取れないのは写真が、ぶれているのではなくて色が落ちて滲んで読みとれないことは朱塗りの梁りの文様がクリアーなことから判ってもらえると思います。
そこでネットで調べた結果、右側には「不闕日日之影向」、左側は「検知處々之遺跡」と書かれていることが判りました。言われてみれば、そのように読み取れます。
これは「日々影向文」と呼ばれるものの一部で、全文は「卜居於高野樹下 遊神於都卒雲上 不闕日々之影向 検知處々之遺跡」だそうです。その意味は「弘法大師は高野山を入定の地と定め、弥勒の浄土である都卒天の雲の上におりつつ、弘法大師のいわれのある旧跡や遺跡に日々影向する」と解釈されるそうです。


最後に高野山の総門である「大門」の正面からの写真を再度掲載いたします。
日本最大の木造門と言われている右の写真の知恩院の三門よりも高さにおいてはクリックすると拡大上回ることからも、大きさが実感してもらえると思います。形式はいずれも五間三戸・二階二層門です。
          高さ   正面桁行
 知恩院 三門   23.8m  (幅50m)
 東大寺 南大門  25.46m (幅29m)
 高野山 大門   25.1m  21.4m
 南禅寺 三門   21.8m  22.0m
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高野まき [高野山]



高野山と言えば、高野山の名前のついた、この「高野まき」も有名です。11月30日に高野山に行ったときも、写真の「高野まき」がいろんなところで売られていました。この高野槙が昔からお供えされているの知っていましたが、その経緯は知りませんでした。このさいと思い調べてみると、 高野山の「禁忌十則」に、尊厳護持のため、「禁植有利竹木」という決まりがあり、果樹、花樹、竹、漆などを植えることを禁止されたため、花の代用が必要であったそうです。
そのために花でもないのに「高野まき花」と言われているのでしょうか。調べてみると、やはり槙花(まき花)とは「槙の枝」のことでした。

本来ならば生花店なのですが、ご覧のように高野山では生花店は高野槙の専門店です。店名に槙の文字が使われているのが印象的でした。こちらは山本槙店です。
そして冒頭の写真のお店は中槙花店だと思います。そのほかにも宮崎槙花店、五味生花店、大谷生花店がありました。


高野槙の専門店を紫色のマーク( )で表示しました。緑のマーク( )は不思議な本屋さんとか虎屋薬店とか饅頭屋さんとか、今までに記事で紹介した趣のある商店です。マークをクリックするとお店の名前を表示します。
コウヤマキ(高野槙・高野槇、Sciadopitys verticillata)は、マツ目コウヤマキ科の種で日本固有種で、常緑針葉樹で高木となります。別名ホンマキ。コウヤマキ科は1属1種であり、コウヤマキのみです。
庭園に植栽し、材木としても利用されます。世界三大造園木の一つで、木曽五木の一つです。古代には、棺材として最上級とされた。水に強くて朽ちにくいことから、現在でも湯船材や橋梁材として重宝されています。和名は、高野山真言宗の総本山である高野山に多く生えていることに由来しています。高野山では霊木とされています。

より大きな地図で 高野山 槇店 を表示
お寺の生垣でも、よく見かけました。こちらの西室院(にしむろいん)の高野槙の生垣もすばらしかったです。写真をクリックすると拡大するので是非とも拡大写真を見て欲しいです。西室院の場所はこちらです。→ポチッ
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高野山のメインストリート [高野山]

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奥の院の入口である一の橋口から金剛峯寺のあたりまでの間には沢山の商店とお寺があります。まさに宗教都市のメインストリートと言えます。そこのお寺をいくつか紹介すると雰囲気が伝わると思います。最初は不動院への参道です。

今回の紹介しているあたりの地図を掲載いたします。赤いラインのあった寺院を東から順に紹介していきます。すでに紹介したお土産屋さんなどの商店もこの赤いラインの道路にありました。
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こちらは別格本山の三宝院です。
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ちょっと変わった雰囲気の寺院がありました。成福院の横の寺院です。


こちらが成福院です。


こちらが別格本山の持明院です。


別格本山の大円院です。


大円院の塀が立派なので掲載いたしました。
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こちらが常喜院です。


常喜院には地蔵尊がありました。ちょっと違った雰囲気を感じさせてくれる場所でした。


これが増福院です。
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壇上伽藍に隣接した寺院である勤学院です。
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空色マークが今回紹介した寺院の門あたりの場所を示しています。
黄色マークは精進料理木製ガードレールを紹介したお寺です。

より大きな地図で 高野山 寺院 を表示

高野山と言えば精進料理 [高野山]

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高野山に来れば、やっぱり精進料理を体験したいですね。宿坊に泊まれば、もちろん夕食で食べれるのですが、日帰りで来ているので昼食で精進料理を食べることにしました。ネットで調べて写真のお寺に精進料理を12時に予約しました。場所は奥の院の入口の一の橋に近い熊谷寺です。高野山に着いて、最初に奥の院に行き参道を歩いて一の橋まで来ると丁度12時でした。

中に入るとさっそく、長い廊下を案内されました。


そしてこちらの部屋に案内されました。


部屋の前の廊下から写真を撮りたくなります。


部屋の中には人数分のお膳が並べてありました。暖かいものは後から持ってこられました。見ての通り5名で高野山に来たのです。


部屋と廊下を仕切る障子のシルエットがきれいでした。


待っていると暖かいものが並べられました。天ぷらは揚げたてが最後に出てくるのですが、それまで箸を付けずに天婦羅が来てから写真を撮りました。
デザートは季節柄(11月30日)、柿でした。
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さっそく記念撮影です。


ご飯をよそいでももらった上に、お茶まで入れていただきました。


料理を紹介します。これは蒲鉾のように見えるのは麩(ふ)です。この生麩(なまふ)はおいしかったです。高野豆腐と昆布も精進料理の定番ですね。


こちらは、ごま豆腐です。これが精進料理の栄養源になっている気がしました。味は本場の高野山だけのことはありました。
調べてみると高野山の精進料理の一番の特徴は、ごまとうふを使う事だそうです。ごまとうふは昔、弘法大師がある民家に宿泊された際、亭主のもてなしとしてふるまわれたもので、大師は大変感動され、後世まで残すようにと言葉を残されたと言われたそうです。高野山のごまとうふは白ゴマと吉野葛以外使わず、般若心経を唱えながら練るという独特の製法で、滑らかにまるでとろける口当たりは多くの方を虜にし、おみやげに最も喜ばれているそうです。


天ぷらはもちろん野菜天ぷらです。藻塩で食べました。
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煮豆に


酢の物です。
もっと豪華な精進料理もあるのですが昼食であることから今回の質素なコースの昼食プランAにいたしました。
質素な方が、高野山と言う場所のお寺で食べる精進料理らしく、周りの雰囲気にも合っているような気がしたのも今回のコースを選んだ理由でした。
  昼食プランA 3500円
  昼食プランB 4200円
  昼食プランC 5250円~8400円

ネットでの精進料理の説明を紹介いたします。
僧侶は日々の暮らしの中で修行としての食事をします。本来食事は朝の粥・汁・香の物という一汁一菜から始まり、昼の白米・汁・香の物オカズの食事のみです。ただ、それだけでは夕方にお腹が減ってきますので、夕食を摂るのですが、本来夕食は「食事」という概念では捉えず、「薬食(やくじき)」という名前が付き、薬であると考えます。この薬食を肉、魚介類、ニンニクやニラ、タマネギ等の臭いのきつい野菜類を使わず、研究され創意工夫され進化してきたものが現在の精進料理と言われるものです。

暖かいお澄ましはいいですね。高野山では精進料理が何百年も作り続けられてきただけのことはあり、質素ですが美味しい料理であり、高野山の雰囲気を堪能させていただきました。


炊き立てご飯も最高のご馳走でした。
精進料理の「精進」とは次の意味が込められています。
  ・ 一心不乱に努力する事
  ・ 仏教の戒律を守る事
  ・ 仏道の修行に励む事
  ・ 肉食を断って菜食をする事
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南峰堂本舗 [高野山]

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今回も高野山の中の老舗の紹介です。
創業123年の虎屋薬局を紹介いたしましたが、こちらは創業83年以上、大正時代の南峰堂本舗(なんぽうどうほんぽ)です。名物は酒饅頭のようです。高野山の町の西の端にある大門の近くにあるお店です。大門のそばにあるため「大門力もち」も有名です。これ以外にもいろんな和菓子を売っているので、この次に行く機会があれば是非とも食べてみます。
 住所 和歌山県伊都郡高野町高野山大門803
 電話 0736-56-2316
 営業 7:30~19:00
 休み 不定休

木の間に見える大きな建築物が大門です。南峰堂本舗は大門のすぐそばにあるのがわかってもらえると思います。
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南峰堂本舗の前から高野山の町の中心の方向(東方向)を見た景色です。沢山の商店が並んでいます。このあたりでは釜飯も名物のようです。

高野山の商店 [高野山]

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高野山は海抜800mにある人口4042人の宗教都市です。世界遺産に登録された2004年以前は外国人観光客は年間4000~5000人程度だったそうですが2004年以降は徐々に増えてきて2009年は約35,000人になったそうです。「ミシュランガイド」に紹介されたこともあり欧州からの観光客が特に多いそうです。私も今回、高野山を見せてあげたくて3人の外国人と一緒に来たので、外国人観光客に少し貢献したのかもしれません。
日本人も含めた観光客全体の2012年の観光客の数は125.9万人だそうで、当然ですが、お土産屋さんも沢山ありました。新しいお店も景観に配慮した建物になっていました。

こちらは食堂です。名前は南海食堂と読み取れます。食堂の後ろは旅館群のように思われます。住んでいる方が4000人ほどなのにも驚きました。観光客の方が多いときは宗教都市でもあり、観光都市でもありますね。
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お寺が118もありお坊さんも沢山おられるので足袋の需要は沢山あるのでしょうね。懐かしい老舗の福助足袋さんもありました。お店の名前は石橋法衣衣料店です。外人さんを意識したTABIの表示も印象的でした。


このあたりは高野山で生活している方が利用される商店が沢山あるところです。クリックすると拡大するのでわかると思います。
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緑色マークが記事で紹介したお店です。紫色マークは高野槇の専門店です。

より大きな地図で 高野山 商店 を表示

ちょっとした4つの配慮 [高野山]


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ここは高野山の遍照光院の前のメイン道路ですが景観を大切にする配慮がいくつかありました。気が付かれましたか。クリックすると拡大するので、探してみてください。
道路のカーブ部分にはガードレールが設置されていますが、一つ目がそのカードレールが木で作られていることです。鉄の部分を両側から木で挟んで丸くしています。支柱も白ではなく茶色が使われているのも二つ目の配慮だと思います。

冒頭の写真の中に道路標識がありました。ただし裏側だったので気が付かれない方もおられたかもしれませんが、実は道路標識の上に屋根が取り付けられているのです。標識自体は色を変えられないので少しでも景観に近づけているのだと思います。その屋根が三つ目の配慮で四つ目の配慮は道路標識の支柱にも茶色が使われていることでした。


お寺の写真を撮っても白いガードレールより格段に雰囲気がいいですね。せっかくなので写真のお寺である遍照光院を紹介いたします。高野山真言宗の総本山は金剛峰寺ですが、高野山には総本山の金剛峰寺を除いて117のお寺があります。その中に別格本山が27寺があります。その別格本山の一つが遍照光院なのです。遍照光院(へんじょうこういん)は、天長9年(西暦832年)11月に弘法大師によって創建され、白河上皇が高野山参りの度に御在所とされた由緒のある寺院です。


門からの内部の景色です。本堂には重要文化財快慶作の阿弥陀像外、寺宝は国宝、重文など多く狩野藤原採林の襖絵など手近に見ることが出来るそうです。高野山のお寺のほとんどは宿坊になっており、こちらでも個室(35室)大広間(2室)中広間(1室)があり、最大で個人は150名、団体で200名が泊まれるそうです。

別格本山の27寺を紹介いたします。
宝亀院、桜池院、天徳院、正智院、宝城院、西禅院、明王院、龍光院、親王院、
総持院、西室院、南院、金剛三昧院、龍泉院、光台院、福智院、本覚院、
本王院、普門院、一乗院、普賢院、西門院、大円院、持明院、多聞院、三宝院、
遍照光院、清浄心院、円通律寺

本屋さん [高野山]


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高野山の町の中を歩いていると本屋さんがありました。写真のように沢山の本の名前が書かれていました。置いている本の名前だと思いますが高野山らしい雰囲気だったので紹介いたします。
書かれているいる名前をネットで検索しますと、やはり本の名前として出てきました。写真はクリックすると大きく表示するので題名が読見やすいと思います。
建物も、すでに紹介した虎屋薬局(築123年)に負けないくらいの雰囲気でした。

Google地図とストリートビュー(S.V.)で本屋さんを探してみました。お店の名前は「佛教美術研究所」でストリートビューの画像を掲載いたしました。写真をクリックするとオリジナルを表示します。
 店名 佛教美術研究所
 S.V. http://goo.gl/maps/fzHqd
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地図も紹介いたしす。土井商店と(株)前板工務店の間の佛教美術研究所です。

より大きな地図で 佛教美術建機有所 を表示

虎屋薬局 [高野山]

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クリックすると拡大高野山に行ったときのことを、先日からいくつか掲載させていただいています。高野山の奥の院参道お寺はどれもすばらしい建物ばかりでしたが、趣のある商店も沢山あったので、いくつか写真を撮りました。特にこちらの虎屋薬局さんは特別のような気がしました。こちらの写真はクリックすると拡大するので是非ともクリックしてみてください。

別の角度からの写真も紹介します。こちらもクリックすると拡大します。
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写真を撮っているときは気がつきませんでしたが、ガラス窓越しに大きな虎の置物がありました。お店の名前が虎屋だから「まねきねこ」ではなく「まねきとら」と、したのでしょうか。確認してみたいですね。
木製看板の「とらや藥局」も趣があります。その看板の横になにやら説明文があることも、後から写真を見て気がつきました。
調べてみるとナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の英語版の明治44年(1911年)11月号に虎屋さんの店の写真が掲載されていることが書かれているとのことでした。


クリックすると拡大冒頭の写真あるいは2枚目の写真をクリックしても、わかるのですが、庇(ひさし)の上に趣のある灯篭があったので、拡大して掲載してみました。
灯篭の正面に「とらや」、左右に「くすり」と書かれています。
掲載するにあたり、虎屋薬局さんを調べてみると高野山の商店で最も古い建物で、明治23年(1890年)に建築されたものでした。今から123年前に建てられたものでした。
見た瞬間の印象は確かでした。
写真をクリックすると2倍に拡大した写真を表示します。

奥の院 [高野山]

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クリックすると拡大高野山に来て最初に訪れたのが奥の院です。奥の院とその参道は高野山の雰囲気が凝縮された世界に感じます。上の写真が高野山の奥の院です。残念ながらこれより奥は、左の看板に書かれているように写真撮影が禁止されているため全景は紹介できません。奥の院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師が御入定されている聖地です。高野山で建物の撮影が禁止されているのは珍しいです。それだけ神聖な場所なのでしょう。

上の写真もクリックすると拡大するのですが、クリックが面倒な方のために奥の院の建物部分を拡大してみました。クリックするとさらに拡大します。この建物の奥に弘法大師の霊廟があります。
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高野山で一番大好きな場所が一の橋から奥の院への参道(緑色ライン)です。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓所や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年を超える杉木立の中に立ち並んでいます。それらの中には武田信玄、上杉謙信、織田信長など有名な武将たちの墓所が沢山あり、それらの風景には圧倒されます。この参道は是非とも歩いて欲しいです。バスで来た場合は、奥の院前まで行かずに手前の一の橋口のバス停で降りることを推奨いたします。正式な参拝も一の橋から歩くのが本来の姿です。

奥の院側から参道を見た景色です。我々は12時に一の橋の近くのお寺に精進料理を予約してあり、時間がなかったので、先に奥の院に行き、奥の院側から一の橋に歩きました。
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御廊橋のあたりの景色です。
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樹齢千年を超える杉の古木には圧倒されました。400年~500年前の戦国の武将の墓所・墓石を見るとロマンを感じてしまいます。
後で紹介いたしますが、武田信玄(1521年~1573年)や伊達政宗(1567年~1636年)など有名な武将の墓所を見ると、なぜか感激してしまいました。
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こちらが島津家久(初代薩摩藩主)と島津光久(二代薩摩藩主)の墓所です。伊達政宗の墓所も石の鳥居と大きな同じタイプの墓石でした。
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こちらは庄内藩主の墓所です。


石田光成の墓所も見つけました。文化的に重要なものばかりで見ごたえがありました。


こちらも見事な墓です。安芸藩(広島)の浅野家(藩主)の墓所です。江戸時代の藩主あるいはその家の墓所は立派なものが多かったです。
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こちらも墓の構えからして名のある家の墓所だと思います。やはり藩主の家だと思われます。調べた結果、徳川家康の次男である結城秀康の石廟で重要文化財に指定されていました。福井藩の藩祖、つまり第1代藩主でした。
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クリックすると拡大是非とも見たかったのが武田信玄の墓所です。敷地は広かったけれど墓石は他の墓石に比べて小さかったのが印象的でした。右の白黒の写真は、私が小さいころの1962年頃(1961~1963年)に祖母・祖父に連れられてきたときの写真です。
2つの墓石の左の大きい方が武田信玄(第19代当主 1573年没)で、右の小さい方が信玄の子である武田勝頼(第20代当主 1582年没)の五輪塔です。
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武将ばかりではありませんでした。歌舞伎役者の市川団十郎のお墓もありました。これはどうやら初代の市川團十郎(1660年~1704年3月24日)の墓のようです。これ以外にも沢山の有名な墓所を見ることが出来ました。


こちらが有名な「汗かき地蔵」と「姿見の井戸」です。お堂の中に汗かき地蔵尊が安置されています。汗かき地蔵尊の謂れは、いつも人々が犯した罪の苦しみを、人々て代わって受けておられるので、その苦しみのため汗を流しておられるのだそうです。黒っぽい石に彫られた地蔵尊は、実際にツユが吹いて、汗が流れているように見えるときがあるそうです。
そして、お堂の右の奥の方に「姿見の井戸」があります。クリックして拡大すると文字が読み取れると思います。この小さな井戸「姿見の井戸」は空海が高野山に登ったときに掘られた井戸だといわれています。伝説では、この井戸の水は、どんな眼病にも霊験あらたかだそうですが、のぞき込んで自分の顔が映らないと3年以内に死んでしまうのだそうです。「中の橋」の近くに、この「汗かき地蔵尊」と「姿見の井戸」があります。
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高野山の入口 女人堂 [高野山]

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クリックすると高野山内の地図を表示すでに紹介した箕面紅葉を見に行った前日(11月30日)は高野山に行ってきました。ケーブルカーで高野山駅に着きいてバスに乗ると最初のバス停が女人堂でした。高野山では沢山歩きました。最初に紹介するのが女人堂です。
昔、高野山は女人禁制の山で七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていたそうです。そのために各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれていたそうです。この建物は現存する唯一の女人堂だそうです。

高野山の入口であることから立派な石碑が道路の両側に建てられていました。右には高野山と書かれ左には真言宗の総本山である金剛峰寺の文字が書かれていました。石碑の裏には昭和二十九年八月吉祥日と書かれていました。と言うことは今から56年前に建てられた石碑ということになります。
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女人禁制は141年前の明治5年(1872年)に解かれるまで千年余りの間、つづいたそうです。解放後は高野山参拝の休憩所的存在となりました。
実は女人堂は高野山の中の最後の参拝場所でした。ケーブルカーの駅からバスに乗ってここでは降りずに奥の院のまで行って、高野山の沢山のお寺を歩いて回って、ここまできました。ここからはバスに乗ってケーブルカー駅まで帰りました。
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高野山のケーブルカー [高野山]

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大坂のホテルから日帰りで高野山に行ったときのことです。上の写真はケーブルカーの下の駅「極楽橋」に停車中のケーブルカーです。
通称は高野山ケーブルと呼ばれていますが正式名は南海電気鉄道鋼索線あるいは略して南海鋼索線(なんかい・こうさくせん)です。今から81年前の1930年6月29日 高野山電気鉄道により開業しました。長い歴史の中で車両は1953年6月23日と1964年12月17日に取り替えられました。今の車両(コ11・21形)は3代目というわけです。つまり今の車両は47年間使われてきたことになります。2代目(コ1形)は当時としては採用例の少ないアルミ合金製だったそうです。

今回は高野山に登るケーブルカーだけでなく南海電鉄も紹介いたします。
高野山ケーブルカーは大坂の難波から南海電鉄の高野線とつながった路線なのです。つながったと言うよりは一部と言った方が正解です。


きっぷも一枚で高野山まで行けます。上のきっぷがJRとの乗り換え駅である新今宮から高野山までのきっぷで、下が高野山から終点の難波までのきっぷです。


高野線の電車からの景色です。大坂からの列車で山間に入ったあたりです。


もうすぐ極楽橋です。このあたりは単線なので駅で列車同士がすれ違うために待つことがあります。この電車も結構な傾斜で登っていきます。


極楽橋に着きました。ここでケーブルカーに乗り換えます。右の電車に乗ってきました。駅の標高は538mです。ホームは櫛形3面4線です。以前は当駅でケーブルカーに乗らないで乗降する利用客は2004年は1日あたり101人と稀でしたが、高野山町石道が紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産に登録されたのちは、散策コースとして下車する客も増えています。


クリックするとネットの記事を表示下の写真は、もしかしてと思い、駅到着寸前に電車の中から撮った橋です。調べてみると、これが駅名の由来になった極楽橋でした。この橋は不動坂という高野山への参道に通じています。現在の橋は1954年に架け替えられたものだそうです。右の写真はネットから拝借した明治時代の写真です。江戸・明治時代は不動橋と呼ばれていました。
明治・大正・昭和の極楽橋の写真をネットで見つけました。→ポチッ
クリックするとネットの写真を表示

ケーブルカーと列車は連絡されておりすぐにケーブルカーに乗ります。高野線の列車の極楽橋駅発着時刻に合わせて運行されているため運転間隔は不均等だが、おおむね10 - 40分毎に運行されています。ただしお年寄りでも大丈夫なように乗り換え時間は考えてあるので乗り過ごす心配は要りません。
さらに積み残しが発生した場合には当該便の7分後に臨時便が運転するそうです。その場合反対方向の便は実質回送便ということもあります。


ケーブルカーの先頭から前を撮った景色です。
 路線距離 :800m
 高低差  :330m
 最大傾斜 :56.82%(水平100mに対して高低差56.82m 29.6度)
 方式    :単線2両交走式
 軌間    :1067mm
 駅数    :2駅(起終点駅含む)
 所要時間 :5分


ケーブルカーは線路が真直ぐに近いところが多いけれども、高野山は山が入組んでいるためか大きなカーブがありました。


丁度真中で、上からのケーブルカーとすれ違います。


これが頂上の高野山駅です。ケーブルカーの車両の先頭には運転手さんが乗っています。2006年7月1日からは全線でPiTaPaとICOCAが使用できるようになりました。ケーブルカーでICカード乗車券が使えるのは、日本全国でここだけだそうです。


高野山駅の駅舎は1928年完成の木造2階建です。ケーブルカーの開業が1930年6月29日なので開業当初の建物ということになります。洋風建築を基調とする外観で、高野山の玄関駅らしい寺院風の宝形造の屋根を持っています。1階がコンコース、2階が待合室です。待合室には展望室があり、また高野線の歴代車両の写真などが飾られています。この駅舎は2005年に南海電気鉄道鋼索線高野山駅駅舎として国の登録有形文化財に登録されたそうです。一日の乗降人数は平均で1,982人だそうです。
ここから南海りんかんバスに乗り換えて高野山の町に向かいます。
クリックすると拡大
高野山でユネスコの世界遺産に登録された場所は大門、伽藍、金剛峯寺、徳川家霊台、金剛三昧院の各境内地、そして、奥之院全体と自然景観や森林までを含めて登録の対象です。
掲載させてもらった高野山の記事を紹介します。
タイトルをクリックすると記事を表示します。
  高野山と言えば精進料理 ←ぜひ体験を!
  高野山のメインストリート
  高野山の商店
  高野山真言宗・総本山  ←金剛峯寺
  お寺散策
  ちょっとした配慮
  枯山水
  南峰堂本舗
  高野まき
  大門
  本屋さん
  虎屋薬局
  総本山と大本山
  奥の院 ←お薦め場所
  高野山の入口 女人堂

ここからはケーブルカーの下りを紹介します。
高野山駅から見たケーブルカーです。これから乗るところです。


下りるときも先頭に乗りました。高野山駅を出るとすぐに急カーブが待っています。


15時37分と言えどもケーブルカーのあたりは暗くなりかけていることから写真に撮ると近い景色は流れてしまいます。


真中あたりで昇って来る車両とすれ違うところです。こちらの景色はクリックすると拡大します。
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すれ違いを過ぎたあたりの景色です。


もうすぐ極楽橋駅です。


極楽橋駅からは有料特急「こうや」に乗りました。朝、大坂から高野山に行く時はは特急料金の要らない普通の特急でした。
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座席も特急らしいです。


休みの日の大阪梅田からの往復の例を掲載います。
行きは1時間54分で帰りは1時間48分です。意外と所要時間は短いです。


難波からのルートを表示します。


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