錦帯橋 戻りは動画ではなく写真を撮りました。 [山口県]

山口県の周防久保の墓参りをした2020年12月23日の帰りに錦帯橋や岩国城や武家屋敷や吉香神社に行きました。岩徳線の川西駅から岩国城に行く時は、上の写真の奥側から手前側に錦帯橋を渡り、帰りは手前側から奥側に錦帯橋を渡って岩国国際観光ホテルまで行き、タクシーを呼んでいただいて新岩国まで行き実家の宝塚まで帰りました。奥側から手前に歩いた時は動画を撮ってすでに紹介いたしました。本記事では手前から奥側に歩いた時に撮った写真を紹介したいと思います。上の写真は山の上の岩国城から撮った錦帯橋です。写真をクリックすると文字なしの拡大写真を表示します。
上の岩国城から撮った写真の奥側(南東/左岸/岩国市岩国)側から手前側(北西/右岸/岩国市横山)側に第一橋、第二橋、第三橋、第四橋、第五橋です。地上から撮った下の写真にも第一橋~第五橋を書き込んでみました。錦帯橋に関しては2020年10月07日にも詳しい説明の記事を掲載いたしました。→ポチッ

川名 錦川
完成 1673年(初代落成) 348年前
形式 5径間木造アーチ橋
全長 193.3m
幅 5m

江戸期には中央の3つのアーチ橋(第二橋、第三橋、第四橋)は定期的に約20年ごと、両端の桁橋(第一橋、第五橋)は約40年ごとに架け替えらたそうです。その結果、9回~16回の架け替えが行われ、具体的な現在までの架け替え工事回数は次の通りです。錦帯橋は単に昔の橋が残されているのではなく伊勢神宮のように架け替えの技術が伝承されてきた橋なのです。右の小さな写真はネットから転用させていただいた架け換え工事等の写真です。

第一橋 約40年ごと 10回
第二橋 約20年ごと 14回
第三橋 約20年ごと 14回
第四橋 約20年ごと 16回
第五橋 約40年ごと 9回

Googleマップの航空写真でも錦帯橋(━)の第一橋~第五橋の位置を紹介します。さらに橋脚の部分は薄黄緑色に着色いたしました。

橋の上流側(右上方向)は川の水量が少ない時でも水を湛えていて、屋形船に乘ったり右の小さな写真の鵜飼を見ることが出来ます。

写真は撮った順に紹介します。つまり第五橋から第一橋に向かって紹介していくわけです。こちらの写真は第五橋に足を踏み出す前に撮った錦帯橋です。右側が錦川の下流側です。川は左側から右の方向に流れたいます。

同じ場所から橋の渡る方向の正面を撮った写真です。

同じ場所から上流側をとりました。写っている橋は錦城橋で、その橋の右側の大きな建物が岩国国際観光ホテルです。上の航空写真のところで説明させていただいたように、水が湛えていることが分かっていただけると思います。

第五橋から見た錦川の上流側の水面です。この日は水量が少なくて橋から離れると鏡のような水面でした。橋がある部分の川底は石垣のように石が組まれています。これによって大雨で激流になっても川底がえぐられることを防ぐとともに、上流側に水を貯めているのだと思います。

上の写真と同じ場所から第四橋を撮りました。第四橋には階段が付いていました。階段が付いているのが第二橋と第三橋と第四橋です。

第五橋と第四橋の間の橋脚の部分まで来ました。

橋脚の部分から第四橋の階段を撮った写真です。

第四橋のトップの部分まで上がると階段はありませんでした。次の第三橋が見えます。

第四橋のトップからズームで第三橋と第二橋を撮った写真です。

第四橋と第三橋の間の橋桁の上流側です。水嵩が増しても水が切れるように上流側は尖っています。

錦帯橋が作られた初期の頃に激流により橋脚が流された経験が今の橋脚に行かされているのだと思います。見るからに頑丈そうです。

石の楔で石どうしつないでいました。橋の上の雨水を流す樋上の溝も橋脚に掘られていました。

第三橋の上から見た下流側の景色です。

第三橋と第二橋の間の上流側の橋脚です。

第三橋と第二橋の間の下流側の橋脚です。橋脚の上流側と下流側は同じ形をしていることが分かりました。石をつなぐ楔や雨樋がありました。

第二橋を登り始めた位置からの下流側の景色です。一番高いところが城山の山頂だと思われます。

第三橋と第二橋の間の橋脚の位置から撮った第二橋の階段です。右側が下流側の欄干です。

第三橋と第二橋の間の橋脚の位置から撮った上流側の欄干と岩国国際観光ホテルです。

第二橋のトップから撮った下流側の左岸の方向の写真です。

第一橋を渡り切った位置から第一橋と第二橋を撮った写真です。右側の山の上に岩国城の天守閣が見えます。この写真は左岸から岩国城に行く時に撮った写真です。、

左岸の上流側から撮った写真です。この後、冒頭で説明したように岩国国際観光ホテルまで行き、タクシーを呼んでいただいて新岩国まで行ったわけですが、ホテルで大失敗をしてしまいました。

ホテルの入口の写真は撮っていなかったのでSVを掲載させていただきました。
タクシーが来るまで少し時間がかかるとのことで、ホテル内でタクシーを待っていて乗ったわけですが、カメラをホテル内に忘れてしまったのです。気がついたのは新岩国の改札を通った時でした。いつも手にカメラをぶら下げているので手ぶらなので気がつきました。携帯(スマホ)のバッテリーが切れかかっていたし、新幹線がすぐに到着するために電話して見つかっても取りに行けないので、実家に着いてからホテルに電話することにしました。
実家に着いて右の小さな写真の岩国国際観光ホテルに電話するとカメラはすぐに見つかりました。

錦帯橋 戻りは動画ではなく写真を撮りました。
岩国城の麓の城(御土居)跡に建立された吉香神社(きっこうじんじゃ)
武家屋敷 旧目加田家住宅
錦帯橋のソフトクリーム 初めて「むさし」で食べました。

岩徳線の動画 その2 錦川清流線との合流
岩徳線の動画 その1 柱野駅到着
岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色
新年あけましておめでとうございます。2021年 元旦

岩国国際観光ホテルの方には大感謝です。岩国国際観光ホテルを利用させていただいたのは4度記憶にあります。2003年と2007年は法事で利用させていただきました。2003年には両親と姉と私の4人が泊まりました。2003年の写真は法事の翌朝の朝食時の写真で、父と母と姉と叔父さんと叔母さんが写っています。2018年と2019年は墓参りの時の昼食で四川飯店を利用させていただきました。
2003年09月14日 2007年04月14日


2018年03月25日 2019年03月23日


2007年04月14日には桜に囲まれて岩国城も見ることが出来ました。

2003年09月14日から2020年12月23日までの間に少なくとも錦帯橋に13回来ていますが、錦帯橋を渡ったのは2020年12月23日のみです。ただし子供の頃は何度も渡っているはずです。桜が咲いていた2007年04月14日の錦帯橋の写真を拡大いたしました。クリックするとさらに面積で16倍の拡大写真を表示します。

往路の時に撮った錦帯橋の動画は一度掲載させていたたきましたが、あらためて紹介させていただきます。第一橋から第五橋に向かって歩いた動画です。
溺愛猫的女人さんから金鳥のCMに錦帯橋が出てきたのを聞いて探してみました。小柳ルミ子さんが歌う渦巻音頭です。
記事の最初の方で小さな写真で説明していた岩国旅なびと岩国市観光協会HPに掲載されていた錦帯橋の鵜飼の写真を紹介します。

2021年2月23日22時19分に累計アクセス数(累計閲覧数)を確認すると1500万アクセス数を越えて15,001,655アクセス数になっていました。


累計アクセス数 15,001,655 件
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今までに到達アクセス数を報告したのは次の6回で、今回が7回目となりました。

1,000,000アクセス 2010年11月17日12時ごろ
2,000,000アクセス 2011年10月09日22時ごろ
2,277,777アクセス 2012年01月31日07時34分

9,229,999アクセス 2016年12月01日03時40分
10,000,000アクセス 2017年07月04日06時26分
15,000,000アクセス 2021年02月23日22時ごろ

岩国城の麓の城(御土居)跡に建立された吉香神社(きっこうじんじゃ) [山口県]

上の写真は山口県岩国の錦帯橋の近くにある吉香神社の一ノ鳥居です。真直ぐに進むと順にニノ鳥居、神門、拝殿、本殿があります。
吉香神社は前記事の武家屋敷 旧目加田家住宅で紹介した古地図の中の御城跡と書かれている場所に1884年(明治17年)に建立されました。吉香神社の社殿(本殿、拝殿、神門など)は元々は西側に隣接した白山比咩神社内に吉川興経を祀る治功大明神として1728年(享保18年)に造営されたもので1884年(明治17年)に移築に近い形で建立されたそうです。





現代の航空写真で吉香神社と白山比咩神社と武家屋敷(目加田家住宅)の位置関係を紹介します。岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に吉川広家が築き始めた城です。戦時のために山上と、住むために麓の2ケ所に城が築かれました。麓(ふもと)の城(御土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。山上の城は4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(御土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。明治になった、その麓の城(御土居)跡に白山比咩神社から社殿が移築されて吉香神社になったわけです。

吉香神社の部分を拡大して参道が水平になるように回転させました。左端の掘から拝殿までを撮った写真で紹介したいと思います。

堀を渡る石橋の上からの景色です。写真の中の建物は錦雲閣(きんうんかく)です。錦雲閣は旧藩時代の矢倉に似せて1885年(明治18年)に造られた絵馬堂です。岩国市の登録有形文化財となっています。

岩国城の天守閣からは錦雲閣を見ることが出来ました。


冒頭の写真の一ノ鳥居です。

進んでいく道の右側に茶店のような建物がありました。調べてみると星出茶屋で食事などが出来るようです。

更に進むとニノ鳥居がありました。

こちらが社殿の入口の神門です。12月23日ですが既に門松が置かれていました。

神門を拡大いたしました。本写真をクリックすると特別に大きく(面積で16倍)拡大いたします。

神門から拝殿に向かう途中の左側の景色です。

こちらが吉香神社の拝殿です。奥に本殿があります。
吉香神社は岩国藩主の祖先吉川元春公が、天文年間安芸国山県郡新庄村日の山城主の時、一祠を建て祖霊を奉祀したことに始まるそうです。慶長5年吉川広家は関ケ原役後雲州から岩国に移封されたが、このとき当地横山に居館を構え築城し、正徳年間に本社をこの地へ奉遷し、居館の西、城山のふもとに社殿を造営したそうです。明治4年に廃藩置県の令があり、同年5月に吉川経健は東京に帰住後、有志数百人と相はかり同7年本社を後世に残すべく認可をうけて8神を合祀して吉香神社と称したそうです。

内部が写っている部分を拡大いたします。格子の奥が本殿です。

本殿の位置を紹介するためにGoogleマップの航空写真を掲載いたしました。マイナスのアイコン(-)を5回クリックすると岩国城天守と錦帯橋が表示されます。
堀に架かる石橋から拝殿前までのストリートビュー(SV)を紹介します。
さらに調べてみると二ノ鳥居から岩国城の山頂駅までの徒歩ルートもSVで見ることが出来ました。→ ポチッ① ポチッ②
山頂への道は徒歩はOKですが、自転車を含む車両は通行できません。→ ポチッ
上で触れた横山地区と錦見地区の両方が描かれた古地図を紹介します。吉香神社のところは屋敷と書かれていることや岩国村の文字があることから江戸時代の古地図だと思います。古地図は山口県文書館などから転用させていただきました。錦帯橋も描かれています。

武家屋敷 旧目加田家住宅 [山口県]

年末の記事「岩徳線の川西駅から岩国城までの景色」の中で触れた錦帯橋の近くの吉香公園に建っている武家屋敷(国指定重要文化財)を紹介したいと思います。吉香公園は岩国城の土居(麓の城)で、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、その吉香公園の場所に建っていた武家屋敷であることから、上位の武士の屋敷であったと想像されます。文化財の名称は旧目加田家住宅です。目加田は「めかだ」と読みます。
旧目加田家住宅の説明板があったので紹介します。武家屋敷は全国に沢山ありますが、多くが下級武士のものが多いのが私の印象です。この武家屋敷は百七十石の中級武家の住宅で全国的にも珍しいことから国の重要文化財に指定されたのだと思います。
国指定重要文化財 旧目加田家住宅 指定年月日 昭和49年2月5日旧目加田家は、近江国愛知郡の出身で、天正年間に吉川元春に召し抱えられ、吉川広家が慶長5年(1000)関ケ原の戦いの後、出雲国富田から岩国に移封された時に広家に従ってこの地に移り住んだ。江戸時代中頃の屋敷割図によると、既に現在地に住居が構えており、文政の頃には御用人役を勤めて知行百七十石取りであったことが御家中系図に記録されている。この住宅は18世紀後半の建築と推定され、中級武家の住宅としては全国でも数少ない遺構の一つとして、昭和49年2月5日重要文化財に指定された。
建物は入母屋作り、浅瓦葺きで、土間側面を除いて三方に庇(ひさし)を巡らし、南西に面して建つ。間取は正面に式台付の玄関の間を設け、向って右に仲間部屋、左に表座敷2間を配している。仲間部屋の裏の土間で平常の出入口とし、続いて中の間、台所、板の間等を設け、表座敷の背後には中廊下をはさんで裏座敷3間を配し、裏座敷上部には屋根裏部屋が設けてある。総体的に木割が細く、松を主材とし簡素ではあるが隅々まで端正な構えを見せている。なお、筋葺きに用いられている特殊な形の浅瓦は「両袖瓦」と呼ばれ、この城下町西岩国地区に集中してみられる地方色として注目される。
建築後、およそ200年を経て建物は全体に緩みをきたしたほか、数回に及ぶ床下浸水による腐朽に加え、蟻害も広範囲に及んでいたため、昭和50年10月から解体修理工事を起し、同53年12月に竣工した。修繕に当たっては、できるだけ古材の再用に務め、やむを得ず取り換えを必要としたものは同種材をもって補足し、形式、工法等は従来の技法を踏襲とて、当初の姿に復旧した。
平成31年1月 岩国教育委員会

ネットから目加田家住宅の平面図を転用させていただきました。この図を見ながら上の説明を読むと部屋の配置がよく分かると思います。

3間の裏座敷側からの写真です。障子があるのが裏座敷です。左から4畳、8畳、3畳の裏座敷です。秘儀橋の建物が厠(かわや/便所)です。上の平面図の左上(北北東)から撮った写真です。

裏座敷を大きく撮った写真も紹介します。平屋の建物のように見えますが、裏座敷の上に中二階があります。その中二階の窓が写真から分かると思います。
上で紹介の平面図をクリックすると中二階の位置を赤色で書いた平面図を表示します。

平面図の右下(南)方向から撮った写真です。一番手前に3畳の仲間部屋があり、その左側の凹んだ部分が脇玄関で、脇玄関の左側に式台のある玄関の間があります。

こちらが玄関の間です。玄関の間の奥に中二階に上がる階段が写っています。その奥に裏座敷を見ることが出来ます。

遠くから式台のある玄関の間を正面に撮りました。今までに掲載した武家屋敷が下記です。着色文字をクリックすると記事を表示します。
千葉県 佐倉 佐倉の武家屋敷
兵庫県 丹波篠山 丹波篠山の御徒士町と武家屋敷
山口県 岩国 旧目加田家住宅

岩国市公式観光Webサイトに目加田家住宅の30秒の動画があったので掲載させていただきました。
Googleマップの航空写真に目加田家住宅を書き込みました。橙色の枠が目加田家住宅の敷地で、臙脂色の部分が武家屋敷の建物を示しています。青色の線が岩徳線の川西駅から岩国城に上がるロープウェイの山麓駅までの散策ルートです。シロヘビ館や鵜の里(鵜飼育施設)の隣りにあるので、錦帯橋から少し足を延ばす価値があると思います。
岩国徴古館で保管されていた古地図「旧岩国城下図(横山)」に目加田家が記載されているので紹介します。作製年は不明だそうですが、岩国城の御土居(麓の城)のところに御城跡と書かれていることから明治維新から1884年(明治17年))の間の可能性が高いように感じます。 明治17年に御土居(居館)跡に吉香神社が建てられたからで、もし明治17年以降であれば御城跡ではなく吉香神社と書かれていると思われるからです。本地図をクリックすると広い範囲の大きな地図を表示します。今回の武家屋敷が城のそばであったことが本地図でも判りました。


古地図のオリジナルはこちらです。→ポチッ

Google地図の航空写真と同じように北が上になるように回転した古地図です。


関西はキンメダイ(金目鯛)も新鮮でした。 [兵庫県]

実家の宝塚に着いた2021年2月7日の夕食を買うために実家の近くのスーパーに行くと、新しそうなキンメダイ(金目鯛)が売られていたので迷わず買いました。この日は金目鯛の刺身にすることにいたしました。キンメダイ(金目鯛)は世界各地の深海に生息しているキンメダイ目キンメダイ科 キンメダイ属の深海魚です。色が赤いことからタイ(鯛)の名が名前に入っているようですが、スズキ目タイ科マダイ属のマダイ(真鯛)とは、かなり離れた種です。金目鯛はいろんなサイズが売られていますが、ある研究によれば1歳魚で17.7cm、2歳魚で23.4cm、3歳魚で28.3cm、5歳魚で35.8cm、10歳魚で46.5cm、15歳魚で51.1cmだそうです。金目鯛の寿命は15~20年程度だそうです。生息場所は未成魚が水深100~250メートルで、成魚になるとともに300~800メートルの深部へ移動するそうです。だだし夜間は150~300メートル付近まで浮上するとのことです。

門 脊索動物門 Chordata
亜門 脊椎動物亜門 Vertebrata
綱 条鰭綱 Actinopterygii
上目 棘鰭上目 Acanthopterygii
目 キンメダイ目 Beryciformes
亜目 キンメダイ亜目 Berycoidei
科 キンメダイ科 Berycidae
属 キンメダイ属 Beryx
種 キンメダイ Beryx splendens
英名 Splendid alfonsino
お皿にそのまま盛り付けました。3種相掛カレーなどで紹介した砥部焼のお皿です。目の色もきれいだし、刺身もプリプリ感が伝わってきました。私の住んでいる近くではとても手に入らないような新鮮な金目鯛のように感じました。
試しにキンメダイで検索してみると今までにキンメダイを食べた記事は4度掲載していました。着色文字をクリックするとその記事を表示します。→我家での食事 九十九里の旅館 三宮の人気魚料理店 大手町でイタリアン

刺身のプリプリ感を感じてもらいたくて刺身の部分を拡大いたしました。もちろん我が家の近くのスーパーにも金目鯛の刺身が゛並ぶことがありますが、プリプリ感がある刺身に出会うことはまずないまで、迷わず買ってみたわけです。ただし食べるまでは判りません。

刺身以外に長茄子の焼き茄子も用意いたしました。長い長茄子だったので、そのまま乗せられる皿が無かったことから半分に切りました。以前に紹介したように熱々のまま乗せています。

冷やっこも用意いたしました。醤油の色が赤いと思いませんか?
キッコーマンの特選醤油です。昔から実家ではキッコーマンの醤油を使っていたので赤色の醤油が美味しく感じられてしまいます。

さっそく刺身を食べてみるとキンメダイとは思えない硬さがありプリプリの刺身でした。味も鯛とは違う甘さのある身で、関東だと料亭でしかお目にかかれないような味とプリプリ感のある食感でした。

金目鯛らしい薄皮のついた刺身の写真も紹介します。

この時は冷蔵庫に正月のために買った日本酒が入っていることに気が付かなかったので、ビールにいたしました。

頭も目もきれいでしたので拡大いたしました。この時、母が「頭は焼かないの ?」と言われて、は!と気が付いて食事をしながら、コンロのグリルで焼き始めました。-ほんとうはキンメダイは煮付が美味しいのですが、手軽に出来るので焼くことにしたわけです。

焼きあがったキンメダイの頭です。カマの部分は母に渡して、頭は私が食べました。塩もかけないでそのまま焼きました。

焼いた身も美味しかったです。

こちらは目の周りのゼリー状のものです。目の周りのゼリー状の身は美味しいと聞いていましたが、何となく食べる気にはなりませんでしたが、見ていて新鮮そうに感じられたので少し味見をした見たところ、薄っすらと塩味があり美味しかったので、結局、すべて食べてしまいました。初めて目の周りのゼリー状の部分を食べました。

価格は1580円でした。値段の相場の知見はありませんが、この鮮度で、この美味しさならば安いのではないかと思いました。新鮮で美味しい刺身が食べれただけでなく新鮮な甲焼きも食べれてキンメダイを買ったのは大正解でした。高知県産のキンメダイでした。関西は新鮮な魚が多いので、離れた場所からでも少しでも新鮮な状態で口に入るように流通に気を使っているのだと思います。このスーパーは年末にトラフグを買うお店でもあります。右の小さな写真は以前の記事で紹介した同じお店で買った大きな活き車海老の写真です。

住所 兵庫県宝塚市逆瀬川1-2-1 アピア1 B1F
電話 0797-71-5400
営業 9:00~21:00
定休 無休
創業 1973年01月(資本金250万円) 現在42店舗(大阪 兵庫 京都 奈良)
沿革 2000年11月逆瀬川店開店 2007年12月14日イオン傘下

2020年2月7日から関西に来ていて、ネット環境の関係で皆様のところには訪問できていないことお詫びいたします。2月14日に帰宅する予定です。家に帰るとやりたいことが溜まっているので2月17日以降に皆様のところに本格的に訪問したいと思っております。
今回のキンメダイが分類されているキンメダイ属にはキンメダイと.ナンヨウキンメとフウセンキンメの3種があります。切り身として販売される場合はナンヨウキンメやフウセンキンメをキンメダイとして流通することもあることから、区別するために本キンメと表示される場合があるそうです。もちろん今回のキンメダイは本キンメだと思います。写真で見る限り細身で大きいのがキンメダイです。
名 前 | 学 名 | 成魚体長 | 漢 字 | ||
・ | キンメダイ | Beryx splendens | 50cm越え | 金目鯛 | |
・ | ナンヨウキンメ | Beryx decadactylus | 40cm前後 | 南洋金目 | |
・ | フウセンキンメ | Beryx mollis | 30cm前後 | 風船金目 |



錦帯橋のソフトクリーム 初めて「むさし」で食べました。 [山口県]

我家の父方の墓は山口県の周防久保にあり、父が亡くなってからは母は一人で3月と8月と9月と12月の年4回ほど墓参りに行っていました。2013年からは私か姉が付き添い始めました。2019年9月までは叔父さん(母の弟)が新岩国駅まで車で迎えに来ていただき昼食を一緒に食べて新岩国駅まで送っていただきました。2019年9月末に叔父さんが運転免許を返納したことから、2019年12月はレンタカーを新岩国で借りました。2020年3月もレンタカーを予約していましたが、新型コロナ感染拡大のために墓参り中止しました。2020年8月も墓参りを中止しました。2020年9月と12月は母への感染防止のため私一人で墓参りに行ったわけです。1人で身軽なためにレンタカーは使わずに岩徳線と路線バスを利用して墓参りいたしました。叔父さんが車を出していただいている時に下記のリストで小次郎とかかれている時に錦帯橋までソフトクリームを食べに連れてきていただいたのです。すべて佐々木小次郎店でソフトクリームを食べたので、むさし店でも食べたいと思っていました。今回(2020年12月23日)は錦帯橋と岩国城に訪問したので、むさし店でソフトクリームも食べました。佐々木小次郎店が新型コロナのため閉まっていたので、むさし店で食べました。小次郎店が開いていたら迷ったと思いますが、迷わずにすみました。したがってタイトルの通り初めて「むさし」で話題のソフトクリームを食べることが出来ました。それが上の写真です。今回が錦帯橋で食べた11回目のソフトクリームになります。昼食場所に人数を書いていないのは、叔父さんと叔母さんと母と私の4人です。
墓参り年月 昼食場所 食べた店 ソフトクリームの種類
2013年03月 山賊
2013年08月 山賊
2013年09月 錦果楼
2014年03月 山賊
2014年09月 山賊
2014年12月 山賊 小次郎 140種(むさし)
2015年03月 山賊 小次郎 140種(むさし)
2015年08月 山賊 小次郎
2015年12月 山賊 小次郎
2016年03月 山賊 小次郎
2016年09月 山賊 小次郎
2016年12月 山賊 小次郎
2017年03月 山賊
2017年09月 山賊 小次郎 165種(むさし)
2017年12月 山賊 小次郎 165種(むさし)
2018年03月 岩国四川飯店 6人
2018年08月 よ志だ 新館
2018年09月 わたぼうし
2018年12月 山賊
2019年03月 岩国四川飯店 5人 小次郎
2019年09月 アリス(新岩国駅前)
2019年12月 たんぽぽ 2人
2020年09月 列車内 1人
2020年12月 列車内 1人 むさし 170種(むさし)
小次郎:佐々木屋小次郎商店 むさし:食事処むさし
こちらが、むさし店てす。テレビ朝日のナニコレ珍百景で紹介されたようです。右の小さな写真がいつもソフトクリームを食べていた佐々木小次郎店です。写真のように閉まっていました。

住所 山口県岩国市横山2-1-23
電話 0827-43-6340
営業 09:00~18:00
定休 無休

2020年の時点で170種類のソフトクリームが食べれました。錦帯橋では1995年6月27日に小次郎店でソフトクリームが販売されたそうです。1999年時点では16種類でした。それ以降は、むさし店と小次郎店で競争することで有名になり100種類以上になったそうです。

私は真ん中の紫いもソフトクリームを頼みました。

これが紫いもソフトクリームです。ただしカメラのピントは前のお店に合わせています。その正面に見える長州屋の前にある縁台でソフトクリームを食べることにいたしました。一時期は長州屋でソフトクリームが売られていて3店で競争している時期もありました。

むさし店を背景にして撮った紫いもソフトクリームです。今までに錦帯橋で食べたソフトクリームの写真を掲載した記事は次の3つあります。
2015年03月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2015-03-25
2015年12月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2016-01-23
2017年12月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2020-10-08

クリームの食感を感じてもらうためにクリームの部分を拡大いたしました。写真をクリックすると特別に大きく拡大たします。

クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。

むさし店のソフトクリームの種類数が偶然写った写真を紹介します。
2014年12月 140種 2017年09月 165種 2020年12月 170種



2014年12月から食べたソフトクリームの写真を紹介します。残念ながら2014年12月と2018年08月は私が食べたソフトクリーム自体は撮っていませんでした。ソフトクリームの写真をクリックすると大きく拡大いたします。ちなみに2017年12月5日に17歳8ケ月で亡くなった我が家のワンコの名前が「むさし」でした。その「むさし」の写真を空いた最後の空間に入れました。
2014年12月 2015年03月 2015年08月



2015年12月 2016年03月 2016年09月



2016年12月 2017年09月 2017年12月



2018年08月 2018年09月 2018年12月



2019年03月 2020年12月 むさし



むさし店と佐々木小次郎店の位置を地図で紹介します。長州屋の位置も判ると思います。
昼食を食べた山賊以外のレストランの位置も紹介します。地図内の臙脂色マーク(


新型コロナウイルス感染者の推移 [日々]
2020年08月12日追記 タイトル:第2波でも重症者が増加し始めました。
2020年09月05日更新 タイトル:重症者のピークも越えたようです。
2020年10月26日更新 タイトル:新規感染者も重症者も増加しています。
2020年11月12日更新 タイトル:ついに第3波に突入
2020年11月18日更新 タイトル:重傷者が第2波(259人)を越えました。
2020年11月23日更新 タイトル:重傷者が第1波(328人)を越えました。
2020年12月01日更新 タイトル:死者数が第1波(164人/週)を越えました。
2020年12月12日更新 タイトル:減少傾向にする強力なきっかけが必要
2020年12月17日更新 タイトル:勝負の3週間が過ぎました。でも
2020年12月23日更新 タイトル:減少が望めないなら早めの緊急事態宣言
2021年01月18日更新 タイトル:減少が始まりましたが低調(0.9倍/週)
2021年02月06日更新 タイトル:減少が続いています。(0.7倍/週)
2021年02月09日更新 タイトル:今は感染者を劇的に減らす数少ないチャンス

政府は第2波は重症者が少ないことが第1波と違うと強調してことから、新規感染者数と重症者数の推移を同じグラフにプロットいたしました。グラフをクリックすると拡大いたします。
重症者は全国(






グラフの中の死者数は数値が読み取れるように1週間の死者数(人/週)にしています。7分の1にすると平均化された1日あたりの数値です。
第2波の重症者は8月24日にピークとなり下がり始めました。ただし、下がり方はゆっくりです。新規感染者は8月7日はピークとなり下がり始めてはいますが、第1波に比べると下がり方はゆっくりであることから、社会全体が自粛を緩める雰囲気になると、いつでも上昇に転じることはすでに証明されていることから油断は禁物です。(2020年9月5日追記)
第3波に対する緊急事態宣言が1月8日から始まりましたが、感染者の低減率は緊急事態宣言が行われなかった第2波より悪い結果になっています。 日本の場合は国民の意識の変化次第であることから見て、今回の緊急事態宣言が心に響いていないことになります。その大きな要因に、今は中止しとなっているGoToトラベルとGoToイートの可能性が考えられるようです、感染拡大防止の大原則は「移動を抑える」と「蜜を避ける」ことですが、GoToトラベルは「移動を推奨」しGoToイートは「蜜を推奨」していることになったことが、深層心理に残されている可能性があるのであれば、これを払拭する対策を行う必要がありそうです。(2021年1月20日)
参考にしている新型コロナのサイト(クリックするとサイトを表示)
NHKの特設サイト Johns Hopkins大学
東京都 韓国 日経新聞 WHO 厚労省
上のグラフには参考に東京都の重症者数(━━)の推移もプロットしていますが、その数値は下に貼り付けている東京都のグラフで公表しているものです。全国の重症者が急速に増加しているのに比べると東京都の重症者の上昇は抑えられているように見受けられます。重症化しやすい高齢者や基礎疾患のある人への感染防止対策や個々の家庭での努力ではないかと感じます。ただし、先が判らないのが新型コロナなので楽観視は禁物です。とは言え、第2波での東京都(━━)と東京以外(━━)の重症者の変化はあきらかに大きく違います。
このグラフは2020年12月16日の19時からのニュースの中で政府が提唱した「勝負の3週間」の結果の検証で紹介されました。爆発的な拡大(パンデミックス)は避けられましたが、第1波や第2波の時のように新規感染の急激な低減には失敗したようです。早期に低減させるためには強力な対策が必要と思われます。

こちらは同じようにまとめられた死者数のグラフです。高い感染者が続けば多くの専門家が指摘しているように重症者は急速に増加し、それに伴い多くの死者も出てしまうと思われます。長く高い感染者が続いていることから、すぐに下がり始めた第1波や第2波とはピークのボリューム(グラフの山の面積に相当)が違います。今、下がり始めたとしても2波の数倍であり、これからさらに長引けば10倍を超えることもあり得る勢いです。第1波や第2波で重傷者や死者数が下がり始めたのは新規感染者のピークから3週間でしたが、新規感染者の高い状況が長引いていることから、厳しさは増してくると想像されまい。

2020年11月13日追記 タイトル:第3波は第2波より厳しい
2020年12月12日更新 タイトル:減少傾向にする強力なきっかけが必要
2020年12月17日更新 タイトル:勝負の3週間が過ぎました。でも
2020年12月23日更新 タイトル:減少が望めないなら早めの緊急事態宣言
2021年01月18日更新 タイトル:減少が始まりましたが低調(0.9倍/週)
2021年02月06日更新 タイトル:減少が続いています。(0.7倍/週)
2021年02月09日更新 タイトル:今は感染者を劇的に減らす数少ないチャンス

1週間前に対する新規感染者数の倍率(比率)が徐々に危険な領域(2倍以上/感染爆発)に近づきはじめています。倍率が上がり始めたのは10月21日のため、その1週間前の10月中旬ごろに第3波の原因となる気の緩みが広まり始めたと思われます。11月12日の時点で1週間前に対して約1.6倍の新規感染者数です。倍率(比率)が1倍以下に下がらないと新規感染者は増加し続けることから厳しい状況であることがうかがえます。

やっと新規感染者数が下がり始めましたが1週間前に対する感染者数は0.9倍/週と減少率は低調です。減少傾向が始まったばかりで、このまま減少傾向が続くことを願うばかりです。
第1波 0.6倍/週
第2波 0.8倍/週
第3波 0.9倍/週(1月14日~1月20日) 0.7倍(1月22日~2月14日)
1倍以上:増加傾向 1倍以下:減少傾向
(2021年1月18日記載 2月6日追記)
2020年3月16日からのグラフも紹介します。7日前に対する倍率(比率)に関しては5日間の平均値を表示するように設定いたしました。

1週間前に対する比率の数値とは違う指標ですが、同じような傾向を示す実行再生産数のグラフを紹介します。実行再生産数とは1人の感染者が次にうつす平均人数ですが、1以上が感染領域であり1以下が減少領域であるところが、1週間前に対する比率のグラフと同じです。絶対値は違いますが数値の変動の仕方も同じ傾向を示します。二乗すると数値的にも似てきます。このグラフは2020年12月16日の21時からのニュースの中で政府が提唱した「勝負の3週間」の結果の検証で紹介されました。新規感染者の爆発的な増加は回避は出来ましたが、未だに確実な減少領域には入っていけていない危険な状況が続いています。

注目されている地域(東京、大阪、北海道、愛知)別の実行再生産数のグラフも紹介されていたので紹介します。

曜日によって感染者数は大きく変わるので曜日別変化のグラフもあらためて掲載します。第3波では全国各地で感染者が同時に増加していることから、多くの人が同時に気の緩みが出たり行動してしまうような全国的キャンペーン(Gotoトラベル等)がきっかけになっている可能性を指摘する専門家も多く出てきはじめました。本グラフをクリックすると拡大いたします。(2020年11月21日追記)

第2波の時の新規感染者数の予想値と実際値の推移が参考になると思われるので7月20日~8月10日のグラフを紹介します。第2波で危機を感じたのが7月22日なので、7月22日(水)が11月11日(水)に置き換えて比較すれば分かりやすいと思います。第2波と同様に推移するとすれば11月26日の新規感染者は4320人となり、すぐに対策を取ったとしても効果が出てくるのは10日間以降(11月23日以降)のため11月26日の新規感染者は3351人ということになります。第2波の時は危機感を持ってからピークになったのは2週間後だったことを考えると第3波はかなり厳しいと予想されます。第2派では1週間前に対して1.5134倍で増加していったのに対して今回(第3波)の現状は約1.6倍なので少し厳しくなる可能性もあります。対策の欄は第2波の実績と同じ比率の変化をすると仮定して算出した数値です。
第2波 予想/実際 第3波 予想/対策 /実際
7月22日(水) 795/795 11月11日(水) 1660/1660/1660
7月30日(木) 1485/1301 11月19日(木) 2512/2201/2358
8月07日(金) 2069/1605 11月27日(金) 4320/3351/2531
8月14日(金) 3132/1358 12月04日(金) 4924/2836/2442
8月22日(土) 5248/ 984 12月12日(土) 8251/2055/3041



11月13日前後では東京(左)よりも東京以外(右)の方が新規感染者の増加傾向が大きい傾向でしたが11月19日の東京は500人/日越えの534人/日となりました。


2020年7月27日追記
タイトル:感染者数予想グラフに実際の感染者数をプロットしました。

右下の小さなグラフの実際の感染者数を、2020年7月24日に追加掲載した感染者予想グラフにプロット(●)いたしました。

3日間平均:1.365倍=(777+803+835)÷(597+661+551)
7日間平均:1.508倍=(419+632+795+981+777+803+835)
÷(260+333+450+624+597+661+551)
新規感染者数と累積感染者数の予想値に対して8月5日頃から実際の数値が第1波に比べるとゆっくりではありますが下回り始めて感染爆発(パンデミックス)は避けることが出来たようです。全国的な緊急事態宣言のような劇的な対応策が行われない中で、感染拡大が抑えられたということはそれぞれの自治体の必死な対応と、各個人の危機感による対応によりところが大きいと言えると思います。7月初旬から中旬ごろの行動が続いていれぱ2ケ月後には1日の感染者数は1万人/日を越え、累積感染者数も30万人近くに達していたことから各自の行動がいかに大切であるかが証明された第2波であったのだと思います。これからは経済活動を正常に戻ししつつも慎重な対応が求められるのだと思います。(2020年9月7日追記)
上の9週間のグラフでは数値が読みにくいので5週間のグラフも掲載いたします。グラフの累計感染者数(○)とは2020年7月24日からの累計です。7月24日までの累計数である29,028人をプラスすると最初からの累計感染者数になります。上の2枚のグラフで累計感染者数(○)との差が読み取れないので3週間のグラフにいたしました。それでも7月29日までの累計感染者数は計算値(-)と実際(○)の差を読み取れるほどの違いは出ていない状態です。


今後ひっ迫が懸念されベッド数や軽症者用待機ホテルに影響する患者(=累計-回復-死者)の7月23日からの増加数を追記プロットしたグラフです。7月23日の患者数(6224人)から増加した人数をプロットしています。グラフの患者数の増加分の値に6224人を加えるとその時点の患者数になります。実際累計患者数と患者数の増加分の差が退院数+死者数です。

1週間後(7日後)の新規感染者の数が1.4倍ではなく1.5134倍になると仮定して予想感染者を計算すると8月3日時点での累計感染者数は予想値と実際値が赤色三角印(▲)の位置で一致します。すなわち非常に厳しい感染者数の増加(拡大)が続いていることになります。7日間で1.5倍になるという意味は4週間(約1ケ月)で5倍(=1.5x1.5x1.5x1.5)になるということです。発見された感染者が5倍ということは我々に新型コロナをうつす未確認の感染者も5倍程度存在すると考えるのが自然です。つまり同じ生活をしていれば感染確率は5倍になり、さらに1ケ月経てば感染確率は25倍になのということになります。当然ですが死亡する確率も1ケ月で5倍、2ケ月で25倍ですが、医療体制は崩壊するのでそれ以上の死亡確率になると思われます。それを防ぐには少しでも早く1倍以下にすることです。

政府の説明では第1波と違い第2波での死者数や重症者が少ないとの説明が頻繁になされているけれども第1波の時は、新規感染者のピーク(4月11日)から3週間後の5月2日が新規死者数のピーク(36人/日)で、

新規感染者が下がり始めるピークに、いつなるのか判らないのは深刻な問題です。経済のことを考えて対策を躊躇していると累積感染者は加速度的(2次曲線的)に増えていくばかりです。数倍に膨れ上がってから対策をとっても長期化して結局は経済のダメージが大きくなってしまった例は世界で多く見られています。失われなくてもよかった命も早い対策で救われることも多いと思います。強力な対策を行うタイミングは難しいと思いますが、少なくとも感染防止意識を低減させるような「死者数や重症者が少ないから...」や「重症化しにくい若者が多いから...」などの言動や政策(Gt Toトラベルなど)は控えてほしいものです。つまり「死者数や重症者が少ないけれども...」や「若者の感染比率が多いことにより感染が広まり...」のような表現が大切です。
週初め(月・火・水)に数値が下がるのは行政や医療の体制の関係で土曜日と日曜日のPCR検査件数が少なくなることが影響している可能性が高いと思われます。そのような関係から、下がる傾向に見える場合もありますが、6月23日以降は曜日別で見ると全て新規感染者が増え続けています。これは第1波の時も同じでした。グラフをクリックすると大きなグラフを表示します。

2020年7月24日追記 タイトル:これから先の感染者数は?


参考に1.4倍の場合のグラフも紹介します。1.4倍でも1ケ月後の新規感染者数は約3,800人で、今からの累計感染者数は約4.6万人です。2ケ月後の累積感染者数は約26万人になります。

仮にすぐに1.0倍になったとしても現在の新規感染者が維持さことなので、1ケ月後には累積感染者数は1.9万人が現在の数値に加算されて、2ケ月後には3.8万人が加算されます。早く1.0倍以下の数値にしなければ将来の負担が大きくなるように感じます。

0.7倍になった時のグラフも紹介します。当然ですが1.0倍以下になって初めて新規感染者は減り始めます。この勢いで新規感染者が減っていっても2ケ月後には約1万人の感染者が現在の累計感染者数に上乗せされてしまいます。

2020年7月17日追記
タイトル:第2波は第1波を越える勢いです。

第1波感染拡大の時と比較するために2020年3月16日からの新規感染者数(速度)と、新規感染者数の1週間前に対する倍率(加速度)を一緒に記載したグラフを紹介します。第2派の新規感染者は現時点(7月16日)で第1派を越えていませんが、1週間前に対する比率(倍率)は下がっていく雰囲気がありませんこれからさらに感染者が増える兆候なのです。第1波の同じ時期(4月9日)は感染者は植えている状況でしたが1週間前に対する比率(倍率)は下がっていたのとは大きく違うところです。つまりどこまで感染者が増えるか現時点では分からない非常に危険な状態の可能性があるということなのです。
第1波は倍率(比率)のピークは3月28日で、そこで急ブレーキがかかり新規感染者数のピーク(720人/日)は、倍率のピークから約2週間後(13日後)の4月11日でした。今回の倍率(加速度)のピークは7月4日です。第1波の感染拡大と同じ経緯ならば新規感染者数(速度)は倍率のピークから2週間後ですが、急ブレーキは架かっていません。倍率(加速度)が下がってこないかぎり新規感染者のピークは先になってしまい新規感染者数も累積感染者数も患者数も増えてしまいます。

第1波の時は緊急事態宣言が発令された週( 4月6日~12日 )の翌週には新規感染者数が下がり始めましたが、危機感の少ない第2波の同じタイミングの週( 7月13日~19日 )の翌週に新規感染者が下がり始める可能性は少ないように感じられます。そうなれば病床および待機ホテル部屋数が足らなくなる可能性も高くなります。国民の気を引き締めなければならない中で、実害の有る無しに関わらず、気の緩みを助長しかねないGo To トラベルに対して、立場の違いでいろんな意見があるはずなのに専門家会議(分科会)が政府の方針(東京都を除外して実施)に異議を唱えないのは不思議です。→(7月16日の分科会で専門家の尾身会長から判断の先延ばしを提言したが採用されなかったことが、7月29日に判明)
二階俊博幹事長が全国旅行業協会の会長をしていることが影響している可能性があります。新型コロナは専門家でも判らないことが多い中では、感染爆発を起こせば悲惨な結果になる場合のように、結果が重大災害をまねくケースでは、可能性が少ないように思えても、安全サイドに考える慎重さが大切です。
下のグラフのように、1週間で新規感染者が約1.7倍も増加する状況は続いていて、いろんな対策が行われていますが落ち着てくる兆候はありません。患者数は800人台まで下がっていましたが僅か4週間で6.2倍(=5332÷857)になりました。1週間(月~日)の中で1番新規感染者数が多かった日の推移は113人/日→274人/日→430人/日→661人/日となっており、今週末には1000人/日に近い数値が発表されてもおかしくない推移です。強力な対策が行われなければ増加し続ける可能性が高まってきているようです。(2020年7月22日追記)

シンプルで判りやすいと思い、第1波も含めて範囲で日々の新規感染者数と累計感染者数などを同じグラフにしたものを掲載しました。重要な患者数(その時点で感染している人数)も入れました。数値は全てNHKが発表したものを使用しています。ただし、患者数は直接発表された数値ではなく下の式で計算した数値です。2020年5月9日以前は退院数の発表数値が不正確と思われるため破線にしています。死者数や重症者数は落ち着いているように見えますが、増加する兆候が見え始めました。
患者数 = 累積患者数 - 退院数 - 死亡数

2020年6月29日追記 7月16日更新
タイトル:新型コロナの患者数が上昇に転じました。

患者数(=累積感染者数-死者数-退院者数)はピークとなった2020年4月下旬以降は減り続けて6月20日前後には800人台まで下がりましたが、6月20日を境にすぐに上昇に転じてしまいました。これは日々の退院者数(




絶対値は少ないけれども爆発的感染拡大につながる、1週間前の2倍以上の新規感染者が出始めました。要注意の状況なのかもしれません。1週間前もPCR検査は現状と同程度で行われていると考えられることから、PCR検査が以前(4月ごろ)に比べて増えたことが感染者の確認数の急激な増加の理由にはならないことから、現実に増えていると考えた方がよさそうです。
6月30日の2.4倍は、6月30日(火曜日)の新規感染者数138人/日を6月23日(火曜日)の新規感染者数57人/日で割ったものです。新規感染者などのグラフを次に更新する1週間後の7月7日には、少し先が想像できるのかもしれません。新規感染者数が感染者の速度とすれば、新規感染者数の変化である1週間前の倍率は加速度になります。つまり感染者の加速度のグラフということになります。新規感染者数だけを見ていると1週間サイクルで週初め(月・火・水)は少ない数値が出ることからピーク(下がり始める日)が近いと感じる場合がありますが、本グラフ倍率(比率)の数値が1倍以下が続かない限りはピークにはならないのです。本グラフを見る限りはピークはまだ見えないようです。7月12日以降の倍率(比率)は東京以外が全国および東京を上回っているので感染者が増えてきている道府県はこの先しばらくは強力な対策が必要と思われます。7月23日になっても新規感染者数の約1.7倍の増加は続いていて衰える様子はありません。危機的状況を脱する思い切った早期対策が望まれます。(2020年7月24日追記)

6月24日(水) 2.1倍= 96÷46
6月25日(木) 1.2倍= 82÷70
6月26日(金) 1.8倍=105÷58
6月27日(土) 1.4倍= 92÷64
6月28日(日) 2.1倍=113÷55
6月29日(月) 2.6倍=110÷43
6月30日(火) 2.4倍=138÷57
7月01日(水) 1.3倍=127÷96
7月02日(木) 2.4倍=194÷82 東京:2.2倍=107÷48
7月03日(金) 2.4倍=250÷105 東京:2.3倍=124÷54
7月04日(土) 3.0倍=274÷92 東京:2.3倍=131÷57
7月05日(日) 1.8倍=208÷113 東京:1.9倍=111÷60
7月06日(月) 1.6倍=176÷110 東京:1.8倍=102÷58
7月07日(火) 1.5倍=208÷138 東京:2.0倍=106÷54
7月08日(水) 1.6倍=207÷127 東京:1.1倍=75÷67
7月09日(木) 1.8倍=355÷194 東京:2.1倍=224÷107
7月10日(金) 1.7倍=430÷250 東京:2.0倍=243÷124
7月11日(土) 1.4倍=386÷274 東京:1.6倍=206÷131
7月12日(日) 2.0倍=407÷208 東京:1.9倍=206÷111
7月13日(月) 1.5倍=261÷176 東京:1.2倍=119÷102
7月14日(火) 1.6倍=332÷208 東京:1.3倍=143÷106
7月15日(水) 2.2倍=450÷207 東京:2.2倍=165÷75
7月16日(木) 1.8倍=624÷355 東京:1.3倍=286÷224
7月17日(金) 1.4倍=597÷430 東京:1.2倍=293÷243
7月18日(土) 1.7倍=661÷386 東京:1.4倍=290÷206
7月19日(日) 1.3倍=511÷407 東京:0.9倍=188÷206
7月20日(月) 1.6倍=419÷261 東京:1.4倍=168÷119
7月21日(火) 1.9倍=632÷332 東京:1.7倍=237÷143
7月22日(水) 1.8倍=795÷450 東京:1.4倍=238÷165
7月23日(木) 1.6倍=981÷624 東京:1.3倍=366÷286
7月24日(金) 1.3倍=771÷597 東京:0.9倍=260÷293
7月25日(土) 1.2倍=803÷661 東京:1.0倍=295÷290
7月26日(日) 1.6倍=835÷511 東京:1.3倍=239÷188
7月27日(月) 1.4倍=598÷419 東京:0.8倍=131÷168
7月28日(火) 1.6倍=981÷632 東京:1.1倍=266÷237
7月29日(水) 1.6倍=1264÷795 東京:1.1倍=250÷238
7月30日(木) 1.3倍=1301÷981 東京:1.0倍=367÷366
7月31日(金) 2.0倍=1580÷771 東京:1.8倍=463÷260
8月01日(土) 1.9倍=1536÷803 東京:1.6倍=472÷295
8月02日(日) 1.6倍=1332÷835 東京:1.2倍=292÷239
8月03日(月) 1.6倍=959÷598 東京:2.0倍=258÷131
8月04日(火) 1.3倍=1239÷981 東京:1.2倍=309÷266
8月05日(水) 1.1倍=1354÷1264 東京:1.1倍=263÷250
8月06日(木) 1.1倍=1485÷1301 東京:1.0倍=360÷367
8月07日(金) 1.0倍=1605÷1580 東京:1.0倍=462÷463
8月08日(土) 1.0倍=1568÷1536 東京:0.9倍=429÷472
8月09日(日) 1.1倍=1443÷1332 東京:1.1倍=331÷292
8月10日(月) 0.9倍=839÷958 東京:0.8倍=197÷258
8月11日(火) 0.6倍=700÷1239 東京:0.6倍=188÷309
8月12日(水) 0.7倍=977÷1354 東京:0.6倍=222÷263
8月13日(木) 0.8倍=1176÷1485 東京:0.6倍=206÷360
8月14日(金) 0.8倍=1358÷1605 東京:0.8倍=389÷462
8月15日(土) 0.8倍=1232÷1568 東京:0.9倍=385÷427
8月16日(日) 1.7倍=1020÷1443 東京:0.8倍=260÷331
8月17日(月) 0.8倍=647÷839 東京:0.8倍=161÷197
8月18日(火) 1.3倍=918÷699 東京:1.1倍=207÷188
8月19日(水) 1.1倍=1072÷979 東京:0.8倍=186÷222
8月20日(木) 1.0倍=1185÷1176 東京:1.6倍=339÷206
8月21日(金) 0.8倍=1034÷1358 東京:0.7倍=258÷389
8月22日(土) 0.8倍=984÷1231 東京:0.7倍=256÷385

東京都の例で、土曜日と日曜日の(PCR+抗原)検査件数が少なくなっている1週間サイクルを紹介します。このため新規感染者数の推移をみる場合も検査数の変化を影響で週初め(月・火・水)に数値が下がっているという観点でグラフを見る必要があると考えます。この1週間サイクルは日本だけでなくアメリカなど各国で見られる現象です。

コメント頂いた
累積感染者数 12,116人
死者数 353人
回復者数 7,821人
新規感染者数 7月1日:72人/日 7月2日:132人/日
人口 10,369,000人

アメリカの累積感染者数が200万人を超えた2020年6月11日は新規感染者は徐々に下がり22,900人/日でしたが、その時点から増加に転じて21日後の7月2日には54,500人/日になり、さらに増加が続く状態になってしまいました。感染を抑え込んでいる国がある中で「世界最強の国でなぜ?」と思ってしまいます。アメリカは州によって状況が全く違います。急速に感染を拡大しているのがニュースでもよく出てくるカルフォルニア(7,900人/日)、テキサス(6,800人/日)、フロリダ(10,100人/日)、アリゾナ(3,300人/日)、ジョージア(3,500人/日)などです。グラフを見ると恐ろしくなる勢いです。各州の括弧内の人数は7月2日の新規感染者数です。ちなみに累計感染者数395,872人のニューヨークの7月2日の新規感染者数は878人/日です。ニューヨークで最も多かった新規感染者数は4月15日の11,400人/日でした。

2020年6月22日追記 タイトル:じわじわ新規感染者が増えています。
2020年6月30日更新 タイトル:増加傾向が顕著になってきました。


2020年6月14日~6月21日まで関西に行っていました。6月21日(日曜日)の早朝の新幹線で千葉に帰宅いたしました。日曜日の早朝の新幹線にしたのは新型コロナへの感染リスクを低くするためです。私の乗った2号車は新大阪を出た時は私を含めて2名のみで品川を下りる時点で8名だったことから思惑通り感染リスクは低く抑えられたと思います。さっそく19のグラフを更新いたしました。最近の新型コロナ感染者数の特徴は新規感染者は低く抑えられてはいますが、すこしづつ増えていることだと思います。日々変化する上に感染者数の変化には1週間サイクルが見られることから7日間の移動平均で見ると、じわじわ新規感染者数が増える傾向であることが分かると思います。6月22日以降はさらに新規感染者の増加傾向が顕著になりました。
6月21日の移動平均の値は6月15日(月曜日)から6月21日(日曜日)の値を平均したものです。今までは基本的に19のグラフの更新は毎日行っていましたが、6月22日と29日に追加した6つのグラフ以外は1週間ごとの更新に変更しています。次の更新は火曜日の予定です。
大きなグラフの下の小さな2つのグラフは左が5月25日~6月22日のグラフで、右が6月22日~7月20日のグラフです。
全国の新規感染者数に大きく影響しているのが東京都の新規感染者数です。東京都のグラフを紹介します。明らかに新規感染者が増加傾向です。相談体制および検査体制の関係から土曜日と日曜日のPCR検査件数減少に影響して週初め(月・火・水)に新規感染者確認数が下がる傾向は全国だけでなく東京都にも見られることから曜日ごとの変化を注意深く見る必要があるようです。(202年7月16日追記)


参考に東京都以外を集計した46道府県のグラフも紹介します。東京都以外を集計した数値は、感染者の増加はなんとか抑えられているように感じていましたが6月22日以降は徐々に増え始めました。グラフをクリックすると5月25日から6月22日までのグラフを表示します。


比較しやすいように、全国、東京、東京以外の3つのグラフを並べてみました。
全国 東京 東京以外



同じグラフ上で東京都( 青色 )と東京以外( 緑色 )を比較できるようにしたものです。一番上の部分が日本全体の新規感染者数の推移です。

6月20日ごろ2~3週間に限って見ていると全国の10%の人口の東京都の新規感染者数が日本全体の60%に達しているのも特徴のようです。人口密度が高い東京の宿命なのかもしれません。マスコミ報道によれば20代か~30代の若者の感染者が目立ってきているのも最近の特徴だそうです。感染確率を下げるさらなる工夫が必要になっているように感じます。
比率の多かった東京都も7月20日には従来の約33%(累計感染者数での割合)に下がってきました。これは東京が減ってきたのではなく東京以外の地域の感染が急速に拡大してきたためです。


第1波が始まった2020年3月16日から都道府別の新規感染者数のグラフも紹介します。すでに掲載した3月16日からのいくつかのグラフでも表れているように各都道府県も1週間サイクルがあると思われることから、毎日の変化ではなく1週間ごとの変化を比べると判りやすいと思います。今は少ないと思って油断すると一気に感染者数が増えてしまうのが今回の新型コロナウイルスの特徴のようです。そして、その結果が1週間以上過ぎてから数値に現れてくるところも厄介なことです。感染者が少なかった3月23日以前を確認したい場合はクリックすると縦に伸ばしたグラフを表示します。
数値の表は8月23日0時時点の各都道府県の累計感染者数です。
東京都 | 19121人 | 大阪府 | 7720人 | 神奈川県 | 4369人 | ||
千葉県 | 2724人 | 埼玉県 | 3528人 | 福岡県 | 4055人 | ||
兵庫県 | 2105人 | 愛知県 | 4146人 | 北海道 | 1698人 | ||
京都府 | 1306人 | 他県+空港 | 11274人 | 日本全体 | 62046人 |

2020年6月13日追記 タイトル:次のグラフ更新は6月23日以降になります。
2020年6月14日の早朝から6月21日まで関西に行きます。ノートパソコンは持って行きますが、家のPCでないとグラフ編集に時間がかかってしまうためグラフ更新は千葉に帰宅してから行うので次のグラフ更新は6月23日以降に

2020年6月3日追記 タイトル:新規感染者の移動平均のグラフ


4月6日からの移動平均のグラフも紹介します。大局的な視点で見れるかもしれません。こちらも丸印(●●●●●●●)は実際の感染確認数です。クリックすると拡大します。

2020年5月14日追記 5月25日更新 タイトル:最近の新規感染者のグラフ


新型コロナの感染数の推移に影響のある事象をリストアップいたしました。事象をグラフにも書き込みました。クリックすると文字が読める大きさのグラフを表示します。
3月25日 東京都緊急記者会見 96人/日 東京:41人/日
4月07日 緊急事態宣言(7都府県) 368人/日
4月11日 最大感染者発生日 720人/日
4月16日 緊急事態宣言(全都道府県) GWを見据えた対応
4月29日~5月06日 GW中に徹底した行動自粛が自主的に行われた
5月07日&5月11日 仕事の再開
5月14日 緊急事態宣言・39県解除 8都道府県継続
5月21日 緊急事態宣言・関西圏解除 首都圏&北海道継続
5月25日 緊急事態宣言・全て解除
6月19日 全国移動自粛解除

都道府県の新規感染者の比率が分かるグラフも掲載いたしました。感染者の人数(人/日)と感染者の比率を10秒ごとに交互に表示しています。比率のグラフに関して日本全体の新規感染者数を100%としています。右側の棒グラフは各都道府県の累計感染者数と人口で、日本全体を100%として作っています。東京と大阪の感染者は人口比に比べて多いことから、単に人口の多さだけでなく人口密度の高さや3密の数の多さが少なからず関係している可能性があるように感じます。10秒ごとですが、切り替わるとじっくり見ることが出来ないのでグラフをクリックすると2020年3月9日からの下段の横長の拡大グラフを表示するように設定しています。5月23日から福岡県の感染者が増えているのは、北九州市で多くの感染者が出ているためです。(5月29日追記)




計算式 : 陽性率 = 陽性者数 ÷ ( 陽性者数 + 陰性者数 )
下の2組の3つの数値はJohns Hopkins大学(JHU) の日本時間2020年6月25日12時33分と2020年7月04日12時33分にアップデート(更新)された世界全体の新型コロナ感染情報です。24時間(1~数時間ごとに)更新されています。いずれの数値も累計です。回復者数に関してはフォローされていない国が多いので参考です。多い順に国名を紹介します。

グラフをクリックすると5ケ国を同時に表示します。
2020年6月25日12時33分更新
感染者数 9,408,757人 米国 ブラジル ロシア インド 英国
死者数 482,184人 米国 ブラジル 英国 イタリア フランス
回復者数 4,729,511人 ブラジル 米国 ロシア インド チリ
2020年7月04日12時33分更新
感染者数 11,049,505人 米国 ブラジル ロシア インド ペルー
死者数 524,677人 米国 ブラジル 英国 イタリア フランス
回復者数 5,849,347人 ブラジル 米国 ロシア インド チリ

アメリカの新型コロナによる死者数が10万人を超えました。NHKのNEWS WEBの記事の内容を枠内に転記いたします。ニュースが掲載された時刻が7時26分であることから、10万人を越えた瞬間はJohns Hopkins大学(JHU) のHPが5月28日6時32分(日本時間)に更新した100,047人と思われます。
下記の数値は死者が10万人を越えた日から14日目の2020年6月11日7時33分(日本時間)の時点のアメリカの新型コロナ感染情報です。悲しいことに5月28日~6月11日の14日間では1日平均893人(=(112769-100271)÷14)が亡くなっているペースです。アメリカも日本のように一週間サイクルで変化しています。

感染者数 1,997,636人
死者数 112,769人
回復者数 533,504人
患者数 1,351,363人 ( = 1,997,636人 - 112,769人 - 533,504人 )
死亡率 5.6%~17.4%( =112,769人÷(112,769人+533,504人) )の間
アメリカで死者10万人超える 世界全体の3割 新型コロナNHK NEWS WEB 2020年5月28日 7時26分アメリカのジョンズ・ホプキンス大学のまとめによりますと、アメリカで、新型コロナウイルスに感染して死亡した人が、10万人を超えました。これは世界全体で感染して亡くなった人のおよそ3割にのぼります。
アメリカで最初の死者が確認されたのは、3か月前にあたる2月中だったとされています。死者が5万人に達したのが先月27日で、1か月で10万人に倍増したことになります。
アメリカでは、感染のピークは過ぎたとして今月20日、全米50州すべてで業種や地域を限定して経済活動が再開されていますが、いまも1日あたりの死者は500人前後にのぼっています。
そして6月11日にアメリカの累計感染者数が200万人を超えたとの報道が枠内のようにありました。Johns Hopkins大学(JHU) の新型コロナのHPでは6月11日11時33分(日本時間)更新の数値では1,999,900人でしたが6月11日12時33分更新では2,000,464人になりました。IRIB通信によると、それより早く米メディアは6月10日に2,045,549人に達したとの報道があったそうです。
アメリカで感染者200万人超える 南西部で急増 規制緩和が要因か6/11(木) 13:13配信 ANNニュースアメリカでは、新型コロナウイルスの感染者が200万人を超えた。カリフォルニア州などで新たな感染者が急増し、第2波への懸念が広がっている。 カリフォルニア州では、先週の新たな感染者数が前の週より40%ほど増え、感染が最も深刻なニューヨーク州の先週の新たな感染者の約3倍になった。アリゾナ州とユタ州の先週の新規感染者も大きく増えている。また、フロリダ州では先週1週間で8553人の感染が確認され、週単位の増加数では最多となった。いずれの州も外出制限が緩和され、人が集まる機会が増えたことが要因とみられている。
戦国時代の城 下高野館(しもこうや やかた) [千葉]
2021年2月3日追記 タイトル:下高野館の発掘が行われました。

千葉県八千代市下高野の上の写真の小山の上には土塁などが確認されており戦国時代には小城館があったとされています。小城館の当時の呼名は分かりませんが、現在は下高野館(しもこうや・やかた)と呼ばれています。その下高野館があった辺りの発掘が行われたので、2013年に掲載した記事に追記する形で紹介いたします。発掘の写真8枚⦅①~⑧)は以前記載した中で「地元のKさん」と紹介した方に提供していただきました。Kさんは辻切り(藁の大蛇)や庚申塔などの地域の風習を教えていただくなど大変にお世話になっている方です。コメント欄では kazu という名でコメントをしていただいている方でもあります。私自身は発掘は見ていないので説明を受けた内容で掲載いたしました。発掘は2020年10月中旬に始まり2020年12月20日過ぎまで行われたそうです。発掘の埋め戻し工事は2021年1月5日~2021年1月20日頃まで行われたそうです。
今回の発掘エリアを航空写真に書き込みました。赤色に着色した部分です。埋め戻し後しか見ていないので、発掘のために整地された部分も含めたエリアに着色いたしました。
①下高野館跡の発掘
周辺より高台になった最も南西側の発掘場所の写真です。結構大規模に行われたことを写真で知りました。

同じ場所を2021年2月2日に撮った写真です。埋め戻された後のためすでに整地されていました。残された切り株でも判るように木と竹で覆われていたために全貌は全く分かりませんでした。

②下高野館跡の発掘
上で紹介した①の写真は北東から撮った写真ですが、こちらは南西方向から撮った発掘中の写真です。この写真から発掘時の写真を撮った時、太陽は南西方向にあったことが分かります。他の発掘時の写真の撮影方向を影の方向から推定することが出来ます。

同じ場所を2021年2月2日に撮った写真です。②の写真に写っている小屋がこちらの写真にも写っているので同じ場所を撮ったものだと判っていただけると思います。

③下高野館跡の堀

発掘により堀も発見されたそうです。以前に紹介した天神様境内にある右の写真の甲人大明神に立石家が祀った兜(甲)が、この堀に落ちていたいたのではないかと想像されるそうです。昔に下高野館の堀で兜(甲)が発見されて、その甲を天神様境内に祠(甲人大明神)を作り祀ったと伝えられているためにその堀だと考えられたわけです。残念ながら甲自体は失われてしまって今は見ることが出来ないそうです。

掘りがあったと思われる場所の写真を撮りました。上の堀の後の写真の背景部分が少ないので確実ではありません。

④戦国時代のお墓
戦国時代のお墓も発掘されたそうです。コメント欄のkazuさんの説明(2021-02-04 08:43)によれば発掘エリアの最も北東側で発見されたそうです。

⑤中世の住居跡
発掘場所の中の北東方向には中世の住宅跡もあったそうです。館跡からは食料保存の「むろ」は見つかりましたが出土品はなかったようです。

⑥中世のかまど跡
中世の住宅のかまど跡もみつかりました。

中世の住居跡の場所も背景から想定してみました。このエリアの一番奥に④の戦国時代のお墓があったそうです。

⑦奈良・平安時代の住居跡
奈良・平安時代の住居跡も見つかったそうです。おそらく中世の住居跡よりは北西側になるのだと思います。

奈良・平安時代の住居跡も想定してみました。埋め戻し前に見に来なかったのを悔いております。正確な場所が分かった場合は写真を差し替えさせていただきます。

⑧縄文時代の住居跡
縄文時代の住居跡まで見つかったそうです。縄文式の住居跡付近からは、矢じりや小さな石器は多数見つかったようです。分析はこれからで確定ではありませんが、物を切るのに使われたと思われる石器のような石も見つかったそうです。残念ながら土器や壺などは見つからなかったようです。

前に来た時は沢山の木や竹が生い茂っていた下高野館の辺りからは景色を見ることが出来ませんでしたが、発掘のお陰で見晴らしが良くなりました。

最も南西の場所に基準杭がありました。

基準杭の辺りから見た景色です。

下高野館の発掘し埋め戻したところの動画を2021年2月3日に撮ったので紹介します。上の写真の基準杭があった最も南西の場所から発掘現場を回って元の場所に戻って来るところまでを撮っています。元に戻ると繰り返し最初から表示するように設定しています。すべて見ていただくと位置関係が判っていただけるのかもしれません。
2013年6月3日掲載 タイトル:戦国時代の城 下高野館

今から600年~400年前の千葉県の印旛沼の西側地域には、すでに紹介した小竹城や先崎城や井野城のように防御のための城が沢山あったことが知られています。その小竹城や先崎城の近くには、同じような役目を持っていたと思われる館の痕跡が、写真の小山の中に見つかっています。また麓の人たちの家にも館があったことが言い伝えられています。その館は八千代市下高野地区にあることから「下高野館」と呼ばれています。こちらの写真は館から南東方向から撮りました。
その下高野館が建っていたと思われる場所を航空写真にマークいたしました。この小山は東、西、南の方向に対しては高台になっていますが北に広がる台地とは同じ高さで、その台地から舌状に突き出た部分なのです。
地形的には先崎城と類似しています。
より大きな地図で 下高野館 を表示
真上からではなく、斜めから見た航空写真も紹介いたします。クリックすると周りの建物の雰囲気が判ると思います。

このあたりの景観を動画で紹介いたします。 プレーボタンをクリックしてください。

下高野館と先崎城は直線距離で530mでした。
南西方向から下高野館があったあたりを見たものです。この森の中に土塁の遺構が残っています。下高野館の奥の台地は梨畑や畑が広がっていました。下高野館ではなく、上で書いた(下高野城)は一般的な呼び方ではありませんが、下高野城と書いた理由は後で説明いたします。

小山を拡大すると斜面に、小さな祠(ほこら)があります。この小祠は、下高野館が建っていたあたりの土地の所有者(Mさん)の家の氏神様とのことでした。お願いして、高台のあたりを下高野の地元のKさんに2013年5月31日に案内していただいたときに偶然にも高台の畑のあたりで、その所有者のMさんに会うことが出来ことから小山の中に入らせていただいた上に案内までしていただきました。さらに写真撮影の許可もいただきました。

これがMさんの家の氏神様の祠(ほこら)です。祠の奥が、館の周囲にあったと思われる土塁の一部です。写真の中で右端に写っている方がMさんです。

祠の中の飾りも撮らせていただきました。初めて見るもので真新しい飾りで、この祠が大切に受け継がれていることを感じました。


Mさんの家では辻切りを始め、成らせ餅、節分、サナブリ、カッキリなど、昔からの多くの伝統行事を守っておられます。これだけたくさんの伝統行事を続けられている家は貴重な存在だと思います。右の写真のように「広報よちよ」にも何度か掲載されました。今年の2013年2月14日のNHKのおはよう日本で「下高野の辻切り」が放映されました。同じ2月14日ですがNHKの「こんにちは いっと6けん」でMさんの家の

2012年の2月29日にもNHKで千葉県の色々な民俗行事の紹介の中でMさんの奥さんも出演されたそうです。

館があったと思われる場所を囲むように土塁がありました。土塁の上を歩いている方がMさんです。写真を撮られている方が、民俗博物館やこの場所を案内していただいた地元のKさんです。これは館の西方向の土塁です。

北側の土塁から上の写真を撮った方向の写真です。

この石碑の中央には「身魂霊神」と書かれており左右にはカタカナ交じりの漢字で、石碑に由来が書かれていました。写真をクリックすると、完全ではありませんが、その文章を読むことが出来ると思います。
文章は 「昔 大石某ナル者 此地 居城ヲ構ヘタリト伝フモ記録存セス・・・」
と始まり「記載ナク年代不詳其ノ後我祖先此處ニ住居ヲ定メ・・・」
と続き 「大石氏を身魂?神ト祭リテ以テ・・・」
と続き 「其ノ由緒ヲ傅フルモノナリ」と締めくくっています。
この石碑は1925年に立石幸造さんが後世に伝えるために建てたものです。立石幸造さんは現在の当主の先祖の方と思われます。将来のことを考えて倉に残された資料や代々伝えられてきたことを石碑に残したものと思われます。内容から見ると大石氏が城を構えたと書かれていることから城主の姓は大石であったことになります。また「館」ではなく「城」の言葉が使われており、しっかりとした土塁に周囲を囲まれていたことから下高野館は「大石城」あるいは「下高野城」と表現できるのかもしれません。

館跡に近い場所から、今までに13枚の板碑(いたび)が見つかりました。写真はその板碑です。板碑は中世仏教で使われた供養塔で、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだもので鎌倉幕府(1185~1333年)の武士の信仰に強く関連すると考えられているそうです。一番右の板碑には梵字が読み取れます。
下高野地区は立石さん、小澤さん、深山さんの3つ姓で構成されており、いずれも千葉氏とゆかりのある姓であることから、下高野館も千葉氏系の館主であったと考えられています。

書かれている文字を読むため所有者のMさんに坂碑を抜いていただきました。写真をクリックすると文字が書かれていることが判ると思います。文字は正確には読めませんでしたが全体の形が判ることから546年前の古さが伝わってきました。発見された板碑のなかで古いものは文正2年(1467年)であることから、少なくとも戦国時代の少し前から館があったものと考えられています。一方、距離的にも関係が深かったと考えられている先崎城は臼井城の支城であったことから下高野館も臼井城(12世紀中頃~1604年廃城)の支城であったと考える方が多いようです。参考にこの時代の年代を書いておきます。最大の戦いは1566年に上杉謙信が臼井城を攻めて謙信が敗退した時ですが、それ以外に臼井城に関わる戦いが記録されているのが1479年、1561年、1564年などがあります。
鎌倉時代 1185~1333年 板碑の起源
室町時代 1336~1573年
建武の新政 1333~1336年
南北朝時代 1336~1392年
戦国時代 1493~1590年 印旛沼周辺での戦いの時期
安土桃山時代 1573~1603年
江戸時代 1603~1868年

板碑は発掘された場所の近いところに祀られていました。
この坂碑は「大先祖 八良右エ門 之墓」に祀られていました。

小山の上から館跡の方向(南方向)を撮ったものです。この畑からも沢山、板碑が発見されたそうです。

館があったあたりは東側、南側、西側は急な崖になっていることから北側から上がっていきます。この道は梨園に軽トラックが上がっていくために整備されたものと思われます。道の脇にも太い木が生えていることから軽トラックが通れる道が整備される以前にも、元となった道があったと想像されます。昔、この元となった道が、空掘りだったのか、単なる小道だったのかは判りませんが、昔も北側のみが館に上がってこれる方向だったことは、まちがいないことである上に、この天満宮あたりは畑以外は、昔のままの地形と想像されることから、何らかの防衛のための地形だったのだと想像されます。直感的に、この道は空堀であったのではないかと感じました。左側の土手の奥に館がありました。左側の土手は単なる自然の地形なのか土塁なのかは今となって判断が難しいところですが、少なくとも入口に近いところは土塁になっていたのだと思います。畑で削られた部分を頭の中で復元してみると全体の形が判ってくるものと思います。

この写真は空堀かもしれない道を上り詰めたあたりです。今となっては確認はできませんが、道が空堀であったとするならば、つきあたり付近が昔の主郭への入口である虎口ということになります。そんな想像をしてみるとロマンを感じます。

これが空堀と思われる道の近くにある菅原神社です。 地元の方は天満宮と呼ばれていました。

天満宮の拝殿と本殿です。この近くの地域は江戸時代は幕府領と

そんな下高野村に版木が伝えられていました。その版木から刷ったのが右の版画です。版画は大宰府天満宮・宮司・西高辻信長・氏により鑑定されたそうで右上に、宮司の「天満大自在天神」の添え書きが書かれていました。


天満宮の横にはいくつかの社がありました。奥から2つ目の鳥居の社(祠)が下高野館と縁のある「甲人大明神」です。沢山の社(祠)は麓の人たちが、それぞれに担当があり大切に管理されているそうです。

これが正面から見た「甲人大明神」です。下高野館のあった小山の下の方の庭で昔の武士の兜が発見されたそうです。その兜を祀ったのが「甲人大明神」です。

その兜は残念ながら盗まれてしまったので、今は社(祠)の中には石碑が祀られています。大切な文化財は、みんなで大切にしてほしいものです。

天満宮(菅原神社)と下高野館の関係を示す地図を紹介します。庚申塔と書かれているのは下高野地区の庚申塔を建てられている場所です。今で庚申講が続いており、庚申塔の建立も1993年、2000年、2007年とつづいており、7年ごとにあたる来年(2014年)には新しい庚申塔が建てられるそうです。
また辻切りも下高野地区には6体あり、この地図上にも2体を見ることが出来ます。




下高野館に関してはネツトにも詳しい説明がないことから、下高野館跡を案内してもらったKさんにお願いして2013年5月31日に八千代市立郷土博物館の方の話を伺いに行きました。その後に下高野館跡に行ったわけです。八千代市立郷土博物館(黄色)には貴重な資料が展示されており国道16号を挟んでジョイフル本田の園芸売場(青色)の向かいにあるので、是非とも買い物の時にでも一度、見てみてください。入館料は無料です。スーパー・イズミヤ八千代店(空色)の隣でもあります。

郷土博物館の内部です。一部のもの「撮影禁止と記載」を除いて写真撮影も許可されています。

下高野館の周辺の戦国時代の城跡を緑色のマークで紹介いたします。マークをクリックすると名前と説明を表示します。中心近くの左側のマークが下高野館(下高野城)です。この画面上に出てきている城跡は下高野館、井野城、先崎城、小竹城、臼井城、師戸城、岩戸城、保品竜害城、神野館、正覚院館、米本城ですが、広範囲を表示させると志津大口館、志津城、上峠城の位置もマークしております。まだマークは付けていませんが新川の西には吉橋城、尾崎館、高津館、妙泉寺城、神久保寺台館、飯網権現砦がありました。同じく、まだマークを付けていませんが臼井城周辺には洲崎砦、稲荷台砦、田久里砦、忍台城 、臼井田宿内砦などもありました。今回は地図ではなく高低が判る地形図を使用しました。地形図の中のアイコン


より大きな地図で 印旛沼の城 を表示
ネットで参考にさせていただいた下高野館の記事を枠内に紹介いたします。検索した結果、詳しい記載は、この一件のみでした。
http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/joukan-tiba/simokouya-yakata-2009/simokouya-yakata-2009.html
城跡ほっつき歩記 2009年3月30日掲載
下高野館
凸千葉氏系統の小城館か
「八千代の歴史」(上巻)によりますと、「仮称下高野館」として掲載されています。その明確な歴史的経緯は不明とされていますが、印旛沼へ続く小竹川を俯瞰する台地上に位置し麓に所在する旧家の名称などから千葉氏系統の小城館と推定を行ったうえで、臼井氏、その後の臼井原氏の家臣が拠る一支城という可能性を示しています。
また低地を挟んで東方約500mの台地上にに先崎城が所在していることから、その関連性を深さを示唆しています。
凸 台地先端部の遺構
台地の南東端に小祠が祀られた小規模な土塁地形に囲まれた小郭が台地辺縁部に所在しています。また下高野の「北野天神」(天満宮)境内が台地の基部(台地狭隘部)に所在しており、当時においてはこの辺りにも空堀や土塁などの防御施設が構築されていたものと考えられますが、現在の神社の土塁や参道などの整備により地形判別が難しくなっておりました。また天満宮には「堀に落ちた武士の兜を拾い上げて祀ったと伝承の残る」「甲人大明神」(かぶとだいみょうじん)という祭神が合祀され、中世城館との関わりを暗示しています。
台地先端部の遺構は、南と東側を急斜面で囲まれ、西側には堀底道で北側は小郭を隔絶する土塁跡と思しき地形が明瞭に残存していますが、 単郭としては余りに狭隘に過ぎる向きもあります。かといって複郭の形態を具体的に想定するには、耕地化(確か梨畑だったかと記憶)による地形の改変が大きく、日没までの時間の制約もあり天満宮との間の地形の想定は困難でありました。 (注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。 (注2)なお、この「概念図」については「電子国土」等の地形図を参考にして現地作成していますが、おぼろげな記憶を頼りにしているところもあり極めて不正確なものです。
凸土塁上の小祠
武蔵型板碑の小片らしきものも散見される土塁上の小祠(祭神不明)。画像右側が郭内ですが、大きめの腰郭ほどの規模しかないことから、この祠が祀られている向こう側の果樹園(たぶん梨畑と記憶)を中心に主郭のようなものが存在していたと考えたいところです。
凸下高野館郭跡と堀底道(推定)
画像中央部の平坦地が左手の土塁により遮断され、やや不整形な小郭状の地形を形成しています。 また、画像右下が堀底状の道となって麓の旧家まで続きいていますが、堀底道であるのか耕作等のための生活道路であるのかは不明です。
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「八千代市の歴史通史編上」(2008/八千代市)
千葉県八千代市下高野字天神
佐倉市の周辺を治めた3つの城を紹介いたします。ちなみに江戸時代は1603年~1868年で、戦国時代は1467年~1590年です。つまり本佐倉城は戦国時代の城なのです。しいて言えば、臼井城は鎌倉時代、佐倉城は江戸時代の城なのです。戦国時代(1493~1590年)は、日本の総人口が800~1200万人の世界でした。



文明年間:1469年~1487年 天文年間:1532年~1555年


海老フライ [料理]

前記事の江戸切子 子供達3人からの誕生日プレゼントで紹介したように私の誕生日祝いの夕食は私の希望を受け入れてもらい揚げ物の海老フライにしてもらいました。揚げ物はあまりしたくないようなのでが、受け入れてもらったわけです。驚くほど大きな海老の海老フライでした。



誕生日にふさわしいカプレーゼも用意してもらいました。使われているチーズのモッツァレラは当日に買いに行ったと言っていました。
使っている皿は栃木県那須郡那珂川町小砂にある国山窯で焼かれた小砂焼です。


カプレーゼの味を想像していただきたくて拡大写真を掲載いたしました。オリーブオイルをたっぷりと使いました。

サラダも特別な器に盛られていて、レタス以外にミニトマト、アボガト、ハム、蕪などのいろんな材料が入っていました。こちらの器は益子焼きです。

洋風の食事ではありますが、赤飯も用意されていました。


ビールで乾杯いたしました。

自分の前に料理を取り分けながらいただきました。この写真からも海老フライの大きさが分かっていただけると思います。実家で海老フライを食べたいときは、揚げたてを買える惣菜屋さんで買って冷めないように持ち帰って食べる工夫をしています。→ポチッ

我家の海老フライのソースは、ウスターソース+タルタルソースあるいはウスターソース+マヨネーズです。この日はウスターソース+マヨネーズでした。ソースに浸ける直前にその時に食べる海老フライだけにレモンを絞ってから食べるのも我家流です。

ケーキも準備してくれていました。運動を兼ねて下記のケーキ屋さんに歩いて階に行ったとのことでした。左がショコラルージュで、右がモンブランです。
店名 創作菓子 杏 Sousaku-gashi ANN
住所 千葉県佐倉市ユーカリが丘1-5-11
電話 043-488-3838
営業 11:00~18:00
定休 水曜日・第3火曜日
シェフ 横井 康人(オーナー パティシエ/pâtissier)
HP https://www.0434883838.jp/shop.html

私はこちらのショコラルージュを選びました。

家内はこちらのモンブランです。スポンジの上に栗クリームがたっぷりと乗せられていました。

もちろん紅茶でいただきました。ケーキの色に合った可愛らしいランチョンマットが出されました。

ケーキは両方食べたいのと、断面を見たかったので半分つづいただきました。赤い色のケーキは甘酸っぱい美味しいケーキでした。スポンジのケーキは栗クリームと栗が使われたクリーミーなモンブランでした。

イチゴも用意されていましたが、料理もデザートもたっぷりあったので、翌朝にいただきました。
