世界遺産 タージマハール [インド]
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2024年10月01日再掲載 タイトル : 世界遺産 タージマハール
インドで訪問したことのある7つの世界遺産の内、6つ(新掲載1つ 再掲載5つ)紹介しました。最後に残しておいた最後のタージマハールを再掲載いたします。下記のリストが私が訪れたことがあるの世界遺産です。下の小さな写真か着色文字をクリックすると記事を表示します。8枚目の写真はインドの発電プラントの契約の調印式の写真です。
登録年 世界遺産の名称
1983年 アーグラ城塞
1983年 タージマハール(Taj Mahal/タージ・マハル)
1987年 エレファンタ石窟群
1993年 デリーのフマーユーン廟
1993年 デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群
2004年 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅
2007年 赤い城の建造物群 レッド・フォート
2009年07月03日 掲載
2024年10月02日 再掲載 閲覧数:7,091 nice!:118 CMT :34
2024年10月03日 閲覧数:7,213 nice!:134 CMT :44
2024年10月04日 閲覧数:7,308 nice!:151 CMT :44
2024年10月05日 閲覧数:7,407 nice!:168 CMT :48
2009年07月03日掲載 タイトル : 世界遺産 タージマハール
今までにインドには13回ほど行きましたが、その中で一度だけ世界資産のタージマハール(タージ・マハル/Taj Mahal)に行くチャンスが出来ました。デリーから右の写真のバスで日帰りツアーで行くと、上の写真のように広い庭園の中に大理石の真っ白なタージマハールが目の前に現れました。
中央の池に沿って庭園をタージマハールに近づいていきます。緑の中に沢山のリス達がいました。今でも沢山いるようです。タージマハールはデリーにあるフマユーン廟をモデルにしたとも言われています。形や色は違いますが全体的なアレンジは確かに参考にしているようです。
近づいて正面から撮りました。この写真は是非ともクリックしてみてください。
タージマハールはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年6月17日に36歳で亡くなった妻・ムムターズ・マハルのためにペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人を集めて、22年の歳月をかけて建造させたと言われている総大理石の墓廟(霊廟)です。インド文化を代表する建築物と言えると思います。
36歳で妻・ムムターズ・マハルが亡くなった時、皇帝シャー・ジャハーンは39歳でした。タージマハールはインドのウッタル・プラデーシュ州最大の都市であるアーグラ(Agra)にあります。アーグラの人口は約157万5千人(2011年)で、アグラとも表記されます。世界遺産に登録されているアーグラ城も近くにあります。デリーからは南南東に約180キロで、すでに紹介したジャイプルからは東に約220キロの位置にあります。ここを訪れたのは1993年7月31日(土曜日)でした。
上の写真はクリックすると拡大しますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。
ヒンドゥー教徒は墓を持たず、遺体は火葬され遺骨や灰は川に流されます。一方、霊魂は永遠と考えるイスラーム教徒は簡素な墓を建てます。ムガル王朝はイスラーム教国家建設を目指しており、専制君主の権勢を示す目的があって皇帝の大きな霊廟を建設しました。ただし、タージマハールのように権力を握っていない王妃に対し壮大な墓廟が建設された例は、ほとんど無いそうです。
画像は悪くなりますが、さらに拡大いたしました。真白の大理石に宝石が模様のように埋め込まれているのが判ってもらえると思います。今、建設したら、いくらぐらいかかるのでしょうね。想像できないくらいの金額だと思います。
このときはアーグラ城にも行きました。アーグラ城からヤムナ川越しに望むタージマハールです。晩年に幽閉されたシャー・ジャハーンが見た景色です。
右下の水牛、絵になっています。
インドらしい風景かもしれません。
航空写真で見ると、アーグラ城塞とタージマハールと黒大理石の霊廟の建設予定の位置関係が判りやすいと思います。黒大理石の霊廟は、幻の黒タージマハールで、シャー・ジャハーン皇帝自身の霊廟の予定と言われています。
これはどこだったかな!ブログに載せる以上は知らないわけにもいかないし。でも観光地は2ケ所しか行かなかった記憶! 省略するにはリッパ過ぎる!と頭を悩まししていました。
最近は便利ですね。インターネットでいろいろ調べた結果 ⇒ タージマハールの入口(玄関)でした。2ケ所しか行かなかった記憶は正しかった。この門を通った瞬間、壮大なタージマハールが目の前に出現します。庭や池の感じからタジマハールから門を撮った写真であることがわかりました。SV
門をあらためて近くで見てみました。この門は外側から2番目になります。この門をくぐるとタージマハールが見えます。でもみんないろんな言い方をします。
タージ・マハル タージ・マハール タージマハール タジ・マハル タジマハール などなど
門には沢山の装飾が行われていました。この門は大理石と赤砂岩が使われています。タージマハールの大理石はラージャスターン地方産であるといわれています。碧玉はパンジャーブ地方から、翡翠は遠く中国から、トルコ石はチベットから、ラピス・ラズリはアフガニスタンから、サファイアはスリランカから、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから持ち寄られ、全体で28種類もの宝石・鉱石がはめ込まれていたそうです。
こちらが上の門の外側にある1番目の門です。このときも沢山歩いた記憶がありますが、ネットによると排ガスによる大理石の腐食を防止するために車の近くへの進入は禁止されて、遠くから歩かされると書かれていました。電気自動車は用意されているそうです。
航空写真を掲載します。
別画面で 航空写真 を表示
Googlマップのストリートビューで360度を紹介します。上から北→東→南→西の順番です。今は世界中の景色をGoogleのストリートビューで見ることが出来ますが、やはり実際にそばに行って見た時の感動にはおよびません。タージマハールはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが1631年6月17日に亡くなった愛妃ムムターズ・マハルのため建設した霊廟で、1666年2月1日に亡くなったシャー・ジャハーンも埋葬されました。左がムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンで右が愛妃ムムターズ・マハルです。
世界遺産 アーグラ城塞 [インド]
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2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 アーグラ城塞
インドの世界遺産の5つ(新掲載1つ 再掲載4つ)紹介しました。私が訪れたのは7ケ所のなので、残りの2ケ所も再掲載させていただきます。2ケ所ともに15年前の2009年7月に掲載した記事です。先ずはアーグラ(Agra/आगरा/آگرا)にあるアーグラ城塞(Agra Fort)を紹介します。アーグラと言えば、同じ世界遺産の右の写真のタージマハールが有名ですが、タージマハールは最後に再掲載させていただきます。
2009年07月04日 掲載
2024年09月27日 再掲載 閲覧数:5,708 nice!:113 CMT :12
2024年09月28日 閲覧数:5,904 nice!:134 CMT :25
2024年09月30日 閲覧数:6,089 nice!:165 CMT :30
2009年07月04日掲載 タイトル : 世界遺産 アーグラ城塞
日帰ツアーで世界遺産のタージマハールに行ったことを報告いたしましたが、タージマハールがあるアーグラの町の城も世界遺産に登録されています。この442年前の世界遺産の登録名は「アーグラ城塞」ですが、そのアーグラ城塞にも行き、何枚か写真を撮ったので紹介いたします。右の写真がツアーで使われたバスです。
この写真はアーグラ城の入口であるアマル・シング門です。アーグラ城塞はムガル帝国時代の城塞で、赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール・キラー, Lal Qila)の別名があります。外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されています。
ムガル帝国の皇帝アクバルが1565年に着工して1573年に完成しました。
その後ジャハーンギール、シャー・ジャハーンまで3代の居城となったそうです。
ムガル帝国は1526年4月21日~1858年5月10日までインド地域を支配したトルコ系イスラーム王朝です。皇帝は17代続きました。その内、アーグラ城塞に皇帝が住んだのは3代(肖像画 : 左から第3代~第5代)です。
1. 1526年 バーブル
2. 1530年 フマーユーン
3. 1556年 アクバル
4. 1605年 ジャハーンギール
5. 1628年 シャー・ジャハーン
6. 1658年 アウラングゼーブ
7. 1707年 バハードゥル・シャー1世
8. 1712年 ジャハーンダール・シャー
9. 1713年 ファッルフシヤル
10. 1719年 ラフィー・ウッダラジャート
11. 1719年 ラフィー・ウッダウラ
12. 1719年 ムハンマド・シャー
13. 1748年 アフマド・シャー
14. 1754年 アーラムギール2世
15. 1759年 シャー・アーラム2世
16. 1806年 アクバル2世
17. 1837年 バハードゥル・シャー2世
1858年 滅亡 イギリスに降伏 イギリスがインド全土を直接支配
アーグラ城塞を平面図で紹介いたします。見所は沢山ありました。Google航空写真でアーグラ城塞の大きさを確認すると東西670mで南北810mでした。
1. デリー門、 2. アマル・シング門 と アクバル門、 3. ジャハーンギル宮殿、
4. 寝殿とアングリー庭園、 5. 内謁殿、 6. 公謁殿、 7. 真珠モスク、
8. バーザール街 北←810m→南
航空写真を掲載します。 上の図を90度右回転させると航空写真と一致します。
画面上の+をクリックすると拡大します。 -をクリックしていくとタジマハールとの位置関係がわかるはずです。
これはアマル・シング門の内側のアクバル門です。立派な門でよくネットにも写真が掲載されていました。
こちらがジャハ-ンギル宮殿です。アーグラ城の中で最も大きな建物です。
内謁殿から見たタージマハールです。川の名前はヤムナ川です。この内謁殿で右の記念写真を撮りました。クリックするとタージマハールが確認できると思うので是非ともクリックしてみてください。
タージマハールを建てたムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンもここから妻ムムターズ・マハルの墓であるタージマハールを眺めたのでしょうね。
タージマハールの辺りを拡大いたしました。舌の写真の真ん中あたり(川の右側)に見える建物がタージマハールです。クリックするとさらに拡大いたします。
シャー・ジャハーンはヤムナー川の対岸(左側/北側)に対となる自分自身の黒大理石の廟の建設を構想していたと言われています。これは、タージ・マハルがイスラーム建築の原則である対称性に則していないことから発したもので、北岸に同じ形の黒い墓廟があれば南北の対称性は果たされるそうです。北岸の胸壁と望楼はその基礎工事の名残とも言われています。
航空写真で見ると、アーグラ城塞とタージマハールと黒大理石の霊廟(幻の黒タジマハール)の建設予定の位置関係が判りやすいと思います。
幻の黒タージマハールの建設予定だった位置からストリートビューで見たタージマハールです。この場所とタージマハールの間にヤムナー川(Yamuna River/जमुना)が流れています。
アグラ城の中にお猿さんが沢山いることが有名です。これもなかなか近づけないですね。場所はアングリー庭園だったような気がします。
アーグラ城は高い城壁で囲まれていました。この景色は壮観さを感じさせてくれました。妻の霊廟としてタージマハールを建設したシャージャハン皇帝は、その晩年、息子達の権力争いに巻き込まれ、実権を握った三男のアウラングゼーブによってタージマハールの見えるアグラ城塞内のムサンマン・ブルジ(Musamman Burj 別名:囚われの塔)に幽閉されたそうです。その後、アウラングゼーブはデリーに移って第6代皇帝となったために、アグラ城塞の最後に住んだ皇帝はシャージャハンとなったわけです。こちらの城壁の写真はムサンマン・ブルジ(囚われの塔)から撮りました。
長い間、この写真もアーグラ城の一部だと思っていましたが、今回、ネットで調べていると、これはアーグラ城ではないことが判りました。さらに調べた結果、アーグラの近郊のシカンドラにあるアーグラ城を建設したムガル帝国の第3代皇帝であるアクバルの霊廟でした。SV
世界遺産になった駅 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅 [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2024年9月22日再掲載
タイトル : 世界遺産になった駅 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅
インドのムンバイ(旧名:ボンベイ)の世界遺産のエレファンタ島の石窟寺院を再掲載したのを機会に、ムンバイのもう一つの世界遺産チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(Chhatrapati Shivaji Terminus/Chhatrapati Shivaji Maharaj Terminus)を再掲載させていただきました。本記事を掲載したのは15年前の2009年11月17日でした。本ブログを始めた2009年5月5日なので、初期の記事ということになります。この駅に訪れたのは2008年2月20日でした。下の画像はGoogleマップのストリートビュー(SV)で見た2021年10月のチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅です。旧名はヴィクトリア駅(Victoria Terminus)です。写真が霞んでいるのは大気汚染のためかもしれません。2009年11月17日 掲載
2024年09月22日 再掲載 閲覧数:6,927 nice!:122 CMT :48
2024年09月23日 閲覧数:7,071 nice!:153 CMT :52
2024年09月24日 閲覧数:7,161 nice!:165 CMT :58
2024年09月25日 閲覧数:7,277 nice!:186 CMT :62
2024年09月27日 閲覧数:7,357 nice!:194 CMT :62
2009年11月17 タイトル : 世界遺産になった駅
世界遺産になった駅があるのをご存知ですか。それも現在も現役で使われている駅です。それが写真のムンバイの駅でインドで最も利用者の多い駅でもあります。その駅舎の中央部分を出来る限り遠くから撮りました。地上からではこれ以上遠くから撮ることはできません。残念ながら精一杯、遠くから撮っても全景が見せられないのです。本記事内の全ての建物の写真はクリックすると拡大します。
全体もすばらしいけれども細部もすばらしい建物です。中央の部分です。特にこの写真はクリックして拡大して見てもらいたい写真です。
斜めから全景をなんとか撮りました。でも真中の部分が写っていないのが残念です。駅自体の工事は1878年に開始され1887年に完成しましたが、この見事な駅舎はイギリスの建築家Frederick William Stevensによって1887年~1888年に設計され、完成には10年かかったそうです。建物はベネチアゴシック建築様式で、壮麗で豪奢な建築物でヴィクトリア朝のゴシック・リヴァイヴァル建築とインドの伝統的建築の融合した傑作と思います。
ここはムンバイ駅でチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(マラーティー語:छत्रपती शिवाजी टर्मिनस、英語:Chhatrapati Shivaji Terminus)と呼ばれています。旧名は「ヴィクトリア・ターミナス駅」(Victoria Terminus)。世界遺産には2004年に登録されました。
CENTRAL RAILWAY(中央鉄道)と書かれています。これがライオン門です。この写真を撮るのに時間がかかりました。人通りが多いので人の切れ目が簡単には出来ませんでした。当然ですが現役の建物なので、他の観光施設のように入場料を取られることはありません。
上の写真を撮っている反対側が多くの人が出入りする通路になっています。表側からも出入りできますが入口が狭いので、この写真の場所から出入りしています。SV
Googleマップの航空写真で駅を紹介します。緑マーク( )のところが冒頭の写真の建物です。緑マーク( )の右側(東側)のエリアがを南北(下上)に沢山の人が出入りしている上の写真のところです。
駅の中は沢山の人がいます。 あっ!ターバンの人がいました。長距離列車の近くでは、いろんな民族の人を見かけました。
キップ売り場です。 こちらで地元の人に入場券を買ってもらいました。ヨーロッパのように改札口はないのですが、マナーとして買わせていただきました。
食べ物の値段も庶民的な価格です。3倍すると日本円なので安いもので15円で高くても45円です。紹介したマクドナルドの値段とはかなり違います。
長距離列車です。長距離列車用ホーム群と近郊列車用ホーム群は完全に分かれていました。ヨーロッパのように改札がないため、ホームには自由に入れますがキップなしが見つかると罰金を払わされるので入場券を買いました。
近郊列車が入ってきたところです。まだ動いていますが、すでにドアは開いています。手動のようであけたまま走っているのかもしれません。
近郊列車が停車して、沢山人が降りて来たところです。
女性専用車があります。これは日本の満員電車の迷惑行為防止のための女性専用車ではないようです。必ずしもイスラムの服装の人ではないので宗教的なものだけではなさそうです。インドはレストランの給仕係も女性はほとんど見ないように習慣が我々とは違うようです。男性専用車はありません。一般車両は男性も女性も両方が乗れます。
車内も見せてもらいました。こちらに注目しているのはカメラではなく東洋人(日本人や中国人)が珍しいのです。自動車に乗っていても隣の車の人は必ずと言っていいほどこちらを覗き込みます。いつも注目されてしまいます。
青い袋を持って立っている人は髭剃りを売っているようです。なぜ髭剃りかは、判りませんが、なかなかいいものみたいです。
注目は天井の扇風機の数です。それに3人掛けの椅子が2列ゆったりとおかれています。こちらはクリックすると拡大します。
運転席の写真も撮らせてもらいました。想像を超える古さです。建物だけでなく車両も世界遺産ものです。
道を挟んで駅の前にもすばらしい建物がある場所でした。
建物はBrihanmumbai Municipal Corporation(BMC) Head Officeです。1888年のボンベイ市営企業法に基づいて設立されたBMCはインドで最も裕福な地方自治体だったそうです。SV1 SV2 SV3
世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院 [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院
インドのデリーの世界遺産の3つの世界遺産(クトゥブ・ミナール 掲載、フマユーン廟 再掲載、レッド・フォート 再掲載)を紹介したのを機会に13年前 2011年に掲載したムンバイ(旧名ボンベイ)の近くの島(エレファンタ島)にある世界遺産の石窟寺院を再掲載いたします。
インド全体では現在42の世界遺産が登録されていますが、この世界遺産「エレファンタ石窟群/Elephanta Caves/घारापुरीच्या लेण्या」は、今から37年前の1987年に登録されたインドで16番目の世界遺産です。
2011年03月07日 掲載
2024年09月14日 再掲載 閲覧数:3,048 nice!:229 CMT :42
2024年09月15日 閲覧数:3,199 nice!:257 CMT :46
2024年09月16日 閲覧数:3,307 nice!:276 CMT :51
2024年09月19日 閲覧数:3,457 nice!:296 CMT :52
2024年09月21日 閲覧数:3,530 nice!:299 CMT :57
2024年09月22日 閲覧数:3,585 nice!:304 CMT :60
2011年03月07日掲載 タイトル : 世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院
インドのムンバイから船で1時間のエレファンタ島のヤギさんです。
白黒模様の珍しいヤギさんだったので紹介いたします。ネットで調べてもこのような白黒ヤギさんは出てこなかったです。この島には世界遺産のヒンドゥー教の石窟寺院があります。緑の豊かな島で野生動物も沢山いそうな感じでした。この島には野生の猿もいました。お猿さんは、こちらがおとなしくしていたら自然に周りを歩き回っていました。
船の出発地点はインド門(Gateway of India)です。インド門は英国の支配下にあった1911年に、英国王ジョージ5世とメアリー王妃の訪問を記念して造られました。この門は玄武岩でできており、ムンバイ湾に面したアポロ埠頭の突端に建っています。
高さ26m、グジャラート様式のこの門は、パリの凱旋門をモデルにしてジョージ・ウィテットの設計により、1924年に完成しました。かつては、植民地であったインドを訪れる英国の要人たちの歓迎式典が行われる場所でしたが、現在は観光客で賑わいを見せる観光ポイントとなっています。ここには右上の写真の豪華なタージマハール・ホテルもありました。
1時間15分の船旅ですがインド海軍の空母や潜水艦さらにトーチカ、さらにいろんな島が目を楽しませてくれました。左が空母の写真で右がトーチカの写真です。トーチカの名前はMiddle Ground Coastal Batteryです。このトーチカは1682年にイギリス東インド会社によって、地域の海賊行為を抑制するために、この島を要塞化したのが始まりだで、第二次世界大戦中に日本の攻撃から港を守のために大砲や高射砲を設置して要塞化を強化したそうです。
船のスピードは遅かった! 昼過から出発して帰ってくると夕方近かったです。
船旅も楽しいですよ。エレファンタ島の船着場には船が沢山停泊しています。航路は13.6kmでした。結構訪れる人が多いことがわかります。右の写真は山の上から船着場を撮ったものです。右の写真はクリックしてみてほしいです。
船着場から山の麓までは観光用の変わった乗り物が走っています。値段を聞いてビックリ! 船代とあまり変わらないということで乗らずに歩きました。
途中には船の残骸が!この写真の森の中に石窟寺院があります。
岩山の登りになると立派な階段になりました。階段から一歩はずれるとヤギや猿がいる森になっていました。
石窟寺院には立派な石段を登っていきます。道の両側に沢山の土産物店が並んでいました。SV1
急坂をを登ると世界遺産となった石窟洞窟がありました。それではエレファンタ島の世界遺産の石窟洞窟を紹介いたします。
下記の地図の①~⑤の番号は見ている方向を記載しています。
ここには7つのヒンドゥー教石窟寺院があり、巨大な第一窟は、破壊を免れ、多数のシヴァ神像が彫られている。ここが一番大きな石窟寺院である第一窟の入口①です。SV2
第一窟の岩をくりぬいた内部の地図です。赤い矢印は下の5枚の写真の撮影方向です。③だけはもう一つ自信がありませんでしたがネット内の写真から間違いないこと確認しました。石窟寺院の面積は約5,600平方メートルあり、東西の祠堂とメインの列柱ホールから構成される。エレファンタ島に残る多くの彫刻は17世紀に、ポルトガル人が銃の練習の標的として用いられてきたこともあり、往時の外観を損なっしまったそうです。古代インドの神は自然の岩窟の奥深くから信者の前に姿を現すと言われています。エレファンタ島の 7つの石窟寺院はヒンドゥ教のこうした考え方とシヴァ神への帰依の心からつくられたようです。エレファンタという島名は、この島にいくつも残されていた大きな象の彫刻に由来するそうです。インド名はガーラープリー島だそうです。 何世紀にもわたって風雨にさらされた石窟と内壁に刻まれた彫像の傷みは激しいけれどもすばらしさが伝わってきました。
下の写真は②の方向から中庭を撮ったもので、この部分の写真が一番迫力がありました。 エレファンタ石窟寺院は6世紀のカラチュリ朝、あるいは600~635年のグプタ朝時代の造営されたといわれており、「創造の神」と「破壊の神」の両神格を持つ最高神シヴァ神を祀る寺院だそうです。
こちらの写真は中庭から⑥の方向を撮ったもので奥の方に最初の入口が内側から写っています。こちら写真もクリックすると拡大いたします。
③列柱ホール内の聖室の入口には、守門神が彫刻されています。内部には石像が沢山ありました。
④奥から撮った写真
あらためてエレファンタ石窟群(マラーティー語:घारापुरीच्या लेण्या)を紹介すると、ムンバイ近海のアラビア海に浮かぶエレファンタ島にある石窟寺院のことで、シヴァ信仰の中心地であり、グプタ朝時代に建設が始まったとされています。1987年にUNESCOの世界遺産に登録されました。
⑤部屋の入口
内部にあった彫刻も紹介します。暗かったので画像を露出調整しています。手が沢山あるシヴァ神像です。
列柱ホールの最深部の壁面にシヴァ神三面上半身像があります。3方にある有名なシヴァ神像で、高さ5.7メートルあります。
崩れかけていますが立派な彫刻です。
暗くてよく判りませんがなんとなくシヴァ神であることがわかります。
岩山の裏側(南側)にも石窟洞窟がありました。その石窟洞窟も見逃さないように!
小さい石窟がいくつかありました。その中で3つほど紹介いたします。SV3
こちらは部屋のようになった洞窟です。観光客で一番多いのはインドの人でした。こちらも岩山の裏側(南側)にありました。SV4
作りかけて柱が折れて断念したような洞窟もありました。造りかけの洞窟はまだ柱は四角いだけだし壊れかけています。こちらも岩山の裏側(南側)にありました。SV5
この写真の中にも、お猿さんがいます。
Google地図/航空写真でエレファンタ島の位置を紹介します。右の写真はチャトラパティ・シヴァージー駅です。
世界遺産 エレファンタ島の石窟寺院
世界遺産 チャトラパティ・シヴァージー駅
インド門 タージマハールホテル
トーチカ インド海軍基地
━ ムンバイ・インド門からエレファンタ島までの航路
世界遺産 レッド・フォート ( Red Fort / Lal Qila ) [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 レッド・フォート
インドのデリーの世界遺産のクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)を掲載し、同じ首都デリーにある世界遺産のフマユーン廟(Humayun's Tomb)を再掲載したことを機会に、同じデリーの3つ目の世界遺産レッド・フォートの記事を再掲載いたします。レッド・フォートはデリーでは最も新しく登録された世界遺産です。最も新しく登録されたと言っても、今から17年前の2007年に登録された世界遺産です。インド全体では現在42の世界遺産が登録されていますが、本記事を掲載した時点では32の世界遺産が登録されていてレッド・フォートは27番目に登録されたので、私が見学した時点では比較的新しい世界遺産でした。インドで最初に世界遺産が登録されたのは1983年で4つが登録されました。
その4つはアジャンター石窟群、エローラ石窟群、アーグラ城塞、タージ・マハルでした。
2012年10月18日 掲載
2024年09月07日 再掲載 閲覧数:3,678 nice!:176 CMT :26
2024年09月08日 閲覧数:3,835 nice!:200 CMT :32
2024年09月09日 閲覧数:3,967 nice!:219 CMT :42
2024年09月11日 閲覧数:4,093 nice!:234 CMT :48
2024年09月12日 閲覧数:4,143 nice!:238 CMT :48
2024年09月13日 閲覧数:4,179 nice!:240 CMT :50
2024年09月14日 閲覧数:4,190 nice!:242 CMT :50
2012年10月18日掲載 タイトル : 世界遺産 レッド・フォート
インドの首都デリーには1993年に登録されたフマユ-ン廟とクトゥブ・ミナールの2つの世界遺産にがありましたが2007年に赤い城の建造物群が世界遺産が登録されて、デリーの世界遺産は3ケ所になりました。それが今回紹介するレッド・フォートです。フマユ-ン廟とクトゥブ・ミナールはすでに紹介させてもらっております。
世界遺産としての正式の登録名は"レッド・フォートの建造物群(The Red Fort Complex)"です。大きな城壁に囲われた中にいろんな建築物があります。しかし、なんといっても入口の城壁そのものが、すばらしい景観を見せてくれます。
英語名 レッド・フォート(Red Fort)
現地語 ラール・キラー(Lal Qila)
日本語 デリー城 赤い城の建造物群
門の部分を拡大いたしました。
インド全体では32個の世界遺産がありますがレッド・フォート(赤い城)は27番目の登録の世界遺産です。
昔はラリー・キラーで検索すると沢山でてきましたが今はレストラン名前がほとんどとなりました。これは世界遺産になる前はラリー・キラーとの呼び名が多かったのではないかと想像しています。
ネットで調べても詳しく判りませんが調べた範囲で解説させてもらうとレッド・フォートは17世紀前半、ムガール帝国(1526~1858年)のシャージャハーン皇帝(在位1628~1658年)によって建設されましたそうです。そしてムガール帝国の都をアーグラからデリーに遷都し、このデリー城(ラールキラー)を建設したそうです。つまりムガール帝国の第5代皇帝から第17代皇帝までが住んだことになります。第3代皇帝~第5代皇帝までは、すでに紹介したアーグラ城塞に住んでいました。
レッド・フォートは長く壮観な姿を見せていましたが、19世紀半ばに反乱軍と英国軍の攻撃を受け、華麗な宮殿のほとんどが破壊されたそうです。総延長約2kmの赤砂岩の城壁に囲まれた内部には、高さ33mで八角形の門塔、一般謁見の間、貴賓謁見の間、真珠のモスクなどが残っており権勢を振るったムガール帝国の面影を今に残していました。写真は入口となっているラホール門です。
城壁の外側は堀になっています。日本の世界史教科書ではデリー城と書かれているそうです。
近くで見ると堅固な城塞であったことが伝わってきます。
門の部分は芸術的でもあります。
城の入口の最も有名な門の上の飾りの部分です。
その有名な飾りの下の門を正面から撮りました。門の奥はアーケードのようになっていました。巨大さが判ります。
そのアーケードの通路には沢山のお土産屋さんがありました。
アーケードを過ぎると赤砂岩の門が目の前に現れます。写真はアーケードとは反対側から撮ったものです。名前はチャッタ・チョウクで内部は軍事博物館になっていました。
その門の奥にインドの観光客の人が記念撮影する建物がありました。上の門の写真はその建物の方から撮ったものです。ここは一般謁見の間で名前はディワン・イ・アームです。
その記念撮影の建物の奥に大理石の建物群がありました。これは貴賓謁見室ディワニ・カースです。
さっそく貴賓謁見室ディワニ・カースにきてみました。大理石は宝石が埋め込まれて装飾されていました。
その装飾された柱を拡大しました。宝石を大理石に埋め込んでいるのが判ってもらえると思います。
見事な大理石の細工物もありました。これは是非ともクリックしてみてください。
城の中にはイギリス風の建物群もありました。沢山の建物がありました。これらはインド人の独自の力によって建てられたことが意義があるように説明されていました。
一般の観光客の人はあまり行かない裏側の道路からの景色です。車から降りて門の隙間から写真を撮りました。
大理石の建物が沢山並んでいました。真中の建物は「真珠のモスク」と呼ばれる美しい白大理石造りのモティ・マスジット(Moti Masjid) 右側が、先ほど説明した貴賓謁見室ディワニ・カースだと思います。このあたりは地盤沈下が激しくて数mに達します。入口が地面に埋もれているのが判ると思います。SV1 SV2
この城の中は世界遺産登録前には軍関係の施設であったことから、他の観光地と違い警備が厳重でした。
すごく警備の人のターバンが雰囲気があったので下のように写真を撮らせてもらいました。さらに右の写真のように横に並んだ写真も撮らせてもらいました。真中が私です。
これがレッド・フォートの航空写真です。Google航空写真でレッド・フォートの広さを測ってみると南北が1160mで、東西が570mでした。
上の航空写真と比べて見てください。Wikipediaから転用させてもらった1857年以前の城塞の中の配置図です。つまり反乱軍と英国軍の攻撃を受け前のレッド・フォートです。
2015年時点のインドの世界遺産を紹介します。タイトルが着色のものは私が訪問した7ケ所の世界遺産です。タイトルまたは写真をクリックすると、その記事を表示します。
・文化遺産
1983年 アジャンター石窟群
1983年 エローラ石窟群
1983年 アーグラ城塞
1983年 タージ・マハル
1984年 コナーラクのスーリヤ寺院
1984年 マハーバリプラムの建造物群
1986年 ゴアの教会群と修道院群
1986年 カジュラーホーの建造物群
1986年 ハンピの建造物群
1986年 ファテープル・シークリー
1987年 パッタダカルの建造物群
1987年 エレファンタ石窟群
1987年 大チョーラ朝寺院群
1989年 サーンチーの仏教建造物群
1993年 デリーのフマーユーン廟
1993年 デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群
1999年 インドの山岳鉄道群
2002年 ブッダガヤの大菩提寺
2003年 ビンベットカの岩陰遺跡群
2004年 チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅
2004年 チャンパネール=パーヴァガドゥ遺跡公園
2007年 赤い城の建造物群 レッド・フォート
2010年 ジャイプルのジャンタル・マンタル
2013年 ラージャスターン州の6つの丘陵城砦群
2014年 グジャラート州パタンのラーニキ・ヴァヴ
・自然遺産
1985年 カジランガ(カージランガー)国立公園
1985年 マナス(マーナス)野生生物保護区
1985年 ケオラデオ(ケーオラーデーオ)国立公園
1987年 スンダルバンス国立公園
1988年 ナンダ・デヴィ(ナンダー・デーヴィー)
2012年 西ガーツ山脈
2014年 大ヒマラヤ国立公園
デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
レッド・フォート Red Fort
フマーユーン廟 Humayun's Tomb
クトゥブ・ミナール Qutab Minar
地図上のアイコンを何度もクリックすると訪問した他の世界遺産の場所もわかると思います。
より大きな地図でデリーの世界遺産を表示
世界遺産 フマユーン廟(Humayun's Tomb) [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
2024年9月3日再掲載 タイトル : 世界遺産 フマユーン廟(Humayun's Tomb)
インドの世界遺産のクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)を掲載したことを機会に、同じ首都デリーにある世界遺産のフマユーン廟(Humayun's Tomb)を再掲載したいと思います。本記事はブログを始めた15年前の2009年に掲載したもので、私の最も古い記事に分類されます。ただし2015年に若干記事をブラシュアップさせていただきました。
2009年12月31日 掲載
2024年09月03日 再掲載 閲覧数:2,930 nice!:205 CMT :76
2024年09月04日 閲覧数:3,052 nice!:228 CMT :80
2024年09月05日 閲覧数:3,192 nice!:254 CMT :83
2024年09月06日 閲覧数:3,260 nice!:261 CMT :89
2024年09月07日 閲覧数:3,328 nice!:263 CMT :94
2024年09月08日 閲覧数:3,348 nice!:264 CMT :94
2009年12月31日掲載 タイトル : 世界遺産 フマユーン廟(Humayun's Tomb)
これはデリーにある3つの世界遺産の一つであるムガール帝国第2代皇帝フマユーン(همايون)の霊廟(墓)です。インドのデリーは帰国の日の飛行機に乗るまでの時間で、3つの世界遺産を全て廻ることが出来る、うれしい街なのです。
フマーユーン皇帝は1530年に即位しましたが、1540年にスール族のシェール・ハンに大敗し、インド北部の君主の座を奪われてペルシアに亡命しました。しかしながら1555年に、アーグラとデリーを奪回して、北インドの再征服に成功しました。ところが、翌1556年に47歳で、突然に事故で死んでしまいました。フマーユーン死後の1962年に、ムスリマを信仰していたハミーダ・バーヌー・ベーガム王妃がデリーのヤムナー川のほとりに、亡き夫の壮麗な墓廟を建設することを指示し、サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤートゥッディーンと父ミラーク・ギヤートゥッディーン二人の建築家によって8~9年の歳月をかけてフマユーン廟を完成させたそうです。ハミーダ王妃は、フマーユーンの王妃であるとともに第3代皇帝アクバルの母でもありました。ちなみフマーユーン皇帝が37歳で亡くなった時、ハミーダ王妃は29歳で、即位したアクバル皇帝は13歳でした。ハミーダ王妃は1604年8月29日に77歳で生涯を閉じて夫の眠るフマーユーン廟に埋葬されました。下の肖像画はWikipediaから転用させていただいたハミーダ王妃とフマユーン皇帝です。
フマユーン皇帝の即位から墓廟(霊廟)完成まで
1530年~1540年 皇帝在位
1540年~1555年 ペルシアに亡命
1555年~1556年 皇帝復位
1562年~1571年 フマユーン墓廟を建設
フマユーン廟の拡大した写真を紹介します。
さらに拡大した写真を紹介します。フマーユーン廟はムガル帝国の廟建築の原型を示すと言われ、その建築スタイルはタージマハールにも影響を与えたそうです。
正面からだと大きすぎて全体が撮れないために斜め45度から撮った写真を紹介いたします。フマユーン廟の建設を指示したハミーダ王妃は、ムガール帝国初代皇帝バーブルの皇子ヒンダールの信仰上の導師でもあったシーア派のペルシア人のシャイフ・アリー・アクバル・ジャーミーの娘でした。ちなみにヒンダールは、長男フマーユーンの異母兄弟にあたります。
フマーユーンがハミーダに一目ぼれして求婚しました。ハミーダ本人や彼女を好いていた皇子ヒンダールに反対されましたが、40日間求婚するという涙ぐましい努力の末に彼女が応じたという経緯があるのです。
別の角度からの全景も紹介しまい。同じように見えますが、椰子の木の形の違いで同じ角度ではないことが判ってもらえると思います。実は建物は4方向が対称なのです。
航空写真で四方対称の建物であることを確認できます。
正方形の敷地全体も航空写真で紹介します。West Gate(左側の門)から中央までの道がメインルートです。我々もここから入りました。
フマユーン廟の門です。これをくぐると上の写真のフマユーン廟が目の前に現れます。このあたりが紹介したリスが寄ってくる場所でした。
フマユーン廟側から見た入口側の門です。
上の写真と似ていますが別の門です。フマユーン廟は正方形の建物ですが、そのフマユーン廟はさらに大きな正方形の敷地に立てられています。入口の門から見て右側の門です。
こちらの門は左側の門です。フマユーン廟の中からの景色です。
正方形の敷地の中にはこんな建物もありました。
上に上がる階段です。すごく急な階段でした。
内部を紹介します。フマユーン廟をお寺や宮殿と思われている方も多いと思います。以前にご紹介したとおり、実はお墓なのです。あの有名な総大理石の巨大な建物であるタージ・マハールも同じくお墓なのです。私も初めて、ここに来るまでは知りませんでした。そしてタージ・マハールは、このフマユーン廟をモデルにして作られたそうです。真ん中に墓石らしいものが置かれています。
別の角度から見た墓石です。
天井は大理石できれいに飾られています。写真をクリックして拡大すると大変な細工であったことが感じてもらえるかもしれません。
この廟には約150人もの死者が埋葬されたとされているそうで沢山の墓石(石棺)がありました。
入口からフマーユーン廟の通路の右脇に古い廟が2~3っあります。これらも是非見てほしいです。
崩れかけた入口が時代を感じさせてくれます。クリックすると中央の建物が表示します。
更に、もうひとつ紹介いたします。これらは全てフマーユーン廟の敷地にあるので見過ごさないように!
インド観光で最大の障害の一つが暑さです。ちょうど2月だったので一番気温の低い時期で、一番すごし易い季節です。ただしホテル代は夏に比べると2倍に跳ね上がります。もしかして世界で、もっともホテル代の高い国かもしれません。物価が非常に安い国のひとつなのに、これには驚きでした。
デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
レッド・フォート Red Fort
フマーユーン廟 Humayun's Tomb
クトゥブ・ミナール Qutab Minar
地図上のアイコンを何度もクリックするとインド全体からの位置関係が判ると思います。
フマーユーン廟はインドで最初に泊まったタジマハールホテル( )に比較的近い場所にありました。
世界遺産 クトゥブ・ミナール (Qutab Minar) [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
「インドで最も高い石造りの塔」のクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)です。そのデリーのクトゥブ・ミナール(Qutab Minar)への2度目の訪問の機会を得ました。初めて来た時は世界遺産であることは知らないで見学をさせてもらいましたが、その迫力に驚いたものです。
クトゥブ・ミナール(Qutub Minar, ヒンディー: क़ुतुब मीनार)は、インドのデリーにあるミナレットで、インド最古のミナレットとされるそうです。日本で言えば鎌倉時代の西暦1200年ごろに奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられたそうです。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっています。
そして帰国後に世界遺産であることを知り、なるほどと納得したものです。残念ながら初めて来たときは塔の表面の文様がこんなにすばらしいとは気が付きませんでした。是非、もう一度、訪れたいと思っていましたが、今回、実現しました。この写真はクリックして見てください。表面の模様に驚かれると思います。
上の写真は見上げたものですが同じ場所を遠くから写してみました。手すりの模様がよく判ると思います。
近くに行くとその迫力に圧倒されます。1993年にデリーで初めて世界遺産に登録されました。
同じデリーにあるフマユーン廟も1993年に同時に世界遺産に登録されました。
同じ街で同じ年に2つの世界遺産が登録されたことはすばらしいです。デリーには歴史的なすばらしい建物や遺跡が沢山あることの証明であるような気がします。2007年に赤い砦レッド・フォートが世界遺産に登録されてデリーの世界遺産は3っになりました。
遠くから全景を撮りました。デリーの3ケ所の世界遺産の中でここが最も気に入りました。この高い石造りの塔の受ける印象からかもしれません。建物の形からここがモスクであったことがうかがわせます。
はじめて、この高い石造りの塔を見たのは2004年9月15日でした。その時と同じ角度の写真を掲載します。その時は、じっくり見れなかったので、また来たいと思っていました。クトゥブ・ミナールに来て目を引くのは巨大な石造りの塔です。高さは72.5mでインドでは最も高い石造りの塔です。そしてインドで1番古いイスラムのミナール(塔)でもあるそうです。さらに世界で最も高い石造りのミナレットでもあるそうです。ちなみに世界第二位の石造りのミナレットはアフガニスタンのジャームのミナレット(60m)です。
是非、拡大して見てください。昔、撮った写真と同じ角度のものを最新の写真から探しました。
建設当初は約100m(7層)の高さがあったそうですが落雷・地震などの天災により被害にあったが、その時代の権力者により修復が行われ現在の高さ72.5m(5層)になったそうです。3層までは赤砂岩でその上は大理石で出来ています。
ここは塔だけでなくて廻りの建造物も必見です。これはインド最古のモスクです。
クトゥブ・ミナールには今は登ることは出来ませんが、その入口の上の飾りを撮りました。
世界遺産として登録されている名前は「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」です。建築群とあるように塔だけでなく廻りには沢山の建築物があります。その建築物の壁は文字のような文様で飾られています。その壁の文様は印象的でした。
アーチの部分にも沢山の彫刻が施されていました。
建物の中も文字の文様で埋め尽くされていました。
特に沢山の彫刻をされた柱が目を引きます。柱は同じ形のものが使われているのが普通と思いますがここでは違います。よく見ると柱の形や彫刻がすべて違っているのに気がつかれると思います。ここの遺跡の一つの特徴が柱です。これらの建築群はインドではじめてのイスラム教のモスクとして建てられました。いろんな時代のいろんな宗教の寺院(ヒンドゥー教寺院やジャイナ教寺院)を解体して集められたためにいろんな文様の柱が使われているとのことです。
すばらしい柱ばかりです。イスラム教では偶像崇拝は禁止されていましたが、写真をクリックすると女神の像の入った柱も見つけることが出来ます。こちらの角度から見るとよく判ると思います。これがここの遺跡の特徴なんです。
インドに攻め込んだトルコ人のアイバク将軍によってイスラムのモスクとして建てられたものでヒンドゥー教・ジャイナ教の沢山寺院(一説によると27の寺院)などを破壊し、その石材を転用して制作されたものと推測されています。そのためヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっていると説明されていました。それもいろんな時代の様式だそうです。でもイスラムの雰囲気は今は塔だけで全般的にはヒンドゥー様式のような気がします。写真をクリックしてみてください。柱の彫刻がよく判ります。
インドでは赤砂岩がよく使われますがシンプルな花崗岩のような柱もありました。
文様もいろいろありました。
柱の前で記念撮影です。真中のインドの女性と子供さんは依頼されて一緒に撮っているのだと思います。
日本のお坊さんも見学にこられていました。
この鉄柱が有名なんです。1600年前の鉄柱だそうです。鉄柱のネットの説明は以下のとおりです。
モスクの中庭に、4世紀に鍛造されたという高さ 7.2メートル・重さ6トンの鉄柱(チャンドラヴァルマンの鉄柱)が立っている。
鉄柱は極めて良質の鉄鉱石を木炭で還元し、少しずつ作り出した古代鉄を集めてつくったもの。鉄柱の純度は98%である。鉄柱の頂点部分には穴があいており、ヒンドゥ教ヴィシュヌ神を乗せたガルーダの彫像が奉られていた、と考えられている。鉄柱の基部には「偉大な王チャンドラ」と刻まれた碑文がある。チャンドラとは、ヒンドゥ教を奉じていたグプタ朝(320~550頃)チャンドラグプタ 2世(在375~413頃)と考えられている。
この鉄柱だが雨ざらしにもかかわらず、錆びずに約1600年経つ今も現存しており、世界七不思議にあげている人もいる。インド人の間では、背中に鉄柱をあて鉄柱越しに腕を回して、自分の手を掴めると幸せになる、と言われている。
鉄柱には文字が書かれていました。
遺跡の雰囲気が高い建物も沢山ありました。
寺院と言うよりは遺跡の雰囲気です。
無造作に石の柱などが転がっています。広い敷地内に点在しているのです。
この横に倍の高さを目指した塔(アライ・ミナール/Alai Minar)の底部の残骸が残っています。
芝生の上では沢山の人がくつろいでいました。ゆっくりすることで、より雰囲気を味わえるような気がします。
デリーの3つの世界遺産の場所を紹介します。
レッド・フォート Red Fort
フマーユーン廟 Humayun's Tomb
クトゥブ・ミナール Qutab Minar
地図上のアイコンを何度もクリックすると訪問した他の世界遺産の場所もわかると思います。
より大きな地図でデリーの世界遺産を表示
インドのムンバイは久しぶりでした。 [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
上の写真はインドMumbaiの夜のマリンドライブ(海岸道路)です。インドでもここは別世界の場所です。日本と3時間半の時差です。
Mumbmiの町に初めて来たのは1992年7月20日で2回目が1995年11月15日で、今回は十数年ぶりになります。
車は大都会なみになってきており中国と同様に変わってきています。ただし、きれいな町並みはまだ一部だけです。
今回泊まったホテルは海に面したホテルでジョギングをしている人が多く見受けられ遠くから見ると欧米のようなところです。ただし、歩いているのはインド人です。
小さなホテル(Hotel Marine Plaza)ですが上海の古い町並みのように雰囲気のある場所です。インド人がわざわざこの場所を選んでくれたのは判る気がします。(インドにもこのような場所があるのだと!)
海岸のジョギングロードには椰子の木が並び、海を挟んで立ち並ぶ高層ビルが見えます。景色だけではありません。昔はホテル以外では食事は難しかったけれど今はレストランで食べれます。沢山あります。
今は現地語にもとずくムンバイ(Mumbai)と呼ばれていますが昔はボンベイ(Bombay)が使われていましたが、1995年に公式名称が、現地語(マラーティー語)での名称にもとづくムンバイへと変更されました。ただし今でもムンバイの有名な大学の名前はボンベイ大学('Bombay University)です。
ムンバイで有名なタージマハール・ホテルです。テロがあってさらに世界に名前が知れ渡ったホテルです。
意外と知られていないかもしれません。エレファンタ島の世界遺産洞窟です。ムンバイから船で1時間の距離にあります。エレファンタ島に関しては後日詳し記事を掲載させてもらうつもりです。タージマハール・ホテルに関しても詳しく掲載する計画です。ムンバイの街の中にある世界遺産の駅に関してはすでに記事で報告済みです。
タグ:ムンバイ
インドのお墓 [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
インドでは寺院のような建物が実はお墓なのですが、意外と知られていないかもしれないので、その例をいくつか紹介いたします。実は私も初めて見るまでは知りませんでした。
上の写真はサフダルジャンの墓、サフダルジャング廟(Safdarjang's Tomb)あるいはサフダルジャン廟
ムガル皇帝ムハンマド・シャーの宰相(大臣)だったサフダルジャングの墓廟で、1753年に彼の息子シアウッド・ダウラーが父の為に建てたそうです。広大な庭園の中に建っていました。無名ですが静かで雰囲気はあります。デリー
フマユーンの墓(Humayun's Tomb)
有名なタージ・マハールのモデルになったお墓です。見比べてください。4本の塔はありませんが似ています。大きいですよ! デリー
実はフマユーン廟はリスと友達になれる場所でした。リス(栗鼠)に会いたい人に、お薦めの場所でした。
フマユーン廟は別途掲載させてもらいました。→ポチッ
タージ・マハール
古い話で恐縮ですがこの写真だけ1993年7月31日の撮影です。デリーからバスでの日帰りツアーで行きました。朝5時に出発して23時に戻ってくるハードスケジュール。全員外人のツアーで、高級ツアーですがこの時代は3食付きで2000円。昼食は高級ホテルでした。日本人は一人だけ欧米人がほとんどで後は台湾の人が数名。
ちなみに泊まっていたホテルはタージ・マハールですが、あのころは安かったですよ。
フマユーンとタージ・マハールはすでに詳細の掲載をしています。→ポチッ
タージ・マハール[インターネット引用]
正確無比なシンメトリーが美しいパレス風の建物。実は宮殿ではなく霊廟である。つまりおハカ。ムガール帝国5代皇帝シャー・ジャハーンが、亡くなった王妃のために1632年から22年の歳月をかけて造営したものだ。腕利きの職人を集め、のべ2万人が携わったというから、当時としては大国家事業。これぞ夫から妻へ捧ぐ愛の記念碑なのだ。しかし、この美談には続きがある。皇帝は晩年タージマハールの向かいに黒大理石の宮殿を建てようとしていたが、その矢先に第3皇子によって近くのアグラ城の塔に幽閉されてしまうのである。理由はタージマハール建築での莫大な浪費。結局皇帝は塔の中から7年間タージマハールを眺め、その生涯を閉じた。運命とは実に皮肉で残酷である。
入場料金は地元の人の25倍 [インド]
インドの観光場所への入場券の話です。
上の写真は世界遺産のフマユーン廟(Humayun's Tomb)の入場券売り場の風景ですが、インドはどこに行っても二重価格制でした。昔は中国でも二重価格制でしたが今はなくなりました。
右の写真の看板(フマユーン廟)のようにインドの人(Domestic Vistors)は10ルピー(約16円)なのに対して我々外国人(Foreign Visitors)は250ルピー(約400円)または5ドル(540円)なのです。
なんと25倍の料金なのです。
ただし外国人を差別しているのではなくて、あくまでも地元の住民を優遇する立場であることから日本人でもデリーの居住証明書があれば10ルピーで入れるそうです。
こちらはクトゥブ・ミナールの料金表示の看板です。入場料金はクトゥブ・ミナールも同じでした。インド人(Indian)は10ルピー(約15円)なのに対して我々外国人(Foreigner)は250ルピーor5ドルでした。ただし表現はDomestic VistorsではなくIndianでForeign VisitorsがForeignerと若干、フマユーン廟とは言い方が違いました。この言い方だと外国人は居住証明書があってもクトゥブ・ミナールは10ルピーでは入れないことになります。ダージマハールも同様にインド人料金では入れなかったと聞きました。
ちなみにデリーの、もう一つの世界遺産レッド・フォートはインド人が5ルピーに対して外国人は2ドルでした。現地通貨では70ルピーだったと思います。(100ルピーだったかも)
24年前のデリーの露店 東回りで世界一周 [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
インドの野菜です。日本でよく見る野菜もあります。でも値段が書いていないので、相場がほからない我々では買うことが出来ません。
同じ1992年のデリーの写真です。 → ポチッ
今まで、海外ではプロジェクトの担当および責任者として世界の59ケ所に発電プラントを納めた中で、インドでは下の3つの発電プラントのプロジェクトを行いました。その中で、上のインドの露店の写真は、インドで私が最初に発電プロジェクト(700,000KW / 70万KW)の設計リーダーとして担当した時にデリーで撮った写真です。
8,000KW 700,000KW 1,500,000KW
この時の旅のフライトは次の通りで、日本→アメリカ→ドイツ→インド→日本と、東回りで世界一周をいたしました。この時代、ムンバイはボンベイと呼んでいました。ボンベイからムンバイに変更になったのは1995年で、英語からマラーティー語になったのです。
1992年7月11日(土) 成田 → シカゴ
1992年7月11日(土) シカゴ → ルイビル
1992年7月14日(火) ルイビル → シカゴ
1992年7月14日(火) シカゴ → フランクフルト
1992年7月16日(木) フランクフルト → デリー
1992年7月20日(月) デリー → ムンバイ
1992年7月21日(火) ムンバイ → 成田
結局、インドには13回ほど訪問することになりました。
アメリカで体が時差に慣れたころに東廻りでドイツに行ったので死ぬほど時差に苦しめられました。夜行便で機内で寝て早朝に着いたのですが午前中の予定はすべてキャンセルしてホテルで寝ていました。日本→ヨーロッパ→アメリカ→日本と西廻りの世界一周もしたことがありますが、この時は楽でした。
こちらは外国への入国回数です。28ケ国に268回ほど訪問(入国)いたしました。訪問回数のことを入国回数と言っているのはトランジットは含めていないことを明確にするためです。
ゴールデンウイーク明けの2016年5月8日から15日まで、パリを中心にフランスに旅行に行ってきます。家族との海外旅行は2度目です。
こちらが海外での滞在日数です。長期間滞在しているように思われるかもしれませんが平均滞在日数は5.44日/回(=1458日÷268回)です。あの時代の1992年は海外を訪問する回数(14回)も滞在日数(96日)も一番多い年でした。
訪問回数や滞在日数に関する詳しい説明記事→ポチッ
ローマの露店と比べてみてください。トレヴィの泉のすぐそばの小さな広場で野菜や果物を露店で売っていたので、つい撮ってしまいました。
こちらはロシアの露店です。モスクワから往復500kmほど車で走った時に撮りました。
ベトナムの国道1号線沿にあったヤシの実を売っている露店です。
何かを食べながら立っているのが私です。場所はベトナムのハーロン湾にあった市場です。ここは海の桂林と呼ばれる景色と海上レストランがお薦めです。
こちらはフランスの避暑地アヌシーの露店です。
クリスマスの季節のドイツのハイデルベルグの露店です。
トルコのイスタンブールの魚市場も露店でした。
中国の地方都市の銀川では果物が露店で売られていました。
これは冒頭の写真より古い1988年3月1日の台湾の羅東の露店です。
生まれて初めて海外に出た時の写真でもあります。その時のフライトも紹介します。海外268回訪問の始まりでした。
28年前の他の台湾の写真を見たい方はこちらです。→ポチッ
1988年2月29日(月) 成田 → 台北
1988年3月03日(木) 台北 → 高雄
1988年3月05日(土) 高雄 → 台北
1988年3月06日(日) 台北 → 成田
ヒンドゥー教の寺院 ??? [インド]
世界遺産のレッド・フォートに隣接して目を引く寺院がありました。おそらくヒンドゥー教(ヒンズー教)の寺院だと思います。なんといってもヒンドゥー教はインドの全人口の74%です。写真はクリックすると拡大します。
Google地図で探すと寺院の名前はSri Digambar Jain Lal Mandirでした。
名前からネットで検索すとありました。→原文 和訳
ヒンドゥー教の寺院ではありませんでした。デリーで最も古くて最も有名なジャイナ教(ジナ教)の寺院でした。右のマークはジャイナ教のシンボルです。マークをクリックするとWikipediaの記事を表示します。
その記事によると、今回の記事の建物は1656年に建設されたようです。ジャイナ教は、2500年の歴史があり、仏教の開祖釈迦とほぼ同時代のマハーヴィーラ祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不殺生)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教です。
一方ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教です。ヒンドゥーで有名なのが牛が崇拝の対象となっていることです。不殺生を旨としていることから菜食主義の人が多いことも特徴です。
前記事「シーク教のお寺」でも紹介したインドの各宗教の割合は2007年版ブリタニカ国際年鑑によると次の通りです。括弧内数値は2001年国勢調査です。比較のためにお隣のパキスタンの各宗教の割合も記載いたしました。
インド パキスタン
2012年人口推定値 12億2317万人 1億7891万人
ヒンドゥー教徒 73.72% (80.5%) 1.5%
イスラム教徒 11.96% (13.4%) 97%
キリスト教徒 6.08% ( 2.3%) 1.3%
シーク教徒 2.16% ( 1.9%)
仏教徒 0.71% ( 0.8%)
ジャイナ教徒 0.40% ( 0.4%)
アイヤーヴァリ教徒 0.12%
ゾロアスター教徒 0.02% 0.2%
その他 1.44%
日帰り高級ツアー [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
今までにインドには13回ほど行きました。すでに一部を紹介していますが、初めてインドを訪問した1992年7月16日から、一年目の1993年7月31日(土曜日)に行ったツアーを紹介いたします。
朝の5時にホテルをバスで出発して帰ってきたのは夜の11時でしたが、行くだけの価値はありました。高級ホテルでの食事付きで全員外人の高級ツアーですが、この時代は3食付きで約2000円でした。
冒頭のヘビ使いの写真はバスの駐車場で撮った写真ですが、みんな遠くから見るだけで誰も近づきません。それはそうでしょう。ここで命は落としたくないでしょう。
写真をクリックすると、皆が遠くから見ていることが判ってもらえると思います。
蛇使いの発祥地はインドで、昔は数十万人もの蛇使いが存在していたそうです。しかしながら、2000年代後半からインド当局が野生生物保護法の適用が厳格化しコブラの捕獲が事実上不可能となっり、警察による摘発も進んだため、2010年代に入るとインド国内からは急速に姿を消したそうです。蛇使いのは、蛇(インドコブラ)が入っているカゴやザルの前で笛を吹き、コブラを音で操るように見せる芸ですが、実際にはコブラは、笛の音ではなく、振動や笛の動きに反応しているのだそうです。
下の写真が22年前の1993年にデリーで泊まったタージマハールホテルです。このホテルからツアーに出発しました。ホテルの写真を撮ったのはツアーの翌日の8月1日でした。右の写真がネットから転用させていただいた現在のホテルです。
デリーで泊まっていたタージマハールホテルで、前日に日帰りツアーを申し込んで、出かけてみました。目的はインドに来たら一度は行って見たいタージマハールです。
タージマハールはシャー・ジャハーン皇帝が、亡くなった王妃のために1632年から22年の歳月をかけて造営されたお墓(廟)だそうです。
このバスで日帰りツアーに行きました。途中の休憩所での写真ですが、象さんがいました。建物の中でティータイムでした。
ツアーメンバーです。インド人がガイドさんです。アジアの女性が台湾人で、その他は欧米人で、フランスの女性が多かったです。男性の少ないツアーでした。
記念写真を撮ってもらいました。日本人は私だけでした。
タージマハール 説明は不要ですね。すでに掲載した記事です。→ポチッ
でもみんないろんな言い方をします。
タージ・マハル タージ・マハール タージマハール タジ・マハル タジマハール
今回のツアーはタージマハールと下の写真のアーグラ城塞ともう一か所の3ケ所だけの訪問 アーグラ城塞はムガール帝国第3代皇帝アクバルによって1564年から築かれた城だそうです。
トイレ休憩も兼ねたツアーで定番の製造販売のお土産屋さん 大理石の細工をしているところです。でも細かい細工で一年がかりなのは確かです。もう一軒の土産屋さんは、じゅうたん屋さんでした。
こちらがインドで買った大理石の飾り皿です。記事はこちらです。→ポチッ
ニューデリー(New Delhi)のタージマハールホテル/The Taj Mahal Hotel( A )から世界遺産タージマハール/Taj Mahal( B )までの、高速道路が無い時代に我々が車で通ったルートです。片道が204kmで昼食のホテルや他の観光地2ケ所やお土産屋2ケ所に寄っているので450km以上は走っていると思われます。
タージマハール・ホテル ニューデリー
タージマハール 世界遺産
アーグラ城塞 世界遺産
ムンバイのホテルにもツインの洗面台 [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
スイスのホテルのツインの洗面台の記事で、今までに2回経験があると紹介しました。もう1回がこちらインドのムンバイのフォーシーズンズホテル(Four Seasons Hotel)でした。テレビも大型のものが壁に取り付けてあり普通のシティーホテルよりワンランク上の感じがしました。
ベッド周りも落ち着いた雰囲気でした。
一番、気に入ったのがこの浴槽です。独立した焼き物の浴槽で広い浴室に独立して置かれていました。容積も大きく、こんな、お風呂に入ったのは、初めての経験でした。 もちろんシャワー室も備えていました。この写真はシャワー室の中から撮りました。
こちらが、このホテルのツインの洗面台でした。こんなホテルですがインドでいつも泊まるホテルと価格的には同じだったのに感激いたしました。
日本人を意識しているようで衣装室の中には右の写真のように「ゆかた」が置かれていました。もちろん洋式の浴衣も浴室には用意されていました。ちょっとインドとは思えないホテルでした。
さらに到着した日には、下の写真のようにテーブルの上に御寿司と、お醤油が置かれ、2通の手紙が添えられていました。料理長からの手書きの手紙でした。一つが日本語でもう一つが英語で書かれていました。このあたりの気配りがさすがです。
日本語が出来ない日本人もいることを想定しているようです。インド便は遅く着くので食事には出ないことからすごくいいサービスです。
次の日の夕食には、ついこのホテルの日本食を食べに行きました。日本人の料理長の直筆の手紙が入っていると、やっぱり食べに行きたくなります。
料理長に会って見ようと、呼んでもらうと残念ながら、この日は出張のため会えませんでした。
上の御寿司が気になると思い拡大しました。長く部屋に置かれることもあるので、生ものは使われていませんでしたが、海苔とゴマの御寿司でした。寿司飯の具合もよくて美味しくいただきました。
ビールが美味しい [インド]
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インドの2日目はイタリア料理の夕食でした。1日目の夕食を紹介いたします。日本からムンバイのホテルに到着したのは20時30分でした。日本時間にすると24時でした。まだ日本時間の体ですから真夜中からの食事になってしまいます。その上に機内食も沢山食べたので、ホテルのレストランでビールを軽く飲むことにしました。
もちろんビールはインドのキングフィッシャー(KINGFISHER)です。
つまみには軽い夕食を兼ねてインド料理を頼みました。これは魚のタンドリー(焼き物)です。タンドリーフィッシュは初めて食べましたが、なかなか美味しかったです。
タンドリーチキンです。香辛料はタンドリーフィッシュと同様に日本人の食べやすいものでした。日本のインド料理店では真赤な香辛料のタンドリーチキンをよく見かけますがインドではいろんな香辛料のタンドリーチキンが食べれます。ホテルでは、写真のタイプが好まれるようです。
インドに来れば、カレーも食べたくなりますね。2種類のカレーを頼みました。羊と鶏です。もう一品は初めての食べ物でした。松の身に辛くて酸っぱいカレーを、あえたもので、ピールのつまみにピッタリでした。
カレーは、この大きなナンにつけて食べました。
これも初めてのものです。硬い豆腐を発酵させたようなチーズのような食べ物でした。タンドリーやカレーなど、いずれの食べ物もビールにピッタリで美味しくいただけました。結局、ビールを4~5杯飲んでしまいました。
インドでもド派手なトラック [インド]
リスと友達になれる町 [インド]
デリーのインド門 [インド]
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デリーのインド門です。この先に大統領官邸があります。沢山の観光客の人に圧倒されます。外国人や日本人も見かけますがインドの人が多いのに驚きました。昔は、一般の人が観光旅行をするような余裕はなかったような気がします。これだけでも裕福な人が増えてきているような気がします。写真をクリックするとうれしそうな表情が伝わってくると思います。服もカラフルです。クリックすると拡大します。
こちらは昔(1993年8月1日)のインド門の写真です。上の現在のインド門と比べてみてください。空気もきれいで一直線で大統領官邸が見えます。警備の兵士の人もいませんでした。この写真もクリックする値打ちがあると思います。
大統領官邸側から見たインド門です。やはり沢山の人たちが来ています。このインド門の下では火が燃やされています。もうすぐパレードだそうです。
クリックすると拡大
インド門は第一次世界大戦の戦没者の慰霊碑だそうです。インド門の真下には慰霊碑らしい碑と聖火がともされていました。
沢山の警備の兵士の人がいました。
ワンコも警備? 寝ているだけでした。後ろの建物はインド門です。
人が集まるところには、必ず沢山の物売りの人たちがいます。
上の写真で売っていたものをアップしました。ジャガイモを風船のように揚げたものです。
ビースを売っている人たちも沢山いました。
これは何かの玩具のようです。
いろんな果物も売っていました。
インドの人にとっても観光場所なんでしょうね。記念撮影している光景もよく見かけました。
マリンドライブの夕日 [インド]
インド・ムンバイに着いてから機会があれはマリンドライブ(Marine Drive)からの夕日を撮ってみたかったのです。そして実現しました。
マリンドライブはムンバイの町の南の岬の先にあります。Back湾沿いに走る海岸道路の名称で景観と洗練された町並みが魅力的です。海は西側に広がっていることから夕日がきれいな場所でした。
一番気に入っている写真です。
夕日の落ちる景色はロマンチックです。アラビア海に沈む夕日を眺めながら何を話しているのでしょう。
マリンドライブに着いたときはすでに夕刻でした。
完全に夕日が沈むのを見届けてからマリンドライを去りました。ここがアラビア海だと思うと、なんとなくワクワクします。
弓状の海岸沿いの道路がマリンドライブです。この航空写真の南端まで行ってみました。上の写真はいずれも南端に近いあたりで撮ったものです。弓状の海岸に囲まれた湾はBack Bay (バックベイ)と呼ばれてます。
航空写真上のアイコンを数回クリックするとマリンドライブの場所がわかってくると思います。表示が航空写真ではなく地図となっている方はアイコンをクリックすると航空写真に切り替わります。
追伸
2015年10月7日まで兵庫県宝塚(逆瀬川)の実家に来ていますが、今回はネットが使えない状態になりました。逆瀬川駅から電車で10分(片道190円)の西宮北口駅近くのACTAでは公衆無料無線LANを提供してくれているので、現在ここに来て記事の更新をしております。このような事情で落ち着いてネットが出来ないことから、皆様のところへの訪問は10月8日以降になることを。お許しください。
海岸道路の夜景 [インド]
数日前にマリンドライブの夕日を紹介しました。そのマリンドライブ(海岸道路)をもう少し紹介いたします。この写真はプールの底がガラスのホテルHotel Marine Plazaからのマリンドライブ(Marine Drive)の景色です。時間は夜の11時です。まだ車が沢山走っていました。上の写真はクリックすると拡大します。
こちらは同じ場所からの朝の6時半のマリンドライブです。
夕刻の散歩タイムです。いろんな人が来ています。広い歩道がすばらしいです。
マリンドライブ(海岸道路)はカメラマンも沢山来ています。車からの景色も撮影対象としてすばらしいのです。
外国人シェフによる本格イタリアン [インド]
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インドのムンバイで泊まっていたホテルのイタリアンレストランが良さそうだったので、インドに来て2日目はイタリア料理にしました。イタリア料理と言えば、やはりワインですね。こちらのワインはインドワインのSULA Vineyards dindori Reserveで、価格は3500ルピー(6370円)でした。早い時間のレストランです。ワインが飾られているのがわかると思います。我々は早めに食べ始めましたが食べ終わる頃には満席になりました。すごい人気でした。
沢山のワインが置かれていました。
もちろんイタリアワインはメニューを一ページ埋め尽くしていました。フランスワインだけでもこの程度でした。これ以外にスペイン、ドイツ、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、チリ、アルゼンチン、南アフリカ、インドのワインがありました。
インドはワイン用の葡萄にむいた場所もあり美味しいワインが出来る上に、外国産のワインは関税が高いので同じ値段のものであればインドワイン(Wine of India)がおすすめです。我々もインドワインにいたしました。こちらのワインはGrover Vineyards La Réserveで、価格は3000ルピー(5460円)でした。
お客さんも、ほとんどが外国人でした。
こんなパンが出されてきました。少しピリ辛のソースがついており、これだけでワインが飲めるほどでした。
前菜の盛り合わせです。いろんなものが食べれました。
上の前菜にもモッツァレラチーズがありましたが、やはりイタリアレストランに来たら、このモッツァレラチーズとトマトとルッコラを注文したくなりますね。
やっぱりビールが飲みたくなったので注文いたしました。
シーフードのピザも頼みました。
ラザリアも頼みました。
トマトソースのシーフードのスパゲッティーを頼みました。
シンプルナ味のスパゲッティーを頼みました。結局、これで十分な量になってしまったのでメインデッシュは頼みませんでした。
一番手前の少し太めの外国人シェフが料理長のようです。さすが本場の味でした。
インドの会社の昼食 [インド]
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インドの三大財閥の一つの会社の会議室で、その会社の人たちと昼休みにランチをいただきました。焼き飯に焼きソバにビザです。この日はピリ辛の肉団子もついてきました。いろんな料理が無造作に盛り付けられていますが、なかなか美味しいくて完食でした。インドらしからぬ昼食だったので掲載させてもらいました。写真はクリックすると拡大します。
ピザと肉団子を拡大いたしました。
インドの三大財閥とはタタ財閥、ビルラ財閥、リライアンス財閥です。
焼き飯に焼きそばも拡大いたしました。ソースが置かれており焼きそばに、かけると日本のソース焼きそばの味になりました。不思議な気がして聞くとすべてテイクアウトのお店に頼んで配達してもらったそうです。どうやら日本人を意識してランチを選んでくれたようでした。
ランチの後も会議が続きました。
驚きのイタリアンレストラン [インド]
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なぜ驚きなのでしょう。 → これがインドのイタリアレストランだからです。驚きと言うとインドの人に失礼かもしれませんがイメージが変わりました。
実はインドの人の希望で気軽にこの日の昼食はイタリアンにするつもりでした。せっかくなのでムンバイで高級なことで評判のお店に来てみて驚きました。驚いたのは、その雰囲気と料理の綺麗さと値段の高さです。
高いといっても日本の高級店程度ですがインドの物価を知っているので異常に高いと思ってしまうのでした。
上の写真も入れて前菜の3種類を紹介いたします。上の前菜はサラダと鶏肉です。真中の丸く丸めたパンに入っているのがサラダです。
1つ目の前菜を拡大いたしました。これは量が少ないので2皿頼みました。トリュフなどが乗っています。インドは高級品やお酒の関税が高いので、輸入食材を使っている場合は海外で食べるよりも高いケースが多いです。
2っ目の前菜です。魚料理のフリッターがおいしいソースの上に乗っています。これも2皿頼みました。
上の写真はクリックすると拡大しますがクリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。
3っ目の前菜です。これはスモークサーモンです。これは数が沢山あるので2皿の必要がありませんでした。
3っ目の前菜を拡大いたします。こちらのシェフが丁寧な仕事をしていることがわかってもらえると思います。キャビアとハーブが乗っています。
上の3つの前菜は、それぞれ個人のプレートに取分けてもえました。
オリーブオイルは3種類が選べます。インドでは珍しく女性の給仕の人がオイルを持ってきてくれました。
オイルを2種類選びました。 辛味のある黒いタバスコのようなものも入れてくれました。パンやステックを付けて食べました。
ここでの輸入ワインの値段の高さには驚きでした。最低でも数万円なのです。迷わずインドワインを頼みました。比較的高級なシーフード店では2700円程度でしたが、ここでは一番安いインドのワインが9000円でした。ちょっと痛手でしたが結構おいしいのに驚きでした。実はインドは高地でワインに適した地域があって、おいしいワインが作られているのでした。ちなみに街で売られている一般的なインドの高級ワインは1500円程度だそうです。
ワイングラスの大きさには度肝を抜かれました。30cm以上の高さはあったと思います。飲んだときにワインの香りが非常に感じられるので大きいワイングラスも意味があることを実感しました。家では大きすぎて入れるところがありません。
こちらのお店ではパスタが2000円くらいです。メイン料理で4000~5000円です。前菜で1800~2500円でした。
ランチで一品5000円もするメイン料理を頼むのには抵抗があったのでパスタ(スパゲッティー)にいたしました。でもスパゲッティーにはも大きな海老がついていたので大満足でした。前菜はシェアーいたしましたが、パスタは一人一皿です。しばしインドであることを忘れてしまう空間でした。
ただしメニューにはインドらしい、例のベジとノンベジのマークがありました。
ベジタリアン用マーク ノン・ベジタリアン(肉OK)用マーク
スパゲッティーの拡大写真を掲載いたします。
大きな海老なので海老の写真も掲載いたしました。クリックすると、さらに拡大いたしました。
インドの子供たち [インド]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
インドのアーンドラ・プラデーシュ州 (アンドラプラディシュ州)の小さな村で行われた、ある小さな式典で集まったインドの子供たちとお母さんたちです。カメラを向けるだけで楽しそう。こちらも楽しくなってしまいます。
最近掲載した記事の中に同じタイトル「インドの子供たち」がありました。
こちらは子供たちとお父さんたちです。でもいずこも同じかな! 小さな式典と言っても集まった人たちは数千人で動員された警察官は500人でした。
警察官が500人? なぜならばAndhra Pradesh州のイェドゥグリ・サンディンティ・ラージャシェーカル・レッディ首相(Yeduguri Sandinti Rajasekhara Reddy首相)も参加したからです。Andhra Pradesh州は75,727,000人で23の県があります。州都はハイデラバード
子供たちはほんとうにうれしそうでした。
こちらは前記事で紹介したハイデラバードにあるゴールコンダ城塞で出会った子供たちです。カメラを向けるとみんなが集まってきてくれました。
ムンバイのマリンドライブ沿いのビーチです。
インドで海水浴の風景は珍しいので自然な感じを写真に撮としたら全員上がってきてしまいました。
ゴールコンダ城塞(Golconda Fort) ハイデラバード [インド]
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ハイデラバード(Hyderabad)には見事な城があります。ハイデラバードの訪問時に見にいきました。正式名はゴールコンダ城塞(Golconda Fort)で、巨大な要塞です。ネットではゴールコンダ砦やゴールコンダ要塞の呼び方がおおいけれど、実際に見ると、ゴールコンダ城あるいはゴールコンダ城塞と呼ぶ方がイメージが合います。ゴールコンダ城塞はカーカティヤ朝の1143年にゴールコンダの岩山に砦を建設したのが始まりだそうです。その時は泥の砦だったそうです。その後、バフマニー朝を経てクトゥブ・シャーヒー王国(ゴールコンダ王国 1518 ~1687年)を建国した初代君主スルターン・クリー・クトゥブル・ムルクがゴールコンダを首都と定めるとともに古ぼけた泥の砦を強固な石造りのゴールコンダ要塞都市として再造営したそうです。さらに4代国王イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャーおよびその息子の5代国王ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーの治世62年間に要塞都市は強固な城塞となったそうです。
広い場内には、通路が突然狭くなったり、高い城壁の間に敵を招き入れて城壁の上から攻撃で殲滅する仕掛けなどが見られます。ゴールコンダ王国の歴代君主は次の通りです。年数は戴冠(即位)年を表しています。第3代君主スブハーン・クリー・クトゥブ・シャーは6歳で戴冠して在位期間は7ヵ月でした。
1.1518年 スルターン・クリー・クトゥブ・シャー
2.1543年 ジャムシード・クリー・クトゥブ・シャー
3.1550年 スブハーン・クリー・クトゥブ・シャー
4 1550年 イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャー
5 1580年 ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャー
6 1612年 スルターン・ムハンマド・クトゥブ・シャー
7 1626年 アブドゥッラー・クトゥブ・シャー
8 1672年 アブル・ハサン・クトゥブ・シャー
1687年にゴールコンダ王国はムガル帝国(1526年~1858年)のアウラングゼーブ皇帝指揮の第三次遠征軍の大攻撃を難攻不落のゴルコンダ城塞に篭城(ろうじょう)して、長期にわたる包囲攻城戦を持ちこたえたそうです。しかしながら城内のアフガニスタン戦士アブドゥッラー・カーンの裏切りにより、1687年9月21日早朝、キールキー城門からムガル帝国軍が侵攻し、ゴールコンダ王国守備軍はアウラングゼーブ帝遠征軍に陥落したそうです。同時にゴールコンダ王国の滅亡となりました。
上の写真はクリックすると拡大しますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
広さを実感してもらいたいのでGoogle地図での航空写真で、ゴールコンダ城塞(Golconda Fort)を紹介します。ゴールコンダ城塞の東側(右側)の方向がハイデラバード(Hyderabad)の町になります。航空写真上ののアイコンを数回クリックするとハイデラバードの町の中心との位置関係がわかってくると思います。
こちらが城塞(城、砦、要塞)の入口です。インドの人の入場料は我々外人より圧倒的に安く設定されており沢山の人が見に来ています。みんな楽しそうだったですね。クリックして拡大すると多少表情が判ります。城にはユニークな通信システムがあったそうです。正面玄関のアーチの下で手を打つと、アーチの反響効果により30-40m以上離れたバーラー・ヒサールや、別の地点へその音が明瞭に伝わるそうです。この通信システムは現在も機能するため、正面玄関は観光客が立ち止まり、手を打つ格好の場所となっています。
入口を入ると岩山に作られた城だとわかります。ゴールコンダ城塞は、巨大な花崗岩の3重壁で取り囲まれています。最外壁は小砦を一つ持ち、小丘上を取り囲む設計だそうです。2番目の壁は丘の麓に沿って、3番目は巨石群を取りこんで、丘の斜面に建設されています。外壁の厚さは5~10mで、巨大な花崗岩ブロック製です。北東の角には、城の一角から突き出ていて、その両側の長大な外壁を一望できる「大腹稜堡(ペトラ・ブルジ)」があり、そこにファテヒー・ラーフバル砲が据え付けられていました。
さらに城の頂上を目指しました。険しい道が続きます。
ムガル帝国王子だったアウラングゼーブ率いる1656年のムガル帝国第二次遠征軍を防ぐために9つの丸突起の稜堡がつくられたそうです。この稜堡は、当時、アブドゥッラー・クトゥブ・シャーの将軍だったムーサー・ハーンによって設計され、建築家のダーマチャールによって増設されたものだそうです。
頂上には宮殿の一つBaradariが建っています。
急勾配の階段の部分で記念写真を撮りました。
城の頂上が見えてきました。城は、高さは122mの孤立した花崗岩の丘の上に、壮麗にそびえ建っていました。
城の頂上から下を見ると万里の長城のような景色を見ることができて、この城郭の大きさを感じられます。城の上から見ると城壁が永遠と続いているのが判ります。城外郭は丘に沿うように、そして城を囲む外壁は、いびつな菱形状に設計されているそうです。頑丈な銃眼を持つ最外壁は、外周囲7km近くにも及び、さらに周囲に深い堀を持ち、高さが15-18mもある87の半円形稜堡(ブルジ)、8つの巨大な門がありました。
沢山の部屋があり城の規模が判ります。この景色からもゴールコンダ城塞が屈指の要塞都市であったことが伺えました。驚いたことに城内には陶器製パイプを利用した給水システムが、存在したことが明らかになっているそうです。このシステムにより飲料水は勿論のこと、いくつかの噴水も城内に作られていたそうです。王の謁見バルコニーには、特殊な視覚効果が施されていたと伝えられています。この仕掛けにより、別の場所にいる王の幻影を謁見バルコニー上に映し出し、万が一の刺客の攻撃から王を守ったと言われています。
城の上からはハイデラバードの町を望むことが出来ます。
ハイデラバードの町の中に大きな湖があります。この湖岸の一部が特に近代化されていました。街並み、近代的な電車など 特に驚いたのが普通の部屋に大型の薄型テレビが壁に掛けられていたことですね。この町はデジタル産業で裕福になりつつあるところなんです。ちなみに薄型テレビは日本製でした。
ここでも子供たちに会いました。子供たちは写真が大好きですぐに寄ってきてくれます。撮った写真を見せてあげると喜んでいました。ゴールコンダはGolkondaあるいはGolkondaで、「羊飼いの丘(Golla konda)」が語源になっているようです。ゴールコンダ地区はダイアモンドを含む宝石の世界的な鉱山があることでもでも知られています。ゴールコンダ城塞の城壁内ではダイヤモンド取引が行われていて、ダイヤモンドのための金庫室があったことでも知られています。
1906年に描かれたゴールコンダ城塞の絵と、撮った位置は違いますが類似の構図の現在の写真ををWikipediaから拝借いたしました。
城から降りてお土産を買いに行きました。
インドと言えば紅茶なので、街の紅茶屋さんで、お土産として紅茶を購入しました。店の奥には大きな袋が沢山積み上げられているのに驚かされました。それを見て、インドの人は紅茶をよく飲むことを実感させられました。新しいと香りがいいので、地元の人たちは少しずつ小まめに買いに来るそうです。確かに、我々が買っている間も、次から次へと買いに来ていました。
我々が多量に買ったのに驚かれましたが、お土産に持って帰るとわかって納得でした。同時にホクホク顔でした。 おじさんが手に持っているパッケージを全員で40個ほど買いました。たぶん数日分の売り上げになったと思います。
地方の町だし土産物屋でないので、べらぼうに安かったです。同じ値段で、デリーの土産店の10倍は買えたと思います。
街の紅茶屋さん前の通りの写真です。雰囲気が判ってもらえると思います。
ゴールコンダ城のあるハイデラバードの場所を紹介します。
インドのレイ [インド]
インドのチェンナイ(人口468万人のインド第4の都市 昔のマドラス)で式典で調印が行なわれたときに首にかけてもらったレイ(首飾り)です。レイという名前でいいのかどうか判りませんがとりあえずレイと呼ばせていただきます。
右の写真でサインをしているのが私です。海外ではプロジェクトの担当および責任者として世界の59ケ所に発電プラントを納めた中で、インドでは下の3つの発電プラントのプロジェクトを行いました。その中で、このようなレイは初めの経験でした。
8,000KW 700,000KW 1,500,000KW
これは初めての経験なので、このレイがどのようなものかはわかりません。知見がある方がおられたら、教えてください。ハワイのレイとは雰囲気違います。記念に持ち帰りました。私以外も全ての日本人にレイが用意されていました。下の写真がレイの全体です。
翌日、ハイデラバード(Hyderabad)まで飛行機で飛んだあと、写真の5台の車で3時間かけてサイトに行きました。
サイトでは屋外パーティーで歓迎してもらいました。下の大きな写真で、私だけがネクタイ姿でした。隣の太目の人が工場の社長です。
右の写真のように夜のパーティーも屋外で、しでもらいました。この地域のパーティーではチョット違った食習慣があるのに驚きました。最初に乾燥した米菓子のようなツマミで永遠と話を楽しみながらビールを飲みます。それがすんでから料理が順番にフルコースで出てくるのですが、その時はビールがないのです。聞くとこれが正式の食べ方とのことでした。とは言えおいしい食事を前にビールは捨てがたいので、日本人の食生活を説明して、ビールを出してもらいました。食事もインド料理と少し違いました。定番のカレーではなくて焼き鳥というような感じの料理でした。
日本に来られた時には、青森県の薬研温泉に招待いたしました。1名がベジタリアンということで純和風の旅館や途中の料亭では食事に苦労いたしました。料亭での昼食は我々は雲丹がたっぷりと乗った海鮮丼ですが、刺身は無理なので天ぷらなど野菜中心の料理を頼みました。料亭の名前は「楠こう」であることが2020年12月12日に分かりました。→ポチッ
インドの二階建てバスはボンネットタイプ [インド]
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前記事で、イギリスの二階建てバスを紹介いたしましたので、今度は、同じDNAであるインドの二階建てバスを紹介いたします。インドのムンバイ(ボンベイ)には二階建てのバスが沢山走っています。イギリスの影響だと思います。バスの形式も古いままです。いろんな色のバスがありましたが、やはり赤い色のバスが多かったです。今回は「インドの二階建てバス」というタイトルで掲載いたしましたが、「ムンバイの二階建てバス」というタイトルでもよかったかもしれません。
色は違うけれど形は同じです。昔のままの形だと思います。ムンバイは昔のイギリスの影響を受けて街並みも綺麗です。
二階建てバスは、英国およびその植民地で路線バスとして運行されました。現在も路線バスと運行されているのはロンドンなど英国内の都市、香港、シンガポール、インドのムンバイ、カナダのビクトリアやケロウナなどです。
インドに沢山の二階建バスが走っているのはイギリスの影響だと思います。イギリスの二階建バスが気になります。右の写真はロンドンに行ったときに撮った新しい二階建てのバスです。丸みが出来ていることとドアが自動になり前と真中についています。エンジンも後に移りボンネット式ではなくなりました。ロンドンの昔の二階建てバスを調べる必要がありそうです。
右の写真はネットから拝借した昔のロンドンのバスです。ロンドンの36年前の写真が入ったWeb で見つけました。昔は左側の後部から乗り降りしていたのは今のインドと同じです。それと共通しているのが運転席の横です。エンジンが前に着いていて、乗降口が一番後ろにあるのは昔のイギリスのものと同じです。
世界の主流はワンマンバスなので、車掌が必要な乗降口が後ろにある二階建てバスが走っているのは、現在ではインドだけかもしれません。下の写真の乗降口を拡大いたしました。
エンジンが前にあっても一番前の面が垂直なのがインドの二階建てバスの特徴ですが、大昔にイギリスで同じ形式があったかどうか気になるところです。調べてみると垂直のものはありましたが形は違っていました。起源はイギリスの二階建てバスでもインドでは独自の発展をしたようです。
二階建てバスの製造メーカーはASHOK LEYLAND(アショック・レイランド)でした。Ashok Leyland はインドの商用車メーカーで、設立は1948年9月7日です。英国の植民地支配(1858~1947年)から解放されて1年目の設立だったわけです。
イギリスのオースチン・モーターの支援を受けて、1949年からマドラス近郊の工場でオースチン車の組立も行ないました。
インドの郵便ポストは赤でした。 [インド]
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先日、イギリスの郵便ポストを紹介したので、イギリスの統治下に長くあったインドの郵便ポストを紹介いたします。インドの郵便ポストは赤でした。世界的には赤い色は多くないので、イギリスの郵便ポストの影響を受けているのかもしれませんね。日本の郵便ポストも赤でした。
Pincode of New delhi, india - 110001
郵便ポストに書かれている110001はPincodeと呼ばれる郵便番号のような番号で頭の11はニューデリー( New delhi )を示しています。ちなみにチェンナイは600???で、グルガオンは122???でした。PincodeはPostal Index Number(PIN)とも言われています。PINコード体系は1972年8月15日に導入されたそうです。
先日紹介した"4444"のナンバープレートの写真にも郵便ポストが写っていました。
石造りの陸橋 [インド]
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ムンバイで立派な石造りの陸橋を見つけました。数日間ほど車でムンバイ市内を走りましたが、見つけたのは1ケ所だけでした。右端の車は、以前に紹介した記事の通りにナンバープレートの数値は"2"です。クリックすると判ると思います。
拡大した写真から判断するに、構造自体は鉄骨のようですが外壁は石で作られていました。
この部分で陸橋下の高さが判ってもらえると思います。クリックするとさらに感じが判ると思います。
もちろんムンバイでも陸橋は鉄骨作りがほとんどです。これは鉄骨がむき出しですが、看板で覆われて鉄骨が見えないのが普通です。
デリーでもキリ番ナンバープレートの車が走っていました。 [インド]
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前記事でインドのナンバープレートの記事を掲載させいてただきました。主にムンバイでしたが、その中で"7000"とか"2"のような切りのいい番号が多いことも記載させてもらいました。デリーでも車の中からの短い時間ですが切りの良いナンバープレートを良く見かけました。上の写真は"3000"です。
下の写真は"4444"です。日本では遠慮する番号ですがインドでは関係ないようです。切りのいい番号は新しい車や高級車に多いような、気がします。
ナンバープレートの"4444"が読める大きさに拡大いたしました。
頭のDLはデリーのことだと思われます。ナンバープレートは両方ともに似ており新しいものと思われますが、字体が違う上に、2FとGと"3000"の間にはスペースがあるのに対して7SとNと"4444"はくっついていることが不思議です。