江戸切子 子供達3人からの誕生日プレゼント [日々]
宅急便で私の誕生日プレゼントが届きました。前日の娘からの家内へのメールで、子供たち3人共同で私の誕生日プレゼントを送ったとの連絡が入っていたので、私へのプレゼントだと教えてもらいました。私はプレゼントわ受け取るまでは知りませんでした。それだけに感激もひとしおでした。伝票の品名欄には「ガラス工芸品 江戸切子」と書かれていました。
蓋を開けると華彩(Hanashyo)と書かれた立派な桐の箱が出てきました。
箱を開けるとウイスキーなどのオンザロック用のグラスが出てきました。
これがオンザロック用の江戸切子のグラスです。実は実家には私が高校生頃に父がいろんな方から頂いたウイスキーが沢山残っていて、最近、新幹線で帰るときは少しづつ持ち帰ってかなりの数になったので、最近オンザロックで少しずつ飲み始めていて、オンザロック用のグラスを買うつもりでしたが、なかなか気に入ったものがなくまだ買っていなかったのです。そんな話を正月に子供たちに会った時に話していたのを覚えてくれていたのだと思います。いずれにしても買う前にプレゼントされて最高のタイミングでした。右の写真のスコッチウイスキーはコレクションの中で一番珍しく気に入っているGLEN GARRYという名のウイスキーです。このウイスキーのことは記事にも書いたことがあります。→ポチッ
このオンザロックグラスは底に江戸切子独特の文様が付けられているのが特徴なので下の部分を拡大いたしました。
文様をがよく見えるように上の方向から撮った写真です。
模様を真上から紹介します。中心部分が特に細かいことが分かっていただけると思います。Wikipediaによると江戸切子は1834年(天保5年)に江戸大伝馬町のビードロ屋、加賀屋久兵衛(通称:加賀久)が金剛砂を用いてガラスの表面に彫刻で模様を施したのが始まりだと言われているそうです。その後、イギリス・アイルランドのカットグラス技術等が融合して発展したそうです。
中心から外に広がる紋様は反射によって生まれているようです。
中心部分の文様を拡大いたしました。江戸切子は手仕事ということもあり、加賀屋やホープトマン等からの脈々と繋がる系譜があり職人・加工場・作家の師弟関係をたどることが出来るそうです。
その文様は「糸菊つなぎ」と名付けられていました。説明に「菊には高貴や高尚などのいみがあり、特に目上の方への贈り物としてふさわしい紋様です。」と書かれていました。
説明書の中には8種類の紋様が紹介されていたので紹介します。今回の「糸菊つなぎ」は左端の下側です。クリックすると4倍(面積で16倍)に拡大します。
さっそく飲んでみることにいたしました。似合うような気がしたので、白木のコースターを使うことにいたしました。この白木のコースターはこれからもオンザロック専用で使うために飲み終わった後に洗って乾かして桐の箱の中にグラスと一緒に入れました。
ウイスキーは1本づつ飲み干していくことにしていて、今回は2本目として飲んでいるOld Parrです。実家から持ち帰って最初に飲んだのは右の写真のWHITE HORSE(ホワイト ホース)EXTRA FINEで、これを飲んだ時に素晴らしい香りを感じてウイスキーは香りだと実感したのでした。2種類を飲んだ段階では右のホワイト ホース EXTRA FINEがダントツに美味しかったです。
Old Parrはほとんどなくなってしまったので、3本目に飲むウイスキーをどれにするか悩んでいるところです。候補は日本のウイスキーです。
氷は冷蔵庫で作ったものですが、実は地域は水道水に井戸水が使われいるので、意外と美味しいのです。市全体としては井戸水だけでは足らないので利根川の水も使っているのですが、蛇口から出る水は夏は冷たくて冬は暖かいので現時点においては井戸水だと信じているのです。
先ずは食事前にチーズをつまみながら飲みました。
長野県の蓼科に住んでいる友人から頂いた野沢菜の古漬けでもいただきました。これが実に美味しいのです。右の写真の何倍もいただきました。写真の中の茎の部分をウイスキーのつまみにいたしました。
その日の夕食は餃子だったので、餃子でも一杯飲みました。元々はビールの予定にしていましたが、両方飲むと飲み過ぎになるので、ビールはやめてウイスキーのオンザロックと鳥龍茶にいたしました。
夕食での餃子とオンザロックです。
誕生日プレゼントをくれた3人の子供たちの小さい時の写真です。左から長男、次男、長女です。3人共に神戸市須磨区横尾に住んでいた時に生まれました。娘が1歳の時に関東に転勤になり千葉市緑区土気町にある昭和の森(公園)に行った時に撮った写真です。昭和の森に隣接して右の写真の写実絵画専門のホキ美術館があります。
私の誕生日には、まだプレゼントは届いていませんでしたが、誕生日の料理を紹介します。長く海老フライをやっていなかったので、久しぶりに海老フライを作ってもらいました。カプレーゼも入っていました。
ケーキも久しぶりにいただきました。
家内が近所のケーキ店(創作菓子 杏/Sousaku-gashi ANN)に買いに行ってくれたケーキです。こちらは以前に紹介したことがあります。→ポチッ
散らし寿司を作ってみました。 [料理]
私が一人で実家に来た時の昼食は私の担当です。ただし、ちゃんとした料理は出来ないので、今までに作った昼食は①白い御飯+冷蔵庫のおかず、②ラーメン、③焼きそば、④冷凍炒飯、⑤蕎麦、⑥カレーうどん、⑦素麺、⑧中華冷麺、⑨555の豚饅くらいでしたが、今回初めて上の写真の散らし寿司を作ってみました。
使ったのは写真の散らし寿司の素(ミツカンの十目ちらし)です。中に入っているのは2人前(すし酢袋+具材袋)×2の計4人前です。家内が実家に来た時に使った散らし寿司の素の半分(2人前)が残っていたので作ってみました。残っていたのは2人分なので、私と母で丁度でした。中には酢と具(10種類)が入っていました。
散らし寿司の素にはすし飯に混ぜ込む10種類の具材が入っているので、上に乗せる錦糸卵と三つ葉と刺身の3種類の具を用意いたしました。三つ葉は正月のお雑煮ように用意た島を少し茹でました。刺身は、この日の夕食用に朝に買ったものです。
刺身はシマアジです。生簀のある魚屋さんで買ったので、開店前に捌かれる直前まで活きていた刺身です。まだ〆られてから数時間しかたっていないので非常に活きがよく臭みもありませんでした。こちらの魚屋さんでは生簀に鯛と平目とシマアジがいつも入れられています。逆瀬川駅周辺で、最も新鮮な刺身が手に入る魚屋さんなのです。お魚屋さんの前は「おととや」です。
寿司桶が見つからなかったのでフライパンを使いました。1.5合の炊き立てご飯をフライパンに入れて散らし寿司の素に入っていた酢(すし酢1袋)を振りかけて、扇ぎながら混ぜました。
散らし寿司の素に入っていた具(煮しめ具1袋)を入れてさらに混ぜました。10種類の具は、にんじん、ぶなしめじ、れんこん、まいたけ、エリンギ、こんにゃく、油揚げ、ごぼう、しょうが甘酢漬、昆布です。
10種の具の大凡の割合を分かっていただけるように上の写真の具の部分を拡大いたしました。
出来たがった2人前の散らし寿司です。左が私用で刺身は3切れ乗せました。母の散らし寿司には刺身を3切れ乗せました。
こちらが私の散らし寿司です。三つ葉は茹でない方が見栄えが良かったのかもしれません。
同じ日の夕飯で食べたシマアジの刺身を紹介します。散らし寿司に使った残りでこの大きさなので元は大きかったことが分かっていただけると思います。刺身はサクの状態で売られていたので、昼食と夕食の時にそれぞれの刺身に切り分けました。寿司用は刺身用より少し薄く切りました。夕食では焼ナスも作りました。参考にシマアジの分類を紹介します。よく見かける右の写真のマアジ(真鯵)はアジ科マアジ属で、シマアジはアジ科シマアジ属です、
界 動物界 Animalia
門 脊索動物門 Chordata
亜門 脊椎動物亜門 Vertebrata
綱 条鰭綱 Actinopterygii
目 スズキ目 Perciformes
科 アジ科 Carangidae
属 シマアジ属 Pseudocaranx
種 シマアジ Pseudocaranx dentex
漢字 縞鯵、島鯵
英名 White trevally Silver trevally Striped jack Silver bream
昼食では飲みませんでしたが、夕食ではビールをいただきました。
夕食の焼ナスの写真も紹介します。全部で3本焼き、母が1本で私が2本としました。水で冷やさないで熱いまま出したいので、熱くても手を水で冷やしながら皮を剥きました。ヘタは付いているように見えますが、切り離しています。食べやすいように縦に包丁を入れていますが、茄子の形を保つように盛り付けています。
岩国城 [山口県]
川西駅(JR岩徳線)から錦帯橋を通って岩国城までの道沿いの景色を2021年1月13日の記事で紹介しましたが、本記事では岩国城に関して記載したいと思います。道沿いの景色を紹介した時にも記載しましたが、岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に毛利輝元の一族の吉川広家が築き始めた城です。山上の城は戦時の城で、麓(ふもと)にも住むための城(御土居)が築かれました。麓(ふもと)の城(御土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(御土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。上の写真の現在の天守閣は絵図「天守構造図」を元に1962年3月21日に建てられました。鉄筋コンクリート構造であることから復興天守に分類されています。
山上の岩国城の配置図です。
実は現在の天守閣は1608年に完成した天守閣より意識的に南方向に約30mずらして建てられているのです。下からの見栄えを重視して現在の位置に建設されたそうです。本配置図の北は右上方向です。配置図の中の赤枠(▢)の部分が元の天守閣の位置で、青枠(▢)の部分が現在の天守閣です。復興天守に分類されるのは大阪城や岐阜城や小倉城など14天守あります。名古屋城は木造復元天守へするための工事中です。着色文字は記事として書いたことがあるお城です。
現存天守 12天守 姫路城 彦根城 松本城 犬山城 松山城 など
木造復元天守 5天守 白河小峰城 掛川城 白石城 大洲城 新発田城
外観復元天守 9天守 名古屋城 大垣城 広島城 和歌山城 岡山城 など
復興天守 14天守 大阪城 岐阜城 福山城 小倉城 岩国城 など
模擬天守 51天守 洲本城 郡上八幡城 富山城 大多喜城 今治城 など
岩国城と錦帯橋の位置関係が判るようにGoogleマップの航空写真に城の絵のマークを入れてみました。地図記号の史跡・名勝マーク(⛬)は昔の天守間の跡があるところです。
昔の天守間の跡と現在の天守間の位置関係を航空写真で紹介します。北は上方向です。クリックするとオリジナルの航空写真を表示します。
天守閣が建っている辺りから錦帯橋を咲かしてみると木の間に見つけることが出来ました。木が多いことから広く見渡せるところがないので、天守閣に入って上から見ることにいたしました。
こちらが天守閣への入口です。
この入城券を買って天守閣に登りました。
こちらもクリックすると裏面も表示しますね
急な階段で最上階まで上がりました。
こちらが最上階です。
こちらが岩国城の天守閣から見た景色です。すでに紹介したように遠くまで見渡せました。錦帯橋が中央にあります。クリックすると面積で16倍に拡大いたします。
錦川がカーブしている範囲を拡大いたしました。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するように設定いたしました。
錦帯橋あたりの景色です。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するように設定いたしました。
岩国城から見た錦帯橋を紹介したので、地上から見た岩国城の写真を掲載しました。
屋根瓦の写真も撮りました。
東方向の景色です。
最上階以外には刀剣や鎧や火縄銃などの古い品が展示されていました。特に刀剣の数はすごかったです。
刀剣が並べられているエリアです。
見事な長刀もありました。江戸中期の御太刀で銘には「陸奥守藤原包保作 於好以南蛮鉄鍛之」となっていました。全長2mを越える刀から、佐々木小次郎の刀「物干し竿」を連想しました。ただし佐々木小次郎の「物干し竿」の刃長が約3尺なのに対してこの刀の刃長は約5尺(151cm)です。
刀身重さ 5.0kg
全重量 8.5kg
刀身長さ 197cm
刃長 151cm
全長 210cm
こちらは甲冑です。鎖鎌も展示されていました。
外に出て天守閣の周囲を廻ってみました。
北東方向から天守です。
天守を見上げた景観です。守りの仕掛けもしっかりと再現されていました。
石垣の写真も紹介します。
石垣と天守閣です。
冒頭の写真より少し遠くから撮った写真です。
二の丸広場の花木園の中に建っている四阿(しあ/あずまや)です。この後、ロープウェイ乗場に向かいました。
ロープウェイ乗場の近くに岩国のパノラマ写真があったので紹介します。岩国基地や飛行場や海の向こうの島々も写っていました。クリックすると特別に大きく拡大するので島の名前も読むことが出来ると思います。島の名前を左から読むと大黒神島、倉橋島、鹿島、甲島、柱島、周防大島、前島です。
パノラマ写真が置いてあるところから写真を撮ればよかったのですが、遠くが霞んでいたので撮らなかったのでロープウェイのゴンドラから撮った写真を紹介します。かすみが無くなると上の写真のようにきれいだったと思います。
錦帯橋の写真です。奥側(上流から見て左岸側)から第一橋、第二橋、第三橋、第四橋、第五橋です。クリックすると面積で16倍に拡大するので是非とも見てほしいです。
ロープウェイの上りは2人だけでしたが帰りは沢山乗られていました。
すれ違った上りにも沢山乗られていました。時間帯でかなり違うようでした。
JR在来線の岩国駅と新幹線の新岩国駅を入れた地図で岩国城の位置を紹介します。城の絵のマークのところが岩国城の天守閣です。
年越蕎麦を初めて昼に食べました。 [新年]
今までの大晦日には年越蕎麦を紅白歌合戦を見ながら夜食で食べるのが習慣でした。それもニシン蕎麦でした。今回の大晦日は新型コロナが無ければ9人が実家に集まる予定でしたが、感染拡大により私一人だけが実家に行きました。母が夜食で蕎麦を食べるのは厳しいと思い、念のため年越蕎麦を昼食か夜食かと確認すると、夜食では食べれないので昼食がいいとのことだったので、長い我家の歴史の中で昼食に年越そばを食べることになりました。2018年と2019年の大晦日は人数が多かったので生めんは諦めてカップ麺にいたしました。
2015年 6人 自宅 夜食 生麺+身欠け鰊
2016年 6人 自宅 夜食 生麺+身欠け鰊
2017年 5人 実家 夜食 生麺+身欠け鰊
2018年 9人 実家 夜食 カップ麺+身欠け鰊
2019年 8人 実家 夜食 カップ麺+身欠け鰊
2020年 2人 実家 昼食 生麺+身欠け鰊
これが年越蕎麦で食べた生麺です。北海道幌加内産の新蕎麦を使った八割蕎麦の生めんでいた。俗に言う二八そばでした。ネットで確認するとシマダヤの年末限定商品で、メーカーの説明には「北村農場にて丹念に栽培された新そばを八割配合した、香りが際立つ生そばです。こだわりの原料・製法で作られた、だし香る温冷兼用のつゆ付です。」と書かれていました。
パッケージの中には写真の麺とつゆが入っていました。
パッケージに描かれていた説明と売りに作った2杯のニシンの年越蕎麦です。左が私で右が母の年越蕎麦です。
ニシンと一緒に入れた蒲鉾は御節(おせち)用に買った別寅の蒲鉾でした。
品名 かまぼこ 大奴(焼)
製造 別寅
発祥 大阪府岸和田(1897年) 現在は大阪府貝塚
これが冒頭の写真の完成した年越し蕎麦です。年越し蕎麦は江戸時代には定着した日本独特の文化だそうです。一説ですが、蕎麦は他の麺類よりも切れやすいことから「今年一年の災厄を断ち切る」という意味で、大晦日の晩の年越し前に食べるそうです。つまり夜食として食べる意味はありました。
昼食の後の2時のデザートは前記事でも紹介した甲陽園のツマガリのパウンドケーキとクッキーを紅茶でいただきました。大晦日で忙しかったので右の写真のWEDGWOODのティーカップは出さないで普段用のカップを使いました。
パウンドケーキとクッキーは拡大いたしました。
北海道の長男家族から評判のラーメンが届きました。 [拉麺]
私が年末に宝塚の実家に行っている時に、北海道の長男家族から上の写真の生ラーメンが実家に届きました。今回の正月は新型コロナのために実家と私の家への訪問を取りやめたことで、名目はお歳暮として挨拶を兼ねて私の実家と、家内の実家と、私の家の3ケ所に送ったとのことでした。味噌ラーメンが3袋と醤油ラーメンが3袋入っていました。北海道札幌市豊平区美園にあるラーメン店の麺屋・彩未(さいみ)の味を再現した生ラーメンでした。製造は森住製麺(札幌市東区北45条東)が行っていました。お店を紹介します。右の写真はネットから転用させていただいた麺屋・彩未のお店の写真です。
店名 麺屋 彩未
住所 札幌市豊平区美園10条5-3-12
電話 011-820-6511
駐車 19台
創業 2000年11月3日
店主 奥 雅彦
修行 すみれで7年
定休 月曜日 月に2日間不定休あり
営業 火・水 11:00~15:15
木〜日 11:00~15:15 と 17:00~19:30
母はラーメンでは醤油ラーメンが好きなので、先ずは12月26日に醤油ラーメンを作ってみました。麺とスープ以外にメンマと岩海苔が入っていました。
スーパーなどで売られている市販の生ラーメンと作り方は基本的に同じですが、鍋の中のお湯(540~600cc/2人)にスープの元を入れて、ひと煮立ちさせるところが違うのです。スープの温度が高いことと、2人分でも3人分でもスープの濃さが同じになるので、この方法は美味しく食べるためにもいい方法だと感じました。麺は好みによって2分~3分茹でると書かれていたので、麺を2分程茹でてから、事前にスープを入れたどんぶりに入れました。
これが完成した醤油ラーメンです。トッピングはモヤシと焼き豚と薬味ねぎと、付いていたメンマと岩海苔を乗せました。
右の写真が麺屋・彩未のホームページに掲載されていた醤油ラーメンです。意外とお店のラーメン似た感じであることが分かりました。トッピングにナルトを乗せると更に近くなったとおもいます。お店の説明によれば、有機丸大豆醬油の濃厚な旨味と上品な甘みに、ラードで炒めた野菜の香ばしい風味が食欲をそそる一杯で、トッピングの岩のりが絶妙なアクセントを加えているそうです。
これが2分茹でた麺です。この茹で加減も美味しかったけれども2分半でもよさそうでした。岩海苔が効いて美味しかったです。
スープが美味しかったので、全て飲み干してしまいました。器は100円ショップで買ったプラスチック製のラーメン丼を1年前ごろから使っていました。陶器製のラーメン丼の1つが少し欠けたので、それ以来、買ってきたプラスチック製を使っているのです。重い器だと母も割ってしまう心配が出てくるので、積極的にプラスチック製を使うようになりました。
ラーメンの後の14時のデザートはツマガリのパウンドケーキ(Pound Cake)にしました。母に頼まれて、西宮の甲陽園にあるツマガリに開店の9時に行きパウンドケーキ4本とクッキー5箱を買ってきていたのです。パウンドケーキは数種類があるのですが、4本ともに一番気に入っている「ケーク・オ・いちじく」にいたしました。クリスマスも過ぎて、朝の9時なので人数は少ないと思って行ったのですが、すでに20人近い人が並んでいて驚かされました。幸いにも並んでいたのは生のケーキを売っている方のお店で、2階のバラ売りのクッキーの方のお店には並んでいる人がいませんでした。パウンドケーキもクッキーの方のお店で買えることは知っていたので助かりました。9時開店と同時に入ってバラ売りのクッキーを選んで、同じ詰合せを5箱頼んだ時には、2階のお店にも人が入ってきて、店内の人数制限をしていることから外に行列が出来ました。
パウンドケーキは紅茶でいただきました。ちなみにパウンドケーキの名前は、小麦粉、バター、砂糖、卵をそれぞれ1ポンド(453.59237g)ずつ使って作ることから名づけられたそうです。
こちらが紅茶を飲んだティーカップです。これと同じ柄のコーヒーカップがあることから、数年前に母に頼まれて難波の高島屋まで買いに行ったWEDGWOODのティーカップです。ほとんどの食器の洗ものは母がするのですが、このティーカップだけは私が先に洗って食器棚に入れることにしているのです。
同じ柄のコーヒーカップは10年以上前に私の姪っ子つまり母の孫から祝い物でもらったものでした。
ツマガリのクッキーも食べたくなったので1袋開けて半分づつ食べました。クッキーとパウンドケーキを買いに行った日に食べるつもりでショートケーキも2つ買うつもりでしたが、生菓子の方の半地下のお店は長蛇の行列だったので諦めました。
12月29日には味噌ラーメンを作ってみました。おろし生姜を乗せるのが彩未(さいみ)流とのことなので、すりおろし生姜を乗せてみました。それ以外はモヤシと焼き豚と薬味ネギと付いていたメンマです。
お店のホームページに麺屋彩未の一番人気と書かれているだけのことはありました。3種類の白味噌をブレンドした特製味噌ダレと、豚骨清湯スープが作り出す風味豊かな一杯とかかれていました。確かにすりおろし生姜いれた味は新鮮でした。麺屋・彩未のホームページに掲載されていた醤油ラーメンの写真を右に転用させていただきました。
麺が見えるようにして撮った写真です。この味噌ラーメンは美味しかったです。醤油ラーメンの好きな母も満足していました。
こちらの味噌ラーメンのスープも美味しかったので、飲み干してしまいました。
この日のラーメンの後の14時のデザートもパウンドケーキでしたが、切り方を変えてみました。
ツマガリのクッキーも一緒にいただきました。お店を紹介します。他のケーキ店も地図にプロットしました。
店名 ツマガリ 甲陽園本店
住所 兵庫県西宮市甲陽園本庄町6-38
電話 0798-72-1071.
営業 9:00~18:00
定休 水曜日 第1・3・5月曜日 12月と1月は要確認
店舗 大丸梅田店 大丸神戸店
A エルベラン
B ミッシェルバッハ
D ツマガリ
1歳から2歳まで住んでいた場所
岩徳線の動画 その2 錦川清流線との合流 [山口県]
2020年12月23日に墓参りに来た時に岩徳線車内で2本の動画を撮ったことを前記事「岩徳線の動画 その1」で紹介したので、もう1本の動画を本記事で紹介したいと思います。2020年9月25日にも同じように墓参りに来て同じように岩徳線に乗って錦川清流線(にしきがわせいりゅうせん)があることを知りました。錦川清流線は岩徳線に乗り入れて岩国まで行っているのですが、そう合流地点の動画を撮ろうと出発前から思っていて実行して撮ったのが上の動画です。9月25日の時は合流部の写真を2枚しか撮れなかったので動画を撮ろうと思ったわけです。プレーボタン( ► )をクリックすると錦川清流線が見える頭から2秒のところから動画が始まるように設定いたしました。
岩徳線と錦川清流線の分岐点の森ヶ原信号場当たりの航空写真を紹介します。錦川清流線の横の道路は山口県道1号岩国大竹線で、もう少し左側で岩徳線と錦川清流線の下をくぐります。
岩国方面(右側)から来た岩徳線が中央あたりで左上と左下に別れます。左上に別れて思案橋あたりを通っているのが錦川清流線で、左下に行っているのが岩徳線です。
9月25日の時に撮った2枚の写真がこちらです。
錦川清流線は1987年7月25日に旧・国鉄特定地方交通線の岩日線を転換して開業した川西駅(岩徳線)から錦町駅までの路線でが、前身の国鉄岩日線は1960年11月1日に開業しました。つまり路線として開業してのは1987年7月25日になります。この時は河山駅開業でしたが、1963年10月1日に錦町駅まで延伸開業して現在と同じ営業区間となりました。1987年7月25日に錦川鉄道に移管された時に錦川清流線に改称されました。
上の2枚以外に錦川清流線が写った写真を探してみると前記事で紹介した柱野駅に到着後に撮った写真の中に御庄川(錦川の支流)を渡る錦川清流線が写っていました。写真の中の古びた鉄橋が錦川清流線です。その1の動画の51秒~56秒に川の上流に写っているはずですが小さすぎて確認できませんでした。こちらの写真は9月25日に柱野駅を発車直後に目いっぱいのズームで撮った写真です。Wikipediaに掲載されていた銀川清流線の車両のNT3000形気動車(せせらぎ号)を右に紹介します。4両が運用されていて4両が番号順にブルー、ピンク、グリーン、イエローなっていて、愛称も一般公募された名前がそれぞれに付けられています。
上の写真で古びた鉄橋の手前にある橋は思案橋(しあんばし)です。その思案橋の右端からのストリートビュー(SV)で見た錦川清流線の鉄橋です。思案橋は長崎市と四日市市と大阪市にもあります。
上の鉄橋の川西駅側の端に列車が走っているストリートビュー(SV)を見つけたので追加で掲載しました。上のSVを右側に進んで見て列車を見つけました。1日に錦町方面は10本で川西方面10本であることからSVに列車が写り込むことは一瞬のことなので非常に珍しいことだと思います。新岩国から車で墓参りに行った時はこの鉄橋の下を必ず通っていましたが、列車は見たことはありませんでした。車両は左側から右奥側つまり錦町駅行の車両で、Googleの撮影車は向こうの思案橋側から手前方向に走ってきて撮影されたSVです。SVが更新されると列車は消えてしまうので画面のハードコピーを掲載しました。写真をクリックするとオリジナルのSVを表示します。 車が進んでいく順番のSVです。→SV0 SV1 SV2 SV3 SV4 SV5 SV6 3両SV(錦町) Google撮影車(錦町)
上がSVのハードコピーで、こちらが本物のSVです。したがって、こちらは拡大や縮小が出来る上に水平方向に回転も出来ます。このSVから車両が消えたらSVが更新されたことを示しています。
SVが更新されて車両が消えてしまう可能性があるのでハードコピーを残しておきます。最後はGoogle撮影車が錦町の車両の車庫の窓に写った画像です。写真をクリックすると拡大写真を表示し、着色文字をクリックするとオリジナルのSVを表示します。錦町でのSV撮影は2013年5月に行われ、思案橋でのSV撮影は2018年4月です。
SV1 SV2 SV4
SV5 3両SV(錦町) Google撮影車
Wikipediaに掲載されていた4両を紹介します。3段目の数値は車両番号です。上のSVの車両は「きらめき号」であることがわかりました。写真をクリックすると拡大いたします。
ブルー ピンク グリーン イエロー
せせらぎ号 ひだまり号 こもれび号 きらめき号
3001 3002 3003 3004
川西駅から銀川清流線の終点の錦町までのルート図です。時間帯に寄り表示が変わります。川西駅の錦町駅行は 7:06 8:39 10:02 11:20 14:28 16:13 17:52 19:13 20:26 21:42の10本です。
別画面で表示したい場合 → 任意別画面 標準別画面 Yahooルート情報
別画面で表示した場合はストリートビュー(SV)が使えます。
ルート選択方法は下記の4つが選べます。
最適なルート Le meilleur itinéraire
最少の乗換 Le moins de correspoins
最小の歩行量 Le moins de marche à pied
車椅子でアクセス可能 Accessible en fauteuil roulant
錦川清流線の終点の錦町に行く途中の川を挟んだ道から見た錦川清流線です。ここに列車が走っていると最高の景観になったと思います。中央付近に鉄橋のように見えているのが清流みはらし駅で、イベント列車のみしか停車しない上に、歩いて行くことも困難な秘境駅で近くに滝もありました。SVで列車を探していて見つけました。画面の中のプラス(+)のアイコンをクリックすると清流みはらし滝があることを確認出来ると思います。清流みはらし駅の最寄駅の南桑駅から清流みはらし駅の対岸までの往復の距離は3.1kmです。新大阪を朝一の新幹線に乗ると根笠駅に9時22分に着き、次の川西駅行きが10時08分発であることから歩いて写真を撮りに行けます。下流側にある南桑駅(10時13分発)までは3.6kmなのでこちらも可能です。いずれも途中で沢山写真を撮る余裕はなさそうです。
錦川清流線沿いの観光スポットにプロット( )してみました。椋野駅の近くには錦川みはらしの滝とかじかの滝と清流の滝があります。かじかの滝の場所は対岸から確認出来ますが滝までは見えない上に錦川みはらしの滝と清流の滝は対岸からは木が多くて場所も確認も出来ないので列車に乗っている時に確認するしかないと思います。北河内駅の近くには二輪草群生地があります。右の写真はネットから転用させていただいた二輪草群生地の写真です。
2020年9月25日に来た時の記事「岩徳線に乘りました。」で岩徳線と周防久保駅に関しては詳しく説明いたしましたが、その時に撮れなかった景観などがいくつかあったので本記事に追記する形で紹介したいと思います。当然ですが前回の時も周防久保の駅舎の写真を掲載しましたが、前に車が停まっていたので、駅舎だけの写真を掲載いたします。
前回時に気になっていたのが周防久保駅の南側でした。Google地図を見ると住宅地があるのは分かっていましたがどのような住宅地なのか気になっていたのです。この写真の線路の下の通路を通って南側に行きました。
周防久保駅の南側は成熟した住宅地になっていました。小学生の頃に来た頃には、この辺りは山林だったと思います。
先ほどの線路下のトンネルを通って北側に戻りました。この写真は住宅地側から見た線路下のトンネルです。
自動券売機も前回は撮れませんでした。私が切符を買った後は点検のために人が来て蓋を開けてしまったからです。前回の時に駅舎の前に停まっていた車は券売機の点検に来ていた人のでした。
ホーム側への通路も前回とは別の角度で撮りました。
新型コロナに関する説明書が押ピンでとめられていました。皆さん感染防止に都会では考えられないほどしっかりと守っていて、気を付けられておられました。やはり慣れること無く「初心忘れずに」が大切だと感じました。
列車の到着の12分前に、大きなブザーとともに写真のランプが点滅いたしました。これなら寝ている人でも起きると思います。十分に時間があるので表示してからでる陸橋を渡る下りホームに移動しても大丈夫でした。岩国方面は上りホームなので数秒で行けます。私が乗った11時33分発の前の列車は8時28分発(3時間08分前)で、後の列車は14時08分発(2時間35分後)なので乗り遅れることが出来ないのです。
私は写真の中の日の当たっているベンチに座って列車を待っていました。突然に駅舎の中から音が聞こえてきたので上の写真を撮りに行ったのでした。
ブザーが鳴って12分後に前回と同じように写真の1両編成の列車が到着いたしました。ワンマン運転なので後ろのドアから乗って、前のドアから下車するのです。下車するときに切符を運転士の方に渡します。2両編成の場合の後の車両のドアは開きません。
こちらが先頭方向です。駅によって出口が右になったり左になったりします。岩徳線は10の駅が無人駅であることから運転士1人のワンマン運転が行われていました。そのために大きなバックミラーがあったので前の景色を撮るのは諦めました。バックミラーが邪魔になって景色が撮れないこともありますが、運転士さんが気にするのではないかと思ったのも理由の一つでした。右の写真を見て気がつかれた方もおられると思いますが、若い女性の運転士さんでした。下りる時に自動販売機で買った切符を運転士さんに渡します。運転士さんは切符の内容を確認の上、運賃箱に入れます。動画にもミラーに写った運転士さんが写っています。もし見落としていた場合は右をクリックするとミラーが写る瞬間から表示します。→その1 その2
こちらが運賃箱です。ワンマンバスなどに使われている運賃箱に似ています。
そしてすでに記事「岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色」で紹介の通り、12時21分に錦帯橋の最寄駅である川西駅に着きました。右の小さな写真が川西駅です。ここから錦帯橋まで徒歩で1.3kmです。
前記事(柱野駅到着)と本記事(錦川清流線と合流)の動画を連続で表示します。
岩徳線の動画 その1 柱野駅到着 [山口県]
前記事で川西駅(岩徳線)から岩国城までの景色を紹介いたしました。その岩徳線車内で2本の動画を撮りました。先ずはその中の1本を紹介したいと思います。その1本目の動画はタイトルにあるように柱野駅到着時の動画です。以前に岩徳線を紹介した記事で記載していたように柱野駅(はしらの駅)は新岩国駅に最も近い駅である上に川西駅の一つ手前の駅でもあります。プレーボタン( ► )をクリックすると柱野駅到着の車内放送が始まる26秒から出るようにいたしました。この車内放送の内容を聞いていただくと岩徳線のワンマン運転のシステムが分かっていただけると思います。錦川を渡る景色も出てきます。
動画の中から切り取った柱野駅(はしらの駅)です。
列車は12時16分に到着して12時17分に発車と時間は1分だけで、次の列車は14時50分着の14時50分発のため、降りて柱野駅の写真を撮るわけにいかなかったのでGoogleマップのストリートビュー(SV)で柱野駅の景観を紹介します。
航空写真で見ると駅舎とホームの間に線路があります。ホームに行くためには線路を渡る昔ながらの構造の駅でした。周防久保駅も私が小学生の頃は線路を渡った記憶が残っています。クリックすると非常に長いホームであることが分かっていただけると思います。桂野駅の西側にある右下の写真の3149mの長さの欽明路トンネルがある区間(岩国駅~高水駅)が開業したのは1934年12月1日で、同時にこの路線が山陽本線になりました。長いホームは山陽本線だった1934年から1944年の名残だと思います。複線化のためには3149mの長さの欽明路トンネルをもう1本掘らなければならなかったことが、1944年に山陽本線から脱落する原因の一つになったそうです。ちなみに1944年は現在の山陽本線のルートの複線化が完成した年でした。下記リストのように1940年時点で欽明路トンネルは国鉄の中で8位の長さで、開業した1934年時点では7位の長さでした。トンネルの写真はネットから転用させていただいた欽明路トンネルです。
① 9702m 1931年 清水トンネル(上越線)
② 7804m 1934年 丹那トンネル(東海道本線)
③ 5361m 1938年 仙山トンネル(仙山線)
④ 4656m 1903年 笹子トンネル(中央本線)
⑤ 4329m 1932年 石北トンネル(石北本線)
⑥ 3845m 1929年 猪ノ鼻トンネル(土讃線)
⑦ 3286m 1929年 冷水トンネル(筑豊線)
⑧ 3149m 1934年 欽明路トンネル(岩徳線)
⑨ 3077m 1932年 物見トンネル(因美線)
⑩ 2919m 1939年 宇佐美トンネル(伊東線)
⑪ 2870m 1940年 夜昼トンネル(予讃線)
周防久保駅を11時33分に乗って柱野駅で下車すると非常にタイミングのいいバスが来るのです。非常にタイミングのいいと書いたのはネットの時刻表を見ると1日にバスは9時06分と12時26分の2本だけだからです。仮にバスが無くても新岩国駅までは約3kmなので歩いて行けるので、一度試してみたいと思います。新岩国駅に着いて急いで歩けば12時39分発のこだま850号に乗れるかもしれません。
柱野駅から新岩国駅まで歩いて行く場合のルート図はこちらです。→ポチッ
川西駅から錦川清流線に乗り換えて新幹線の新岩国駅の最寄駅で清流新岩国駅に行くのが合理的のように思えますが、岩徳線の本数も少なく錦川清流線の本数も少ないことから周防久保方面からは、いいタイミングでの乗り換えは難しいのです。錦川清流線は岩国まで乗りいけているので岩国からは便利です。
いわくにバスの柱野駅バス停は川を渡ったところにあります。
柱野駅に着く直前に川を渡る風景も動画から切り取りました。川の名前は錦帯橋が掛かっている錦川の支流の御庄川(みしょう川)です。バス停の位置を写真の中に書き込みました。奥の方向(下流側)に進むと新岩国駅があります。さらに川を下流側に進むと錦川に合流して錦帯橋にたどり着きます。御庄川の御庄は地名でもあります。ちなみに新岩国駅の住所は山口県岩国市御庄1055-1です。岩徳線の柱野駅は写っていませんが写真の右側にあります。
岩徳線の全駅をプロットしました。
緑色ライン(━━)は欽明路トンネル(3,149m)です。
紺色ライン(━━)が山陽本線です。山陽本線に比べて岩徳線が岩国から徳山まで距離が短いことが分かっていただけると思います。山陽本線の駅の位置をプロットした航空写真はこちらです。→ポチッ
本記事(柱野駅到着)とその2(錦川清流線と合流)の動画を連続で表示します。
岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色 [山口県]
2021年元旦の新年の挨拶の記事の中で「川西駅から岩国城までのルートの景観に関しては後日に詳しく紹介したいと思っています。」と予告した通り、山口県の岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景観を紹介したいと思います。実家の宝塚から日帰りで2020年の12月23日に山口県の周防久保にある父方の墓に参った帰りに錦帯橋と岩国城に行ったのです。母方の墓は岩国市内の町中にありますが、そちらは墓から歩いて5分のところに住んでいる叔父さん(母の弟)が墓参りをしてくれているので、今回は行きませんでした。そのため時間があったので岩国城に初めて行ってみることにしたのです。上の写真は岩徳線の周防久保に11時35分発の列車が停車して後部の乗車専用ドアが開き始めた瞬間の写真です。子供の頃には父方の実家に行くために岩徳線にはよく乗りましたが舎監人になってからは、今回が2回目なのです。1回目は去年(2020年)の9月25日でした。周防久保駅は1回目の時に詳しく紹介したしました。→ポチッ
岩徳線は徳山駅・櫛ケ浜駅・周防高森駅・玖珂駅・西岩国駅・岩国駅以外の10の駅が無人駅であることから運行列車は運転士1人によのワンマン運転が行われていることから、無人駅から乗車して、無人駅で下車する場合は駅に設置されている右の写真の自動券売機で切符を買って乗車して、下りる時に切符を運転士の人に渡します。運転士さんは切符内容を確認の上、運賃箱に入れます。下の写真が周防久保で買った切符です。
これが岩徳線を含んだ周辺の路線図です。この路線図の周防久保から川西まで乘りました。岩国城を見た後はバスで新岩国駅まで行き新幹線で帰る計画でした。もし岩徳線と山陽新幹線が同一路線扱いであれば、周防久保から大阪までの切符を買っていれば、上の周防久保→川西の切符を買う必要はありませんでしたが、残念ながら事前に確認してもらうと同一路線扱いではありませんでした。同一路線扱いの山陽本線より新幹線に近いところを走っていたので帰りの新幹線の切符を事前に買うときに聞いてみて分かりました。
前回の墓参りの2020年9月25日の時は余裕でボックス席に1人で座ることが出来ましたが、今回はボックス席はいっぱいだったので長椅子席に座りました。とは言え新型コロナの感染防止のため岩徳線ではボックス席は1人です。今回は人が多かったのは高校生が沢山乗っていたためでした。周防久保発11時35分の時間帯に沢山の高校生が乗車していたのは第2学期の終業式が12月23日だったのだと推測しております。徳山あたりの学校に通っている高校生だったのだと思います。
私が座った長いす席から先頭側を撮った写真です。
到着駅に近づくと車内放送が行われると同時に料金表の表示が変わります。周防久保からの料金が590円と表示されたので、川西駅に到着寸前であることが分かります。写真をクリックすると590の上の文字が周防久保であることが分かってもらえると思います。
岩徳線はワンマン運転なので切符を運転士の方に渡して川西駅に降りました。運転士の方は若い女性の方でした。岩徳線を利用されている乗客の方から人気なようで皆さんから声をかけられていました。いよいよここから錦帯橋あたりまで歩きます。
こちらが川西駅です。この辺りの岩徳線は地上からかなり高いところを走っていました。川西駅は1960年4月16日に新設された駅で母が女学校に通っていたころにはなかったそうです。女学校から見える高いところを岩徳線が走っていたことは鮮明に覚えているとのことでした。
左下の道を進むと幹線道路である県道112号線(藤生停車場錦帯橋線)と県道15号線(岩国玖珂線/欽明路道路)の交差点に出ます。写っている列車が私が乗ってきた周防久保11時35分発(川西:12時21分着/12時22分発)の列車です。
列車が名残惜しいのでズームで追いました。列車の前に写っているコンクリートは道路をまたぐ陸橋部分です。
ここが県道112号線(藤生停車場錦帯橋線)と県道15号線(岩国玖珂線/欽明路道路)の複雑に交差する交差点です。
交差点の標識を拡大いたしました。錦帯橋1kmの表示があります。想像していたより錦帯橋が近い印象です。Google地図で確認した交差点の中心から錦帯橋の左岸の入口までの距離は1.186kmでした。
錦帯橋方面の藤生停車場錦帯橋線です。この交差点から100㎡進み右に曲がって100m進むと母が通っていた女学校があった川西第一街公園があります。
交差点から300m進んだあたりの景観です。
交差点から500m歩くと臥龍橋(がりゅうばし)に出ます。臥龍橋は金耐久の一つ下流側にある橋です。
母が通学で錦川を渡ったのが、この臥龍橋だそうです。当時のままかどうかを判りませんが、当時もコンクリート製の橋だったそうです。明治のころは右の写真のように木造製(橋脚はコンクリート)だったようです。右の写真はネットから転用させていただきました。
臥龍橋の下流側には岩徳線の鉄橋が見えました。川はの名前は錦川(にしきがわ)です。錦川は山口県内を流れる二級水系錦川の本流です。支川を含めた法河川延長は331.8kmで、流域面積は884.2km2で、共に山口県内では一番の川です。
橋の上から撮った上流側です。錦帯橋が前ます。山の上には岩国城も見えます。
向こう岸に近くなってきました。臥龍橋を渡らないで錦帯橋に行けますが、錦帯橋を往復したかったので臥龍橋を渡りました。バス停やタクシーはこちらの岸側にあるので、往復した後にこちら側の岸に行く室用があるのです。上流側から見ると左岸になります。
錦帯橋に近づいてきました。
錦帯橋と岩国城が見えるベストアングルの写真です。山の上に小さく見えている建物が岩国城の天守閣です。現在の天守閣は絵図「天守構造図」を元に1962年3月21日に建てられました。鉄筋コンクリート構造であることから復興天守に分類されています。本来の天守台は約30m離れた本丸北側でしたが、下からの見栄えを重視して現在の位置に建設されたそうです。本写真は岩国城の形がしっかりと確認できるようにクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。錦帯橋と岩国城の両方を堪能していただきたいと思います。
錦帯橋の入橋券です。産地用の岩国城に行った後に戻ってくるので往復券を買いました。入橋券の購入窓口でトン岩国行のバスの乗場の場所を確認して橋を渡る前に時刻表を確認に行きました。河原に降りて撮ると魅力的な同じ構図の写真が撮れることを知りました。クリックすると裏面も表示します。
メモ代わりに新岩国行のバスの時刻表の写真を撮りました。1時間に2本程度でした。
今回は渡り始めから渡りきるまで動画を撮るつもりだったので、渡る前に1枚のみ写真を撮りました。
上流から見て左岸から右岸に渡るまで連続で動画を撮りました。2020年は鬼滅の刃が歴史的な大ヒットだったので、錦帯橋の動画の終了後は引き続いて鬼滅の刃のオープニング主題歌の紅蓮華が流れるように設定いたしました。2021年2月にOSが更新されたのをきっかけに錦帯橋の動画が出なくなったことから錦帯橋の動画のみに戻しました。
2020年大晦日のNHK紅白歌合戦で出場のLiSAが紅蓮華と炎(ほむら)を歌ったのが印象的でした。初出場は2019年でした。こちらをクリックすると錦帯橋の動画を別画面で標示します。→ポチッ
いつもソフトクリームを食べていた佐々木屋小次郎商店は閉まっていました。何度も来ていて閉店していたのは初めてなので、閉まっていたのは新型コロナの影響だと思います。新型コロナが収まったら再開してほしいものです。
ロープウェイの山麓駅を目指しました。
見事な吉香公園がありました。この場所が岩国藩(長州藩の支藩)時代の中心的場所です。叔父さん(母の弟)が通っていたころの山口懸立岩國高等學校の跡地は吉香公園になっています。1602年には麓(ふもと)の城(土居)が建てられた場所であることから、岩国城(麓の城)→山口懸立岩國高等學校→吉香公園と変遷したことになります。現在の山口県立岩国高等学校は、1847年(弘化4年)に創立された岩国藩(長州藩の支藩)の藩校「養老館」の流れをくむ旧制中学校から名前が変わった男子校の山口県立岩国高等学校(叔父さんが通っていた学校)と、1902年(明治35年)創立の高等女学校である山口県立岩国高等女学校(母が通っていた女学校)を前身としています。この吉香公園には岩国城の土居(麓の住居用の城)が1601~1602年に築城され、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、石垣が使われた公園なのは城(土居)を意識して造られたのかもしれません。
古民家があったので寄ってみました。国指定自由用文化財の目加田家住宅でした。岩国藩主の吉川広家が岩国に移封された時に広家に従って移り住んだそうです。
ロープウェイの山麓駅に着きました。
15分ごとに動いていて、客は私を含めて2人でした。
下りてくるロープウェイとすれ違う瞬間です。
こちらか山頂駅です。
山頂から岩国城に行くには広い舗装された道と細い道があったので細い道の方から行きました。
天守閣近くの石垣の下を歩きました。
この門をくぐったら天守閣です。
こちらが岩国城です。母の実家が岩国であったこともあり錦帯橋には何度も来ていますが、錦帯橋を見下ろす山の上に建つ岩国城には初めて来たので2021年元旦の記事に岩国城の写真を掲載させていただきました。岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に毛利輝元の一族の吉川広家が築き始めた城です。山上の城は戦時の城で、麓(ふもと)にも住むための城(土居)が築かれました。麓(ふもと)の城(土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。土居は最終的に吉香公園となったことから叔父さん(母の弟)が通っていた岩国高等学校は麓の城址にあったことになります。
入城券を買って天守閣に登りました。こちらもクリックすると裏面も表示しますね
こちらが岩国城の天守閣から見た景色です。写真の中心あたりに1673年に作られた錦帯橋があります。実は岩国城から見た景色の中には母と縁が深い場所があるのです。こちらの写真もクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。
写真の中の右上端にある川西駅から臥龍橋と錦帯橋を渡ってこの写真を撮った岩国城まで来たのです。錦帯橋が写ったこの写真の中に母が通っていた女学校(山口懸立岩國高等女學校)と叔父さん(母の弟)が通っていた高等学校(山口縣立岩國高等學校)がありました。それは女学校跡地と岩国高等学校跡地と書いている場所です。現在の女学校跡地は川西第一街公園となり、岩国高等学校跡地は吉香公園となっています。右の2枚の写真は現在の川西第一街公園です。母たちは、家のあった岩国の町から毎日片道4km(往復8km)を歩いて通っていました。118年と173年の長い歴史のある女学校と岩国高等学校の2つの学校は統合して、いろんな変遷を経て現在は川西駅のさらに向こう側に山口県立岩国高等学校として存在しています。
母の女学校時代の錦帯橋をバックにした友達同士の記念写真です。右から2人目が女学校時代の母です。女学校には2年生の時に広島県三原から転入したそうです。父親が一時期三原に転勤していて2年生の時に岩国に戻ってきたとのことでした。3年生からは級長もしていたということなので、すぐに女学校になじんだのだと思います。母の出身校である山口縣立岩國高等女學校出身で最も有名な人は右下の写真の宇野千代(1897年11月28日~1996年6月10日)さんだと母が話してくれました。多才な小説家で4度結婚(藤村亮一、藤村忠、尾崎士郎、北原武夫)するなど多くの著名人との恋愛・結婚遍歴も有名で一度は卒業名簿から除名されましたが、世の中の価値観が変わってくるとともに積極的に宇野千代の出身校であることを宣伝されるようになったそうです。小説家だけでなく随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持っていました。
母に関わる7枚の写真を切り替えて表示しています。その中の2枚の大人数の集合写真は女学校の構内での写真なので、今は無き女学校の建物が写った貴重な写真なのです。学校は木造瓦葺きの歴史がありそうな建物であったことが判ります。母が判るように黄色の矢印をつけています。4年生の時は梅組と桜組と楓組の3組あり、母は梅組だったそうです。右の「4年 梅組」の文字は集合写真の裏に書かれていました。
かつて山口縣立岩國高等女學校があった川西第一街区公園のストリートビュー(SV)を紹介します。個人の井上一雄さんがGoogle地図に登録したSVです。公園の中心から撮った数枚の写真を組み合わせて360°の景色が見えるように作られています。初期画面は山口縣立岩國高等女學校と書かれた石碑がある南東方向です。水平に回転させて西方向にすると女學校の門と思われる2本の石柱が右下の写真のように確認できます。
母が写った右上の集合写真に写っている石柱と同じものかはわかりませんが似た石柱です。母の記憶によれば岩徳線に近い方(南東方向)にグランドがあり、遠い方向(北西方向)に校舎が沢山建っていたそうです。
クリックすると特別に大きく拡大出来るように写真を家に持ち帰ってスキャンいたしました。クリックすると4倍に拡大いたします。つまり面積では16倍に拡大いたします。拡大して見ると石柱の部分は石段になっていることが分かりました。金属製のフェンスも一段高いところに建てられていました。つまり現在の石柱と写真の石柱は違うことから現在の公園の入口とは違う入口の石柱のそばて写真が撮られたと思われます。写真の左上の白い部分は破れて無くなっているのです。
4年の梅組の時の写真も家でスキャンして4倍に拡大(面積で16倍)に拡大するようにいたしました。拡大写真を見てもらうと当時の校舎がよく分かると思います。
川西駅から岩国城までのルート(━━━━━━━━━━)と位置をGoogle地図に書き込みました。墓参りをした後、周防久保駅から岩徳線に乗って地図の中の川西駅( )で降りて岩国城ロープウェイの山麓駅まで歩きました。途中で臥龍橋(がりゅうばし ━)と錦帯橋(きんたいきょう ━)を渡りました。岩国国際観光ホテルは母の実家が近いことから泊まったのは1度だけですが法事の食事(和食)を2度お願いした上に、最近では右の上段の写真のような四川料理を2度食べました。右の下段の写真は今回初めて「食事処 むさし」で食べたソフトクリームです。紫いもソフトクリームを選びました。ちなみに我家のワンコの名前は「むさし」でした。
Ⓐ タクシー乗車場所 ━━━ 新岩国駅へのルート Ⓐ→Ⓑ
山口懸立岩國高等女學校跡地 川西第一街区公園
山口懸立岩國高等學校跡地 吉香公園
現在の山口県立岩国高等学校
川西駅 JR岩徳線
臥龍橋
錦帯橋
食事処 むさし
ロープウェイ山麓駅と山上駅
岩国城 天守閣
吉香神社
岩国国際観光ホテル Ⓐ
新岩国駅
ルート ━━━━━━━━━━━━━
━ 臥龍橋
━ 錦帯橋
━ ロープウェイ
━ 山頂駅→岩国城
JR在来線の岩国駅と新幹線の新岩国駅を入れた地図も紹介します。母と叔父さんは岩国駅の近くから毎日歩いて通学していました。
実家では3種相掛けカレーが恒例となりました。 [料理]
昨年の記事「3種類のレトルトを使ったカレーライス」で3種相掛けカレーを紹介したことを覚えておられるかもしれませんが、実家の母はカレーライスは沢山食べてくれるので、実家に行くと必ず一回は3種相掛けカレーをするのが恒例となりました。年末から1月2日まで実家に行った時の2020年12月27日に上の写真の3種相掛けカレーを作りました。2020年10月30日に紹介した時の右下の3種相掛けカレーとは両サイドの「まるごと野菜」は同じで、上の銀座キーマカレーだけが違いました。実は安いレトルトカレーの中で気に入っているのが、銀座キーマカレーだったので、実家のスーパーで見つけて買いました。まるごと野菜カレーは実家に買い置きしてあったのです。今回は目玉焼きを乗せました。今回の記事のタイトルに使っている「3種相掛けカレー」という呼び方は2020年10月30日の記事のコメントで教えていただきました。
高齢の母に沢山食べてもらうのが目的で私が実家にいる間は、昼食と夕食を用意しています。とは言え料理を作る方は得意ではないので、刺身やフライを買ってきたり鍋料理など限られたものになっています。母は朝食を作ってくれます。夕食の中の一品も用意してくれます。
左側が私用で、右側が母用です。この程度の量であれば完食してもらえます。おそらくカロリー的にも最も多いくなる料理の一つになると思います。
上の写真をクリックすると拡大いたしますが、クリックが面倒な方のためら左側のカレーの拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに特別に大きく拡大いたします。目玉焼きの上に乗っているものはコショウ(胡椒)です。
我家(千葉)では今まで2種相掛けカレーでしたが、実家(宝塚)での影響を受けて我家でも最近は3種相掛けカレーをするようになりました。去年の10月31日の記事で紹介した鬼滅の刃カレーを使った右の写真の3種相掛けカレーが我家での最新の3種相掛けカレーです。
今までの実家でのカレーのを紹介します。古い順に紹介します。最初は2種相掛けカレーでした。炒飯カレーもありました。カレーを乗せている皿は全て同じ砥部焼の直径21.4cmの皿です。写真をクリックすると拡大いたします。
麺類も好きなので、ラーメンは1回は作ります。生ラーメンのほとんどは私の家で買って持って行きます。関西は関東に比べてスーパーに置かれている美味しい生ラーメンの種類が圧倒的に少ないのです。さらに値段も3割ほど高いのです。夏になると店頭から生ラーメンほとんど消えてしまうのには驚かされました。母は醤油ラーメンが好きなので今回は右の2種類を持ってきました。その中の下の方の菊水のラーメンを食べました。上側のラーメンは実家では食べる機会がなかったので家に持ち帰って食べました。
こちらが完成した醤油ラーメンです。トッピングは約豚とメンマとモヤシと薬味ネギです。関東から持って行くと毎回違うラーメンが用意できるほど種類が豊富です。毎回違う生ラーメンを持って行くためにラーメンを買うスーパーもいろいろ変えています。この写真をクリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
2人だけですが、大晦日は恒例の「てっちり」にしました。 [新年]
今年は新型コロナのために私一人だけが実家に行きました。母と二人だけではありますが、大晦日の夕食は下記のように主にフグの鍋(てっちり)が恒例になっているので、やっぱりフグを食べることにいたしました。
2000年以前 実家 牛しゃぶしゃぶ
2001~2014年 実家 ふぐ(てっちり&てっさ)
2001~2014年 自宅 通常の夕食(関東ではフグが用意できず)
ただし、関西から持ち帰って「てっちり」食べたことがあります。
2015年 6人 自宅 ひれステーキ(実家滞中12月29日に購入)2016年 6人 自宅 ひれステーキ(実家滞中12月28日に購入)
2017年 5人 実家 ふぐ(てっちり&てっさ) 2018年元旦はひれステーキ
2018年 9人 実家 牛しゃぶしゃぶ 2019年元旦はふぐ
2019年 8人 実家 ふぐ(てっちり&てっさ) 2020年元旦はタラバ蟹
2020年 2人 実家 ふぐ(てっちり&てっさ) 2021年元旦はお刺身+御節
自宅:千葉県佐倉市 実家:兵庫県宝塚市
12月31日のスーパーの開店時間である9時に行きました。この日の一番大きなサイズのフグをテッサとテッチリにしてもらいました。今まで2匹を頼んだ時は1匹の身の部分をテッサにして、2匹分のアラと1匹分の身をテッチリにしてもらっていましたが、この日は1匹なので、片身をテッサにして残りの片身とアラをテッチリにしてもらいました。
こちらがテッチリに捌いてもらったフクです。この日で一番大きなフグでしたが去年までだと中サイズのフグでした。
片身分のテッサです。1皿は母が食べて、1皿は私が食べて残りは元旦の朝に鯛と一緒に並べました。その時の記事はこちらです。→ポチッ
皮は湯引きをして細く切りました。
これがフグの皮の湯引きの管製品です。
今年は近所から白菜を2つも貰ったので、テッチリに入れる野菜は白菜にしました。
もちろんキノコも入れました。
今年はガスコンロを使いました。適当なサイズの鍋が無かったのでフライパンを使いました。出汁は昆布岳です。
テッチリは、こちらのポン酢につけて食べました。
先ずは骨付き部分を入れました。
正月用に日本酒を買ったので熱燗にいたしました。
テッチリの骨付きの部分は最高でした。
こちらがテッサです。テレビでは紅白をやっていました。
テッサも熱燗がピッタリでした。酒の銘柄は山田錦です。
身だけの部分は最後にいただきました。
身を投入したところです。この頃には濃厚なスープになっていました。
骨付きは美味しいけれども、身だけは食べやすいのでじっくりと味わうことが出来ました。
2021年は初めてばら売りの御節(おせち)にしました。 [新年]
2008年以前の御節は全て手作りでしたが、2009年以降はセットの取り寄せの御節が増えました。2018年以降は家族全員が実家に集まるお正月になっていたので、右の写真のようなセットになっていました。新型コロナの感染拡大が無ければ昨年と同じように北海道の長男家族も含めた家族全員が実家に集まる正月となりセットを買ったと思いますが、今年は新型コロナの件があったことから私一人だけが実家に行き母と二人だけの正月だったので、ばら売り(ばら買い)の御節にしてみました。それが上の写真です。
こちらの中の5品が2020年12月30日に買った御節です。5品以外は元々冷蔵庫にあったものです。昨年も紹介したリストですが、今までの御節を紹介します。着色文字をクリックすると写真(2009年~2014年)または記事(2015年~2021年)を表示します。
2008年以前は全て手作り 自宅 or 実家
2009年 取寄せ 特製おせち二段重 自宅 実家の母は取寄せ一段重
2010年 取寄せ 和二段重セット 自宅 実家の母は取寄せ一段重
2011年 取寄せ 和一段重セット 実家
2012年 取寄せ 特製和風一段 実家
2013年 取寄せ 和洋折衷二段重 自宅 実家の母は取寄せ一段重
2014年 取寄せ 二段重 自宅 実家の母は取寄せ一段重
2015年 手作り 自宅 実家の母は取寄せ一段重
2016年 手作り 自宅 実家の母は取寄せ一段重
2017年 手作り 自宅 実家の母は取寄せ一段重
2018年 手作り+取寄せ一段重 実家
2019年 取寄せ 宝春三段重セット 実家
2020年 取寄せ 和洋四段重セット 実家
2021年 ばら売り御節購入 実家 自宅は取寄せ一段重
自宅:千葉県佐倉市 実家:兵庫県宝塚市
先ずは12月30日に買った5品を紹介します。先ずは一品目がお煮しめです。このお煮しめには、黒いも、れんこん、にんじん、しいたけ、ごぼう、コンニャクの6品が入っていました。
品名 お煮しめ
製造 フジッコ
創業 神戸市東灘区(1960年) 現在は全国9工場
2品目は母の希望で買った棒鱈の煮付けです。今回、買った5品の中で一番高かったと思います。金沢の大野醤油と能登半島の珠洲の塩を使って昔ながらの直火炊きで北海道産の真鱈(まだら)を炊き上げたそうです。元々は数の子を買うつもりでしたが、母に確認すると数の子の代わりに棒鱈にしてほしいとのことだったので、数の子は買いませんでした。数の子を入れなかったのは初めてだったと思います。
品名 味付 真鱈
製造 新屋食品
住所 石川県野々市市郷2丁目11番地
3品目は、ごまめ(田作り)です。御節料理の基本の三つ肴は地方により異なり、さらに家庭により異なりますが、Wikipediaによれば関東では黒豆、数の子、ごまめ、関西では黒豆、数の子、たたきごぼうと書かれていました。ヒガシネ食品はイカナゴの稚魚である小女子(こうなご)の佃煮であるくぎ煮(釘煮)作りを起源とした会社です。ちなみに小女子(こうなご)は関東の呼び名で、関西では新子(しんこ)と呼ばれています。
品名 ごまめ
製造 ヒガシネ食品
場所 淡路島岩屋港
4品目は三つ肴(祝い肴三種)にか楢津と言っていいほど入る黒豆でした。ところが12月31日になって実家の近所の方から黒豆のお裾分けがあったので、こちらは保存が効くので、封は開けないで千葉の家に待ち帰って1月2日に食べました。さすがフジッコは煮豆を売りにしているだけあって美味しかったです。
品名 黒豆(丹波黒)
製造 フジッコ
5品目はカマボコです。いつも紅白のカマボコを買っていたので、今回は焼き蒲鉾にしてみました。
品名 かまぼこ 大奴(焼)
製造 別寅
発祥 大阪府岸和田(1897年) 現在は大阪府貝塚
冒頭の写真で御節料理以外に並んでいた刺身の1品が写真のテッサの一皿分です。こちらのフグは12月31日の夕食用に、12月31日の朝に1匹をテッチリとテッサに捌いてもらったのです。
もう一品の刺身は鯛でした。こちらは12月31日の朝に生簀に泳いでいた鯛を捌いた刺身で1月1日(元旦)の夕食用に買った鯛の刺身の一部を元旦の朝に出したのです。
こちらが食べる寸前の御節料理です。ハムと焼き豚と広島菜の漬物も出しました。ハムは塊から切ったものです。
もちろん、お雑煮も用意いたしました。出汁は12月31日の夜に母に4杯分(朝食と昼食の2回分)作ってもらい、元旦の朝に私が味付けをしました。もちろん具も私が入れました。お雑煮は全て家内が作っていたために私はお雑煮の具は作ったことはないので、お餅以外に入っているのは大根と三つ葉だけとなりました。三つ葉だけ買いました。お餅は沢山あると思っていましたが、元旦になって確認すると2個のみでした。つまり餅が全くないこともあったと思うと2個だけあったのは奇跡的に出来た雑煮のように感じました。汁は母に4杯分作ってもらったので、昼食用のお雑煮のお餅はコンビニに買いに行きました。
さらに盛ったお説の写真を紹介します。先ずはごまめです。
こちらが、昆布巻きです。こちらは冷蔵庫にあったものです。
こちらが、小近所からのお裾分けの黒豆です。手作りだそうです。
そして味付け真鱈です。これも本格的な味で美味しかったです。
そしてお煮しめです。セット品のような豪華さはありませんが、ばら売りの御節が美味しいことを初めて知りました。来年からセットものではなくバラ売りの御節にするのもありだなと感じました。
焼き蒲鉾も美味しかったです。
魚屋の生簀の刺身も美味しくいただきました。
一品ずつ自分の前に撮り分けて写真を撮りました。
この日は熱燗にいたしました。銘柄は山田錦にいたしました。
刺身と熱燗を並べて撮りました。
元旦の昼食用のお雑煮にはコンビニ(セブンイレブン)で買ってきたお餅を使いました。最初は駅のコンビニに行きましたが、売られていなかったので少し離れたコンビニまで歩きました。売られていたのは丸餅でした。関西のコンビニだから丸餅だったのかもしれません。朝のお雑煮のお餅は角餅でした。
お昼の御節は朝と同じでした。右端の広島菜の漬物は年末に墓参りに行ったときに買ってきました。
丸餅は小さかったので2個入れました。母も2個でした。
お雑煮と御節を並べて撮った写真です。
新年あけましておめでとうございます。2021年 元旦 [新年]
新年あけましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になりました。本年もよろしくお願い申し上げます。
幸多き一年となりますよう心からお祈りいたします。
2009年5月5日に最初の記事を掲載して、今回が12回目の正月となります。 昨年中も沢山のアクセスをしていただき、沢山のnice!を頂き、沢山のコメントを頂き、ありがとうございました。
2021年元旦
令和三年つまり2021年の最初の記事に選んだのが、山口県岩国の錦帯橋周辺と母の関わりです。こちらの写真は2020年12月23日の実家(兵庫県宝塚)からの日帰りの墓参り(山口県周防久保)の帰りに寄った岩国城です。母の実家が岩国であったこともあり錦帯橋には何度も来ていますが、錦帯橋を見下ろす山の上に建つ岩国城には初めて来たので2021年元旦の記事に岩国城の写真を掲載させていただきました。岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に毛利輝元の一族の吉川広家が築き始めた城です。山上の城は戦時の城で、麓(ふもと)にも住むための城(土居)が築かれました。麓(ふもと)の城(土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。土居は最終的に吉香公園となったことから叔父さん(母の弟)が通っていた岩国高等学校は麓の城址にあったことになります。
錦帯橋の場所から見た岩国城です。山の上に小さく見えている建物が岩国城の天守閣です。現在の天守閣は絵図「天守構造図」を元に1962年3月21日に建てられました。鉄筋コンクリート構造であることから復興天守に分類されています。本来の天守台は約30m離れた本丸北側でしたが、下からの見栄えを重視して現在の位置に建設されたそうです。本写真は岩国城の形がしっかりと確認できるようにクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。錦帯橋と岩国城の両方を堪能していただきたいと思います。
こちらが岩国城の天守閣から見た景色です。写真の中心あたりに1673年に作られた錦帯橋があります。実は岩国城から見た景色の中には母と縁が深い場所があるのです。こちらの写真もクリックすると4倍(面積で16倍)の写真が表示されるように設定いたしました。
錦帯橋が写ったこの写真の中に母が通っていた女学校(山口懸立岩國高等女學校)と叔父さん(母の弟)が通っていた高等学校(山口懸立岩國高等學校)がありました。それは女学校跡地と岩国高等学校跡地と書いている場所です。現在の女学校跡地は川西第一街公園となり、岩国高等学校跡地は吉香公園となっています。右の2枚の写真は現在の川西第一街公園です。母たちは、家のあった岩国の町から毎日片道4km(往復8km)を歩いて通っていました。118年と173年の長い歴史のある女学校と岩国高等学校の2つの学校は統合して、いろんな変遷を経て現在は川西駅のさらに向こう側に山口県立岩国高等学校として存在しています。
母の女学校時代の錦帯橋をバックにした友達同士の記念写真です。右から2人目が女学校時代の母です。女学校には2年生の時に広島県三原から転入したそうです。父親が一時期三原に転勤していて2年生の時に岩国に戻ってきたとのことでした。3年生からは級長もしていたということなので、すぐに女学校になじんだのだと思います。母の出身校である山口懸立岩國高等女學校出身で最も有名な人は右下の写真の宇野千代(1897年11月28日~1996年6月10日)さんだと母が話してくれました。多才な小説家で4度結婚(藤村亮一、藤村忠、尾崎士郎、北原武夫)するなど多くの著名人との恋愛・結婚遍歴も有名で一度は卒業名簿から除名されましたが、世の中の価値観が変わってくるとともに積極的に宇野千代の出身校であることを宣伝されるようになったそうです。小説家だけでなく随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持っていました。
母に関わる7枚の写真を切り替えて表示しています。その中の2枚の大人数の集合写真は女学校の構内での写真なので、今は無き女学校の建物が写った貴重な写真なのです。学校は木造瓦葺きの歴史がありそうな建物であったことが判ります。母が判るように黄色の矢印をつけています。4年生の時は梅組と桜組と楓組の3組あり、母は梅組だったそうです。右の「4年 梅組」の文字は集合写真の裏に書かれていました。
かつて山口懸立岩國高等女學校があった川西第一街区公園のストリートビュー(SV)を紹介します。個人の井上一雄さんがGoogle地図に登録したSVです。公園の中心から撮った数枚の写真を組み合わせて360°の景色が見えるように作られています。初期画面は山口懸立岩國高等女學校と書かれた石碑がある南東方向です。水平に回転させて西方向にすると女學校の門と思われる2本の石柱が右下の写真のように確認できます。
母が写った右上の集合写真に写っている石柱と同じものかはわかりませんが似た石柱です。母の記憶によれば岩徳線に近い方(南東方向)にグランドがあり、遠い方向(北西方向)に校舎が沢山建っていたそうです。
母が通学で錦川を渡ったのが臥龍橋だそうです。当時のままかどうかを判りませんが、当時もコンクリート製の橋だったそうです。明治のころは右の写真のように木造製(橋脚はコンクリート)だったようです。右の写真はネットから転用させていただきました。
叔父さん(母の弟)が通っていたころの山口懸立岩國高等學校の跡地は吉香公園になっています。1602年には麓(ふもと)の城(土居)が建てられた場所であることから、岩国城(麓の城)→山口懸立岩國高等學校→吉香公園と変遷したことになります。現在の山口県立岩国高等学校は、1847年(弘化4年)に創立された岩国藩(長州藩の支藩)の藩校「養老館」の流れをくむ旧制中学校から名前が変わった男子校の山口県立岩国高等学校(叔父さんが通っていた学校)と、1902年(明治35年)創立の高等女学校である山口県立岩国高等女学校(母が通っていた女学校)を前身としています。この吉香公園には岩国城の土居(麓の住居用の城)が1601~1602年に築城され、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、石垣が使われた公園なのは城(土居)を意識して造られたのかもしれません。
位置関係をGoogle地図に書き込みました。墓参りをした後、周防久保駅ら岩徳線に乗って地図の中の川西駅( )で降りて岩国城ロープウェイの山麓駅まで青色ラインを歩きました。途中で臥龍橋(がりゅうばし)と錦帯橋(きんたいきょう)を渡りました。川西駅から岩国城までのルートの景観に関しては後日に詳しく紹介したいと思っています。岩国国際観光ホテルは母の実家が近いことから泊まったのは1度だけですが法事を2度行った上に、最近では右下の写真のような四川料理を2度食べました。
山口懸立岩國高等女學校跡地 川西第一街区公園
山口懸立岩國高等學校跡地 吉香公園
現在の山口県立岩国高等学校
川西駅 JR岩徳線
錦帯橋
食事処 むさし
ロープウェイの山麓駅と山上駅
岩国城 天守閣
吉香神社
岩国国際観光ホテル
新岩国駅
━━ ロープウェイ
新岩国駅( )も入れた航空写真です。元々は錦帯橋から新岩国駅までバスで移動するつもりでしたが、新岩国の新幹線は1時間に1本であることからタイミング的にタクシーに乗ると1時間早い新幹線に乗れる可能性があったことから、岩国国際観光ホテルまで行きタクシーを呼んでいただき新岩国駅まで行きました。予想した通りほとんど待ち時間なしで1時間早い新幹線で実家に帰ることが出来ました。今回も広島駅で乗り換える時間を利用して、前回の時と同じように夕飯用の穴子めしと広島流お好み焼きを買いました。それ以外に広島菜の漬物ともみじ饅頭も買いました。