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叔父さんからのお土産の「岩国寿司」の仕入れ先(作っているところ)が判りました。 [山口県]

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母は昔から山口県の周防久保駅の近くにある私の父方のお墓に年に4回(3月 8月 9月 12月)に一人で墓参りに行っていました。母は足が少し不自由なことから2013年3月の墓参りから念のために、私か姉が一緒に行くようになりました。その中で私が一緒に行ったのが下記のリストです。2019年9月までは岩国に住んでいる叔父さん(母の弟)が車で新岩国駅からお墓まで行き、帰りは新岩国まで送り届けてくれました。一緒に昼食を食べて、錦帯橋でソフトクリームを食べて、新岩国駅でお土産を渡されるのが恒例になっていました。そのお土産の中に上の写真の岩国名物の岩国寿司が必ず入っていました。その岩国寿司は新岩国駅の売店に予約を入れていて別れるときに渡されました。叔父さん夫婦の話だと岩国にもっとも人気のある岩国寿司だと言われていたので、作っているお店が気になっていました。叔父さんは2019年9月末に運転免許を返納して会えなくなってしまったことから、岩国寿司のお店の場所は分らずじまいになっていました。2019年12月はレンタカーで母と一緒に行きましたが、新型コロナの感染リスクがあるので2020年3月と8月は中止して、2020年9月からも私一人で墓参に行きました。のマークは錦帯橋に行ってソフトクリームを食べた時です。
  墓参り年月  地元の移動  叔父さんからのお土産 岩国寿司の購入場所
  2013年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭 新岩国駅の売店に予約
  2013年08月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2013年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2014年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2014年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2014年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2015年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2015年08月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2015年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2016年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭
2016年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2016年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2017年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2017年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2017年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2018年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2018年08月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2018年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2018年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2019年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2019年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2019年12月 レンタカー  母と一緒に岩国の母方のお墓にも行く
  2020年09月 岩徳線+バス JR在来線で広島まで行く
2020年12月 岩徳線+バス  初めて、むさし店でソフトクリームを食べる
  2021年03月 岩徳線+バス 錦川清流線に乗る
2021年09月 岩徳線+バス  錦帯橋近くで岩国寿司を購入 本記事
  2021年12月 従妹の車   下関にある従妹の両親の墓にも墓参り

2020年09月以降に一人で墓参りに来た時も岩繰寿司を買いたかったのですが、新岩国駅では予約を入れないと手に入らないので、母へのお土産は、もみじ饅頭と広島菜の漬物と広島のお好み焼きと穴子めしになっていましたが、2021年09月に錦帯橋に行ったときに錦帯橋の入橋券の購入窓口で岩国寿司のお勧めのお店を教えてもらって、吉川家墓所などを見学した後に最後に寄ったお店がこちらです。お店の名前が岩国寿司のお店とは思えないけれども、入ってみました。お店の右隣りが岩国市観光協会の建物で観光案内所があります。
 店名 Panser(パンサー)
 住所 山口県岩国市岩国1丁目5-11
 電話 0827-41-2707
 定休 不定休
 営業 9:00〜16:00
 SV https://goo.gl/maps/qfzda9PRDee4Y7Ja9
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さっそく店内に入ってみました。イメージは料理店あるいは居酒屋という雰囲気でしたが、すでにお客さん(地元の方のようでした。)が来ていて鯖寿司などを沢山買い込んでおられました。そのお客さんが帰られた後に岩国寿司を注文しました。注文してから作るので少し待たされました。その代わり出来立てを持って帰ることが出来るのです。一度はお店で出来立てを食べてみたいものです。机の上の赤色のリッックは私のです。
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クリックすると拡大こちらが食事のメニューです。クリックするとお酒類を含む飲み物やスイーツやソフトクリームなどのメニューも表示します。新型コロナがなければ、メニューの料理でビールを飲みたいところでした。
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地元の方と思われる先客は左側の岩鯖寿司を沢山買い込まれていて、から揚げなども買っておられたので家で飲み会をする雰囲気でした。次の機会があれば、岩国寿司だけでなく岩鯖寿司も買いたいと思います。
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こちにが今回買って帰った岩国寿司です。これ(1個入り)を2つ買いました。上の説明のように2個入りもありました。今までに何度も岩国寿司をお土産にいただいて食べていたので、不覚なことに蓋を開けたお寿司を全体の写真を撮り忘れました。しかし切り分けてから気が付いたのですが、海老とレンコンが並べられている雰囲気がそっくりなので、叔父さんたちが新岩国駅の売店に予約して買っていたのはパンサーの岩国寿司ではないかと感じたのです。
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そこで昔の岩国寿司の写真を探して製造者を確認すると、やはりお土産でいただいていたのはパンサーの岩国寿司でした。こちらが2013年3月の時のパッケージです。冒頭のリストではすべて新岩国駅の売店に予約と記載していましたが、3度ほど予約出来なかったので別のお店の岩国寿司となりましたが、現時点では特定できないのですべて「〃」としました。確かに別のお店よりはパンサーの岩国寿司が良かったことだけは記憶しています。少なくとも2016年9月はパンサーでないことは分っています。スーパーで売られている岩国寿司も食べてみたかったので、お願いしてスーパーで売られていた2種類買ってきてもらったのです。墓参りの帰りに下松SAに買いに行ったこともあります。一般道側にも駐車スペースが作られているのです。
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上が今回(2021年9月)で、下が2013年3月の時の表示です。どちらも製造者の住所は同じ山口県岩国市岩国1丁目5-11でした。名前は斉藤良人から斎藤伸也に代わっていますが同じ斎藤(斉藤)の姓なので関係者だと思います。今回の人が若かったので息子さんなのかもしれません。
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上で記載したスーパーで売られていた2種類の岩国寿司を紹介します。2016年3月に叔父さんにお願いした2016年9月に買ってお土産としていただいた岩国寿司です。
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パッケージから出したスーパーの岩国寿司です。パンサーの岩国寿司とはかなり違いました。両方ともに錦糸卵の下に具が隠れています。
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2017年9月には製造者は今と同じ斎藤伸也さんになっていました。
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パッケージを開けた2017年9月の岩国寿司です。大きな海老です。
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2017年12月の岩国寿司です。この時は2個入りのパッケージで、今も1個入りと2個入りがあります。
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こちらが2018年8月の岩国寿司です。2018年8月にはパッケージに書かれている岩国寿司の字体が今と同じになりました。
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2018年8月と2021年9月を並べると字体だけでなく全体が、ほぼ同じであることが判りました。左が2018年8月で右が2021年9月です。
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今回は岩国寿司以外に、乗り換え駅の広島駅で穴子めしと広島のお好み焼きを買いました。
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こちらが広島のお好み焼きです。
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お好み焼きと穴子飯があったので、岩国寿司は少しだけ食べて、残りは翌日の昼にいただきました。海老が冒頭の写真と同じように乗っているのが判っていただけると思います。
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岩国寿司を購入したPanser(パンサー)の場所を航空写真で紹介します。
航空写真の中の赤色マーク( )が人気の岩国寿司を製造販売しているパンサーです。オレンジ色(橙色)のラインが錦帯橋です。マイナス(-)のアイコンを3回クリックすると沢山の赤色マークが出てきますが、その赤色マークが今回初めて訪れたところです。


2013年3月22日に掲載した「岩国寿司」の記事はこちらです。→ポチッ

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迷路としても楽しめる「岩国藩藩主の吉川家墓所(きっかわけぼしょ)」 [山口県]

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今回の墓参で錦帯橋の周辺を下記の記事で紹介してきましたが、実は最も紹介したかったのが今回の「岩国藩藩主の吉川家墓所」でした。何度も錦帯橋に来ているのに吉川家墓所は初めて知ったのです。また、これほど第1代から第13代の藩主の墓をはじめとして家族の墓がまともっていることにも驚かされました。上の写真が吉川家墓所の入口の門です。

最初の門をくぐったところにもう一つの門があります。こちらの門には入れません。ただし沢山の墓がある吉川家墓所は左方向に曲がったところにあります。門の左にある説明板は吉川家の移り変わりや13代藩主までの歴史が書かれています。吉川は「よしかわ」ではなく「きっかわ」と読みます。つまり、吉川広家は「きっかわ ひろいえ」です。
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説明板を拡大いたしました。クリックすると文字が読める大きさに拡大いたしました。下記の名前は吉川元春からの当主です。吉川広家が岩国藩の初代であり、それ以降は吉川家の当主が岩国藩(岩国領)の藩主(領主)でもあります。ちなみに江戸幕府は1603年~1867年(大政奉還)です。右下の写真はWikipediaから転用させていただいた初代藩主・吉川広家です。吉川家(吉川氏)の名は寿永2年(1183年)まで遡りますが、岩国藩(周防国大島郡+玖珂郡南部)を治める藩主としての吉川家の祖は吉川元春(安芸国吉川氏としては14代目)となるそうです。
 吉川家当主(1550~1586) 吉川元春 毛利元就の次男で吉川氏へ養子
 吉川家当主(1586~1587) 吉川元長 広家の兄
  初代藩主(1600~1614) 吉川広家 当主(1587~1614) 岩国城を築城
  2代藩主(1614~1663) 吉川広正
  3代藩主(1663~1679) 吉川広嘉 錦帯橋を建造
クリックすると拡大  4代藩主(1679~1696) 吉川広紀
  5代藩主(1696~1715) 吉川広逵
  6代藩主(1715~1764) 吉川経永
  7代藩主(1764~1792) 吉川経倫
  8代藩主(1792~1803) 吉川経忠
  9代藩主(1803~1806) 吉川経賢
 10代藩主(1807~1836) 吉川経礼
 11代藩主(1837~1843) 吉川経章
 12代藩主(1844~1868) 吉川経幹
 13代藩主(1868~1871) 吉川経健 明治元年~明治4年(廃藩置県)
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大きな建造物がありました。あとでネットで調べると吉川家納骨堂であることが判りました。
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こちらが吉川家墓所の配置図です。写真を撮った墓に赤色の番号(①~㉟)を書き入れました。つまり①→㉟の順に歩いたのです。白壁の塀で仕切られていてタイトルで書かせていただいたように、まさに迷路のようでした。実際に訪れて写真を掲載させていただいた墓石は下記のリストのように35塔です。写真を撮っていないのが2塔あるので、全体でお墓が37塔あることになります。写真を撮っていない2塔は印の宣姫(10代・経礼の長女)と順姫(7代・経倫の次女)です。岩国藩主は13代まで続きましたが藩主の墓は9塔しか見つかりませんでした。理由は後ほど説明させていただきます。
 藩主   9塔 2代 3代 4代 5代 7代 8代 9代 10代 11代
 正室   9塔 8塔が藩主の正室 1塔が吉川元春の正室
 後妻   1塔 継室
 息子   6塔
 娘    9塔 姫
 合祀   1塔 息子 4名 姫 2名
 合計 35塔 
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Googleマップの航空写真表示画面に回った順番①~㉟をプロットしました。画面の中の③と㉝のマークは半分しか見えていません。マイナス(-)を1回クリックすると広い範囲の表示になるので欠けたマークはなくなります。航空写真の中の印が写真を撮り損ねた宣姫と順姫のお墓の2塔です。
 藩主   9塔  ①⑩⑪⑱⑳㉑㉓㉔㉕
 正室   9塔  ②⑫⑰⑲㉒㉘㉛㉞㉟
 後妻   1塔  ㉖
 息子   6塔  ⑦⑭⑮⑯㉙㉚
 娘    9塔  ③④⑤⑥⑧⑨⑬㉗㉝
 合祀   1塔  ㉜


納骨堂方向から歩いてきて最初に目に入る景色がこちらです。複雑な白壁の塀の中に墓あるのです。迷路のようだと少し感じていただけると思います。まっすぐに進んでいきました。
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①② そこにあったのは8代藩主の吉川経忠(左側)とその正室の喬松院の墓(右側)でした。いきなり、その大きさに驚かされました。
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墓にはタイル製の説明板がつけられていました。正室の喬松院は経忠の死後41年後に亡くなったことが判ります。こちらの区画にも
 吉川経忠 8代藩主
  戒名 招徳院殿孝運祖沢大居士
  没年 享和3年(1803年)5月30日 享年38歳
 喬松院 8代藩主経忠の正室
  戒名 喬松院殿妙境日悌大比丘尼
  没年 天保15年(1844年)1月30日 享年61歳
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次の区画に最初の場所に小ぶりですが立派なお墓がありました。こちらは6代藩主の吉川経永の3女の益姫のお墓でした。近くに6代藩主の吉川経永の墓はありませんでした。この区画には7つの墓があり、その中の6つが藩主の姫で、1つが藩主の息子でした。
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説明板を見ると3歳という幼さで亡くなった姫の墓であることが判りました。可愛かった娘が幼くして亡くなった悲しみが伝わってくる立派なお墓でした。偶然かもしれませんが、吉川家墓所で見た9人の姫の墓の内、1歳と5歳と13歳が1~2人なのに対して、驚いたことに5人が3歳でした。享年3歳は数え年のため満年齢では2歳ということになります。
 益姫 6代藩主経永の3女
  戒名 亨恵大童女
  没年 延亨2年(1745年)6月15日 享年3歳
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同じ区画で次に見たのは7代藩主・吉川経倫の長女の万千代姫の墓でした。多くの墓は丸石が使われていますがこちらは長方形の石が使われていました。
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説明板を紹介します。こちらも5歳という幼さで亡くなった姫の墓でした。亡くなった月を?月と書いているは木の葉で数字が見えないためです。
 万千代姫 7代藩主経倫の長女
  戒名 英雅大童女
  没年 安永3年(1774年)?月2日 享年5歳
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こちらもこちらも立派なお墓でした。12代藩主吉川経幹の娘の数姫のお墓です。
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説明板です。こちらも3歳で亡くなりました。
 数姫 12代藩主経幹の娘
  戒名 玉光映珊大童女
  没年 安政5年(1858年)5月26日 享年3歳
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こちらはこちらは6代藩主・吉川経永の4女の三千菊姫のお墓です。ことらも享年は3歳でした。
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説明板を紹介します。
 三千菊姫 6代藩主経永の4女
  戒名 智玉大童女
  没年 宝暦9年(1759年)閠7月7日 享年3歳
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初めて藩主以外の男子の墓です。10代藩主・吉川経礼の長男の憲太能のお墓です。
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説明板を紹介します。享年は不明となっていますが、今回見た藩主の息子の墓の説明板では2歳と5歳と7歳と、いずれも幼くして亡くなっていることから、こちらも幼くして亡くなったものと推察されます。可愛い盛りだったと思います。
 憲太能 10代藩主経礼の長男
  戒名 知憲院殿慈厳玉容大童子
  没年 文政5年(1822年)6月30日 享年不明
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この区画の雰囲気を紹介します。左橋が健太能のお墓でその右側に2の墓が並んでいます。次にそちらを紹介します。
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⑧⑨ 4代藩主・吉川広紀の娘の礒姫(左側)と6代藩主・吉川経永の次女の佐久姫(右側)のお墓です。
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2つの説明板を紹介します。礒姫は1歳で佐久姫も1歳でした。
 礒姫 4代藩主広紀の長女
  戒名 円珠大童女
  没年 元禄3年(1690年)10月12日 享年1歳
 佐久姫 6代藩主経永の次女
  戒名 慈忍大童女
  没年 寛保2年(1742年)9月8日 享年1歳
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不思議な迷路の入口のようなところがありました。
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その奥には第十一代藩主のお墓があることが書かれていました。
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こちらが11代藩主吉川経章のお墓です。藩主のお墓で丸ではなく四角の石が疲れけているのを見ました。今回見た見た中で藩主のお墓として四角い石が使われていたのは2つで、他派すべて丸い石が使われたお墓でした。
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墓に近づけないので説明板があることに気が付きませんでした。あとで写真から左下に写っていることに気が付きました。
 吉川経章 11代藩主
  戒名 亮功院殿英山道雄大居士
  没年 天保14年(1844年)11月19日 享年50歳
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⑪⑫ 岩国藩七代藩主吉川経倫の木製の看板があったので道を入っていきました。
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突き当りを右に曲がった瞬間に前が開けて2つ大きなお墓(塔)が現れました。
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2つ大きなお墓(塔)は7代藩主の吉川経倫(右側 ⑪)と、その正室の華厳院(左側 ⑫)でした。目線の2.5倍ほどの高さの巨大のお墓(塔)でした。
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説明板を紹介します。
 吉川経倫 7代藩主
  戒名 大乗院殿前城門郎即心円通大居士
  没年 享和3年(1803年)9月7日 享年58歳
 華厳院 7代藩主経倫の正室
  戒名 華厳院殿梅玉妙聯大姉
  没年 安永5年(1775年)5月18日 享年21歳
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7代藩主の吉川経倫のお墓の前にあったのがこちらのお墓です。経倫の3女の勝姫のお墓です。お墓の場所からして大切にされていたのではないかと推察します。 
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説明板です。これによると13歳ででなくなりました。
 勝姫 7代藩主経倫の3女
  戒名 仙寿院殿桃顔倍香大姉
  没年 寛政3年(1791年)6月13日 享年13歳
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こちらが7代藩主経倫の次男のお墓です。案内板によれば、7代藩主のお墓があるエリアにはこれ以外にもう一つお墓があります。そちらは経倫の次女の順姫ですが、正室の墓の左奥にあったことから気が付きませんでした。
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こちらが次男のお墓の説明板です。
 吉五郎 7代藩主経倫の次男
  戒名 崑岳良瓉大童子
  没年 安永6年(1777年)9月23日 享年2歳
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塀の外に出ると白塀に囲まれた道がまっすぐに山の方に伸びていました。正面に木の門が見えますが、先ずはその手前で左に入ってみました。
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こちらは説明板を撮り損ねたので名前はわかりませんでしたが、案内図から6代藩主吉川経永の長男の友千代であることが判りました。説明板を撮っていなかったので戒名や没年や享年はわかりません。吉川経永の男子はいずれも夭折(幼くして死去)したため、養子として迎えたのが、後の7代藩主の吉川経倫ですが、吉川元春以来の血筋はここで絶えることになったそうです。
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上の友千代の墓の写真の右端に写っている灯篭が、こちらも6代藩主吉川経永の息子(次男)である代八の墓です。
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代八の説明板を紹介します。
 代八 6代藩主経倫の次男
  戒名 徳岸院殿恩樹日長大童子
  没年 宝暦4年(1754年)1月12日 享年7歳
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立派なお墓です。5代藩主の吉川広逵の正室である正理院のお墓です。友千代や代八からだと祖母になります。正室のお墓が立派なのは次の藩主(息子)の母という立場もあるのかもしれません。
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正理院の説明板を紹介します。
 正理院 5代藩主広逵の正室
  戒名 正理院殿妙常日久代比丘尼
  没年 天明元年(1781年)1月12日 享年86歳
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㉑⑳⑲⑱㉒ 上で紹介した白壁の塀に囲まれた通路の先にあった木の門の中には大きなお墓が5つありました。藩主のお墓が3つと正室のお墓が2つで構成されていました。クリックすると拡大徐々に初代の藩主である吉川広家のお墓に近づいている予感がしてきました。
左側からは次の通りです。
 ㉑ 9代藩主    吉川経賢
 ⑳ 3代藩主    吉川広嘉
 ⑲ 2代藩主の正室 高玄院
 ⑱ 2代藩主    吉川広正
 ㉒ 10代藩主の正室 円成院
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外側からでも5つはお墓を1枚の写真に収められなかったので、左側と右側に分けて撮りました。こちらが左側の3つお墓(⑲⑳㉑)の写真です。
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こちらが右側の3つお墓(⑱⑲㉒)の写真です。
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先ずは中央の3つ(⑳⑲⑱)を紹介したいと思います。
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⑱⑲の説明板です。
 吉川広正 2代藩主
  戒名 浄性院殿前倉部鉄堂宋閑大居士
  没年 寛文6年(1666年)5月5日 享年66歳
 高玄院 2代藩主広正の正室
  戒名 高玄院殿超誉珠英大姉
  没年 正保元年(1644年)9月10日 享年45歳
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⑳の説明説明板です。
 吉川広嘉 3代藩主
  戒名 玄真院殿前城門郎快巌如心大居士
  没年 延宝7年(1679年)8月16日 享年59歳
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左端㉑は9代藩主の吉川経賢のお墓です。
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吉川経賢の説明板です。吉川経賢は16歳の若さで亡くなった藩主でした。
 吉川経賢 9代藩主
  戒名 文恭院殿徳巌道馨大居士
  没年 文化3年(1806年)12月16日 享年16歳
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こちらが5つの大きなお墓の左端のお墓(㉒)です。10代藩主の吉川経礼の正室のお墓です。正室の名前は円成院です。
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円成院の説明板です。
 円成院 10代藩主経礼の正室
  戒名 円成院殿妙実日相大叔姉
  没年 文化10年(1813年)6月11日 享年 不明
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㉓㉔㉕ すぐそばに3人の藩主の墓がありました。この場所も木の門がありました。4代藩主の吉川広紀と5代藩主の吉川広逵と10代藩主の吉川経礼です。
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こちらが3つの藩主のお墓で右側から5代藩主・吉川広逵(㉓)、4代藩主・吉川広紀(㉔)、10代藩主・吉川経礼(㉕)です。10代藩主・吉川経礼は四角の墓石でした。藩主の中で四角の墓石が使われていたのは11代・吉川経章と10代藩主・吉川経礼だけでした。
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こちらが丸い墓石の5代藩主・吉川広逵(㉓右側)と4代藩主・吉川広紀(㉔左側)です。
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説明板を紹介します。藩主と言えどもこの時代は長生きする人は少なかったようです。
 吉川広逵 5代藩主
  戒名 涼雲院殿玉顔元鮮大居士
  没年 正徳5年(1715年)6月19日 享年21歳
 吉川広紀 4代藩主
  戒名 普恩院殿前少府郷徳峯祖天大居士
  没年 元禄9年(1696年)7月13日 享年39歳
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10代藩主・吉川経礼(㉕)の四角の墓石を正面から撮りました。藩主の中で四角の墓石が使われていたのは11代・吉川経章と10代藩主・吉川経礼だけでした。
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説明板を紹介します。
 吉川経礼 10代藩主
  戒名 謙光院殿慈雲藤蔭大居士
  没年 天保7年(1836年)11月26日 享年44歳
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上の3人の藩主(㉓㉔㉕)のお墓に正面に建てられていた立派なお墓がありました。10代藩主・吉川経礼の継室(後妻)の成豊院のお墓でした。
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成豊院の説明板を紹介します。すでに㉒の墓として紹介した10代藩主・吉川経礼の正室の墓の円成院は文化10年(1813年)6月11日に亡くなっていて30年の差があることから正室の円成院は若くして亡くなったと推察できます。
 成豊院 10代藩主経礼の継室(後妻)
  戒名 成豊院殿慈観瑟大姉
  没年 天保14年(1843年)7月17日 享年53歳
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上の㉖の成豊院のお墓を見た後は、最も山側(北側)のエリアで最初に訪れたのが8代藩主・吉川経忠の長女のお墓でした。名前は修姫です。
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修姫のお墓の説明板です。
 勝姫 8代藩主経忠の長女
  戒名 真峯知影大童女
  没年 享和2年(1802年)5月18日 享年3歳
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修姫のお墓(㉗)のあたりから見た最も北側(山側)のエリアの写真です。山に登っていく道も写っています。このエリアにも沢山のお墓がありました。その中に3つの大きなお墓がありました。
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山側で3つ大きなお墓の一つです。3代藩主・広嘉の正室の天長院の墓でした。
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3代藩主・広嘉の正室の天長院の説明板を紹介します。19人の成人のお墓で3番目の長寿です。最も長寿なのが86歳の正理院(5代藩主の正室)の86歳で2番目が吉川広正(2代藩主)の66歳です。ちなみに4番目は吉川広嘉(3代藩主)の59歳です。
 天長院 3代藩主広嘉の正室
  戒名 円成院殿妙実日相大叔姉
  没年 元禄10年(1670年)4月12日 享年63歳
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㉙㉚今までに見てきたお墓に比べて比較的小さなお墓がありました。2代藩主・吉川広正の 7男の新八郎と9男の道祖太郎のお墓です。
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説明板を紹介します。7男は満1歳で亡くなり9男は4歳で亡くなったのでした。
 新八郎 2代藩主広正の7男
  戒名 幻漚大童子
  没年 万治2年(1659年)2月22日 享年2歳
 道祖太郎 2代藩主広正の9男
  戒名 自照大童子
  没年 寛文5年(1665年)8月15日 享年5歳
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こちらは吉川元春の正室の慈光院お墓です。吉川元春は岩国藩の藩主の家系となった吉川家の初代当主です。吉川元春の子が初代藩主の吉川広家です。吉川元春は毛利元就の次男で養子となって毛利元春から吉川元春に改名したそうです。
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慈光院のお墓の説明板です。新庄局(しんじょうのつぼね)とも呼ばれています。初代藩主の吉川広家の母になります。
 慈光院 吉川元春の正室
  戒名 慈光院殿玉窓芳珪大姉
  没年 慶長11年(1606年)12月11日 享年 不明
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小さなお墓がありました。今回のお墓の中で唯一の合葬(合祀)のお墓でした。初代藩主と2代藩主の6人の子供たちが埋葬されたものでした。
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説明板に書かれていた6人の子供たちです。初代藩主・広家の3男は享年不明となっていますが幼くして亡くなったものと推察されます。
 初代藩主 広家の 3 男 俗名不明 享年不明
 2代藩主 広正の10女 竹搥姫  享年4歳
 2代藩主 広正の11女 千代松姫 享年4歳
 2代藩主 広正の 4 男 長吉   享年4歳
 2代藩主 広正の 5 男 金三郎  享年2歳
 2代藩主 広正の 6 男 大助   享年2歳
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㉙㉚㉛㉜が並んだ写真です。
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こちらは6代藩主・吉川経永の長女の富姫のお墓です。
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こちらが富姫の説明板です。
 富姫 6代藩主経永の長女
  戒名 本如大童女
  没年 享保9年(1734年)6月13日 享年3歳
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㉞㉟ 最後に紹介する大きなお墓です。石の柵に囲まれた立派なお墓でした。
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説明板を紹介します。4代藩主の正室の蓮得院と6代藩主の正室の瑞蓮院のお墓でした。結局は初代藩主の吉川広家の墓はありませんでした。
 蓮得院 4代藩主 広紀の正室
  戒名 蓮得院殿玉妙諦日観大淑姉
  没年 享保2年(1717年)2月7日 享年47歳
 瑞蓮院 6代藩主 :経永の正室
  戒名 瑞蓮院殿徹底妙心日境大比尼
  没年 明和6年(1769年)5月25日 享年57歳
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㉖の成豊院のお墓を見た後は、㉗~㉟のお墓が建つエリアに移動しました。最も山側のエリアでした。
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上の写真はこちらの案内図の右上端に描かれている階段のところから撮りました。上の写真の左端に写っている横の方向に大きな墓石が5つ並んでいるところが、すでに紹介した㉑⑳⑲⑱㉒(9代藩主 3代藩主 2代藩主の正室 2代藩主 10代藩主の正室)のエリアです。その5つの墓石を除く大きな墓石は上の写真の右側に並ぶ㉘と㉞と㉟でした。しかしながら、いずれも正室のお墓で、藩主のお墓ではありませんでした。
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こちらは階段を上に登って撮った同じエリアの写真です。
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実は階段をさらに登っていくと初代藩主(吉川広家)、6代藩主(吉川経永)、12代藩主(経幹)、13代藩主(吉川経健)の墓があったのです。今回、見たのは地上の墓所は「寺谷のお塔」と呼ばれていて、山の上の墓所は「山のお塔」と「実相院山のお塔」と呼ばれています。山の上には19塔のお墓があるので地上の37塔のお墓と合わせると56塔のお墓が吉川家墓所にあることになります。
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つまり、写真に写っている道を登ると初代藩主(吉川広家)、6代藩主(吉川経永)、12代藩主(経幹)、13代藩主(吉川経健)の墓があったわけで、すべての藩主のお墓を見ることが出来るので機会があれば行ってみたいと思います。山の上の4つの藩主のお墓と今回見た9つの藩主のお墓を合わせると4+9=13となりなり初代から13代の藩主のお墓が吉川家墓所にすべてそろっていることになります。
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クリックすると拡大航空写真では木が多くて「山のお塔」と「実相院山のお塔」の位置が判らないのでネット上の右の地形図から大まかな感じを黄色の枠で書き込んでみました。
感で書き込んだので正確ではないことをお許しください。


吉川家墓所(①~㉟)と錦帯橋と吉香公園との位置関係が判る地図を紹介します。

タグ: 岩国 錦帯橋
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吉香公園のシンボル 城の石垣をイメージした大噴水 [山口県]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前々記事で紹介した武家屋敷/旧目加田家住宅を見た後向かったので吉香公園の中央あたりに作られている噴水です。遠くからは何度か見ていて気になっていたので見に行くことにしました。武家屋敷あたりから噴水方向を撮った写真です。そっそく画面の左半分に写っている大噴水と名前がつけられている場所に向かいました。ここを訪れたのは2021年9月18日でした。実は前日の9月17日に台風14号が近くを通過していました。

これが大噴水です。岩国城の石垣をイメージして作られた大噴水であることはすぐにわかりました。大噴水の前が浅い「ちびっ子プール」になっていました。小さな子供さんを連れた家族の方が沢山来ていたので岩国の人たちの憩いの場所になっているのだと感じました。岩国には米軍基地があるためか外人の子供連れの家族が半分近くを占めていました。
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噴水を出している石垣の面は単純な左右対称ではなく変化を持たせていました。高い噴水は4本なのに対して低い噴水は3本でした。
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近くからだと噴水は高く上がっていて全体が撮れませんでした。
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上の写真と合わせてみてください。城の石垣をイメージした大噴水であることがわかっていただけると思います。
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少し離れて撮った大噴水です。大放射噴水あるいは放射噴水と表現されているサイトもありました。検索エンジンで "吉香公園のシンボル" で検束するとほとんどが大噴水(大放射噴水/放射噴水)の記事でした。→Yahoo Google   
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以前(2020年12月23日)に来た時に大噴水が映り込んだ写真もスライドショーで紹介します。この時に遠くから大噴水を見て、いつか近くで見てみたいと思っていました。
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もう一つ気になる噴水がありました。石がきれいに敷き詰められた噴水です。名前が知りたくてネットで調べてみると夏に人気の噴水でした。結局は名前はわかりませんが子供たちがびしょびしょになりながら遊んでいる写真が沢山掲載されていました。でも今はロープが張られていて中には入らないようです。
おねがい! このなかは すべりやすくあぶないため クリックすると拡大はいらないてください。」と書かれた立看が設置されていました。ネット内の2011年2012年の記事ではロープや立看はなく右の写真のように子供たちが楽しそうに遊んでいました。今は遊べませんが仮の名前として「水遊び噴水」と名付けておきます。
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全体が円形をしていて真ん中が通路になっています。その通路の両側に半円状に石が敷き詰められていて全体が円形をしています。半円状の大きさは左右が違うように作られています。この写真だと左側(南側)の方が大きいです。
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半円状に部分の真ん中に円形状に石が並べなれていて水が真上に向かって噴き出していました。円形状の大きさも南側と北側で違います。北側は小さいな円形が1つですが、南側は大と小の円形で構成されています。この写真の南側なので2つの円形が確認できると思います。
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こちらが北側の半円状の部分です。
噴水パイプの溝が大きくて深いので確かに遊ぶのは危なそうです。クリックすると拡大したがって仮の呼名は「水遊び噴水」から「石畳噴水」にしたほうがよさそうです。さらに検索してみると「ゴロタ噴水」が正式名でした。右の小さな写真が「おねがい! このなかは すべりやすくあぶないため はいらないてください。」と書かれた立看板です。2011年や2012年のネットの写真では噴水パイプの部分は水が沢山入っていて見えない状態でした。
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ゴロタ噴水は吉香公園の別の場所(旧目加田家住宅の南東側に隣接した場所)にもあるようなのでストリートビュー(SV)で紹介したいと思います。画面の左下に例の立看板が見えます。画面の正面にある建物が武家屋敷の旧目加田家住宅で、その右側の高い建物は柏原美術館(岩国美術館)です。このSVは2021年1月にpotaro67さんによって 掲載されたもので、ロープと立看が写っています。2017年9月にCHAN LAM YEUNGさんによって掲載されたSVもありました。→ポチッ


真ん中の通路を進んで噴水の方向に振り返って撮った写真です。遠くに石垣をイメージした大噴水があります。
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モニュメントが2つあったので紹介します。手前が山内壮夫(やまうち たけお)の「和」で、後ろの石の塔のような作品は澄川喜一(すみかわ きいち)の「石の翼」です。
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今回、紹介した噴水とモニュメントの位置をGoogle地図で紹介します。その位置に赤色マーク( )をつけました。


ネットに掲載されていた大噴水のライトアップの動画を紹介します。プレーボタン( )をクリックしていただくと、点灯式(2020年12月18日)の中でライトアップが点灯した瞬間(2分43秒)から紹介します。クリックすると拡大最後まで見ていただくと先頭に戻ります。ちなみに先頭は岩国市の福田良彦市長の挨拶から始まります。右の小さな写真は岩国市公式Webサイト「岩国 旅の架け橋」から転用させていただいた大噴水のライトアップで、クリックするとサイトのオリジナルを表示します。

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川村記念美術館でランチを食べました。 [川村美術館]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2021年11月24日に千葉県佐倉市にある川村記念美術館に行ってきました。午前中は家内が弓道に行っていたこともあり昼から家を出発したので美術館に着いたのは12時50分頃でした。現在は新型コロナのためにオンラインでのチケットの事前購入での予約制なのですが予約は空きあることと美術館に併設されたレストランのベルヴェデーレでランチを食べてから美術館に入ることから、入場時間の予約は受け付けて行うことにしていました。

上で書いているように美術館に着くまではランチを食べてから美術館に入るつもりでしたが、やはり絵画などを見た後にレストランでゆっくりした方がいいという結論になり、美術鑑賞をした後にランチにすることにいたしました。そのため14時20分からの遅いランチとなりました。おかげで写真の最高の場所でランチを食べることが出来ました。昨年来た時は新型コロナのためにお客さんは少なかったのですが、この日はほとんどの席は埋まっていましたが、最初に座ったお客さんが帰り始めたるタイミングだったようです。後ろの席も寸前まで座られていました。
美術館や展示作品などの紹介は記事の最後に掲載したいと思います。
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窓からは紅葉がした景色や噴水のあるきれいな池が見えます。クリックすると拡大こちらの写真はレストランに入る前に撮った写真です。木の下にガチョウがいることがわかってもらえますか。木の下の部分を下の写真から切り取ったのが右の写真です。下の写真をクリックすると特別に大きく(面積で16倍に)拡大するように設定いたしました。
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今回はレストランの外観の写真は撮っていなかったので過去に撮った写真を4秒間隔のスライドショーにしてみました。室内や窓からの景色もスライドショーの最後に入れています。
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空色の部分がレストラン(ベルヴェデーレ)やギフトショップが入った建物です。オレンジ色ラインは前回(2020年10月)に自然園を散策したルートです。レストランでは、今回(2021年11月)も前回(2020年10月)とほぼ同じ場所に座りました。航空写真内のマイナス(-)のアイコンを3回クリックすると美術館との位置関係が判ると思います。


ランチメニューにはランチコース(3400円)と6種類のカジュアルコース(1700円~3100円)があります。我々はカジュアルコースを選びました。カジュアルコースは下で紹介の「パスタ料理 又 は肉魚料理」の前に「前菜盛り合わせ」が付いていて、料理の後に「お飲み物」が付いてコースになっています。「お飲み物」はコーヒーと紅茶とピーチティーの中から選択します。アイスも選択できます。
私はパスタ「アサリとアンティチョークのトマトソース」を頼み、家内はパスタ「桜エビとルッコラのペペロンチーノ」を選択しました。コース以外にアラカルトメニューの中から「今日のカルパッチョ」を二人で1皿とポタージュスープをそれぞれ頼みました。カルパッチョとスープはコース料理の前菜とパスタの間に出してもらうことにしました。前日までに予約すれば平日限定ですが、5000円のシェフのおまかせコースもあります。
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こちらが前菜です。一品一品説明してもらいました。いずれも美味しかったです。一緒に出てきたパンに乗せるとまた違った味わいになりました。棒状のものも美味しくいただきました。
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こちらが出されてきたパンです。形がミニ食パンのようで斬新でした。自家製パンだそうです。
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次にアラカルトで頼んだカルパッチョが出てきました。皿の上に降りかかっているの柑橘類の皮をおろしたものだと思います。レモンの皮だと感じましたが、別の柑橘類かもしれません。
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今日の魚のカルパッチョを拡大いたしました。魚は薄く大きく切ったタイでした。かかっているソースがすばらしかったです。これはなかなか出せない味でした。頼んで大正解でした。
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小皿に取り分けたカルパッチョです。
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アラカルトで注文した今日のスープも美味しかったです。スープの名前は「ジャガイモとトリュフのポタージュ」でした。
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こちらが私が食べた「アサリとアンティチョークのトマトソース」です。クリックすると拡大茹で加減は絶妙で美味しいパスタに仕上がっていました。
アンティチョークの料理を知ったのはイタリアに行った時でした。右の写真の「アンティチュークと牛肉のカルパッチョ」をミラノのレストラン「Ristorante Da Ilia」で食べたのを思い出しました。この時は旬の時で新鮮なアンティチョークをふんだんに使っていました。
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アンティチョークは沢山入っていましたが盛り付けた状態では見えているところは限られていました。アンティチョークが写った部分の拡大写真をし紹介します。アーティチョークは食用アザミの若いつぼみです。和名はチョウセンアザミ(朝鮮薊)で、地中海沿岸原産だそうです。右下の写真はネットから拝借しました。
クリックすると拡大 門  : 被子植物門     Magnoliophyta
 綱  : 双子葉植物綱    Magnoliopsida
 目  : キク目       Asterales
 科  : キク科       Asteraceae
 亜科 : アザミ亜科     Cynareae
 連  : アザミ連      Carduoideae
 属  : チョウセンアザミ属 Cynara
 種  : チョウセンアザミ  C. scolymus
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こちらが「桜エビとルッコラのペペロンチーノ」です。
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こちらも拡大写真を紹介します。桜エビがふんだんに使われていて美味しそうでした。
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最後に紅茶を飲んで自然園の方に出かけました。紅茶が出るとデザートを食べたくなりますが、自然園のテラスで食べるためにデザートを持ってきていたのです。
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テラスに設置してある自動販売機でコーヒーを飲みながらデザートを食べました。テラスを出たところで閉園の放送が流れました。
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最後になりましたが、ランチの前に入った美術館を紹介します。写真は撮れないのでホームページなどのネット画像で紹介したいと思います。
先ずは美術館の建物を航空写真で紹介します。薄紫色( )のエリアが我々が拝観できる部屋で、緑色( )のエリアがそれらをつなぐ連絡通路及びエリアです。


美術館は1階建て建物と2階建の建物で構成されています。レンブラント本図は1階の我々が入れるエリアの配置図です。下の配置図は、美術館の入口にあった案内図を撮った写真から切り取りました。右の写真のレンブラントの絵画は102にあります。
 101 印象派とエコール・ド・パリ
 102 レンブラント 広つば帽を被った男
 103 抽象美術の誕生と展開
 110 日本の1970年代-コレクションから
 104 ダダとシュルレアリスムから
 105 ジョゼフ・コーネルの七つの箱
 106 マーク・ロスコの7枚のシーグラム壁画
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ここからは北側の建物の2階の部屋の作品を紹介したいと思います。こちらが2階の展示室の配置図です。ロスコ・ルームの前の階段を上ると200のトゥオンブリー・ルームの入口の前に出ました。101~200の部屋の展示作品と屋外作品に関しては前回訪問(2020年10月)の記事を参照願います。→ポチッ
 200 トゥオンブリー・ルーム
 201 抽象表現主義からミニマリズムへ
 202 企画展など
 203 企画展など


サイ・トゥオンブリーの作品の部屋(200 トゥオンブリー・ルーム)の次の大きな部屋の201です。川村記念美術館には何度も来ているのですが、初めて見る作品が床に並べられていました。以前はフランク・ステラの部屋と呼べるほど大きなステラの作品が並んでいたのにこの変貌に驚かされました。ステラの作品は1作品だけ見かけました。
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こちらが2020年10月に来た時の201の部屋です。8つのフランク・ステラの作品をはじめに、ジャクソン・ポロック、モーリス・ルイス、中西 夏之(2)、ジョゼフ・アルバース(2)、ブリジット・ライリー、オノサト・トシノブ、アド・ラインハートなどの沢山の作品が並べられていました。
フランク・ステラ(Frank Stella)左端の大きな作品はフランク・ステラのヒラクラ III(1968年)です。その右側に写っている作品も全てステラの作品です。美術館の入口近くに置かれていたモニュメントもフランク・ステラの作品です。つまり川村美術館はステラ作品の宝庫なのです。
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実は201でも企画展の作品が並べられていたのです。今までの企画展は202と203で行われていましたが、広い床を使う作品だったので201も使われたのだと思いました。今回の企画展は「ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960–70年代美術」でした。
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こちらが今回の企画展への出品作品リストの1ページ目です。赤枠が201に展示されていた作品です。作品リストは8ぺージもあり146作品の名前が書かれていました。下の作品リストをクリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。18名の作家が計146の作品を出品していました。ユニークナ作品ばかりで印象に残ったのは小さな写真で紹介しているオープンリール式のテープレコーダーを使ったブルース・ナウマンの「コンラート・フィッシャーのための音に関する6つの問題(Six Sound Problems for Konrad Fischer)」でした。着色された名前をクリックすると作品を表示します。
 カール・アンドレ        Carl Andre
 ダン・フレイヴィン       Dan Flavin
 ソル・ルウィット        Sol LeWitt
 ベルント&ヒラ・ベッヒャー   Bernd and Hilla Becher
 ハンネ・ダルボーフェン     Hanne Darboven
 河原温             On Kawara
 ロバート・ライマン       Robert Ryman
 ゲルハルト・リヒター      Gerhard Richter
 ブリンキー・パレルモ      Blinky Palermo
 ダニエル・ビュレン       Daniel Buren
クリックすると拡大 リチャード・アートシュワーガー Richard Artschwager
 マルセル・ブロータース     Marcel Broodthaers
クリックすると拡大 ローター・バウムガルテン    Lothar Baumgarten
 リチャード・ロング       Richard Long
 スタンリー・ブラウン      Stanlry Brouwn
 ヤン・ディベッツ        Jan Dibbets
 ブルース・ナウマン       Bruce Nauman
 ギルバート&ジョージ      Gilbert & George
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あらためて201の部屋の3つ作品を紹介します。左端の証明のような蛍光灯で作られた作品がダン・フレイヴィン(Dan Flavin)の「無題(タトリンのためのモニュメント)」(9番 1967-70年)で、床に置かれた木で作られた白い作品がソル・ルウィット(Sol LeWitt)の「ストラクチュー(正方形として1,2,3,4,5)」(17番 1978-80年)で、288個の鉛のブロックで作られている作品がカール・アンドレ(Carl Andre)の「雪と結晶/鉛、身体、悲観、歌」(8番 1996年)です。
クリックすると拡大鉛のブロックが右の写真のように四角くかたまっているところに12列X12列=144個ほど集まっていて、散らばっている鉛のブロックも144個で計288個で作品が構成されています。鉛の比重は11.36g/㎤なので10cm角のブロックは11.36kg/個であることから作品の総重量は3.272トン(3272kg)にもなります。鉛の素材費だけでも100万円近くになります。3作品の製作年の前に書いている9番 17番 8番の数字は出品作品リストに書かれている作品番号です。
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上の写真では9番と17番の作品は小さくしか写っていないのでネットから単独の写真を転用させていただきました。
 左 ダン・フレイヴィン 無題(タトリンのためのモニュメント)
 右 ソル・ルウィット  ストラクチュー(正方形として1,2,3,4,5)


美術館のホームページに掲載されていた作品の内から3作品を紹介します。
こちらはギルバート&ジョージ(Gilbert & George)の「アーチの下で(ボックス)」です。119番 1969年
ノルトライン゠ヴェストファーレン州立美術館、デュッセルドルフ


こちらはロバート・ライマン(Robert Ryman)の「ブルー・ライン・ドローイング #2(#69.224)」です。48番 1969年
ノルトライン゠ヴェストファーレン州立美術館、デュッセルドルフ
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こちらはブルース・ナウマン(Bruce Nauman)の「コンラート・フィッシャーのための音に関する6つの問題 (# Z 94)」です。117番 1968年
ノルトライン゠ヴェストファーレン州立美術館、デュッセルドルフ
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広域地図で場所を紹介します。緑のマークが川村記念美術館/ベルヴェーレの場所です。
    美術館         レストラン
 名称 DIC川村記念美術館   ベルヴェデーレ
 住所 千葉県佐倉市坂戸631  同左
 時間 10:30~16:00     10:30~16:00
 電話 050-5541-8600    043-498-0848

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