本場の出石で「出石皿そば」を食べました。正覚田中屋 [出石]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
長男家族との兵庫県の出石訪問記事の続きです。右の写真は長男がもうすぐ一才の時の写真です。この時、結婚してすぐに買った神戸市須磨区の私の自宅に住んでいました。その下の写真は娘(長女)が生まれた時の長男・長女・次男です。長女が生まれて0歳の時に東京に転勤になり今は千葉県に住んでいます。
今回紹介する「出石そば」は上の写真のように沢山の皿に乗せられて出てくるのが特徴です。一人前は5皿に盛られ出てくるのが通常ですが、男性なら10皿程度を食べるのが普通だと思います。このような食べ方が「出石そば」なので、「出石皿そば」と呼ばれています。我々が入ったお店の「出石皿そば」は地元・出石産のそば粉を使った二八そばでした。メニューを見ると皿そば以外のそばは産地や配合に、いろんな使い分けをされていました。出石には沢山の「出石皿そば」のお店ありますが、出来る限り美味しいお店で食べたいと思いました。大行列のお店もあり迷ったので、先に酒蔵に行ってそこで美味しいお店を聞くことにしました。元々、出石で日本酒を買うつもりだったのです。
前記事で紹介した右の写真の出石酒造で「近くで美味しい出石そばのお店を3軒教えてほしい」とお願いして推薦してもらった出石そばのお店が次の3つでした。
正覚田中屋 出石町本町97
官兵衛 出石町八木68
そば庄 出石町鉄砲27-13
出石の町の中でGoogle地図に登録されている出石皿そばのお店の数を数えてみました。見落としはあると思いますが37軒でした。それをプロットしたのが下記のGoogle地図の航空写真です。ネットで検索すると出石町内に40数店あり、出石皿そば協同組合に登録されている店数は39軒(紹介一覧33軒)でした。今森製麺所( )は長男家族が父の日のプレゼントとして出石そばを私に送ってくれたお店で、今回は長男が蕎麦を打つためにそば粉を買いました。
出石皿そば店 そば庄 正覚田中屋 官兵衛
出石酒造 今森製麺所 兼業 or 臨時休業
紹介されたお店は遠くにはないと思いとりあえず蕎麦店を探しながら、数十年前に辰鼓楼をバックにして撮った右の写真と同じ構図の記念写真を撮るために辰鼓楼まで行くことにしました。右側2人が私の両親で、左端が端が私がその右隣りが娘です。その娘も結婚して3月中旬が初出産の予定日です。この写真は家内が撮ってくれているのだと思います。先ずは出石酒造の土蔵の酒蔵の前から辰鼓楼が見える右の写真の位置までの道沿いの景観を紹介したいと思います。
左側が出石酒造の土蔵の酒蔵で、右側が同じ位置から土蔵の向かい側(北側)の景色です。浄土宗の昌念寺が見えます。山号は済船山です。1864年7月に禁門の変で長州が敗れて桂小五郎が京都を逃れて最初に隠れたのが出石の昌念寺だそうです。出石の町の中には桂小五郎居住跡(荒物屋跡)も残されています。SV1 SV2
出石酒造の土蔵の酒蔵と昌念寺の間から進んで行く方向を撮ったのが左の写真で、その道を進んで行って最初の十字路が右の写真です。
右の写真のお寺の名前は高福寺で、浄土真宗本願寺派のお寺です。元々は約650年前に豊岡市奈佐地区矢次山中腹に建立され、その後戦乱等で移転して今の場所に落ち着いたそうです。SV3 SV4
上の写真の右側の十字路の場所から出石城方向を見た写真です。出石城の大手門があった場所から真っすぐに伸びる大手前通りです。大手門があった場所の横に建っている辰鼓楼(しんころう)が見えます。右の写真は左の写真から切り取ったものです。SV5 SV6
辰鼓楼との記念写真を撮る場所に来ましたが、まだ逆光だったために出石皿蕎麦を食べた後に撮りに戻ってくることにしました。そして横を見ると出石酒造で推薦してもらった3軒の蕎麦店(正覚田中屋、官兵衛、そば庄)の中の1軒があったのです。幸いなことに人が並んでいなかったので、迷わずお店に入りました。入ったお店が下の写真の正覚田中屋でした。
店名 正覚田中屋
住所 兵庫県豊岡市出石町本町97
電話 0796-52-2048
創業 1992年4月29日
営業 10:00~17:00(売切れ仕舞い)
夜料理の予約可(事前確認要)
定休 毎週木曜日 第3水曜日 (祝日の時は営業)
お店の前に置かれていた品書きです。品書きに書かれていたのは、出石皿そば、十割蕎麦、とろろ蕎麦、鴨汁蕎麦、おろし蕎麦、すだち蕎麦、で、通品して、厚焼玉子、そばずし、そより・いか....、そば団子、わらび....でした。
お店に入ると興味深い空間がありました。井戸があるようでした。
水が湧き出していました。美味しい水があるからこそ、美味しい蕎麦が作れるのかもしれません。
2階の席に案内されました。左の引き戸から入ってきました。
味は大切ですが、食べる部屋の雰囲気も大切です。そういう意味でもゆったりとした個室だし、いい雰囲気で食べれました。
壁に貼られていた書です。さとる書とありました。店長の田中覚(たなか さとる)さんが書かれたようです。今回対応していただいたのも田中覚さんでした。
生きている
生きているということは 誰かに借りをつくること 生きてゆくということは 借りを返してゆくということ 誰かに借りたら 誰かにかえそう 誰かにそうして貰ったように 誰かにそうしてあげよう さとる 書
食べたのは、店のレイアウト図の「食べた部屋」と書き込んだ部屋で、そこには6人掛けのテーブルが2つ置かれていて入口から奥側のテーブルに座りました。右の写真のテーブルに座りました。レイアウト図と右の写真はホームページから転用させていただきました。
お品書きです。出石皿そば990円、十割蕎麦生古粉1320円、とろろ蕎麦1265円、鴨汁蕎麦1485円、おろし蕎麦1265円、すだち蕎麦1265円で、厚焼玉子850円、かまぼこ550円、そばずし750円、焼き以下いか770円、そば団子(そば茶付)660円
出石皿そばの部分を紹介します。三百年の伝統 出石産(にじゆたか) 石臼挽き粉使用 ◇出石皿そば(五皿) 990円
石臼挽き粉で打った二八そばは黒く そば本来の味と香り・・・ 出石焼の小皿にもり、山芋、卵などの薬味で食すのが特徴。
◇追加一皿につき180円
※オリジナルそば通手形がもらえる条件は 男性 20皿 女性 15皿 小人 10皿
通しで揚げた蕎麦が出てきました。
大人3人の内、帰りに運転しない2人はビールを飲むことにしました。こちらが飲物のメニューです。 日本酒の部分に我々が試飲した3本が書かれていました。出石と言えばやっぱり出石酒造の楽々鶴(ささづる)のようです。我々が試飲した原酒と上撰と純米酒でした。我々は帰ってから飲むのでここでは、やっぱりビールにしました。
やっぱりビールはいいですね。ビールには昆布の佃煮が付いていました。
出石皿そば用の薬味が出てきました。左上から山芋、卵、ネギ、わさび、です。
皿そばが並び始めました。先ずは5皿×5人前を頼んだので25皿を店長の田中覚さん自らが運んでくれました。出石そばの歴史をWikipediaから転用する形で記載させていただくと、江戸時代中期にあたる宝永3年(1706年)に信濃国上田藩から国替えで但馬国出石藩の藩主になった仙石政明(仙石公)が、蕎麦職人を信州から連れてきたことが始まりとそれているそうです。皿そば形式(割り子そばの形態)で食べられるようになったのは幕末の頃で、屋台で供される際に持ち運びが便利な手塩皿(てしょうざら)に蕎麦を盛って提供したことに始まるとされています。現在の「出石皿そば」の形態が確立したのは約65年前の昭和30年代(1955年~1964年)だそうです。
久しく食べていなかった蕎麦寿司もお願いしました。
これが待望の出石皿蕎麦です。
記念写真を撮ってもらいました。いい記念になります。
テーブルの部分を紹介します。使われているお皿やその他の器は全て出石焼です。出石焼は出石町一帯で焼かれる磁器です。厚みがありますが陶器ではなく硬くて丈夫な時期で白色(白磁)が出石焼の特徴で、1784年(天明4年)に伊豆屋弥左衛門が出石郡細見村に土焼の窯を築いたことが始まりとする説が史料の信憑性の高さから一番有力とされていますが、諸説あるそうです。1801年(享和元年)の藩窯開設以降は本格的に生産されるようになったそうです。いずれにしても240年近い歴史のある焼きものです。
蕎麦の乗った皿が2段積みになっているのも特徴の一つだと思います。
お皿ごとに違った絵柄や文字が書かれていて楽しめました。
これを見て頑張って食べる人もいると思います。
20皿食べると990円+180円×15=3690円です。
結局、追加も入れて50皿食べました。長男が20皿食べたので、そば通手形をもらいました。
こちらがいただいたオリジナル通行手形(そば通手形)です。
お店を出てて辰鼓楼を背景に記念写真を撮ろうと思しましたが、まだ逆光が強いので蕎麦粉を買う目的で町を散策した後に記念写真を撮ることにいたしました。
辰鼓楼から離れる方向に歩いて振り返って写真を撮りました。土産物屋さんが沢山ありました。
人が少ないあたりにまで来ました。蕎麦粉を売っているお店は見つかりませんでした。
出石酒造で推薦してもらった「そば庄」もありました。遠くに「皿そば」と書かれているところは「出石そば処 桂」と思われます。
辰鼓楼(しんころう)のところまで帰ってきました。これなら記念写真が撮れそうです。辰鼓楼は1871年に建てられ、当初は太鼓で時を告げていたそうです。10年後の1881年に地元の旧藩医の池口忠恕が大病を患った際に、地元民から御見舞いや全快祝いを受けたことへの御礼として機械式大時計を寄贈し、同年9月8日から時計台として稼働し始めたそうです。同年8月12日には北海道の札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)が稼働していることから日本国内で二番目に古い時計台になります。
やっと記念写真を撮ることが出来ました。
数十年前に撮った右の写真とほぼ同じ場所で撮れたと思います。
辰鼓楼のところが出石城の大手門があったところです。立っているこの道は大手前通りです。
結婚した翌年の雪のころの1月に家内の両親と出石に来た時は「永楽そば」で出石皿そばを食べました。雪を投げている相手は家内のお父さんです。ストリートビュー(SV)を見ると永楽そば(永楽蕎麦)は今も昔のままでした。ただし昔の看板は「永楽皿そば」で今の看板は「永楽そば」です。
店名 永楽そば
住所 兵庫県豊岡市出石町宵田119
電話 0796-52-2540
営業 10:00~15:30
定休 毎週金曜日
SV ポチッ
出石酒造 楽々鶴(ささづる) [出石]
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出石城の次は出石皿そばを食べることですが、その前に夕食用の冷酒を買うために酒蔵に行くことにしました。出石皿そばを食べる前に酒蔵に行くことにした理由は、地元の酒蔵で出石皿そばの推奨するお店の名前を聞くことでした。目指した酒蔵は316年前の宝永5年(1708年)に創業した出石酒造でした。宝永3年(1706年)にお国替え(移封)で信州上田藩の仙石政明(仙谷公)が出石藩の藩主になりましたが、その仙石政明が宝永5年(1708年)に酒の献上を命じたという史実から創業年を宝永5年(1708年)としたそうです。したがってそれ以前から出石酒造はあったことになります。当時の酒蔵の名前は「かずかや門垣屋」だったそうです。
仙石政明は仙石氏の4代当主で出石藩の11代目の藩主になります。上の写真の左側の敷地はすべて出石酒造です。
この航空写真の下方向(南方向)にある出石城から出石のシンボルの辰鼓楼( )の横を通って本町通りのところを右に曲がって3/4程度少し進んだところが上の写真の場所です。緑色に着色したエリアが出石酒造の敷地だと思われます。右は辰鼓楼での昔の記念写真と昔に買った出石焼の写真です。
辰鼓楼 明治初期(1881年)の時計台
出石酒造
正覚田中屋 出石皿そば
虹洋陶苑 出石焼窯元
土産物店街+家老屋敷
━ 散策ルート
突き当りを左に曲がると出石酒造の販売場所の入口です。左側の敷地が全て出石酒造です。
上の写真の突き当りを左に曲がってすぐの景色です。左側の建物が全て出石酒造です。販売場所のところに楽々鶴と書かれています。
入口に近づきました。
ここが入口です。
名前 出石酒造(有)
住所 兵庫県豊岡市出石町魚屋114-1
電話 0796-52-2222
営業 9:30〜18:30
定休 不定休
創業 宝永5年(1708年)
のれんの正面から撮りました。
出石酒造から850mの距離にある石部神社(豊岡市出石町下谷62)の総代をされているようです。Wikipediaによると石部神社の創建は不詳ですが、社伝では坪井村(現:出石町坪井)に鎮座していて、文禄4年(1595年)には毘沙門町の丘上に遷座、寛永3年11月に現在地に遷座したと伝えられている歴史のある神社です。
大きな釜が印象的でした。酒米を蒸すための釜でしょうか。
酒の入れ物が並べられていました。
さっそく冷酒を3本買いました。中易酒造と書かれたのれんも印象的でした。中易(なかやす)は出石酒造の社長(14代目/中易裕明)の名前で、中易酒店は今でもあって楽々鶴を売っているそうです。
出石酒造さんの推薦出石そば店は→ 正覚田中屋 官兵衛 そば庄 でした。
この3種類を試飲させてもらって上撰1本と上撰原酒2本を買いました。上撰原酒の1本は私の自宅に持ち帰り、残りの上撰1本と上撰原酒1本は長男宅用でした。
出石酒造はこの赤色の土壁づくりの酒蔵が有名です。270年程前に造られたとされているそうです。
土壁の酒蔵の写真をもう1枚紹介します。明治9年の出石大火で出石城下町の7割が火に飲まれ、こちらでも母屋などは焼け落ちたけれど、この土壁の酒蔵の一部は無事だったそうです。この土壁の酒蔵のおかげで酒造りが今に残ったのかもしれません。記録に残っている出石の大火は下記の通りです。
1823年5月15日 裏町大火 全焼269戸
1866年3月20日 初午大火 全焼68戸
1876年3月26日 出石大火 全焼966戸、半焼5戸、焼死5人、負傷14人
1926年6月22日 寺町の火災
1929年6月08日 寺町の火災
途中で夕食のベニズワイガニ(香住ガニ)や魚を買って、長男宅に着いてすぐに冷蔵庫に入れて冷やしました。夕食の前にみんなで「よふど温泉」に行き戻ってから、夕食の準備をしたのでお酒はよく冷えていました。
やっぱり美味しかったです。お酒の銘柄が楽々鶴(ささづる)になったのは、城崎温泉の近くに楽々浦(ささうら)という地名があり、出石城の藩主の仙谷公の別荘の名前が楽々園(らくらくえん)で、お酒のことを楽々(ささ)と呼ぶことから、これらをかけて楽々鶴(ささづる)となったそうです。Wkipediaには酒を意味する「笹の露」と仙谷公の別荘「楽々園」に由来していると書かれていました。
自宅で飲んだ時の写真を紹介します。この時はタラ鍋でした。
美味しくいただきました。日本酒はやっぱり鍋料理にぴったりでした。
新幹線からの富士山 2月9日(東京→大阪)と2月10日(大阪→東京) [日本]
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2024年2月9日に1泊で関西に行きました。早朝移動のため、自由席特急券を事前に買っていたので、船橋から乘った快速が品川に6時23分に着いて最初の新幹線に乗りました。富士山を見ようと富士山側の2人席に座って最初に撮ったのが上の写真です。新幹線が富士市に入って最初に見え始めた瞬間の富士山です。空は薄曇りで、部分的に雲がかかった富士山でした。越前岳(愛鷹山系)の斜面から富士山が見え始めた時の写真です。時刻は7時16分04秒でした。
日本製紙の富士工場がある辺りの富士山です。富士山全体がよく見える場所です。気温が低いので煙突からの水蒸気は白く目立っています。撮影位置は昨年4月に掲載した記事「新幹線からの富士山」を見ていただくと判ると思います。上の写真の40秒後の7時16分46秒の写真です。
富士山の前にかかっている雲の形は刻々と変わっていきました。上の写真の1分40秒後の7時18分26秒の写真です。今回の記事の富士山の写真はクリックすると全て面積で16倍に拡大いたします。
上の写真の1分4秒後の7時19分30秒の写真です。短時間の間に見ている角度が変わるのが新幹線からの富士山です。
翌日の2月10日に関西から帰りの新幹線からの富士山の写真も紹介します。時間帯が昼であることも富士山はきれいに見えました。富士川を渡っている時の写真です。時刻は13時55分21秒でした。SV1 SV2
上の写真の4秒後の13時55分25秒の写真です。
上の写真の24秒後の13時55分49秒の写真です。
上の写真の48秒後の13時56分37秒の写真です。
上の写真の38秒後の13時57分15秒の写真です。
上の写真の11秒後の13時57分26秒の写真です。
上の写真の22秒後の13時57分48秒の写真です。越前岳の斜面に富士山が隠れつつある時の写真です。
越前岳はwikipediaから転用させていただいた右の写真の愛鷹山(あしたかやま)の最高峰(1504.2m)で火山だそうです。愛鷹山(別の呼び方である愛鷹山系)には北から黒岳(1087m)、前岳(1336m)、大岳(1262m)、鋸岳(1296m)、袴腰岳(1248m)、越前岳(1504.2m)、呼子岳(1310m)、愛鷹山(1187.5m)、位牌岳(1458m)があるそうです。
越前岳の西の斜面に富士山が隠れてた後、越前岳の東から富士山が出てきた時の写真です。上の写真の3分48秒後の14時01分46秒でした。
今回の11日前の2024年1月28日にも1泊で関西に行き、往復共に富士山側の2人席に座りましたが、2日間ともに雲が多く、1月28日の朝は富士山は完全に雲に覆われていて、1月29日は下の写真のように富士山の裾野が見える程度でした。時刻は15時30分38秒でした。右の写真は下の写真の2分23秒後の15時33分01秒で越前岳の斜面に富士山が隠れつつある時の写真です。
Wikipediaやネットに掲載されていた富士山の構造図を紹介します。富士山は最近10万年で急に大きくなったと考えられていることから「若い火山」に分類されているそうです。愛鷹火山(愛鷹山)の最高峰が越前岳です。下段の方は約数十万年前と約十万年前と約一万年前の3枚の図を切り替えて表示しています。
新富士火山 約1万年前から噴火開始
古富士火山 約10万年前~約1万年前に噴火
小御岳火山 約70万年前から活動
愛鷹火山 約40万年前~約10万年前に噴火
周辺火山 数百年前から活動
江戸時代の「出石城」 と 安土桃山時代の「有子山城」 [出石]
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前記事で紹介したように長男の家に訪問した後、みんなで最初に行ったのが出石城でした。上の写真の場所が出石城の御殿が建っていた本丸です。城の本丸と言えば普通は天守閣が建てられますが、出石城には天守閣は建てられなく広い御殿が建っていたそうです。上の写真の左端の建物が復元された本丸の東隅櫓で左端の石垣の上が稲荷曲輪で神社が建っています。最初に見た時は稲荷曲輪が本丸で天守閣が建っていたのだと思いました。右下の写真が復元された本丸の西隅櫓です。今回紹介する出石城は、標高321mの有子山山頂に天守のあった安土桃山時代の防御のための山城の有子山城の麓の居館と郭を改築する方法で造られた平和な江戸時代(1603年~1868年)の城です。
名称 出石城 別名:高城
城郭構造 梯郭式平山城
天守 建設されず
築城主 小出吉英
築城年 1604年
時代 江戸時代
廃城年 1871年
主な城主 小出氏、松平忠周、仙石氏
遺構 櫓、石垣、堀
住所 兵庫県豊岡市出石町内町
それでは順番に紹介していきたいと思います。福知山線と山陰本線を乗り継いで、長男の家の最寄駅に着いた後、迎えに来てくれた車で一旦長男の家に行って全員で出石城を目指しました。目的地の出石に近づいて来て出石の文字が増えてきました。
この有子橋の前の駐車場に車を停めて出石城を目指しました。この道からも出石城には登れますが、登城橋を渡ったところにある登城門から登りました。
駐車場の辺りから見た登城門と橋です。
門の正面まで来ました。橋には登城橋と名前が付けられていました。
こちらが登城門です。江戸期には石垣の中の下の部分がトンネルになった形式の埋門(うずみもん)でした。
上の写真の登城門は沢山の人の寄付で作られたようです。500人近い人が寄付をされていて、最も高額の寄付は300万円です。
長男の子供たちが案内してくれました。
昔の絵図に登城門のあたりに黄色の矢印を書き込みました。本丸や曲輪なども赤色文字を書き込んでみました。車を停めた辺りは昔は三の丸だったことになります。上方向が南です。
ネットにあった想像図にも赤色文字で本丸や曲輪など書き込んでみました。こちらも山頂方向(右上方向)が南です。出石城は山頂に天守のあった有子山城の麓にあった居館と郭(但馬守護所)のみを改築して出石城とし、山頂部分を廃城(江戸幕府に届出)にして出来たものでした。出石城の築城年も有子山城の廃城年も同じ1604年(慶長9年)なのです。江戸幕府(1603~1867年)が出来た翌年のことでした。登城門は下曲輪の文字の右側で三の丸から下曲輪に上がるところです。
有子山城:1574年~1604年 出石城:1604年~1871年
登城門から二の丸に上っていく登り坂です。進んで行く方が南側なので逆光の写真になっています。
こちらは本丸の西北隅に建てられた西隅櫓(にしすみやぐら)です。1968年に東隅櫓(ひがしすみやぐら)と共に復元(模擬復元)されました。
ここを上ると二の丸です。
ここが二の丸です。赤い鳥居が並んだところを登ると本丸です。
二の丸から見た出石の町です。出石の町のシンボルの辰鼓楼が見えます。辰鼓楼の楼閣本体は1871年6月1日に完成し、辰の刻の城主登城を知らせる太鼓を叩く楼閣であったそうです。その後、地元の医師が機械式大時計を寄贈し1881年9月8日に時計台として稼働し始めたそうです。同年1881年8月12日には北海道の札幌市時計台が27日早く稼働していることから、僅か27日差で日本で2番目に古い時計台となったそうです。
この道が本丸に上る道です。稲荷曲輪まで真直ぐに伸びています。一番上から有子山城への登山道になっています。
ここが本丸です。当時は、塀の内側に大きな御殿が建てられていました。奥に建っているのは復元された西隅櫓です。
本丸である石碑も立てられていました。
石が置かれている辺りは庭園があったと思われます。左の柵の皿に左側には池がありました。
こちらが本丸御殿の絵図です。
左端に池がある庭園がありますが、上の写真の石が置かれている辺りです。二の丸と本丸とはかなりの高低差がありますが、二の丸の建物(役所)と本丸の御殿は渡り廊下でつながっていたそうです。下の絵図をクリックすると右の絵図のように、二の丸も含めた大きな絵図を表示します。この絵図は特別公開されていた西隅櫓(にしすみやぐら)の中に展示されていました。
上の絵図の中の左端の池が、この池の場所になります。
後ろの石垣の上が、本丸の上にある稲荷曲輪です。ネットでは出石城の標高は54m(比高40m)と書かれています。標高54mは本丸の標高なのか稲荷曲輪の標高なのかは見つけられていません。稲荷曲輪の石垣の高さは但馬地域の城の石垣として最大級の高さの13.5mとの記載があることから、類推できる標高は下記のようになります。写真で見る限り二の丸と本丸の標高差は26mもあるように見えない(10m前後に見える)ので稲荷曲輪の標高が54mのように感じます。
麓 標高14m(=54m-40m)
辰鼓楼の前 標高14m(Googleマップ)
二の丸 標高28m(Googleマップ)
本丸 標高40.5m or 標高54m
稲荷曲輪 標高54m or 標高67.5m
こちらが東隅櫓です。
こちらが西隅櫓です。
西隅櫓と東隅櫓は姫路城に関わりのある姫路の職人によって建てられたと書かれていました。
本丸の中にあった神社です。奉納と書かれた幟には仙石科野御神木奉納と書かれていました。この社殿は感応殿と言うそうです。横に感応殿の由来の説明板があったので内容を枠内に転記いたしました。
感応殿(かんのうでん)この社殿は、感応殿といい、出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っています。公は美濃(岐阜県)の人で、豊臣秀吉に仕えて功があり洲本、高松の城主となり一時勘気を受けて浪人しましたが、小田原攻めで奮戦し小諸城主に返り咲きました。その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捕らえた豪傑として伝説化されています。仙石氏は、公のあと子の忠政が信州上田に移り玄孫政明が宝永三年(一七〇六)に出石に移封されて五万八千石を領し以来廃藩まで七代百六十三年間続きました。明治に入って旧家臣らによって本丸跡に公を祀る感応殿が建立され今日に至っています。以後町の人々は本丸を権兵衛さんと愛称をもって呼び、例祭は五月の祥月命日に行われています。仙石科野大宮社御神木奉賛会
普段は、西隅櫓は非公開ですが、特別公開されていたので入ってみました。
西隅櫓の内部を紹介します。
格子の間から見える景色です。
西隅櫓の別の格子の間から撮った出石の町です。
2階に上がってみました。
2階に上る階段です。
太い木が使われていました。
ここでも長男家族の記念写真を撮りました。
西隅櫓の中には貴重な絵図や説明がありました。上で紹介した本丸と二の丸の御殿の絵図は左上のものです。説明内容を紹介します。
稲荷曲輪
稲荷曲輪は高さ13.5mという但馬地域でも最大級の高さを誇る石垣の上にあります。出石城築城当初から今の場所に鎮座していたと伝わり、現在の社殿は江戸時代後期に建設されたものです。
本丸
本丸にはかつては御殿があり、城主の生活の場として使われていました。かつては西側には多門櫓、東側に隅櫓が備え付けられていて、本丸庭園も現在残る庭園の倍の大きさがありました。
現在は仙石氏の祖である仙石護兵衛秀久をまつる観応伝や姫路城の改修工事を手掛けている大工により復元された模擬建築東西隅櫓があります。
二の丸
二の丸は政治を執り行う役所が建てられていました。江戸時代には西に二層の隅櫓、東に一層の隅櫓が立っていました。二の丸下の曲輪とは枡形虎口で結ばれており今もその跡が残っています。かつては本丸と二の丸を結ぶ渡り廊下のようなものが存在しており、現在でも石垣に当時の面影を見ることができます。
西の曲輪
西の曲輪には1815年に仙石久道が自分の隠居所を建設した西御殿が存在していました。また、ここでは久道の趣味でコウノトリが飼われていたそうです。
山里丸
山田丸の石垣は城内で最も新しい年代のものであるといわれており、江戸時代にはおもてなしの場として利用されていたと考えられています。今は何もありませんが、かつてこの場所には小さな動物園があったそうです。
三の丸
三の丸には上級武士の屋敷などが立っていました。また、松平氏以降は現在の振興局が立っている場所に御対面所が建てられ本丸と二の丸の機能がすべてここに移されました。現在でも江戸時代の遺構として辰鼓楼の場所にある大手門の石垣跡や内堀、家老屋敷や西門跡の石垣などを見ることができます。
西隅櫓を出たところからの本丸の景色です。左端に移っている東隅櫓のところから、右方向に稲荷曲輪に上がる階段があります。
これが稲荷曲輪(稲荷郭/稲荷丸)に上がれる階段です。稲荷曲輪に上がってみることにしました。この鳥居の道を上がりきると稲荷曲輪です。城の麓から数えると鳥居は37基並び、石段は157段だそうです。
階段を登り切って稲荷曲輪方向を見ると神社がありました。
こちらが有子山稲荷神社(別銘:城山稲荷)の本殿です。創建は出石城と同じ1604年です。城郭内にありながら、江戸時代から身分を問わず参詣が許可されていたそうです。 主祭神は稲荷神です。狛狐が印象的です。狐は神の使いだそうです。
狛狐には1円が沢山乗せられていました。
稲荷曲輪の真中にある井戸は印象的でした。
井戸のアップです。有子山城の時代のものか、出石城の時代のものかによって用途(有事の備え 生活のため等)が変わってきますが、今のところ井戸がいつの時代に作られたのかはネットで見つけられていません。かなりの深さがあるように感じましたが、右の写真のように深いところは暗くて底は見えませんでした。
稲荷曲輪から見た本丸です。こちらは東隅櫓側です。
西隅櫓側の本丸です。
麓からの157段の石段を登りきったころには恵方稲荷が祀られていました。
そこには有子山への登山口です。木に隠れた石柱には「史跡 有子山城跡」と書かれています。
麓までは157段の石段を真直ぐに下りることにしました。37基の鳥居も全て潜ることになります。
石段の麓に近いところに稲荷神社の拝殿がありました。上まで登るのが難しい人のために作られたのかもしれません。
拝殿のすぐ下に出石城の説明板がありました。
出発地点の車の近くの鳥居のところまで降りて記念写真を撮りました。
黄色のラインが散策ルートです。上で紹介した昔の出石城の絵図や想像図は上方向が南でしたが、この航空写真は上方向が北になります。
ここまでに書いているように出石城と有子山城は大きなつながりがあるので有子山城を少し紹介します。
こちらすでに上の方で紹介した写真ですが、こちらが有子山への登山口です。木に隠れた石柱には「史跡 有子山城跡」と書かれています。
有子山城の説明板です。内容を枠内に転記する形で紹介します。
国指定文化財 山名氏城跡(有子山城跡) 平成8年11月13日指定城史
この城は天正2年(1574)、山名祐豊がそれまで本城であった此隅山城にかわって築城しました。その名は落城した「子盗」(此隅)の名前を嫌って「有子」と命名したといわれています。しかし、わずか6年後の天正8年(1580)、天下統一をねらう織田軍によって城は陥落、城主は因幡へと逃亡し山名氏による但馬支配は終わりました。その後、織田系の大名が城主となりましたが、江戸時代にはふもとに出石城が築かれ廃城となりました。
現状
標高321mの有子山山頂には主郭があり、その西側には5段の曲輪が階段状に築かれています。また、主郭の南東には千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。石垣は織田軍の大名によって作られたもので、中世城郭が近世城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく残しています。
山名氏
山名氏は室町幕府において侍所の長官に任じられた、有力な大名の一人です。最盛期には全国66か国のうち11国を守護として領国支配をしていたことから「六文の一衆」と呼ばれ、後の応仁の乱では西軍の総大将として参戦しました。但馬では、南北朝時代から戦国時代までの約200年間、一貫して山名氏が守護の地位にありました。この山名氏の最後の本城が有子山城です。豊岡市教育委員会
上の説明板の地形図部分に赤色文字を書き込みました。地形図をクリックすると全体を表示します。右のSVは有子山全景です。安土桃山時代は1573年~1603年であることから、まさに安土桃山時代の山城であったと言えると思います。
城名 有子山城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 不明
築城主 山名祐豊
築城年 1574年(天正2年)
時代 安土桃山時代
廃城年 1604年(慶長9年)
主な城主 山名氏、前野長康、小出氏
遺構 石垣、曲輪、堀切、竪堀、土橋
文化財 国の史跡
住所 兵庫県豊岡市出石町伊木1
説明板の中に掲載されていた地形図への赤色文字の記入はタクジローの日本全国お城めぐりやこにるのお城訪問記を参考にさせていただきました。
有子山城の主郭あたりの航空写真も紹介します。
有子山城の主郭からのストリートビュー(SV)を紹介します。
有子山の等高線の入ったGoogle地図を紹介します。クリックするとオリジナルを表示します。
福知山線(宝塚駅→福知山駅) 山陰本線(福知山駅→某駅) [出石]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
━ 電車マークのない部分の福知山線(宝塚~大阪)と山陰本線(福知山~京都)
━ 播但線(和田山~姫路)と加古川線(谷川~加古川)と舞鶴線(綾部~東舞鶴)
宝塚駅(出発駅) 福知山駅(乗換駅) 2005年脱線事故
出石城 竹田城 城(城跡) 駅
関西に勤めていた長男夫婦2人は2014年3月に北海道に転勤になり、子どもたちが生まれて、家族4人なって、2022年3月に北海道から兵庫県の日本海に近い場所に転勤になりました。長男家族は車で実家の宝塚に簡単に来れることから、お盆や正月や私の母の誕生日に実家で会えることから、今まで長男家族が住んでいる兵庫県の日本海に近い場所の家に訪問したがありませんでした。そこで関西から関東の家に帰る時に、長男家族の家に寄ってから下のスケジュールで関東の自宅に帰りました。宝塚駅~福知山駅が福知山線で、福知山駅~某駅までが山陰本線です。最近、注目されるようになった竹田城(SV 標高353.7m)も長男の家の近くにありました。この航空写真の中だけで約80の城跡(城)があります。沢山の数を感じていただきたいので城跡に城の絵( )を書き込んでみました。
1日目 実家→宝塚駅→福知山駅→某駅→出石城(出石蕎麦など)→長男の家
2日目 長男の家→某駅→福知山駅→京都駅→品川駅→自宅の最寄駅→自宅
こちらが出発地点の宝塚駅です。実家の最寄駅の逆瀬川から阪急に乘ってきました。表示板の一番上の福知山行6時24分発の普通電車に乗りました。写真に写っている橙色のスーツケースが私のスーツケースです。
こちらの電車が福知山行の普通電車です。福知山に行ける1番電車です。
宝塚駅から3つ目の武田尾駅の直前の写真です。武田尾駅のホームの一部は武庫川の上まで伸びていて、そのホームが写真に写っています。川に架かっている橋は水道管(水道橋)です。
こちらは新三田駅に停まっている時に撮った写真です。ドアの上の電光表示部分にShin-Sanda(G62)と表示されているで分かっていただけると思います。
福知山線沿いには渓流が流れているところが沢山あります。
福知山線は大阪駅から篠山口駅までは複線ですが、篠山口駅からは単線になります。篠山口駅から2つ目の下滝駅です。つまり単線区間に入っているのです。
福知山線単線区間の動画を楽しんでください。
こちらは加古川線との接続駅の谷川駅です。見えている列車は加古川線を走る列車です。
見えている線るが加古川線です。上の写真の谷川駅では福知山線も加古川線も進行方向は西方向ですが、別れた後、福知山線は北東方向に、加古川線は南西方向に向いて離れていきます。
こちらは谷川駅から3つ目の黒井駅です。黒井駅は上りの列車と下りの列車のすれ違い駅です。
すれ違い駅で長く停まっているのでホームに出てみることにしました。「あける」のボタンを押すとドアが開きます。
ホームに降りて私が乗っている電車の写真を撮りました。
黒井駅での特急とのすれ違いの動画も取りました。最初は我々の列車が黒井駅に止まるところで、次がすれ違い列車が入ってくるところで、最後は我々の列車が出発するところです。
まだ霧が続いていました。おそらく竹田城から見える雲海は、このような霧が低いところに溜まることで出来るのだと感じました。
福知山駅に着きました。まだ通学通勤の時間帯でした。8時54分発の普通電車に乗り換えます。特急でも行けるのですが、時間差5分だけで、短い距離で特急料金を払うのはもったいないので普通電車で行くことにしました。
乗換までに時間があったので改札口の階に下りて写真を撮りました。
山陰本線下り 8時29分 2番線 東舞鶴 普通
山陰本線下り 8時38分 1番線 京都 特急きのさき8号
山陰本線下り 8時53分 1番線 園部 普通
山陰本線上り 8時49分 3番線 城崎温泉 特急きのさき1号
山陰本線上り 8時54分 4番線 豊岡 普通 私が乘った列車
福知山線上り 8時40分 2番線 新大阪 特急こうのとり8号
福知山線上り 9時01分 5番線 篠山口 普通
右側のホームが1番線と2番線で、私の橙色のスーツケースが起これているのが3番線と4番線用のホームて線路を挟んで左側にあるホームが5番線用です。
福知山駅で撮った動画も紹介します。
私が宝塚から乘ってきた列車が回送列車として出ていく場面と普通電車と特急電車が出発する場面を紹介しています。
こちらは新大阪行きの特急こうのとり8号で、私の乗った普通電車が走ってきた福知山線に入っていきます。
私が乗る8時54分発の豊岡行の普通電車が来ました。
さっそく乗り込んでセルフタイマーで記念写真を撮りました。
電車に乗ってから気が付いたのですが、福知山駅前広場に蒸気機関車が展示されていました。場所は福知山駅南口公園にある転車台の上です。
ストリートビュー(SV)でも転車台を紹介します。蒸気機関車はC11です。C11は1932年~1947年に381両製造されたそうです。このC11には「C11 40」と書かれていることから1933年に製造された21台の中の1両です。これは2次形(C11 24~140)と呼ばれている機種で、アーチ管が取付けられ、1次形では第2缶胴上にあった砂箱と蒸気ドームの位置が互いに入れ替わったそうです。これは、下り勾配で缶水が前方に偏った場合に、蒸気ドーム内に缶水が入る恐れがあったための対策として行われたそうです。
山陰本線に入りました。古い立派な家が沢山ありました。昔、城下町だった名残なのかもしれません。
山陰本線の動画も紹介します。下夜久野駅と上夜久野駅の間から上夜久野駅に到着するまでの動画です。
上夜久野駅の次の駅の梁瀬駅の近くには銘酒「竹泉」を作っている酒蔵(田治米合名会社)がありました。→SV1 SV2
実家に長男家族が来てくれる時は、ここで日本酒を買って持ってきてくれます。今年の正月も右の写真のように、ここの冷酒を持ってきてくれました。
さらに先の和田山駅からは姫路につながっている播但線が出ています。
こちらが昨年の正月に持ってきてくれた冷酒です。
元禄15年創業の蔵元で、いろいろ試飲して選んだお酒「純米吟醸雄町」を樽口から直接入れてもらう槽口直詰の冷酒を持ってきてくれました。下の写真のように簡単なラベルを張り付けてくれるのです。他は何も貼られていません。このお酒がちょっと不思議な味わいの美味しいので、話が盛り上がりました。お酒の名前の雄町は使われているお米の名前で、その米の雄町は1859年(安政6年)に備前国上道郡高島村字雄町(現:岡山市中区雄町)の農家が発見した酒造好適米だそうです。
蔵元 田治米合名会社
住所 兵庫県朝来市山東町矢名瀬町545
電話 079-676-2033
お米 兵庫県和田山産 雄町100%
長男家族と待ち合せた駅に着くと長男が車で迎えに来てもらっていて、一旦は長男の家まで行って全員が車に乗って出石城のある出石に向かいました。
次の記事では下記の写真の出石城を詳しく紹介したいと思います。