ムサシの朝の散歩の走る姿が撮れました。2016年9月30日 [むさし]
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初めての「家もんじゃ」の記事で報告させていただいた通り、2016年9月3日に病院に連れていくほどの痙攣を起こして2週間近くゆっくりとしか歩けない状態が続きました。そしてやっと私の前で走ってくれたのが15日目の9月18日でしたがカメラを持っていなかったので紹介できませんでした。9月21日から9月27日まで関西に行っていて動画を撮ることが出来なかったのですが、やっと今日9月30日の朝の散歩で6時40分に動画を撮ることが出来たので掲載いたしました。帰宅した9月27日の夕方の散歩でも走ってくれたのですが不覚にもカメラを忘れたので報告が今日となりました。
元々、毎日走るわけではないので散歩に出発するときの雰囲気でカメラを持って行くかどうかを決めますが、9月27日は意表を突かれました。
ここ数ケ月での、平均的には走るのは週に2回程度ですが、0回/週の時もあれば、4~5回/週も走る時もあります。
ムサシが家を間違えそうになって一度走るのをやめますが、再度走り始めて家まで戻るので少しだけ動画が途切れます。
上は走っている姿ですが、比較のために歩いている時の動画も紹介します。これよりもゆっくり歩くときもあり、速く歩くときもあります。ゆっくり歩いていますが最後に走り出すので是非とも見ていてください。上の動画は、この動画の最後の部分と、家の前で撮ったものを合わせてものです。
あらためてムサシを紹介します。
名前 むさし
犬種 ビーグル 雄
誕生日 2000年4月4日
生まれ 神奈川県 日本大学 獣医学部
年齢 16歳5ケ月26日(9月30日時点)
記念日 2000年5月28日(家族となった日)
下の写真は2016年9月14日の夕食で生まれて初めて、家でもんじゃ焼きを作りっている時に掲載したムサシがテーブルを覗き込んでいる写真です。
オリジナル記事→ポチッ
ムサシは頸椎系が若い時から弱くて、時々ですが足が不自由になることがあったのです。9月3日は私はゴルフで、家内は弓道で家を長時間開けたのですが、その時に足が動かなくなったようです。我々がいないときに動けなくなったことで、精神的なショックでテンカン症状に発展したようでした。家内が家に戻った時は、玄関のたたきで、完全に動けず、横たわっている状態でした。テンカン症状は我々がいる時に一度経験しているので、精神を安定させる座薬を持っていたのですぐに処置したそうですが、もうだめだと思えるほどの症状だったそうです。私が家に戻って来て車で病院に連れていき、抱っこして病院に入るほどの状態でした。今まで抱っこして病院に入ったことは初めてでした。
2016年10月2日の朝の散歩も走ってくれました。この日は、いつもより長いコースを歩いて、散歩中に3回も走ってくれたので3つ動画を1本に編集して掲載いたしました。
丁度16歳6ケ月(16歳半)となった2016年10月4日の朝の散歩でも走ってくれました。前日の10月3日も走ってくれたので10月2日から連続3日走ってくれたことになります。9月3日の痙攣の後遺症は無くなったようです。
2016年10月5日の朝の散歩でも走ってくれたので動画を追加します。これで4日連続で走ってくれたことになります。
2016年10月7日の朝の散歩でも走ってくれたので動画を追加します。
プレーボタン( ► )をクリックすると最初に食卓に前足を乗せておやつをねだる姿が出ます。
こちらは2016年10月12日の朝の散歩です。
2016年10月13日の朝の散歩でも走りました。途中で進む方向を一瞬迷ったところが動画に入っています。10月16日の夕方の散歩でも軽めですが駆け足で走りました。
こちらの動画は2016年10月18日の朝の散歩です。ほぼ同じ場所から走り始めますが途中で寄り道で止まって、また走り始めました。
2016年10月20日は勢い余って曲がり角で、こけてしまいました。ショックだった様子でしたが、気取り直して最後は走ってくれました。10月21日の朝の散歩でも走りましたが、前日の経験のためか、最初は慎重に駆け足程度でしたが、最後は全力で走っていました。さらに10月22日と23日も走りました。平均より多い回数です。
ヴェルサイユ宮殿の大時計 [ヴェルサイユ宮殿]
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ヴェルサイユ宮殿の建物を外から見て一番気になるのが、建物の中央、王の寝室の真上にある大時計です。今回は、その大時計の写真を紹介したいと思います。2階の中央の3つ窓の部屋が王の寝室です。地面で少し高くなっている部分は「大理石の中庭」と呼ばれているところです。
王の寝室より上の部分を拡大いたしました。
3階より上の部分を拡大いたしのした。
大時計の周囲は石像で飾られていました。左右の像は神話に出てくる神なのでしょう。時間は丁度、11時でした。
大時計を一番拡大した写真です。青空と黄金の太陽をモチーフとした時計です。フランスの王室によって時計が格段に進歩したそうです。確かに展示されていた懐中時計や置時計はすばらしかったです。この大時計も、その時代の最先端の技術が駆使されたのだと思います。
王の寝室の前の欄干が見事なので拡大してみました。
周囲の屋根の部分の金の装飾が見事なので2枚の写真で紹介します。こちらは「大理石の中庭」から見て左側コーナーの部分です。
こちらは右側コーナーの部分です。
九州で活きアジにフグ刺し [九州]
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九州に行った帰りのフライトは北九州空港を20時25分の遅いフライトにしました。目的は新鮮な地場の魚を食べてみたかったからです。空港に近い苅田の町で食べるつもりでしたが、福岡に長くいる人でも、あのあたりはお店はないと言われてしまいました。確かに駅前を探しましたが見当たりませんでした。地元の人に聞いた結果、一軒あることがわかったため、さっそく電話をいたしました。電話の目的は道を聞くことと、まだ16時だったのでお店に行ってもいいかどうか確認するためでした。電話して料理長に確認してもらった結果、快く受け入れてもらいました。
料理は寿司コースにしてお造りやテッサや穴子の白焼きの3品を追加する形式にさせてもらいました。お造りのネタは平目、鯛、カンパチ、アジ、マグロ、サザエで平凡に思えますが、鮮度のよさに驚かされてしまいます。特にここは佐賀関に近いので関サバや関アジが有名な場所のため、大きな活きアジは、ほんと美味しかったです。料理の写真に関してはクリックすると全て拡大したものを表示するので興味があるものは見てください。
電話してすぐにお店について店員の方がまだ来られていなかったので2階の座敷が準備が出来るまで1階のテーブル席でビールを飲ませてもらうことにしました。少しビールを飲んだ段階で2階に案内してもらえました。ビールのジョッキは入れた瞬間にビールが凍るほど冷えていました。すでに料理長はこられており注文する料理や飲み物に関してアドバイスをいただきました。
これは追加で頼んだフグ刺し「テッサ」です。九州に来たら是非とも食べたかったものです。
これは薦められて頼んだ穴子の白焼きです。
この焼酎を1本頼みました。この銘柄も料理長おすすめのものを頼みました。
純米の米・耶馬美人(こめ・やばびじん)です。第6回国税庁鑑評会に於いて「日本一」の栄誉に輝き、故・穂積忠彦氏(元大蔵技官・醸造試験場鑑定官室長)より「ライス・ブランデー」の称号を頂いた経歴を持つ逸品だそうです。麦・耶馬美人もありましたが米がお勧めなのでこちらにいたしました。ネットで調べると市販でも6510円でした。
これはコースの料理です。牛肉です。
御寿司はお皿に2個づづ乗ってゆっくりと出してもらえます。
この御寿司も美味しかったです。
器も全て違うもので出されてきました。大変美味しかったのでお店を紹介させていただきます。
店名 寿司割烹天龍
住所 福岡県京都郡苅田町港町19-2
電話 093-434-5757
HP http://www.geocities.jp/tenryu9/
インドのお墓 [インド]
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インドでは寺院のような建物が実はお墓なのですが、意外と知られていないかもしれないので、その例をいくつか紹介いたします。実は私も初めて見るまでは知りませんでした。
上の写真はサフダルジャンの墓、サフダルジャング廟(Safdarjang's Tomb)あるいはサフダルジャン廟
ムガル皇帝ムハンマド・シャーの宰相(大臣)だったサフダルジャングの墓廟で、1753年に彼の息子シアウッド・ダウラーが父の為に建てたそうです。広大な庭園の中に建っていました。無名ですが静かで雰囲気はあります。デリー
フマユーンの墓(Humayun's Tomb)
有名なタージ・マハールのモデルになったお墓です。見比べてください。4本の塔はありませんが似ています。大きいですよ! デリー
実はフマユーン廟はリスと友達になれる場所でした。リス(栗鼠)に会いたい人に、お薦めの場所でした。
フマユーン廟は別途掲載させてもらいました。→ポチッ
タージ・マハール
古い話で恐縮ですがこの写真だけ1993年7月31日の撮影です。デリーからバスでの日帰りツアーで行きました。朝5時に出発して23時に戻ってくるハードスケジュール。全員外人のツアーで、高級ツアーですがこの時代は3食付きで2000円。昼食は高級ホテルでした。日本人は一人だけ欧米人がほとんどで後は台湾の人が数名。
ちなみに泊まっていたホテルはタージ・マハールですが、あのころは安かったですよ。
フマユーンとタージ・マハールはすでに詳細の掲載をしています。→ポチッ
タージ・マハール[インターネット引用]
正確無比なシンメトリーが美しいパレス風の建物。実は宮殿ではなく霊廟である。つまりおハカ。ムガール帝国5代皇帝シャー・ジャハーンが、亡くなった王妃のために1632年から22年の歳月をかけて造営したものだ。腕利きの職人を集め、のべ2万人が携わったというから、当時としては大国家事業。これぞ夫から妻へ捧ぐ愛の記念碑なのだ。しかし、この美談には続きがある。皇帝は晩年タージマハールの向かいに黒大理石の宮殿を建てようとしていたが、その矢先に第3皇子によって近くのアグラ城の塔に幽閉されてしまうのである。理由はタージマハール建築での莫大な浪費。結局皇帝は塔の中から7年間タージマハールを眺め、その生涯を閉じた。運命とは実に皮肉で残酷である。
アワビのしゃぶしゃぶ [安徽省]
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大きなアワビを薄くスライスしたものが出てきました。
これだけの大きなアワビはなかなかお目にかかれません。出てきてすぐに一番上の大きな刺身をそのままワサビ醤油につけて食べました。
身ががやわらかいので理由を聞くと「しゃぶしゃぶ」用の薄いスライスするために活きたアワビに軽く熱を加えて薄くスライスしたとのことでした。すぐにスープの入った鍋が出てきました。実はしゃぶしゃぶだったのです。それも中華料理のなかで出てきました。切り方が刺身らしくないと思っていましたが納得しました。
ほんとうは、このようにしゃぶしゃぶで食べるんです。タレは中華風のものもありましたがワサビ醤油でも食べました。お皿の上にワサビが乗っていましたが日本から持参したワサビを使いました。なかなかの一品でした。
この日は安徽料理でした。最近はいろんな料理を取り入れているみたいです。でもアワビのしゃぶしゃぶ以外は大体が安徽料理でした。安徽料理は名前の通り安徽省の料理ですが日本ではあまり知られていません。末席ですが中国八大料理の一つに数えられています。
1 魯菜 (山東料理)
2 川菜 (四川料理)
3 粤菜 (広東料理)
4 閩菜 (福建料理)
5 蘇菜 (江蘇料理)
6 浙菜 (浙江料理)
7 湘菜 (湖南料理)
8 徽菜 (安徽料理) 中国八大料理 ⇒ ポチッ
ネットで見るとこれ以外の組み合わせもあるようですが上の8っの料理の組み合わせが一番多いいようです。日本人に有名な北京料理や上海料理はこの後に続くのです。
しゃぶしゃぶ以外の料理を出てきた順番に紹介しておきます。書き忘れていましたが食べた場所は中国の安徽省でした。
最初はやはりスープが出てきました。
次は鳥料理です。
新鮮な活きた海老を茹でたものですが、これは色んな料理で出てきます。特に台湾は多いですね。
小さい烏賊の料理です。ホタルイカよりは少し大きいような感じです。
辛い料理を蒸しパンに挟んで食べます。
ホタテと苦瓜です。ホタテは高級食材です。烏賊も入っていました。
木耳の料理です。
シャキシャキしていました。
驚いたことに糸コンニャク(シラタキ)が食材に使われているんです。これも料理が徐々に変わって来ている証拠です。
日本向けの食材が徐々に中国に出回ているのだと思います。
キャベツの炒め物なんです。これは昼食の時は必ず注文するほどの日本人に人気の料理です。
魚のスープです。掲載していませんがこれ以外にもう一品スープがありました。
ここで冒頭の写真のアワビのしゃぶしゃぶが出てきました。スライスするために活きた鮑に軽く熱を加えて柔らかくして水平にスライスしているそうなので、広い身で食べ応えがありました。日本ではシヤブシャブと言えば生なのでここまで広いスライスの身には出来ないと思います。
日本にはない野菜です。ウドとセロリを合わせたような食感の野菜です。
魚です。ホーボーのような見たことのない魚でした。
野菜です。
カボチャの団子です。甘みのある団子でした。
春巻きです。これは安徽料理ではないですね。
さらにスープです。これ以外にもう一品ですべてです。
中国での席の座り方を説明しておきます。この食事の招待者の主賓がこの背の高いナプキンの席に座ります。それ以外の人の席は最初から決めている場合は問題ないのです。決まっていない場合は招待者の主賓に残りの席を決めてもらえば良いのです。客人の中で一番目の人が主賓の右側に二番目の人が左側に座ることが多いみたいです。左と右が反対の地域もあった気がしますが主賓に決めてもらえば特に悩みませんね。
タグ:中華料理
湯布院は「離れ家」の宿に泊まりました。 [九州]
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阿蘇に泊まった翌日は湯布院(由布院)に泊まりました。湯布院では「離れ家」の宿に泊まりました。上の写真が本館(母屋)の入口です。入口の近くの駐車場に車を停めると宿の方が出てこられて出迎えていただき荷物を運んでいただきました。心づかいが、最初から感じられるお宿でした。
ここが母屋(本館)のチェックインカウンターです。趣のある雰囲気が、くつろげるお泊まりを予感させてくれました。
離れ家というのは広い敷地の中に個別に建物が建てられており、一軒ごとに個室になっている形式です。
その離れ家それぞれに内風呂と露天風呂がついた、ちょっと贅沢な、お宿でした。
こちらでは8軒の離れ家がありました。つまり一日に8組しか、お客をとらないのです。8軒の離れ家は、この道の両側にあり、我々は一番奥の建物でした。
こちらが離れ家「すみれ」の入口です。このような離れ家に2~3名(2名の人がほとんど)で泊まるのです。
中に入って玄関の広さに驚きました。人数分の洒落た下駄が用意されていました。
こちらが居間です。8畳(たたみ)+板間の部屋でした。
居間の天井は高く、梁にも太い木が使われて雰囲気もよかったです。
ステンドグラスの和風のスタンドにもこだわりを感じました。
居間の奥が寝室で6畳(たたみ)+板間の広さがありました。この離れ家に台所を付ければ十分生活することが出来る広さでした。
離れ家にはプライベートの庭がついています。この奥に見えるのが、後で紹介する露天風呂です。
庭の前のガラス戸には断熱および防音のための真空ガラスが使われていました。ここにも、こだわりを感じました。右の写真が離れ家の鍵です。
お茶うけも2種類が用意されていました。湯布院の銘菓「湯布院の詩」と「わらび餅」です。こちらの「わらび餅」はしっかりとした上等なワラビ餅で美味しかったです。両方ともクリックすると拡大いたします。
前日には晴れていたので傘は母屋(本館)に置かれていましたが、離れ家には傘立てだけでしたが朝を起きると傘が置かれていました。夜に雨が少し降った時に宿の方が置きに来られていました。
庭の前は3畳程度の板の間になっていました。そこには椅子も置かれていました。右側の入口が脱衣場兼洗面所です。
脱衣場から内風呂を見たところです。檜(ひのき)がきれいです。内風呂の左側に露天風呂への引き戸があります。
こちらが内風呂です。たっぷりのお湯がうれしいです。湯船の右端から24時間お湯が流れ出ています。これが温泉である証(あかし)です。こちらのお宿の温泉は地下400mから54℃の弱ナトリウム質の湯(通称:美人の湯)が毎時8.4トン湧き出しており湯布院においても有数の泉質と自認されていました。さらに温度の違う自家源泉が2本あるので、加水加温なしで適温に保たれて温泉が源泉掛流しとなっているそうです。
内風呂の天井も高く開放感がありました。ちなみに湯布院温泉の温泉湧出量は毎時2280トンで全国3位の量で、源泉の数は852本存在し、これは別府温泉に次いで全国第2位だそうです。
こちらが離れ家内の露天風呂です。こちらも源泉掛流しで広さも十分ありました。つい何度も入浴してしまいました。
そして母屋(本館)には貸切の広い露天風呂があります。そちらはまた後で料理も含めて紹介したいと思います。母屋のお風呂も離れ家のお風呂も、すべてプライベトのお風呂なのです。これだけの設備が整っているのには驚かされました。でも一番よかったのが、きめ細かい心温まるこ、心遣いでした。お宿を紹介いたします。
お宿 おやど開花亭
住所 大分県由布市湯布院町大字川上馬場2150
電話 0977-28-8878
HP http://www.kaikatei.info/
予約 3ケ月前より
ネットで見ると評判すこぶる良いです。→ポチッ ポチッ
この温泉に対して湯布院温泉と由布院温泉が使われています。試しに"湯布院温泉"と"由布院温泉"で検索してみました。数的には由布院温泉が多かったです。
Yahoo Google
"湯布院温泉" 約1,080,000件 約 81,100件
"由布院温泉" 約2,120,000件 約 177,000件
追記 タイトル:貸切の露天風呂
湯布院で泊まった宿は離れ家形式で各離れ家には立派な露天風呂と内湯が用意されていました。そして本館(母屋)にも貸切の露天風呂と内湯が用意されているので夕食のあと、さっそく利用させていただきました。一組が40分以内ですが男女別々に利用することを申し出れば合計1時間ほど利用させてもらえます。夕食前は別の人が利用されていたので夕食の後になりました。夕食は18時半から食べ始めましたが時間をかけていただいたので、貸切の露天風呂の利用は21時ごろになりました。
離れ家のお風呂はゆったりしていましたが、母屋の貸切のお風呂はさらに大きくてゆったり出来ました。風が流れ込んでくるので湯気で、もやっていました。貸切の大きな露天風呂でゆったりするのは、ほんと贅沢でした。
脱衣場も檜造りできれいでした。
露天風呂に通じる通路です。露天風呂の名前は「福万の湯」です。
翌日の朝の散歩のあと6時半からも貸切の露天風呂を利用させていただきました。前日は外が暗かったので景色は見れませんでしたが、朝は目の前に景色が広がっていました。ここから下の写真はクリックすると拡大します。露天風呂の水面に、うつった空の色がきれいでした。
露天風呂からの景色です。湯布院温泉(由布院温泉)の湯煙が印象的でした。右側の山は由布岳(ゆふだけ)です。
露天風呂「福万の湯」から撮った由布岳です。由布岳は大分県由布市にある標高1,583mの活火山です。山頂付近は雲がかかって見えませんでした。
露天風呂からの由布岳は朝早かったのでもやがかかっていましたが、晴れると、このような由布岳を見ることが出来ます。この写真は宿を出発するとき(9時50分)に宿の前で撮ったものです。
アメリカのシーフード料理 [ピッツバーグ]
「ピッッバークの夜景」で紹介のレストランで食べた料理を紹介します。アメリカは牛肉以外の料理は、たいしたことがない!一般的な評価だと思いますがここのシーフド料理を食べて見直しました。
お店の名前MONTEREY BAY FISH GROTTO
名前の通りシーフード・レストランです。 上の料理はシーバス(すずき)の料理です。
スープは目の前で入れるパフォーマンス付きです。
名前は忘れましたがこれも白身の魚です。きのこが沢山入っています。
ここまではすべて今日のお店のお勧め料理です。
最初に頼んだのがこれです。
一番手前がマグロとサーモンの串焼き
向こう側が見ての通りエビです。
真中がカニです。身を取り出して料理してくれているので食べやすいし食べ応えがあります。結構、身も大きいかったですね。この一皿はおいしかったです。
ライスです。 チャーハンのような感じです。なかなか食べやすくここでも好評だそうです。
そこで飲んだのが地元のビールです。
510gのステーキ [ピッツバーグ]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
本報告でピッツバーグからの記事はとりあえず終了です。ここに来て最初に撮ったのがこの肉の写真です。アメリカはやっぱり牛肉ということで最後に取っておきました。ピッツバークに着いた日は早速にステーキを!とホテルの人に聞くと、このお店を紹介してくれました。リブロースがこのお店の名物と聞いて18オンスと10オンスのステーキを注文しました。
写真は10オンスの方です。
18オンス=510g
10オンス=283g
紹介されたわりにはお店はすいていましたが雰囲気は良かったですね。クリック拡大してお店の中をじっくり見てください。
ビールを飲みながら完食!といきたいけれど、あまりにも量が多すぎ! 日本を出てから体を動かさずに機内食を4回も食べてきた身としては完食というわけには行かないですね。 幸い3名の内、ステーキを頼んだのは2名で、もう1名はパスタだったので2人はステーキを切り分けてパスタの人にプレゼント
やっぱりアメリカは牛肉ですね。結局パスタはすべて残しました。ごめんなさい! でもパスタはハズレだったそうです。
重量級のステーキ! 1年前の暮にも経験しました。
その時は→ 709g と 397g です。
ビールは泡なし満杯で出すのがアメリカ流! だから生ビールは泡を捨ててつぎ足して出てきます。もちろんタップリの泡の乗ったビールを出してくれるお店もあります。丘の上のサンドイッチ店は泡タップリ派 ステーキ店は中身ボリューム派かな!
ピッツバーグは2泊だけだったけれど驚くことが沢山ありました。 おかげで下の沢山の記事を掲載させてもらえました。感謝!!!
クリックするとその記事を表示するので、まだ見ていない記事があれば是非、見てみてください。
大リーグで鳩山首相が始球式
ヒッツバーグは高層ビルだけじゃない
ダウンタウンの普通の景色
アメリカで分別収集? と思ったら!
高層ビルの谷間の静かな空間
128年前の橋 今は通勤路
ピッツバーグの路面電車
通勤ケーブルカーは139歳
丘の上の住宅地
丘の上のサンドイッチ店
水陸両用車
街角のすてきな光景
アメリカのシーフード料理
ピッツバーグの夜景
コスモスの丘に行ってきました。 [話題]
印西市の牧の原公園にコスモスが咲いていると聞いて行ってきました。車で20分くらいで行けるのですが初めての訪問となりました。コスモスと言えばピンクの色ですね。
朝の光を浴びて透き通った花びらがきれいなシルエットを見せてくれていました。
白いコスモスもきれいでした。
こちらではピンクと濃エンジ色と白のコスモスが咲いていました。
印西牧の原公園の中の「コスモスの丘」ではNPO法人ラーバン千葉ネットワークが市民のボランティアを募集して、畑作りから種まきや草取りを行なってコスモスを咲かしているそうです。10月の初めの土曜日と日曜日に行われる、コスモス里山まつりも今年で16回目になるそうです。ニュータウンの地域の住民の方々が自分たちのためにコスモスを自ら植えているのです。
印西牧の原公園は通称「ひょうたん山」と呼ばれる標高41mの築山を中心に広がる公園です。この辺りは古墳が沢山あることから古墳を意識したシンボルなのだと思います。実は公園についてもコスモス畑を見つけることが出来ませんでしたが、その築山に登ってコスモスの丘を見つけることが出来ました。
下の写真はコスモスの丘から見た公園のシンボルである標高41mの築山です。
コスモスの丘の丘のシンボルが、こちらの石の柱群です。コスモス畑の中には小道があり中を歩くことが出来ます。そこで携帯で写真を撮っている光景にも出会いました。誰かにメールでもするのでしょうか。
ここはニュータウンに隣接していることから若い家族の人が沢山来られていました。お父さんが記念写真を撮っているところなのでしょう。
若いお母さんが子供の写真を撮っている光景にも出会えました。
コスモス畑の中を歩けるのはいいですね。
こちらでも、お父さんが写真を撮っていました。
散策に来る人も徐々に増えてきていました。
秋の素晴らしい契機に出会えました。So-net内にも沢山のコスモス記事が掲載されていました。→1週間 1ケ月 3ケ月 6ケ月 1年
印西牧の原公園のコスモスの丘と標高41mの築山(ひょうたん山)の位置関係は下記の通りです。赤いマーク( )がコスモスの丘です。野球場と思われる広場の南東方向の三日月状の緑地部分がコスモス畑です。黄色いマーク( )が築山です。2つの山が瓢箪のように並んでいるのがわかると思います。
アイコンを数回クリックすると公園の場所が判ってくると思います。
より大きな地図で印西牧の原公園を表示
王女たちの部屋 [ヴェルサイユ宮殿]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
前記事で紹介した2階の戦闘の回廊を見た後は、1階に降りて王女たちの部屋のエリアに行きました。上の配置図はヴェルサイユ宮殿中央部の1階の間取りを示しており、緑色で塗られている部分が、王女たちの部屋(居室)として公開されている部分です。その部分の部屋の名前を紹介いたします。部屋はヴィクトワール王女関係とアデライド王女関係とその他で分類いたしました。
ヴィクトワール王女 | アデライド王女 | その他 | |||
② 第1控えの間 | ⑧ 奥の間 | ① 下の回廊 | |||
③ 貴人の間 | ⑨ 寝室 | ⑪ オクトンの間 | |||
④ 大広間 | ⑩ 大広間 | ||||
⑤ 寝室 | |||||
⑥ 奥の間 | |||||
⑦ 読書の間 |
アデライード王女とヴィクトワール王女は1歳違いの姉妹で、二人共にヴェルサイユ宮殿で誕生いたしました。2人はフランス国王ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの四女と五女です。下の絵は二枚ともにWikipediaから転用させていただきました。
左の絵 アデライド王女 1732年3月23年~1800年2月27日
右の絵 ヴィクトワール王女 1733年5月11日~1799年6月07日
王女たちの部屋の場所をGoogle地図で表示しました。
ヴェルサイユ宮殿
王女たちの部屋 1階
戦闘の回廊 2階
それでは①~⑪の部屋の写真を紹介したいと思います。
① 下の回廊
2階にある「鏡の回廊」の真下にあります。鏡の回廊ほどの長さはありませんが約40mの長さがある回廊です。
こちらは回廊の南端の壁です。この壁の奥には王子たちの部屋があります。ただし、入口は閉鎖されているので行くことは出来ません。
こちらが回廊の北の端の壁です。左側の通路を進むと王女たちの部屋に進むことが出来ます。
回廊の中にあった石像です。
② ヴィクトワール王女の第1控えの間
(Première antichambre de Madame Victoire)
ここは元はルイ14世の浴室の間でした。当初は壁と床には多色の大理石のはめ込みの装飾と、ランス産大理石でできた八角形の大きな浴槽がありました。この浴槽は現在はオランジュリーにあるそうです。その後、執務室として、トゥールーズ伯爵が1692年から1724まで、トゥールーズ伯爵夫人が1724年から1750年まで、またアデライド王女が1752年から1753年まで使用したそうです。1755年から1767年までソフィー王女が寝室にした後、同王女の第一の控え間、その後1769年にはヴィクトワール王女の第一の控え間となったそうです。③ ヴィクトワール王女の貴人の間(第2控えの間)
(Seconde antichambre de Madame Victoire)
もとは浴室の部屋だった場所だったそうです。その後、トゥールーズ伯爵、伯爵夫人、その後アデライド夫人の第二の控えの間、そしてヴィクトワール王女がこのアパルトマンを姉妹のソフィーとルイーズと共に使用していた時の彼女の寝室になります。1767年、第二の控えの間になりました。
木工細工は、ヴィクトワール王女の時に作られたと思われています。ブラン・ド・フォントネによるサヴォヌリー製の屏風と、鏡に取り付けられたマルタン製ワニス塗りの掛け時計が印象的でした。
④ ヴィクトワール王女の大広間(Grand cabinet de Madame Victoire)
この部屋も、もともと浴室の居室の八角形の間だったそうです。こちらの部屋には沢山の調度品がありました。
丸いテーブルと椅子も印象的でした。
別の角度から見た部屋の景観です。見事な調度品がならんてせいるのかわかってもらえると思います。日々の、彼女たちの華麗な生活が伝わってきます。
⑤ ヴィクトワール王女の寝室(Chambre de Madame Victoire)
この部屋がヴィクトワール王女の寝室として使われるようになったのは1769年からです。それまではトゥールーズ伯爵、伯爵夫人、その後アデライド王女、そして最後に末の王女たちの第二の控えの間として使われ、1767年にソフィー王女の寝室として使われました。
見事なベッドが印象的でした。
別の角度からの写真です。
⑥ ヴィクトワール王女の奥の間(Cabinet intérieur de Madame Victoire)
この華麗な小部屋と図書室はもともとは1つの部屋で、トゥールーズ伯爵夫人の控えの間でしたが1767年に分割され、この小広間(ヴィクトワール王女の奥の間)と図書室になったそうです。
沢山のテーブルと椅子が置かれていました。
⑦ ヴィクトワール王女の読書の間(Bibliothèque de Madame Victoire)
戸棚には王女たちの紋章の入った製本が所蔵され、王女たちの姪に当たるエリザベット王女の所有であった地図コレクションの入った手箱、アデライド王女のために1775年に納品されたセーヴル製の中国的装飾モチーフの磁器製コーヒーセット、数字とヴォクトワール王女の紋章入りのテーブル用の真紅の鐘があります。
傾斜のある机は、ソフィー王女とルイーズ王女がフォントヴローの修道院から戻ってきた1760年に、彼女たちのために納品されたものだそうです。椅子は、ベルヴュー城でのヴィクトワール王女の家具調度品の一部として使われていたそうです。
⑧ アデライド王女の奥の間(Cabinet intérieur de Madame Adélaïde)
この小部屋は、 ポンパドゥール夫人の赤い漆の小部屋として当時は有名だったそうです。
緑色の椅子が印象的でした。
⑨ アデライド王女の寝室(Chambre de Madame Adélaïde)
この部屋は、1769年から1789年までアデライド王女の寝室でした。
こちらも見事なベッドが置かれており、木工細工の装飾は王女のために1766年に製作されたものと考えらているそうです。
こちらの寝室も別の角度からの景観を紹介します。
暖炉周辺もきれいな調度品で飾られていました。
⑩ アデライド王女のの大広間(Grand cabinet de Madame Adélaïde)
アデライド王女の所有していた小さなパイプオルガンが印象的でした。
この部屋を現在の形にしたのも、サランコリン製の大理石の暖炉を取り付けたのもポンパドゥール夫人だったそうです。
こちらの部屋の調度品も見事でした。
⑪ 射手の間(Salle des Hoquetons オクトンの間)
ここの部屋が「射手」と呼ばれたのは、宮殿内の治安を司っていた館の衛兵の着ていたチュニックが「射手の胴衣」であったところに由来しているそうです。この部屋は通常その衛兵が控えていた部屋で、1672年、武具を表した装飾がだまし絵で描かれ、 みせかけの奥まった部分に彫像が置かれました。
こちらは「射手の間」の横にある階段です。上に上がると「王の寝室」や「鏡の回廊」がありますが、見学者は階段を通ることは出来ませんでした。
追伸
今日2016年9月21日から9月27日まで関西に行っています。その間はネット事情の関係で皆様のところに訪問できないことお許しください。昨日9月20日は空港まで行きましたがフライトが台風16号のために欠航となったために、今日に移動します。
秋茄子のピッツァ仕立て [料理]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
先日の記事で紹介したように、懐かしい人たちとイタリアン・ワインバーに行って右の写真の「茄子のピッツァ仕立て」と言う料理を知りました。我が家でも簡単に出来そうなので昨日(2016年9月18日)の夕食で作ってみることにいたしました。
pokoさんの記事「美味しかった~」で、この「茄子のピッツァ仕立て」を作られたことを知って、試してみる励みになりました。
このピッツァは小麦粉の生地を使わないで、茄子の薄切りを生地に見立ててチーズと具とビザソースを乗せて焼いたものです。
茄子と具は冷蔵庫にあるものだけで作りました。チーズとピザソースも買ってありました。具としてはハムとピーマンと太めの竹輪を使いました。これをガスオーブンを使って焼きました。
焼きあがるまでの間にカマンベールチーズで赤ワインを飲みました。
これが焼き上がりです。クッキングペーパーのまま四角いお盆に乗せてテーブルに出しました。オーブンの設定温度は270℃で、とりえず時間は9分にセットして、様子を見ながら9分の少し前に取り出しました。つまり焼き時間は8~9分です。オーブントースターの場合は、もう少し時間が必要かと思います。
熱々はすばらしく美味しかったです。
美味しさをお伝えしたくて、さらに拡大いたしました。クッキングペーパーに流れ落ちてカリカリになったチーズは格別でした。竹輪は太めの、ちょっと美味しいもの使うことをお薦めします。偶然に冷蔵庫の中に美味しい竹輪が残っていたので試せました。
サラダも用意してもらいました。
コーンスープもいただきました。
これがハムのピッツァです。
これが太い竹輪のピッツァです。竹輪とハムを乗せたピッツァも作りました。
やっぱりこの料理はワインにピッタリでした。
南京の海鮮料理 第二弾 [海鮮]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
野菜を除いて魚、海老、蟹、貝などの全ての食材は生簀から取って料理します。特に貝の種類は充実していました。
巻貝、これは、お勧めつまようじで食べます。
いくらでも食べれます。止まりません。
南京での夕食は以前に行った海鮮料理店 → 第一弾
上の写真はクリックすると拡大しますが、クリック画面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。
平貝(たいらぎ)、日本だと高級食材 貝柱がホタテのようで日本だとそく刺身ですね。
マテガイ、同じマテガイでも身が大きいタイプ
野菜も食べないと!
ヒラメ系の魚の刺身 普通のヒラメとは形がが違いはじめて食べました。これも活きていたのでおいしいですよ。
ヘビも置いていましたが毒々しい感じで遠慮! それにかわいそう!
追伸
この日、うっかりとナイフとハサミを機内持ち込みのカバンに入れたまま空港で安全検査を受けてしまいました。いつもはこれらの入っている小物入れはスーツケースにいれているのですが!カバンを開けてビックリ!! ごめん、ごめんと大事な物なので結局、チェックインカウンターまで戻り再預け!でもここは北京空港?? まてよ成田空港はなにも言われなかったな~~。でした。
でもよく考えたら日本の場合は小型のハサミやナイフはOKだったような気がします。国によって差があるみたいなので持ち込まないのが無難ですね。でもこの鋭さだったら日本でもだめかもしれません。
ヴェルサイユ宮殿の大階段 [ヴェルサイユ宮殿]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
今まで、「国王の居間群」と「王の寝室」の記事で、沢山の部屋を紹介いたしましたが、㉒の「大階段」は紹介し忘れていました。この「大階段」の写真も撮っていたので紹介します。
① ヘラクレスの間 | ② 豊饒の間 | ③ ヴィーナスの間 | |
④ ディアナの間 | ⑤ マルスの間 | ⑥ メルクリウスの間 | |
⑦ アポロンの間 | ⑧ 戦争の間 | ⑨ 平和の間 | |
⑩ 王の寝室 | ⑪ 王妃の寝室 | ⑫ 閣議の間 | |
⑬ 牛眼の間 第2控 | ⑭ 大会食の間 第1控 | ⑮ 貴人の間 | |
⑯ 大会食の間 | ⑰ 王妃の衛兵の間 | ⑱ 戴冠式の間 | |
⑲ 1792年の間 | ⑳ 王子の階段 | ㉑ 石像のあった廊下 | |
㉒ 大階段 | ㉓ 王妃の階段 | ㉔ 浴室 | |
㉕ 図書の間 | ㉖ 黄金の間 | ㉗ 図書の間 | |
㉘ 午睡の間 | ㉙ 衛兵の間 | ㉚ ルイ15世の寝室 |
名前の通り巨大な階段でした。これは1階から撮った写真です。真中を上がって行き、突き当りから戻る形で両側に階段が配置されていました。
正面の石像です。
中階からの景観です。両側の階段がよく見えます。
正面の石像を拡大いたしました。
ヴェルサイユ宮殿には「王妃の階段」や「王子の階段」など見事な階段が沢山ありましたが、最大の規模なのが、今回紹介の「大階段」でした。
1752年まで、右の模型の「大使の階段」と呼ばれる大階段もあったそうです。「大使の階段」はルイ・ル・ヴォーが構想し、その後継者であるフランソワ・ドルベと画家シャルル・ル・ブランが1672年から1679年に完成させたそうで多色の大理石と、金色に塗られたブロンズと絵画で美しく飾られたこの階段は、窓ガラスがはめ込まれたヴォールトから光を取り込んでいたそうですがルイ15世の時代には明かりが乏しく荒れていたことから内殿の拡大を希望した王の求めにより1752年に解体されたそうです。
㉓ 王妃の階段 ⑳ 王子の階段
初めての「家もんじゃ」 [料理]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
もんじゃ焼きは月島によく食べに行きましたが、家では作ったことがありませんでした。月島で食べた記事はこちら→ポチッ
今は千葉県佐倉市に住んでいますが、我が家は全員が関西出身であったことから、お好み焼きは頻繁に作っていましたが、もんじゃ焼きは無かったのです。そんな中で、2016年9月14日の夕食で生まれて初めて、家でもんじゃ焼きを作りました。つまり初めての「家もんじゃ」なのです。
初めてで、味付けが難しいので、市販のもんじゃ焼きセットを使いました。セットの中には粉とソース以外に、中に入れる具も入っていることから、キャベツと水さえあれば出来るのです。具として入っているのが、切りイカ、小エビ、あげ玉、アオサですが、我が家の冷蔵庫にあったカマボコとアミ海老と紅ショウガとネギを入れました。下の写真はボールにすべての材料を入れた状態です。
汁を残して具だけを炒めました。
こちらが残した汁です。
炒めた具をドーナツ状にいたしました。
真ん中に汁を入れますが、全て入れると溢れるので溢れない程度の量を入れます。
周囲に汁が染みて減って来ると、残りの汁を入れました。
土手の中央の汁が透明になり、ぐつぐつしてくると全体を広げて焼きます。
写真のようにオコゲが出来たら完成で、少しづづ食べ始めました。
もんじゃ焼きにはやっぱりビールです。
もんじゃ焼き専用の小さなヘラである「はがし」は無いので、なるべく平たいスプーンで代用いたしました。
我家のムサシも気になっているようでした。実は9月3日に病院に連れていくほどの痙攣を起こしたのですが、テーブルを覗き込んで足を乗せることが出来るまで回復いたしました。16歳5ケ月(2000年4月4日生まれ)となりました。
ムサシは頸椎系が若い時から弱くて、時々ですが足が不自由になることがあったのです。9月3日は私はゴルフで、家内は弓道で家を長時間開けたのですが、その時に足が動かなくなったようです。我々がいないときに動けなくなったことで、精神的なショックでテンカン症状に発展したようでした。家内が家に戻った時は、玄関のたたきで、完全に動けず、横たわっている状態でした。テンカン症状は我々がいる時に一度経験しているので、精神を安定させる座薬を持っていたのですぐに処置したそうですが、もうだめだと思えるほどの症状だったそうです。私が家に戻って来て車で病院に連れていき、抱っこして病院に入るほどの状態でした。今まで抱っこして病院に入ったことは初めてでした。家に帰って、夜にはゆっくりではありますが少し歩けるようになりました。2週間近くが経過して、走るところはまだ見せてくれていませんが、日に日によくなってきて、散歩の歩く距離も通常で800m程度で、1回だけですがいつも行く2kmコースを歩くまでになりました。痙攣の前日の9月2日には散歩のときに走っていただけに心配いたしましたが、写真は後ろ足の踏ん張りが9月3日以前の状態に復活しつつあるものと信じさせてくれるものでありました。サイドバーに16歳4ケ月の走りの動画を掲載しています。
こちらが使った市販の、もんじゃ焼きセットです。ソースで有名なブルドッグソース(Bull-Dog)の「月島もんじゃ焼きソース味」です。
もんじゃ焼きの焼き方のおさらいのためにセットの説明を紹介します。
2016年9月18日追伸
今朝の散歩でムサシがついに走ってくれました。朝の3時台からムサシが何度も散歩に行きたがりました。そして朝から3度目の5時台の散歩で、ついに走ってくれていました。3時台、4時台の散歩の様子から、走るとは思っていなかったのでカメラを持って行かなかったのは残念です。5時台の散歩に関しては最初から、いろんな方向に行こうと積極的でした。散歩の途中で何度も走りました。勢い余って縁石に足をひっかけてこけるほどでしたが、幸いにも怪我はありませんでした。その後も何度か走ってくれました。痙攣した2016年9月3日から15日目でした。
家に帰って、ついご褒美のおやつを沢山あげてしまいました。
王の寝室 と 周辺の部屋 [ヴェルサイユ宮殿]
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ヴェルサイユ宮殿の国王の寝室を紹介します。鏡の回廊の中央の東側に「王の寝室」がありました。部屋の奥にアルコーブと呼ばれる凹ました空間を作り、そこに豪華なベットが置かれていました。この寝室で、ルイ14世は「プチ・クヴェール」と呼ばれる軽い晩餐をとったそうです。さらに、王の「朝の引見」と「夜の引見」も毎日ここで行われたそうです。72年間の治世の後、1715年9月1日にルイ14世が亡くなったのもこの寝室だったそうです。深紅を基調としたベッドには金と銀を使った豪華な錦織の装飾が飾られていました。
アルコーブと呼ばれる空間と部屋との間には金メッキの木製の欄干が設けられていました。このようなベットが置かれた空間と部屋を隔てる欄干があるのは「王の寝室」と「王妃の寝室」だけのようです。
さすが王の寝室で、部屋の中は沢山の見学者で埋まっていました。
いろんな部屋にあった天井画は、こちらの寝室には無く真白な天井でした。寝室だから落ち着いた空間を目指したのかもしれません。
天井以外は金を基調とした豪華な装飾で飾られていました。
見事な時計も置かれていました。
宮殿の外から「王の寝室」を紹介します。2階の中央の3つの窓がある部屋が「王の寝室」です。そして右側が「閣議の間」で、左側が「牛眼の間」と呼ばれている第二控えの間です。
「王の寝室」から外を見ることが出来ませんが、隣の部屋の窓からは外を見ることが出来ました。こちらは「閣議の間」の窓からの景色です。内庭の白黒模様の部分は大理石でできています。
こちらは、もう一つの隣の部屋である「牛眼の間」の窓からの景色です。この2枚の景色からちゃう王から見た景色を想像してみてください。
金色の門のあたりを拡大いたしました。庭園とは反対の東の方向で駅や町がある方向です。
今回紹介の「王の寝室」の場所は下記の配置図の中の⑩です。周辺らは沢山の部屋が判ってもらえると思います。鏡の回廊と①~⑧の部屋はすでに紹介いたしました。クリックすると別画面で表示するので配置を見ながら説明を読むことが出来ると思います。
① ヘラクレスの間 | ② 豊饒の間 | ③ ヴィーナスの間 | |
④ ディアナの間 | ⑤ マルスの間 | ⑥ メルクリウスの間 | |
⑦ アポロンの間 | ⑧ 戦争の間 | ⑨ 平和の間 | |
⑩ 王の寝室 | ⑪ 王妃の寝室 | ⑫ 閣議の間 | |
⑬ 牛眼の間 第2控 | ⑭ 大会食の間 第1控 | ⑮ 貴人の間 | |
⑯ 大会食の間 | ⑰ 王妃の衛兵の間 | ⑱ 戴冠式の間 | |
⑲ 1792年の間 | ⑳ 王子の階段 | ㉑ 石像のあった廊下 | |
㉒ 大階段 | ㉓ 王妃の階段 | ㉔ 浴室 | |
㉕ 図書の間 | ㉖ 黄金の間 | ㉗ 図書の間 | |
㉘ 午睡の間 | ㉙ 衛兵の間 | ㉚ ルイ15世の寝室 |
⑩の「王の寝室」を紹介したので、⑪の「王妃の寝室」も紹介したいところなのですが、不思議なことに撮った写真の中に「王妃の寝室」はありませんでした。宮殿内を見学している時は明確な場所が判らなかったのでベッドの置かれている部屋は全て撮ったつもりでしたが、「王妃の寝室」の写真はありませんでした。見落としたこともありうるのですが、「王妃の寝室」の隣の部屋である⑨の「平和の間」の写真も1枚も撮られていませんでした。「平和の間」は下の写真の「鏡の回廊」の正面の入口を入ったところにあるのですが、見ての通り入口は閉鎖されていることから、「平和の間」と「王妃の寝室」は修理などのために公開されていなかったとも考えられます。⑮の「貴人の間」と⑯の「大会食の間」も撮っていませんでした。右上の写真はネットから転用させてもらった「王妃の寝室」です。
せっかくなので王の寝室の周りの部屋を紹介したいと思います。紹介するのは上の配置図で ⑫ ⑬ ⑰ ⑲ ⑳ ㉓ ㉙ ㉚ です。今回、見学出来なかった中の ⑨ ⑪ ⑱ に関しては2008年11月の写真を掲載いたしました。
⑫ 閣議の間
「閣議の間」は「王の寝室」の隣にあり「鏡の回廊」に通じていて、我々が最初に「王の寝室」に入ったのは「鏡の回廊」から「閣議の間」を通って入りました。この部屋が現在の形となったのは、ルイ15世治世下の1755年だそうです。ルイ14世が諮問(財務諮問と国務諮問)を召集した閣議室と、ルイ14世が夕食の後家族や近しい者と共に過ごした私的な場所である「胸像柱」の小部屋が結合してこの部屋が生まれたそうです。見事な装飾品で飾られていました。
右の入口を入ると「王の寝室」です。
角部屋も付属していました。
このドアの向こうが「王の寝室」です。
㉚ ルイ15世の寝室
閣議の間の別の方向の隣の部屋です。部屋の名前は調べ切れていません。
窓がある場所で3つの部屋が連なっていることが判ります。写真を撮った順番から見て、おそらく⑫の「閣議の間」から中庭に沿って東側に3つ連なった部屋だと思われます。
⑬ 牛眼の間
この「牛眼の間」は「第二控えの間」とも呼ばれており、「王の寝室」の隣の部屋です。それだけに見事の部屋でした。王の就寝・起床の儀式に備えて従者が控える待合室だそうです。
右のドアのある入口を入ると「王の寝室」です。
⑰ 王妃の衛兵の間
この「衛兵の間」には昼夜12人の衛兵が王妃の護衛に当たっていたそうです。ヴェルサイユ宮殿では、王と王妃と王子のみが自分の衛兵を持つことが出来て、その衛兵は王のもつ4中隊の精鋭部隊に属していたそうです。「衛兵の間」には王妃が訪問することがなかったことから修復されることがなかったことから17世紀の装飾がそのまま保存されている唯一の部屋でもあるそうです。
当時と物と思われる食器がテーブルに展示されていました。
部屋の中には我々が座れる椅子が置かれており休憩できる場所でもありました。
㉙ 衛兵の間
装飾品が無い部屋もありました。
ただし暖炉の上には絵画が1枚飾られていました。
㉓ 王妃の階段
右のアーチの奥が「王妃の階段」です。つまり階段上のホールです。
大理石で作られた巨大な階段でした。この階段は「大理石の階段」とも呼ばれています。
上から見ると重厚さが判ってもらえると思います。
階段を登って一番上に、紋章のような金の飾りがありました。
階段の中段から撮った写真です。上の金も紋章のような飾りが判ってもらえると思います。
1階から階段を見た景観です。
⑲ 1792年の間
ここは「商人の間」とも呼ばれているようです。沢山の人物像が飾られていました。
これはナポレオンの絵のようです。
ナポレオンの絵の下は細い通路になっていました。我々はこの通路から、この部屋に入ってきました。ただし、一方通行なので戻れません。
この写真でも沢山の肖像画が飾られていることが判ってもらえると思います。奥の入口を進むと⑳の「王子の階段」です。
⑳ 王子の階段
この「王子の階段」も広い空間にありました。
2階の彫刻群が印象的な空間でした。
正面の入口を入るとヴェルサイユ宮殿最大の回廊 / 部屋である「戦闘の回廊」です。
今回、工事などで写真を撮れなかった部屋を8年前の2008年11月6日に訪れた時の写真で紹介します。紹介するのは⑨の「平和の間」と⑪の「王妃の寝室」と⑱の「戴冠式の間」です。
⑨ 平和の間
平和の間は、鏡の回廊を挟んで戦争の間と対象に配置されている重要な部屋で、大理石と彫刻細工された金箔青銅の武具で装飾されています。しかしながら、丸天井には平和の恩恵が描かれています。ルイ15世の治世下では毎週日曜日に音楽会が行われ、次のルイ16世治世下にはマリー・アントワネットがその後を引き継いだそうです。
⑪ 王妃の寝室
王妃の寝室は居室の中心をなす部屋で、王妃はその部屋で大半の時間を過ごし、ここで眠り、たびたび王が訪れたそうです。朝は、ここで身づくろいが行われたそうです。その身づくろいは王の起床と同じくらい礼儀作法に乗っ取って行われたそうです。またこの部屋で、公開の出産が行われました。公開で行われたのは、ほんとうに王妃の子であることを沢山の人に証明するためだったそうです。
⑱ 戴冠式の間
この「戴冠式の間」は「祭典の間」とも呼ばれていて3方の壁にはそれぞれに巨大絵画が掲げられています。ダビィッド作の「ナポレオンとジョセフィーヌの戴冠式」と「シャン・ド・マルスにおける鷲章旗の授与」、そしてグロ作の「アブキールの戦い」です。部屋の中心には塔が立てられているのが特徴です。
タグ:ヴェルサイユ宮殿
南京の海鮮料理 第一弾 [海鮮]
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今日は3名で海鮮料理に行きました。上海や青島なら判るけど南京の海鮮料理? と思う人が多いと思いますが2004年7月にオープンした海鮮料理店です。すべていけすから取り出して料理します。3人だけなので車海老、赤貝、巻貝、たいらぎ、たこ、とこぶしを注文。車海老、赤貝は刺身です。人数が多ければヒラメや伊勢海老の刺身を注文するとお得です。
こちらが車海老の刺身です。お店は中華料理ですが、刺身なので和風の器が使われていました。
そして、こちらが赤貝の刺身です。
わがままを言う人が1名いて1名のみ上海蟹を頼みました。
もちろん上海蟹は海鮮ではありません。淡水(汽水)です。
レストランの値段は右の写真の通りで上から2番目に高い198元(約3000円)のものを注文。同じサイズの養殖ものは60元
ビール代も入れた全金額の35%を一匹の上海蟹が占めてしまいました。もちろん25元の上海蟹もありますが信頼出来る同じお店ならば高い方がおいしい!
今回の南京の海鮮料理店を紹介します。
店名 東駿燕窩魚翅海鮮酒家
住所 江蘇省南京市白下区中山東路518号
電話 025-8463-3733
営業 10:30~03:00
定休 無休
上海にも系列店があります。(下の写真)
店名 東駿燕窩魚翅海鮮酒家
住所 上海市淮海西路518号
電話 021-6281-1978
記事 http://makkurokurosk.blog.so-net.ne.jp/2011-01-23-1
南寧にも海鮮料理店がありました。
店名 海鮮仔
住所 広西チワン族自治区南寧市竹渓路新興総合樓
訪問 2005年9月25日
鏡の回廊 Galerie des Glaces [ヴェルサイユ宮殿]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
ヴェルサイユ宮殿の数ある部屋の中で最も中心的で、最も有名な部屋が「鏡の間」だと思います。そのことがヴェルサイユ宮殿の中の「鏡の間」の場所にも表れています。広大な庭園が正面に見える建物の中心位置にあるのです。その部屋は長さ73m、幅10m、高さ12.5mと「鏡の間」と言うよりは、もう一つの呼名である「鏡の回廊」と言った方がイメージに合う部屋です。日本では「鏡の間」が多く使われていますがフランス語のGalerie des Glacesから「鏡の回廊」と呼ぶべきと思われるのでこの後では「鏡の回廊」といたします。
ヴェルサイユ宮殿 Château de Versailles 本館
鏡の回廊 Galerie des Glaces
戦闘の回廊 Galerie des Batailles
国王の寝室の位置からも「鏡の回廊」が最も重要な部屋であることが判ってもらえると思います。
⑧ 戦争の間 Salon de la Guerre
⑨ 平和の間 Salon de la Paix
⑩ 国王の寝室 Chambre du Roi
⑪ 王妃の寝室 Chambre de la Reine
上の配置図の⑧の戦争の間から見た「鏡の回廊」です。この入口のを入ると「鏡の回廊」です。
窓からの景色を見れば鏡の回廊が中心的な部屋であることが判ってもらえると思います。
庭園の景色を拡大いたしました。
宮殿前の広場から「鏡の回廊」のある建物を撮りました。2階以上の部分の中央73mが鏡の間です。左端の3つの窓の部分が「戦争の間」で、右端の3つの窓の部分が「平和の間」です。
建物の中央の部分を拡大いたしました。左端の開いている窓から、2、3枚上の庭園の写真を撮りました。
こちらが「戦争の間」から入って最初に目にする「鏡の回廊」です。17世紀には大回廊と呼ばれ、宮廷人や外部からの訪問者といった人々の通路、待ち合わせと出会いの場所として利用されていたそうです。右側に大きな窓があり、左側の壁は「鏡の回廊」の由来となった沢山の鏡が張られていました。
丸天井を飾る天井画に沢山の豪華なシャンデリア印象的でした。外交使節接見で君主の威光を示すため使われたり、王族の結婚式や、舞踏会や遊戯など娯楽の場として使われたそうです。
入口の方に振り返った景観です。
沢山の鏡が窓のように配置されていました。17のアーケードには合計357枚の鏡が飾られているそうです。その大きさや数から、フランスの新しいガラス工場が、当時最高級の贅沢品であった鏡の専売元としての地位をヴェネツィアから奪い取るほどの力を持っていたことをしめしているそうです。
丸天井にはル・ブランの作品が30点も飾られてルイ14世が戴冠以来18年の間に成し遂げた偉業を示しているそうです。
大きな窓の飾りも、丸天井下の梁の飾りもすばらしかったです。
その梁の部分の飾りを紹介します。
天井画の一部も紹介します。こちらの絵にはLE ROY GOV VERNE PAR LVI MÊME 1661と書かれていました。
そのLE ROY GOV VERNE PAR LVI MÊME. 1661.と書かれている部分を拡大いたしました。
こちらの絵にはL'ORDRE BETABLI DANS LES FINANCES. 1662.と書かれていました。
こちらの石像も印象的でした。
「平和の間」方向からの写真も紹介します。
回廊の壁側には沢山の装飾品が置かれていました。
シャンデリアは天井から吊り下げられているだけでなく、金色の像が支える形で沢山のシャンデリアが床に置かれていました。
シャンデリアを支えている金色の像を拡大いたしました。是非ともクリックして見てください。
天井からのシャンデリアと床からのシャンデリアに照らされる夜の景色を見た見たいものです。
あらためて天井画とシャンデリアの豪華さに圧倒されました。
「戦争の間」から入ってきて「鏡の回廊」の一番奥の写真です。なんと「平和の間」への入口が閉鎖されていて入れませんでした。おそらく「平和の間」の修理のための工事が行われているのだと感じました。そのために行き止まりとなっていることから人も少なく静かな空間となっていました。右の写真はネットから転用させてもらった「平和の間」と「鏡の回廊」の間の通路を「平和の間」側から撮ったもので、この通路が閉鎖されていたのです。
遠くから見てもヴェルサイユ宮殿は大きかったです。その中央の大部分を占めていたのが「鏡の回廊」でした。
タグ:ヴェルサイユ宮殿
懐かしいメンバーでの飲み会はイタリアンワインバー 三笠バル イル コーボ [イタ飯]
すでに2016年9月8日の記事で紹介したように台風13号が関東に接近する日に飲み会をいたしました。元々は8月22日の予定でしたが台風9号が関東に上陸したことから、9月8日に再設定いたしましたが、またもや台風接近で中止になるのではないかと心配いたしました。幸いにも朝の3時に温帯低気圧になったことから飲み会が実現出来ました。
メンバーは右の写真の4名で懐かしい人ばかりでした。私は右奥です。飲み会のお店はイタリアンのワインバールで、上の写真の「トリッパと白隠元豆のトマト煮」が食べ放題を売りにしているお店です。最初はテーブルに出されますが、後はお店の入口においてある鍋から自分で取ります。
さっそく3人がビールを頼んで、1人がカクテルを頼みましたが、いきなり話が弾んでしまってビールの写真を撮り忘れてしまいました。最初に頼んだスモークチーズです。写真を撮る前に一つ食べてしまいました。
ワインのためのお店なのですぐにワインにいたしました。先ずは赤のハウスワインでした。後で白のハウスワインを頼みました。ハウスワインは1200円で美味しいワインだったのでお得でした。
本日のおすすめのメニューを紹介します。この中からは3品を注文しました。
こちらが海老のオイル煮です。
海老が少なそうに見えますが、食べ始めてみると、大きな海老がジャガイモの下に沢山隠れていました。海老も美味しいのですが、ほかほかのジャガイモは最高でした。
これはお薦めの料理です。
こちらはイワシのパン粉焼きです。
野菜たっぷりのハラミステーキです。
ハラミステーキの焼き具合は抜群だったので拡大写真を掲載いたしました。
赤ワインはボトルでも頼みました。お店でお薦めのフェウド・アランチョ(Feudo Arancio)のシラー(Syrah)です。フェウド・アランチョはイタリアのシチリア(Sicilia)産のワインです。
このワインも美味しかったです。
こだわり野菜の料理は秋茄子のピッツァ仕立てでした。
秋茄子の料理を拡大いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
やっぱり別のワインを飲みたくなります。この日の一番高いワインです。
名前はチンクァンタ(CINQUANTA)です。詳しく説明いたします。創立50周年(チンクアンタ=50)を記念してリリースされワインで、ブッシュヴァイン仕立ての古木の葡萄の2011年産と2012年産を合わせて造っているそうです。
名前 CINQUANTA チンクァンタ
種類 赤ワイン ミディアム・フルボディ
生産地 Italy Puglia プッリャ
創業 1962年
生産者 Cantine San Marzano カンティーネ・サン・マルツァーノ
品種 Negro Amaro , Primitivo ネーグロアマーロ、プリミティーヴォ
こちらはオイルサーディンを使った料理です。写真を撮り忘れましたが鯛の濃厚ブロード(出汁スープ)+ムール貝添えのクスクスもいただきました。上の写真の左の皿が鯛の濃厚ブロードです。
もう一本、フェウド・アランチョ(Feudo Arancio)のカベルネ・ソーヴィニヨン(Cabernet Sauvignon)を頼みました。最終的に飲んだアルコールは次の通りでした。デキャンタは500mlで、ボトルは750mlです。
4杯 モルツ生ビール
1杯 カクテル
1杯 スパーリングワイン
1本 赤ワイン・デキャンタ モンテプルチアーノ
1本 白ワイン・デキャンタ トレッビアーノ
3本 赤ワイン・ボトル チンクァンタ(1本) フェウド・アランチョ(2種)
パスタも頼みました。オマール海老のトマトクリームのタリアテッレでした。麺は平打ち麺が使われていました。
上の写真はクリックすると拡大いたしますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
最後はデザートです。バニラアイスとエスプレッソのアッフォガードです。
こちらは、こだわり玉子のクレーム・ブリュレ(Crème brûlée)です。これだけが2名が注文いたしました。カスタードの上面に砂糖をバーナーで焦がした硬いカラメルの層が乗っているデザートです。
こちらはパフェ・ティラミスです。
美味しい料理で楽しく過ごさせていただきましたのお店を紹介いたします。
下のGoogle地図の中央の の場所のレストランです。まさにイタリアン・ワインバーでした。イタリア語のIL COVOは「隠れ家」あるいは「ねぐら」の意味があるそうです。
名前 三笠バル イル コーボ MIKASA BAR IL COVO
種類 イタリアン ワインバー
住所 東京都港区新橋3-13-10 平田ビル3・4F
電話 03-6452-9940
営業 17:00~23:00
定休 日曜 祝日
創業 2015年1月15日
謎の不思議な木 [函館]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
もみの木にそっくりでありながら赤い実をつける木を函館のゴルフ場で見つけました。まさに天然のクリスマスツリーのような木でした。地元の人が沢山食べているので、つられて食べてみると甘くて美味しい実でした。モミ はご存知のようにマツ科で実(種)は小さなマツボックリです。
ネット で調べて名前がわかりました。
イチイと呼ばれている木で別名をアララギと言います。この木を今回見た北海道ではアイヌ語由来のオンコと呼ばれています。実は甘いけれど中にある種は有毒なので気をつけてください。
名前 イチイ(一位、櫟 英名:Japanese Yew)
学名 Taxus cuspidata
綱目 イチイ綱(Taxopsida) イチイ目(Taxales)
科属 イチイ科(Taxaceae) イチイ属(Taxus)
調べると貴重で不思議な木であることを知りました。枠内がネットで書かれていた内容です。
ル=グウィン著の「ゲド戦記」で、当初ハイタカが愛用していた杖は「イチイの木」でできた杖であった。国際自然保護連合は本種の保全の現状を軽度懸念(LOWER RISK - Least Concern)と評価している。本種はワシントン条約の附属書II類に指定されている。
葉はかつて糖尿病の民間薬としての利用例があるが、薬効についての根拠はなく、種子と同様有毒であるために絶対に服用してはならない。
国王の居間群 (ヘラクレスの間 豊饒の間 ヴィーナスの間 ディアナの間 マルスの間 メルクリウスの間 アポロンの間) [ヴェルサイユ宮殿]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
上の写真は、前記事でヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂の記事で最後に紹介した「ヘラクレスの間」です。ヘラクレスの間は現在の礼拝堂が出来る前に王室礼拝堂があった場所でこの部屋の1階と2階部分を礼拝堂が占めていたそうです。1710年に現在の礼拝堂が出来て、長い工事の末に国王の大きな居間に変身いたしました。
壁に飾られている大きな絵は「シモン家の宴」で、巨大な天井にフランソワ・ルモワンヌによって描かれてた「ヘラクレスの栄光」がありました。ヘラクレスの間と呼ばれているのは天井画に由来していると感じました。
こちらが「シモン家の宴」です。この絵は1570年にヴェネチアの セルヴィテス修道院の食堂にあったものだそうでが、1664年に総督がルイ14世に贈ったそうです。贈った目的は、対トルコへの支援を要請するためのものでした。
冒頭の写真と反対側です。
絵画の下に大きな暖炉がありました。
絵画を拡大いたしました。
暖炉も見事でした。ヘラクレスの間は国王の居室の一つで、連なった国王の居間の中の最大の居間でもあります。
上で紹介した「ヘラクレスの間」から有名な「鏡の間(鏡の回廊)」までの間に連なって国王の居間などがあります。その部屋を順番に紹介したいと思います。戦争の間の次が有名な「鏡の間」です。①のヘラクレスの間から⑦のアポロンの間までが国王の居間と呼ばれている部分です。紹介の部屋以外に「第一控え室の間」、「第二控えの間」、「貴人の間」、「大会食の間」、「閣議の間」、「王妃の衛兵の間」、「戴冠式の間」などの沢山の部屋がありました。
右の航空写真の赤色ライン(━━)が今回紹介の国王の居間の見学ルートです。
① ヘラクレスの間 Salon d'Hercule
② 豊饒の間 Salon de l’Abondance
③ ヴィーナスの間 Salon de Vénus
④ ディアナの間 Salon de Diane
⑤ マルスの間 Salon de Mars
⑥ メルクリウスの間 Salon de Mercure
⑦ アポロンの間 Salon d’Apollon
⑧ 戦争の間 ⑨ 平和の間
⑩ 王の寝室 ⑪ 王妃の寝室
へラクレスの間から豊饒の間を見た写真です。
② 豊饒の間 Salon de l’Abondance
この豊饒の間は夜になるとが軽い飲み物を提供する場所として、カフェ、ワイン、リキュールなどが供されたそうです。
そして、この部屋はルイ14世の「好奇心または珍重の小部屋」とも呼ばれていたそうです。ルイ16世の時代には遊戯の間になったそうです。王は重要な訪問客に、ここに保管されている金銀細工の壷、宝石、メダルを見せることを好みました。ヴォールト(天井)の装飾もそれを反映しているそうです。
船の形をしたマストのない貴重な王の大帆船は、重要な出来事の機会には王のテーブルの上か、あるいはビュッフェ・テーブルの上に置かれていたそうです。その前を通り過ぎるときに人々は敬礼する必要があった権力の象徴で、王のナプキンが入れてありました。
③ ヴィーナスの間 Salon de Vénus
この部屋は、ディアナの間と同じく、大居室へ通ずる主な経路をなしています。というのも1752年に破壊された「大使の階段」の先が大居室だったからだそうです。居室の夕べでは、食卓の準備をして、花かご、オレンジやレモンといった新鮮で珍しい果物をピラミッド形に並べ、砂糖漬けの果物、マジパンなども取り揃えられていたそうです。
他の続きの部屋と同様に、この部屋は惑星に名前を借りていますが、これはヴェルサイユ宮殿全体の装飾のインスピレーションが惑星としての太陽系に求められているからだそうです。このヴィーナスの間は、天井に愛の女神が描かれていますが、古代ギリシャでは金星(ヴィーナス)と関連付けられていたからだそうです。ヴォールト)天井)の下部(アーチ形)を装飾する絵画は、古代の英雄の行動を描き、それは同時にその部屋の惑星と、ルイ14世の偉業にも関連しているそうです。
一連の部屋の中でも、ヴィーナスの間が最もバロック的な装飾だそうです。ここが、ル・ブランが建築と、彫刻、絵画を現実にあるいは見せ掛けとして対話させた唯一の部屋でもあるそうです。つまり、壁柱と大理石の柱が、ジャック・ルソーの描いた遠近の眺望に取り込まれ、窓側のだまし絵の2つの彫像が、ジャン・ヴァランの描いたルイ14世の人物に対応しているそうです。
④ ディアナの間 Salon de Diane
ヴィーナスの間と同様に、ディアナの間は、大居室のホール、そしてルイ14世の頃には、夜は居室、ビリヤードの間として利用されていたそうです。拍手を送る夫人たちのためにふたつの壇が作られていて、上手だった王が素晴らしいプレイをするたびに拍手をしたので、「拍手の寝室」とも呼ばれていたそうです。古代ギリシャでは、狩の女神であるディアナは、その冷たい印象から月に譬えられていたそうです。彼女はまた太陽神アポロンの妹でした。ヴォールト(天井)の下のアーチ部分の装飾には、古代の英雄たちが狩をする姿が描かれています。これは暗喩ではなく、ルイ14世が立派な狩人だったという事実を示しているそうです。
天井の中央部分の絵はガブリエル・ブランシャールの作品で、航海と狩をするディアナの絵です。暖炉の上には、イフィジェニーの犠牲を描いたシャルル・ド・ラ・フォスの作品、その向かいのコンソール(テーブル)の上にはディアナとエンディミオンが描かれたガブリエル・ブランシャールの作品があります。
古代の胸像はマザラン枢機卿のコレクションで、彼がルイ14世に遺贈した物です。
中央の胸像です。
こちらが右側の胸像で男性です。
こちらは左側で女性の胸像です。
ディアナの間の窓からの景色です。北方向です。
庭を手入れする庭師の人が沢山いるのが印象的でした。
⑤ マルスの間 Salon de Mars
マルスは惑星の火星を表すと同時に戦争の神でもあります。この部屋は、元々は衛兵の間でしたがのちに夜は居室として使われ、音楽及び舞踊などに使用されたことから「舞踏の間」とも呼ばれるようになったそうです。宮廷バレエは厳格な基準があり、数多くのリハーサルが必要で、王太子たちがプロのダンサーに混じって参加することもあったそうです。暖炉の両側には高壇が設けられていましたが、これは音楽の奏者たちのためだったそうですが、その高壇は1750年に取り払われたそうです。天井の中央には、クロード・オードランにより、狼たちが引く戦車に乗ったマルスが描かれています。
沢山の絵画で飾られていました。
見事なシャンデリアと天井画と金色の装飾が印象的でした。
こちらの絵の金色の額にはMARIE LECZINSKA 1747と書かれていました。
額の飾りも見事でした。
⑥ メルクリウスの間 Salon de Mercure
このメルクリウスの間はもともと大居室の装飾的な寝室で、それが起源となって「寝台の寝室」とも呼ばれていたそうです。しばらくするとその寝台は冬場は取り払われ、その代わりに遊戯の机が置かれていたそうです。
このメリクリウスの間が寝室として利用されたのは、ルイ14世の孫、アンジュー公のスペイン国王即位の宣言の時で、アンジュー公はこの部屋を3週間寝室として使用したそうです。また、1715年9月2日から9月10日までルイ14世の遺体が安置されたのもこの部屋でした。
こちらの部屋では、こちらの時計も印象的でした。
こちらの部屋の天井画も見事でした。
⑦ アポロンの間 Salon d’Apollon
ルイ14世が自ら同一視する太陽、芸術そして平和の神に捧げられたアポロンの間は、最も豪華な部屋といわれています。
天井画の装飾やシャンデリアから、その豪華さが伝わってきました。
中央の丸い天井画が印象的でした。
⑧ 戦争の間 Salon de la Guerre
こちらが、7つの大居間と鏡の間の間にある「戦争の間」です。左に行くと「鏡の間」に行きます。楕円形の化粧漆喰朝浮き彫りは「敵を足下に踏み敷く馬上のルイ14世」の姿でコワズヴォクスの傑作だそうです。
こちらの「戦争の間」も豪華な部屋でした。最も有名な「鏡の間」は「戦争の間」と「平和の間」に挟まれる形に配置されていました。
タグ:ヴェルサイユ宮殿
水陸両用車 [ピッツバーグ]
ダウンタウンを歩いていると前から変った車が走ってきました。昔は軍用車両として走っていたものを改造して観光用にしているんだと説明されました。この街だけでなくいろんな都市で見かけるよとも言われました。そういえばシカゴで見たことがあるような気がしてきました。本当に水の中にも入るらしい!
青い色の車も見かけました。どの車両も満席でした。人気あるみたいです。
タグ:ピッツバーグ
台風13号は温帯低気圧になりました。 [話題]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
台風13号 台風9号
2016年8月22日に懐かしいメンバーとの飲み会が東京の新橋で予定されていましたが台風9号が接近したために延期となりました。その再設定した日が今日2016年9月8日でしたが偶然にも上の動画のように8月22日の台風9号と同じタイミングで台風13号が近づいて来たので心配していました。その台風13号は幸いにも上陸前の2016年9月8日3時(4時発表)に温帯低気圧に変わりました。どうやら飲み会は実行できそうです。
お店は8月22日の時と同じお店(東京都港区新橋3-13-10)です。話の出だしは台風のことになりそうです。
Uターン台風として大きな被害を出した台風10号のルートの動画も掲載いたしました。下記の着色文字をクリックすると他の台風のルートも表示します。
台風01号 台風02号 台風03号 台風04号 台風05号
台風06号 台風07号 台風08号 台風09号 台風10号
台風11号 台風12号 台風13号 台風14号 台風15号
台風16号 台風17号 台風18号 台風19号
2016年9月8日7時の衛星写真です。赤丸●は温帯低気圧の位置です。
今日9月8日の新橋の18時からの飲み会の場所は下記の地図の中央の の場所のレストランです。
名前 三笠バル イル コーボ MIKASA BAR IL COVO
種類 イタリアン ワインバー
住所 東京都港区新橋3-13-10 平田ビル3・4F
電話 03-6452-9940
営業 17:00~23:00
定休 日曜 祝日
創業 2015年1月15日
タグ:台風
ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂 Royal Chapel [ヴェルサイユ宮殿]
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ヴェルサイユ宮殿の中に1699年から11年かけて1710年に完成した礼拝堂(王室礼拝堂)があります。この礼拝堂(Royal Chapel)が建てられる以前から、現在のヘラクレスの間の位置に礼拝堂がありました。その礼拝堂は1682年に建てられたのですが、完成してすぐに狭すぎることが判り、今回の礼拝堂の建設が決まったのでした。写真の中央の建物が、今回紹介する礼拝堂です。
こちらの写真は宮殿を東の正面から撮ったものです。礼拝堂の位置を矢印(↓)で紹介しています。この写真から礼拝堂はヴェルサイユ宮殿で最も高い建物であることも分かってもらえると思います。
空からの礼拝堂の画像も紹介します。
こちらが王室礼拝堂のの内部です。礼拝堂の中には入れないことから入口からの写真での紹介になります。入口部分の天井のために礼拝堂の天井部分は見ることが出来ませんでした。かろうじで祭壇の上の天井画のみ見ることが出来ました。正面の祭壇の上にはパイプオルガンが配置されていました。地上階には身廊や側廊や周歩廊、階上廊には王の特別席が設けられているそうです。ゴシック建築様式の名残りとバロック様式の美的感覚が共存する独特な礼拝堂でもあるそうです。白と金が印象的な礼拝堂でした。
こちらが祭壇です。
祭壇上の天井画を拡大いたしました。入口部分の天井があるために、これ以上見ることが出来ないと思っていましたが、見ることが出来る場所がありました。
その場所から撮った写真がこちらです。少し角度が違うのが判ってもらえるでしょうか。
その場所は2階だったのです。こちらの大きなドアを入ると礼拝堂の内部を見ることが出来たのです。
ここからは見事な天井画をみることが出来ました。
2階から見た礼拝堂です。2階にあった王の特別席にはここから入ったのかもしれません。
フランスの君主制では王は神により選ばれ、その聖別式により王は神の「代理人」となるそうです。宮殿の礼拝堂の絵画や彫刻は、聖なる王の考えを、教会の外陣から王の座る祭壇にかけての一連のサイクルで描いているそうです。
精一杯、見上げてみました。
天井画の一枚を拡大してみました。
祭壇上のパイプオルガンです。
周囲にステンドグラスが配置された窓は洒落ていました。
今回の礼拝堂が建てられる前の礼拝堂があったヘラクレスの間を紹介します。以前の礼拝堂は、この部屋の1階と2階部分を占めていたそうです。1710年に現在の礼拝堂が出来て、この国王の大居間が作られました。この新しい部屋を装飾するために、1712年に巨大なヴェロネーゼの「シモン家の宴」がかけられました。この絵は1570年にヴェネチアの セルヴィテス修道院の食堂にあったものだそうでが、1664年に総督がルイ14世に贈ったそうです。贈った目的は、対トルコへの支援を要請するためのものでした。太陽王の死により10年間中断されていたヘラクレスの間の工事は1736年まで続き、フランソワ・ルモワンヌがヴォールト(天井)の部分にヘラクレスの栄光を描いたそうです。
ヘラクレスの間は国王の居室の一つで、7つの連なった国王の居間の中の最大の居間でもあります。巨大な天井画と壁を飾る大きな絵画が印象的でした。
タグ:礼拝堂
我家のお好み焼き [料理]
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海外から帰国するとお好み焼きが食べたくなり、さっそく作りました。
キャベツの沢山入った生地を丸く広げます。ふわふわに仕上げるために押さえません。ネギと紅ショウガも入れています。
豚肉を乗せました。家ではいつも豚肉にしています。
ほんとうは三枚肉(バラ肉)が美味しいのだけれども脂を抑え気味にするために、もも肉を使いました。それでも美味しかったです。
豚肉が焼きあがるとひっくり返してじっくりと焼きます。香ばしい色になってきました。
焼きあがっるとお皿に乗せて、カラシ、お好み焼きソース、マヨネーズ、かつおぶし、青のりをかけて、ふわふわのお好み焼きの出来上がりです。
タグ:お好み焼き
ヴェルサイユ宮殿 [ヴェルサイユ宮殿]
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パリ市内からRER(パリ高速鉄道)でヴェルサイユ宮殿に到着するまでを、すでに紹介いたしました。いよいよヴェルサイユ宮殿を紹介したいと思います。上の写真が歩いて来た方向、つまり東側から見たヴェルサイユ宮殿です。両サイドの手前に建物があるために王や王妃などが住んだ本館と言えるヴェルサイユ宮殿の全景を見ることは出来ません。
そこで航空写真でヴェルサイユ宮殿を紹介したいと思います。ヴェルサイユ宮殿の敷地(領地)内には見事な建物が沢山ありますが、王や王妃などが住んだのが紫色に着色した建物です。この建物は巨大でした。
ヴェルサイユ宮殿のすごいところは、宮殿だけでなく領地と呼ばれた敷地です。その領地と思われる部分を橙色(━━)で囲ってみました。着色した面積は10.8k㎡とWikipediaに書かれていた公式敷地面積1070 haとほぼ一致することから、着色範囲がヴェルサイユ宮殿の敷地に間違いないと思います。今回は他のマークの部分も見学したので後日紹介したいと思います。ただし1070haの敷地全体がヴェルサイユ宮殿なので、ヴェルサイユ宮殿の一部を紹介することになります。
公式面積 10.7k㎡(1070ha)
着色面積 10.8k㎡
緩衝地域 94.7k㎡(9467ha)
ヴェルサイユ宮殿 紫色で囲った部分
大トリアノン宮殿
プティ・トリアノン離宮
マリー・アントワネットが暮らした村里
ランチを食べたレストラン La Flottille
━━ 庭園内で乗ったミニ・トレインのルート
最も遠くから見たヴェルサイユ宮殿です。偶然ですが2016年9月3日22時からテレビ東京で放送された「美の巨人たち」でマリー・アントワネットが取り上げられヴェルサイユ宮殿が出来来ていました。来週はセーヌ川だそうです。
宮殿の両脇手前の建物が気になったので、上の写真と同じ位置から右側の建物をズームで撮りました。
近づいて同じ建物を撮りました。
同じ場所から左側の建物も撮りました。
正面も撮りました。金色の門の奥がヴェルサイユ宮殿の有料敷地内となります。
中央の小さな扉の中にチケット売り場があります。
これがチケット売り場の入口です。
そしてこれが、これがチケットです。La chambre de la Reineと書かれていることからチケットに使われている写真は王妃の寝室だと思われます。入場料は18€でした。
Aと書かれたところを左方向に進むと有料エリアの入口があります。その前に金色の門などを見てみました。
入口を入ると安全検査場がありました。
金色の柵を通しての宮殿も見事でした。
柵の上の飾りです。
こちらは門の上部の飾りです。
外から見た金色の門の全景です。
有料エリアに入って内側から見た金色の門です。
門に近づいて写真を撮りました。
振向くと宮殿正面でした。
少し前に進みました。
見事な建物なので正面以外の写真も紹介します。
上の部分を拡大いたしました。
左側も紹介します。
再び正面です。
見事な飾りです。建物の内部も紹介したいのですが、沢山の写真がまだ整理できていないので、本記事ではヴェルサイユ宮殿の外部だけの紹介となりました。
今までの写真は宮殿の東側からの写真ばかりでしたが、西側(庭園側)からの写真を紹介します。建物が大きいので宮殿前の広場からでは全景は撮れませんでした。
遠く庭園の方からの写真でヴェルサイユ宮殿の全景を紹介します。クリックすると特別に拡大するようにいたしました。
地上からの写真や航空写真だけでは建物の外観が判りにくいのでGoogleマップの3Dの画像を紹介します。西方向から見た画像です。
反対方向(東方向)から見た3Dです。
348年前である1668年のヴェルサイユ宮殿の絵です。この状態から建物、噴水、礼拝堂、オペラ劇場が追加されて現在の形になったものと思われます。画像はWikipediaから転用させてもらいました。
1624年 ルイ13世の狩猟の館として建てられる
1661年~1665年 ル・ヴォーによる増築
1667年~1670年 ル・ノートルによる造園
1668年~ ル・ヴォーおよびマンサールによる増築
1675年~1682年 セーヌ川にダムを築き噴水工事
1699年~1710年 礼拝堂建設
1753年~1770年 オペラ劇場建設
タグ:ヴェルサイユ宮殿
自転車の手軽さで借りれるレンタル電気自動車 Autolib' [パリ]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
フランスは2007から始まった無人でいつでも自由に借りれて返せるレンタルサイクル(Vélib)が普及しています。この日の天気は雨模様だっで自転車が駐輪場に沢山並んでいましたが、普段は残っている自転車が少なく町の中をこの自転車が沢山走っています。この写真はパリのシャンゼリゼ通りに交差する道路で撮ったものです。登録をするといつでも好きな時間に好きな場所で借りれて、好きな場所に返すことが出来るのです。実はこれと似たシステムのレンタカーがあることを知りました。つまり無人で、好きな時間だけ借りれて好きな場所に返すことが出来るシステムです。好きな時間だけと言うところは最近流行りのシェアカーと同じですが、それがさらに進歩したシステムでした。しかも使われている自動車は電気自動車(EV車)でした。
そのことを知るきっかけになったのがフランス旅行5日目にヴェルサイユ宮殿に行った時でした。RER(パリ高速鉄道)に乗ってヴェルサイユ宮殿の最寄駅であるVersailles Chateau Rive Gauche駅に着いて、外に出た時に最初に目に入ってきたのがこちらの写真です。見た瞬間に無人のレンタカーであることかはわかりましたが、それ以上のシステムに関しては判りませんでした。記事を書くにあたり手掛かりになったのが、車の後ろの左側のロゴマークでした。
そのロゴマークが右の画像です。
ロゴマークの中にautolib'の文字が組み込まれていて、そのAutolib'でネット検索することで実態が判りました。
ネット検索 → Wikimedia 詳しい説明
下は前から撮った写真です。このシステムが最初に行われているのパリで、今は3つの町で行われています。5年前から行われていたのにも驚かされましたが、高額なはずの電気自動車が使われていることにも驚かされました。
2011年12月 Paris
2013年10月 Lyon
2014年01月 Bordeaux
車の車種は同じようでしたが先頭は真っ赤な車でした。車でデザインからも後ろの6台と明らかに違うことからモデルチェンジした新型要でした。料金を調べてみると以下の通りで、かなりお得のような気がしました。
基本料金 年間144€
利用料金 ~30分 5€ 30分~60分 4€ 以後30分毎 6€
また、車の場合は事故がつきものですが、万が一の場合の各自の事故負担額も次のように決められていました。
1回目事故 200€
2回目事故 475€
3回目事故 750€
その真赤な最新モデルの車を拡大いたしました。電気自動車の車名はBluecarで、ボロレグループ(Le groupe Bolloré)が開発したそうです。autolib'と言ういい方とutilib'の2種類の言い方があるようです。
車を前から見てフロントガラスの左側にレンタカーの識別番号らしきものがあります。こちらの車の番号はUN05693でした。
普通のAutolib'は4人乗りですが、この赤いAutolib'は2人のutilibは2人乗りで後ろ半分は荷物が沢山載せられるようになっているそうです。
ここでは7台が設置されていました。識別番号らしきものを読み取るとバラバラでした。この番号のバラバラの状況から、いろんな場所の車がいろんな場所に返されていることが想像されました。
1台目 UN05693
2台目 300
3台目 V1009
4台目 C1059
5台目 C0537
6台目 BV01683
7台目 BV05825
こちらが充電と管理を行うケーブルだと思います。これが1番の赤い車のケーブルです。パリ周辺で250ケ所(2012年時点)にステーションが設置されているそうです。採用されている電気自動車の航続可能距離は150km~250kmだそうです。利用者登録は有人のステーションEspace Autolib’(エスパ
ス・オートリブ)に設置されているTV電話を用いて、オペレーターからの指示に従って行います
こちらが2番の車のケーブルです。実は、これらの写真を撮っていたために駅舎の中の石像に気がつかなかったのです。
鉄道や普通のレンタカー(シェアカー)と比較したデーターがありました。家族4で30km離れた場所を往復し、滞在時間を含めて3時間を要した想定の料金です。年会費144€を払ってさえいれば、いずれの場合においても普通のレンタカーより得です。車を返す場所の無い目的地で、滞在時間が長い場合は鉄道が得です。
Autolib' 33.0€
鉄道 50.4€
普通のレンタカー 75.0€ + ガソリン代
活き関さばを食べました。 [九州]
阿蘇のミルクロードを走った後に熊本空港の近くに下りてきて昼食を食べるところを探しました。携帯で人気の御寿司屋さんを検索してこちらのお店に入りました。
壁のメニューを見て即座に注文したのが、関さばです。
「新鮮ですか」とお店の人に聞いてしまいました。「生簀で活きています。」との答えでした。メニューを見ると、確かに「佐賀関より 関さばの活造り」と書かれていました。失礼しました。
阿蘇を旅した6名の内3名は熊本空港から帰るので、思いきって注文いたしました。食事のあと熊本空港に送って、残った3名は小さなレンタカーに乗り代えて湯布院を目指しました。
関さば(せきさば)は、四国と九州の間の豊予海峡で漁獲され、大分県大分市の佐賀関で水揚げされるサバです。水産品の高級ブランドとして知られています。
刺身をアップしました。食感が判ってもらえるでしょうか。さすが生簀で泳いでいた関さばでした。この写真は是非ともクリックしてほしいです。
生簀には沢山の関さばが泳いでいました。お店の名前は「はな銀」でした。
豊予海峡は潮流が速いくプランクトンも豊富なので、この海域で生育するサバは肥育で、よく身が締まっているそうです。関さばの食感を堪能させていただきました。関サバは豊予海峡(速吸の瀬戸)で漁獲され、大分県大分市の佐賀関で水揚げされるサバをさします。関サバは1996年に水産物では日本で初めて商標登録されて佐賀関以外で水揚げされたものには使えません。同じ豊予海峡で漁獲されても四国側で水揚げされたものは岬サバ(ハナサバ)の名前になってしまうそうです。岬サバの場合は漁獲場所と水揚場所以外の条件としては一本釣りで500g以上の条件が付いています。
地図上のアイコンを1回クリックするとお店( )の場所を表示します。
佐賀関 関サバ水揚げ魚港
四国側 岬サバ水揚げ魚港
食事しては握り寿司と散らし寿司を頼みもした。
熊本は甘い醤油が常識のようです。
刺身にも、お寿司にも、甘い醤油が出てきたので、普通の醤油をお願いしたら、右の醤油が出てきました。醤油さしのキッコーマンの文字が印象的でした。このあたりでは普通の醤油のことをキッコーマンと呼ぶそうです。
店名 はな銀
電話 096-293-1171
住所 熊本県菊池郡大津町大字引水678-14
二十世紀梨が懐かしい [話題]
最近は見かけなくなった二十世紀梨を見付けたので、さっそく買ってみました。最近は幸水や豊水が圧倒的に多かったけれども子供のころは二十世紀がほとんどで、時期が変わると長十郎でした。
子供のころは広島や関西に住んでいたので地域の差や流通の差もあるのかもしれません。
調べてみると、二十世紀の生産量は13%を占めており3位であることから関東だからお目にかかることが少ないのだと思います。
久しぶりに食べて、みずみずしかったです。二十世紀梨と言えば鳥取をイメージします。二十世紀梨は青梨系の代表品種で、一般的には唯一の青梨だそうです。1888年に千葉県大橋村(現在の松戸市)で、当時13歳の松戸覚之助が、親類宅のゴミ捨て場に生えていたものを発見したそうです。松戸は「新太白」と名付けましたが、1898年に渡瀬寅次郎によって、来たる新世紀(20世紀)における代表的品種になるであろうとの観測と願望を込めて新たに二十世紀と命名されたそうです。
幸水および豊水にも二十世紀のDNAがはいっています。
全国の和梨の収穫量です。 出典:農林水産省統計情報(2006年)
合計 | 幸水 | 豊水 | 二十世紀 | 新高 | |
全国合計 | 290,900 t | 98,300 t | 87,300 t | 39,000 t | 32,300 t |
千葉県 | 34,900 t | 14,500 t | 12,300 t | 217 t | 6,000 t |
茨城県 | 29,200 t | 12,600 t | 12,600 t | 15 t | 3,000 t |
鳥取県 | 23,400 t | 778 t | 1,480 t | 18,400 t | 360 t |
福島県 | 22,300 t | 9,000 t | 8,390 t | 2,620 t | 1,220 t |
長野県 | 19,400 t | 5,410 t | 4,500 t | 4,970 t | 201 t |
栃木県 | 19,200 t | 7,270 t | 8,710 t | 2 t | 1,380 t |
新潟県 | 15,500 t | 3,370 t | 2,480 t | 2,290 t | 3,130 t |
埼玉県 | 11,900 t | 6,600 t | 3,620 t | 2 t | 1,180 t |
熊本県 | 11,200 t | 2,600 t | 3,380 t | 227 t | 3,840 t |
福岡県 | 10,300 t | 4,970 t | 3,570 t | 303 t | 818 t |
地下鉄とRERを乗継いでヴェルサイユ宮殿に行きました。 [ヴェルサイユ宮殿]
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
今回のフランス旅行に関しては4日目までを47の記事で紹介いたしました。今日2016年9月1日から5日目の記事からを紹介したいと思います。5日目はヴェルサイユ宮殿に行きました。
1日目 セーヌ川散策 ノートルダム寺院 ルーブル美術館周辺
2日目 モンサンミッシェル
3日目 モンサンミッシェル
4日目 ルーブル美術館 ノートルダム寺院 凱旋門 シャンゼリゼ通り
5日目 ヴェルサイユ宮殿 チョコレート店2ケ所
6日目 ロワールの城めぐり
7日目 オルセー美術館 サント・シャペル セーヌ川クルーズ 他
今回の記事ではパリ市内中心からヴェルサイユ宮殿(ベルサイユ宮殿)へ電車での行き方を紹介したいと思います。先ずは泊まっていたホテルの最寄駅であるOpera駅(オペラ駅)から地下鉄8号線に乗ります。郊外電車であるRER(パリ高速鉄道)との乗換駅であるInvalides駅で地下鉄を降りて、連絡通路を歩いてRERのInvalides駅に行き緑色ラインのRERに乗ってヴェルサイユ宮殿の最寄駅であるVersailles Chateau RG駅に向かいます。Versailles Chateau RG駅は終点なので地下鉄からの乗換さえうまくいけば安心して確実に行ける方法だと思います。
━━ 地下鉄8号線 1.76km
━━ RER(パリ高速鉄道) 17.5km
泊まったホテル Opera駅の近く
Opera駅 / Invalides駅 / Versailles Chateau RG駅
ヴェルサイユ宮殿
大トリアノン宮殿
マリー・アントワネットが暮らした村里
ホテルから地下鉄に乗る前に必ず見る風景です。見事な建物はオペラ駅の名前の由来となっているオペラ・ガルニエ(Palais Garnier)です。ガルニエ宮あるいはオペラ座と呼ばれるパリ国立オペラの公演会場の一つです。
敷地 11,237m2 m2
階数 6階建
高さ 82m(屋上アポロン像の先端)
着工 1862年7月21日
竣工 1875年1月15日
オペラ駅駅でゾーン4までの一日券(11.5?)を買いました。片道で6.5?なので往復だけで元が取れます。このチケットは地下鉄やRERなどパリ近郊の列車および電車がすべて乗り放題のチケットです。この日はパリに戻って来てからも地下鉄で使って計8回利用したのでかなり得になりました。非常に有効でした。
こちらが地下鉄8番線のOpera駅のホームです。パリの地下鉄はホームドアがある駅も結構ありますが、Opera駅にはありませんでした。表示版の中のM⑧の表示が地下鉄8号線のホームであることを表しておりBalardが終点駅を示しているので、ホーム入口にある路線図と組み合わせると乗る方向の間違いを防ぐことが出来ます。間違えるのを防止するうえでホーム入口にある路線図を確認することが一番大切です。昔のことではありますが、よく知らないときには何度も反対方向の電車に乗ってしまいました。
電車を待っていると反対方向に行く電車が来たので撮りました。Operaの文字が判ってもらえると思います。
我々はこちらの電車に乗りました。この路線は比較的古い車両が走っていました。
乗換駅であるInvalides駅に着くと連絡通路を歩いてRER(パリ高速鉄道)のInvalides駅に向かいます。途中には写真の動く歩道ががありました。
ヴェルサイユ宮殿に向かうRERのホームに着いてVersailles Chateau RG駅行きに乗ります。最初の電車がVersailles Chateau RG行きが4分後に来ます。Versailles Chateau RG行きは頻繁に走っていて4分後の次は12分後と28分後がありました。RERのC線であることが判ります。
終点のVersailles Chateau RGがヴェルサイユ宮殿の最寄駅です。駅名の最後のRGは省略文字なので正式名はVersailles Chateau Rive Gaucheです。地図にはGare de Versailles Chateau Rive Gaucheと書かれていました。Gareは駅を表す言葉です。つまり地図の記載はVersailles Chateau Rive Gauche駅と言うことになるようです。
こちらの写真は6分前に着くときに撮った写真です。途中駅が全て書かれているので判りやすかったです。我々は終点ですが途中で降りる人にとっては判りやすいと思います。「QUAI A voie 2」と書かれています。Versailles Chateau RG駅は出発して11番目の駅であることも分かりました。
すぐに電車が来たので乗りました。列車は2階建電車でした。
最初はセーヌ川沿いを走りますがビルの中を進みました。RERの正式名はイル=ド=フランス地域圏急行鉄道網(Reseau express regional d'Ile-de-France)です。私のイメージではは郊外電車という感じなので、今までの記事の中の所々で郊外電車という表現を使いました。
少し進むとすぐに窓の景色が変わってきました。
きれいなデザインの車内でした。我々は2階席に座りました。
小さな町をいくつか通り過ぎました。
Versailles Chateau RG駅に到着いたしました。沢山の人がヴェルサイユ宮殿に向かっているのだと思います。
これが我々が乗って来た列車の先頭です。RERはフランス国鉄(SNCF)が運営しているので、先頭にSNCFの文字が書かれていました。
反対側から見ると二階建電車であることがよくわかってもらえると思います。
ヨーロッパの鉄道では改札が無いのが普通ですが、こちらでは改札機が設置されていました。
こちらが駅舎です。不思議なことに駅舎の中に石像が見えました。写真をみて初めて気がつきました。撮るときに気がついていたらもっとしっかり撮ったと思います。
本物の石像か大きな写真パネルかは判りません。クリックした拡大した写真ではパネルではなく本物の石像に見えます。左の写真は上の写真から切り取ったものです。
街路樹の向こうにヴェルサイユ宮殿が見えてきました。
進むと、少し大きく見えてきました。一番ワクワクする時間帯です。
横断歩道を渡るとヴェルサイユ宮殿です。本記事ではここまでとし、ヴェルサイユ宮殿の内部に関しては別途報告させていただきます。フランス語のChateau de Versaillesに対して日本語ではヴェルサイユ宮殿と、ベルサイユ宮殿が使われるので検索数を調べてみました。
"ヴェルサイユ宮殿" 約400,000件
"ベルサイユ宮殿" 約311,000件